愚慫空論

丸木美術館

丸木美術館というところへ行ってきました。

正式には、原爆の図丸木美術館


行くことになった理由は単純です。
誘われたから。

それまで丸木美術館の存在なんて知りもしませんでしたし、そういうところがあると知り、誘われていくことになっても、積極的には興味は湧かなかった。

消極的には興味はあったんですけれどね。
どうせ行くんだから、そこで確かめればよかろう――と。

「原爆の図」とあるのは気がついていたので、まあ、重たいところなんだろうなぁ、とは思っていたけれど、向き合うおうと気構えるわけでもなく、本当に、「誘われたから」。
ただ、それだけ。


入館の時にチョットしたアクシデントというか、トンチンカンなことがありました。

ぼくを誘ってくれたN夫妻が、受付でチケットを購入しました。
そしたら受付の人、おそらく学芸員の方だと思いますが、

 「もしかして、Nさん?」

と声をかけた。

Nさんの奥さんは、即座に

 「違います」

(笑)
学芸員さん

 「お世話になっている人によく似ていると思ったので...」

N奥さん

 「...」

N旦那さんが入館しようとすると、奥さんが声をかける。

 「ちょっと、Nさん!」

Nさんの奥さんは、旦那さんを「Nさん」と呼ぶんですね。

で、まだ、学芸員さんは受付に立っている。
その様子を眺めていたぼくは、

 「違うって言って、すぐにNさんって言ってるやん!」

 「あれ、ホンマや」

学芸員さん

 「やっぱりNさんなんですね。娘さんとそっくりなので、そうだと思いました。娘さんにはいろいろとお世話になっています」

ぼくはゲラゲラ大笑い。
N奥さん

 「ここはそういうところとちゃうねんで~」

そういうところのしたのは、誰だ!?


――といったようなやりとりもあったりして、すっかり脱力して、『原爆の図』鑑賞に臨むことになったわけです。



順路に従っていくと、最初の部屋に展示してあったのは、「ありきたりな絵」でした。


丸木美術館は、丸木位里・丸木俊という夫婦の画家の作品をメインにしています。
最初の部屋にあったのは、位里さんのお母さん。丸木スマさんの絵です。



「ありきたりの絵」は、つまらない絵という意味ではありません。
美術館といった非日常に飾るような絵ではない。
暮らしのある日常にあるのがふさわしいような絵という意味です。
暮らしの雑然とした中に、何気なく飾られているのが似合う。

スマさんの絵は、子どもの絵です。
年を取ってから絵筆を取るようになって、書き始めたとか。
生命力は充溢している。
それがそのまま絵になっている。
洗練といったものとはほど遠い。


スマさんの絵は極楽浄土の絵なんです。

難しいことは何も要らない。
「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、阿弥陀様が西方浄土へ連れて行ってくれる。
それと同じように、難しい技法など考えず、絵筆さえ取れば出現する絵。

「絵筆さえ取れば」というのは、【教育】に適応してしまった人間には難しい技なんですけれど。

けれど、いずれにしたって、美術館にあるのがふさわしいような絵ではありません。

 なぜ「こんなもの」が展示してあるのか?

訝しく思いながら、次の部屋へ足を踏み入れました。
そこにあったのが『原爆の図』でした。



部屋に入った瞬間に、ぼくは自分の迂闊さに気がつきました。
これは気構えをしておくのだった。
気構えをして、予め防御線を張っておくのだった。

が、気がついたときには、もう、遅い。
絵が、ずんずんと入ってきてしまっていた。

あれらは「地獄の絵」です。
次が「地獄の絵」だから、前座に「極楽浄土の絵」が置かれてあった。


防御線を張っておけば、もっとじっくりと鑑賞できただろうと思います。
もっとも、そうすべき絵かどうかは疑問ですけれど。

無防備だったぼくは、呑まれてしまいました。
呑まれながら、展示されている絵たちを見て回った。


展示されてあったのは『原爆の図』だけではありません。
南京大虐殺やアウシュビッツ、水俣の図もありました。
いずれも「地獄の絵」です。


『南京大虐殺の図』にあった解説を読んで、思い出したことがありました。
『南京大虐殺の図』は、アメリカで『原爆の図』を展示したときに浴びた批判が元に描かれたもの。

 オマエたち日本人は、南京で大虐殺をやったではないか。
 もし中国人が、『南京大虐殺の図』を描いて日本で展示したとしたら、どう思うのか?

そういう批判だったそうです。
このエピソードはどこかで聞いたことがあります。
そうか、そのエピソードの主が丸木夫妻だったのか。

丸木美術館には、当の丸木夫妻が描いた『南京大虐殺の図』があります。
先の批判をしたのはどこぞの大学教授だということですが、さもあろうと思いました。
アタマデッカチな批判だから。

丸木さんたちは、ただただ、彼らが見てしまった「地獄」を描き表わしたかっただけです。
そんなことは、絵を見ただけで十分に伝わります。
が、その大学教授には伝わらなかったのでしょう。
「責任」という名の防御線を張っていたから。

そんなくだらない防御線は張りたくないものです。



「地獄の絵」。

一度はは観ておいた方がいいと思います。
再び三度と観るべきものかどうかはわかりません。
だけど、一度は観た方がいい。


人間というのは面白いものです。
〈意志の力〉を生み出す。

目を背けたくなるような悲惨な写真は、いくらでもあるでしょう。
それらは絵以上に「事実」を伝える力はある。

だけど、人間を経た絵なり音楽なり、文学でもいいんですけれど、そうしたものには〈意志〉の力があります。
目を背けたくなるような事実に、目を背けなかった〈意志〉。
凝視し続けたという〈意志〉。
そうした〈意志〉が「地獄の絵」には宿っています。


それにしても。
地獄を見据えるというのは、悲壮な〈意志〉です。
人間はエネルギーを持った存在だけど、ひとり一人のエネルギーはそんなに大きなものではない。
悲壮な〈意志〉には、大きなエネルギーが必要なはず。
それを丸木さんたちが自分たちの「エネルギー貯金」から出したとするならば、そうは保たなかったはず。

丸木夫妻のことを何も知らないぼくは、彼らは早死にしたのかな? なんて想像しましたが、これは大外れでした。


ぼくの想像への回答はもとより美術館にあるんですが、その日はたまたま、ではなくて、N夫妻はそれが目的で、その日に丸木美術館へ行くことにし、ついでにぼくを誘ってくれたのでした。



この企画展に答えがあった。
丸木夫妻のエネルギー収支のバランスは、キチンと動的平衡を保っていたんですね。

美術館には丸木夫妻の住居が隣接しており、絵画の展示空間であると同時に、画家の生活空間でもあるという特異な場所でした。二人には独特の抱擁力があり、「一種の、世代や階層をこえた共同体」(石牟礼道子)が成立していました。



暮らしがあった。
創作と暮らしと自然が一体になっていた。
だから、これほど大きな〈過剰〉を生み出すことができた。


絵の鑑賞を終えた後、美術館の周囲を巡ってみました。
美術館のすぐ横にアトリエであったと思われる建物がありました。
30畳くらいの大きさ。
眼下に川を見下ろすことができるような場所で、周囲を開け放つことができ、囲炉裏が切ってある。
こういう場所で、環境からエネルギーをもらいながら創作に〈過剰〉を注いだ。
その〈過剰〉が多くの人を招き寄せた。

今は残念ながら、その痕跡しか残っていません。

 夏草や兵どもが夢の跡

ちょっと違うけれども、さほど遠くはないと思います。
見下ろす土手は草が生い茂ってしまって、風の流れを遮っている。
自然というのは手前勝手だから、人間のほうも自分の都合を押し付けて、せめぎ合いやって、しっかりつきあわないと、たちまち窮屈な場所になる。生い茂った夏草には、少し前までは人間たちとしっかりとつきあいをしていた痕跡が残っていました。


コメント

どうもありがとう。
と、言ってもワタシのためにエントリーをたてていてくれるわけではないのでしょうが、笑

ふたつのエントリーを読みましたが、
正直にいえばよく解りません。動的平衡。過剰。
戯れ言のエントリーのやりとり以降福岡伸一の著作があることを知りました。やはり紹介されました。
読もうと思いました。読めば解るのかは、解りません。
現状では過剰と平衝が繋がりません。
生命と自然が生み出す過剰が平衝を凌駕するもの、というイメージと
そうした過剰のあとにある平衝、、それが波のように動的である、
というイメージはしていますが……。
はたしてそれが勘違いなのか、近いのかは解っていません。
また、言葉で解るものではない「過剰」は感じるもの(身体的なもの)だろうな、とは想像しています。

とすると、端的に最初の疑問である
レイプが〈過剰〉?がまったく解りません。
そも、ワタシが解らないのは、固定観念にとらわれ解かろうとしていないわけで、人間の観念である価値判断によって「解らない」としている。
ということかもしれませんね。
とりあえず福岡伸一は読んでみますね。

毒多さんのためというより、毒多さんの問いかけがきっかけ、ですね。
そして、対話のための叩きです。


『つまりレイプは社会悪であり人間悪なのである』
 http://dr-stonefly.at.webry.info/201707/article_1.html 

正鵠のど真ん中を射貫いた言葉です。
ではなぜ、性行為が場合によっては社会悪とされ、それがレイプと呼ばれるようになるのか。


その前に「過剰」です。

森の中の葉っぱは、動的平衡の結果として《かたち》を維持しています。
葉っぱが〔過剰〕なのは、成長するからです。

動的平衡は、常態を指す言葉です。
そこには成長は入っていない。
成長が入っている分だけ、過剰だということです。

そう考えると、性行為はまさに〔過剰〕です。
成長の起点を生む行為であるわけだから。

そのような創造行為には善も悪もありません。
ただ自然なだけ。
〔社会〕があって初めて、善と悪とが分離し、場合によっては創造行為が悪とされる。
つまり、〔虚構〕が善悪を決定する。
つまり、レイプも〔虚構〕です。


『サラエボの花』という映画がありました。
毒多さんも文章を挙げておられました。

あの映画は、意に沿わぬ創造行為を強制された女性と、意とは関係なく自然の〔過剰〕によって生まれ出てきた娘の物語でした。

意に沿わぬ創造行為であるがゆえに、その創造は【過剰】であるのか?
『サラエボの花』が示したのは、必ずしもそうではないということでした。

では、誰が〈過剰〉か【過剰】かを決めるのか?
『サラエボの花』では、個人が決めました。母親が決めました。

そう考えると繋がりませんか? ヤノマミに。

大半の〔人間〕は、〈過剰〉か【過剰】かを、すなわち善か悪かの決定を〔社会〕に委ねます。社会の基準を我が基準として、善悪を判定する。

〔人間〕は〔社会〕に主体性を委ねる。
そうすると〔人間〕は【人間】になる。
【人間】が営む〔社会〕が【社会】になるのは、必然のことです。

レイプを生むのは【社会】です。
【社会】に基準に沿わない創造行為がレイプだとレッテルを貼られる。
【社会】の基準に沿わないとレッテルを貼られた【人間】がレイプをする。
【社会】の基準に沿おうと死に物狂いになってしまっている【人間】がレイプをする。

そもそもは、自然な〈過剰〉です。
それが【社会】によってカテゴライズされて【過剰】なものとされてしまう。

だから、レイプをなくそうと思えば、【カテゴライズ】をなくさないといけない。
あるいは【カテゴライズ】に対抗できるだけの強い〈人間〉を育てなければならない。
ニーチェが提唱した超人のような人間ですね。

(追記)

何が【カテゴライズ】を生じせしめるのか?

帝国と宗教と貨幣です。
『サピエンス全史』が指摘した「人類の征服者」です。

最初に謝罪しておきます。
せっかくリンクしていただいた戯れ言のエントリーですが削除してしまいました。
書いた目的は達したうえに、ちょっと「この世」的な理由があるためです。
リンクしていただいたのにすみません。

なんとなく、ワタシがイメージしていた「過剰」も「平衝」もさほど間違っていないような気がしてきました。
自分でかいた「サラエボの花」のエントリー忘れていました。
内容を読んで驚きました。へぇーこんなエントリーあげていたんだ。と。
おそらくその辺りであげられた愚慫さんのエントリーの言葉にひっぱられたのでしょうが、「虚構」だとも書いてますね。
書かれている言葉の表面上は違和感がありません。
ただ、いま感じている「虚構」とは違うようにも感じました。
言葉をくみたてて書いているんだ、、という感じ。
今のほうがもう少し実感がともなっている、気がします。

・毒多さん

前コメントのリンク先は削除したとのことなので、その代わりではありませんが、『サラエボの花』についてお書きになった記事へのリンクを上げておきましょう。(^o^)

 http://dr-stonefly.at.webry.info/201105/article_1.html

「この世」的な理由で、せっかく上げた文章を削除しなければならないのは残念です。でも、【システム】に負けるな、なんて言いはしませんww 毒多さんを尊重するだけのことです。


>言葉をくみたてて書いているんだ、、という感じ。

この感じ、興味深いですね。
この一文から読み取れるのは、

「言葉を組み立てる」のは実感とは別、と感じるということですよね?
ぼくはそんなふうに感じなかったんです。
言葉の組み立てがそのまま実感に沿っていると感じました。

『サラエボの花』の状況と、ぼく自身が暮らしている生活の状況。
まったく違います。
だけど、観方によっては共通する部分が出てくる。
その観方が、毒多さんが『サラエボの花』の記事で記していることなんです。

もちろん、程度の差はあります。極端な差がある。
けれど、それは程度であって、本質的な違いではない。
ぼくたちは、大きな不運に見舞われれば、すぐに「あんなふう」になってしまう。

ぼくたちは男ですから、レイプする側ですよね。おそらく。

まあ、もっとも、ぼく自身は、状況がいかになろうとも、「あんなふう」にはならないという自身はあります。あるけれども、そうした確信は、そうそう手に入れられるものではないとも思う。

その意味で、ぼくはとても幸運だと思っている。
そうそう手に入れられないものを我がものとすることができたという意味で。

もちろん、幸運なだけではありません。
それなりの対価は支払ったと思う。
好き好んで支払ったわけではないけれども、支払わざるを得えない「負債」があって、その「負債」はぼくが作ったものではないんだけれども、でも、【システム】の所為でぼくのところへ巡ってきて、なんとかぼくの分は払い切ることができた(と思う)。

見渡すと、多くの人が、それぞれに自分由来ではない「負債」を背負っている。
『サラエボの花』の母子はその典型だけれど、【システム】の所為で彼らのところへ巡っていったという機序は同じ。そして、彼らが彼らの分を払いきったというところも同じ。
ぼくが負担したものよりも、ずっと大きな「負債」。

逃げなかったんですね。
この姿勢は、やっぱり〈過剰〉なんですよ。
そして、この〈過剰〉こそ、尊敬に値するものだと思う。

だからぼくは、自分は「負債」を支払い終わったかもしれないけれど、そうした【システム】から離れたいとは思わない。
解脱したいなんて思わない。
そこへ寄り添って生きていきたいと思っています。


悲しいかな、多くの人は、逃げようとしている。
まあ、それは当然と言えば当然なんですけれど。
自分由来ではないんだから。
【ハラスメント】として巡ってきたものなんだから、そうするのが、生来的に社会的な[ヒト]として理には適っている。そうやって〔ヒト〕は【人間】になる。

【競争】をしているわけです。
自分に巡ってきた「負債」を、他の誰かに押し付ける競争。

「この世」的な理由というのは、そうした【競争】から派生してくるものです。

ぼくは以前は、そうした【競争】を拒絶し、ことを構えるのが「正義」だと思っていたけれど、今は違います。そんなことをしたって、誰も幸せにならない。拒絶も闘争も、「負債」の押し付けの一つの形でしかない。

だから、ぼくにも「この世」的な理由で書けないことがいっぱいあります。
書けばとても面白いと思うんだけど、今は書けない。

(追記)

名前って面白いですよね。

毒多さんの「毒」というのは、先のコメントで言った「負債」なんだろうと思ったりします。

「毒多」という名乗り上げは、無意識のうちに「たくさん負債を背負っている」ということの表出だと思うんですよねぇ~ (^o^)

 あのエントリーは実はかなりフライングで上げたのです。「人間」の歪のことがわかって浮かれてました。浮かれて自制がきかなくなり、「この世的」なお約束とちゃんと対峙するまえにあげてしまったために、一旦削除した次第です。

 自分でいうのもなんなんですが、「サラエボの花」エントリーは今読んでみてかなりちゃんと書けていると思います。今、同じテーマで書いてもさほど違いはないと思います。字面上は。でも明確にワタシにとっては、違う、ということが解ります。
 「サラエボの花」エントリー当時は「思索は道楽」だった。以前は歪を隠匿していた、見ないふりをしていた。他人事だった。「それができた」「それができるNTだった」です。歪と歪からくる負債を他者の物語としてアタマで理解していた。そうしたうえで書いたことを知っているし白状できる。が、今は幸せなことに歪と負債を実感をもって受け止めている(実生活は多少困難になったが、、笑)、という個的な違いです。

 さて、レイプをしてしまう男は歪に敏感なのかもしれない。おそらく「歪」そのものには気づいていないでしょうが。その分「逃げている多数」「法律・倫理に従順な多数」より、「歪」「負債」のホントに気づくことができそうな気がする。
 被害者は理不尽な負債を背負わされてしまったわけですが、これもチャンスかもしれない(こう言うのはかなり抵抗はあるのだけど)。逃げなければ、気づかない人間よりも「解る」かもしれない。ともに困難なことだとは思いますが。
 ワタシがもしそこと係ることができれば実感が確信に変わるような気もしている。かつて行っていたホームレスとの付き合いさえ、今おこなえば全然違うものになるような気がしている。

 ホームレス以来、もしそうした「歪」「負債」を負わされた人と再び「寄り添う」ことができれば、ワタシは変わることができるような気がしています。それは相手のためでなくワタシ自身のための寄り添いになりますが、もし、相手がワタシを信頼してくれるならば、「一方的」な寄り添いではなく、「寄り合う」ことができる。「歪」「負債」を俯瞰し対処できることができる独立した「人間」同士になれる。その寄り合いは共依存でない、いうことは言うまでもありません。信頼されるための技術?方法?は学びたいと思っています。

>そうした【競争】を拒絶し、ことを構えるのが「正義」だと思っていたけれど、今は違います。そんなことをしたって、誰も幸せにならない。拒絶も闘争も、「負債」の押し付けの一つの形でしかない。

賛同します。何度も読み直しました。

昨日ほんと久しぶりに本屋へ行ったら「Home Deus」DVDBOOKなるものが売っていて思わず買ってしまいました。(4月以降始めて本を買った、笑)。
「Home Deus」に関するユヴァル・ハラリの講演会でした。
観ていて感じたのは「歪」「負債」の質・量も加速度的に変化、増加していくんだなぁ、ということです。しかも予想不可。ちょっと思索を超えたの次元になりそうです。
ますます毒多になるかな、爆!!

・毒多さん

一仕事して、昼間から呑みながらレスします。まだ酔っ払ってはいませんが、というか、ぼくは酒に酔うということが体質的にできない人間なんですが、それでも多少は酔っ払いが文面に出てくるかもしれません(^_^;)

>思索は道楽

今更ですが、ぼくはずっとそれは【蓋】だな、と思っていました。

道楽であると想い為すことによって、自身に【蓋】をする。
なぜその必要があるかというと、【立場】を失わないためです。
本気で思索を始めてしまうと、【立場】を自ら放棄しかねませんから。

やっぱり毒多さんはNTなんだと思います。
【立場】を自ら放棄することはしなかった。
【立場】を失って(←と言っていいのかな?)初めて、思索に本腰を入れ始めた。

その点、ぼくはやっぱりETなんですよ。
ずんずん【立場】を放棄してしまう(^_^;)
どうしてもそこに価値を見いだせないんです。
多くの人が尊重しているのはわかります。
それが観察されるから。

でも、それは「それ」なんですよね。他人事。
ぼくにはどうにも「これ」にならない。

そういうぼくからは、アキラさんのところでの「それ」と「これ」を巡る議論ですが、そもそも「それ」と「これ」とを隔てる支点が【立場】にあるように感じられて仕方がない。あの人たちも、築き上げてきた【立場】を失えばわかるのかも知れないなぁ、なんて思っています。

(続きです)

>これもチャンスかもしれない

悪人正機というやつですね。
悪人正機を真正面から説いた『歎異抄』が長らく禁書であった理由が腑に落ちると思います。


>レイプをしてしまう男は歪に敏感

そうだとも言えるし、そうでないとも言えますね。
レイプは「歪」そのものですから。
それは、加害者が歪であるということだけではなくて、レイプをレイプとする〔虚構〕の歪の極点という意味でもある。


そう考えると、次のような対処法も浮かんでくるんです。
危険とされるであろう対処法ですけどね。

それはレイプされた者を崇める、という方法です。
「聖なる者」として崇める。
そういう社会になるという方法です。

そんな社会になったらレイプが頻発してとんでもないことになるに違いない。
ここは過疎なので良いでしょうけれど、世間のど真ん中で発言したら炎上必至でしょう。
けど、ぼくは、そんな心配はないと思っている。

レイプが【歪】であるということを識れば、よくわかります。
我が事として【歪】を感じ取れれば、【歪】が〈聖〉とされた瞬間にレイプはほぼなくなるだろうと予想ができる。

でも、同時にそんな〈社会〉になることがいかに難しいかもわかります。
絶望的に困難です。

でも、我が事として【歪】を感じ取れればレイプなど、とてもじゃないけれどもできはしない。
〔ヒト〕は、そんなに自身を呪うことができる存在ではないですよ。
だとしたらなら、もう、とうに人類は滅びています。

(さらに続き)

>信頼されるための技術?方法?

『論語』がオススメです。


>「歪」「負債」の質・量も加速度的に変化、増加していくんだなぁ、

これは時代です。近代という時代。

一般に近代は1648年のウエストフェリア条約から始まったとされますが、これは「国家」の視点。ぼくは異論がある。

近代をはじめたのはコロンブスです。
アメリカ大陸が「コロンビア大陸」にならなかったことが近代の始まりです。
科学と人権と貨幣が人間社会を近代たらしめた。

――ここは『サピエンス全史』シリーズで語るところですね。
放置してしまっているけど(^_^;)

【歪】を我が事だと識れば、歴史もわかります。
「それ」ではなく「これ」として。

おはようございます。
福岡伸一の動的平衡、読み始めました。
動的平衡についてはまだほぼかかれていないのですが、かなり面白い本ですね^^

ここでの対話もワタシにはかなり面白くワクワクしています。

>思索は道楽、、からの、【蓋】【立場】「NT」は、全く同じように感じます。
ワタシ自身のことだから実感をもって納得できます。
ただ、ワタシは「【立場】を失って」まではまだいってない。けれど、何かが変わったと実感している。
実際に【立場】を失う、までいかなくとも、チェンジするきっかけはあると思います。
築き上げてきた【立場】を失っても気づくかないものもあれば、失わなくても気づくこともあると思います。

「それ」と「これ」での光るナスでのやりとりは拝読していました。面白かったです。
ワタシはかなり愚慫さんの意見寄り、、というか、、あ、解る、という感じなのですが、ワタシ自身のことを考えてみればこの世的な仕事の受注などは「それ」そのものですし、面倒くさいと思っても「それ」に話をあわせることもある。
さすがに、フェイスブックの「それ」そうろうの「いいね」やらnoteの「スキ」は完全にやめましたが、今は、出来る限り「これ」から発する「それ」しかやりたくなく、しないでおこうと考えています。
おそらくこの世的には「孤立」する場面もあるでしょうが、「孤立」を恐れて「それ」を気にしても仕方ない。ワタシにとっては無意味だとやっと悟りはじめました。
「それ」が「これ」から発し無くても合わせることができるのは、NTの特性です。特性を「良い・悪い」というのは意味がない。虚構です。
「これ」から起因しない「それ」でもあれやこれや関われる(空気を読める)NT多数によって成形されがちな社会が現実です。
ただ、NTのみによって形づくられているかといえば、やはりそうではなくETがかんでいる。
NT基準でETが障害というように、ET基準ではNTが障害といえますが、両方向にそのようなことを言っても仕方ない。NTとETは補完関係です。
補完関係ということを認識することが大切です。これは特にNT多数が考えなければなりませんがね。
おそらく、NT.ETはホモ・サピエンスの進化の分かれ目にいる別の種かもしれません、現状どちらも自然淘汰されない、いずれも必要、ということを思索すれば面白そうです。

レイプ犯が「歪」に敏感、、チャンス、、、は、やはりちょっと違うかな、と考え直しています。
むしろ「歪」を内包してしまい、気づかない状態。「歪」そのものと同化し、身体をもって具現したのがレイプと考えたほうがすっきりします。
自分の行為(レイプ)が歪が要因と考えるレイプ犯はいないような気がしますし、そのことで、どこかで「相談」する者もいない気がする。
ここから「そもそも」に気づいて、思索するのは困難だろうなぁ、、、
つまり、「レイプを崇める」つまり「歪」を崇めるが、効果あるのか、、、、疑問です。
「戦争を崇める」も「歪」を崇めるという構図では同じでしょうが、、、
効果がでるまでの「被害者」のことも考えてしまうということも、やはり、消えません。

英文のHomo Deusのほうは読み進んでいますか?
DVDでは、いまから先の話が語られているようですね。
NT多数が【立場】を失う、ことになりそうです。
有無を言わさず【歪】に飲み込まれる。
【歪】を認知しても解ったと喜んでいられるほど達観できるのか、、笑
はてさて、、どうなることやら。

とりあえず、こんなとこで、、、^^

・毒多さん

コメント拝見しました。

いろいろと湧き出てくるものはありますが、ここは敢えて控えておきます。

『空論』のコメント欄は対話のために設けてあります。
ですので、字数制限もないし、欄の大きさも敢えて本文と同じ大きさにカスタマイズしてある。
だけど、今は、ここでの対話の時ではないという気がします。

毒多さんの、毒多さんによる、毒多さんのための文章を待つことにします。

了 

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