愚慫空論

身体的価値と言語的価値 (未完結編)



前編
中編
後編


生物である〔ヒト〕には感覚があります。

感覚は生存に関わる。
ゆえに、感覚入力は主観的な実在感を惹起します。
実在感に直結する1次の感覚は、触覚・味覚・嗅覚。

視覚・聴覚は、実在感においては、2次の感覚になります。
2次である証拠に、実在感のない視覚・聴覚がある。
他人事のようにものを視たり聴いたりしている経験は、誰しも持っているはずです。

言語は視覚と聴覚の複合感覚であり、3次。


貨幣は4次です。
〔人間〕は言語を駆使することで、他種より多様な経済活動を行います。

ありとあらゆる〔世界〕の極点を示すシニフィアンが「(創造)神」であるのと同様に、
ぼくたちが関わりを持ち得る〔社会〕の極点がシニフィアンが「自然」であるのと同様に、
ぼくたちのいのちをつなぐ〔経済〕の極点を示すシニフィアンが「貨幣」です。

「(創造)神」や「自然」が4次の感覚にならなかったのは、言語の領域を超越することがなかったから。
すなわち、他の物質と結びつくことがなかったから。

いえ。「神」については、〔人間〕は物質と結びつけようとします。
「偶像」です。
けれど、一神教崇拝は偶像崇拝を禁じます。
多神教は偶像崇拝を容認するが、多神教においては神は超越的な存在ではない。
たとえば仏教なら「ダルマ」です。

このあたりの考察は、別の機会に譲りましょう。

とにかく、貨幣においては、シニフィエが物質化することが許容された。
物質化が許容されたことで、新たな感覚が生まれた。


1次2次は身体的価値。
3次4次は、言語的価値。

身体的価値と身体現象世界秩序。
この2つが常に整合するとは限りません。
整合しないことをデタラメだというならば、それはそうでしょう。

〔ヒト〕にはヒトの身体的価値があります。
それは、サピエンスにはサピエンスに固有の身体があるから。

〔ヒト〕は生物として、身体を保持して生命をつなごうとする。
そのための感覚の感覚を備えている。
感覚が存在するのは、世界秩序と身体とが整合しないからです。

いえ、動的には整合している。
動的平衡です。
静的には整合しない。
静的平衡とは、身体的価値が喪失して世界秩序と統合されること。
すなわち「死」です。


サピエンスを生んだ〔自然〕は、サピエンス以外のものも生みました。
有機物の複雑な構成体としての生命も自然が生みました。

サピエンスの身体は、そうした自然現象から派生したもののひとつにすぎない。
部分に過ぎない。
部分は、どのようにあがいても全体を超越できません。
部分が全体にフィードバックすることはあり得ても、超越は有り得ない。
ゆえに、全体の秩序の揺らぎが、部分に益になることも害を為すこともありうる。

〔個〕にはそれぞれ身体的秩序があります。
部分も〔個〕だし、全体もまた「個」。
全体の秩序は、部分である「個」からすればデタラメに見えたとしても、それはそれで自律的に成立しています。

そうした全体という〔個〕の秩序、部分という〔個〕の秩序、それぞれの秩序の相対的な動的調和が動的平衡です。
動的平衡は、〔社会〕というシニフィエに与えられた「自然」というシニフィアンとはまた別のシニフィアン。
すなわち〔社会〕というシニフィエは、「動的平衡」「自然」という2つのシニフィアンを持つ。

といって2つのシニフィアンが完全に同一というわけではありません。
指し表わしている側面が違う。

「動的平衡」という〈社会〉の側面において、〔ヒト〕の身体的価値と身体現象世界秩序は整合している。
「自然」という側面においては矛盾している。


なお、この矛盾を指し示す言葉も
「絶対矛盾的(自己)同一」です。



〔虚構〕、すなわち言語現象秩序は〔人間〕が生んだものですが、その発生には他生物の生殺与奪が関わっています。


サピエンスの基本特性は狩猟採集です。

狩猟採集においては、「殺」が基本。
獲物を殺して捕らえる、生きる糧とする。

「殺」とは、その〔個〕が持つ身体を破壊することです。
対象の身体を破壊して、全体の秩序に返すことが「殺」です。
生命を生んだ秩序に一旦還すことで、狩猟者はその「生」をわがものとして己の身体に取り込むことができる。


【システム】の出発点は農業です。

農業は本質の半分は、特定の植物・動物への隷属です。
隷属は「生」を与えることから生じました。

サピエンスにはサピエンスの身体秩序があります。
狩猟採集の間は、サピエンスはサピエンスだけの身体秩序を保持していればよかった。
他の種の秩序は「殺」。
一旦、より上位の秩序へ還してわがものとすればよかった。

農業はそうはいきません。
サピエンスにとって有用な植物・動物の秩序に、全面的ではないにせよ、沿っていかなければならない。
それら動植物の身体秩序は、当然のことながら、サピエンスのそれとは異なります。

異なる秩序に沿うために、自身の秩序を自ら矯める。
隷属と呼ぶにふさわしい行為です。
自身に有用な生物に敢えて「生を与える」ことで、自ら隷属の道を歩み出した。


サピエンスにはサピエンスの秩序がある。
ムギにはムギの、イネにはイネの、イモにはイモの秩序がある。
イヌにも、ウシにも、ブタにも、ニワトリにもある。
木にも、金属にも、石にもある。

これらの秩序はそれぞれ〔個〕的なものです。
サピエンスの身体が持つ秩序と同等、同位です。
ゆえに「せめぎ合い」が起こる。


サピエンスが〔ヒト〕たる所以は、「せめぎ合い」への適応能力の大きさにあります
柔軟性に富んだ、何にでもなれる身体を持つ。
〔ヒト〕とは、サピエンスが自身以外の身体的秩序の沿って、自身の身体を変革させた者のことです。

日本語で言えば、〔ヒト〕の代表選手は「百姓」でしょう。


とはいえ、「せめぎ合い」は楽ではありません。
サピエンスの身体が幅広い調整能力を持っているとはいえ、それには努力を要する。
農業が努力を強いるようになった。
エンジニアリングの需要が生まれ、サピエンスにはそれを為しうる能力があった。

たとえば、ウシを飼うとしましょう。
ウシを効率よく、すなわちサピエンスの都合に良いように生かすにはどうしたらいいか?
技術を用いる。
すなわち、木や鉄や土や、あるいはイヌの身体秩序を利用する。
さまざまな〔個〕に特有の秩序を組み合わせて使う。
囲いを作る。
家畜小屋を作る。
頭絡を作る。

こうしたことを可能ならしめるのに、言語の助けは不可欠であったはずです。
言語が持つ触角から派生した実在感がなければ、言語が単にシニフィアンだけのものあったとしたら、そこに価値を見出し、組み合わせて高度に利用するといった創造を行うことはできなかったでしょう。


高度な創造を行うには、多様なモノが必要です。
多様なモノの必要性は、エコノミーの需要を生み出しました。
サピエンスにはエコノミーを実現させる能力も備わっていた。
エコノミーの極点としての貨幣も生みだした。


言語的秩序が生じたのは、交易が生まれてからでしょう。
エンジニアリングのための言語は、あくまで、モノそれぞれの〔個〕の秩序をシニフィエとしたもの。
実在のシニフィエ伝達のためのシニフィアンでした。
実在の〔個〕に沿うための身体変革のためのツールとしての言語。
この範囲内では、サピエンスはまだ〔ヒト〕です。

交易が生まれると、言語はその範囲から逸脱します。
交易においてはシニフィエ、実在感でしかありません。
そのシニフィアンは実在感を指し示すものでしかありません。

「実在」と「実在感」は共に触角からの派生感覚ではあります。
けれど、異なる。
リアルとバーチャルは同じではありません。

言語が実在感をも示すものとなったとき、〔ヒト〕は〔人間〕になりました。

サピエンスは実在の秩序には適応できる身体を持ち合わせていました。
その能力を発揮して〔ヒト〕になった。
けれど、その身体は非実在の秩序にまでは適応できなかった。
それはサピエンスの持つ身体能力を超えていた。


考えてみれば、それは当然のことです。
具体的でないものに具体的な身体が適応できるはずがない。
けれど、適応しようとはしてしまう。
実在感だけは確実にあるからです。


言語的価値とは、触覚から派生した実在感に裏打ちされた非実在(実存)の価値です。
この価値は、交易・経済が生じなければ生じることはなかったはず。

身体的価値、言語的価値。
古典的な術語を用いるなら、使用価値、交換価値。

身体的価値(使用価値)を指し示す言語は、〔ヒト〕としての言語。
言語的価値(交換価値)を指し示す言語は、〔人間〕としての言語。

〔ヒト〕としての言語を用いるサピエンスは〔ヒト〕になる。
〔人間〕としての言語を用いるサピエンスは〔人間〕になろうとするけれども、なりきれないから【人間】になってしまう。


言語はまた、言語で身体的秩序とは別個の秩序を持ちます。
言語現象世界秩序を持つ。

貨幣は、貨幣となった物質の性質に従うことになります。
すなわち「量(重量)」です。

貨幣の進化が金銀からコイン・紙幣へと進化したのは、「量」を指し示すための最適化(イノベーション)が進んだからに他なりません。

貨幣の登場で、経済は言語的価値を基礎とした言語現象世界秩序に支配されるようになりました。
言語現象世界秩序が広がることで、サピエンスにおける〔ヒト〕と〔人間〕の比重は、どんどん〔人間〕の方へと傾いていった。質的にも、量的にも。

現代は、サピエンスにおける〔人間〕の比重が、サピエンス自身の限界を超えようとしている局面なのでしょう。


では、その限界をこえるとどうなるのか?

ぼくは自滅すると思っていますが、そうでないとしたら、自ら「神」になるしかないでしょう。




...申し訳ありません。
まだ続きます
完結させることができませんでした m(_ _)m

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