愚慫空論

身体的価値と言語的価値 (中編)

前編からの続き、です。

言語に価値がある。
あるいは言語によって秩序が構成される。

言語によって価値が生み出され、
言語によって秩序が構成されていることは、疑いようがない事実です。
よくよく考えてみると、これは不思議なことです。

価値が身体的に、生理的に、生物学的に定められているのは不思議でもなんでもない。
秩序が生物学的に構成されているのも、そう。

ぼくたちは生物なのだから。


ところが〔人間〕という生き物は、言語に価値を見出し、言語によって秩序を構成する。
さらに不思議なのは、そういった不思議さを不思議と思わないこと。
それどころか、歴史を眺めてみると、言語こそが秩序という時代が長く続いた。
言語秩序の時代は、歴史と共に始まったいいくらいです。


言語的秩序観が揺らいできたのは科学革命以降です。
科学もこれまた一種の言語ですが、それ以前の言語とは違った特徴を持っている。
科学において言語は価値を持たない。
客観的事実を記述するためのツールでしかない。
すなわち、言語から価値を排除したのが科学だということができます。


そのように観ると、歴史とは「言語の歴史」といえるのかもしれません。


では、なぜ、言語は価値を持つようになったのか。

言語に価値が宿るようになったのは、認知革命以後のことだろうと推測されます。
認知革命で生まれたはずの「リカージョン」を持たないピダハンの言語は、おそらく価値をもたない。
ピダハンには言語的価値はなく、身体的価値しかない。
ピダハンには身体現象世界秩序しかない。
すなわち、純粋に〔ヒト〕だということです。



従来、〔ヒト〕には「言語本能」なるものが存在すると言われてきました。

 


でも、これは「アフォーダンス」とは矛盾します。



矛盾するからこそ「本能」と呼称しておくのが相応しいのかもしれませんが。

“呼称しておく”という振る舞いは言語的です。
シニフィエとシニフィアンとが分離していることで生じうる現象。
シニフィエとシニフィアンとの厳密な一致を求めないことで成立する現象。
非科学的な態度が生み出す現象。

つまり、「言語本能」という呼称には言語的バイアスがかかっている。
言語を価値であり秩序だとみなしたいという、文化的なバイアス。
そうした文化的バイアスが科学的な観察によって破られるのは、ごくごく科学的な営みでしょう。


とはいえ、「言語本能」が完全に文化的なバイアスかというと、そうは言い切れない。
言語には、間違いなく感覚感があるからです。
サピエンスが生物として備えている一次感覚から後天的に派生した二次感覚。


言語感覚の構成要素は、視覚と聴覚です。

視覚は電磁波を感覚する。
聴覚は音波を感覚する。

視覚も聴覚も、ともに実在感を伴います。
だけど、おそらく、実在感は視覚と聴覚に固有の感触ではない。

実在感の源泉は触覚です。
触覚と視覚あるいは聴覚とが結びついて生まれた複合感覚が、視覚および聴覚がもたらす実在感。
二次的実在感がある視覚と聴覚が結びついて生まれた複合感覚が言語感覚。
言語感覚にあるのは三次的実在感ということになります。


ところで、実在感には空間的要素と時間的要素とがあります。
また言語には「話し言葉(パロール)」と「書き言葉(エクリチュア)」とがある。

話し言葉では時間的要素が大きい。
書き言葉になると空間的要素が大きい。

空間的要素が大きくなるということは、時間はなくなるのではなくて、「静止」になる。


「静止」というのは、物理的に考えれば、同一の入力がずっと続くということです。
けれど、これは自然界にはありえません。
なぜなら、音も光も波だからです。
波は常に変化するものです。

だということは、「静止」は原始的な感覚ではないということ。
「静止」は入力された情報を処理する過程で生じた「錯覚」。
つまりは「虚構」です。

「静止」という「錯覚」は視覚の情報処理の性質に拠ります。
触覚も聴覚も、そのような情報処理を行わない。
触覚による同一の入力の持続は、感覚量の「逓減」という形で処理される。
聴覚も「逓減」です。
視覚だけが「輪郭」という情報処理を行う。
「輪郭」は「静止」です。


おそらくは「静止」感が「秩序」感へと派生している。
サピエンスは空間把握を視覚に大きく頼っています。
視覚は「輪郭」を生み、「静止」を生む。
「静止」として把握される自然環境は、すなわち「秩序」です。


そのような感覚構造を持つサピエンスが、視覚・聴覚・触覚を複合させて言語感覚を生みだした。
話し言葉として始まった言語は、やがて書き言葉へと変化した。
書き言葉は話し言葉よりも視覚的要素が大きい。

書き言葉は、サピエンスにおいては「静止」しています。
書き言葉に習熟して、言語に「静止」を感じるように成長したサピエンスが〔人間〕。
〔人間〕は言語に秩序感を覚える。
この秩序感が〔虚構〕。


自然環境に「輪郭」を与えることによって生じる秩序感はアフォーダンスであり身体的です。
一方で、言語から生じる秩序感は、アフォーダンスからは離れている。
秩序感は、アフォーダンスであれ言語からのものであれ、身体的であることに変わりはない。
ともに身体的なのに、質の異なるふたつの秩序感をサピエンスは感得することができる。

このふたつの秩序感により、サピエンスは〔ヒト〕と〔人間〕とに引き裂かれることになります。


言語感覚は、数学的にアナロジーするならば、身体的の3乗になっていると言えます。
 秩序感=身体的だとすると、触覚が1乗。
 視覚、聴覚が2乗。
 言語で3乗。
乗数が大きくなるほどデタラメになる。

サピエンスが不思議なのは、乗数が上がるほど支配が強くなってしまうことです。


後編へと続きます。

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