愚慫空論

『至高の音楽』



まず、はばかることなく申し上げておきます。
ぼくは百田尚樹氏は嫌いです。

嫌いというほど関心は持っていないのですが、日頃アンテナにしているネットニュースでもしばしば取り上げられるし、とくに関心を持っているつもりではないけれども、しばしば言動等の情報が引っかかってくる。そのたびに、不愉快な思いをしているわけです。

だから、まだ今のところ小説も読んでいません。
一度、映画の『永遠の0』を観ようと思ってDVDをレンタルしてみましたが、結局、鑑賞することなく返却してしまいました。
いずれ、再トライをしてみようとは思っているのですが...

その百田氏が、ぼくと同じくクラシック音楽のファンだと知ったのは、どういったきっかけだったか?
覚えていたつもりですが、忘れてしまいました。
ぼくはそういうきっかけはたいてい覚えているんですけれども、やっぱり嫌いなんだなww

きっかけは忘れたけれど、クラシック音楽についての著作があると知った。
で、最寄りの図書館の蔵書を検索してみたらありました。
だったら読んでみよう。
クラシック音楽についての文章であるならば、不快な思いはしなくて済むだろう。
もしかしたら、そこを皮切りに、百田氏の作品にも興味が湧くかもしれない。


結果。
本書は、それなりに楽しむことができました。
楽しむばかりでなく、かねてから疑問に感じていたことについて、ひとつの確信を得ることができた。
けれど、百田氏の作品への興味は湧きませんでした。
それは、本書で得た「確信」とも関連しています。


ぼくがかねてから疑問に感じてきたこと。
クラシック音楽には難点がある。
それは、百田氏のような自己愛者を強く惹きつけるところがあるということです。

なぜなのか?
ここを言語化すれば、その機序がいくらかは明らかになる。


話は一旦、クラシックから離れます。



ボブ・マーリーです。曲は『One Love』


ぼくにボブ・マーリーを教えてくれたのはアキラさんでした。
アキラさんの好きな音楽を知りたいと思ったんです。
それで、CDを借り受けて、しばらく聞き込んでみました。

聞き込むといっても、実体はほとんど聞き流しですけど。
音楽が身に染み込むまで繰り返し、聴くともなく聞く。
そうすると、やがて某かの反応が出てきます。

そうやって出てきた反応は「緩い」という言葉になった。
それをアキラさんに伝えたら、笑われたんです。

「ボブ・マーリーはレゲエの中ではとてもタイトなんだよ」

そのあと、いろいろ感想を述べあった記憶がありますが、どんなないようだったかは覚えていません。
今になって思うのは、「緩い」とシニフィエンが指し示すシニフィエがぼくとアキラさんとでは違っていたということ。まあ、当たり前ですが。


ボブ・マーリーは、ぼくの今の言葉で表現すれば〔愉悦〕です。
それを当時のぼくは「緩い」と捉え方をした。
軸が〔快楽〕にあったからです。


前記事で〔愉悦〕と〔快楽〕については触れました。
再掲してみます。

快楽は愉悦とは違います。
その違いは、自愛と自己愛の違いと相同しています。

愉悦とは、自愛を励起させるもの。
〈生きる〉ことそのものの愉しさです。
一方で快楽は、自己愛を励起させるもの。

自己愛は自己嫌悪の裏返しです。
〔ヒト〕には自己嫌悪を自覚するのが難しい。
ゆえに自己愛を生み出す。
自己嫌悪を隠蔽するために自己愛が創造される。

つまり快楽とは自己嫌悪を隠蔽する効用を持つもの。
それはそれで、擬似的にではありますが、〈生きる〉ことを感じさせるものではある。



クラシック音楽には〔愉悦〕も〔快楽〕も、どちらもある。
あるけれども、〔快楽〕の部分が大きい。




ベートーヴェンの交響曲第三番。
『英雄』という表題が付けられています。ベートーヴェン自身が付けたものです。
ナポレオンに献呈するために作曲されたけれど、ナポレオンが皇帝の座に就いたと聞いてベートーヴェンは激怒し、献呈を取りやめたという逸話が残っています。

演奏はカラヤン指揮のベルリンフィルハーモニカー。
ぼくは一時、この演奏を繰り返し聞いていた時期がありました。

ぼくはどちらかというとカラヤンは好みません。
アンチ・カラヤンとは自分では思っていないけれど、響きがどこか表層的だということには同感します。よく言われることですが、「巧言令色」の感が強い。音楽でこういう言い方は変かもしれませんが、シニフィアンとシニフィエのあいだに「落差」を感じてしまう。表現と表出の間に「乖離」がある。

けれど、この演奏を好んでいた時期は、その「落差」が、その「乖離」が楽でした。
音の響きそのものは快い。
そして、その快さはなにも引きずってきません。
ただ「快い」だけ。
これはある意味、とても楽なことです。

その時期のぼくは、自分でも疲れていると自覚していました。
疲れているからこそ、ただ快いだけなのが嬉しい。
そう思うと、カラヤンが支持された理由もわかるような気がしてきます。

これこそ〔快楽〕です。
『コードギアス 反逆のルルーシュ』が提供してくれるのと同じもの。
違っているのはまとっている虚構の重みくらいのものだと言ってしまうと、暴言になるかもしれませんが。


百田氏にクラシック音楽開眼の体験をもたらしたのも、『英雄』だったそうです。
それもフルトヴェングラーの戦時中の演奏録音。
いわゆる「通」を自認する人間には良く知られた録音ですが、お世辞にも良好な録音とは言えません。こんな演奏で開眼したなんて、百田氏はただ者ではありません。

これは皮肉です。
でも、百田氏だけに向けたものではない。
ぼくにも覚えがあること。
クラシック音楽愛好者にはありがちなこと。
クラシック音楽の難点です。

すなわち権威主義です。

まずシニフィアン(権威)が先にある。
そこにシニフィエが追いついてくる。
「シニフィアン ⇒ シニフィエ」 という順序で両者が一致するときに生じる悦び。
これは〔快楽〕です。

けれど音楽は本来、「シニフィアン ⇒ シニフィエ」 です。
それは作曲という行為を考えてみれば明らかです。
先にあるのはどう考えても表出内容でなければおかしい。
それをどのように表現するか。どのようにシニフィエを組み立てるか。
シニフィエにシニフィアンが追いついたときに生まれる悦び。
これが〔愉悦〕です。



ここはジャズの名曲を挙げおきましょう。
〔愉悦〕の音楽。
ジャズはクラシックより、ずっと音楽の機序に近い。
『Maiden Voyage(処女航海)』というタイトルも似つかわしい。
もちろん、演奏そのものもタイトルに負けていません。



ここで一旦、中締め。
続きます。


コメント

よく覚えてますね。 (^o^)
僕はすっかり忘れちゃってました。

確かにそういうような話、しましたよね。
僕もそれ以上は思い出せませんけど。 (^_^;)

・アキラさん

ええ、なぜかそういうことはよく憶えています。
「そういうこと」がどういうことなのかは、よくわかりませんが(^_^;)

何気ない会話でしたけどね。
そのときは。
ところが、そんななかに自分もでも気がつかないうちに引っかかっているところがあったりする。
おもしろいですね(^o^)

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