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愚慫空論

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『獣の奏者』~闘蛇編・王獣編

さっそくですが。

 


とりあえず『闘蛇編』と『王獣編』を。

上橋さんのもともとの意図は、上記二編で完のおつもりだったようですね。

「わたしが、王獣を使うことを嫌悪するのは、あの話のためでもなく、母の一族のためでも、この句の人々のためでもありません。
 ただ、わたしには、リランが見ることのない、感じることもない、人という生物が生みだしている行為の網が目に見えていて・・・・・・その中で自分が演じさせられている役割が、吐き気がするくらい、いやなのです」



あらすじその他はすっ飛ばします。

引用は『王獣編』の最終盤で、主人公エリンが吐く台詞です。
“リラン”というのはエリンが育てた王獣の名前。

「人という生物が生み出している行為の網」。
ぼくの言葉でいえば【システム】です。

闘蛇という架空の生命体がいる。
王獣という架空の生命体がいる。
人間は、個々人は架空の存在だけれど、生物種としては同じ“サピエンス”です。


むりやりアナロジーで語ってみます。

闘蛇という生き物は戦車です。
騎兵よりも強い。近代通常兵器。
そして王獣は闘蛇よりも強い。
核兵器のような存在です。

エリンという主人公はその「核兵器」を手懐けることができる技能を持つ。
これも無理矢理例えれば、オッペンハイマーのような役回りです。



あくまで【システム】の上ででは、ですけれど。

実在の人物とフィクションを比較するのは馬鹿げているように思うかもしれませんが、押して違いを挙げておくと、エリンは徹頭徹尾、【システム】に隷属はしなかった。
自発的に隷属はしなかったけれど、それでも、結果としては、隷属したのと同様の役割を演じることになってしまいます。

なぜか。
ぼくの言葉で言わせてもらうならば、〔ヒト〕として行動したから。
〔ヒト〕としての内発的な振る舞い、「不忍人之心」が発動したから。

エリンの「不忍人之心」がどういった形を取るのかは本書を読んでいただくとして、ここではアナロジーで語ります。

マイケル・サンデルの『白熱授業』で有名になった「トロッコ問題」

・線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
・この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
・A氏は上述の手段以外では助けることができない。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。


これはクソな問題設定です。
こんなふうに要点だけを取り出した取り出したような問題は現実にはないだろうし、また、もし本当になったとしたら、このような問いそのものが無効です。Aは自分の好きな方を選べば良いだけのことなんだから。なんとなれば、こうした状況が発生したことにAはなんらの責任もないんだから。道徳的な責任も含めて。

何らの責任がないにもかかわらず、たまたま「そこにいた」というだけで責任を負わされる。
何らの責任がなにもかかわらず、たまたま「それができる」というだけで責任を負わされる。

リランは「それができる」けれど、責任を感じることがない。
ところが人間は感じる。「不忍人之心」が発動する。
そして、「不忍人之心」の発動を強制される。
功利主義であろうが義務論であろうが、強制のための言い訳です。
〔社会〕は〔社会〕の都合で言い訳を選んで、個人に強いる。
エリンは、それを吐き気がするくらい、嫌だと抗う。

「社会の都合」とは〔物語〕です。
〔人間〕は〔物語〕を理解する。
つまり〔虚構〕を理解する。
人間だけが理解する。


エリンは〔物語〕のデタラメを告発します。
この告発には真実性がある。
真実性があると読者は受け取る。

もっとも、その真実性も〔物語〕へと回収されてしまうんですが。
その「回収」はエリンが物語の中で“霧の民”と都合よく差別されるとの同様に、読者によって「物語(フィクション)」だと都合よく区別されることによって為される。
この「回収」においては、著者も読者も、共犯者です。



引用したエリンの台詞は『獣の奏者』闘蛇編・王獣編のクライマックスです。
著者がエリンに言わせたかったこと。

では、著者は、そのことを念頭において、「言わせたかったこと」を頂点にするように物語を構成したのか?
おそらくそうではないと思います。

「物語」の中ではあるけれども、エリンは生きている。
『精霊の守り人』のバルサもそうですが、エリンもまた著者の分身だと思う。
エリンが生きてきた結果、上のような台詞になった。
そこを目指して生きていたのではなくて、生きてきたらそういうことになった。
シニフィエが先。シニフィアンは後。

著者には自身の分身を生み出す能力と、分身を書き表わす能力とがある。
上橋さんは、ぼくの勝手な想像ですが、多重人格の傾向があるのかもしれません。
エリンは、上橋菜穂子というシニフィアンで呼称される存在の別名です。


昔者荘周夢為胡蝶 栩栩然胡蝶也
自喩適志与 不知周也 俄然覚 則蘧蘧然周也
不知 周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与
周与胡蝶 則必有分矣 此之謂物化


『胡蝶の夢』です。
荘周にとっての胡蝶。
上橋菜穂子にとってのエリン。あるいはバルサ。

たまたま荘周であり、胡蝶であり、
たまたま上橋菜穂子であり、エリンであり、バルサだった。
そういったシニフィアンが与えられただけ。

作者と分身の相似性が、読者には真実性となって感じられる。
作者が分身を生み出す〔愉悦〕が、読者には真実性になります。

もっとも作者の〔愉悦〕が読者にも〔愉悦〕になるとは限りません。
〔快楽〕として受け止められることの方が多いのだと思います。
大人になればなるほど、その傾向は強くなる。

〔快楽〕としてしまえば楽です。
エリンの苦難は「他人事」にしてしまえるから。
ぼくたちは、たまたまエリンとは違った形で似たような問題に直面しているけれど、それはそれ、これはこれ。
「それ」も「これ」も、それぞれに閉じた「終」と為すべきもの。
王獣規範がそう定めるように。

そうしないと秩序が崩壊してしまいます。


『探究編』『完結編』へと続くことになると思います。

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