愚慫空論

「東北でよかった」発言の身体性

書きかけのまま放置してあった文章でした。
機を逸したので削除しようかと思ったのですが、いえ、やっぱり、書き上げてみることにしました。

書き始めたのはGWの前です。


  ***


今般 話題になっていた「東北でよかった」発言について書いてみようと
今 Googleさんに問い合わせを立ててみると、上位にランキングするのは

 「東北の魅力」

になっているんですね

もともとの発言は不愉快で不機嫌な気分を誘発するものでしたけど、
「東北でよかった」という言葉自体は、文脈から切り離せば中立なもの。

そこを逆手にとって上機嫌なものへと切り返す柔軟性。
素晴らしいと思います。
それがあっという間に拡散する現象もいい。
救われたような気分になります。


そう。
言葉は使い方ひとつで、不機嫌になったり上機嫌になったりします。
言葉には身体性があるということです。

今回は、そこのところを語ってみたいと思います。

続きを読む »

『サピエンス全史』その17~科学革命という名の「正当化」

『その16』はこちら (^o^)っ リンク

 





科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々を知らないという、重大な発見だった。

イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要であるという事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々、あるいは単一の万能の絶対神、はたまた過去の賢者たちが、すべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承の形で私たちに明かしてくれるというのだ。凡人はこうした古代の文書や伝承をよく調べ、それを適切に理解することで、知識を得た。聖書やクルアーン、ヴェーダから森羅万象の決定的に重要な秘密が抜け落ちており、血の通う肉体を持つ生き物、つまり人間に今後発見されるかもしれないなどということは考えられなかった。



 科学革命は知識の革命ではなく、無知の革命である。

ハラリさんの、なんと慧眼であることか。

(前略)

だが、過去500年間で最も瞠目すべき決定的瞬間は、1945年7月16日午前5時29分45秒に訪れた。まさにその瞬間に、アメリカの科学者たちがニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原子爆弾を爆発させたのだ。それ以降、人類は歴史を行方を変えるだけではなく、それに終止符を打つことさえできるようになったのだった。

アラモゴードや月へと続く歴史的過程は、科学革命として知られている。この革命の間に、人類は科学研究に資源を投入することで、途方もない新しい力を数々獲得した。これが革命であるのには、理由がある。西暦1500年頃までは、世界中の人類は、医学や軍事、経済の分野で新たな力を獲得する能力が自分にあるとは思えなかったのだ。政府や裕福な後援者が教育や学問に資金を割り当てたりはしたものの、その目的は一般に、新たな能力の獲得ではなく、既存の能力の維持だった。近代以前の典型的な支配者は、人の支配を正当化して社会秩序を維持してもらうことを願って、聖職者や哲学者、詩人に金を与えた。そして、彼らが新しい医薬品を発見したり、新しい武器を発明したり、経済成長を促したりすることは期待していなかった。

だが過去500年間に、人類は科学研究に投資することで自らの能力を高められると、しだいに信じるようになった。(後略)



特に下線の一文は重要だと思います。
この一文こそ、ぼくが探していたミッシングリングでした。

ついに見つけた、と思いました。

続きを読む »

復讐を為す、つまらない【我】

さて、どのように書き始めたものか....

書きたいことははっきりしています。はっきりしているけれど、躊躇がある。
書きたいことがごく私的なことだから。

内面的なパーソナルなことではありません。
パーソナルなことをここを書くのにはいまさら躊躇はありません。
そうではなくてプライべートなこと。身内のこと。

いえ、でも、主題はパーソナルなことか。
だったら、書く必要がぼくにはあります。


父親が死んで、1年が経過しました。
父親が亡くなる前にも少しプライベートなことを書きましたが、今回はその続きということになるのでしょう。



父親が死んだときは、終わったと思いました。
ぼくにとっての「家族」というものが。

ぼくにとって家庭は〔ヒト〕としての生育条件を与えてくれた場所ではあったけれど、
〔人間〕としての生育はむしろ阻害された場所です。

その認識は、家族と言われる者たちも、口にすることはないけれども共有するところだと思っています。

そう、ぼくにあるのは「家族といわれる者たち」であって、家族ではありません。

父親は、ぼくにとっては家族だったとは思っています。
その父親が営む家庭には「ふたつの家族」があった。
「ふたつの家族」は「ひとつの家庭」として暮らしながら、ひとつになることはありませんでした。


思い出されることがあります。

義母が脳卒中で倒れたことがあったんです。
知らせを受けて、ぼくと家内は、実家のある大阪へ駆けつけました。
駆けつけたときには、追って知らせを受けていて、命には別状無いことは判明してましたが、それはそれ。

義母の病室では、3つのイベントが行われました。

 1は病人への見舞い。
 2は父親の癌宣告のカミングアウト。
 3は父親を頂点とする親族全体の最初で最後の会合です。

父と義母と、私と家内、弟夫婦。末弟はまだ独り者。
たった7人なんですが、全員集合したことがそれまでなかった。
その後もなかったし、今や、その可能性すらありません。

その事実に最初に気がついたのは、いえ、最初から知っていたのは父親でした。
その事実を指摘する言葉を発して、涙していました。
その涙を義母は茶化し、
ぼくはといえば、白けていました。


このバラバラな光景はぼくの記憶に、明確な画像となって焼き付いています。
そして、別の風景への感触へと結びついている。

家内の方の家族では、父親を頂点とする親族全体の集合は頻繁にあります。
ぼくも家内の姻族として参加する。
が、いつも、どこかに居心地に悪さを感じていました。
原因がぼく自身の内面にあることも自覚していた。

その原因を明白に自覚せしめたのが、上の「バラバラ」でした。


まあ、いろいろありました。
でも、終わった。
後は、形式的にも「家族」を終わりにすればいいだけ。

それも急ぐことはありません。
世俗的な習慣を形式的に果たした後、穏やかに手続きを進めればよいだけ。

そんなふうに考えていました。

続きを読む »

『サピエンス全史』その16~歴史における絶望

『その15』はこちら (^o^)っ リンク

 



第13章「歴史と必然の謎めいた選択」は 分量的には小さなチャプターです
歴史的なことについての記述はあまりありません

もともと『サピエンス全史』自体が いわゆる歴史書ではありません
歴史的なエピソードは豊富ですが
本書はエピソードを語ることが目的ではない

エピソードを連ねて「物語」を語ることが目的でもなければ
一定の対象を正当化することが目的でもない
豊富なエピソードを援用して著者の歴史哲学を語ることが本書の目的


当初 ぼくはこのチャプターについてはスルーするつもりでいました
歴史哲学の基礎となる著者の歴史観がもっとも強く反映されているところだから
その歴史観は ぼくのそれとは相容れないから

だけど 気が変わりました
『Homo:Deus』という続編があると知ったから





続きを読む »

Rachmaninov: Piano Concerto No 2~BC Proms 2013 - Nobuyuki Tsujii

盲目のピアニスト、辻井伸行さんの演奏です。
曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。







音楽は楽しめばいいんですが、辻井さんの演奏の様子を目にすると、「目にすること」ができる者は、どうしても次のような感想を抱いてしまいます。

 目が見えないのに凄い!

辻井さんの音楽は、しかし、よくよく聴いてみると実は凄くない。
というのも、彼には「凄い」という感覚が欠如いるらしいから。


ラフマニノフという人は作曲家である以前にピアニストでした。
ピアニストとして世に出た人。それも凄いピアニストとして。

そんな彼が作曲したピアノ協奏曲第2番は、当然のごとく、ピアノの凄さが随所にちりばめられています。
ピアノという巨大な楽器は、見ただけでも威圧的な存在で、たった一台で数十人が束になっているオーケストラに匹敵してしまうほどの性能を持ち合わせた存在ですが、そのことのは動画の音楽からも十分聞き取れること。

ピアノの凄さを十全に発揮するには、凄い腕前が必要です。
その腕前を持ち合わせている人を、ピアニストと言います。
辻井さんは盲目のピアニストですから、凄い腕前はある。
なのに、凄くない。
凄さを感じさせない。

凄さという感覚は、どうしても威圧的なものを伴ってしまいます。

ピアノという楽器の存在を十二分に発揮させるよう作り上げられている「ラフマニノフの2番」は、ピアニストがその凄さを発揮すると、ふつうに威圧的なところが出てくる。
その威圧感が深い叙情性と絡み合って和らぎ、作品の愉悦になっている。

ところが辻井さんの演奏には威圧感がまるで感じられないんです。
だから、凄いんだけど、ちっとも「凄さ」を感じさせない。


してみると、考えなければなりません。
凄さという感覚はどこから来るのか?
それは視覚的なものではないのか? と。

だとするなら、視覚に欠ける辻井さんには凄いという感覚が欠けているという推論が成り立ちます。
そして、そのような感覚がなくても、音楽は十分に成立することがわかる。
それどころか、視覚はなくても音楽は十二分に可能だということがわかる。

続きを読む »

『沈黙』(遠藤周作)




4月の半ばからやたらと忙しくて 自分の時間が持てずにいます

文章を書き起こすという行為はエネルギーが要ります
以前よりは効率よく文章を書くことは出来るようにはなったつもりなんですが
それでも ある一定以上のエネルギーが必要
そこに満たなくて 書きかけで終わってしまっている文章がいくつか...(^_^;)

まあ 曲りなりにも社会で「人間として」生きる以上は 仕方がないことです (^o^)


そんな合間を縫って 少しずつ読み進めた『沈黙』です
読書は文章作成ほどのエネルギーは要求されませんから

ぼくが過去に読んだ遠藤周作作品は 『死海のほとり』と『深い河』の2作だけ
どちらも「人間の無力」を描いた作品だったと記憶しいます



さて 『沈黙』です
本作を読んでまず思い起こされたのは「無知の知」

知恵の神アポロンから オノレ以上の知恵者はいないとの神託を受けたソクラテス
しかし疑問を持ちます

 なぜ 私が一番の知恵者なのか?

その疑問を持つことこそが「知恵」なんだということ

孔子もまた同様のことを言います

  知之為知之 不知為不知 是知也


『沈黙』にあるのは「無力の力」というべきものです

 「無力の力」こそが「赦しの力」

遠藤周作は踏絵のイエスにそのよう言わせる

そのイエスは 確かに『死海のほとり』のイエスだと思います
が しかし そのイエスは 果たしてパウロやペテロが伝えたイエスなのか...?

その踏絵に私も足をかけた。 あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。 私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。 人間が生きている限り、善く 美しいものの顔の上に。 そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅し凹み、 哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。


続きを読む »

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード