愚慫空論

始之爲始之 終爲終 是始也




タイトルは『論語』のパロディです。

為政第二の十七

 子曰 由 誨女知之乎 
 知之爲知之 不知爲不知 是知也


 子曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
 これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是(これ)知るなり。


以前から幾度となく取り上げてきたものです。

タイトルは、

  知  ⇒ 始
 不知 ⇒ 終

と置き換えてみただけ。

 これを始めるはこれを始めると為し、終わりを終わりと為す。是れ始めるなり。

別の言い方をすれば、

 動的平衡を保つ

でしょうか。




〔世界〕はフラクタルであり、自己相似です。
動的平衡であるということと、自己相似であるということは同じことです。

宇宙は〔システム〕で、宇宙が生んだ子どもの〔システム〕として銀河がある。
太陽系は銀河が生んだ子どもの〔システム〕で、
地球は太陽系の〔子システム〕。
生物は地球の〔子システム〕。





〔社会〕もまた〔システム〕です。
親はサピエンスか地球か。
たぶん地球です。自然です。



ただ、ときおり、自己相似ではあるけれども、動的平衡が保たれないことがある。
平衡の流れが滞ることがあります。
そのようなとき、〔システム〕は【システム】になる。

〔社会〕と双子の〔人間〕は【自我】というものを持ちますが、〔社会〕の場合、【自我】が作用すると【社会】になってしまう。


儒家と対立した老荘は【自我】を否定しようとしました。
孔子はそうでなく、【自我】をうまく処そうとした。

「知之爲知之 不知爲不知 是知也」は、【自我】の処し方です。
「始之爲始之 終爲終 是始也」も、そう。



何時ものごとく前置きが長くなりました。

 完全に"詰んだ"「貧困高齢者」が爆増する
      ~職なし貯蓄なし年金なしの三重苦


突飛な発想ですが、ぼくにはこのような記事と『聲の形』は同型に見えます。

「終爲終」が為っていない。
なにが「終」なのかが認知できていない。

「終」が認知できていないわけではないんです。
“詰んだ”だと言っている。
自殺が描かれる。
このふたつは同型です。

そして、もうひとつ同型なのは、「終」を個の責に帰していること。

「終」は、記事の言葉でいえば“詰んでいる”のは個ではありません。
社会があって個人があるのではないからです。
個人の集合体として秩序が自生的に生成される。
〔社会〕もまた散逸構造です。

〔ヒト〕は〔社会〕に適応して〔人間〕になります。
〔人間〕は〔人間〕になっても〔社会〕に適応しつづけます。
といって、〔ヒト〕にも適応限界がある。
生物学的な限界がある。
若い個体は適応能力は高いが、年齢を経ると能力は低下する。


「〔社会〕に適応し続けてきた〔人間〕の大半が適応の結果、〔社会〕から疎外されることになる」

取り上げた記事に記述されている現象をそのまま記述すれば以上のようになるはずです。
そして、このよう記述をするならば、“詰んで”いるのが何処なのかが判明します。

〔社会〕のほうです。
〔人間〕に責を帰すのはお門違いというものです。
当然のようにお門違いを為すのが【システム】です。
自身を構成している要因を食い潰していかないと成立しない組織です。

当然のようにお門違いを為す。
なにが「終」であるのかが認識できない。
これが「忖度」です。

あのような記事を書く〔人間〕は、自身を“詰んだ”とは考えていないでしょう。

自身を構成している要因を食い潰す【システム】への所属意識があって、その所属意識が自己を自己たらしめる【アイデンティティ】となっている。だから、自身と同じであるはずの「要因」が食い潰される現象を感知しても、自身とは違うという認識を為してしまう。 

「同じ要因」だと考えれば、“詰んで”いるのは【システム】にならなればおかしい。
そして、おそらく、記事の筆者に、あなたとあなたが“詰んだ”と表現している人たちは同じ人間か?と問えば、よほど正直な者でない限り、「同じ人間だ」という答えが返ってくるはず。

たとえ腹の底では「違う」と考えていたとしても、それは、




『聲の形』も同型です。

「言ってはいけない」ことは言わなかった。
何がが壊れて、何が壊したのか?

自殺者が出る。
「壊れた」のは自殺者です。
それ以外に考えられない。
ということは、壊したのは【社会】になる。

でも『聲の形』は、そのように言わなかった。
「壊れされた」はずの者が「私が壊した」と言った。

いえ、言わせたんです。


「同じ」であるはずの人間に対して“詰んだ”と言ってしまえる心性。
「壊された」はずの者に“私が壊した”と言わせることができる心性。
しかも、これらが善意から発せられていることは疑いようがない。


 あなたを壊したのはわたしです。
 わたしがアイデンティティと為している【システム】です。 


言わなければならないのは、これです。
が、たとえそのように現象を認識したとしても、以下のような「蛇足」が生まれる。
「そのまま」ではなく〔虚構〕の方を眺める。

 でも、あなただって【システム】がアイデンティティなんだよね?
 だから、言わなくてもいいよね?
 「言ってはいけない」ことにしておこうね...


このような態度を指してどういうかというと、「優しさ」と言います。



そのような「優しさ」を求める者たちをぼくはニューロティピカルと言っています。
社会秩序に「優しさ」を求める者たち。

その点、ぼくは違います。

 ぼくにとって【システム】はアイデンティティではありません。
 だから「言ってはいけない」ことにはしておけません。


そんな怯懦な態度を取ってしまうと、ぼくがぼくでなくなってしまいます。



ぼくのように、生来的に〔システム〕にアイデンティティを置くことが出来ない者のことをエイティピカルと言う。

お断りしておきますが、上記のNT/ETの定義は正しくありません。
ぼく独自の定義です。
ですから、別の言葉を用いるのが「正しい」。

でも、ぼくは敢えて正しくない言葉遣いをしようと思っています。
「正しい」言葉遣いをすることに違和感があるからです。
言葉といえども、「正しい」ことに適応するのに抵抗感がある。
それはNTの秩序感だと感じるから。

ぼくの秩序感はそうではない。
シニフィエとシニフィアンはそもそもバラバラののはず。
シニフィエとシニフィアンの間の秩序が統一されないと言葉で伝えることはできないけれど、だからといって、統一を当然としてしまうと、「そもそも」が忘れられてしまう。

統一を維持し、言葉を伝わるものにするのがNTの役割であるのなら、
「そもそも」を忘れさせないようにするのがETの役割。
この役割を果たすことはぼくには悦びですが、大半の者には迷惑に感じられるでしょう。


言葉も〔システム〕です。
ですから動的平衡を保っている。
言語を生成する自生的秩序は常に揺らいでいる。



その揺らぎはシニフィエとシニフィアンの齟齬という形で感知される。

言葉は、すなわち、シニフィエとシニフィアンの関係性は、ずっと同じではありません。
言葉は変化する。
気がつかないうちに、どこかでいつのまにか、どんどん変化している。
変化させているのは私たちはずなのに、変化は常に後追いとして感知される。
これは、〔システム〕生成と〔システム〕感知の間にある特徴です。

後追いになる動的〔システム〕感知を阻んでいるのが【コトバ】です。
NTたちの秩序感から生み出されるもの。
その言語秩序が

 始之爲始之 終爲終 是始也

を阻んでいます。
だから、この言葉は、社会の処し方として、言う必要がある。
言うだけではなく、その言葉に即して、「終」と「始」を認識していく必要があります。


“詰んで”いるのは個人ではありません。
年金という〔システム〕です。

“壊れて”いるのは個人ではありません。
教育という〔システム〕です。

それらの「終」は、個人の崩壊という現象になって出現する。

〔システム〕は常にエラーを引き起こしてしまいます。
個人の崩壊は〔システム〕エラーの結果です。
問題は、そのエラーが〔システム〕の健全な範囲内のものなのか、つまり、常に揺らがずにはいられない〔システム〕を保全するための現象なのか、逆に揺らぎが硬直化することによって頻発するようになったエラーなのか、ということです。

前者と後者を見間違えてはいけない。
まして、後者を前者だと決めつけてはいけない。

この「決めつけ」という意味において、件の記事と『聲の形』は同型です。
「決めつけ」と文言に悪意を感じてしまうであろうという点も、また同型。

硬直化した〔システム〕は「終」です。



リセットされるのが自然の流れというもの。
硬直化した〔子システム〕をリセットするの〔親システム〕の機能です。



リセットには「風邪」を引くのがいい。
風邪を引いてリセットをして、そのあとは身体そのものを信頼して、経過を眺めるのがいい。




コメント

忖度によって「聲の形」のエントリーをあげようと思い書いたのですが、今ひとつなので上げたくなくなります。笑。
このエントリーを読んでいても、また自分でエントリーを書いていても思うのは、【社会】が悪い、とするとどうもサヨっちと同じだなぁ、と感じてしまうことです。なんでも【社会】のせいしていた(自分の)サヨっち性を思い出し、それは違う、と言いたくなります。
【社会】は悪いのですが(悪いので【】なのですが)やはり「自己責任」ということにしたいと考えています。
【社会】をアイデンティティとしてしまった自己責任、【社会】を俯瞰しなかった自己責任、、、、自己責任というとNTにとってはかなり厳しいですが、一旦気づいてしまえば自己との闘いです。自己責任とすれば人生は楽しい(残念ですが、この辺りはETには味わえない感覚でしょう)。まあ、風邪をひかなきゃ気づかないという魔力が【社会】には確かにありますが……。大前提が【社会】の人の場合は風邪をひいても気づかない。
風邪をひいて自殺を踏みとどまっても、「そもそも」が解らなければ元の木阿弥です。
風邪をひき【社会】を拒絶した「聲の形」の少年は、最後は拒絶から抜け出ることができた、それは、はたして本質(そもそも)を見抜いたか? どうなんだろうねぇ〜。新しい処方により【社会】復帰するだけのことでなければいいのですが、、、

・毒多さん

>「そもそも」が解らなければ

そこは解りたくないところだと思うんですよぇ...
嫌みな言い方をすると、「そもそも」を隠蔽するための作品だとも言えます。『聲の形』は。

毒多さんのコメントを読んで、あの『絶歌』を思い出しました。
『絶歌』は、『聲の形』とはちょうど正反対の表出だなぁ、と。


画面が主人公の将也目線の時に、他人の顔に「バッテン」がついていますよね。
その「バッテン」が剥がれ落ちるのが、『聲の形』の物語の結論。

じゃあ、「バッテン」とは何かというと「非承認」です。
オレはオマエたちを承認しない。していない。

アニメというのは便利なもので、そういう心理を視覚化できる。

でも、その「バッテン」は間違っています、お互い承認し合いましょう、でなければ死んでしまいます、が『聲の形』の言わんとすることです。

でも、本当は死にません。
死なずに死に物狂いでもがいて生きる。

『絶歌』というやつは、「オレは死に物狂いでもがいて生きてやる!」という宣言でした。

 If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
 If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.


hard でありさえすればよい。
deserve は必要ない。

これは非〔人間〕的な生き方、というより徹底して【人間】的な生き方です。
彼は「信用できるのはカネだけだ」という【達観】に至っていましたよね。

「そもそも」というのは、そういうこと。そうした【達観】もあり得る、ということです。
でも、そんな【達観】は有り得ない、そんな【達観】に至るくらいなら死ねよ――

これは『絶歌』に浴びせられた非難だし、『聲の形』が隠蔽しているところです。
そんな【達観】に至る前に死んでしまうから、「承認」は必須だよ、と。

 If I cannot be gentle, I cannot be alive.

『絶歌』が言ったのは、

Even if I cannot be gentle, I will be alive.

甚だ迷惑ですけど、ここを否定してしまうとしまうと、〔社会〕はもはや【社会】です。

ついでに言うと。

“Even if I cannot be gentle, I will be alive." は否定したいけれど、〔社会〕が【社会】になってしまうことは避けたい。そこで編み出されるのが【道徳】です。

 You should be gentle!

と〔社会〕は命令してくる。いえ、

 You should be gentle for everyone!

これは完全に〔ヒト〕のキャパシティを超えた命令ですし、そんな命令を下す〔社会〕はやっぱり【社会】でしかない。

Even if I cannot be gentle, I will be alive.
But I will want be gentle.


『聲の形』は“will want be gentle”を言った作品だけど、その前段には目を背けたから、言い方は道徳臭くはないけれど、実質的に“will”は“should”になってしまっている。死んじゃうよ、って脅迫しているわけだから。


>残念ですが、この辺りはETには味わえない感覚でしょう

そうですね。
そこは常に【社会】との戦いになります。

まあ、「社会との戦い」と「自己との闘い」は同じことの表裏ですけれどね。
ぼくなどの場合は「社会との戦い」が前面に出てきます。
「自己との闘い」と感じている間はウソなんだということです。
【蓋】をして隠蔽するための【闘い】になっているということでしょう。

>大前提が【社会】の人の場合は風邪をひいても気づかない。

ええ、「風邪」というのは相対的なものですから。
みんなが「風邪」を引いていれば、それが「定型」なんですよ。

あ、ここでいう「定型」は「定型発達」の「定型」です。
嫌みだけど、本当のことでもあります。

ひとりごと。

上のコメントを書きながら思ったんだけど。

hard なことは hard に表現しなければ嘘になる。
gentle でなければ伝わらないと、受け入れたくないと言うからと「忖度」してしまうと、もう、表現そのものをウソにするしかなくなる。

少なくともぼくは、hardなことをgentleに表現して嘘にならないなんて技法はないし、そんな技法もお目にかかったことがない。

そう考えると、思い出すのが『コーヒーの味』。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-995.html

コーヒーの旨さは、コーヒーそのものの旨さではない。
コーヒーという毒を受け止める身体の(反)作用を味覚を旨さとして感受する、逆接的なもの。

だとすると、できることは、雑味をなくすようブラッシュアップをすること。
ブラッシュアップをかけて、毒味を味わう体力のある者に味わってもらう。

そういうのはやっぱり gentle ではないよなぁ...

>そう考えると、思い出すのが『コーヒーの味』

そうなると、それが好きな人だけが飲むことになりますね♪
単純なことだし、それでいいんじゃないかと思います。 (^^)

>「自己との闘い」と感じている間はウソなんだということです。

ETからみるとそう見えるのでしょう。
自己のNT性との闘いは、NT性に気づいたNTとしては当然です。
いくら闘っても【社会】はなくなりませんし、変わりません。
闘うことに意味があるんだ、ということは理解できますが、、、

ワタシが必要だと感じているのはNTのNT性の自覚。
NTマジョリティ【社会】を構成していることの自覚です。
まず自己からしかありえませんし、また他者に自覚を促すことは闘いではありません。

・アキラさん

そのとおりです。
言いも悪いも、“I will want”でなければ意味がないし、「これ」にはならないということです。

そのことで例え社会が回らなくなったとしても。
徐々に、いえ、今や急速にですが、崩れ落ちつつある社会の中に棲息していても、自身が「だいじょうぶ」ならば「それはそれ」で良いというなら、「そうですか」というしかない。

同様に、『コーヒーの味』をどのように解されても、「そうですか」としか言いようがありません。

『聲の形』の話だけなら、「そのとおり」だけでよかったんですが、すみません。

・毒多さん

>>「自己との闘い」と感じている間はウソなんだということです。
>ETからみるとそう見えるのでしょう。

そのとおりです。
NTからすれば、ひっくり返るんだと思います。
「社会との戦い」と感じている間はウソ。

>また他者に自覚を促すことは闘いではありません。

ここはぼくも同じです。
でも、ジレンマなんです。
「闘い」の形式を取らずして「促し」をすることができない。
少なくともネット上では。
リアルは少し違いますが。

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