愚慫空論

身体的価値と言語的価値 (後編)

中編からの続き、です。


ぼくは貨幣も言語だと考えています。
4次の秩序感を持つ言語。
言語を超越した言語。

 触覚、嗅覚、味覚が1次。
 視覚、聴覚が2次。
 言語が3次。
 貨幣が4次。
 


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『沈黙 -サイレンス-』



映画のほうです。『沈黙 -サイレンス-』
観ました。

観終わって気がついたのですが、長い映画でした。ほぼ2時間40分。
でも、観終わって、時計を確かめるまで気がつきませんでした。

残虐なシーンが非常に多い映画です。
観ていてキツいものがあります。 
それでも、凝視し続けさせる力がある。
真摯な問いかけがあります。

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身体的価値と言語的価値 (中編)

前編からの続き、です。

言語に価値がある。
あるいは言語によって秩序が構成される。

言語によって価値が生み出され、
言語によって秩序が構成されていることは、疑いようがない事実です。
よくよく考えてみると、これは不思議なことです。

価値が身体的に、生理的に、生物学的に定められているのは不思議でもなんでもない。
秩序が生物学的に構成されているのも、そう。

ぼくたちは生物なのだから。


ところが〔人間〕という生き物は、言語に価値を見出し、言語によって秩序を構成する。
さらに不思議なのは、そういった不思議さを不思議と思わないこと。
それどころか、歴史を眺めてみると、言語こそが秩序という時代が長く続いた。
言語秩序の時代は、歴史と共に始まったいいくらいです。


言語的秩序観が揺らいできたのは科学革命以降です。
科学もこれまた一種の言語ですが、それ以前の言語とは違った特徴を持っている。
科学において言語は価値を持たない。
客観的事実を記述するためのツールでしかない。
すなわち、言語から価値を排除したのが科学だということができます。


そのように観ると、歴史とは「言語の歴史」といえるのかもしれません。


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INTERWRITING ~ 間綴文

音楽の用語で、“間奏曲”というのがあります。
インテルメッツォ(intermezzo)ともいう。イタリア語です。

ちなみに“mezzo”は「手段」と訳されました。グーグル先生に尋ねてみたところ。
オペラなどの幕間に、場のつなぎのとして演奏されたカンタンな曲、というような意味でしょう。


アタマのなかにゴチャゴチャと「いろいろなもの」が混沌としてある。
そこに何か「主題」を与えてやると、芋づる式にずるずると言葉が湧いてでくる。
ぼくが今、やっているのはそんなような文章の書き方です。

「主題」というのは、本だったり映画だったり音楽だったりするわけですが、
主眼は「主題」ではなく「展開」の方にあるので、
すなわち「ずるずる」の方にあるので、
「主題」はあまり関係ないというか、どうでもよかったりする。
「ずるずる」のためのきっかけくらいのものでしかない。

だったら、「主題」なしで「ずるずる」だけしてみればどうなるか?


そうは言っても、タイトルは要るよなぁ、、、「無題」でもいいんだけど。
あ、「インテルメッツォ」がいいんじゃないか?
どうせだったら、一捻りして、、
タイトルが決まりました。

間に綴る文章で「間綴文」。
音読すると、カンテイブン、かな?
固い発音だなぁ (^_^;)


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復讐のススメ

『獣の奏者・探求編』をゆっくり読み進めています。
愉しみながら。



エリンは眉をひそめた。
この美しい、ゆったりとした天地をながめていると、他国を攻めようとする者がいることが奇妙に思えてならなかった。



エリンはとある理由でウハン村という場所に赴いていきます。
ウハン村は闘蛇の育成が始まった場所。
そこはエリンが属するリョザ神王国の始まりの地。
暴力装置としての国家という側面で。

エリンは、エリンを導くヨハルと会話をします。
この国の歴史。現在の情勢。

上の文章は、そんなシーンの中に差し挟まれる一文です。



エリンの目の前に広がっているのは、こんなような風景でしょう。
自然の営みと人間の営みとが調和している風景。
そんななかで、その調和を敢えて壊そうとする者がいる。
それを奇妙と感じるのは健全なこと。

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『獣の奏者』~闘蛇編・王獣編

さっそくですが。

 


とりあえず『闘蛇編』と『王獣編』を。

上橋さんのもともとの意図は、上記二編で完のおつもりだったようですね。

「わたしが、王獣を使うことを嫌悪するのは、あの話のためでもなく、母の一族のためでも、この句の人々のためでもありません。
 ただ、わたしには、リランが見ることのない、感じることもない、人という生物が生みだしている行為の網が目に見えていて・・・・・・その中で自分が演じさせられている役割が、吐き気がするくらい、いやなのです」



あらすじその他はすっ飛ばします。

引用は『王獣編』の最終盤で、主人公エリンが吐く台詞です。
“リラン”というのはエリンが育てた王獣の名前。

「人という生物が生み出している行為の網」。
ぼくの言葉でいえば【システム】です。

闘蛇という架空の生命体がいる。
王獣という架空の生命体がいる。
人間は、個々人は架空の存在だけれど、生物種としては同じ“サピエンス”です。


むりやりアナロジーで語ってみます。

闘蛇という生き物は戦車です。
騎兵よりも強い。近代通常兵器。
そして王獣は闘蛇よりも強い。
核兵器のような存在です。

エリンという主人公はその「核兵器」を手懐けることができる技能を持つ。
これも無理矢理例えれば、オッペンハイマーのような役回りです。



あくまで【システム】の上ででは、ですけれど。

実在の人物とフィクションを比較するのは馬鹿げているように思うかもしれませんが、押して違いを挙げておくと、エリンは徹頭徹尾、【システム】に隷属はしなかった。
自発的に隷属はしなかったけれど、それでも、結果としては、隷属したのと同様の役割を演じることになってしまいます。

なぜか。
ぼくの言葉で言わせてもらうならば、〔ヒト〕として行動したから。
〔ヒト〕としての内発的な振る舞い、「不忍人之心」が発動したから。

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『至高の音楽』



まず、はばかることなく申し上げておきます。
ぼくは百田尚樹氏は嫌いです。

嫌いというほど関心は持っていないのですが、日頃アンテナにしているネットニュースでもしばしば取り上げられるし、とくに関心を持っているつもりではないけれども、しばしば言動等の情報が引っかかってくる。そのたびに、不愉快な思いをしているわけです。

だから、まだ今のところ小説も読んでいません。
一度、映画の『永遠の0』を観ようと思ってDVDをレンタルしてみましたが、結局、鑑賞することなく返却してしまいました。
いずれ、再トライをしてみようとは思っているのですが...

その百田氏が、ぼくと同じくクラシック音楽のファンだと知ったのは、どういったきっかけだったか?
覚えていたつもりですが、忘れてしまいました。
ぼくはそういうきっかけはたいてい覚えているんですけれども、やっぱり嫌いなんだなww

きっかけは忘れたけれど、クラシック音楽についての著作があると知った。
で、最寄りの図書館の蔵書を検索してみたらありました。
だったら読んでみよう。
クラシック音楽についての文章であるならば、不快な思いはしなくて済むだろう。
もしかしたら、そこを皮切りに、百田氏の作品にも興味が湧くかもしれない。


結果。
本書は、それなりに楽しむことができました。
楽しむばかりでなく、かねてから疑問に感じていたことについて、ひとつの確信を得ることができた。
けれど、百田氏の作品への興味は湧きませんでした。
それは、本書で得た「確信」とも関連しています。


ぼくがかねてから疑問に感じてきたこと。
クラシック音楽には難点がある。
それは、百田氏のような自己愛者を強く惹きつけるところがあるということです。

なぜなのか?
ここを言語化すれば、その機序がいくらかは明らかになる。

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『コードギアス 反逆のルルーシュ』

アニメです。
それも、ちょっと前に放送されたもの。



ご存知のように、ぼくはアニメも嗜みますww
ここのところはご無沙汰していますが。
この作品を観たのは嗜みが度を超していた頃、とでも言っておきましょうww


節操のない作品です。
節操なく、快楽を徹底的に追求した作品。
逆に清々しいといえなくもないくらい。

それだけに、面白いことは請け合い。
人気も高いですしね。


恋愛。友情。兄弟愛。忠誠心。義勇。
セクシャリティ。SF。ファンタジー。
欺瞞。裏切り。憎悪。冷徹。

とにかく、サピエンスが快楽とかんじるものを何でもかんでも詰め込んで、ご都合主義でストーリーが構成してあります。
こんなものを楽しいと思ってしまうことが嘆かわしい。
――なんて、おためごかしを言いたくなるくらいですww

とにかく快楽。一にも二にも快楽。三、四がなくて、五に快楽。


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映像と音楽の調和

ちょっとした戯れを (^o^)


僕は音楽が好きです。
好きというより、囚われていると言った方がいい。

これは「好き」の強調表現というより、主観的事実です。
いつもアタマの中には某かの音楽が鳴っています。

たとえば、目が覚めると音楽が鳴っている。
どんな音楽が鳴っているかで、自分の気分を測っているくらいです。


こうした現象は、ぼくが音楽が好きだからそうなっていると解釈していましたが、最近、ようやく気がついてきたのは、むしろそれは逆だということです。
どうやら視覚と聴覚の回路が一部混線している。
脳内回線のエラーから生じている現象らしい。

だから視覚に某かの入力があると、聴覚の方にも入力が伝わっていく。
その逆もありで、聴覚への入力は視覚に影響する。
音楽を聴いていると色彩が感じられる。

共感覚というやつでしょう、おそらくは。

この脳内配線のエラーは、ぼくにとってはとても幸運なことだと思います。
常に「調和」がある。
視覚と聴覚の調和。
映像と音楽の調和。

ぼくが音楽好きなのは、その結果です。
ぼく自身の感覚が生み出す調和が音楽好きというシニフィアンとなって認識されている。
音楽が好きというのは、ぼくにとっては自愛そのものです。



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身体的価値と言語的価値 (前編)

思索をしていると、ふと「自身の言葉」が湧き上がってくることがあります。

 有朋自遠方來 不亦樂乎


〈からだ〉と【アタマ】
身体現象世界秩序と言語現象世界秩序。

言語現象世界秩序とは〔虚構〕のことです。
身体現象世界秩序は〔自然〕になります。



ぼくたちサピエンスは言語現象世界秩序に生きる〔人間〕である以前に、身体現象世界秩序のなかで生きる〔ヒト〕です。

もちろん〔人間〕や〔ヒト〕といったシニフィエは虚構です。
言葉によって仮構されたものにすぎない。
現実には〔人間〕も〔ヒト〕も同一の存在。
同一の存在の異なった側面を言語作用によって切り出しているに過ぎません。


言葉の効用は「切り出し」だけではありません。
切り出した側面に焦点を当て、拡張する効用がある。
焦点が当てられなかった側面を隠蔽する効用がある。
さらには、拡張された側面を他者と共有することができる機能もある。

言語はこれらの機能の複合作用によって秩序を形成します。
すなわち言語現象世界秩序です。



言語によって焦点を当てられることがなかった側面は隠蔽され抑圧されます。
言語誕生以前に所属していた世界秩序、そこから離脱してしまうと生命を維持することができない秩序、すなわち身体現象世界秩序は、そうして抑圧阻害されてしまうことになる。


全体の中の一部分が拡張されて他の部分が抑圧されてしまうという現象自体は珍しいものではありません。
この現象は、進化論の術語で言えば“淘汰”です。
淘汰は自然現象としても人為的にも起きる。
自然であれ人為であれ、淘汰は一部の拡張と一部の抑圧という現象になります。

淘汰によって全体が破綻してしまうこともありえます。


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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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