愚慫空論

『沈黙 -サイレンス-』



映画のほうです。『沈黙 -サイレンス-』
観ました。

観終わって気がついたのですが、長い映画でした。ほぼ2時間40分。
でも、観終わって、時計を確かめるまで気がつきませんでした。

残虐なシーンが非常に多い映画です。
観ていてキツいものがあります。 
それでも、凝視し続けさせる力がある。
真摯な問いかけがあります。

映画と原作には違いがあります。

ぼくが感じた一番の違い。
井上筑後守の造型です。
そして、キチジロー。

原作での井上は、すくなくともぼくの解釈では、苦悩の人です。
ロドリゴやフェレイラは苦悶の人。
苦悩と苦悶。

彼は囚人たちの間にしゃがみ、白い扇子でしきりに首のあたりをあおぎながら、

「なあ、こげん年寄りに、そう厄介ばかけんでくれえ」

陽の光が微笑を微笑をたたえた彼の顔を平たくして、司祭は澳門で見た仏像を思いだす。その仏像の顔には彼が見なれてきた基督の表情のような感情の動きはどこにもなかった。蠅だけがぶんぶん唸りながら跳び回っていた。蠅は信徒たちの首をかすめたと思うと、老人の方に飛び、ふたたち、こちらに戻ってくる。

「お前たちが憎うて、召し捕ったんじゃなか。ここん道理をな、よう、わきまえんとならんぞ。年貢も滞らさず、賦役も精だして働きおるお前らを何で憎うて縛ろうぞ。百姓は国の元とはわしらが一番よう存じとる」



このシーンが映画では、このようになります。



イッセー尾形が演じる井上筑後守。
これは憎悪の人。

「一刻、 お前らに思案の暇 与えるゆえな、理をわきまえて答えてくれよ」

話をやめると老人の作り笑いが消えた。すると彼の顔に澳門の中国商人たちそっくりの貪慾な傲慢の色があらわれた。

「来てくいろ」

警吏は叢から腰をあげ一同を促し た。同じように立ちあがろうとする司祭を老人は猿のように顔をしかめて見 た。彼が憎悪の 光を眼にうかべたのはこの時が始めてだった。

「お前は」 ひくい背をできるだけ伸ばし、彼は刀の柄に片手をかけて言っ た。「残れ」



なるほど、ここを見れば、確かに憎悪の人です。

スコセッシ監督は、ここに現われた憎悪を拡張しているようにぼくには思えます。
スコセッシ監督のイノウエは、根から憎悪の人。
ぼくが解釈するイノウエは、根は苦悩の人。
苦悩から憎悪が派生するのは普通のことです。

「百姓らは、ふうけもんじゃ」



原作のイノウエは言う。
映画では“fool”で、日本語訳で「愚か者」になっています。

日本語話者ならわかるでしょう。
「ふうけもん」は憎悪の言葉ではありません。

関東圏なら「バカ」。
関西圏なら「アホ」。

これらの言葉の奥には「信頼」があります。
スコセッシ監督はこの「信頼」を汲み取れなかったのだと思います
映画のイノウエは、“they are fools.”を、異物を吐き出すように言う。
日本人がもし『沈黙』を映画にしたなら、このような表現にはならなかったでしょう。

欧米人でクリスチャンであるあるスコセッシ監督では憎悪の表出。
日本人なら苦悩の表出になる。


キチジローも造型が違う。
スコセッシ監督のそれは、卑怯者。
原作では、弱虫。



ぼくが熊野で暮らしていたときの話です。

サルの被害が酷かったんです。
ぼくが暮らしていた集落は幸いなことにほとんど被害に遭わなかったのですが、となりの集落などは頻繁にサルたちに農作物をやられていました。

それである時、隣の集落がサルの駆除をしたんです。
罠を仕掛けたんですね。
ぼくは、後から話を聞いただけですが。

まず、トタンで囲いを作る。
サルたちが跳び上がって越えることができない高さにする。
囲いを木材などで作ると逃げられる。
トタンだと滑るので、這い上れない。

そうした囲いをサルたちがよく集まる木の近くに作る。
大きな枝の下に滑り台のようにトタンを斜めに渡しておいて、その先にサルたちに好物を置く。
その餌を発見したサルたちは喜んで、次々と囲いの中へ滑り降りていったそうです。
そうして群れが丸ごとひとつ、罠にかかった。

罠にかかったサルたちは「処分」されました。
聞くところによれば、檻へと追い込んで、その檻を運び出して川に沈めて溺死させた。
それが一番、安全で穏やかなやり方なんだそうです。
「穏やか」というのは、処分する者にとってです。
罪悪感を抱かないで済む方法。

その話をぼくにしてくれた人は、捕まえて殺したサルを吊しておいたりもしたそうです。
群れは頻繁には来ないけれど、来ると大変なことになる。
はぐれザルはしばしばやってくるけれど、一頭なので被害も知れている。
でも、放っておくとやがて群れがくる。
だからはぐれザルの死体を吊して、群れに警告を与えるわけです。
彼らは賢いので、警告の意味を察知します。


イノウエの所業は、サルたちへの扱いと同型なんだと思います。

サルたちへの残酷な扱い。
でも、決して憎悪しているわけではない。

山里の人たちは、サルを「サル」と呼ぶことはほとんどありません。
「若い衆」とか「山の衆」とか言う。

人間扱いなんです。
少なくとも言葉の上では。

ぼくは言葉の上だけのことではなかったと思っています。

 山川草木悉皆成仏



ダーウィンが進化論を初めて世に示したとき、彼らの思想の「正しさ」を理解しない人から、「サルの子孫」と罵られたという逸話が残っています。有名な話です。

アメリカあたりでは、現在でも宗教的立場から進化論を否定する人たちが多く存在する。
学校教育でも、進化論を教えることの是非が議論になるといいます。
日本では考えられないことですが。

この違いは、日本人が科学的というのではなくて、もともとの宗教観の違いからくるんだろうと思います。
日本人の宗教観では、ヒトとサルの間にはさほど大きな格差はない。
サルは、進化論がなくても、もともとから「兄弟」だった。
ヒトが神の創造物だというのなら、サルだってそう。
ヒトだけが神の似姿だなんて、日本人は思っていません。


『沈黙 -サイレンス-』に感じられるは、この「正しさ」です。

ロドリゴとフェレイラは「正しさ」を押し通そうとして、負けた。
他ならぬ神が沈黙を貫いて、「正しさ」を担保してくれなかったから。

ガルペは、担保なしの「正しさ」を貫いて殉教した。
そんな彼を(物語の中の)日本人は潔いと称えた。
でも、ロドリゴはあくまで「担保」を求めた。

彼に「担保」、すなわち「神の声」が与えられたのは、「正しさ」はひとつではないと思い知ったときです。
棄教することもまた、時と場所によっては「正しい」。

でも、やっぱりロドリゴは、いや、スコセッシ監督は、「正しさ」に拘っている。
映画では、最後に原作にないシーンが付け加えられています。

仏教徒として葬られるロドリゴの手には、ロザリオが握られている。


遠藤周作さんがイエスに見出しだそうとしたのは、『沈黙』で書き表わしたかったのは、「正しさ」ではないと思います。
イエスの愛は無条件。
「正しさ」など必要がない。
卑怯者でも、弱虫でもかまわない。

「主よ。あなたはいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダにに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそうは言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいい言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

その時彼は踏絵に血と誇りとでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者が弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」



イノウエは強い者です。社会的に。
でも、強いからといって、苦しまないとは言えない。
それとこれとは関係がない。

ヒトはサルよりも強い。
だからといって、ヒトが苦しまないわけではない。

イノウエは百姓たちをサルのように扱った。
ロドリゴやフェレイラを転ばすために、百姓をサルのように使った。
サルを「処分」した集落の人たちと、程度は違うけれども、同質の狡猾さ。

スコセッシ監督の視線では、狡猾は悪魔の属性でしかない。
だけど、遠藤周作さんは、そんなところを見ていなかったと思う。



キリスト教の震源はユダヤ教です。

ユダヤは弱小民族でした。
弱小であるがゆえに、彼らは「正しさ」を求めた。
正しく振る舞うことで神の「救済」を得ようとした。

「正しさ」への希求は、「強さ」への希求の代償行為。
これがユダヤ教。

ところがイエスが現われて、救済には「正しさ」も「強さ」も関係がないとした。

 「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返しなさい」

カエサル(皇帝)とは、「正しさ」と「強さ」の象徴です。
「カエサルの者」とは、ぼくの言葉でいえば〔社会〕です。
「神のもの」は〔ヒト〕です。

でも、イエスの弟子たちは、イエスの教えをよく理解しなかった。
「正しさ」も「強さ」も、「神の物」として求めようとした。
イエズス会は、カトリック教会のなかにあるそうした希求を露わになったパーツでしょう。


デウスに帰依した日本人たちは、しかし、「正しさ」も「強さ」も希求していなかった。
彼らはひたすらに、無条件の「救済」を求めた。
神父への「告解」を「救済」だと考えた。
「告解」と「念仏」とを同じものとして理解した。

神父たちが理解できなかったのは「無条件」です。
彼らは、日本は西洋とは「条件」が違うという理解はした。
イノウエなどが語るアナロジーは、確かにそのような理解に導くものではあった。

けれど、アナロジーはあくまでアナロジーです。
ひとつのアナロジーは、一面を象徴するに過ぎない。
だから、多面を知るには多くのアナロジーが必要になる。
そのことをイノウエは理解していただろうけれど、パードレたちはそこまで届いていなかった。


イノウエは「理をわきまえよ」と言った。

ヒトはサルよりも強い。
同様に、社会は個人よりも強い。
同様に、自然は社会よりも強い。

「強い」の何らの理由もなく強いのであって、ここに「正しさ」は関係がない。
また、「強い」ものには逆らっても何らの益もない。

これが「理」です。

益がないことはするべきではない。
為すべきことではない。

これが、「理」をわきまえる、です。

基督教はここに「正しさ」を持ち込む。
「正しさ」から「強さ」を導き出そうとする。
だからこそ、イノウエたちは基督教を危険だと認識した。

この認識は、少し遡った時代に為政者たちが一向宗に抱いたのと同じ認識でしょう。


本来、〔ヒト〕には「正しさ」も「強さ」も必要がありません。

〔ヒト〕にも「強さ」は存在し、それはさまざまな差異になって出現するにしても、それは「理」であって「正しさ」に担保されたものではない。
ところが〔社会〕は、より大きな「強さ」を要請します。
生き残るために。
そして、「強さ」を要請するために「正しさ」を要請するようになる。
帝国、宗教、貨幣はそうした要請によって呼び出されたもの。

遠藤周作さんも要請しています。
イエスへの希求として。
それはしかし、〔社会〕からの要請とは無関係な――いえ、違います。
〔社会〕の要請の反作用としての、〔ヒト〕の要請なんだろうと思います。
その反作用こそがイエスなのだというのが遠藤さんの見立てなのだと思う。

ゆえに、遠藤さんのイエスは〔人間〕には沈黙し、〔ヒト〕には答える。

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