愚慫空論

身体的価値と言語的価値 (前編)

思索をしていると、ふと「自身の言葉」が湧き上がってくることがあります。

 有朋自遠方來 不亦樂乎


〈からだ〉と【アタマ】
身体現象世界秩序と言語現象世界秩序。

言語現象世界秩序とは〔虚構〕のことです。
身体現象世界秩序は〔自然〕になります。



ぼくたちサピエンスは言語現象世界秩序に生きる〔人間〕である以前に、身体現象世界秩序のなかで生きる〔ヒト〕です。

もちろん〔人間〕や〔ヒト〕といったシニフィエは虚構です。
言葉によって仮構されたものにすぎない。
現実には〔人間〕も〔ヒト〕も同一の存在。
同一の存在の異なった側面を言語作用によって切り出しているに過ぎません。


言葉の効用は「切り出し」だけではありません。
切り出した側面に焦点を当て、拡張する効用がある。
焦点が当てられなかった側面を隠蔽する効用がある。
さらには、拡張された側面を他者と共有することができる機能もある。

言語はこれらの機能の複合作用によって秩序を形成します。
すなわち言語現象世界秩序です。



言語によって焦点を当てられることがなかった側面は隠蔽され抑圧されます。
言語誕生以前に所属していた世界秩序、そこから離脱してしまうと生命を維持することができない秩序、すなわち身体現象世界秩序は、そうして抑圧阻害されてしまうことになる。


全体の中の一部分が拡張されて他の部分が抑圧されてしまうという現象自体は珍しいものではありません。
この現象は、進化論の術語で言えば“淘汰”です。
淘汰は自然現象としても人為的にも起きる。
自然であれ人為であれ、淘汰は一部の拡張と一部の抑圧という現象になります。

淘汰によって全体が破綻してしまうこともありえます。




価値(かち)とは、或るものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質、あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。

殆どの場合、物事の持つ、目的の実現に役に立つ性質、もしくは重要な性質や程度を指す。何に価値があり、何には価値がない、とするひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う。



以上の記述からも価値には大きく二種類あることが読み取れます。

 ・人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質
 ・社会の存続にとってプラスの普遍性

前者を身体的価値、後者を言語的価値と呼びたいと思います――
「自身の言葉」としてぼくに湧き上がってきたのは、ただそれだけのことです。
湧き出してくるシニフィアンとしては。

そうしたシニフィアンは諸々のシニフィエを引き連れて浮かび上がってきます。
そのままでは浮かびかがってこない「諸々」を言語化する作業。
これが思索というものです。



サピエンスは〔ヒト〕と〔人間〕の両面を持ちます。
〔ヒト〕が〔人間〕に優先するのが自然の機序ですが、【人間】は〔ヒト〕を阻害してしまう。
言語的価値を身体的価値よりも上位に置いてしまう。
反自然です。


なぜこのような現象が生じるのか。
原因は経済にあります。

サピエンスは、生来的に社会的な生物です。
群れを作ることで種の保存を図る生き物。
デフォルトで150ほどの個体数で構成される社会を生成する能力を持つ。

つまりサピエンスは、個々の生存のために必要な情報処理能力に加えて、構成数150の社会を維持するのに必要な情報処理能力も備えている。
と、同時に、それがサピエンスの情報処理能力、すなわち〈からだ〉の限界です。
〈からだ〉の限界内で自生的に構成されるのが身体現象世界秩序。
〔ヒト〕の生来的欲求を満たすことで必要にして十分に構成される世界秩序です。

ところがサピエンスは、なんらかの事情によって構成数がデフォルトを大きく上回る〔社会〕を運営し始めた。
それを可能ならしめたのが認知革命です。

認知革命によって、言語は無限の再帰構造を獲得した。
ゆえに言語は無限大の構造を構築しうるようになった。
そうした言語に依存することによって、デフォルトの構成数よりも大きな〔社会〕が運営可能になった。
言語現象世界秩序に従うことにより〔社会〕をするようになった。

言語現象世界秩序に従うことで〔社会〕はアップデートされました。
認知革命は〔社会〕をアップデートした。
ところがサピエンスの情報処理能力が拡張したわけではない。
依然、構成数150の情報処理能力のまま。

処理能力が同じなのに、構成数が増えて処理すべき情報量が増大する。
対処法は処理すべき情報を圧縮するしかありません。
これが一般にいうところの「秩序」です。
この圧縮された「秩序」こそが言語的価値です。
真・善・美です。

言語的秩序に沿って圧縮されることで生成した秩序は、当然のことながら身体的価値とは相容れないものになる。
ゆえに、〔社会〕は〔ヒト〕を阻害する【社会】へと変質する。



ニューロティピカルとエイティピカルの分離もまた、認知革命によって生じたと考えられます。
言語現象世界秩序維持を得意とする個体、ニューロティピカル。
身体現象世界秩序維持を得意とする個体、エイティピカル。

言語の皮肉というか、デタラメなところは、言語の印象と実際の効用が逆になってしまうことがしばしば生じることです。

ニューロティピカルは〔社会〕全体に関心を寄せるように上記の記述からは想定されるが、実はそうではない。
彼らは常に、潜在的に、自身の社会的ポジションに関心がある。

エイティピカルは自己に関心があるように想像されるが実はそうではない。
彼らは常に、潜在的に、社会全体の維持に関心がある。

これはサピエンスが生来的に社会的であると性質から生じる言語的矛盾です。
生来的に社会的であるがゆえ、自己のポジションに関心を持つことで自生的に〔社会〕は維持される。
生来的に社会的であるがゆえ、自己に関心を持つことがそのまま社会全体への関心になる。

ニューロティピカルとエイティピカルという現象もまた、サピエンスという種の自然適応であり淘汰です。
現代社会はそうした淘汰がさらに進み、自己免疫疾患というべき症状にまで進んでしまっています。

 


『サピエンス全史(原題 Sapiens: A Brief History of Humankind)』は、自己免疫疾患に至るまで拡張されてしまった言語的世界秩序の発展を記述したものです。



続編である『Homo Deus : Sapiens: A Brief History of Tomorrow 』は、身体現象世界秩序が完全に言語現象世界秩序に組み伏せられた〔社会〕を想像する本です。

確かにその可能性は高いように思えます。
社会の進化、言換えればサピエンス自身のサピエンスの淘汰がこのまま進めば『Homo Deus』のようになると考えるのは道理に適っている。
それがもはや「Humankind」ではなく「Deus」であるというのも達観です。

でも、ぼくはそちらの側に立ちません。
どのような「Deus」に“進化”したとしても、何らの悦びを見出すことができないから。

ぼくにとって価値があるのは、言語現象世界秩序よりも身体現象世界秩序です。
身体現象世界秩序を自生的に構成する身体的価値が満たされたときの悦びこそが、すべてにまさる。

身体的価値が満たされたときの悦びとは、単純にいえば「しあわせ」です。



中編に続きます。

コメント

TB頂きましたので、こちらに^^
ここまでの続きで特に追記の思索はありません。

ただ少し感じているのは、、ヒトはデフォで表現するのが好きなのだろうと思いました。とくに前のエントリーのカノン(音)と光景(絵)は、いつしかじっと見て意識は棚上げされていました。

音でも絵でも、そして言葉でも「身体」の裡から滲み出る「何か」を自意識を越えてなんとか表出させる。それが「生」かもしれないとさえ感じています。
ただ、それは評価の対象:つまりシステムにのっとった流行、風潮、【他者】の目・感性(経済)を「気にした」ものではないのでしょう。(このあたりがNTの弱点であることは重々自覚していますが、嗤、、)

さらには、もう「オリジナル」「自身の」という言葉を充ててしまっても浅はかにさえ感じてしまうほどのものなのかもしれません。

そうして表出されたものに他者の裡なるものが反応するということ、その感覚は〈ヒト〉に通底するものであると、、、、ワタシは信じます。つまりそうして表出されたものによって【人間】は〈ヒト〉を取り戻す「きっかけ」になる。

・毒多さん

ヒトに限らず、生命は表現あるいは表出が大好きです。
これはぼくが動物たちから教えてもらったこと。
教えてもらって、ずっと前から識っていたことに気づかされたこと。
ゆえにこそ、無力感を感じずにはいられなかったということ。

またそれは、毒多さんの写真を観ていつも思うことでもある。
写真を撮影している毒多さんは、HNとは裏腹に【毒】が感じられません。


〈いのち〉の表出は、そのまま〈生きる〉ことです。
それが、どうしても社会的な〔ヒト〕の場合には「仕事」という形式を取ります。
生き延びるために、生き生きと取り組む〈仕事〉。
共同体(社会)を営むために取り組む〉仕事〉。

一方で、【システム】に組み敷かれることになる【稼ぎ】もある。


思い出すのは、畑が趣味と言ったお婆さんのことです。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-44.html
『〈作法〉という知の形』というタイトルで文章にしましたが、ここに書いてあることはNT的だと思います。内山節さんを下敷きにしたものでしたが、そう、内山さんもまたNTなんだろうと思います。だから、思索がどうしても共同体的になる。

>ただ、それは評価の対象:

いえ、ぼくは必ずしもそうは思わないんです。
逆に評価の対象であるべきだと思っています。そうでないと、良くも悪くも〔社会〕は成り立たない。誰からも評価を受けないモノ(者、物)は淘汰されていっても仕方がない。淘汰を排除すると、円環ではなくなってしまいます。

ただし、その「評価」は〈評価〉でなければならない。【システム】の基準に沿う「正しい」ものであってはいけない。たった一人でも評価しさえすれば、生き残っていくことができるような〈システム〉でなければならない。そんな〈システム〉であるならば、誰一人として評価しないようなものは、本当に有害なもの以外はないと思うんです。


>表出されたものに他者の裡なるものが反応する

この反応主体をぼくは〈からだ〉と言います。
「不忍人之心(人に忍びざるの心)」「惻隠之心」が発動する主体です。
〈システム〉は、「不忍人之心」が自在に(自由にではなく)発露することを育む舞台でなければならない。
【正しさ】によって「不忍人之心」を阻害するのは【システム】とは逆です。

そのようにイメージを進めていけば、思い至るのは「活元運動としての経済活動」です。
経済活動をすることがそのまま「活元運動」となるような〈システム〉です。
後半はその話をしたいと思います。
これはすでに幾度となく語っていることではあるのですかれど。

(「活元運動」というシニフィアンはアナロジーとして用いています。念のため。)

自分のHNのことはあらためて考えました。
ワタシがはじめて「アイデンティティ」をもったのは青カン支援の終盤からです。少なくとも【システム】(の一部)を直接糾弾するという「アイデンティティ」でネット上の表出でも同じ流れでした、そうした「カウンターテキスト」は【テキスト】と成りやすい。なんとなくそのことは感じ取っていて、自ら「毒」としたのでしょう。
「アイデンティティ」を基に護るも責めるも毒を感じてしまいます。
(正直にいえば、愚慫さんがワタシの最新のエントリーに最初に寄せた「詩」にも毒っぽさは感じましたよ、、、なんだろう?笑)

>評価
アンチNTであるNT特有の受け止め方かもしれませんが、「評価」という言葉をもとより【評価】というふうに受け取ってしまいます。「社会」ときくと反射的に【社会】と身構える心性に似ているかもしれません。
評価(言葉)ではない、と考えるのは、通底する感性は「なんともいえなく(よい)感じ」というようなイメージです。
写真でいえば、構図も背景も何も意識してなかったのに、気になったヤツにレンズをむけてシャッターをきったら、こんな写真とれちゃった、あらためて見てみると、自分でも解らないけどなんだかいいな。noteなんかに上げてみると割に受けているなぁ、なんでもない写真なのに。。といったときにちょっと「評価」とは別の次元の「受けている」といった感じのことです。

期せずして、このコメントでも自白していますが、「社会」という【社会】、「金(経済)」という【金(経済)】と脊髄反射的に感じる、ワタシ自身の歪みは自覚しておきます。

・毒多さん

「詩」に毒が感じられた理由を推論してみましょう。
あくまで推論ですからね。

パターン1:発信者に毒があって、受信者がそれを感得する。
パターン2:毒が存在するのは受信者のほうで、発信者からのメッセージでそれが励起された。
パターン3:発信者にも受信者にも毒があり、発信者の毒に受信者が感応した。

論理的に考えられるパターンは以上の3つでしょうが、パターン1は有り得ないと思っています。

理由。毒を受信するレセプターが毒だから。
毒のない者は毒をぶつけられても毒を感じない。
逆に、毒のある者がメッセージを毒だと解釈することはある。大いにある。

では、ぼくの詩がどちらだったか?
パターン2か3か。

ぼくはパターン3だろうと思います。
ぼくになんの毒もないとは思わないから。

でも、それが「正解」というわけでもないと思う。
毒多さんは毒多さんで、別の正解を出してもいい。

別々に正解をだして、それらが一致しなくても、なんら差し障りはありませんからね。
このくらいの話になると、一致を求め、正しさを求めることのほうがずっと差し障りがあると思います。

実は今「鹿の王」を読んでいます。最後の最後のクライマックスで、もうすぐ読み終わります(読み終わりたくないという気持ちで一杯、笑)。
すごい小説ですね。驚異的な小説です。上橋菜穂子恐るべし、です。
まあ、ことごとく「ワタシの」ここのところの思索に充てはめることができる、から「すごい」と感じるのであって万人が同じ読み方をしているとは思っていませんが、、、、、

こないだうちの「装甲板・拘束具」を乗り越えて(打ち破る)は、小説のなかでは「裏返る」ですし、それそ「身体」と「魂」としたところもひかれます。「裏返る」と「乗っ取られる」なんてゾクゾクしませんかwww?

で、読書中ということもあり、ここでの「毒」は即座に「病」に充ててしまいました。
まだまだ思索には至っていませんが、、、
「病」を発症して身体が侵されるのは、、、、まあ普通としても
「病」と共存して発症しない、、とか、
「病」は自ら拡散したがっている、、、とか、、
「病」が要因で「裏返る」、、、とか、、、

鹿の王のなかの「病」は「自然」のものであり、身体という自然との因果だと思うのですが、「毒」とするとまた違ってくる。「毒」も「病」と同じような症状がでるとして、「病」は自然のもの、「毒」は「社会」のもの、、、と考えるとすごいことになる。「社会」のなかで生活するものはみな「毒」が内在している、というのがワタシの見立てです。とすると、「毒」が「毒」として作用しない、「毒」と共存しているということはどいういうことか、「毒」が吐き出されるということは、「毒」が自ら拡散されていく、、「毒」が要因で「裏返る」、、とは、、妄想、、、あいや思索は尽きません^^

・毒多さんへ

>「社会」のなかで生活するものはみな「毒」が内在している、というのがワタシの見立てです。とすると、「毒」が「毒」として作用しない、「毒」と共存しているということはどいういうことか、「毒」が吐き出されるということは・・・・


これはいい観点ですね。
具体的に考えていくと、何がしかの果実が得られそうです。

ちなみに僕も『鹿の王』を最近 読了しましたが、上橋作品の中で一番好きなのは『獣の奏者』です。 (^^)

・毒多さん

そうとうにのめり込まれたようで (^o^)

ウィルスのようなものが引き起こす〔病〕と〔毒〕とは、相似形だと思っています。

『鹿の王』にも、当然のことだけれど科学的知見が取り入れられています。
ホッサルが科学の担い手。
科学と対を為すのが宗教です。

「病」への科学の対処法、宗教の対処法、それぞれに一長一短があります。
科学のそれは原因を見極めることから始まる。
宗教のそれは、ただ受け入れるから始まる。

科学とは「病之為病之」となす態度です。「知之為知之、不知為不知」です。
一方で宗教には「不知」は存在しない。

>「社会」のなかで生活するものはみな「毒」が内在している

この態度は科学的です。
「病」と「毒」とがアナロジーとして見えるのは、科学的な見地に立つから。

現代の科学にはエビデンスが必須ですから、「見地に立つ」だけでは不十分で、そこから仮説を立て検証していく必要がありますが。それにしても「見地に立つ」ことからでなければ始まらない。

『鹿の王』というのは、そういう小説だと思います。
「科学的見地に立つ」ことから始まっている。
それがエビデンスを立証するという方向ではなく、ファンタジーを織りなすという方向へと進んだ。


私たち〔ヒト〕は、〔病〕とも〔毒〕とも共存して生きています。
現に生きている。
そうやって生きることができるのは、自然治癒力があるからです。

〔病〕や〔毒〕は、ただちに【病】であり【毒】であるわけではない。
それが〔ヒト〕のもつ自然治癒力の範囲であれば【 】にはならない。
むしろ自然治癒能力を高める場合もあって、だとすればそれらは〈病〉であり〈毒〉です。
〔病〕や〔毒〕と共存するとは、それらを〈病〉であり〈毒〉だとするということです。

『鹿の王』では、「病」が「敵」という比喩でも語られます。
 「敵」という概念から「王」が導き出されている。

「病」との比喩で語るなら「王」とは抗体です。
〔ヒト〕のなかでもっとも治癒力(生命力)が高く、ゆえに巨大な敵にも立ち向かえるだけの才を備えている。抗体の活力は免疫力の活力、すなわち自然治癒力の活力です。その象徴が「王」というシニフィアンに結実している。


抗体がその能力を発揮するには、まず、「敵」を見定める必要があります。
敵を敵だと見定めようとする態度が「知之為知之、不知為不知」です。
そこから治癒が始まる。
〔病〕や〔毒〕との共存も、そこからです。


風土病というものがあります。
たとえば、かつての日本では脚気は国民病でした。日本という風土の風土病でした。

現代では脚気という症状が出ることは稀です。
科学的に原因が突き止められ、対処されるようになったからです。
では、脚気はなくなったのかというとそうでない。
自然治癒力の範囲内に収まったということです。

科学的に対処される以前は、宗教的にしか対処はできなかった。
〔病〕を見定めることができなかったから。
そればかりではなく、その〔病〕は食生活に依存していた。
つまり脚気は、「システマチックな病」であったわけです。

「システマチック」という意味において、社会も自然も相似形です。
だとすれば、脚気とのアナロジーで資本主義も語ることができる。
飛躍しているように思うでしょうけれど、「語る」ことはできます。

食生活と経済活動はアナロジーで語ることができます。
そのアナロジーは、自然と社会との対比に援用できる。
〔病〕と〔毒〕。
脚気という〔病〕が生むのが食生活であるように、ハラスメントという〔毒〕を生むのは経済活動です。それはおそらく〔人間〕が一部植物に隷属することから発生し、帝国、宗教、貨幣といった虚構が構成する〔システム〕に隷属するようになることでさらに病状が進んだ。〔毒〕が【毒】になってしまった。

でも、だからといって〔システム〕から離れては生きることができない。
故に原因を見定めることに怯える。科学的見地に立つことができない。
単に〔システム〕でしかない資本主義を宗教的なものとして取り扱う。
まったくその自覚なしに。

〔毒〕との共存なんて、本来は難しい話ではないと思っています。
なんとなれば、所詮は〔ヒト〕が吐き出すものだからです。
それに〔ヒト〕が対処できないはずがない。
対処できるだけの自然治癒力が備わっていないわけがない。
もし、そういうふうにできていなかったとしたなら、とうに人類なんて滅んでいるはずです。

システマチックに自然治癒力を阻害している。
文明はシステマチックに自然治癒力を阻害する。
だから文明から離れれば、〔毒〕は生まれても、それはむしろ〈毒〉になる。
〔毒〕を【毒】にするのは文明であり【システム】です。

『鹿の王』には、そういうありさまも、著者が意識的だったかどうかはわかりませんが、描写されていますよね。

おはようございます。
さきほど読了しました。

アキラさん

「鹿の王」を読みながら幾度か「風邪の効用」が浮かんできました。
ワタシはブログ等での紹介での「風邪の効用」の触りしか知りませんが、そうしたことも深めているアキラさんは「鹿の王」もワタシとは違う読み方をしているのだろう、と想像しました。

>具体的に考えていくと、何がしかの果実が得られそうです。

これです。今のワタシが目指しているのは。
これまでの経験、特に思索がリアル(具体的)とリンクしていこうとしているなかで、果実は得られると望んでいます。

「獣の奏者」ですね。読んでみたいと思います^^

愚慫さん

いつもながら思索の助けありがとうございます。
まだもう少し自らの言葉で組み立てないと吾のものとしてオチませんが。

上橋氏が「病」の本質を提示したことが、「毒」に置き換えられて思索されることを想像したかどうか解りませんが、「病」:「毒」 「自然」:「社会」と提示するだけで、上橋氏はピンとくるとワタシは買いかぶっています、笑。
そして「病の本質」をファンタジーとして「表出」させ、多くに読まれている。これはすごいことだと敬意をもっています。

現実の「病」は「医師」と呼ばれる人々が対峙している。ホッサルのように思索を深めているかどうかは別として。
さて「毒」について現実に対峙している人は誰でしょう? 宗教者は愚慫さんがコメで書かれているように、ワタシが言う「毒」と対峙とは違うと直感します。そして(皆がそうだとは言わないうえに、批判は覚悟で)「病」に対して安直に対処療法できる医者とちがって、「毒」に対処療法はなく根源から思索しなければなりません。
現実社会のなかで「毒」に対峙する役割の人を目指す、というのは「アリ」だな、とコメントを読みながら果てしのないことを思っています。

「鹿の王」で最後のほうに出会った「言葉」を忘備録として書き出しておきます(って、他者の庭に書いてどうするんだwww)

(…病は)
この上なく魅力的なのだ。恐ろしいが、たまらなく心惹かれる。
この世の裏側に隠れているー闇の底に隠れているー生き物の真実が、病という現象の中に、鬼火のようにチラチラと光って見えるからだ。(鹿の王、4巻p282より)

あとに続くワンセンテンスは書かずに置きますが、当然「病」を「毒」に置き換えて読んでいましたwww

・毒多さん

【毒】に対する対症療法はあると思いますよ。
『コードギアス』がその答えでもあるんですが、要するに、バーチャルな世界で生きること。

あいや、そこで「生きて」しまうと対症療法ではなくなりますか。
けれど、【毒】を消費する効用があるとわかれば、「薬」のように用いることも可能でしょう。


>「毒」について現実に対峙している人は誰でしょう? 

現実に、そういう者はたくさんいます。
最右翼が子どもです。

近々取り上げてみようと思っているのですが、
『子は親を救うために「心の病」になる』という本があります。
タイトルだけで衝撃的でしょう?

でもね、よくよく考えてみると、この「衝撃」を受け止めるのはなかなか難しい。
ぼくは幸い(?)なことに子どもがいないからまだ受け止めやすいけれど、親にしてみれば、これがたとえ事実であったとしも、愚直に受け止めるのは難しかろうと思います。

 「そうは言ったって、親がいるから子が生きていけるんじゃないか!」

こんな【アイデンティティ】の叫びが聞こえてきそうです。


>現実社会のなかで「毒」に対峙する役割の人を目指す

余計なお世話かもしれませんが、この季節、たとえば「ヤフー知恵袋」のような掲示板を覗いてみるといいかもしれません。

9月1日は子どもの自殺がいちばん多い日だと言われています。
そういったところには【毒】に冒された声がたくさん届いています。
【毒】に変質してしまった声もあれば、まだ【怨】でとどまっているものもある。

【毒】と対峙する。
もし各々の【毒】と個別に向き合おうとするならば、つまり「治療家」として対峙しようとするならば待っているのは絶望でしかないと思います。
どこをどうみたって多勢に無勢です。

ぼくは野口晴哉師はそういう「絶望」を経過した人だと思っているんです。
だから「治療家」ではなく「指導者」になった。
それでも、やはり多勢に無勢の大勢は変わらない。
【システム】は生易しいものではない。

でもね。〔病〕にはワクチンが有効なんです。
かつて天然痘は死の病でした。
日本では「もがさ」ですね。
対処法がなかったから。
「治療」は困難で「指導」しか手がなかった。
解決したのは技術です。

〔病〕と〔毒〕を同型と考えることができるなら、天然痘に対処したのとの「似たようなこと」ができるはずです。
何度も言いますが、技術的にはすでに人類はそれだけの技術水準に達していると思っています。
イノーベションが足りない。
イノベーションは技術革新ではありません。意識改革です。

意識改革を阻むのが【アイデンティティ】です。
子の「心の病」に親は気がつかない。親であるからこそ、気がつかない。
同じ【構造】が【システム】と【人間】の間にもある。

ここを暴くことがぼくの課題です。
それはぼくの私的な復讐でもある。
ぼくが親となることを阻んだ「なにものか」への、ね。

これはこれで〔毒〕の効用だと思います。

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