愚慫空論

『世界でいちばん美しい村』





 貧しくても 笑いの絶えない家族
 絆
 命の輝き
 大自然とともに生きる人々
 友情

 
予告編に出てくる言葉を拾ってみました。

これらの言葉はすべて、この映画で映し出されている特徴であるのは言うまでもありません。
ただ、ひとつ、ちょっと違うな、という言葉がある。

 「大自然とともに生きる人々」

これは違います。
いえ、違うというのは違うかもしれませんが、微妙です。

この言葉には撮影者のバイアスが入っている。
この言葉に共感する者は撮影者のバイアスを共有している。







「自然とともに」ということは、「自然とは別のもの」があるということです。
それはなにものなのか?

予告編でこの言葉が登場するときの背景は、男の子が水牛に頭をペロペロと舐められているシーンです。


ぼくが鑑賞した上映の回では、監督の石川梵さんが舞台挨拶に立ちました。

ホームページを開くと、オフィシャルサポータのトップに山田洋次監督が上がっています。その山田監督がこのシーン、少年の頭ペロペロ映像を

 「もっとないのか。いつまでも見続けていたい」

と言っていたと紹介していました。
その気持ちはとてもよくわかります。
この気持ちを共有する人は多いと思います。

でも、では、あなたは少年のように水牛に頭ペロペロされたいか?
水牛があなたの頭をペロペロしようとしたら、思わずのけぞりはしないか?

まあ、そんな心配よりも先に、水牛が舐めてくれはしないでしょうけれども。


 「大自然とともに生きる人々」

なんて言っているうちは、水牛は舐めてくれないだろうと思います。
彼らを指してそう呼ぶのは正しい。
そこにぼくたちの正直な気持ちも、確かにある。
だけど水牛は舐めてくれないし、ぼくたちだって身が強張るでしょう。

彼らは単に

 「自然に生きている人たち」

それ以上でも、それ以下でもない。



舞台はネパールのラプラック村という場所だそうです。
ネパールの集落ではもっとも大きな集落のひとつ。
人口は4000人ほど。
2015年4月25日に起きた大地震の震源に近い村。

彼の地にも文明は入り込んでいます。
巨大文明の地、インドに近いこともあるのでしょう。
アマゾンのピダハンやヤノマミよりもずっと文明的です。

でも、まだ彼らは文明に呑みこまれていない。
〔システム〕は彼の地には侵入していない。

だから、彼らはしあわせです。
ええ、もう、「だから」だけでいいと思う。
〔システム〕が侵入していないから、しあわせ。


彼らはしあわせの中で生きています。
基本、しあわせなんです。

しあわせの中に不運が訪れる。
大地震が起きた。
大切な人が死んでしまった。

不運に見舞われた人が不幸になってしまう場合もある。
でも、それは例外です。
この映画には例外の人も出てきますが、それが例外だということもまた、よくわかります。



ぼくたちは〔システム〕のなかで生きている。
だから基本、不幸です。

不幸だから、しあわせを求める。
しあわせを求めて競争する。
競争がデフォルトになっている。
そうしないと幸せになれないから。

「大自然とともに生きる人々」

このような言を吐き、このような言に共感してしまうことが、基本不幸な【人間】の証なんだろうと思います。


【人間】は本当に奇妙な振る舞いをします。

【人間】だってしあわせになりたいと願っています。
だったら、現に幸せな人たちを手本にすればいい。
その人たちを師匠と仰げばよい。
それが筋道といううものでしょう。

でも、そんな考えはなぜかアタマの隅をかすめもしません。

この映画はラプラック村の人々への親愛と共感に満ち溢れています。
しあわせに暮らす人たちへの尊敬の念は深いものがある。
なのに、【人間】はお節介にも彼らを救おうとし、文明の【光】を当てようとする。

奇妙なこと、この上ない。


しあわせになりたくて、なれずにいるぼくたち。
大きな不運に見舞われても、まだしあわせでいられる人たち。

しあわせになることが目的であるならば、後者が前者を救えるわけがない。
後者が前者に教えることなどあるはずがない。

事実は逆です。
ぼくたちは、一時的にせよ、彼らの救われている。
この映画を鑑賞している間だけはしあわせでいられる。
山田監督ではないけれども、「もっとないのか」と言いたくなる。

でも、それはしあわせの幻を消費しているに過ぎません。


ラプラック村の人々に感銘を受けた石川梵さんは、彼の地の学校を建設しようと基金を立ち上げたんだそうです。
その気持ちはよくわかる。
彼の善意もよくわかる。

でも、やめれ。

ぼくたちにいったい何を教えられるというのか?
自分で自分を救うことができないぼくたちに。

彼らはしあわせで純朴だから、ぼくたちの教えを素直に受け入れるだろうと思います。
そして、いつの間にかしあわせを見失う。
世界中のあちこちで繰り返し起こった悲劇。

いや、喜劇か。
彼らにとっては悲劇でも、ぼくたちは幾度も観てきた喜劇。
幾度観ても見飽きることがない喜劇。
観るたびに、自分たちが特別だと思い込ませてくれる。
そう思い込むことができれば、束の間、自分たちが不幸であることを忘れることができる。


『世界でいちばん美しい村』は、文句なしに良い映画です。
観てみて損はない。
保証します。

おカネを払った分以上にしあわせにしてくれます。

でも、それだけにしておいた方がいい。
所詮、ぼくたちは、おカネを払って束の間のしあわせを手に入れるしかないのだと。




もう一回、観てみたいなぁ...
たぶん、観に行くことになると思う。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/1003-9812e7f5

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード