愚慫空論

『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン-世界一優雅な野獣-』

知らなかった、迂闊だった。

 これは反省の反省の弁ではなく、喜びの言葉です。
出会えないでいたものに出会えた。

そんな喜びの言葉がぼく自身の全能感を背景に出てくるのはちょっとなぁ、と思ってしまいますが、そこは今回は追いかけません。ご容赦を(^_^;)


セルゲイ・ポルーニン。
名前は知っていました。
イギリスのロイヤル・バレエ団のプリンシパルという地位を放棄していった、才能に溺れたスキャンダラスな人物という噂とともに。



でも、こんな動画が配信されているのは知りませんでした。
2億回以上も再生されているのに。
映画の中で初めてこの動画を見ました。

最初の体験を大きな画面で観ることができたのは、幸運なことだったと思っておくことにしましょう。



ぼくたちは、「同じ人間」ということをよく言います。
この言葉はよく言われはするけれども、しばしば無力感を誘発する言葉でもある。
現実との対比が浮き彫りになってしまうからです。

同じ人間なのに、持って生まれたものは違う。
現実として際立っているのは、「同じ」ということよりも「違う」ということのほうです。

 「同じ」は観念的
 「違う」は現実的

とすら、言っていいのではないかと思います。

この映画は、「同じ」ということが観念的ではなく現実的なんだということを教えてくれるものです。


セルゲイ・ポルーニンは違います。
彼の才能は突出しています。
そのことは上の動画を見れば“瞭然”です。
ただし、「違い」がわかる人間にとっては、ですが。


映画の中では、「違い」が浮き出るシーンもあります。

群舞のダンサー(♂)たちを従えて、ポルーニンが踊るシーンがある。
同じ画面の中で比較対象できますから、ここでは“一目瞭然”です。

ダイナミクスが違う。
精度が違う。


ダイナミクスの大きさは持って生まれた才能に拠るのだろう思います。
誰よりも高く跳べるできるのは、ジャンプに関しては誰よりも優れた身体能力を持っているから、と言って間違いない。

でも、精度は違います。
才能も大いにかかわるでしょうが、それだけで動きの精度は磨かれない。
精度を磨くにはなによりトレーニング。稽古です。

最も精度の高い動きができる人間は、最もよく稽古をした者。
これもほぼ間違いない言葉のはずです。

当代でバレエという身体芸術を志す者のなかで最も才能に恵まれ、最も稽古を重ねた者。それがセルゲイ・ポルーニンだと言っても過言ではないでしょう。


ダイナミクスは才能による。つまり「違うもの」による。
精度は稽古による。つまり「同じもの」のよる。

この「同じもの」は、同じなので、あたりまえに繋がっていきます。
セルゲイ・ポルーニンは、なぜ、他人よりもたくさん稽古を積んだのか?
その事情はなんだったのか?

この「事情」こそが、当映画の主題。


セルゲイ・ポルーニンはウクライナ生まれです。
1989年にヘンソンという片田舎で、決して裕福ではない両親のもとに生まれます。

息子の才能を確信した両親は、息子をよりよい学校で学ばせるために移住をします。
まずはウクライナの首都キエフへ。
次は、バレエビジネスの首都たるロンドンへ。

当然、お金が必要です。
セルゲイの家族は、彼の学費を賄うために出稼ぎに出ます。
父親はポルトガルへ。祖母はギリシャへ。

母親はセルゲイとともにキエフへ。
ロンドンへは、ピザの問題があって一緒に行くことができず。

セルゲイを稽古に追い立てのは家族であることは容易に推測がつきます。
そこは「同じ」だからです。


映画の中でセルゲイは恐るべきことを言います。
正確な台詞は忘れてしまいましたが、

 「バレエはとても制約の多いものだけど、制約の向こうに自由を感じる」

といった内容のことを。
彼のこの言葉を裏付ける専門家の見解も紹介されます。

二十歳やそこらの若者がこのような言葉を口にし、それを違いがわかる者が認めるなんて。
それは達人だということです。
道を志した者のほとんどが、老境にさしかかって達し得るかどうかの境地。
ええ、「境地」というのが適切だと思います。

でも、この「境地」は歪なものでした。
追い立てられたものだからです。
才能と「事情」に追い立てられたもの。
その意味では奇跡的です。


歪な「境地」に達したセルゲイは、その代償を払うことになります。



その代償はご覧のとおり。見て取ることができる。
写真にあるセルゲイの身体の模様は、ボディペインティングではありません。
タトゥーです。
自傷行為です。

セルゲイは、ロイヤル・バレエ団のプリンシパルの地位にあるうちから自らの身体にタトゥーを施す。
そのときの彼の言は、「制約から自由になりたい」。

セルゲイは制約から自由になったのではなかったのか?
なったには違いがないが、そこには「はしご」がかかっていた。
家族という「はしご」が。
その「はしご」が外れた時、彼は孤独になった。
なんのためにバレエを踊っているのかがわからなくなった。
だから、バレエを踊るためには代償を払わなければならなくなった。


バレエダンサーのプリンシパルは、仕事柄、上半身の裸体を晒すことが多い。
というより、それが仕事です。
そんな仕事に就いているにもかからず、自身の身体を傷つけずにはいられない。

【逆接】。
もしくは復讐。それも見当違いの。
つまりは八つ当たり。

セルゲイの「はしご」は、彼を追い立てた家族が離散することで外されてしまいました。
両親が離婚してしまった。

また、別の面でも彼の希望はかないませんでした。
バレエに打ち込んで結果を出せば、また家族一緒に暮らすことができるようになるに違いない――

彼は結果を出した。
だけど、その結果の結果、つまり彼の収入では、彼の望みはかなえられない。
世界的なバレエ団のトップに立っても、家族を養うことすらできない。

このことはなぜか映画の中では触れられていません。
ロイヤル・バレエ団のプリンシパルの収入が、その地位にはまったく見合っていないものだという事実。
バレエの映画だということで、忖度したのかもしれませんが。
(ちなみにプログラムには記載があります)。


セルゲイ・ポルーニンは、誰もがうらやむロイヤル・バレエ団のプリンシパルという地位をたった2年で放棄した。その事実をもって、彼は「バッドボーイ」だと批判を浴びました。ぼくにもその噂だけは届いていました。

でも、「事情」がわかれば、セルゲイの行動は順当だったこともわかる。

タトゥーはともかく、こちらは「直」な復讐です。
であるがゆえに、「同じ人間」であるならば、そのような振る舞いになってても致し方がなかろう。
【システム】は許容しないでしょうけれど、「同じ人間」としては、十分に許容の範囲のもののはずです。

それが証拠に、この映画は多くの共感を得ています。
バレエがわからなくても、セルゲイの「事情」はわかる。
バレエの「違い」がわかることは、当映画鑑賞の必要条件ではありません。
わかればなお楽しむことができるいう十分条件ではあっても。


セルゲイの復讐はもうひとつ。
名声を極めても、決して彼は自身の公演に両親を招待しなかった。
緊張するという理由で。

このことは、多くの人から共感を得ることができないかもしれません。
親の呪縛は【システム】のそれよりずっと強いから。

でも、セルゲイと「同じ」で自傷行為をした経験のある者には理解できるはずです。
たとえば、こういった本に紹介されているような人たちとか。



(もっとも「理解」は共感という形で表れるとは限りません。
 激しい拒絶もまた「理解」です。
 「理解」の隠蔽(拒絶)は、「理解」があってこそ身体作用です。)


ロンドンを去った彼はロシアへ向かいます。
そこでメンター(イーゴリ・ゼレンスキー)に出会う。

でも、残念ながらメンターは十分に役割を果たすことができたとは言えません。
ゼレンスキーは、セルゲイの右肩にタトゥーとなって刻まれてしまう。
セルゲイの(偽りの)自由の象徴として。

ゆえに、と言っていいんだと思います。
せっかくゼレンスキーが導いてくれたロシアでの舞台にもセルゲイは安住できなかった。
そして、バレエを捨てることを決心する。

冒頭に紹介した動画。
現在では2億回以上も再生され、当映画の「結」となっている動画。
これはセルゲイ・ポルーニン最後のバレエ・パフォーマンスとして企画されたものだそうです。


結果としてセルゲイ・ポルーニンは、現在もバレエダンサーを続けています。
最後のはずが最後にならなかった。
それは配信された動画が非常な好評を博したということもあったでしょうが、
それ以上に、セルゲイ自身が変わったから。

バレエという制約の多い芸術の中にこそ、自由を感じる。
その「境地」に再び「はしご」がかかった、と言っていいでしょう。


映画は見世物です。
ドキュメンタリーといえども、その制約からは逃れられない。
ゆえに、構成はどうしても劇的になるように作り込まれます。

劇的にするには落差があったほうがよい。
ということは、「はしご」は、ある一瞬にかかったことにする方が効果的です。
セルゲイの場合、それは彼の最後の(はずの)パフォーマンス中にかかった――
そう解釈するのが一般的だし、セルゲイ自身の解釈も一般的なものに沿っています。
すくなくとも映画の中では。

でも、〈からだ〉というものはそんなものではないと、ぼくは思っています。
ぼくの〈からだ〉とセルゲイの〈からだ〉は違います。
ぼくはどう転んでもセルゲイのように踊れないし、ゆえに、「バレエの制約の向こうの自由」など感じようがない。
それはセルゲイ・ポルーニン個別のものです。

でも、「同じ」ところもある。
「はしご」がいきなりかかったりはしない。
そのようなものは、当人でも気がつかないうちに、徐々に築き上げられていくもの。
この点に関しては「同じ」だと思っています。

そうした視点でみれば「はしご」がかかり始めたであろう場面も、映画の中に捉えられていることが観て取れる。
さすがにそういうシーンはしっかりと捉えてあるんですね。
その場面は、セルゲイが生まれ故郷であるウクライナ・ヘンソンのバレエ教室を訪問したときのもの。

セルゲイを迎えたのは恩師です。
セルゲイにバレエの愉しさを教えた女性教師。
彼女の喜びの表情と仕草が、セルゲイに当時の悦びを十分に思い起こさせるものだったろうということは、想像に難くありません。

セルゲイはかつて学んだ舞台でひとしきりヴァリエーションを踊ったあと、女性教師を舞台へ招き上げる。
教師はセルゲイのサポートでちょっとばかりのパ・ド・ドゥを演じて、今度は彼女が今、教えている子どもたちを両手を拡げて招き入れる。
子どもたちは堰を切ったように、舞台のふたりのもとへ駆け寄っていく。

ごくごく順当の、当たり前のシーンです。
であるからこそ、ぼくはこのシーンこそが新たな「はしご」の起工式になったと観る。

セルゲイが両親の期待に応えるために【逆接的】に始めたバレエのなかで、逆接的に生まれた〈順接〉。
物語における「起承転結」の「転」に当たるところ。



もう一度、冒頭の言葉を繰り返します。

 「違う」は現実的。
 「同じ」は観念的。

このように捉えられるのは、人間が持つ能力(才能)に焦点が「現実」があるからです。
この「現実」とは、数多くある真実の中で、その一点が社会的に特に価値を持っている、というくらいの意味。
つまりは虚構上のもの、ということです。

別の視点で行けば、当文章で示したような視点で行くならば、

 「違う」のは悦び。
 「同じ」なのは苦しみ。

とだと言えます。

「バレエの悦び」は、そういう才能に恵まれ、そうした稽古を積み重ねてきた者にしか味わえません。
それはバレエであろうが、野球であろうが、落語であろうが、学問であろうが、同じことです。
「違う」という意味において、同じです。
バレエの身体、野球の身体、落語の身体、学問の身体。
同じ身体でも、別の身体です。
それぞれの分野に特化した身体。

ゆえに当人でない者は、その身体的な悦びを「わがもの」とすることはできない。
セルゲイが語った「バレエの自由」はセルゲイだけのものです。
鑑賞する者が味わえるのは、せいぜいが「違いがわかる」ことの悦びです。
せいぜいといっても、とても大きな悦びですけれど。

一方で、苦しみの方は「同じ」です。
セルゲイの苦しみを「わがこと」と感じるのはやはり難しい。

原理的にはできると思います。
「違い」がわからなくても「同じ(人間)」として推量することは可能なのだから、できないはずがない。
ただ、そうならないようにリミッターがかかっている。
リミッターには先天的(遺伝的)なものと後天的(社会的)なものとがあります。

後者が特に発達するのが文明社会です。
後天的リミッターをよく発達させないと、適応が難しい文明社会。
映画、音楽、文学、ドラマといった限定された枠の中でのみリミッターを外すことが許されている社会。
ゆえに、文明社会の中で枠内で解除されたリミッターをそのまま枠外へ持ち出すのは剣呑な危険行為です。
気が狂ったとレッテルを貼られることになる。

ぼくは解除されたリミッターを自身の文章へ持ち込むことを意図しているつもりだから、
気が狂ったと評されれば、意図は達成されたことになります。
まだ足らないみたいだけど。


原理的にわかることはわかる。
苦しみは「同じ」です。
身体的に同じ機序で働くから。
もし違うとするなら、それは「苦しみ」を識らないときに生じるケースでしょう。
それは幸運なことだけれど、ある意味では不幸です。

なぜかというと。

苦しみは「同じ」だとするなら、解放されたときの悦びも「同じ」のはずだから。
ということは苦しみを識ることは、「同じ」悦びを識る資格を得たことになる。
「違い」を識るには多大な勉強が必要だけれど、「同じ」ものは素直になりさえすればよい。
あとは、素直にリミッターを外せばよい。
文明社会の中では困難なことだけど。

文明人には困難なことが、いとも簡単にやってのける人たちが映し出されているのは、



とか



とか。

文明社会では未開な社会のなかでは容易なことが困難なことになってしまっている。
共通の悦びを見出すしあわせの社会的価値を喪失してしまっている。
ゆえに、個別の「違う」悦びを社会的に実現する方法論にばかり焦点が当たり、制約になり、呪縛にまでなってしまう。

それは、セルゲイ・ポルーニンの家族がその制約ゆえにバラバラになり、バレエをすること自身を呪縛としてしまったものと同じもの。そして現在、セルゲイが抗おうとしているもの。


――と、いつもの結論に到達したところで、いい加減文章を閉じることにしましょう。

あ、もうひとつ、だけ。

日本でいちばん有名なバレエダンサーの、当映画へのコメントを拝借。

バレエダンサーは、その華やかなイメージに反し孤高の世界だ。
この映画では、バレエを使命とし生を受けた者は、その人並み外れた才能が、幸福だけでなく、人生の呪縛になり得る事実を見事に描いている。
再生の一歩を歩み始めたセルゲイには自らの才能を掌握する術をこれから見つけてほしい。舞踊という崇高な挑戦の少しばかり先を歩む者として、いくばくかのシンパシーと大きな激励をもって彼の今後の活躍を見守りたい。



ダンサーを孤高にしてしまうのも、才能を呪縛にしてしまうのも【社会】です。
見事に描かれているのはここのところであると同時に、多くの人が目を逸らそうとしているところなんだと思います。
このコメントのように、ダンサー個人の宿命という形にすり替えて。


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