愚慫空論

『子は親を救うために「心の病」になる』(後編)



中編はこちら(^o^)っ リンク


第四章  「親とのつながりを持てなかった子の不思議な訴え」

“不思議”とはどういうことかというと、社会的でないということです。

本書の基本命題は

 子は母親から「心理システム」を学ぶ

ですが、この命題が成立しないケースがある。


「心理システム」というのは〔社会〕へと適応し〔人間〕へと変化していく中核です。
〔ヒト〕は言語現象世界秩序を構築して〔人間〕になる。
「心理システム」は言語現象世界秩序をを構築するためのベース。

その“ベース”を学ぶことができないと、どうなってしまうのか。

言語現象世界秩序そのものは〔社会〕から学ぶことができます。
だから〔人間〕にはなる。
けれど、〔人間〕としての中核を欠いてしまった〔人間〕になってしまう。

自身の自身への存在感が希薄になる。


「社会的な存在感」は何によって生み出されるかというと、それは、「自分と他人が同じものを求めている」という日々の実感からである。
では、それは、どこから来るのか。
それは、「愛情」、「お金」、「賞賛」に由来する。

人が人生に求めるものは、4つあると述べた。人は
 第一レベルでは、「安心」を、
 第二レベルでは、「愛情」、「お金」、「賞賛」を求めて生きている。

これらのうち、第二レベルを共有しているという確信が、「社会的な存在感」を生み出す。

(中略)

この3つ欲求の成就と失敗を、毎日、毎日、人と一緒に繰り返していることが「社会的な存在感」となる。
この「社会的な存在感」はあまりにも当たり前で、誰にでもあるので、「普通の」人には、それが「ない」ということが想像できない。




第三章の虐待を受けた子どもたちは、親から「善悪の逆転」を強いられました。
それでも、その親は餡手して「悪」だった。
なので、子どもは「悪」であるとはいえ、〔社会〕への手がかりを得ることができた。
逆転しているとはいえ、自身の存在感は感じていた。


「感じる(感覚する)」ということが成立するには、2つの要件が必要です。

 1.感じる対象が存在すること。
 2.感覚器官が存在すること。

目がなければ、この〈世界〉に光が存在しても感知することはできません。
感知することができなければ、光は存在しないのと同義です。

「心理システム」というものは、〔社会〕の存在を感じる感覚器官だと言っていいかもしれません。
〔社会〕という感覚対象がそんざいしていることは確信している。
“不思議”な人たちではあっても、毎日、毎日、愛情・お金・賞賛を他人同様に求めるという社会的な行動をしていることには変わりはないし、行動するための言語現象世界秩序も構築できている。

だけれど、「行動」ができているからといって、「感じる」ことができているとは限りません。


さて、心理システムのさらに深い層には、第一レベルの欲求、「安心」を求める気持ちがある。「安心」は人の、より根本的な欲求である。通常これは、「愛情」でつながっているから安心、「お金」があるから安心、人に必要とされているから安心、と思って、第二レベルに支えられている。つまり、私たちの日常的な「安心」は、社会的な存在感によって支えられている。

「普通の」社会的存在感を持って生きている限り、第一レベルの「安心」そのものは意識されず、常に、第二レベルを通じて、それは満たされる。

しかし、第一レベルの「安心」は階層構造のより深いところにあるので、もし、この「安心」そのものが何かでみたされれば、第二レベルの「愛情」、「お金」、「賞賛」を求める切迫感は和らぎ、社会的な存在感が希薄なことを補ってあまりあるはずである。



「あまりあるはずである」というのは、著者である高橋さんの“確信”でしょう。

確信が考察(仮説構築)を前進させることになります。
基本命題である「子は母親から「心理システム」を学ぶ」よりも上位の原理を求める。

それが高橋さんが「宇宙期」と名付けたものです。


私たちの確固たる「存在感」は、心理システムに支えられている。自分が何であるかを知るためにはそれから離れなければならない。しかし、もし離れてしまったら、自身の存在感が崩壊し、現実感は消え、この世界は「夢」だったと思うかもしれない。

荘子の有名な話に、胡蝶の夢がある。昔、荘周が夢を見て蝶になった。ひらひらと飛んで楽しんだ。そして夢から覚めて考えた。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか・・・・・・と。

この自分が生きている世界が夢ではないと確信させているのが、心理システムだ。しかし、それを知ろうと思って離れると、夢と消えてしまうかもしれない。
二律背反であるが、それを解くヒントは、既に第四章に登場したクライアントが教えてくれている。

「社会的な存在感」を離れると、そこにあるのは単純な生命システムと、ただの「存在」である。
「存在」があるところは、虚空から「有」が生じたところ、この世界が始まったところ、私たちが生まれたところである。




『完結編』へと続きます。


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