愚慫空論

ブルックナー その2 ~ むしろバロック

思索は本当に楽しいものです。

音楽と言葉。
シニフィエとシニフィアン。
霊性とは何か。

ここのところ、ずっとそんなようなことを思索しています。
考えるともなく考えている。

「音楽と言葉」やら「シニフィエとシニフィアン」やら「霊性」やらは、絵画です。
掛け軸のようなもの。
それらはぼくの心の部屋のなかに掲げられていて、常に眺めるともなく眺めている。
そんな部屋の中で、ぼくは本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たり、ぼくの身体の外で生起するリアルな現象を観察したりしています。



そんなふうに過ごしていたら、唐突に湧き上がってきた言葉がありました。

 ブルックナーは、むしろバロックだ

この言葉は、指揮者のオイゲン・ヨッフムのものだったと記憶しています。
ぼくがこの言葉を目にしたのは、中学生だったか、高校生だったか。
現在は廃刊になってしまったようですが、『レコード芸術』なる音楽之友社の雑誌がありました。
企画でブルックナーの特集があって、ヨッフムのインタビュー記事があった。
そのなかで述べていた言葉だったと記憶しています。

何しろ30年以上前に読んだ記事なので、内容はほとんど忘れてしまっています。
だけど、なぜか、この言葉にだけは妙に引っかかるものがあった。
とはいえ、ずっと忘れていたんですけれども。

そんな言葉が、ある本を読んでいる最中に突如、湧き上がってきた。



(^o^)っ 有朋自遠方來 不亦樂乎


ちなみに、『空色勾玉』は再読です。
以前にも読んだのだけれど、ピンとこなくて、でも、引っかかっているところがあって、読み直していた。
そのひっかかりも、

 ブルックナーは、むしろバロック

で、一緒に解決しました。

『空色勾玉』はロマン派。
一方で、『鹿の王』『鼓笛の彼方』はバロック。

もちろん、ぼくの勝手な解釈ですが。


バロック音楽とは、こういうものです。



音楽がまだ純粋に音楽であった音楽。
「音学」ではない楽音の連なり。
言葉に隷属してしまう以前の音楽。

バロック音楽の時代、音楽は特権階級のものでした。
バロック音楽は、宮廷や教会で奏でられるものでした。
庶民の音楽は、庶民の音楽でまた別にあった。

宮廷や教会の音楽なのに、なぜか自然の風景と調和する。
音楽の調和も自然の調和も、どちらも出しゃばらない。
出しゃばらないもの同士だから、容易に結びつく。
宮廷の風景にも、教会の雰囲気にも結びつく。


もうじき木の葉は目のさめるような黄金色に変わるわ。
それはすばらしいけれど、葉が落ちたあとの冬木立も、また、おごそかで美しいの。
そして春がめぐってくれば、赤ん坊みたいにかわいい若葉がにぎやかに芽吹くのよ。
たとえば、この泉の水は澄んでいるでしょう?
こんなに清らかなのは、ここの水がたえず新しくわいて出て、いっときも淀んでいる暇がないからだわ。
豊葦原の美しさはそういうところにあるの。
生まれては亡びて、いつもいつも移り変わっていくところに。
どんなになごり惜しくても、とどめようと手を出してはならないのよ。
そうしたらその瞬間に、美しさも清さも、どこかへ失ってしまうから。




西洋の音楽はベートーヴェン以降、音楽において「とどめようと手を出す」ことを始めてしまいます。

ベートーヴェンが始めたというのは言いがかりかもしれません。
意識してそれを始めたのは、ベートーヴェン以降の人たちです。
でも、ベートーヴェンがいなければ、どうなっていたか。
それらの人たちは、ベートーヴェンに意識的に倣おうとして、それを始めたのだから。



それ以降クラシック音楽は、徐々に言葉に隷属するようになってきました。
言葉で出来上がった〔自我〕を表現するための手段に、音楽はなった。
もちろん、それが悪いことだと言いたいのではありません。
それはそれで素晴らしいこと。


ブルックナーは、リヒャルト・ワーグナーを師と仰いだ人でした。



ワーグナーは魔術師です。
言葉に隷属するようになった音楽をひっくり返して、言葉を音楽に隷属させてしまった。
言葉のように音楽を組み立ててしまった。
言葉の作用である「とどめおき」を、音楽の作用にもしていしまった。
音楽を「突出」させてしまった。

もっとも「突出」を始めたのはベートーヴェンだったんですけれどね。
こんな形で。



「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」

これはベートーヴェン自身の言葉だそうです。



「突出」とは、言換えれば「個性」です。
「自我」の表出です。
そして、「突出」同士が上手く組み合わさって、より効果的な表出となる場合がある。
たとえば、こんなの。



映画『地獄の黙示録』
戦闘ヘリの機銃掃射のシーンとワーグナーの『ワルキューレの騎行』
「突出」した「個性」同士が見事に組み合わさった有名な例です。

ついでになりますが、こちらも挙げておきましょうか。
これも有名な例です。



後者は前者のパロディです。
戦闘ヘリからという視点は同じ。
ただし、立場は逆転している。
それに合わせて選択される音楽も変わる
こちらは、バーバーの『弦楽のためのアダージョ』。

「とどめおき」という言葉の「個性」に沿うのは、後者の方がふさわしいかもしれません。


「個性」という「突出」が生まれると、「相性」というものが生まれる。
「相性」が生まれると「選択」が生まれる。
映画の映像と音楽は、「個性の調和」です。


もう一度、『パッヘルベルのカノン』です。
こちらは「調和同士の調和」



映像も音楽も、どちらも BackGround 。




ブルックナーは、ワーグナーの「突出」しようとする音楽を学ぼうとした。
ところが、ブルックナーの音楽は決して「突出」しません。
「突出」しようとして、あと一歩というところで立ち止まる。
「突出」しないことが表出になる。

「突出しようとして突出しない表出」に引っ張られて表出してしまうのは聴き手。
聴き手の身体がたまらず「突出」してしまいます。






別々の体験であるにも関わらず、ブルックナーの音楽と強く結びついている思い出があります。
身体の作動が似ているんです。

ぼくは高校生の時には山岳部という部活動に所属していました。
部活動は、夏休みに特別な活動をするのが常です。
山岳部の場合は夏山合宿という形式になる。
高校一年生の夏山合宿は、三泊四日の南アルプスの北部縦走というプログラムでした。

2泊目は農鳥小屋のキャンプ地でした。
まだ暗いうちに起床して、朝食を摂る。
明るくなったころには次にサイト地に向けて出発します。


出発直前に眺めた風景が、上のような風景でした。

場所は三千メートル級の稜線です。
雲海が眼下に広がっています。
朝陽がいままさに上ろうとしていて、雲海から突出している富士山を照らしている。
晴天ではあったけれど、風は強かった。
高山ですから気温は低い。10℃あるかないか。寒風です。

寒さに震えながら、目の前の光景の呑まれている。
同様の体験は、それ以降、幾度も経験しましたが、最初の体験は高校一年生の時。
やはり最初の体験の記憶は強いものです。

ブルックナーの音楽には、同様の効用があります。
開放と緊張が同時にやってくる。

この効用は、単純に言葉にすると相矛盾します。
事実、身体はそうなる。
双方とも、幾度も経験しているから、間違いはない。
でも、言葉は矛盾します。


風景に呑まれて「開放」しようとする身体を寒風が「緊張」させる。
身体は「突出」したいのに、妨げられる。
でも、やっぱり「突出」しているんです。
身体の表層は「緊張」していても、深部は「開放」されている。
結果、「突出」は外にではなく裡に向いて表出されることになる。

ブルックナーにも同様の効用がある。
「突出」の一歩手前でとどまる音楽は、聴き手の「突出」を裡へ向ける。


そのように考えていくと、ブルックナーの風貌に違和感はなくなります。
いささかの「突出」も感じさせない風貌。


もっとも、実際の音において、すなわち演奏という再創造において、「突出」させるかどうかは演奏家の判断に拠ることになる。
「突出」させてしまう演奏もたくさんある。
というより、ベートーヴェン以降は「突出」こそが常識です。

それにもうひとつ、ブルックナーには面倒な問題があります。
ニューロティピカルのエイティピカル迫害に帰着させられうる問題です。





『その3』へと続きます。
『その1』はコチラ

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