愚慫空論

『獣の奏者』~探究編・完結編

完結編まで読み終えました。



「あの恐ろしい王獣と、竪琴で話そうと思い立つなんて、面白い人だよな。そのうえ、ほんとうにそれをやってのけるなんて。・・・・・あの人の、そういう心持ちが、おれは好きなんだよ」

視線をオリにもどり、ロランはわずかに微笑んだ。

「音の連なり――弦の調べがさ、心をふるわせるのは、美しいことだとはおもわないか。
どこで生まれたとか、どんな生き物だとか、そんなことがすべて音の中に消え去り、聞いているものが皆、同じ音に心をふるわせる。――あの瞬間、おれは光を見るんだ」



ロランの笑みのそこにある悲痛ななにかが、オリの心を打った。

「あの一瞬があるから、おれは、あきらめずに、ラッカルを奏でつづけているんだよ」

戦火の中で身内を失い、多くの国々を巡って、汚い争いの中に身をおいてきたロランの心の底には、とても危ういものがある。それを、オリはよく知っていた。

一見、底抜けに明るく見えるこの男の、奥底にある虚無。その虚無を抱えながら顔を上げていられる訳を、いま、ロランは口にしたのだった。




エサルは、ものわかりがよすぎると言ったけれど、そんなことはない。――イアルが旅立つ前夜、エリンはくるったように泣いて、責めたのだ。

それでも、あきらめざるをえなかったのは、彼が抱えている思いが、結局は、自分が抱えている思いと同じなのだ、と、気づいたからだ。

もはや、仮初めの平安の中では暮らせないとわかったあのとき、自分もイアルも、心の中に隠していた〈堰〉を切ったのだ。おだやかに暮らすために心の中に築いてきた〈堰〉が崩れ去ったとき、突き上げてきたのは、自分たちが背負っているものと向き合って決着をつけないかぎり、そのさきの暮らしはありえない、という思いだった。

イアルが、ずっと亡霊を見ながら生きてきたことを、エリンは知っていた。かつて、その手で殺めた人々の重い影は、家族で暮らていても、なにをしていても、彼の心から消えることはなかった。




虚無とか、亡霊とか。
ぼくは、そういうものに心惹かれます。

いえ、「惹かれる」より「引かれる」かな。
引っ張られながらも、反撥を感じているから。

「惹かれる」だと、感じるのは自身に湧き起こるのは反撥ではない。
愉悦か、あるいは快感か。

反撥は愉悦ではあるんだけれども。


それにしても不思議なのは、虚無なら亡霊やらといったものが上橋さんのなかに「在る」ことです。


ぼくにはあります。

 幸いなことに、虚無は戦火によるものではないけれど。
 幸いなことに、亡霊は〔ヒト〕ではないけれど。

ぼくには、虚無や亡霊がいつからぼくの中に棲み始めることになったのか自覚があります。

上橋さんにも、そういう自覚はあるのだろうか。
そういう自覚をもって、創作をしているのだろうか。
それとも、それらは、おばあちゃんから引き継いだものなのでしょうか。



「物語」として引き継いだものであるなら、幸いです。


『獣の奏者』は、「物語が引き継がれなかった物語」です。

かつて大きな戦火が引き起こされて、大きな惨禍があった。
惨禍は虚無を生んだ。
虚無は戒めとなり物語となって引き継がれた。


戒めと物語はワンセットです。

戒めには理由がある。
物語は理由を語る。
物語が語れなくなると、戒めは単なる束縛になる。

戒めが物語を失って単なる束縛になってしまったときにどうするか。
新たに物語を書き起こすしかない。
エリンはそのために戒めを破る。
何が起こるのかを見極めるために。


少しばかり話を現実の方へ寄せます。

 『変節と変態について』 (内田樹の研究室)

憲法九条が「非現実的」に思えるのは、憲法九条が非現実的なものに思えるように、つまり第三次世界大戦の勃発を防ぐことで「あり得たかもしれない現実」をあらしめなかった先人たちの努力の成果なのである。

憲法九条が「非現実的」だから改定せよというのは、その先人たち(日本人だけに限らない。世界中で戦争を防ぐために身を粉にしてきた人たち)の努力を蔑することである。

あらゆる制度は、それがどういう歴史的経緯で生まれ、どういう歴史的与件の変化によって、それが持つ「意味」を変態させていったのか、それを見なければ理解できない。



憲法九条は戒めです。
それが非現実的に感じられるようになったのは、物語が喪失したから。

『獣の奏者』のなかでエリンは、失われた物語を新たに書き起こそうとした。
敢えて戒めを破ろうとしてわけでないけれど、流れに抗うことはしなかった。
戦火に身を投じた。


エリンは架空の人物です。
「エリンの物語」も、もちろん架空です。
架空で済ますべきものです。
エリンが架空の物語でしたようなことを、現実に為すなんてことはあってはならない。
戒めが生まれた理由を取り戻さなければならない。




虚無は生んではならない。
でも、亡霊は、大人がそれぞれ、心の内に棲まわせておく必要があると思う。
虚無を生まないために。


『獣の奏者』はリョザ神国という架空の舞台のうえで展開されます。
その舞台設定は二重構造になっています。

穢れを嫌い清浄を守って統治の象徴となる真王。
穢れを引き受け、統治の実際を担う大公。

リョザ神国のモデルは日本でしょう。

この二重構造が歪みを生む。
『獣の奏者』では、メインストーリーではないものの、二重構造の解消も描かれています。
真王もまた亡霊を引き受ける。

いえ、真王も実は亡霊は引き受けてきてはいるわけです。
でも、その事実は隠蔽されてきた。
そして隠された物語として真王に伝えてられてきたものが途絶えてしまった。

エリンも新たな真王も、途絶えた物語の再生にあたって、隠蔽することは選ばない。
それがたとえ、次の戦火の火種になることがあったとしても。

隠蔽の源泉にあるのは不信です。
そして隠蔽は不信を生む。
エリンも真王も、この悪循環を断ち切ろうとした。
不信の増大が虚無を生むから。
信頼に基礎を置こうとした。

亡霊を棲まわすことは虚無の歯止めになる。
亡霊を棲まわすことが虚無の歯止めになると信じるのは〔人間〕への信頼です。


〔ヒト〕という生き物は、〈霊〉というものを生みます。
触覚から生じる実在感が、視覚と聴覚へ、さらには言語へと派生していく。
言葉に実在感が宿り、言葉で指し示された対象にも実在感が派生する。

この、触覚より派生した実在感を哲学用語で言うなら“実存”になるんだと思います。

実存は、その対象(シニフィエ)が実在であっても架空であっても、派生していく。
かつては実在したけれども、今現在は実在しないシニフィエについても、実存は生き残る。
ぼくが言う〈霊〉とは、実存です。


亡霊が棲まうようになるのは、自らの手で実在を奪ったときです。
実在を奪って実存だけを残す。
これが亡霊です。

〔ヒト〕はあらゆるモノに対して〈霊〉生む生き物です。
生き物は、他の生き物の実在を奪わないと自らの生命をつないでいくことができない。
だったらば、〔ヒト〕は、亡霊を自らの棲まわすことになるのが順当というもの。

ところが、その順当が阻害されるということが起きる。
【システム】が阻害する。
だからこそ、【システム】は虚無を生むことになってしまう。

亡霊をおのれの中に棲まわすことを恐れる〔人間〕に、【システム】に抗うだけの生命力が培われるとはぼくには思えません。
亡霊を識らない者に虚無を見据えることはできないと思う。



〈いのち」は虚無にも亡霊にも〈反撥〉をします。

亡霊に対する〈反撥〉が愉悦。
虚無への〈反撥〉は快楽。


『獣の奏者』完結編の最終盤。
ストーリーは王獣と闘蛇の戦いへと進んでいきます。
描かれるのは救いのない戦いです。
そのストーリーを読むぼくの中に生じたのは快楽です。



あるいは、こちらか。




余談です。

ベートーヴェンの5番の交響曲については、メンデルスゾーンとゲーテの逸話が伝えられています。

10代そこそこのメンデルスゾーンが老ゲーテに、ピアノでこの交響曲を弾いて聴かせたことがあったといいます。じっと聴き入っていたゲーテは、聴き終わると、

「なんという騒々しい音楽だ。世界が壊れてしまいそうだ」

というようなことを言って、考え込んでしまった――

ゲーテは愉悦と快楽の差に敏感だったんだろうと思います。
この人のように。



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