愚慫空論

「浄・不浄」で考えてみる・死刑編

それにしても『死刑執行人の苦悩』(大塚 公子著)は衝撃的な本でした。この本を手にして以来いろいろと考え込んでしまっているのですけど、改めて思い知ったのは殺すという行為の重大さ。理由がどうであれ、殺すには大変なエネルギーが必要なようです。それも「負のエネルギー」です。 しかし、世の中には稀に殺すのにあまりエネルギーを必要としないように感じられる人がいます。こういう人には非常な不快感を感じてしまいますが、「死刑は当然!」といった声が出てくるのはこういう人が罪を犯した場合です。あるホラー作家が仔猫・仔犬殺しを告白して非難を浴びたということがしばらく前にありましたが、これも同様の不快感からでしょう。騒動は作家の意図が「軽く殺す」と誤解されてしまったために起こったのですが、この騒動によって、殺す対象ではなくその殺しが軽いか思いかが問題なのだということを示されたように思います。大変なエネルギーを消耗した末に罪を犯してしまった(と感じられる)ようなケースでは、むしろ同情が集まったりします。

『死刑執行人の苦悩』を読んだあと、「魂が穢れる」という言葉が心に浮かんでどうしても消えません。死刑を執行する刑務官たちは穢されてしまったように思えて仕方がない。世が世なら「不浄役人」と呼ばれて蔑視されていたことでしょう。対して死に行く死刑囚たちは浄化されていくように思えてしまいます。 まるで「負のエネルギー」を刑務官たちに譲り渡して逝くようです。「死刑」をはさんで向かい合う死刑囚と刑務官の関係は、どうしようもなく不条理です。

「負のエネルギー」とは曖昧な意味の言葉ですが、これは日本語でいう「穢れ」と置き換えることが出来るように思います。「浄・不浄」でいうと「不浄」です。日本人は昔から「穢れ」を忌避してきましたし、今でもその傾向は変わっていないようです(病的なほどの清潔を求めるのはその証左)。「穢れ」はいろいろなものが対象になるのですが、特に「死」は、「穢れ」の発生源としては最も強力なもののひとつです。

先に「不浄役人」という言葉を使いましたが、もっとも有名なのは江戸時代の山田浅右衛門でしょうか。この人は実質は幕府の死刑執行人でしたが、身分上はあくまで浪人。正式な役人として認められず、差別的な処遇を受けていました。また日常的に死に接することを職業とする人々が「穢多(えた)」などと呼ばれ、差別の対象になっていたことは周知の通りです。

「穢れ」が差別を生んできた日本の歴史上の経緯、「穢れ」を感じる対象の広さを考えると、あまり軽々に「穢れ」という言葉を使って論じるのは誤解と混乱の元になってしまいます。ですから本当は「穢れ」という言葉を使わないのが良いのかもしれませんが、後々の展開も考えて、敢えて使うことにします。ただし意味は限定して、「死」、それも不自然な「死」、つまり「殺人」にまつわることのみとしたい。「殺人」があったときに、または「殺人」を為そうとしてときに想起される感情や意思、こういったものを「穢れ=(不浄)」として考えてみることにします。

この「穢れ」は、死の原因とは全く関係がなく発生するものです。その点「善悪」とは異なります。「善悪」では殺人は一般的には悪とされますが、死刑や戦争など正義の名の下において為される殺人は善とされることもあり、実際、死刑制度や戦争を巡る論争はそれが善なのか悪なのかで争われます。善悪はその人の価値観によって判断の基準が異なる、まことにややこしいものです。
その点、特に「死」が「穢れ」であるという点については争いは無さそうです。「穢れ」という言葉は日本独特のものかもしれませんが、洋の東西を問わず、不自然な「死」には不吉なもの、禍々しいもの、とにかく「負のエネルギー」を感じるのは共通していると思われるからです。
あと「穢れ」の特徴として、伝染する性質を挙げることが出来そうです。人は自分にとって大切な人を殺されたりすると、どうしても復讐の怨念を抱くことになってしまいます。殺されたのは穢されたのであり、復讐は穢すことになります。いちど「穢れ」が発生してしまうと、それは周りに影響を及ぼしてしまうのです。


というわけで、死刑に関係する人たち、死刑囚、被害者、遺族、刑務官、それから死刑賛成 or 廃止論者の「浄・不浄」を、独断と偏見によって見てみたいと思います。

まず死刑囚ですが、これは文句なしに「不浄」でしょう。殺人という穢れる行為を為した者であり、また死刑の判決を受けるほどの者であれば、殺人のような重大な犯罪を犯すのにさしてエネルギーを要さなかった(と考えられた)者ですから、その人間性の本性(=魂)までも穢れていると考えられます。
また、この者は強力な「穢れ」の感染源です。周囲に穢れを撒き散らしてしまいます。
ついでに殺人を犯してしまったけれど、情状酌量の余地があり死刑にするほどではないと判断された者を見ましょうか。この場合、為した行為は穢れたものですが、穢れを為すのに大きなエネルギーを必要とした、つまり魂まで穢れていたわけではなかった、というところでしょう。ですから悔い改めれば更生が可能だと考えられえるのでしょう。

次に被害者。「浄」でしょう。これも文句なし。被害者たちとて生きている時分には多少なりとも穢れを為したはずですが、不幸な死とともに洗い流されていったかのようにも思えます。というのも、被害者は必ず天国に行くと考えられるからです。遺族の人たちはそう発言するし、それを否定する人もいませんから間違いないでしょう。
それにしても「死」には浄化の作用があるようです。たいていの死刑囚も被害者も、共に死と対峙、もしくは死を通過することで浄化される。少なくとも残された者はそう考えるようです。

ところで、常々疑問に思うことなんですが、被害者が浄化されて天国に行くのなら、もうすでに加害者に対する恨みなどは洗い流してしまっているはずなんです。死に行く過程で苦しみを味わったことは間違いないでしょうけれど、もしそこに恨みを残しているのなら、いわば成仏できずに、つまり浄化されずに天国へは行けない。遺族は被害者が天国にいるように言うけれども、恨みも残しているようにも言う。矛盾しているとしか思えないのですが...(こんなことを真面目に考える方がどうかしているのでしょうが)。

死刑を執行する刑務官。理由はどうであれ殺人は「穢れ」であるとするなら、この人たちは「不浄」でしょう。もともとは魂まで穢れているわけではないので殺すのに大きなエネルギーを必要とするようですが、徐々に為した行為に引きずられて魂までが穢されていく、そんな印象を受けます。
では刑務官も「不浄」で「穢れ」の感染源か? となるとこれは難しい。『死刑執行人の苦悩』によると刑務官自身にはそういう意識はあるようで、家族に「穢れ」が伝染しないか、心配しています。また実際、家族の方でも穢れが伝染していると感じているようでもあります。
刑務官はやはり感染源であることには間違いはないようですが、そうとばかり言い切れない面もあります。彼らの苦悩とは「穢れ」に対する抵抗のようであり、そこに共感するならば、穢れるよりもむしろ「浄化」されるようにすら感じます。

被害者遺族。この人たちは穢された人たちでしょう。大切な人を殺された遺族が怒り悲しみ、加害者の死を望むに至るのは致し方のないことでしょうし、この遺族の感情を善悪で判断することは難しい。被害者と同様に、この人たちも不幸な人たちです。
遺族たちも刑務官同様、「浄・不浄」を判断するのは難しい。最近、報道等で見聞きするのは穢されて「不浄」となってしまった人たちばかりで「穢れ」が電波にのって撒き散らされているように感じてしまいますが、皆が皆、「穢れ」を浴びたら即「不浄」となってしまうわけでもありません。中には苦悩しながらも「穢れ」と対決し、「穢れ」を洗い流してしまう人もいます。

現代は情報化社会ですから、直接、自分自身や身内が重大な犯罪に巻き込まれることはなくても、毎日のように垂れ流される報道によって何らかの感情を喚起させられてしまうわけで、とても薄い繋がりですけれども、否応なく関係者のされてしまうといったところがあります。「穢れ」が撒き散らされているわけです。そして面白いことに、世の中には「穢れ」に敏感な人とそうでない人がいるようなのです。
死刑制度については賛成論者と反対論者の間で意見が戦わされていますが、どちらの側にも決め手がかけ、議論は決着していません。どちらにも決め手がないのに、人は何故、どちらかに組するようになるのでしょうか? その差はどこにあるのでしょう? 私の独り善がりな印象で言わせてもらえば、「穢れ」に敏感な人は死刑賛成の方へ、鈍感な人は反対の方へ回るようです。


「穢れ=不浄」はイコール「悪」ではありません。残念なことに世の中は「穢れ」で溢れかえってしまっていますから、「穢れ」に触れることが即「悪」とされるならば、とんでもない社会なってしまいます(昔の日本の公家社会は「とんでもない社会」だったようですが)。「不浄」=「悪」と割り切ってしまえるほど世の中は単純ではありません。
現代では「浄・不浄」という観念が過去の迷信のように取り扱われていますが、このことは逆の意味で世の中を単純化させているのかもしれません。確かに「浄・不浄」といった感じは曖昧で不合理なものですが、私たちは「不自然な死」といったものに接したときに、何らかの不愉快な感情を喚起させられるということは、客観的な事実といっていいだろうと思います。そして、その不愉快さの受け止め方次第で、例えば死刑制度賛成 or 廃止の議論の出発点が決まってしまう。そんな不合理なところがないとは言い切れないと思います。
不合理といえば「善悪」の観念だって不合理なものですが、同様に不合理な「浄・不浄」との関連を考えてみることで、少しは不合理なものにも論理的な光を当ててみることが出来るかもしれません。

コメント

この記事を読むたびに、思い浮かんでくることがあります。(直接関係無いかもしれませんが。)

元テロリストだった牧師さんのことと精神病院に長期間入院していた人のことです。

元テロリストの牧師さんはテロ活動から身を引いてから長い時間が経過しているにもかかわらず、いまだに笑顔を見せることはないようです。

精神病院に30年以上入院していた患者さんは、電気ショックも無数に経験し、保護室にも入れられ、理不尽なこともされ、心理的にも肉体的にも傷つけられたにもかかわらず、今は穏やかに家で生活し、彼の表情は穏やかで笑顔も素敵です。

人を殺すとか傷つけることについて考えるとき、この対照的な二人のことが頭に浮かんできます。

どんなにも傷つけられても、人を傷つけたり殺したりしたことの無い人は幸いなんだと。

今、どんなにすばらしいことをしていても、人を殺したことがある人はその「浄・不浄」から逃れることはできないかもしれないのかもしれないと…。

るるどさん、ありがとうございます

>どんなにも傷つけられても、人を傷つけたり殺したりしたことの無い人は幸いなんだと。

そうですよねぇ。つくづくそう思います。
でも、日常の生活の中でそう思うのはとても難しい。誰だって自分が傷つくのはイヤだし、人の痛みはわからないし。

それにしても、るるどさんはいろいろな方とお知り合いなんですね。羨ましく思いはしますが、でも、大変だなぁ、とも思います。

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