愚慫空論

映像と音楽の調和

ちょっとした戯れを (^o^)


僕は音楽が好きです。
好きというより、囚われていると言った方がいい。

これは「好き」の強調表現というより、主観的事実です。
いつもアタマの中には某かの音楽が鳴っています。

たとえば、目が覚めると音楽が鳴っている。
どんな音楽が鳴っているかで、自分の気分を測っているくらいです。


こうした現象は、ぼくが音楽が好きだからそうなっていると解釈していましたが、最近、ようやく気がついてきたのは、むしろそれは逆だということです。
どうやら視覚と聴覚の回路が一部混線している。
脳内回線のエラーから生じている現象らしい。

だから視覚に某かの入力があると、聴覚の方にも入力が伝わっていく。
その逆もありで、聴覚への入力は視覚に影響する。
音楽を聴いていると色彩が感じられる。

共感覚というやつでしょう、おそらくは。

この脳内配線のエラーは、ぼくにとってはとても幸運なことだと思います。
常に「調和」がある。
視覚と聴覚の調和。
映像と音楽の調和。

ぼくが音楽好きなのは、その結果です。
ぼく自身の感覚が生み出す調和が音楽好きというシニフィアンとなって認識されている。
音楽が好きというのは、ぼくにとっては自愛そのものです。





先の記事で紹介した映像と音楽を、もう一度取り上げます。
〈いのち〉の戯れとパッヘルベルのカノン。

この動画から入力されるであろう視覚と聴覚に調和を感じるのは、ぼくだけの特異感覚ではないと思います。


ここからは戯れです。
パソコンのタブブラウザの機能を利用します。
動画の音声を入れ替えてみる。

アクティブなタブにはパッヘルベル・カノンの動画を映し出し、音声をミュートにする。
そして、バックグラウンドのタブで別の音楽を再生してみる。


パッヘルベル・カノンの動画の映像は、これ自体でひとつの調和を為しています。
というより、こういった風景に調和を感じるように、ぼくたちはできている。
完成した調和です。

完成したといっても、閉じているわけではない。
開かれた調和、つまりは〈調和〉です。

音楽作品もまた、それぞれに「調和」です。
ただし、人為のもの。
ゆえに、デフォルトで「調和」が感じられるわけではない。
完成しても開いている〈調和〉もあれば、
完成されたがゆえに閉じてしまう【調和】もある。

もっと、あらゆる方向に開いた〈調和〉も、すべてに閉じた【調和】も、
言葉にするとカンタンに想像はできてしまうものの、
実際にはなかなか存在するものではない。
実際に存在するのは、「調和」同士の相性といったものでしょう。

ここでは、〈いのちの戯れ〉の映像を軸に、音楽を取り替えてみます。


まずは、ヨハン・セバスチャン・バッハの『平均律』。
マウリツィオ・ポリーニの演奏で。



こちらの〈調和〉もパッヘルベルの『カノン』同様、映像の〈調和〉と調和します。
面白いのは、曲ごとに調和の焦点が微妙に変わっていくこと。
『平均律』はプレリュードとフーガがそれぞれ12曲、全24曲の作品で構成されています。

各々の調和のひとつひとつを言語化するのはとても興味深い試みですが、この課題は今のぼくにはまだ無理です。
こういった微妙さを腑分けして行くには、身体感覚をもっと追い詰めていかないと果たせないだろうと思います。
ただそれは、ぼくが今、追いかけているものとは方向性が異なる。



ベートーヴェンの交響曲第6番。“田園”というサブタイトルがついているやつ。
これもまた〈調和〉と調和します。
『カノン』や『平均律』よりずっと調和の焦点が近いように感じられて、面白い。
近すぎて、ややフォーカスがぼやけた感がなきにしもあらず。



次は同じくベートーヴェンの交響曲第5番。“運命”です。
こちらではまったくもって〈調和〉は破綻してしまいます。
人間的な「ドラマ」は、どうやら〈調和〉とは相性が悪いようです。



趣きはうって変わって、ボブ・マーリーです。
〈調和〉との距離感は“田園”に似ている感じがします。
いえ、『田園』よりも近いかもしれない。
近いけれども、フォーカスがぼやけた感がない。

『Could you be loved』では、もはや「わがこと」に感じると言っていいのかもしれない。
〈調和〉を「わがこと」として享受している感じ。

『田園』にも「わがこと」感はあります。
だけど、「ドラマ」が混じり込んでいる。
それでフォーカスを鈍くさせる原因なのかもしれません。



グリーン・デイ、『American idot』
これまた『運命』同様の「ドラマ」です。
ここまでくると、破綻は破綻で、それはそれとして【調和】になっているように感じられてしまいます。



同じグリーン・デイの、同じアルバムの『September Ends』。
不思議なことに、これだと調和が感じられます。
色合いは違うけれど、ボブ・マーリー同様の「わがこと」感がある。
マーリーのそれを陽性とするならば、こちらは陰性。
愉悦のマーリーと癒やしのグリーン・デイ。


こうやって観ていくと、映像と音を組み合わせて味わうのは、食事を味わうのに似ていると気がつきます。
料理と酒の組み合わせ。
料理も酒も、それぞれに〈調和〉があり、相性があるのと同じ。
ただ、「近い」「遠い」という感触とは異なります。
それらはすべて「わがこと」の範疇。
おそらく味覚・嗅覚が、視覚・聴覚よりもずっと近いからでしょう。





クラシック音楽に立ち戻って、モーツァルトです。
モーツァルトが調和するのは、まあ、当然といったところ。
どこで読んだのかは失念しましたが、また、これも誰だかは忘れたのですが、とある映画監督が、モーツァルトほど映像との組み合わせで相手を選ばない音楽はないと言っていたそう。
モーツァルトが合わないのはただ一つ、戦争のシーン。

曲は『ディベルティメント K.136』。
モーツァルト16歳の頃の作だとされています。
調和の焦点の感触は、ぼくにはボブ・マーリーのそれに極めて似ていると感じます。
「わがこと」としての愉悦。

『ディベルティメント K.136』もボブ・マーリーもそうですが、愉悦だけれど、キチッとした“スジ”とでもいうべきものがあります。
楽しいだけ、ではない。
きちんと型があって、型を守ることと楽しんでいることの間にいささかもズレがない。
そのことが、得てしてだらしない感じに堕ちてしまう愉悦感を引き締めて際立たせています。

してみれば、ボブ・マーリーもモーツァルト同様に、映像との相性は抜群に広いかもしれません。


さて、真打ち。ブルックナーです。
チョイスは交響曲第7番から第2楽章。



ブルックナーはとても振幅が大きな音楽です。
音楽のどこをとっても〈調和〉の映像との調和がある。

冒頭からの第一主題の提示あたりは、調和の焦点がとても遠い。
疎外感があるくらい。
なので、調和があるといってもピンとこない者の方が多いかもしれない。
それが第二主題へと移ると(5分30秒あたりから)、ぐっと焦点はぐっと近くなる。

振幅が大きいというのは、クラシック音楽の特徴です。
ポップスなどは音楽が短いこともあって、焦点が揺れることはほとんどありません。
焦点がズレるときには曲が変わります。
『平均律』もこのやり方です。
ポップスのアーティストたちは、「アルバム」という形式で複数の〈調和〉を提示して、各々の〈調和〉が調和になるように工夫をします。
料理に例えるなら、コース料理。
その点でいうと、クラシック音楽は作品一つひとつがコース料理なんだけど、同時に焦点の遷移を体感させてくれるものでもある。
ポップスの「アルバム」が写真集ならば、クラシックの大曲は映画。

第二主題の感触は『September Ends』のそれに似ています。
優しい癒やしの感触。
それも、大きくて、包摂感がある。

やがて第一主題が回帰してきます(8分50秒あたりから)。
同じテーマなのに、ここにはもう遠さはない。
いえ、あるんだけれど、それが実は「奥行」であることに気がつかされます。
近さがあって、同時に遠さもある。
焦点は焦点ではなくなって、立体感になる。

焦点があるということは、輪郭があるということです。
〈調和〉と〈調和〉とが上手く調和しないために輪郭がぼやけてしまうということはあります。
『田園』のぼやけ方がこれです。

ブルックナーはそうではない。
第一主題における映像の〈調和〉との調和(1)
第二主題における〈調和〉との調和(2)
調和(1)と調和(2)が、もう一段、調和する。
こうなると、聴き手は調和の輪郭を保っておくことができません。

調和を感じる。
調和に輪郭を観る、あるいは聴くということは、その輪郭を感じている〈わたし〉と対になっているということです。
輪郭がぼやけるということが起きるのは、輪郭を感じるふたつの〔私〕、
 感じる〈わたし〉
 考える【ワタシ】
とがバッティングしてしまうから。
【ワタシ】は〈わたし〉を、基本的には隠蔽するものだから。

〈わたし〉は〈調和〉と
【ワタシ】は「ドラマ」とそれぞれ調和する。

ブルックナーを聴く者が連れて行かれるのは、〈わたし〉の向こう側です。
〈わたし〉が〔私〕でなくなることの幸福感がそこにはあります。


ブルックナーというのは、そういう人だったのだと思います。
考える【ワタシ】がなかった、あるいは極めて希薄だった人。
〈調和〉と調和する〈わたし:〉を表現することに一生を捧げたような人。
社会適応という観点でいえば、障害者。
すずさんのお仲間です。


さてさて、自分でも何を言っているのかわからなくなってきましたwww

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