愚慫空論

『サピエンス全史』その18~サピエンスにおける瑕疵

 


長らく中断してしまった『サピエンス全史』シリーズですが、ようやっと準備も整ったように思うので、再開したいと思います。

  『その17』はこちら (^o^)っ リンク

再開にあたっては、中断が長くなってしまったこともあり、また、内容的にも、これまでの内容を振り返っておさらいをしておいた方がいいと思いました。
ところがそうやって構想を練ると、飛ばしてしまっていたと思うところが浮き上がってきてしまう。

ということで、今回はおさらいの準備。


女性はさらに代償が大きかった。直立歩行するには胴回りを細める必要があったので、産道が狭まった――よりによって、赤ん坊の頭が次第に大きくなっているときに、女性は出産にあたって命の危険にさらされる羽目になった。赤ん坊の脳と頭がまだ比較的小さく柔軟な、早い段階で出産した女性のほうが、無事に生き長らえてさらに子供を産む率が高かった。その結果、自然選択によって早期の出産が優遇された。そして実際、他の動物と比べて人間は、生命の維持に必要なシステムの多くが未発達な、未熟の段階で生まれる。子馬は誕生後間もなく駆け回れる。子猫は生後数週間で母親の元を離れ、単独で食べ物を探しまわる。それに引き替え、ヒトの赤ん坊は自分では何もできず、何年にもわたって年長者に頼り、食物や保護、教育を与えてもらう必要がある。

この事実は、人類の傑出した社会的能力と独特な社会的問題の両方をもたらす大きな要因となった。自活できない子供を連れている母親が、子供と自分を養うだけの食べ物を一人で採集することはほぼ無理だった。子育ては、家族や周囲のヒトの手助けをたえず必要とした。人間が子供を育てることは、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会性を結べる者を優遇した。そのうえ、人間は未熟な状態で生まれてくるので、他のどんな動物もかなわないほど、教育し、社会生活に順応させることができる。ほとんどの哺乳類は、釉薬をかけた陶器が窯から出てくるように子宮から出てくるので、作り直そうとすれば傷ついたり壊れたりしてしまう。ところが人間は、溶融したガラスが炉から出てくるように子宮から出てくるので、驚くほど自由に曲げたり伸ばしたりして成形できる。だから今日、私たちは子供をキリスト教徒にも仏教徒にもできるし、資本主義者にも社会主義者にも仕立てられるし、戦争を好むようにも平和を愛するようにも育てられる。



『サピエンス全史』第一部第一章からの引用です。


これらはサピエンスが備えることになった思考力の代償として支払われたものです。

思考力を得るには大きな脳が必要だった。
大きな脳は持ち歩くのが大変な上に、頭蓋骨という大きなケースまで必要とする。
しかも燃費は甚だ悪い。

重たくて嵩張る脳を持ち歩くために人類は二足歩行を選択した。
二足歩行はより高いくて広い視野の獲得をもたらした。
視野の拡大は視覚の増強を促した。

また前足が自由になって腕になった。
増強した視覚との合わせ技で手と指先が発達した。
さらに発達した視覚と指は、多彩な道具を生み出すのに有利となった。


これらのサピエンスの特長は、現生人類が誕生した時点ですでに持ち合わせていたものです。
そして、認知革命が起きるまでの7万年間は、サピエンスは食物連鎖ピラミッドの中ほどに位置していた。


認知革命以前のサピエンスは悲惨な存在だったか?
現在の文明人が抱えている〔虚構〕からすれば、そのように感じられるでしょう。



マット・リドレー著の『繁栄』は、そうした視点から人類史を俯瞰したものです。

では、ぼくたち文明人は〈しあわせ〉か?
〔繁栄〕は〈しあわせ〉をもたらしたか?

『繁栄』は、これだけ繁栄しているのだから、「しあわせ」でないなずがない、という説得の書物でもあります。
けれど残念なことに、その説得はあまり有効ではありません。


〔繁栄〕と〈しあわせ〉の齟齬を生んだのは、サピエンスが抱えた「瑕疵」によるものです。

サピエンスの子どもは、甚だ未成熟な状態で生まれてきてしまう。

もし創造神が人間を生んだというのなら、それは失敗作だったというべきでしょう。
神は全能なので失敗したはずがない。
失敗したとすれば、意図的なものに違いない。
そう推論するなら、全知全能の神は悪意の神だということになってしまいます。
おかしなことです。

この推論がおかしいのは、「意図(意思、intention)」を想定するからです。
創造神に「意図(意思)」はない。
あったとしても、サピエンスには計り知れない。
だったら無いものと扱っても不都合はありません。

ただし「意志(意欲、will)」は存在します。
〈生〉を生成しようとする運動です。

〈生〉生成の〈意志〉は意図を持たないアドホックなものです。
ですから、生物種はどれもこれも瑕疵だらけです。

それぞれに抱えた身体的瑕疵とせめぎ合いながら、〈生命〉は日々を生きながらえている。

瑕疵というのも、もちろん、比喩にすぎません。
瑕疵という法律用語は不都合を連想させてしまいますが、〈生命〉にとってはそうではない。
〈生命〉においては、「せめぎ合い」が〈しあわせ〉だからです。


ところがサピエンスには認知革命を起きてしまった。
そのことによって食物連鎖ピラミッドのポジションが変わってしまった。
中ほどに位置していたポジションが頂点へと移動した。

狩猟採集時代がそれです。
それでもその時代のサピエンスは〈しあわせ〉だっただろうと思います。
崩れたバランスのしわ寄せは、当時生存していた大型哺乳類やネアンデルターレンシスが引き受けてくれましたから。
が、それらが絶滅すると、サピエンスは徐々にそのしわ寄せを自ら引き受けなくなければならなくなってしまいました。

歴史とは見方を変えれば、「しわ寄せ」の推移です。


『その19』へと続きます。

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