愚慫空論

『聲の形』




映画です。DVDをレンタルして鑑賞しました。

優しい映画です。
登場するキャラクターは、みんな優しい。
ひとりだけ例外はいるけれども。

そして、みんな怯えています。

優しいからいたわり合おうとする。
でも、怯えているから、傷つけあってしまう。


最初の舞台は小学校です。

教師がムカつきます。
暴力的に教室を支配している。
教室にはヒエラルキーがあって、その頂点に教師が君臨しているという感じ。

そういう教室の中に聾の少女が転校してくる。

この子、ウザいんです。
なぜかというと、怯えていないから。

いえ、本当はとても怯えているんだけど、怯えに懸命に抗っているんですね。

抗っているからこそ、ウザい。



みんな抗いたくなんです。
それが怯えということです。
怯えを隠蔽することでヒエラルキーが成立している。
ところが聾の少女は抗ってしまうからヒエラルキーを攪乱するんですね。
だから、ウザい。
怯えを隠蔽するための秩序感が、懸命な少女をウザいものにしてしまう。


聾の少女に最も先鋭に反応するのは、もっとも怯えている者です。
いじめられていた経験があって、そこから逃れるために懸命にヒエラルキーに適応しようとした者

その適応とは、流行の言葉でいうと“忖度”でしょう。
権力者に媚びることでヒエラルキー上部に位置することを許されている者。
逆に言えば、権力者の一存でその「立場」を奪われてしまう者。

その彼に、不運な“一存”が見舞う。
そして、彼は孤立する。
孤立して、閉じこもってしまう。



こうした作品の「お約束」あるいは「形式」ということでしょう。
このふたりは惹かれ合います。
怯えの性質が似通っているからでしょうか。
発現する方向は正反対ですけど。



時間が跳躍します。
キャラクターたちは高校生になっています。
高校生というのも「形式」でしょう。

傷つけ合っていた仲間たちが寄り集まります。
求心力になるのは、惹かれ合っていたふたりです。
「恋」が求心力になっている。
形式どおりです。

でも、寄り集まってしまうと怯えが露わになる。
傷つけ合いが始まる。
それぞれが醜い部分を露わにしてしまって、斥力が働く。

斥力が働くからこそ、恋とか友情とかいった自然なものが神秘を纏って立ち現れる。


恋愛や友情をテーマとした作品の多くは、斥力の源泉は【社会】である場合が多い。
数多ある恋愛テーマの作品のなかで最もクラシックなのは、おそらくこれ。



『聲の形』の場合も【社会性】が斥力になっています。
自律的(≠自発性)に出来上がっていく【社会性】。
【怯え】を隠蔽するために出来上がる【社会性】。
そうした【社会】はすでに小学生のときから成立している。

聾の少女は何かというと謝罪します。
「私は壊してしまった」とも言う。

何を?
【社会】です。
【怯え】を隠蔽することで成立している【社会】です。
聾の少女は【怯え】を聾呈させてしまう。

なぜか?
隠蔽しないからです。
「私が悪い」と言って謝罪してしまうから。
隠蔽していたはずのものが謝罪されてしまったら露呈してしまう。
彼女はそれをする。

だから彼女は攻撃の標的になった。
そして、標的に先頭に立った者もまた、隠蔽を聾呈させた咎を追わされて排除された。
彼は排除されたからこそ、罪悪感を覚えた。
その罪悪感を引きずったまま高校生になった。


『聲の形』は、いじめというものの構造をかなりうまく表現した作品だと思います。
【社会】の秩序を守るためには、誰かが犠牲にならなければならない。
犠牲になるよう位置づけられた者は、甘んじてその【立場】を受け入れなければならない。

この場合の「甘んじる」は「卑屈」です。
素直に受け入れることもまたルール違反。
彼らに義務づけられるのは「忖度」です。
強者に媚びること。
謝罪ですらルール違反。

罪悪感すら抱いてはいけない。
そんなものを抱くと気がついてしまうから。
隠蔽が露わになってしまう。


いじめの構造が生み出すのは自殺者です。
聾の少女も、彼女をいじめすぎて排除された少年も、どちらも自殺を試みる。
これは正しい。必然の帰結です。

ところが残念なことに、『聲の形』では、ここの必然性の描写が弱い。
個人の性格といったようなところへ落とし込んでしまっている。
その落とし方を誤魔化すために、恋愛や友情の神秘性を際立たせている。

そういった意味でも「優しい」作品。
【怯え】を抉り出しながら、一方で、優しい手つきで美しいものへと仕立て上げていく。

こういった優しさをぼくは評価しません。
怯懦だと思うから。
醜い者を凝視する胆力に欠ける。
ゆえに絶望などとお為ごかしを口にする。


そうなると、「優しさ」も消費財になってしまいます。
この作品がそうであるように。
日常っぽい非日常を鑑賞して、少しばかり癒やされた気分になる。
そういう気分に浸ることで、凝視を後回しにすることができる。
そうすれば自分は変わらずに済む。
現在の「立場」を保持していられる。

この作品が抉っているまさにその「構造」に安住できるわけです。


コメント

身も蓋もないエントリーだなぁ〜、笑、
(気分よく観終わったNTにとってはね。)
(観るまえのNTにとっても・・・)

このエントリー解る人いるのだろうか?
映画つくった人も解るのかなぁ?

ところで、
聾の少女はET? それともNT?

ひとつ質問です。
これでもずいぶん工夫して書いたのではないかと想像するので。

このように愚慫さんが書くときに、愚慫さん自身は『聲の形』の中なら 自分をどの立場に置いてます?
聾の少女?
「聾の少女に最も先鋭に反応する もっとも怯えている者」?
それとも その他の「みんな」の一人?

・毒多さん

いえいえ、ぼくだって気分よく観たんですよ。
それなりに浸らせてもらったし、慰めももらったし。

これはアキラさんへの答えにもなりますが、文頭に書いた「優しい」は皮肉な意味ではなくて、素直にそう書いた。「怯え」もそうですけど。そのふたつを融合させるように言葉を追いかけていくと、こんなふうになった。

ですから、意識的な工夫はしていない、つもりです。
成り行きでこうなった。(^_^;)


西宮硝子(聾の少女)はNTです。

『KOKORA』を思い浮かべてもらうとわかると思いますが、ETならば謝りません。謝ることができない。そういう感性に欠けているから、何のアクションも起こせません。「忖度」というアクションもね。だからルール違反です。

硝子のルール違反は極めてNT的だと思います。

硝子はそもそも罪悪感を抱いているんです。
彼女が聾であることに対して。
だから謝る。
彼女は謝ることができる相手を希求しているんです。
それが彼女にとっての友達です。

だってそうでしょう。
家族には謝ることはできないじゃないですか。
それこそルール違反でしょう?

でも、結弦はそこを敏感にキャッチしている。
本当の本当は硝子は家族にこそ謝りたいはずです。
でも、謝ることができない。
その葛藤を結弦は感じている。
硝子の罪悪感を共有してるんです。
だから自分自身を生きることが難しい。


>映画つくった人も解るのかなぁ?

わからないと思います。

観たならご存知でしょうから書きますが、この映画のクライマックスは花火のシーンですよね。
硝子は将也と一緒に花火を観ている。
そして、途中で自宅へ帰ってベランダから身を投げるわけです。

ぼくにはこの行動は謎です。
唐突すぎる。
生身の人間なら有り得ないと思った。

その有り得ないことを作り手は創作した。
でも、作り手にとってもこの行動は謎だと思う。

もしそうでなかったとするなら、それなりの伏線があるはずなんです。
意識していてもいなくても、作り手が得心していたら必ず出てくる。
でも、見当たらなかった。少なくともぼくには発見できませんでした。

ということは、そこは神秘なんです。
「個人の性格といったところへ落とし込む」と書いたのはそういうことです。
そう考えれば、逆に、なぜ花火のシーンなのかがわかる。
神秘性を纏わせるため。意地悪くいうと誤魔化しです。
ここは作り手は意識的だと思う。

わからないことをわかっていれば、おそらくこのような作りにはしない。
なぜならここはクライマックスです。
物語の核心です。
わかっているなら伝えようとするはずです。

でも、伝わらない。
むしろエアポケットに落とし込まれた感じになる。
そうやってできた空洞にいろいろなものが流れ込んできて、その勢いに流されていく。
勢いでもって、「ありたいところ」へと帰着させる。

で、「ありたいところ」とはどこかというと、

 「壊してしまってごめんなさい」

です。なにを壊したのか? それは本文に書いたとおりです。

というようなことなので、わからないというより理解を拒絶されることになると思います。
それが普通の反応だと思います。

・アキラさん

どのような立場に置かれているかと訊かれても、答えに困ってしまいます(^_^;)

毒多さんへのコメントにも書きましたが、鑑賞している間はただ流されているだけです。
文章へと組み立てるときは、流されている間に感じて保留しておいた違和感を追いかけていく。
違和感を打ち消すように。

そうすると、こんなふうになるんです。
なので、最初から結論ありきない。
無意識のうちにはあるとは思うんですけどね...

このような違和感の打ち消し方が「ぼく」ということなんだろうと思ったりします。

なるほど。

では、伝えたくて書いているわけでもないし、「誰に伝えるのか」を意識して書いたわけでもないということですね?

そうして、どのように受けとられるのかも考えてないし、関係ない?

・アキラさん

もちろん「誰に伝える」は念頭にありません。
書いている最中は。

ですけれど、アップロードするときには引っかからないわけではない。
想定される個別の読者について。

なので、一瞬ですが、葛藤はあります。

ワタシはこのエントリーをかなり面白く読みました。
自分を知るために勝手に読み取って楽しんでいます。
(アキラさんの再質問の愚慫さんの答えは興味津々ですが、笑)

>気分良く観たんです、、慰めももらったし、、、

多くはここで良かった良かった、いい映画だったよねぇ〜、で終わるんです。ところが、愚慫さんは(ワタシもですが)「そもそも」を思索してしまう。しかも、「良かった」で隠匿される罠まで言ってしまうwww
身も蓋もない、とはそういうことです。
でもそうした面はワタシも同類で、多数一般からの評価は「面倒なヤツ」です、爆!!
一から【社会】など説明しようもない。
解るように話そうとしても通じない。多数からすれば宇宙人ですね。
解る人がいるのかな?というのは、そうしたリアルからの実感です。

>理解を拒絶される

「解らない」のは2段階でしょう。意識もなく【社会】に同化している人は本当に解らない。【社会】を感じ取って「怯えている」「怯えを隠している」人は解りたくない。【社会】を感じっとっていて【社会】をベースに解決を図りたい人もいるかもしれない。
監督さんは最後の人かな? 【社会】をベースにしている限り「誤魔化す」しかない、、でしょう。

ワタシはこの映画を観ていません。
観たとしても、もう、強烈なバイアスがかかってしまったので苦笑しながらしか観ることができないかな?ww

アキラさんの最初の質問ではないのですが、エントリーを読みながら「自分はどのタイプ」なんだろう?というを考えていました。
エントリーを読む進めるなかで、なんとなく、聾の少女かな?と思いましたが、「謝らない」よな、とやはり、そこがポイントでした。さらには「自殺」(未遂)はしない。
NTに気づきNTを背負いながらNT批判をしながら楽しむNT、ってのはどのキャラになるのか、エントリーだけでは解りません、笑。オレはマゾか!?

>(アキラさんの再質問の愚慫さんの答えは興味津々ですが、笑)

これ、投稿時間がかぶってしまったのだけど、愚慫さんが答えるまえに書いたことね。
実際の答えの感想は、、、普通で面白くなかったなぁ、、、、です。
すみませんww


以前なら一瞬の葛藤もなかったかもしれません(^_^;)
でも、幸か不幸か、そうした「回路」が繋がりつつあるんでしょうねぇ、このぼくにも。

とはいものの、直に繋がったという感触はありません。
エミュレーションです。
ニセモノです。

そのニセモノ感が煩わしいです、正直なところ(-_-)

なるほど。

では、一瞬引っかかる「想定される個別の読者について」において、どのように受けとられようと、またそれでどのように愚慫さん自身が評価されようと、それはそれで関係ない?

というのと、もうひとつ。
愚慫さんは、例えば映画を観ているときには、映画の中のどの人・どの立場にも感情移入することはないということですか?
僕はたいがい、誰か(あるいはある立場)に感情移入を多少なりともします。
もちろんそれが一人、一つの立場でない場合もあります。

けれど、映画の中のどこにも感情移入せずに(ということは 僕の中では「着地をせずに」)まるで神の視点のようなところから眺める・・ということが基本的にないので、愚慫さんの言う「ただ流されているだけ」というのは どんな感じのことを言ってるのだろう?と思ったりします。

僕がこういうエントリーを読むとき、書く人は映画の中のどの人の位置に自分を想定しながら書いているのだろう?と想像しつつ読みます。
そうでないと、どこから眺め・感じたものを書いているかが分からないからです。

で、多くそれは自分が感情移入させられてしまったところから書くと思うんですね。
少なくとも僕はそうですから。

そういう立ち位置なく書かれているのだとしたら、僕からしたら宙に浮いた状態で書いているに等しい。
「神目線ですか!!」と思っちゃうわけです。 (^o^)
どこが「我がこと」なのか分からない。

・アキラさん

神視線なんかじゃありませんよ(^_^;)

アキラさんの指摘を拝見していて思ったんですが、視覚的ですよね。
視覚には必ず「視点」があります。観ている自分を相対化すると視点が顕在化してくる。

でも、聴覚だとどうでしょう?
歌や音楽を聞いているときに、「聴点」といったようなものが出てきますか?
音場感というのはあるけれど、視覚における視点とは違いますよね?
少なくともぼくには、視覚における視点に相当するものは聴覚においてはありません。

歌や音楽を脳内再生してみてください。
このとき、歌や音楽が再生されている音って、「自分の音」になっていませんか?
歌声であっても楽器の音色であっても、風のざわめきや鳥のさえずりでも、あるい音楽でなくてもいい、物語のなかの台詞でもいい、音として再生されると「自分の音」になってしまっている。

少なくともぼくはそうで、「我がこと」というのはおそらく「自分の音」ならぬ「自分の言葉」になってしまっていることを言っているんだと思うんです。

イメージできますか?

>それでどのように愚慫さん自身が評価されようと、それはそれで関係ない?

このこともおそらく聴覚的であることと関係していると思うんですが、そもそもからいうと、ぼくは関係できないんです。

関係があるかないか? という問いにはすでに「視点」が入っていますよね? 今のぼくにはそのことは感知されるけれど、これは後天的に学習したものです。先にも書いたとおりエミュレーションです。

けれど、多くの人にとっては実装された脳機能なんでしょう。
「多くの人」というのはニューロティピカル(NT)のことを指しています。
そして実装された機能を走らせるときに違和感を感じたりはしないはず。
でも、ぼくのようなエイティピカル(ET)はどうしても違和感を拭えない。

「関係があるかないか?」という問いを発する質問者の違和感のなさというか「自信」ですね、それは感じるんです。ところがぼくのような者には、なぜそのような問いが無根拠な自信の元に発せられるかがそもそも疑問なんですよ。でも、自信があることは関知しているから、そもそもの疑問はさておきて、なんとか問いに答えようとしてしまいます。子どもは特ににそうせざるを得ない。

この答えようとする姿勢が「忖度」です。
NTたちはデフォルトで忖度するんです。でも、ETはそうではない。うまく忖度できない。

忖度することができないことに対する不快感の表出。これが「NTのETへの迫害」です。
不快感は感じられるから、迫害は成立するんです。

アキラさんはご自身が権力者として振る舞っているという自覚はまったくないと思います。
ですから、忖度を要求しているということにも無自覚でしょう。
その自覚のなさこそが「権力者としての振るまい」です。

ぼくが自分をETだと敢えて位置づける理由はこれです。
NTたちがデフォルトに「これが秩序だ」とする要求に対する反抗です。
NTは反抗を感知するから不快になる。
不快を制御できるものであっても、根源的な疑問は回避できない。
なぜそんな意味のないことをするんだ? という疑問。

でも、その疑問こそ、ずっとNTがETに突きつけてきたものなんですよ。
NTもそれを感じてみろよ、と言いたいわけです。

不穏で剣呑なやり方だと思いますけど、どうしてもそれ以外の方法が開拓できないんですよね...

愚慫さんはやっぱり何というか、短絡して相手の言っていることを掴みとってしまいますよね? (^_^;)
というか、読んだ瞬間に「自分の音」になってるんでしょうね。
そして相手の意図とはそれこそ関係なく、勝手に突っ走っちゃう。

「関係があるかないか?」などとは訊いていないんです。
自分の出したものが、読者によってどのように受けとられようと、またそれでどのように愚慫さん自身が評価されようと、「そんなのカンケーねー!」つまり愚慫さん的にはそれはどうでもいいってことですか?
と訊いています。
そこは知っておきたいので。
どうなんですか?

確かに歌や音楽を脳内再生してみれば、それは僕が自覚的に脳内再生してますから「自分の音」になってます。
けれど、音楽や歌を聴いているときには、その音楽や歌は「自分の音」になっていませんし、それを思い出したりするときにも「自分の音」としては認識しません。
「自分が脳内再生している」とは認識しますけれど。
なるほど愚慫さんが言うように、このへんがまったく違うようですね。
「視覚的ですよね」というのも、その意味では分かります。

観たよ^^

・アキラさん

どうでもいいわけあるはずないじゃないですか。

「嫌われる勇気」を持とうとは思っています。
ここでの言葉で言えば「忖度しない」。
そうでないと自分でいられないから。

でも、それは断じて「どうでもいい」ではない。
このふたつを同一視するのは、それこそ短絡でしょう。


「委ねる」です。
相手がどう評価するかどうかは。
そこは相手の領分だから。

でも、相手の領分を斟酌して自分を曲げることはしない。
これが「忖度」ですよね。
その意味では関係がない。

もちろん、委ねた結果に一喜一憂したりします。

・毒多さん

いい映画だったでしょ?

>「嫌われる勇気」
他者への質問でも、一応、「自分ならどうか?」ということは考えてみる。
レスと似たようなことを考えていた。

>いい映画
どうだろう? やはり強烈なバイアスがかかっている自分がいたww
感情移入できる登場人物はいなかったな。
ただ、いろいろなパターンの「怯え」の表出が、それぞれの登場人物にデフォルメされ割当られていて、それぞれに少しづつ自分を感じることはあった。
このエントリー的にはNT独自の「怯え」と「怯えの隠匿」で、ワタシもまたNTであるため共感できるのだろう。
ハッピーエンドだったねぇ。【社会】を許容して「いいとこもあるんだからそこ」を見よう的な感じかな。
とまぁ、こんな感じで穿っているのは、エントリーの功罪だなwww
素でみたら、いい映画、で罠に嵌っていたかもしれない。

あ、そうそう、今時の小学校は聾の少女を受け入れるのかな?ともった疑問から、実はあの役割はETではないだろか?ということを考えた、笑。
いじめられようが、我が道を行くとなると、物語にならないかな、、、??

蛇足だが、誰に感情移入できなくても、思索が深まったらやはりエントリーしてしまうだろう自分がいるなww

・愚慫さん

了解しました、ありがとうございます。
愚慫さんが何をどう考えていても、僕はそれはそれでいいと思っているんですけど、例えばこういうエントリーを出したとき、「読んだ相手がどう受け取るか」問題はあるわけですよね。
それについてはどう思ってるのかな?と、その気持ちを聞きたかったのでした。
リクツじゃなくてね。

僕にとっては、このエントリーは「どこからものを言っているか分からない」類いのものです。
つまりこの映画の内容を出した愚慫さんが、映画の中の立ち位置として「どこにもいない」「どこにも着地していない」。
僕はそれは言葉が「宙に浮いている」と感じるんです。

ごく普通に考えれば、愚慫さんはおそらく「聾の少女」の立ち位置なんだろうなぁと想像します。
まさか『その他の「みんな」の一人』として書いているとは思えませんから。
そうすると、この文章は、告発し、嗤い、そうでない自分を誇示しているようにも読めてしまいます。
(“も”というところが大事ですからね)

半分は当たってそうですけど、それが狙いだったのかな?とちょっと疑問に思ったものですから。

それから、愚慫さんが言うような格好ですべてが「自分の音」になってしまうのなら、いつもそこには自分しかないということになりますよね。
その意味では『「それ」なんか実はなくて「これ」しかないじゃないか』と愚慫さんが言いたくなるのは分かる気がします。

自分しかない、そしてどこにも着地していない(宙に浮いた感じ)、それがこのエントリーとコメントから受ける僕の愚慫さんの印象ですかね。
つまり、「自分の虚構」の中だけでグルグルしてる感じ。
そこからいくら弾を撃っても、はたしてどれだけの人のどれだけのところに響くのかな?と感じました。
それは、隠蔽しているとか逃げているとか怖いからとか、(それがないということではなく)そういうこととはまた別の問題のような気がします。
愚慫さんが批判したい人たち(僕とか?)と、どれだけ違うというのでしょう?
おんなじなんじゃないですか?

それから、愚慫さん自身が「権力者ではない」というのであれば、僕は「権力者」だろうと自分でも思います。
答えは「それがどうした」ですけど。 (^_^;)

「NTもそれを感じてみろよ、と言いたい」のだったら、『カンタ・ティモール』なんかあげないで、オサマ・ビンラディンのものでもあげていればいいのに・・とも思います。
が、これはイヤミです、ごめんなさい。

・・・・というのが僕の感想でした。
長々とすみません。

・アキラさん

アキラさんから皮肉を引き出せるとは(^o^)
いえ、これは皮肉ではなくて、そうした形「も」また望むところです。

>オサマ・ビンラディンのものでもあげていればいいのに

おお、それもそうですね。そっちも検討してみます。
サジェスチョン感謝です♪


>そうでない自分を誇示している

はい。この要素は大きいです。
もちろん、それだけではありませんけれど。

NTとETの違いを際立たせたいというのは、ぼくが希求するところです。
もちろん、NT/ETの比較優位を競おうという意図ではありませんけれど。


>「自分の虚構」の中だけでグルグルしてる感じ。

そう感じられるのはそうだろうと思います。
また、そう感じられたのなら、弾は近くには届いたのかな、と。

アキラさんは着地点はないと感じるという。
いえ、ぼくの自己誇示が着地点ではないのかと半分思うという。

上で記したように自己誇示は目的ではあるのですけれど、動機はアキラさんが想像したであろうものとはたぶん違うと思う。

自己誇示のモチベーションは欠乏感から来るのが一般的でしょう。
承認欲求ですね。

ぼくだって承認を求めていないとは言わないけれど、まあ、どうでもいい。そんなことより自己表出することの方がずっと優先順位が高い。この文章は、上機嫌の発露。自己承認なんです、これ。

それにしては文章のスタイルとの齟齬が大きすぎると自分でも思うんですけどね...(^_^;)
ですから

>「自分の虚構」の中だけでグルグル

は間違いではありません。
ただ、この「グルグル」は〈過剰〉です。
どこかへ向けて開いているんです。
アキラさんが以前、ぼくに向かって評したことがある言葉でいうと「宗教的なところ」へです。

>「神目線ですか!!」

も、あながち的外れはではない(^_^;)

(自分で言うのはホント、気が引けますが...)


>おんなじなんじゃないですか?

「グルグル」が閉じたものであるなら、その批判は大正解でしょうね♪

アキラさんへ、追記。

こんなことを記すのも、どうかと思うんですが...

アキラさんの「だいじょうぶ♪」というやつ。

ぼくとアキラさんの掛け違い(?)はこのあたりが始点になっていると記憶しているのですが、あの文章を読んだとき感じたのは、

 こんなの普通のことじゃね?

というものでした。
「そういうの(←似たものという意味です)」は、ぼくの中には物心ついた頃からずっとあったものなんです。だから、懐かしいとも思った。

多くの人が「そういうもの」がないことが、ぼくには逆に不思議だった。そして、大人になれば、「そういうもの」はみんな持っていると思っていたんです。でも、違った。大人こそ、「そういうもの」が欠落している。子どもの方がまだまだずっと「そういうもの」を持っている。


このコメントも大げさな自己誇示と受け取られかねないものですけれど。
「そういうもの」として生まれてきたんだと、ぼくは自身を自認していたします。

あ、意外と僕が感じたまんまだったんですね。 (^_^;)
了解しました。

それから「だいじょうぶ♪」のこと、もしも「こんなの普通のことじゃね?」なんだとしたら、「
そもそもからいうと、ぼくは関係できないんです」はウソになります。
どっちかがウソです。

おつむで理解する話じゃないんです。
体現と実践の話です。
けれど、人間相手でないといけないわけではないので、いろいろな体現のあり方はあると思います。

嘘もなにも、あくまで「そういうもの」としての話です。
そうではあっても、リクツではなく先天的イメージ(?)みたいなものですけど。
「懐かしい」と思うような。デジャビュとでもいうか。

体現ということで言うならば、ぼくは自然に関しては順接だと思います。
実践に関しても、文明人としては「いいところに行っている」くらいは言っていいんじゃないかな?

でも、文明に関しては逆接。
これは先天的・後天的両方の要因があるように思う。

サピエンスを〔ヒト〕と〔人間〕に切り分けるよう虚構を弄して、〔ヒト〕に惹かれること。
野口整体にも実践に先んじてイメージで惹かれていること。
いろいろなことが「そういうもの」としての話に合致しているように思います。

・毒多さん

いい映画ですよ。
上質な「娯楽」を提供してくれます。

バイアスがかかっちゃって、娯楽にならなくなってしまいましね、申し訳ありません。(^o^)


>【社会】を許容して「いいとこもあるんだからそこ」を見よう的な感じ

そうそう、これこそ「娯楽のキモ」です。
言ってしまうと身も蓋もなくなる「キモ」です。


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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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