愚慫空論

『獣の奏者』~外伝



恋愛の物語、です。

(前略)

葉裏を伝う水滴が表面張力によってその姿を保ち、もっとも美しい形で震えている状態に似て、物語にはもっとも美しい臨界点というのがあり、たとえ書きたいエピソードがあったとしても、、余計な一滴を加えれば、物語の形はあっけなく崩れ去ってしまうからです。

本編を書いていたとき、私の中で、エリンはもちろん、イアルもエサルも体温のある人として息づいていましたから、彼女らが経てきた人生はいつも心にありました。どんな恋をしてきたか、そんな道筋を辿っていったか、すべてが見ていました。

ですから、書こうと思えば、いくらでも書くことはできたのですが、本編の中でそれを書くことは「余分な一滴」に思えたのです。

とくに恋愛はエピソードとしては異常な吸引力を持っていますから、彼女らの恋を描けば、餅を焼いているときに、ある部分だけがぷう~と膨らむように、そこだけが突出して、『獣の奏者』という物語の姿を変えてしまう感じていたからです。



上掲の引用は、「人生の半ばを過ぎた人へ」と題された後書きの一部です。

上橋さんの言いたいことはよくわかります。
けれど、これを「人生の半ばを過ぎた人へ」と題したのは、ちょっと面白いと思います。

とくに恋愛はエピソードとしては異常な吸引力を持つというのは、本当にそうだと思います。
このことは自分自身に問い合わせてみても、確認できることです。


高等だとされる動物には食欲、睡眠欲、性欲の三大欲求があります。
このなかでも性欲は、突出して攻撃的です。

ウマのように、生存戦略を逃げることに特化した生き物でさえも、性欲は攻撃的に出る。
発情した雄ウマは危険な野獣ですし、競争相手の生命を奪ってしまうこともある。

食欲が攻撃的に出る場合もあります。
肉食動物は食欲がそもそも攻撃的ですが、これは環境に向けて、です。
草食動物は環境に対しては受動的ですから、環境が痩せ細れば、内向的な方向に攻撃性が出る。

サピエンスという動物種は、食欲発の攻撃性の、外向的なところと内向的なところの両面を備えています。
そして、サピエンスが変態した【人間】は、食欲発の攻撃性が外向的にも内向的にも制御が効かなくなってしまっている。

 外向的には環境破壊という形で。
 内向的には戦争という形で。
それぞれ「突出」してしまっています。

これは【社会】の作用だというのがぼくの持論であるわけですが、【社会】の影響は性欲の方にも及んでいて、いろいろな形で〔ヒト〕を歪ませている。

いや、これは足りない言い方です。
攻撃的な性欲は【社会】を歪ませ、その反作用で〔ヒト〕は歪んでしまう。



この“不倫”という言葉。
【社会】を歪ませ、〔ヒト〕を歪ませる虚構を指し示すシニフィアンです。


話はタイトルから外れて行ってしまっていますが、ついでなので、もうひとつ。


紀州で暮らしていた頃の話です。

知り合った猟師さんに頼まれて、うちのフク(犬♀)に仔犬を産ませることになりました。
発情期になったところで猟師さんの家に連れて行き、交尾をさせたんです。

その時の様子が面白くて、よく記憶に残っているんです。

フクが来ると相手の雄犬が一目散に駆けてきた。
ほんのしばし互いに臭いを嗅ぎ合うと、フクは尻尾をピッと上げて、受入れ態勢に入った。

 「やっぱりに犬は早いな~w」
 「人間の雌はこうはいかんわな~、もっと面倒だww」

などと、猟師さんと「男同士の会話」が弾むうち、コトを済ませたふたりは接合を解いた。

面白かったのはここからです。

フクも相手のオスも、ふたりともあちこちにオシッコをし始めた。
マーキング行動です。

 「ヤルだけやったら、縄張り争いかいwww」

猟師さんとは笑い合ったのですが、まあ、そういう順序なんでしょうね。
そして、順序はともかくとして、食欲発であろうイヌの縄張り意識と、性欲は、ひとつの個体のなかに「別個のもの」として歴然と在る。
そのことを目の当たりに見せつけられて、非常に面白かったわけです。


サピエンスはイヌよりも複雑な社会性を持ちます。
社会性の中に性欲も組み込まれている。
とはいっても、やはり「別個のもの」として、性欲は歴然と在るんだと思います。


上橋さんが「余分な一滴」と感じた背景には、「別個のもの」ということが影響しているんだろうと思います。
けれど、そのことをなぜ、わざわざ、「人生の半ば過ぎた人たち」宛てにメッセージしたのか。

考えると面白い。


「人生の半ば過ぎた人たち」は、個人差はあるとはいえ、「経験者」だと考えていいと思います。
「経験者」は、「別個のもの」ということも識っている。
社会経験に乏しい、盛りの付いたような年頃の者はともかく、人生の半ばを過ぎている者なら、「別個のもの」であることは身に染みている。

“不倫”という言葉がもたらす(〔社会〕的な)感触が、そのことを知らしめます。

上橋さんをして、わざわざ「別個のもの」であると書かしめた(無)意識。
これはおそらく秩序感でしょう。
「物語の美しさ」と関連する秩序感。
“不倫”という言葉に象徴される秩序感を、上橋さんも共有しているんだなぁ、と思ってしまいます。


物語の美しさ。

この点で言わせてもらうと、ぼくは『獣の奏者』にそれほど高い点数は上げられません。
ことに完結編。
王獣と闘蛇の狂気に満ちた戦闘シーンがあります。

もう、これは、物語の「美しさ」などといったものをどこかへすっ飛ばしてしまうものだと思いました。
そうした「剣呑なもの」を頂点に物語を構成しておいて、「美しい物語」とは...

ちょっとピントがずれているような気がしてしまいます。


ベートーヴェンに『ミサ・ソレムニス』という曲があります。



「KYRIE」「GLORIA」「CREDO」「SANCTUS・BENEDICTUS」「AGNUS DEI」の5つのパートで構成されている音楽ですが、その最終盤、「AGNUS DEI」の後半に戦争の描写が登場します。
(上の動画だと 1:15:30 あたりから)

『獣の奏者』完結編の戦闘シーンを読みながら思い起こしたのは、『ミサ・ソレムニス』の戦争描写です。
どちらにも、それまでの構成をぶっ飛ばすような破壊力がある。

ベートーヴェンはその破壊力に意識的だったと思います。
構成をぶっ飛ばすことをわかっていて、敢えて、破壊を表現して見せた。
構成のバランスを破壊することで、「破壊」を表現した。

破壊が大きければ大きいほど、その後の表現は切実になります。
上橋さんがエリンに背負わせた切実さは、そういったものだろうと思っていました。
バランスを取ることができない、切実さ。

けれど、それはぼくの思い過ごしだったのかもしれません。

エリンの死は殉教でした。
上橋さんの中では、破壊は殉教でバランスしているのでしょう。
冒頭に引用させてもらった文章を読んで、そう思いました。

構成の破綻が始めから勘定に入っていたなら、「余計な一滴」は、そもそもありません。
そして、「人生の半ばを過ぎた者」が識っているのは、構成など始めから破綻しているということです。

もっとも、ぼくはその破綻をデタラメだとは言いません。
破綻をデタラメだと言う心には「美しさ」が基準にある。
「美しさ」は、しかし、虚構です。

ぼくの基準は、それとは異なります。
場合によっては美を、場合によっては醜を、それぞれ「たまたま」顕在化させる〈生〉です。



『獣の奏者』外伝に収めらているのは、エリンとイアルの恋。そして、エサルの恋です。
いずれも、【システム】によって抑圧された恋愛。

上橋さんは、エリンもイアルもエサルも「体温をもった人」だと書いています。

それは、本当にそうだろうと思う。
そうでなければ、これほど生き生きとした物語を紡げるはずがない。

けれど、そうではあっても、その〈生〉を消費物として提供することができる。
リアルとバーチャルの間には、厳然とした境界線がある。


それは当然と言ってしまえば、当然かもしれません。
けれど、本当にそうか?

昔者荘周夢為胡蝶 栩栩然胡蝶也 
自喩適志与 不知周也 俄然覚 則蘧蘧然周也
不知 周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与
周与胡蝶 則必有分矣 此之謂物化


〔社会〕を構成するには、さまざまな「境界線」が必要です。
基層は自他の境界でしょう。
けれど、老荘は、そこに疑問を投げかけているとぼくには思えます。

のべつ幕なしに境界線が喪失してしまうのは、いろいろ問題があります。
そういった個体は、境界性人格障害ということになってしまう。

けれど、自らの意志で適宜、境界を越えられるのであるなら、効用は大きいはずです。



余談。

ニューロティピカルとは、境界が存在することがデフォルトである種族。境界を越えることに意志が必要な種族だということができると思います。
対してエイティピカルは、境界が曖昧です。むしろ境界を保つことに意志が必要。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/1040-1c8dd825

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード