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愚慫空論

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復讐のススメ

『獣の奏者・探求編』をゆっくり読み進めています。
愉しみながら。



エリンは眉をひそめた。
この美しい、ゆったりとした天地をながめていると、他国を攻めようとする者がいることが奇妙に思えてならなかった。



エリンはとある理由でウハン村という場所に赴いていきます。
ウハン村は闘蛇の育成が始まった場所。
そこはエリンが属するリョザ神王国の始まりの地。
暴力装置としての国家という側面で。

エリンは、エリンを導くヨハルと会話をします。
この国の歴史。現在の情勢。

上の文章は、そんなシーンの中に差し挟まれる一文です。



エリンの目の前に広がっているのは、こんなような風景でしょう。
自然の営みと人間の営みとが調和している風景。
そんななかで、その調和を敢えて壊そうとする者がいる。
それを奇妙と感じるのは健全なこと。


 小国寡民
 使有什伯之器而不用
 使民重死而不遠徙 雖有舟輿 無所乗之 雖有甲兵 無所陳之

 使民復結縄而用之 甘其食 美其服 安其居 楽其俗 隣国相望
 鶏犬之声相聞 民至老死 不相往来


『老子』です。
エリンの心の中にあったのは、
エリンをして奇妙と感じさせた心の動きのベースにあったのは、
『老子』の「小国寡民」のそれと同じものでしょう。


「小国寡民」にあるのは〔愉悦〕です。

民は、〔愉悦〕の中にありさえすれば
自然の営みと人間の営みの調和のなかに居さえすれば
力を倍増させるような機械はあっても用いようとはしない。

〔愉悦〕の中にありさえすれば、(名誉などといったことよりも)死が重んじられて、舟があっても遠くへはいかないだろうし、軍事力があっても展開されるようなこともない。



〔愉悦〕の中にいる者には、「陳甲兵」することが「奇妙なこと」です。



ところが、物語を読み進めているぼくには期待がある。
『獣の奏者』は、著者の上橋さんは、おそらくぼくの〔期待〕に応えてくれるでしょう。

「奇妙なこと」が起きるであろうこと。
人々が相争い、愛憎が生まれ、悲哀が生まれ、その後に歓喜が生まれること。
それらは現実とは異なる異次元の物語であり、異次元に浸ることで〔期待〕が満たされること。
これは〔快楽〕です。

著者にとっては、物語を創造することは〔愉悦〕でしょう。
でも、創造の中には〔快楽〕の種も埋め込まれている。

老子が嫌ったのは〔快楽〕であったのだろうと思います。
「無為自然」とは〔愉悦〕のことなんだと思います。

〔愉悦〕と〔快楽〕はとてもよく似ています。
ゴーダマ・ブッダでさえ、その違いを識別できなかったのかもしれない。
だから〔愉悦〕も〔快楽〕も、ひっくるめて「煩悩」としてしまった。




〈いのち〉には〔愉悦〕がデフォルトです。
ただ、〔ヒト〕に限っては必ずしもそうとは言えない部分があります。
〔ヒト〕は他種に比べると極めて未熟な状態で生まれてくる。
〔愉悦〕をしっかりと「わがもの」とする以前に母の胎内から生まれ出てきてしまう。


この感情というものは刺激されないと育ちませんから、親御さんやまわりの大人の愛情や気の集注が何よりも大事になってきます。
それがあって初めて、食べ物は栄養として赤ちゃんを充実させていく。
つまり赤ちゃんの一番の栄養は、親を筆頭とした周囲の大人の愛情だということです。

それらのことを通して、この13ヶ月内に育つのは、人間の行動の最も大事な基準となる生理的な快・不快感です。
この快・不快を通して、自然のおきて(モラルの中心)といったものが獲得されていくわけです。
自然のおきてを破ると、生理的に不快感が生ずるので、そういうことはやらないものですし、やれないもの。



〈いのち〉は「自然のおきて(モラルの中心)」にそって「快」を追求します。
それが〈生きる〉ことであり〔愉悦〕です。

〔ヒト〕が〔愉悦〕をわがものと為すには、「三年之愛」が必要です。
〔愉悦〕を「わがもの」としている者は、もう、それで「仁」です。

仁者は「不遷怒」です。
「遷怒」とは「八つ当たり」であり、これこそが「奇妙なこと」です。
「陳甲兵」、すまわち兵力を展開することは、「やつあたり」。
この「やつあたり」が〔快楽〕を生みます。


でも、残念なことに、ぼくたちは「仁」ではない。
だから、どうしても「快楽」が必要になってしまいます。

では、「やつあたり」を避けることはできないのか。
戦争は不可避なのか。

〔快楽〕を生むのは、「やつあたり」だけではありません。
「復讐」もまた〔快楽〕を生む。

だから「復讐のススメ」です。
これは同時に「やつあたりへの戒め」でもある。


「復讐」と「やつあたり」の違いは何か?
対象が違います。
「直」を為すのが「復讐」です。
「怒」を、それを与えた相手に返すこと。
これが「直」であり「復讐」です。

「やつあたり」すなわち「遷怒」は、「怒」を与えた相手とは別の対象に向けること。
自分よりも弱い相手に向けること。


〔人間〕は〔社会〕を営みます。
〔社会〕はどうしても〔人間〕よりも強力な存在です。
〔社会〕は〔人間〕が生み出すものだけれど、個々の〔人間〕よりも強い存在になるのは避けられない。

ゆえに【社会】は〔人間〕に「遷怒」する。
「遷怒」された〔人間〕は、「復讐」ができずに【人間】になる。
【人間】はオノレよりも弱い存在に「やつあたり」をする。
親が子に「やつあたり」をする。ハラスメントをする。
親よりも弱い子どもは【人間】になり、【社会】を構成していくようになってしまう。

この連鎖を断ち切るには「やつあたり」を「復讐」へと置き換えていくしかありません。

子は親に復讐を為す。
【人間】は【社会】に「復讐」を為す。




『コードギアス 反逆のルルーシュ』において提示しされていたのは、〔快楽〕追求の果ての、【人間】の【社会】への「やつあたり」です。

 世界の憎悪、つまりは「怒」を一点に集中させ、その一点を取り除く。
 そうすれば「怒」は消え去り、平和な世界が訪れる。

これはやはり〔快楽〕です。
これ自体が「遷怒」です。
〔快楽〕は「怒」を紛らわす効用はあっても、消し去る効用はない。
〔快楽〕の世界では通用する法則も、現実世界では「期待」でしかない。
視聴者はそのことをよく識っています。
よく識って、その上で楽しんでいる。
〔快楽〕です。


さて、『獣の奏者』はどのような物語になるでしょう?
どのような形で〔期待〕に応えてくれるのか?

『精霊の守り人』も『鹿の王』も、「やつあたり」だけでおわる物語ではありませんでした。
「復讐」の要素が少なからずありました。
『鼓笛のかなた』にも、「復讐」の要素はたくさんあったと記憶しています。

『獣の奏者』はどうなるのか?
楽しみです。

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