愚慫空論

人情豊かな社会

一週間ほど前、玲奈姉さんから、懐かしいエントリーのTBをいただきました。「世界愛人主義宣言」

改めて拝読してみました。また、玲奈姉さんのエントリーで紹介されている華氏さんのエントリーも読み直してみました。

「愛に関するメモ――「愛国心」に興味はない」
「愛国心」お客さまのコメント・番外――愛「人」主義に乾杯

これらを読み直して、しばらく考え込んでしまいました。その結果が当エントリーですが、結果といっても途中経過でしかありません。

私は、家族や親戚や友人が、平和で穏やかな人生を歩むことができるように、社会がよりよくなる事は望んでいますね。特に、病気や障害を持ったような時にでも、ちゃんと希望を持って生きていける社会になることをね。


それと同じように、中国や北朝鮮や韓国やアメリカやイスラエルやヒズボラやイラクなど、世界中の人々、特に子どもたちが、衣食住に困らず、希望する教育を受けられ、他人に命を奪われる恐怖を受けることなく自分の道を追求できる社会になることを心より願っています。

・・・

これは、華氏さんのブログにコメントされ、それを村野瀬玲奈さんが引用したものを、さらにお借りしてきたLooperさんのお言葉です。私はこの言葉をリアルタイム(?)で読んだときには満腔の賛意を表したいと思いましたし、それは今でも変わりません。ただ、その賛意をそのまま、世界人権宣言と日本国憲法前文を模した「世界愛人主義宣言」にも表することが出来たかというと、そこにはかすかな隙間風を感じていました。今、私はその隙間風が少しばかり大きくなってしまったことを自分自身の中に確認せざるを得ません。


とはいえ、私は「世界愛人宣言」を発した人とそこに賛同する人たちの「善意」を疑っているわけではありません。その純粋さも疑っているわけではありません。「世界愛人宣言」な人たちの善意と純粋さへの信頼は、当時も今も揺るぎません。

では、どこに隙間風を感じていたのか? 
あの時にはうまく言葉に出来ませんでしたが、現在では「理念」と答えます。

「善意」を疑わないのに、そこから発せられた「理念」を疑うのか? 
そうです。「善意」から「理念」へ至る経緯、すなわちその「論理」を疑います。

「世界愛人宣言」は論理の組み立て方を誤っているというのか?

いいえ。「論理」の組み立て方云々ではなく、疑っているのは「論理」そのものです。
「論理」はその出発点の善意を「理念」に組み立てていく過程で多くのものを取りこぼしていきます。その結果、「理念」は“善意の片割れ”とでも言うべきものになってしまい、悪意がつけ込む隙間が出来てしまいます。失われた“片割れ”を補うのは、「論理」を受け取った人ひとりひとりの「共感」に頼るしかないのですが、「論理」はしばしば「共感」を強要し、かえって「共感」を阻害します。いわば欠けた「善意」の鋭い切片が「共感」を傷つけるのですが、善意の者はその「善意」の純粋さゆえにこれに気がつかないことが多々あるのです。また悪意の者には、欠けた「善意」の鋭い切片をことさらに取り上げて、これを「悪意」だと言い立てることもできてしまいます。

「善意」は、その出発点においてはホンモノであったとしても、「論理」を経て「理念」に至る過程の中で劣化し、ニセモノに変わって行ってしまいます。「理念」は偽物なんです。虚構。フィクション。


「世界愛人宣言」が謳う「理念」は、言葉としては出てきませんが「人権」と呼ばれるものでしょう。基本的人権。日本国憲法第11条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と定められている権利。

憲法という文字の羅列は、確かに「基本的人権」なるモノを私たちに与えてくれると記述しています。また、日本国憲法には「基本的人権」が与えられるのは“国民に”との限定付きですが、この「基本的人権」はある国の国民にのみ限定されているものではないということも、いまや常識というべきものの範疇に入っています。ですが一方で、その常識には、そうした記述がそのまま「基本的人権」を守ってくれるわけではないという現実についての認識も入っています。だから、国民の不断の努力によって保持しなければならない(12条)、ということにもなるわけです。

“国民の不断の努力によって保持しなければならない” 私が「基本的人権」なる理念に虚構性を感じてしまうのは、こうした記述からです。この記述が「善意」から発せられたものであることには疑いはもちません。ですが、“なければならない”という命令形になっているところがひっかかる。これは理念としては“なければならない”ものでなければなりませんが、実際のところ言えるのはせいぜい“保持するように努めましょう”というあたりまでのはず。それ以上の“なければならない”といった部分には、「善意の切片」を感じてしまうのです。


こんなこと感じるようになった大きなきっかけは、死刑を巡る議論でした。私の立場は死刑廃止ですが、死刑存続を主張する人たちの“被害者の人権はどうなるのだ!”という言葉に、戸惑いを感じたものでした。こうした死刑存続論者の言葉が「善意」から発せられることがよく理解できるからです。いえ、「共感」できるといったほうがいいでしょう。とはいえ、死刑存続論者が使う「人権」は、やはり「善意の切片」になってしまっています。その言葉を受け取る廃止論者はそのように捉えざるをえない。逆に、“加害者にも人権はあるんだ”という廃止論者の言葉も、存続論者には同様の「善意の切片」となってしまっていることでしょう。私は現在では、“人権という理念は社会の統治原理=虚構であり、社会の統治原理である以上、社会の構成員でないもの=死者には適用されない”という「論理」を用いることにしていますが、それにしたところで、やはり「善意の切片」であることになんら変わりはないでしょう。

同様のことは、「愛国心」という「理念」についてもいえることです。“愛国心は悪党の最後の砦”とも言うとおり、「愛国心」には悪党が付け入る隙があまりにも多い。けれど、「愛国心」が全て悪意から発するわけではありません。「愛国心」がやっかいなのは、大いなる「善意」から発することが多いのだけれど、あまりにも隙が多くて悪党に隠れ場所を提供してしまうから。そして「善意」が利用されてしまうから。そうした事実があるから。だが、どんな事実があろうとも、それをもって「善意」を否定することは出来ません。ゆえに「善意」から「愛国心」を語ることもまた否定できない。否定できないが、論じれば論じるるほど、「愛国心」に警戒を抱く人には「善意の切片」が突き刺さり、また「愛国心」を否定する人がいかに「善意」で論じようとも、その「善意」は「切片」になって相手に突き刺さっていく。私が見るところ、これはどうしようもない「論理」の宿命のようなもののようです。


「善意の切片」となってしまった「人権理念」を補うひとりひとりの「共感」。これを名づけて「人情」と呼ぶのでしょう。「世界愛人宣言」を発した村野瀬玲奈さんや、Looperさんをはじめ「世界愛人宣言」に賛同する多くの方々には、「人権理念」への理解と共に「人情」もあるのだと私は感じています。しかし同時に、ひとりひとりの「人権」よりも共同体としての国家への「愛国心」を唱える人にも「人情」を感じる。どちらの「人情」もホンモノのように私には感じられます。それは当然といえば当然のことで、「人権」であれ「愛国心」であれ、それらが「理念」となってしまう以前の「善意」の段階ではホンモノなのであり、ホンモノである以上そこに“善意の片割れ”である「人情」があって当たりまえ。「人情」なきホンモノなんてものが存在するはずがないのです。

「理念」でみれば、「人権」と「愛国心」は対立するものです。では「人権」を補う「人情」と「愛国心」を補う「人情」もまた対立するものなのか? おそらくは違うでしょう。「人情」と名づけられる一般的な情念としては、同じものといってもよい。「人情」もまた「理念」同様に「人情」同士で対立するものですが、その対立の仕方は「理念」のそれとは在り方が違う。「理念」は論拠が異なるから対立するのに対し、「人情」は個の存在異なるから対立する。そうした性質をもっているのです。そして、そうした「理念」と「人情」が絡むから、問題は複雑なものになっていってしまうのです。


「人権理念」はその論拠を個人ひとりひとりの存在に置きます。対して「愛国心」の対象たる国家の「理念」は、個人の集合体を単なる寄せ集めではなく何か同じものを共有した(それは歴史なのか、言語なのか、宗教なのか、いろいろとありますが)共同体とし、その存在を論拠にします。「人権」と「愛国心」が対立するのはその論拠が違うからであり、逆に言えば建設的な議論を通じて論拠の違いを解消できれば、「理念」としての対立も解消します。ですが、議論がなかなか建設的にいかないのは、ここに「人情」が絡むからです。

「人情」が対立する原因は、「人情」を発動する個人からの距離感です。とはいっても、「人情」それ自体が単独で対立することはありません。「人情」は何かと絡んだときにのみ対立することになります。そしてやっかいなことに「人情」は何にでも絡む。リアルな人間にでも想像上の人間にでも、もちろん死者にでも、また人間でなくても動物でも物にでも、さらには虚構である「理念」にでも絡んでしまいます。そして「理念」に「人情」が絡んだとき、議論は建設的に行かなくなってしまいます。「理念」それ自体は、時間にも空間にも束縛されない自由なもの(束縛されるとすれば知性の限界)ですが、「人情」は個からの距離感に束縛される。個を中心して、距離感の近いものにのみ「人情」は発動され「善意」となるが、「善意」の議論は上で述べたように「善意の切片」が互いを傷つけあってしまいます。かくして「人情」が建設的な「理念」についての議論を阻み、それが社会を統治する統一した「理念」の実現を阻む。さりとて「人情」なき「理念」についての議論は、それがいくら建設的であろうとも、机上の空論であるに過ぎない。そうしたジレンマに陥ってしまいます。


このジレンマを解消するにはどうしたらよいか? 即効薬はないでしょう。時間をかけて徐々に解消する方向に持っていくしかありません。では、その方向性は? 私が思うに「人情」が豊かに発動されて、尚且つ「人情」が絡んで対立する余計なものをなるべく少なくする方向性です。いかに物質的に豊かであろうと、また「人情」が絡むものが少ない社会であろうと、「人情」そのものを抑圧してしまうような社会で私は暮らしたくありません。

「人情」がリアルな人間や物と絡んだときの争いには、「理念」によって裁定をつける以外に方法はなく、またそうした争いは未来永劫避けられそうにありませんから、「理念」=フィクションが必要でなくなることはないでしょう。とはいえ、争いの元になる「理念」はなるべく整理したほうがよい。「理念」同士の争いは極めて大きなものになってしまいがちですから、できる限り少ないほうがよいでしょう。

そのためには「理念」のシステム設計が大切です。これ以上は長くなりすぎるので省きますが、「人情」が絡む「理念」は少ないほうが良いとはいっても、単一の「理念」に支配されてしまうと「人情」は抑圧されてしまう傾向にあるようです。貨幣という単一理念の下で構造改革を進めようとする新自由主義がその典型し、また、「人権」も国家理念の対置理念として機能するうちは良いのですが、単独で機能しだすとやはり「人情」の発動を弱めてしまう傾向があるように思えます。ですので、厳選された少数の「理念」をいくつか組み合わせ、互いに「理念」を牽制しあうような形(「三権分立」のような形)で社会を構築していくのが良いでしょう。「理念」が互いに牽制しあって人間の内面にまで侵入していくようなことが起きなければ、そもそも人間がもっている「人情」は豊かに発動されていくだろうと、私は考えています。

その程度には、人間という存在を信じたいのです。

コメント

はじめまして。

大変興味深く拝見いたしました。
実感として、愚樵さんの言わんとするところは、良くわかるような気がしました。
ある意味、人は人を心の中で、互いに抹殺しあいます。私も含めて、いとも簡単に他者の存在を心の中でかき消してしまうことができる。『おまえなんか要らない!消えてしまえ!』と。
他者に寄り添うのは、それほどに難しい…。
そんな殺し合いの世の中で、その恐ろしさと孤独に耐えられない人間たちが、『どうしたら互いに心を通わせられるだろうか』と苦悩する中で、豊かな人情ある社会は再生されていくのではないでしょうか。

なんともねぇ。

うえの方の華氏さんのリンクに行ってみると、なんと私がコメントしているんでビックリしちまいました。へぇこんなワタシがこんな
コメント残してたんだってね。ってのはどうでもいいのですが、「理念」ねぇ~。「人情」ねぇ~。難しいなぁ。いや何となくは解るんですよ、理念として昇華させることの危うさと二面性が。昇華しきった異なる理念は相容れないものね。いっそ理念はなしってことで真理だけを追求しちまえばいいのに、っていつも思うんだけど「非常識」で「非現実」って言われちまうし。難しいなぁ。
ほら、一程、理念の新しいあり方を見出した矢先の次のエントリーのコメント欄でしょ。難しいよなぁ。

条件によるんです

naokoさん、はじめまして。ようこそおいでくださいました。

>他者に寄り添うのは、それほどに難しい…。

はい。確かに“今の社会状況では”難しいのですが...、

人の心は揺れ動くものですよね。他人を消えてしまえ!と思うこともあれば、次の瞬間には、この人がいてくれてよかった、と思ったり。右に左に揺れ動くものなんですよね、人の心って。

ところでnaokoさん、心って誰のものだと思いますか? 私の心は私のもの、ですか? 私の心は私にしかわかりませんが、でも、私の思うとおりにならないのも私の心、ですよね。「人情」ってのは、ひょっとしたら、私の心は私だけのものじゃない、と思うことなのかも、なんて私(愚樵)は考えてたりするんです。

“朱に交われば赤くなる”なんて言いますが、周りが朱であるところにいて、心を青色に染めようったってうまくいくものではない。右に右に行こうとしているところで左に行こうとしても、なかなか上手く行かない。“みんななかよく”なんて思っていても、回りが争いだらけだったら、いつの間にか私の心も刺々しくなってしまう。人の心ってそんなものですよね。

私達が暮らしている現在の社会というのは、いつの間にか心が刺々しくなってしまうような社会なんです。だから他者に寄り添うのが大変なんです。私はそう思ってます。みんながなかよくしている場では、他者に寄り添うことはそんなに難しいことではない。私は、“そもそも人間にとっては他者に寄り添うことは困難なことだ”といったふうには考えていません。エントリー最後の一文、「その程度には、人間という存在を信じたいのです。」というのは、そういう意味です。

*****

dr.stoneflyさん、毎度です。

>うえの方の華氏さんのリンクに行ってみると、なんと私がコメントしているんでビックリしちまいました。

私もそうだったんです。コメントしたことは覚えていたのですが、こんなコメントをしていたのか、とビックリ。“思えば遠くへ来たもんだ~♪”なんて歌い出したくなったりして。

>いっそ理念はなしってことで真理だけを追求しちまえばいいのに

はい。そうなんです。私もよくそう思います。で、ひとりならそれも可能だし、さほど難しくもないかもしれないと思わなくもない。

でも、やっぱり、ひとりでは仕方がないんですよね。ひとりで真理を追究し何か成果を得たところで、じゃあ、そこで満足できるかというと、私自身、イエスとは言いがたい。やっぱり、誰かと共有したいんです。だから、うまく使いこなせない言葉と格闘して、こんなエントリーを書いてみたりする。上手く伝わらないだろうと思いつつも言葉を紡ぐんです。私は何をやってるんだろう、と思うことしばしばで、それが募ると失語症になったりするんですが(笑)。

共有かぁ

共有したいよねぇ、ほんと。できれば「真理」とか「普遍的な善」を共有したいのだけど、現実はなかなかねぇ。
共有するってことは人と人が繋がっていくってことで、繋がるためにあるのが、「社会」って虚構だったり「ジョーシキ」っていう虚構だったりして、「法律」って虚構だったりしてさ。
それぞれの「思い」が、これらの虚構のなかで「折り合えれば」いいのだけど、うまく行ってるとは言い難いしね。
愚樵さんの偉いとこは、その「難しい」をなんとか乗り越えるための思索をしているところですね。
ワタシはダメだ。すぐに諦めちまう。
繋がっていたいと本気で思って居るのなら諦めちゃダメなのにね。

善意は劣化しはしない

『そこに掛け値なしの善意が在る』という愚樵さんの言葉に同意します。そして、善意は多少傷ついたり、引っ込んだりはするかもしれませんが、けっして劣化しはしない。
恨みや欲望がからんでくると問題ですが、そのへんは自己消化・昇華されるでしょう。
理念の問題は深いけれど、内面での『気づき』があるかどうか、自分自身の真実を探求する意思にかかっている気がします。
愚樵さんのおっしゃるように、心は流転するものですが、わたしはソクラテスの信奉者なので、己のダイモンに気を使うことを忘れたくはありませんね。
同時に、愚樵さんがおっしゃるように、本質的にはこの国の人間の多くは、それほど愚かではない(もちろん邪悪でもない)と、ある意味信頼しております。
大切なことは、その人々の心を捉える、また共感を得られる理念の創造にある、と。

ネポティズムとしての愛国

はじめまして。ねこです。
お玉おばさんのところでいろいろ書いています。

いわゆる愛国には少なくとも2種類の感情があり、同胞意識に基づくものと、そうではないものがあります。

同胞意識からくる愛国は、「ネポティズム」に非常に近い感情です。親戚びいきが日本人全体に広がったようなものです。

つまり、ネポティズム的な感情の境界線がたまたま国境線と一致していると、それが同胞愛としての愛国になります。

そのネポティズムが良いか悪いか、それはなんとも言えませんね・・。少なくとも全面的に肯定できるものではありません。同時に否定もできません。私にはわかりません。

「善意」としてのネポティズム

ねこさん、ようこそ。

>そのネポティズムが良いか悪いか、それはなんとも言えませんね

自由・平等を旨とする民主主義においては、ネポティズム=縁故主義は悪と認定されますね。これは、愚樵流で言わせていただければ、民主主義・ネポティズムのいずれもが「理念」(別エントリーでは「虚構」と表現していますが)であり、しかも対立する「理念」であるからです。現代は民主主義の「理念」を上位のもの(=善)としますから、上位「理念」に反するネポティズムは悪と結論付けられてしまうのです。

にもかかわらず、ねこさんの仰るとおり、現代においてもネポティズムは完全に悪とは断定できない。その理由は、ネポティズムの震源となる「情念」(当エントリーでは「善意」)は決して悪ではないからです。

ネポティズムの源泉となる「善意」は、人間が成育していく過程で必須の栄養素です。親子の「情念」はその代表でしょうが、こうした栄養素を十分に吸収できずに育った人間は、どうしても歪んだ成育をしがちです。「理念」や「虚構」を操る成人した大人に成長するのに、ネポティズムは欠かせないもの、すなわち善であるわけです。

おなじネポティズムでも、それが発揮される場によって善にも悪にもある。現代のおいては「理念」「虚構」の場においては悪とされますが、「情念」「人情」の場においては、昔も今も、ネポティズムは善なのです。

愛国の善悪論争も、つまるところ「国」をどのような場と見なすか、その捉え方の違いによるものだと私は考えています。「情念」「人情」的に捉えるなら善、「理念」「虚構」的に捉えるのなら悪。捉え方が異なるから、愛国を巡る論争はいつまで経っても咬み合わないし、決着もつかないのだと思っています。

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