愚慫空論

復讐を為す、つまらない【我】

さて、どのように書き始めたものか....

書きたいことははっきりしています。はっきりしているけれど、躊躇がある。
書きたいことがごく私的なことだから。

内面的なパーソナルなことではありません。
パーソナルなことをここを書くのにはいまさら躊躇はありません。
そうではなくてプライべートなこと。身内のこと。

いえ、でも、主題はパーソナルなことか。
だったら、書く必要がぼくにはあります。


父親が死んで、1年が経過しました。
父親が亡くなる前にも少しプライベートなことを書きましたが、今回はその続きということになるのでしょう。



父親が死んだときは、終わったと思いました。
ぼくにとっての「家族」というものが。

ぼくにとって家庭は〔ヒト〕としての生育条件を与えてくれた場所ではあったけれど、
〔人間〕としての生育はむしろ阻害された場所です。

その認識は、家族と言われる者たちも、口にすることはないけれども共有するところだと思っています。

そう、ぼくにあるのは「家族といわれる者たち」であって、家族ではありません。

父親は、ぼくにとっては家族だったとは思っています。
その父親が営む家庭には「ふたつの家族」があった。
「ふたつの家族」は「ひとつの家庭」として暮らしながら、ひとつになることはありませんでした。


思い出されることがあります。

義母が脳卒中で倒れたことがあったんです。
知らせを受けて、ぼくと家内は、実家のある大阪へ駆けつけました。
駆けつけたときには、追って知らせを受けていて、命には別状無いことは判明してましたが、それはそれ。

義母の病室では、3つのイベントが行われました。

 1は病人への見舞い。
 2は父親の癌宣告のカミングアウト。
 3は父親を頂点とする親族全体の最初で最後の会合です。

父と義母と、私と家内、弟夫婦。末弟はまだ独り者。
たった7人なんですが、全員集合したことがそれまでなかった。
その後もなかったし、今や、その可能性すらありません。

その事実に最初に気がついたのは、いえ、最初から知っていたのは父親でした。
その事実を指摘する言葉を発して、涙していました。
その涙を義母は茶化し、
ぼくはといえば、白けていました。


このバラバラな光景はぼくの記憶に、明確な画像となって焼き付いています。
そして、別の風景への感触へと結びついている。

家内の方の家族では、父親を頂点とする親族全体の集合は頻繁にあります。
ぼくも家内の姻族として参加する。
が、いつも、どこかに居心地に悪さを感じていました。
原因がぼく自身の内面にあることも自覚していた。

その原因を明白に自覚せしめたのが、上の「バラバラ」でした。


まあ、いろいろありました。
でも、終わった。
後は、形式的にも「家族」を終わりにすればいいだけ。

それも急ぐことはありません。
世俗的な習慣を形式的に果たした後、穏やかに手続きを進めればよいだけ。

そんなふうに考えていました。

続きを読む »

『サピエンス全史』その16~歴史における絶望

『その15』はこちら (^o^)っ リンク

 



第13章「歴史と必然の謎めいた選択」は 分量的には小さなチャプターです
歴史的なことについての記述はあまりありません

もともと『サピエンス全史』自体が いわゆる歴史書ではありません
歴史的なエピソードは豊富ですが
本書はエピソードを語ることが目的ではない

エピソードを連ねて「物語」を語ることが目的でもなければ
一定の対象を正当化することが目的でもない
豊富なエピソードを援用して著者の歴史哲学を語ることが本書の目的


当初 ぼくはこのチャプターについてはスルーするつもりでいました
歴史哲学の基礎となる著者の歴史観がもっとも強く反映されているところだから
その歴史観は ぼくのそれとは相容れないから

だけど 気が変わりました
『Homo:Deus』という続編があると知ったから





続きを読む »

Rachmaninov: Piano Concerto No 2~BC Proms 2013 - Nobuyuki Tsujii

盲目のピアニスト、辻井伸行さんの演奏です。
曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。







音楽は楽しめばいいんですが、辻井さんの演奏の様子を目にすると、「目にすること」ができる者は、どうしても次のような感想を抱いてしまいます。

 目が見えないのに凄い!

辻井さんの音楽は、しかし、よくよく聴いてみると実は凄くない。
というのも、彼には「凄い」という感覚が欠如いるらしいから。


ラフマニノフという人は作曲家である以前にピアニストでした。
ピアニストとして世に出た人。それも凄いピアニストとして。

そんな彼が作曲したピアノ協奏曲第2番は、当然のごとく、ピアノの凄さが随所にちりばめられています。
ピアノという巨大な楽器は、見ただけでも威圧的な存在で、たった一台で数十人が束になっているオーケストラに匹敵してしまうほどの性能を持ち合わせた存在ですが、そのことのは動画の音楽からも十分聞き取れること。

ピアノの凄さを十全に発揮するには、凄い腕前が必要です。
その腕前を持ち合わせている人を、ピアニストと言います。
辻井さんは盲目のピアニストですから、凄い腕前はある。
なのに、凄くない。
凄さを感じさせない。

凄さという感覚は、どうしても威圧的なものを伴ってしまいます。

ピアノという楽器の存在を十二分に発揮させるよう作り上げられている「ラフマニノフの2番」は、ピアニストがその凄さを発揮すると、ふつうに威圧的なところが出てくる。
その威圧感が深い叙情性と絡み合って和らぎ、作品の愉悦になっている。

ところが辻井さんの演奏には威圧感がまるで感じられないんです。
だから、凄いんだけど、ちっとも「凄さ」を感じさせない。


してみると、考えなければなりません。
凄さという感覚はどこから来るのか?
それは視覚的なものではないのか? と。

だとするなら、視覚に欠ける辻井さんには凄いという感覚が欠けているという推論が成り立ちます。
そして、そのような感覚がなくても、音楽は十分に成立することがわかる。
それどころか、視覚はなくても音楽は十二分に可能だということがわかる。

続きを読む »

『沈黙』(遠藤周作)




4月の半ばからやたらと忙しくて 自分の時間が持てずにいます

文章を書き起こすという行為はエネルギーが要ります
以前よりは効率よく文章を書くことは出来るようにはなったつもりなんですが
それでも ある一定以上のエネルギーが必要
そこに満たなくて 書きかけで終わってしまっている文章がいくつか...(^_^;)

まあ 曲りなりにも社会で「人間として」生きる以上は 仕方がないことです (^o^)


そんな合間を縫って 少しずつ読み進めた『沈黙』です
読書は文章作成ほどのエネルギーは要求されませんから

ぼくが過去に読んだ遠藤周作作品は 『死海のほとり』と『深い河』の2作だけ
どちらも「人間の無力」を描いた作品だったと記憶しいます



さて 『沈黙』です
本作を読んでまず思い起こされたのは「無知の知」

知恵の神アポロンから オノレ以上の知恵者はいないとの神託を受けたソクラテス
しかし疑問を持ちます

 なぜ 私が一番の知恵者なのか?

その疑問を持つことこそが「知恵」なんだということ

孔子もまた同様のことを言います

  知之為知之 不知為不知 是知也


『沈黙』にあるのは「無力の力」というべきものです

 「無力の力」こそが「赦しの力」

遠藤周作は踏絵のイエスにそのよう言わせる

そのイエスは 確かに『死海のほとり』のイエスだと思います
が しかし そのイエスは 果たしてパウロやペテロが伝えたイエスなのか...?

その踏絵に私も足をかけた。 あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。 私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。 人間が生きている限り、善く 美しいものの顔の上に。 そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅し凹み、 哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。


続きを読む »

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード