愚慫空論

身体的価値と言語的価値 (後編)

中編からの続き、です。


ぼくは貨幣も言語だと考えています。
4次の秩序感を持つ言語。
言語を超越した言語。

 触覚、嗅覚、味覚が1次。
 視覚、聴覚が2次。
 言語が3次。
 貨幣が4次。
 






貨幣の歴史が一つの時代を終わって、新しい局面に入ったことは、どうやら確かなことのようである。ここで言う一つの時代とは貨幣と貴金属が結びつけられていた時代である。これまでの事実の故に、日本語では貨幣をオカネと言い、金銀を意味する「黄白」は貨幣を意味し、フランス語でも銀を意味する言葉が貨幣をも意味するわけである。


言うまでもなく、文明社会において、これまで人間をもっとも夢中にさせてきた財は、権力とともに貨幣ではなかっただろうか。ひとたびその味を覚えたとき、貨幣を求めて人間は奮励努力するばかりでなく、友を裏切ったり、人を殺すことすらあえてした。自らの生命を危険にさらすばかりでなく、死後に地獄に落ちることすらも辞さなかった。この貨幣の魅力はそれ自体の有用性によるものではない。それは、この、有用性を拒否することによって他のあらゆる財と交換される可能性を持つという超越性にあるのであり、そこからくる魔性は今後も無くなるとは考えられない。しかしながら、この貨幣に対する渇望は決して人間の本性といったものではないということを忘れてはならないだろう。むしろそれは貨幣が金銀と結びついて以後のものなのである



有用性を拒否することによって獲得される超越性。
卓見だと思います。


有用性は実在感と密接に関連します。

触覚、味覚、嗅覚は1次の有用性です。
生命維持に直接関わる有用性。

視覚・聴覚は2次の有用性。
触覚から実在感を派生させることで生じた有用性。

視覚と聴覚の複合感覚である言語は3次の有用性。
ここにも触覚発の実在感が及んでいる。

1次・2次の間には超越性はありません。
ないというより感じられない。
1次2次は、ともに内在的だからです。
「超越」の対義語としての「内在」。

3次もまた内在的です。
話し言葉(パロール)の習得は〔ヒト〕においてはデフォルトです。
しかも、自我の成立以前に習得している。

書き言葉(エクリチュア)は3.5次元でしょうか。
書き言葉は、人為的な努力なしでは習得できません。
存在感はパロールのそれと同一と考えてよい。

が、エクリチュアは超越的です。

パロールも習熟度が増せば、超越的なところへ届きます。
エクリチュアは、そもそも超越的。


エクリチュアを習得することがない〔ヒト〕は多数います。
現代は教育が普及して、かつてよりは相対的にも絶対的にも増えましたが
歴史的に見れば、3.5次元は特別なものでした。

同じく歴史的に見るならば、4次の貨幣も特別ではあります。
とはいえ、エクリチュアに比べれば、ずっと普及していた。
文盲だけれど、貨幣の使い方を識っている人はごく普通に存在したし現在も存在するでしょう。

人為的という意味においては、エクリチュアも貨幣も同じです。
なのに、習熟は貨幣の方がずっと容易です。
エクリチュアは存在がそのまま習熟にはなりません。
ところが貨幣は、存在がそのまま習熟になる。
パロールが、存在イコール習熟であるのと同様に。

改めて考えてみれば不思議なことです。


貨幣もまた存在感を持ちます。
もちろん触覚発のものです。
存在感があるからこそ、魔性を発揮する。
地獄に堕ちることも辞さないほどの魔性です。
貨幣が金銀と結合することによって生じた魔性。



 ⇒ 愚慫空論『ロルナの祈り』
 

なぜ、金銀なのか?

金銀の存在感はすぐれて視覚的です。
しかも卓越したものがある。
この存在感が触覚から派生したものだと考えるのが不自然なほどに。

しかも「静止」しています。
歴史的にはさまざまな財が貨幣として用いられて来たけれど、金銀ほど貨幣にふさわしい素材はなかったと言っていい。


財にはそれぞれに有用性があります。
金銀にだって有用性がないわけではない。

財の有用性は、さまざまに結合してより高度な有用性を生みます。
〔ヒト〕をして〔人間〕たらしめるほどの有用性です。
貨幣は財の有用性の象徴です。
自身の有用性を拒否することで存在感のみを際立たせた。

もちろん貨幣にも有用性はあります。
「超越」が生んだ有用性。
〔虚構〕としての有用性。
その存在が直接には有用にはならない。

この間接性(象徴性)は「神」や「自然」といった言葉に似ています。
似ているけれど、貨幣とは大きな違いがある。
貨幣はモノとして実在するという違いです。

文字が実在するように、貨幣も実在する。
エクリチュア習得には努力が要るが、貨幣には不要。
特段の努力が不要だということは、貨幣は自然言語だということです。


だから、貨幣は価値を持つ。
言語的価値の極点が貨幣です。

そして、いったん価値を持てば、実在性が喪失しても価値に何らの影響もない。
金銀は、貨幣という言語を生み出す「触媒」で会ったということでしょう。



現代社会は貨幣経済社会です。
言語的価値は貨幣へと単純化してしまう傾向が強くなってしまっている社会。
単純化(抽象化)の効用が広く行き渡っている社会です。

単純化の効用には、良い側面と悪い側面とがあります。
〔人間〕にとって都合にいいところ。
〔ヒト〕にとっては都合が悪いところ。

〔人間〕にとって都合が良いのは、社会がより大きくなることです。
グローバル経済社会がそれです。

(貨幣を含まない)言語による秩序は国家を生んだ。
国家は〔大きな社会〕ではあるけれども、いまだ人類を統一するには至っていないし、至る目処も立っていません。

ところが貨幣は統一を成し遂げつつある。
貨幣経済社会は人類を呑みこみつつある。
高次に抽象化され単純になった価値で秩序づけられる社会。

だがこれは、〔ヒト〕には都合が悪いことです。
〔ヒト〕にとっての価値は具体的だからです。
具体的だということは複雑だということです。
言語化してしまうと大切な「なにものか」が喪失してしまう。
言語化できないほど具体的で複雑なものが、〔ヒト〕としての身体的価値です。


完結編へと続きます。

コメント

貨幣というものを理解するにあたって、すごく分かりやすかったです。
なるほど!って感じでした。

・アキラさん

アキラさんになっとくしていただけたら嬉しいです。

アキラさんの『言語を作る「感覚」シリーズ』
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/50848069.html

が下敷きになっています。

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