FC2ブログ

愚慫空論

INTERWRITING ~ 間綴文

音楽の用語で、“間奏曲”というのがあります。
インテルメッツォ(intermezzo)ともいう。イタリア語です。

ちなみに“mezzo”は「手段」と訳されました。グーグル先生に尋ねてみたところ。
オペラなどの幕間に、場のつなぎのとして演奏されたカンタンな曲、というような意味でしょう。


アタマのなかにゴチャゴチャと「いろいろなもの」が混沌としてある。
そこに何か「主題」を与えてやると、芋づる式にずるずると言葉が湧いてでくる。
ぼくが今、やっているのはそんなような文章の書き方です。

「主題」というのは、本だったり映画だったり音楽だったりするわけですが、
主眼は「主題」ではなく「展開」の方にあるので、
すなわち「ずるずる」の方にあるので、
「主題」はあまり関係ないというか、どうでもよかったりする。
「ずるずる」のためのきっかけくらいのものでしかない。

だったら、「主題」なしで「ずるずる」だけしてみればどうなるか?


そうは言っても、タイトルは要るよなぁ、、、「無題」でもいいんだけど。
あ、「インテルメッツォ」がいいんじゃないか?
どうせだったら、一捻りして、、
タイトルが決まりました。

間に綴る文章で「間綴文」。
音読すると、カンテイブン、かな?
固い発音だなぁ (^_^;)


ここ2、3日繰り返し聴いている音楽です。



グレン・グールドがピアノで演奏するベートーヴェンの『田園』。
フランツ・リストが編曲した楽譜によるもの。

とてもいい。〔愉悦〕に溢れています。

これを聴いて、グールドがある時点で若くして「引退」した理由が腑に落ちました。
彼は徹底して〔愉楽〕を求めたんだろうと思います。

音の拡がり、響きの豊かさでは、やっぱりオーケストラの原曲が上。
でも、どんな上質な演奏でも〔快楽〕が混じる。
ここで感じていた「フォーカスの甘さ」は、どうしても混じってしまう〔快楽〕がそうさせてしまうのかもしれない。

グールドがこんな「離れ技」をやってのけられるのも、純粋な〔愉悦〕を求めた人間だからという気がします。

 ⇒ 『Glenn Gould on Animals』







 

闘蛇ふえれば、国広がり、人おのずから増える。これぞ崩壊の始まりと祖父は言ふ。

獣の群れには、それぞれ似合ひの規模あり。雄は互いに争ひ、雌を連れて群れを分かつ。弱き雄は雌を得られず、子をなせず、群れの数はみごとに保たれる。
その均衡破れ、増えすぎたるときは、病流行り、あるいは争ひ起き、悲惨なること、あまた起こる。これ天然の理なりと言ふ。

人、獣より知恵あり、と我言へば、祖父笑ふ。

天然の理を越えたる大きな群れを、災ひ起こさず納め得る知恵など、いまだ人は持たず。哀しきかな! と。

祖父の言葉、我が胸に沁みる。
小さな群れの貧しき平和。大きな群れの諍ひ多き豊かさ。
我、常にこの言葉を胸に刻みおき、闘蛇の数を我が手の内にとどめおかむ...



『鹿の王』の、ヴァンのお父さんの話を思い出します。
若者たちに「馬鹿だ」と言い放った老人の言葉。
「哀しきかな!」と共鳴する。

スタイルも似ています。
片や回顧であり、片や日記であり。
ともに過去の記憶、記録。

これは、スタイルまで含めて、偶然ではないような気がします。
上橋さんの「知恵の型」なんだと思う。

「災ひ起こさず納め得る知恵など、いまだ人は持たず」という知恵が、現代の社会ではどのように扱われているかという知恵も含めて、上橋さんの「知恵」になっている。伝えたい「思い」も含めて。


今朝、ネットでこんな文章を読みました。

 ⇒ 『日本人の「戦争反対」は、御霊信仰なのかもしれない』

ただ、多くの人が恐れているように、あの戦争の直接な体験者がいなくなり、霊を慰める直接の言葉が発せられなくなったときに、たしかに現世も変わっていくだろう。その日は必ずやってくる。

その世上を恐れている心持ちは、直観的にきわめて鋭い気がする。



上掲文の著者は堀井 憲一郎さんというのだそうです。

堀井さんの直観。
堀井さんが感得している恐れ。
上橋さんの「知恵」。
共通しているものがあると思います。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/1032-e1d99ecc

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード