愚慫空論

『人工知能は人間を超えるか~ディープラーニングの先にあるもの』

『蜜蜂と遠雷』が面白いです。



まずは図書館で借りてきました。
人気の本なので、予約は順番待ち。
順番が回ってきましたよと連絡があって、本を借り受けて、読み始めた。
通常だと2週間借りられるのですが、人気の本ということで、借受期間は1週間だけ。

ぼくは本が手元にきても、すぐに読み始めることができないんです。なぜだかわからないけれど。
ここのところ、ずっと忙しくて時間がなかったこともあるけれど。

しばらく放置して、なんとなく気に留めておいて、呼び出しがあるのを待つ。
『蜜蜂と遠雷』から呼び出しがかかったのは期限があと3日というところ。

読み始めると、これが面白い。
とても3日では読み切れそうにない。
一気に読めば3日もかかりはしませんが、休み休み読むのが、特に小説の場合は、ぼくの流儀なので、時間がかかる。

一度返却して、再度予約という手もあるんだけど、それも待ちきれない。
で、ポチーとやってしまいました。
kindle でダウンロードしてしまった。
やっぱり神の本にすればよかったかな...


『蜜蜂と遠雷』と同時並行で読んでいたのが、当文章のタイトルの本です。



こういう本は、休み休み読んだりはしません。
する~っと読んでしまうのが流儀。

これも面白かった。
というか、『蜜蜂と遠雷』との「読み合わせ」が面白かった。
食べ物でいう「出会いもの」みたいな感じ。
タケノコとワカメみたいな。


というわけで、『蜜蜂と遠雷』を語る前に、こちらを語りたい。


本書の特長。
AIというものを概観できる。
開発の歴史が要領よく記述されている。



現在は第三次AIブームのまっただ中。

第一次は「推論」と「探索」の時代。
第二次は人工知能に「知識」を入れる時代。
それぞれの内容については割愛させてもらいます。

第三次は2つに別れていて、まずは機械学習。
「知識」をコンピュータが自動的に学習していく。
でも、知識を自動入力するには「特徴量」というものを人間が入力しなければならない。

知識なり特徴量なりをたっぷり入力してやれば、コンピュータは賢くなって、人間よりも格段に素早く判断を下すことが出来るようになるけれども、コンピュータを賢くするために入力しなければならないデータ量は指数関数的に増大するから、そんな手間暇をかけるなら人間が判断した方がいい――、コンピュータは人間を超えられないと言われていた所以です。

ところが技術が進展してディープラーニングという手法が開発された。
ディープラーニングを駆使すれば、コンピュータは自ら「特徴量」を見出していくことができる。
厖大なデータを機械的にぶち込んでやれば、コンピュータが自ら厖大なデータの中から「特徴」を見出して、「特徴」によってデータを区分けし、整理するようになる。

たとえば、動物の写真をどんどんぶち込めば、どれがネコでどれがイヌであるのかを人間が教えなくてもコンピュータが自ら見出した「特徴(量)」に沿って自動識別してしまう。ほとんど人間がやっている学習と同じことがコンピュータにもできるようになってきているというわけです。


「特徴(量)」とは、要するにソシュールがいうところの「シニフィエ(意味)」です。
日本語ならイヌ、英語なら dog というシニフィアン(記号)があって、それがシニフィエに対応して言語は成立しています。人間はシニフィアンを入力することで脳内にシニフィエを想起し、思考することができる。

第三次の機械学習は、シニフィエをコンピュータに教えなければならなかった。
「イヌとはなんぞや?」という、人間にとっても答えるのに窮するような問いに対する回答をコンピュータが解するアルゴリズムに置き換えて入力していた。

それがどんなに大変なことかは、想像がつくというか、想像を絶するというか。
その大変なことを、まだまだ不完全ながらもコンピュータがこなしてしまう。
人間の脳の神経接続を模しニューラルネットワークがこなすようになりつつある。




上図はコチラ(←クリック)よりお借りした単純化したニューラルネットワークの概念図です。

左からインプットがあって、同じ入力が一層目の多数の神経細胞に伝わる。
一層目の各々の神経細胞はそれぞれに判断を下して、次の層の神経細胞へと情報を伝える。
前の層から入力を受け取った神経細胞は、同様に各々が判断を下して次の層に。
――ということが幾重にも深くディープに繰り返されることによって、「特徴(量)」が出力されてくる。

なぜ繰り返すと「特徴(量)」が出てくるのかという説明は、これまた割愛。
とにかく、そうなるんだよと、ここは理解してもらいたいところです。




人工知能の「第一次」は「推論・探索」でした。
これは範囲が限定的されたものでしか通用しなかった。
チェスのような比較的単純なゲームでは人間に勝利することができたが、将棋や囲碁になると探索の範囲が広すぎて、推論・探索のためのルールを人間が人間以上に教え込むことができなかった。
いわゆる「トイ・プロブレム(おもちゃの問題)」しか解くことができなかった。
「トイ」の範囲内では、人間以上の能力を発揮したけれども。

「第二次」は「知識」でした。
知識とはシニフィエとシニフィアンとが未分離のものです。
コンピュータに知識を入力するとコンピュータは賢くはなったが、知識を入力する人間以上には賢くなりえなかった。

「第三次」の始まりは「特徴(シニフィエ)」でした。
知識からシニフィアンが分離してシニフィエだけをコンピュータに入力すればよくなった。

こうやって経過を見ていくと、とても面白い。

実は一次も二次も三次も、コンピュータそのものの基本構造に何ら変化はありません。
中央演算装置(CPU or MPU)とメモリがコンピュータの〈世界〉です。
その世界では「ビット」しか通用しない。「0」か「1」かです。
「推論・探索」であろうが「知識」であろうが「特徴(シニフィエ)」であろうが、コンピュータにとってはすべて同じ。
実は変わったのは、人間のほう。
人間が変わることでコンピュータが変わった。
マーケティングとイノベーションです。

技術発展がディープラーニングの段階に到達しても、「人間のほうが変わった」ということには違いがありません。

実は人間は、ディープラーニング以前にシニフィエを自動発見する計算方法を発明しています。
なので、ディープラーニングは再発見と言っていいのかもしれない。
もしくは、コンピュータ言語への翻訳に成功した。


さてさて、例のごとく長くなっていますが、本題はこれからです。

コンピュータはディープラーニングの手法が開発されたことで、知能に限定して言えば、人間と同等かそれ以上の能力を獲得した、あるいは、獲得する見通しが立った。

機械はすでに、筋力においては人間をはるかにこえる能力を獲得しています。
コンピュータも機械ですから、機械が人間を凌駕しつつあると言えるのかもしれない。
その可能性に、予想可能な知性を持った人々は怯えています。
「シンギュラリティ」です。

シンギュラリティの話は後述するとして、コンピュータが人間と同等(以上)の能力を身につけたということを事実として受け入れ、そこから人間との比較をしてみる。人工知能開発の歴史も込みで。

ディープラーニングの実現で判明したことは、シニフィエもまたアルゴリズムだという事実です。
それ以前は、シニフィエの生成はわけのわからない「暗黙の次元」で生じるものだとされていました。



人間にとってシニフィエの生成が暗黙の次元であることは、未だ変わりがありません。
コンピュータにシニフィエを生成(計算)せしめたのは確かに人間ですが、もはやその計算に人間の理解は届かない。
これは現実です。
人間の理解が及ばないという現実の出現は、人間と同等(以上)という解釈でいいはずです。

では、人間はどのような道筋を辿って、人間と同等(以上)のアルゴリズムを生み出したのか?
知識からシニフィエを分離し、シニフィエを自動生成するようにした。

ディープラーニングを活用する上で行われているのは、自動生成したシニフィエにシニフィアンを与えている。
そうしないと、今度は人間が理解できないから。
多量の画像データから人工知能が導き出した「ネコのシニフィエ」に対して、人間が「ネコ」あるいは「cat」というシニフィアンを与えている。

これはどういうことか。
繰り返しますが、ディープラーニングは人間と同等。
ディープラーニングの元となるニューラルネットワークは脳の神経組織を模したものですから、ディープラーニングにおいては、人間の神経細胞の作動がエミュレーションされていると考えてよいでしょう。少なくとも、その可能性は高い。

そのエミュレーションにおいては、

 シニフィエが先。
 シニフィアンが後


この順番がとても重要だということです。


そこのところを頭に入れて、次の記事です。

  「仕事が苦しいのは、自分が無能だから」と思うな
     ~東京大学東洋文化研究所 安冨歩教授に聞く「ストレスの正体」

日本の民主主義とは、「個人の平等」ではなくて、「立場の平等」なんです。つまり、いかなる「立場」も等しく尊重されないといけないけど、「人間」は尊重しなくていいというわけです。だから、日本人は立場を失うと、尊重されなくなります。立場を失えば、何をされても文句は言えないという状態になる。それが恐ろしくて、みんな立場を守り抜こうとするんです。

その役を果たすエネルギー源が、「罪悪感」です。多くの人は、「私がやらないといけない役が目の前にある。それを放置することはできない」と考えるでしょう。なぜならば、役を放置すると、強烈な罪悪感が湧くからです。

ちなみに、立場主義は日本特有のシステムですけど、世界各国それぞれに、形の違う「罪悪感発生システム」があるんです。



人工知能に即していうならば、「立場」とは何か。
「知識」です。シニフィエとシニフィアンが未分離のもの。

日本人は、人間として備わったディープラーニング能力によって、「立場」という【シニフィエ】を誰もが自動生成している。
社会環境が日本とは異なる他国においては、日本とは別の「立場」と同等でかつ「立場」とは異なるシニフィエを自動生成している。
たとえば中国では「メンツ」。
欧米では「契約」。

そうやって生成された【シニフィエ】がさらなるディープラーニングを阻んでいる。

この【シニフィエ】を「立場」だと認識している人は、実は少ない。
自分が縛られてる【シニフィエ」に適切な「名(シニフィアン)」が存在すると認識している人は少ない。
つまり、盲点になっています。
別の言い方をすれば【蓋】になっています。

勘違いしているんです。
人間は、乱暴に言ってしまえば、「データ入力・シニフィエ自動生成生体マシン」です。
なのに、シニフィエの「特徴」を入力されている。
それが学習だと思い込んでしまっている。
そういうふうに習慣づけられている。

コンピュータは機械ですから、基本構造になんらの変化もなく「データ入力・シニフィエ自動生成電子マシン」になることも可能ならば、「シニフィエ入力・判断出力電子マシン」になることも可能です。どちらであっても、機械は機械。

ところが生命である〔ヒト〕は違います。
「データ入力・シニフィエ自動生成生体マシン」として出来上がっている生体を「シニフィエ入力・判断生体電子マシン」として振る舞うように仕向けると、生体そのものが変化していってしまう。
その変化の感触が、記事で指摘されている「罪悪感」なのでしょう。

これはぼくの直観で、エビデンスはありませんけれども。


ディープラーニングを参考に言葉を組み上げていくと、次のようになります。

 〈人間〉とは「データ入力・シニフィエ自動生成生体マシン」。
 【人間】とは「シニフィエ入力・判断出力電子マシン」。




終わりはもうすぐです。
残った課題は2つですが、それらは問題提起だけに留めておきます。

ひとつめ。素材として取り上げた「人工知能は人間を超えるのか」という問いについて。

著者の見解は、超えないというものです。

「知能」においては超える可能性は大いにある。
だけれども、〔ヒト〕は生命であって、〔人間〕はまだまだ生命の謎を解き明かすところに至っていない。
だから、知能がいくら発達しても、筋力はすでに大きく凌駕されていても、機械は人間を超えるところへ行くことはできないだろう、と。

では、なぜ、〔人間〕は機械に怯えているのか?

この問いと回答は本書にはありません。
それは【人間】であることを強いられているからです。
【人間】であることを強いられることで生じる罪悪感のバリエーションが「怯え」です。
ですから〈人間〉は、そうした怯えを感じない。


もうひとつ。



ディープラーニングの話が、どのようにこの小説と結びつくのか?
キーワードは「ギフト」です。

次に続きます。

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