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愚慫空論

『アメリカが最も恐れた男~その名はカメジロー』





観てきました。
考えさせられる映画でした。

公式サイトはこちら (^o^)っ リンク


観る前は、「アメリカが最も恐れた男」というフレーズは、まあまあ、売り文句なんだろうなと思っていました。

そういう一面があることは、見終わったあとも拭えません。
だけど、確かに、かつて沖縄を支配していたアメリカ軍にとっては、「最も恐れた男」だったのは間違いがないようです。
それは、カメジローが“殉教者”だとされたことに表れていると思いました。

アメリカ軍の弾圧的な統治がカメジローを殉教者にしてしまった。
映画の中では、そのように記したアメリカの公文書が紹介されています。

彼らにとって、「Martyr(殉教者)」は、最大の賛辞でしょう。
良くも悪くも。


それにしても、目を見張ったのは、瀬長亀治郎の「たたずまい」です。

なかでも、「おおっ!」と思ったのは、こちら。



画像はクリックすると、出所の記事へリンクします。

ぼくはこの記事を読んでこの映画に関心をもちました。
だから、この画像も映画を観る前に目にしてはいたのですが、やぱり、「物語」のなかで見ると違います。

アメリカ軍に逮捕されて服役していたカメジローが、出所してくるときの写真。
当人も晴れやかな表情だけれど、注目したいのは周囲の人たちの表情です。
カメジローの晴れやかさに巻き込まれていますよね。

宮台真治さんがいう“ミメーシス”というのは、こういうことなんだと思いました。
平たく“カリスマ”と言ってみてもいいけれど、ちょっと意味合いは違います。



ミメーシスとは何なのか?
自分自身への正直さ、真摯さなんだと思います。


持ち出すのはちょっと気が引けるのですが、カメジローとの対比で浮かんできたのが、前回取り上げた映画の主人公ブライアン・ホウ氏。

ぼくは、ブライアンとその仲間たちがやっていたのは、代償行為なんだと感じた。

こんなシーンがあったんです。
イラク人との対話。

ブライアン氏は英国が参加しているイラク戦争に抗議をしていた。
抗議にイラクの赤ん坊の写真を掲げたいた。

 私たちは、赤ん坊を殺している!

だれも文句の付けようのない「正義」です。

そこへイラク人の旅行者とおぼしき人たちがやってくる。
赤ん坊とは同胞です。

彼らはブライアン氏の行動に賛意を示します。
激励もします。
けれど、巻き込まれない。

 がんばってくれ!

と言って、去って行く。
見ているぼくは、

 はあ?

という感じ。
同じイラク人の問題ではないのか?
同じ「イラク人の問題」ではあっても、その旅行者「その人の問題」ではなかったということです。


こういったシーンはそこかしこに見られました。
国会議員がブライアン氏を

 我が国の反戦運動の象徴だ!

といって持ち上げるシーンとか。
都合良く(ブライアン氏を)使っているなぁ、と。

イラク人にせよ、国会に議員にせよ、ブライアン氏は「都合のいい消費物」でしかなかった。
ブライアン氏は、彼らが〔アタマ〕に棲まわせている「正義」を確認するのに都合のいいモノ。
だから、都合のいいときに持ち上げて、自分の【正義】を確認する。
けれど、彼らの〔身体〕は、そういう【正義】のなかでは暮らしていない。

そういう彼らは、怯懦ではあるけれど、健全な人間でもある。



翻ってカメジローです。

カメジローの行為も、私たちが信奉している民主主義に即していえば「正義」です。
でも、「正義」だったから、「正義」に身を奉じたから、カメジローがミメーシスを得たわけではないと思います。

敢えて身も蓋もない言い方をしますが、それは

 需要と供給とがマッチしていた

からだと考えます。

カメジローは「自分自身のこと」に正直に、真摯に行動していった。
その行動が端的に表れた最初の現象が、宣誓拒否でしょう。
議員に選出されたカメジローは、米軍主導の琉球政府創立式典で、宣誓を拒否した。
「立場」に殉じなかった。

カメジローの行動は、沖縄大衆が欲していた行動でもあった。
したいのだけれど、できない。やり方がわからない。
そういう行動を身をもって示した。


この行動を米国は“殉教”と呼んだ。
が、これはあくまで比喩でしょう。
機序は逆転しているから。
カメジローは教えに従ったわけではありません。


「殉教」の前提はまず「正しい教えが存在すること」です。

アメリカにとって、民主主義は「正しい教え」です。
けれど、だからといって、アメリカが常にその「教え」に従っているわけではない。
その証拠はいくつもあげることができますが、アメリカの琉球統治もその証拠のひとつでしょう。

カメジローは、アメリカが正しいとする「教え」にしたがって行動した。
だから彼らはカメジローを“殉教者”という。

でも、カメジローがミメーシスを得たのは正しかったからではありません。
カメジローの行動は大衆の求める行動だったから。
それがたまたま民主主義という「衣(ころも)」を被っただけ。
「衣」は、その時代に合っていたふさわしい衣装だったというだけ。
すなわち「流行(ファッション)」です。

ファッションがたまたま正解とみなされ、「正しい教え」とされる。
過去にたまたま正しいとされた教えに従うことが殉教ですが、その構造上、いつも常にズレが生じる。

アメリカの行動はいつも大きくズレている。
イラク人旅行者もズレていた。
この「ズレ」は【アタマ】と〈からだ〉のズレだろうと思います。



面白いのことは、もうひとつ。

沖縄が悲願の日本復帰を果たした後のカメジローの姿です。
カメジローは、復帰初の衆議院選挙で見事、当選を果たした。
1990年、平成2年に引退するまで衆議院議員であり続けた。

この事実に違和感を覚えました。

カメジローの「たたずまい」は老境に至っても変りません。
そのことは映画のなかで確認することができます。
なのに「輝き」がない。


沖縄は日本国に復帰しました。
にもかかわらず変らなかったことがある。
米軍の駐留。
米軍の棒着無尽は、ある程度落着いたとはいえ、収まったわけではない。

一方で変ったことがあります。
統治者が米軍から日本国に変ったことです。
弾圧する主体の交替、と言っていいかもしれません。


カメジローは、琉球政府の議員となったときには宣誓を拒否しました。
米軍を弾圧者だと見ていたから。

強く望んでいた日本国復帰が実現して晴れて衆議院議員に当選したとき、カメジローは同様の態度をとったのか?
映画には出てきません。
でも、たぶん、琉球政府議員の時とは違ったろうと思います。

これは無理もないことです。
それは強く望んでいたことだったのだから。

沖縄が日本国に復帰したことによって、カメジローが体現してミメーシスは需要を失った。
そう考えるのは合理的だと思います。
需要を失ったミメーシスは、もはやミメーシスではない。

ところがここに来て、ふたたび需要が増している。
沖縄にとっての弾圧者が米軍から日本国政府へと交替したに過ぎないことが露わになってきましたから。
こうした映画が製作されたというのも、カメジローが体現したミメーシスへの需要が高まっていることの現れと見ていいのではないか。


では、そのような需要が体現されたらどうなるのか?

沖縄選出の国会議員が宣誓を拒否するのと同様の振る舞いをする。
たとえば、議員バッジをつけることを拒むとか。
そのように振る舞う者が出現したら、カメジローが敷いたレールが蘇ってくることになりはしないか。

では、そのレールの行き先はどこか?
カメジローのときは、日本復帰でした。
今度は?
琉球独立?

そうなっても不思議ではないと思います。

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