愚慫空論

『サピエンス全史』その7~書記

『その6』はこちら (^o^)っ リンク

 



〔人間〕は自身を知性的な生き物だと自負しています
いますが 本当にそうなのかと改めて問われると どうでしょう?
確信を持って 「そうだ」と答えられる者はどれほどいるでしょう?
また 確信を持って答える者を 他の者が知的と判断するかどうかも疑問です
〔人間〕は知的確信者を むしろ知的な人間だと感じないのが普通でしょう

なぜか?

〔ヒト〕は知的な存在ではないからです
〔ヒト〕を〔人間〕たらしめるのは大脳の機能に拠るところが大きいのですが
その大脳とても 〔人間〕が知的と考える作業を得意としているありません

そしてこれが最も重要なのだが、第三に、人間の脳は特定の種類の情報だけを保存し、処理するように適応してきた。古代の狩猟採集民は、生き延びるためには、何千もの動植物の形状や特性、振る舞いを覚えなければならなかった。秋の楡の木の下に生える黄色いしわしわのキノコはほぼ確実に有毒なのに対して、冬にオークの木の下に生える、似たようなキノコは腹痛に効くことも覚えなければならなかった。また、狩猟採集民は集団の数十人の成員の意見や関係も記憶にとどめておかなければならなかった。もしルーシーがジョンに悩まされていて、集団のある成員の助けを借りてそれをやめさせようと思っていたら、先週ジョンがメアリーと別れたのを覚えていることは重要だ。おそらくメアリーは熱心に味方してくれるだろうから。というわけで、人間の脳は進化圧のせいで動植物や地勢にまつわる情報や社会的な情報を大量に保存するように適応してきた。


だが農業革命の後、著しく複雑な社会が出現し始めると、従来とはまったく異なる種類の情報が不可欠になった。数だ。狩猟採集民は、大量の数理的データを扱う必要に迫られることはついぞなかった。たとえば、森のそれぞれの果樹になっている実の数を覚えておく必要はなかった。だから人類の脳は数を保存して処理するようには適応したなかった。ところが、大規模な王国を維持するためには、数理的データは不可欠だった。法律を制定し守護神についての物語を語るだけではけっして十分ではなかった。税を徴収する必要もある。・・・・・・



下の記述には断絶があります
「王国」です
「王国」という言葉の出現は唐突です

農業革命が複雑な社会を出現可能にしたことはいいでしょう
ですが 「可能になった」 ことと 「実際に出現した」 ことは同一ではありません
前者は後者の必要条件ではあっても十分条件ではない
ここに断絶があります

税の徴収を必要とするほど 大きな集団を作る必要がなぜあったのか?

これこそサピエンスの成功の鍵だった。一対一で喧嘩したら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。だが、何百人という規模の争いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。彼らはライオンの居場所についての情報は共有できたが、部族の精霊についての物語を語ったり、改訂したりすることは、おそらくできなかった。彼らは虚構を創造する能力を持たなかったので、大人数が効果的に協力できず、急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることができなかった。



以前にも引用した記述です

サピエンスはネアンデルターレンシスを「協力」で打ち負かした
では サピエンスはその後 
用済みになったはずの「協力」を ゴミ箱へとうち捨てたか?

答えは言うまでもなく 「否」 です
うち捨てるどころか 「協力」をますます発展させていった
「王国」が「協力」発展の過程で出現した〔虚構〕であることは確実です

では サピエンスは「協力」よって得られる効用を 誰に対して用いたのか?
もちろん 同じサピエンス にです
ネアンデルターレンシスがいなくなってうち捨てられなかった「協力」は
個別の「協力」どうしの競争へと「発展」した――

抽象的過ぎる言い回しですね
要するにサピエンスのなかで「味方(仲間)」と「敵」とに分離したというわけです
たとえば 農耕民と狩猟採集民
たとえば 農耕民同士

「協力」どうしの競争という知的行為 すなわち「戦争」です
「戦争」にはリーダーが必要で
リーダーを支えるには 〔システム〕が必要で
〔システム〕を支えるには 〔システム〕を支える〔人間〕が必要です

この「必要」への要請に応えて発明されたのが「書記」でしょう


いえ ここにも断絶があります
「協力」は戦争なしに 平和裡に大きくなることもありえます
だとしても 人類は リーダーなしの大規模協力〔システム〕は発明し得なかった
民主主義が発展した現代社会ですら リーダーなしの「協力」は想像できません
「リーダーシステム」ができあがれば
「リーダーシステム」同士の「協力」もしくは「非協力」は
リーダーの意思によって導かれるようになるのは自然なことでしょう

そうでなくても 〔人間〕には社会的ジレンマがあります
ナッシュ均衡は必ずしもパレート最適をもたらしません
リーダーがおのが集団のための利益を追求した結果
「非協力」になってしまうのは 自然な社会現象です

「非協力」になってしまった集団同士の非協力解決法には
 1.「協力」に立ち戻る
 2.「非協力」を押し通す
の2つがあります

どこかの集団が2.をたまたま成功させて規模を集団の規模を大きくすると
その集団はより2.の戦略を採用しやすくなるのは道理です
そうした「たまたま」が時間の経過とともに とある状態へと収斂していく

 淘汰

社会的淘汰の末 誕生するのが「王国」であり「帝国」です

「王国」や「帝国」といった〔システム〕を支えるのには
支える〔人間〕が必要であると同時に
「協力」を大規模にするためのテクノロジーが必要です
その必要を満たすことができた集団が 「王国」や「帝国」への道を拓くことができる

この問題を最初に克服したのは、古代シュメール人だった。彼らが住んでいたメソポタミア南部では、焼け付くような日差しが肥沃な泥だらけの平原に降り注ぎ、豊富な収穫が得られ、次々に町ができて栄えた。住民の数が増えるにつれ、彼らの営みを調整するために必要な情報の量も増えた。紀元前3500年と紀元前3000年の間に、名も知れぬシュメール人の天才が、脳の外で情報を保存して処理するシステムを発明した。もっぱら大量の数理的データを扱うようにできているシステムだ。これによってシュメール人は社会秩序を人間の脳の制約から解き放ち、都市や王国や帝国の出現への道を開いた。シュメール人が発明したこのデータ処理システムは「書記」と呼ばれる。



当時のメソポタミア南部には
〔システム〕を稼働させることができるだけの条件が揃っていた
 生態学的条件が整って人口が増え
 人口が増えたために 大規模な「協力」の条件が整い
 書記が発明されたために 大規模な「協力」が実現した




「生態学的条件を整のう」というのは 少し考えれば矛盾した記述です
生態学的条件を そもそもで考えるなら
それは
 「整っている」
 「整っていない」
の問題で
 「整えることが可能」
 「整えることが不可能」
の問題ではないからです

ですが 上の問題の次元を下の問題の次元へと変化させる出来事がサピエンスに起こります
農業革命です
農業革命によって 生態学的条件は 〔人間〕には「整えることが可能」なものへと変化した

ただし 農業革命は大きな代償を要求します
特定の植物への隷属です

サピエンスは特定の植物へ依存することで自らの自らの生存学的条件を整える
このことは 物理的客観的は「隷属」とイコールです
自ら生存のために 自ら以外の種の生存を優先させなければならないのですから
「隷属」という言葉は的を射ています

しかし 客観的事実は 必ずしも主観的事実とイコールではありません

植物には動物的意思はありません  
ここに〔人間〕の主観が入り込む余地がある
植物を育てることを 自らの「内発」とすることも可能です

サピエンスのみならず あらゆる生物にとって 生存への意志は〈内発〉です
裡なる欲求です
意思を持たない植物に許されて サピエンスは内発的に植物を育てることが可能
自らの内発として 生態学的条件整備を為す行為の結果として成立するのが

 〈里〉

です
〈里〉は その場その場の生態学的条件の在り方(風土)によって多種多様なものになります


ところが〈里〉の規模を超えるような大規模な「協力」は
〔人間〕の内発性を阻害してしまいます

言い方を変えれば 「王国」や「帝国」を出現たらしめる大規模協力は
これもまた大きな代償を要求する
それは 植物には「許されて」いた 〈内発〉 です

大規模協力はリーダーを必要とします
リーダーが植物ということはありえません
リーダーは動物的意思を備えた〔人間〕です

「書記」というテクノロジーが発明によって
 〔システム〕に支えられる〔人間〕と
 〔システム〕を支える〔人間〕の分離がおきます

「書記」を駆使する〔人間〕は ただ「書記」だけを駆使するわけではない
必ず 〔人間〕としての動物的意思も同時に発動させる

同時発動が避けられない動物的意思をどう制御するかが
理性であり 倫理ですが 
これらは原理上 十全に機能することはありえません

かくして〔システム〕を介した〔人間〕による〔人間〕の抑圧が生じます
個々の動物的意思は 原理上 バッティングするようにできています
個々のバッティング自体は 自然現象です
〔ヒト〕と〔ヒト〕同士のコミュニケーションの一形態にすぎない

が 自然現象に〔システム〕が介入すると 不自然現象になります
〔人間〕が〔ヒト〕である部分を〔システム〕が抑圧する
そうなると〔システム〕は【システム】へと質的転換を起こします
ぼくがいうところの

 逆接

の成立です

現代社会は そうした「質的転換空間」が全域化した【社会】に他なりませんが
全域化に至るには まだまだ歴史の旅を続けなければなりません


(画像はコチラからお借りしました (^o^)つリンク

『その8』へと続きます

『里の在処』




まだ 『この世界の片隅に』を引きずっています (^_^;)

『サピエンス全史』シリーズに戻りたいのですが
区切りをつけないと復帰できそうにない...
前回 「余すことなく表出できた」なんて書きましたが 嘘でしたね(^_^;)

というわけで この文章を書いています


内山節著『里の在処』 の冒頭部分をお借りします
『この世界の片隅に』の印象をいろいろとアタマの中で巡らせているうち
思い浮かんできたのがこの文章だったんです

現代人は知性でものを考える習慣をもっている。その知性は、いつでも前向きだ。知性は未来へと人々を誘う。まるで未来に無限の可能性があるかのごとく。その可能性の何分の一かを手に入れるべく歩いていけと知性は教える。それにしたがうかぎり、〈里〉も〈田舎〉も必要なものとは感じられない。このような意味で、現代人とは、知的な動物である。

ところが、知性を媒介としない人間の精神の領域は私は確かにそれはあると思っているのだが――、たえず帰る場所を探している。それをうまく表現できないから、そのことを私は、魂は帰りたがっている、と表現しておく。



すずの幼なじみ 水兵になった哲は すずを「ふつう」と評しました
上掲の内山さんの文章でいうなら 

 「ふつう」 とは 「知性でもの考えない」

ということでしょう
ゆえに すずは

 知性を媒介としない人間の精神の活動の領域

で生きます


内山さんは続いてこのように書きます

もしもそうだとするなら、現代人においては、知性と魂は不調和でありつづける。知性は前に向って歩こうとし、魂はどこかに帰ろうとする。



戦争は 前に向かって歩こうとする知性の顕れです
暴力とは ほんとうのところは 知性的な行為です
もっとも残虐な暴力は 感情を廃した純粋に知的な行為です
戦争における作戦行動では 純粋な知性こそが要求されます

そうした純粋知性の末端に加わった哲の魂は 帰りたかった
どこへ?

 「ふつう」へ


知性を媒介としない人間の領域へ
それが 内山さんのいう〈里〉でしょう
哲にとって〈里〉はすずでした
それは周作にとっても同じ

すずの知性は 魂と不調和なものではないのでした



戦艦大和ですら すずの知性を通り見ると こうです
際立ってはいても 風景と調和しています
周作や哲の目には こうは映っていなかったでしょう
晴美の目にも
彼らの目には 風景と不調和をなすことで際立つ存在に映っていたと想像します
不調和を為す際立ち――「憧れ」です


大和は〔システム〕の象徴と言えるでしょう
〔システム〕は客観的現実であると同時に 〔人間〕の主観の中の存在でもある

農業は〔システム〕の発端です
〔人間〕を植物に隷属する存在とする革命でしたが
当の〔人間〕のにとっては 田畑は〈里〉の一部だったりします

もっとも「魂が帰って行くところ」を田畑だとする文化を
ぼくは寡聞にして知りませんが






アップの日付は2007年9月1日
紀州の山村で棲息していた頃の ぼくの文章です

その婆さんは私のお向かいさんなのだが、いつも一生懸命畑仕事をしているその婆さんに向って、私は尋ねてみたことがある。「なぜ、そんなに畑仕事をするの?」
こう尋ねたのには訳がある。私たちの家庭はそのお向かいさんから、いつものように畑で出来た野菜なら何やら、いろいろとおすそ分けを頂く。ウチはウチで畑があって、妻がなんやかやと作ってはいるのだが、出来がわるかったり、またウチでは作っていない種類のものがあったりで、いろいろとおすそ分けを頂戴するのである(たま~に、ウチからもお向かいさんに行くこともある)。
もちろん、ご自分の子どもたちのところにも農作物を頻繁に送っている。ときには頂きものを私たち夫婦の親戚にまで送り届けたりすることがあり、それでもお向かいさんの畑には、誰の口に入ることもなく捨てられてしまう農作物が山と残るのである。

私が質問をしたのはそうした状況を踏まえてのことであった。もう高齢で畑仕事も決して楽ではなかろうに、必要以上に畑仕事をしなくても、いわば需給調整をすればという意味で、上のような質問を発したのだった。

返ってきた答えは「これは私の趣味」というものだった。この答えに私はそれ以上なんと返したらよいか、わからなかった。ただわかったのは、その答えのそのものには意味はない、本当は趣味なんかではない。それがその婆さんの生き方なんだということであった。


この文章を書いてから10年経ちましたが
まだ お婆さんは元気にしているそうです
畑にも まだ出ているという
羨ましい限りです

婆さんに見えていた畑 と ぼくが見ていた畑
同じ畑でも 違った風景に見えていたことでしょう

婆さんにとって 畑は自身の内発性を発露させる〈場〉だったんだと思います
婆さん個人にとって 畑は〔システム:〕ではありません
ですが 人類全体で見るならば やはり畑は〔システム〕だと言わざるを得ない

畑は〔システム〕だ という言は知性的だと言っていいと思います
冷酷な響きがある言です
婆さんには理解できないだろうし 理解しようとしないでしょう
理解できたなら 不機嫌になるに違いありません


ヒトは こういうことにはとても敏感です
己が不機嫌になってしまうことには 理解に先立って不機嫌なんです
理解を経て不機嫌になるという過程を踏まない
先立って不機嫌になり 理解を拒むという態度に出る

ヒト一般に広く見られるこの態度は 
実はぼくにとっては 不思議な現象だったりします
ぼくには なぜか 
理解に先立って不機嫌になるという回路 が存在しないようなのです

この回路の有無も ニューロティピカルとエイティピカルの差異なのかもしれません
そしてぼくは
この回路こそが 〔システム〕を【システム】たらしめる元凶だろうと 疑っています




というわけで(?)
やっと『サピエンス全史』シリーズへと戻ることができそうです
まだ先は長そうだし その先もありそうな予感がしています
なので 「寄り道」は控えて 少しペースアップしてみたいと思っています
思ってはいますが....(^_^;)



ショパンのピアノコンチェルト
都会への「憧れ」に満ちていた若き頃の作曲ですが
この演奏で聴くと 魂の帰還願望の音楽 のように聞こえます



「希望」や「憧れ」と「郷愁」は 〔人間〕の精神の裏表なのかもしれません

三度 『この世界の片隅に』




メインで取り上げるのは3度目です

 1度目はコチラ (^o^)っ リンク
 2度目はコチラ (^o^)っ リンク
言及した文章はたくさんあります
1度目以降をたどってもらうと 高確率で『この世界の片隅に』に出くわします
取り憑かれています (^o^)

だもんで 3度目はあるだろうなと自分でも思っていました
漫画版を読んだら きっと何か書かずにはいられない

  


実は もうすでに入手してあるのですが

ところが『君の名は。』を観てみると 語りたいことが湧き上がってきました
それで図らずも 3度目になってしまったわけです



『君の名は。』は良い映画でした
特級の美酒です
心地よく酔わせてくれます

で 後に何が残るのかというと 特段 何もない

映画を見終わって 映画館から出ていく
入ってきた通路を逆にたどって シネコンの入口に戻り
シネコンの建物を出て 街に戻る

この過程で「酔い」は醒めていきます
周囲に拡がるのは 映画館に入る前と同じ風景
時間が経過しているので その分の変化はありますが
心象的には 同じ風景 です


『この世界の片隅に』は ちょっと違います
同じはずの風景が 同じ風景 に見えない
少し違ったふうに見えてくる 見える気がする


「つながり」だと思うんです

『君の名は。』の世界とは つながりは感じられない
『この世界の片隅に』の世界とは つながっていると感じる

この違いは 何なのでしょうか?

『君の名は。』は架空の話
『この世界の片隅に』は史実を下敷きにしている

この違いはあります
だけど この違いだけで 
視聴者であるぼくの心象風景に違いが生じるとは思えません

客観的な「つながり」であるなら
影響があるのも客観的なはずで
でも 客観的には風景は変わらないのだから
「見える風景」だって変わらないはずです

それが 変わった のだとしたら
変化が「つながり」によるものだとしたら
その「つながり」は客観的なものではないはず

主観的な「つながり」であるならば 
当人が(ぼくが)つながりたいと思ったか 思わなかった
それに尽きるのかもしれませんが
そんな結論では面白くありません


『君の名は。』はラブストーリーです
天地動転して 若い男女が出会う
出会いの過程を 魔術を駆使して 盛り上げて見せた
乱暴に端的に言ってしまえば それだけです

見終わってみれば 彗星が衝突したことなんて 

 どうでもいい

ことになってしまっています
大げさな彗星衝突も 大げさだけど アクセサリーにすぎなかった

この「どうでもよさ」が「つながりのなさ」になるんだと思います


『この世界の片隅に』は その点が違います
ここの世界で描出されている風景には「どうでもよさ」はありません

いえ
本当にそうか?
確かに 戦中の暮らしぶりは 本物のように描かれいるのでしょう
だけど そのことが どうでもよくない「大切なこと」になるのか
疑問です

というのも
 「どうでもいい」
 「大切」
は ぼくにとって だからです

現在の世界にとって暮らすぼくにとって
戦前戦中の暮らしぶりは どうでもいい ことです
描出されていた風景にリアリティは感じますが
そういうなら 『君の名は。』の風景にだってリアリティはあった
現代の東京の風景など 現実そのままなんだからリアリティがないわけがない

リアリティと「どうでもよさ」「大切さ」は関係がありません
それはおそらく 「ふたつの現実」を生きる 〔人間〕 の特性でしょう

リアリティと「どうでもよさ」「大切さ」が関係ないなら
『この世界の片隅に』だって 乱暴に端的に言ってしまえば 
すずと周作のふたりが 「生きていることを確認する話」 にすぎません

 『君の名は。』が出会い すなわち「出発点」なら
 『この世界の片隅に』は 「確認と再出発」

これでは何の回答にもなりません


ぼくの心象風景に違いを生む「つながり」
ぼくにとっての「どうでもよさ」と「大切さ」につながっているはずです
それは『この世界の片隅に』の何処にあるのか
このことはやはり 「ふたつの現実」に関係するのだと思います


『君の名は。』と同様に 『この世界の片隅に』も
 起承転結
で語ってみましょう

『この世界の片隅に』は セオリーの通り

 「起」 「承」 「転」 「結」

の順序で構成されています

「起」に相当するのは すずが結婚するまでの暮らしぶり
「承」に相当するのは すずが結婚してからの暮らしぶり

結婚は「転」ではありません
自然に「起」から「承」へと推移する 「ふつうのこと」に過ぎない

すずが結婚して呉へ移り住んでから
水兵になった幼なじみが すずが嫁いだ北条家に訪ねてくる場面があります
危うい展開になる場面ですが
そこで水兵の水原哲は すずに幾度も「ふつう」という言葉を投げかける

すずは危うい言葉も吐きますよ

 水原さん
 うちはずっとこういう日をまちよったきがする・・・
 ・・・・
 うちは今 あの人にハラが立って仕方がない・・・!


このすずの言葉に
哲はすずの主人から暗黙のうちに了承されていたであろう「企て」を放棄して

 あーあー 普通じゃのう
 当たり前のことで怒って 当たり前のことで謝りよる
 すず お前はほんまに普通の人じゃ


この成り行きは 恋愛や結婚を「転」あるいは「結」とする
『君の名は。』的世界からは了解不能のものでしょう

けれど すずのこの「ふつう」は行きすぎでもある
ぼうっとしていて 「ふたつの現実」のうちのひとつに気がつかなくて
だからこそ 「ふつう」でいられる



 すぐ目の前にやってくると思うた戦争じゃけど
 いまはどこでどうしとるんじゃろう


この動画の20秒過ぎにでてくるすずのセリフです

 「いまはどこでどうしている」 ですと?
 目の前にあるではないか
 すずは 戦争がある日常生活に生きいるではないか


視聴者であるぼくには 戦争 は見えている
すず以外のキャラクターにも見えている
水原哲は 戦争という日常生活 に生きている
だけど すずだけは 単なる「ふつうの日常生活」を営んでいて
戦争が見えていない
いえ 戦争もまた日常生活だと思っている
戦争を異常だとは思っていない
戦争の異常さを認識できていない

すずにとっては 兄の戦死も「どうでもいい」ことです
そのことを「曲がっとる」と すず自身自覚するシーンもあります

 鬼いちゃん死んで 良かったと思ってしまっている


その「曲り」は別の形 それももっと過激な形で現れています

玉音放送を聞かされた後の すずの怒りのセリフ

 そんなん覚悟のうえじゃないんかね?
 最後のひとりまで戦うじゃなかったんかね?
 いまここへまだ五人も居るのに!
 まだ左手も両足も残っているのに!!
 うちはこんなん納得できん!!!


この怒りの後に訪れるのが「転」です

 暴力で従えとったという事か
 じゃけえ暴力に屈すという事かね
 それがこの国の正体かね
 うちも知らんまま 死にたかったなあ・・・・。


余談ですが、このシーンと真逆の「転」をぼくは思い浮かべることができます
暴力と思っていたものが 実は「思いやり」だったということを理解するシーン
 
 (^o^)っ 『小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉』

すずはずっと〈織りなす世界〉に棲んでいました
棲んでいるつもりでした

冒頭に掲げた画像は そのことをよく表現しています
すずの心象風景です


「結」においてすずが為すのは 再選択 です
それまでは 自覚できなかったがゆえに
無自覚に行っていた「選択」を
こんどは自分の意志で為すという「再選択」

不安ベースの【不機嫌】な世界を
【不機嫌】へのレセプターに欠けていたがゆえに
〈上機嫌〉に内発的に生きていた すず

そのすずにも【不機嫌】へのレセプターが生じます

【不機嫌】への芽生えのシーンは
姪御と右手を失った爆発から意識を取り戻したときです

 昨日 ない事を思い知った右手
 六月には 晴美さんとつないだ右手
 五月には 周作さんの寝顔を描いた右手
 ・・・


これらのセリフがハウリングする
すずの「ゲシュタルト崩壊」がよく表現されています


このシーンを 少し別の視点から眺めてみます

これは「喪失」です
『君の名は。』では 「喪失」が「転」になりました。
「喪失」が「転」になったのは  主人公ふたりの「喪失」と
 ぼくの「喪失」とが一致したからでした

『この世界の片隅に』においては 
すずの「喪失」と ぼくの「喪失」は 一致しません
なぜなら すずがこの場面において崩壊に至った「ゲシュタルト」は
ぼくにとっては とうの昔に崩壊済みのものですから
いまさら「喪失」ではない
だから ここでは 新海誠監督が労したような「魔術」は働きません

原作のこうの史代さんと監督の片渕須直さんが用いるのは魔術ではありません
だから その機序が理解できても 効力は霧消しない

すずは ぼくたちが知らずのうちに崩壊させてしまっている
 「ゲシュタルト」を見せつけてくれます
それは 戦争がそのなかに含まれていようがいまいが

 「ふつうの日常」を生きる

ということです
ぼくたちは 戦争を含む日常が「ふつうの日常」ではないことを すでに知っています
それは『この世界の片隅に』によって知らされたのではなく
この映画を観る前からすでに知っていたことです
すず以外のキャラクターもみんな知っていることです
幼い晴美でさえ知っていること
ただ すずひとりだけが知らないこと

それが【不機嫌】へのレセプターが生まれ
玉音放送を聞かされたことで

 ぼくたちと「同じ」になる

すずは その特殊性を消し去ることで 特別な存在になりました
ぼくたちがイメージできない「現実の二重性」が生まれるさまを
すずは劇的に見せつけてくれる
劇的に ぼくたちと「同じ」 になることで 

 特別に「同じ」存在

だというポジションに座ることになります

それまでのすずは 特異な存在だったんです
象徴的なのは たとえば 憲兵に詰問される場面です

呉軍港を写生していたすずは 憲兵に見とがめられ 間諜だと疑われる
憲兵はすずの特異性を知らないので その当時の情勢からすれば 当然でしょう
でも 家人は笑わずにはいられない
特異なすずには ありえないことだから

だけど 「転」以降のすずは違います
特別な存在ではあっても 特異な存在ではありません

そのすずが
ぼくたちと「同じ」になったすずが もう一度

 〈上機嫌〉な存在たるべく再選択

します
それが「この世界の片隅に」というタイトルの意味ですね


話を「どうでもよさ」「大切さ」に戻します

ぼくにとって大切なことは 日常 です
ぼくにとってどうでもいいことは 戦争 です

すずは「大切なこと」しか見なかった
いえ 見えなかった
見えるようになって以降も 「大切なこと」を見ようと再選択した

そのすずの「同じ」から「再選択」への意志が
ぼくにとっては「大切なこと」です

「どうでもいいこと」が 
「どうでもいいはずのこと」になって
 いつの間にやら
「どうしようのないこと」になってしまった結末が 戦争です

「大切なこと」は
 本当は
「大切にしたいこと」です
意志が入っている

すずの「再選択」は ぼくの中にもある「意志」を再確認してくれます

「二重の現実」の中で生きているぼくたちは
「どうしようもないこと」から免れることができません
だから 知らずのうちに【不機嫌】になってしまっている

 「したいこと」をする人間は〈上機嫌〉
 阻害される人間は【不機嫌】

ごく単純なことです

そんな【人間】であるぼくにも 〈上機嫌〉への〈意志〉はある
その確認ができたことが「つながり」です

そういうふうに「つながり」ができて
ぼく自身の「意志」のありようが変わると
自身の心象風景も変わります

当たり前に「どうしようないこと」として受け容れていた風景が
「どうにかなるもの」として見えるようになる


「どうしようもないこと」を受け容れてしまっている者にとっては

 「どうにかなるもの」として見える

ということが「魔術」に思えるでしょう
そうした者にとっては 『この世界の片隅に』も『君の名は。』と同等の

 消費物

にすぎませんです。
【不機嫌】な日常からの 一時的な避難場所

この視点から見れば、『君の名は。』のほうが おそらく上等です
興行収入がその傍証です

『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで育った作品だと聞いています
この事実が示すのは

 『この世界の片隅に』という作品そのものが
 「どうにかなるもの」として育ってきた

ということなんだろうと ぼくは思っています

※ やっと 3度目にして 感じたことを余すことなく表出できたような気がします (^o^)




「アルバイトにはお金以上の価値がある」

Livedoorニュースから 話のネタを



  「アルバイトにはお金以上の価値がある」広告コピーが物議 
    「それは世の中に余裕があった頃の話」というツッコミも

アルバイトというか もっと一般化して

 「仕事にはお金以上の価値がある」というのは真実

でしょう?
いえ 真実でなければならないでしょう? そもそも?

 お金は社会を回すための必要条件(最低条件)

なんだから
仕事は社会を構成する最も重要な要素で
それが最低条件しか満たさないということは

 その社会は最低なものになってしまっている

ということに他なりません




「健康」ということを考えてみましょう

豊かな人生を送るにあたって 「健康」は 必要条件 と言えます
では 十分条件に相当するのは?



上の図において 「健康」は「お金」に置き換えても成立します



人生や社会において 
 健康
 お金
といった 必要条件は十分条件を満たすためのもの
ゆえに 

 必要条件 ≠ 十分条件

当たり前です
当たり前なんですが そうでないことが起こるのが【社会】です

 「健康」が必要十分条件になる
 「お金」が必要十分条件になる

ネタとして取り上げた記事から感じるのは

 昔は「お金」は必要条件だったが
 現代は「お金」は必要十分条件だ

です

僕の感触に違和感を抱く人は多いだろうと予想します


現代でも 「健康」が人生の必要十分条件だ という人は少ないと思います

 「健康」でありさえすれば幸福
 だから どんどん「健康」になるようにガンバル
 あらゆる労力を「健康」になるために費やす

こんなふうになってしまったら 

 それは逆に不幸じゃないの?

と感じます
そう感じるのが健全な感性だと思う

そこのところを踏まえるなら

 「健康」は「幸福」を支えさえすればいい

という考えに至ります
こうした余裕のある考え方から

 Quality Of Life

といった概念も生まれます

クオリティ・オブ・ライフ(英: quality of life、QOL)とは、一般に、ひとりひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指し、つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念である。QOLの「幸福」とは、身心の健康、良好な人間関係、やりがいのある仕事、快適な住環境、十分な教育、レクリエーション活動、レジャーなど様々な観点から計られる。



同じことが「お金」についても考えられるはず
はずなのですが できない
できない社会になってしまっていると感じます


 上野千鶴子の「平等に貧しくなろう」について - Togetterまとめ



上野千鶴子さんへの批判殺到のようです
批判の論旨は

 オマエが言うな!

に集約されるようですが それは反論ではない...

じゃあ、だれが言えばいいの?

上野さんの意見への反論文章をいくつか読んでみましたけど
納得いくものはありませんでした

 「みんなで貧しくなろう」と言える立場の者はいない
 ゆえに 「みんなで貧しくなろう」は誤り

そんな論旨の文章ばかり
まったく論理的ではありません
「立場」なんて関係がない


元の記事に戻りましょう
「アルバイトにはお金以上の価値がある」
これも批判を浴びています

上野さんへの批判と異なるのは 批判の的となる「立場」の人がいないこと
それは たまたま アルバイト雑誌の広告だったからそうであっただけで
もし 仮に どこぞの社会学者の発言だったとしたら
その発言主が批判を浴びる「立場」に立たされたでしょう


QOLの考え方は「健康」に対して適用されます
医療や介護の世界ではスタンダートな思考法になっているはず

ところが「お金」に対して適用されない
貧しくなるのは不可能だという社会的な結論として提示されます
すなわち

 「お金」は必要十分条件だ

です

「健康」においてのQOLを否定する者は
 「健康」が強迫観念になっていると見なされます

だったら

「お金」においてのQOLを否定する者もまた
 「お金」が強迫観念になっていると見なされるはず

強迫観念から自由な者ならば

  「みんなで貧しく」

をなんらの感情的反発を覚えずに受け容れられるはずなんですがね?



自由になる方法にはふたつあります

 1.欲求を十分に満たす
 2.欲求を感じなくする

そもそもの〔自由〕というは1.です
1.の方向性で問題を解決していこうとする構えが〔自由〕です
ゆえに〔自由〕は「貧しくなる」という構えからは根本的に相容れない

1.の方向性でQOL的な考え方は成立しないのか?
成立します
それは 

 Life-Work Balance

ワーク・ライフ・バランス(英: work–life balance)とは、「仕事と生活の調和」と訳され、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」ことを指す



この文言だけをみれば QOLに近いのですが。


 日本人の働き方をホリエモン×ひろゆきが本音で指摘
  「やりがいや生きがいを求めず、稼ぐための手段と割り切るほうがいい」


この考え方においては 「お金」と「幸福」との関係性が切り離されています
ある意味 「お金は必要十分条件」に近いのですが
それは 真逆だから
「お金」は「幸福」にとって必要条件でも十分条件でもない

不思議なのは「お金」についてのQOLが高そうなふたりが
そのような主張をすること

 オマエが言うな!

という批判が聞こえてくるかどうか?
あっても不思議ではないはずなんですけどね


〔自由〕は現在 資源と環境の有限性という物理的現実的な問題に突き当たっています
そこを考慮に入れると 「お金」は「幸福」を切り離すのは 理に適っています
「みんなで貧しくなる」のと同様に
ただ 行き方
    生き方 の問題

1.の意味において「お金」に自由になることができる人は
「お金」と「幸福」との関係性が維持されるQOLの高い生き方を選択可能です
そうでない人はQOL的な考え方を捨てる以外に選択肢はない


締めの音楽に相応しいのは



これのような気がします
必要十分な あるいは 必要でも十分でもない 「天国」



『君の名は。』




観ました
映画館に足を運んで観てきました (^o^)/

この映画はDVD発売までガマンするかなと思っていました
さほど期待もしていなかったし


けど、結局はミーハー(←もしかしたら死語)?
興行成績好調を伝える記事たちに釣られたんでしょう
僕の身分では高いコストを支払って観てしまいました


うん、まあ、1800円は妥当だと思います
思わぬ収穫もありましたしね




期待をしていなかったというのは本当です
「期待をしないという期待」は映画が始まってからも継続していました。


男子高校生とJK(←なぜにこの表記w)が入れ替わる
改めて指摘するまでもなく どこかで見た展開です
ストーリー展開はそれなりに工夫があった面白いのですが
気持ちはさほど入っていきません

  他人事を眺めてるのは 気楽で楽しいなあ〜

半ば突き放して ニヤニヤ眺めているという感じ



身体というのは正直です
映画館の座席に座って観ていたわけですが
にやけて観ていると身体もだらるんですね

ぼくはそうでなくてもまっすぐ座っているということが苦手なたちで
腰に負担がかかるのはわかっていても
ふんぞり返るような座り方が楽で そうしたくなってしまう

今は映画館で観ると 上映が始まる前に
ご丁寧に「あれはダメ これもダメ」って注意を促すじゃないですか
そのなかにも座り方への注意喚起がありますよね
前の座席に足を投げ出すなって

さすがにやりははしませんが できるならそうしたい身体だったりします
そういう注意があるということは 多くの人がそうしたいということなんでしょうけど

足は投げ出さないけど できるだけそういう姿勢になりたいから
前の座席の背もたれに膝をつっぱって できるだけふんぞりかえるw
が それも前の座席に人がいるとできないから ちょっと居心地が悪いww

そういう居心地の悪さを覚えつつ ニヤニヤ眺めていたわけです 前半戦


それが途中から 姿勢を正すというと大げさだけど
普通に椅子に座って鑑賞するようになっていた
惹き込まれたんですね



ストーリーの構成は
 起承転結
がセオリーと言われます

とはいえ 必ずセオリー通りに展開しなければならないわけではなくて
『君の名は』の場合 

 「起」「転」 「承」「 結」

の流れ
もう少し踏み込むならば

 「起」「転1」 「承1」「転2」 「結」

という構成です


今さらネタバレもないでしょうから具体的に書くと
「転1」は ふたりの主人公の入れ替わりが終了してしまうこと
つまり

 「喪失」

です

この「喪失」は3者にとって そう
3者とはつまり
立花 瀧宮水 三葉

のふたりに加えて

 ぼく

の3者

ここは 三者三様に「喪失」であることが大切なポイントです
三者三様でありながらも「喪失」であるから
ぼくは惹き込まれることになりました

主人公ふたりの「喪失」が何かを書くと
それこそネタバレですので触れるのはやめておきます

が ぼくの「喪失」については触れておく必要があるでしょう
それは

 「愉悦」

です
ぼくは 「起」の展開を
 他人事
 所詮は作り話
と半ば突き放しつつ だらけて眺めていただけなんですが
それでも「愉悦」はあったんです
感覚的な快楽です

その「愉悦」は ぼくが溺れたタイミングで奪われてしまいます
「喪失」に直面したぼくの身体は 「喪失」を補おうとする「運動」を始めます

一方で 「転1」に続く「承1」では
ふたりの主人公がそれぞれの「喪失」を補おうとして「運動」します
 立花 瀧のそれを「運動1」
 宮水 三葉のそれを「運動2」
しましょう

「運動1」と「運動2」を追いかけているぼく(の意識)と
「喪失」を補おうとしているぼくの身体の「運動3」

このような状況での「運動3」は ほぼ完全に無防備です
「運動1」および「運動2」が相当にデタラメあっても ほぼ抵抗なく受け容れてしまう
受け容れることで喪失を補おうとすることが「運動3」だと言ってもいいでしょう


ぼくが『君の名は。』で得た収穫は

 無防備への認識

です
 彗星が降ってきた(←「セカンドインパクト」?) 
 過去の出来事の体験(←「タイムリープ」?)
どこかで観たようなアニメ要素が 現実にはありえない形で展開されます

彗星落下ややタイムリープがありえないのは「設定」だからまだいいとしても

 三葉が住む田舎に高校なんて ありえなくね?
 本当に彗星が落ちたなら 東京だって無事で済むはずがないよね?

とか ツッコミどころは各所にあるんですが
そんなことはもはや どうでもいい んです

極めつけだと思ったのは 彗星の破片の隕石が落下して
集落が破壊されていくシーン
こうした悲劇的なシーン(悲劇が連想されるシーン)には悲劇的な音楽が相応しいはず
それなのに 背景で流れるのはポップな音楽
そこだけを切り取れば 感覚的にありえないと思うんだけど
文脈的にはありだと感じてしまう
デタラメさを感じない

「喪失」を補おうとする身体の本来的な動きをうまく利用して
相当にデタラメでツッコミどころ満載であったとしても

 どうでもいい

という状態に身体を誘導してしまうこと
この「誘導」が『君の名は。』の魔術の正体です

魔術はデタラメではないんです
そういう現象が起こる機序がある
その意味では科学と同じ
ただ 魔術の場合 機序が理解できるとその有効性を解除することができます
その点は 科学とは違う
科学は 機序を理解しようがしまいが 万人万物に平等に働きます


『君の名は。』の意地が悪いところ(←称賛です)は
この「魔術」が二段構えになっているところです

「承1」で展開される主人公ふたりの「運動1」と「運動2」は
視聴者であるぼくの期待通り
ふたりの邂逅という形でいったんは実現します
するが すぐに「転2」になって またしても奪われる
しかも 互いに認知したはずの互いの名前まで互いの記憶から「喪失」する

なぜそんなことになるの?
理由はありません
デタラメです

でも 魔術にかかっているぼくにはもはや どうでもいい
重要なのは またしても「喪失」したということ
またしても「運動」が始まったということです

『君の名は。』のタイトルの由来が「転2」にあることは明白です
が このタイトルがこの物語を端的に表しているわけではない
『君の名は。』の主題は「喪失」です


思い返せば 『秒速5センチメートル』もテーマは「喪失」でした


もそうでした
してみると 新海監督のテーマが「喪失」なんだろうという推測が立つます



こちらも

これら3作品は 「喪失」というテーマが 描かれ方は異なるけれど 剥き出しで出ている
その意味で 作品に監督個人のメッセージ性がある
その点 『君の名は。』は 視聴者の欲求に寄り添っています
そうすることでエンターテイメント性が高まった
では その分 メッセージ性は失ってしまっているのか?

相対的にはそうかもしれません
エンターテイメント性が大きくなった分 メッセージ性の比重は小さくなったとは言える
だけど そのエンターテイメント性の源泉もまた「喪失」にあるわけだから
内実的には より充実した作品だと言えるのではないか


「喪失」というテーマは 〔人間〕にとって 相当に根源的なテーマだと思います
ということは 「喪失」の「埋め戻し」もまた〔人間〕には根源な欲求だということです

『君の名は。』の興行収入が
多くのジブリ作品を抜き去って上位にランクインしていることが話題になっています

宮崎駿夫さんの作品と比較して感じることは 思想性です
宮崎さんの作品には 某かの思想性がある
一方 新海さんには思想性はあまり感じられないんですね

そういった作品が エンターテイメント性だけで 興行成績とはジブリ作品を凌駕している
実はぼくは 残念なことだな と思っていたんです
「期待していなかった」というのは 思想性は期待できないと思っていたから

けれど 視聴後の感想は違います
残念などでは 決してない
それだけの作品だと思う
言葉でできた思想性より深いも深い 感覚的根源性があると思います
リピーターが多いのも頷けます

もっとも ぼくは もう一度観たいとは思いません
魔術の仕組みが理解できてしまって 次 観ても もう魔術にはかからないだろうから



余談ですが 『君の名は。』を観た後
また 『この世界の片隅に』も観てきました

ぼくにとっては 『君の名は。それだけの余力を残してくれる作品だったわけです
『この世界の片隅に』については 近いうちに 三度 語りたいです

『天国への階段』




MoonLight Sonata
月光ソナタ
ベートーヴェンです

ぼくはもう ほとんど聴くことがなくなりました
陳腐に思えてしまんです

youtubeで こんな動画を見つけました
月光ソナタの第三楽章
ハデなところをエレクトリックギターで奏でたもの



なかなか面白い――
と思ったものの すぐに飽きてしまいました
楽曲が持つカタストロフを電気的に増幅しただけ

いえ 「だけ」は言い過ぎだけど 
感覚的なところの基本部分ははそう言って差しつかえない
ぼくはもう この手の刺激はすぐ「お腹いっぱい」になってしまいます

こういった刺激を欲する向きは多いと思うし
現にこうした刺激は満ちあふれていますけど
こういったものを求めて止まない心身というのは 異常事態なんだと感じます


そうした刺激を欲しているのなら それを求めるのは悪いことではない
それがその時の欲求であるのなら 節制などせずに従うのがいいと思う
だけど その状態は異常事態なんだということは
知識としてでいいから 頭の隅に置いておいたほうがいい
そうしておくだけで 異常でない状態への探求がいずれ始まる
自然な心身とはそういうものだと ぼくは思っています

そうあって欲しいという ぼくの願望かな...


それはともかく
エレキ版『月光ソナタ』に出会って 思い至ったことがあります
これは【不機嫌】な音楽なんだ と
言い方を変えれば 「怯え」
不安がベース

出だしは神秘的です
富士山にはお月さんがよく似合う
月光に輝く秀麗な富士の山容は 『月光ソナタ』の響きに似つかわしい

しかし
『月光ソナタ』を作曲したころのベートーヴェンの心身からはかけ離れていた
瞑想してみたら 奥底の情念を吹き出してきた

 第1楽章 瞑想
 第2楽章 平穏
 第3楽章 激情

と 言葉にしてみて またふと思い当たりました
『月光ソナタ』をエレクトリックにオーバーアチーブすると これになる



『月光ソナタ』 1801年の出版
『天国への階段』 1971年に発表

170年の時間を隔てて世に出された作品に 似通っているものがあったとしても
それは単に偶然かもしれませんし そう考えるのが普通でしょう
が 普通には考えないのが ぼくの流儀 (^o^)

大胆に(いつものように?)言ってみます

 平穏の奥に激情が隠蔽されている
 この構造はキリスト教の精神構造だ



前回 こういう音楽を紹介しました



J.S.バッハの『マタイ受難曲』 その核心部分
  「このお方は神の子なりき」

この驚愕と畏怖には沈黙せざるを得ません
沈黙といっても 維摩のそれとはまったく正反対
前者は言葉を奪われる 後者は言葉を超える

言葉を奪われてしまうと 平明になったように感じられます
だけど 真に平明になったわけではない
自ら言葉を鎮めて瞑想・沈黙へと至ると 隠蔽されていた激情が吹き出してくる
そして その激情を「救済」だと勘違いしてしまう

洗脳 とまで言ってしまうと言い過ぎでしょう
〔人間〕は 自ら求めてそうした隷属を求めるところがありますから


おまけ

こちらも前回紹介したヴィヴァルディの『四季』の一部を
エレクトリックにしたものの紹介
「冬」の部分です
嵐の描写です



このご機嫌さも【不機嫌】か?
そう聞えなくはないですね

ヴィヴァルディ『四季』





ヴィヴァルディの『四季』です

誰もが聞いたことのあるメロディ
誰からも受け容れられる音楽
すこぶる〈上機嫌〉な音楽

前回 『けものフレンズ』を取り上げたときに 

 〈上機嫌〉 

という言葉を(ぼくの)キーワードとして登録する なんてことを書きました
そのとき 湧き上がってきたのは mozart の K.136 だったのですけれど
一晩経って 脳裏で響いていたのが『四季』でした

ああ これもまた〈上機嫌〉だなぁ と

加えて 芋づる式に浮かんできたのが
くらっしく音楽の名曲を取り上げた本で
誰の文章だったかは忘れてしまいましたけど

 『四季』こそ古今随一の名曲だ

といった内容の文章です

難解なところがまったくなくて 親しみやすく
ポピュラリティに溢れる曲だ と
一般大衆には 正直 縁の遠いクラシック音楽だけれど
そんな中で『四季』は 大衆に広く受け容れられている
この事実は 名曲の基準として評価すべきだ――

ぼくは なるほど一理あるとは思ったものの
持って回った理屈だな と感じたものでした


そんでもって もうひとつ芋づるなのが 吉田秀和さんの文章
どこで書かれていたいたものなのかは失念しましたが
 モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』やら
 ドヴォルザークの『新世界より』やら
 『四季』も名指しされていたかどうかは忘れましたけど
そうしたポピュラリティの高い音楽は 
良いには良いんだけど 私はどうも好きになれない
俗受けするような音楽には 何か掛けているものがあるような気がする――

そんな内容の文章でした


当時のぼくは 吉田秀和に軍配をあげていました
最近まで そうでした

けれど ここのところ 気がついてみれば
『アイネ・クライネ』をよく聴くようになっています
『新世界から』は ちょっと引っかかるところがあって好みから外れるんだけど
同じドヴォルザークの音楽は 聴いていることが多くなりました

これなんて 最近 大のお気に入り (^o^)




実は始めて聴いたのは アニメ『のだめカンタービレ』でだったりするんですけど
そこでは マニアックなんて言われていたりしたんですけど
これもまた とても〈上機嫌〉なんです
「場」に埋め込まれている感じがする

このドヴォルザーク第5交響曲に比べると
有名な第9番『新世界から』は 寂しいと感じるんです
つまり【不機嫌】なんです

第4楽章の有名なテーマは勇ましくて良いんですが
最近のぼくには 痛々しく響く
無理してるなぁ って思ってしまいます
「場」から浮いてしまっていているオノレを鼓舞する感じ

その点 第5交響曲は ずっと素直な構えで通っている

いわゆるクラシック音楽の名曲基準でいえば
軍配はやはり『新世界から』なんだろうと思います
そっちのほうが深刻だから
【不機嫌】だから

名曲と評価されるのは
 【不機嫌】だけど そこから 立ち直らなければならない
 【不機嫌】から救済されていなければならない
その振幅が大きいことが 名曲といわれるものの基準

その基準でいけば ドボルザークの第5交響曲や『四季』は外れています
「振幅」がありませんから
ずっと〈上機嫌〉

でも それでいいんじゃないの?




そもそも〔ヒト〕は
 いえ
そもそも〔生命〕は
 〈上機嫌〉なものだと思います
 〈生き生き〉したもののはずなんです

それがいつの間にか【不機嫌】がベースになってしまって
【不機嫌】からの脱出を目指すことが生きる目的になっている

その方法論によって
 解脱(自力の場合)
 救済(他力の場合)
と言ったりしますが 出発点は同じです 

よく「生きることには目的なんかないんだ」と言います
それはその通りなんですが
それが言えるのは〈上機嫌〉だからです
〈生き生き〉と生きるのに 目標なんて必要はありません


だけど【不機嫌】がベースだとすると
そこから脱出することは 立派に目的たり得ます

というより 本来の〈上機嫌〉に復帰するというのは
ごく自然な欲求のはずです
その ごく自然な欲求が言語的に「目的」として認識されるだけ

お腹が空いたら「お腹が空いた」
喉が渇いたら「喉が渇いた」

「お腹が空いた」「喉が渇いた」を「目的」とは言いません
 同様に
【不機嫌】からの脱出も「目的」ではない
どれも自然な欲求でしかない

自然な欲求が満たされないなら
 誰だって
 ヒトではなくても
【不機嫌】になるでしょう
【死に物狂い】になります

ごく単純なことです
その単純なことがわからなくなっている


今のぼくの関心は歴史への傾きが増していますが
その理由を当記事の文脈に沿って言えば

 単純なはずのことがわからなくなっている

からです
見失ったのには 理由があり原因があるはずです


締めに 最高の名曲として評価の高い
つまり もっとも【不機嫌】だとされている音楽を



う~ん これにはどうしても「持って行かれて」しまいます...
イエスを処刑してしまった後
「このお方は本当に神の子だったんだ」と気がついてしまうところの驚愕と畏怖



【不機嫌】を快感として受け取ってしまう救いのなさ。
けど それでいいじゃないかな?

『けものフレンズ』

とても気持ちがいいということで
話題になっているということなので観てみました
とりあえず 第5話まで

ここのところ 気が滅入る文章が続いていますし...



すこぶる上機嫌な作品です
根っこから上機嫌
ゆえに 子どもっぽい

「ゆえに」というのは正しくないか

上機嫌さを際立たせるには 
 子どもと
 動物が
素材としては適切 ということなんでしょう

なぜそうなのかはわかりません
そんなふうに感じるように〔ヒト〕という生物はできている
おそらく

自然現象世界秩序 です

ということで 『けものフレンズ』 についての話は終わり




いえ
せっかくですから もう少し話をつづけましょうか



先日取り上げてみましたが 再度

ダイジェスト版には出てこないのですが 
この対談の中で宮台さんは

 居場所 それも自然環境やそこに生きる生き物たち
  地域、地域の人々、家、家族、身の回りの雑貨・・
 そういうもろもろを含めた「場」に僕らは埋め込まれていて
 それが自分を自分たらしめているんだ


といった発言をします
この発言は



について語ったものなんですけど
「自分を自分たらしめているもの こと」が伝わってくる映画
それが 『この世界の片隅に』 

「自分を自分たらしめる」原理が伝わってくるということでは
『けものフレンズ』も同じです

ただ その伝え方は少々あざといものですが


『けものフレンズ』の主人公は “かばん”という名の女の子です
もちろん“かばん”は正式名称ではなくて 暫定ネーム
アニメの流儀に則ったと言えばいいか
そういう名前の付け方が為される

要するに 主人公は記憶喪失状態なわけです

記憶喪失ということが示すのは 
 「場」に埋め込まれていないということ

「場」に埋め込まれていない者
ヤノマミの言葉でいうと 「ナプ」でしょう

「ナプ」なんだけど 始めから「敵」ではない
「敵」といったような存在は想定外――といった設定の作品
それが『けものフレンズ』です

そのことをよく表しているのが OP です

 はじめまして
 きみをもっと知りたいな


と上機嫌に歌われています

 あなたは「ナプ」のようだけど
 私たちはあなたを私たちの「場」に埋め込みたい

意訳すると こんな感じでしょうか


『けものフレンズ』 の中の“かばん”の行動は 一見すると「自分探し」です
図書館と呼ばれる場所に行くと 自分が何者なのか知ることができるらしい
それで旅をする

「物語」のよくあるパターン

だけど『けものフレンズ』はちょっと違います
その旅は 「場」に埋め込まれていく道程として描かれています


「場」に埋め込むと行為を不機嫌になすことは不可能です
というより 

 「場」に埋め込む・埋め込まれている    = 上機嫌
 「場」から排除する・埋め込まれていない = 不機嫌


とただちに等号で結んでしまっても なんら不自然に感じないくらいに「等価」です

『けものフレンズ』は ある意味で 
この「等号」を『この世界の片隅に』以上に際立って表現していると言えます

それは逆に言えば あざとい
意識的に つまり 架空の物語の「設定」として
不自然な形で 「等号」 を提示しているわけですから


『けものフレンズ』の物語はこの先
不自然な「等号」提示のカラクリ暴露へと進行していくのだろうと予想します
おそらくそこには 悲しく不機嫌にならざるをえない「現実」がある...

予想も何も 原作があるのだから ネットで調べてみればわかるのでしょうけどね

今後のストーリーの展開しだいでは 『その2』を書くかもしれません



で というわけで(?)

 上機嫌
 不機嫌


は ぼくの「キーワード」へ登録することにします

「上機嫌」は基本 開放系なので 記号を付記するなら〈上機嫌〉
「不機嫌」は 閉鎖系でしょうから 【不機嫌】



純粋に上機嫌 つまり 子どもっぽいということで 湧き上がってくるのは




『サピエンス全史』その6~想像上の秩序

当記事は 前回 および 『その5』 からの続きです


 


『サピエンス全史』シリーズは すでに第2部に突入しています

第2部 農業革命

 第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
   贅沢の罠
   聖なる介入
   革命の犠牲者たち

 第6章 神話による社会の拡大
   未来に関する懸念
   想像上の秩序
   真の信奉者たち
   脱出不能の監獄

 第7章 書記体系の発明
   「クシム」という署名
   官僚制の驚異
   数の言語

 第8章 想像上のヒエラルキーと差別
   悪循環
   アメリカ大陸における清浄
   男女間の格差
   生物学的な性別と社会的・文化的性別
   男性のどこがそれほど優れているのか?
   筋力
   攻撃性
   家父長制の遺伝子


当記事は 第6章を取り上げています

いつものように引用を多用します
今回はここから始めましょう

ここまでの数段落を読みながら、椅子の上でで身もだえした読者も少なからずいたことだろう。今日、私たちは多くのそうした反応を見せるように教育されている。



第6章は『サピエンス全史』のなかでも圧巻の部分だと思います
ここからページを開いてみるのも 読み方としては有効かもしれません
身悶えせずにいられない記述に溢れていますから

ここに展開されている記述は
もしかしたら多くの人が薄々気がついていることなのかもしれません
気がついてしまってはいけないこと
気がついてしまうと危険なこと

ヴォルテールは神についてこう言っている。「神などいないが、私の召使いには教えないでくれ。さもないと、彼に夜中に殺されかねないから」と。



想像上の秩序
ぼくの言葉で表現すると 言語現象世界秩序

本章で例として取り上げられているのは

 ハンムラビ法典
 アメリカ独立宣言


ハンムラビも自分のヒエラルキーの原理について同じことを言ってもおかしくないし、独立宣言の大部分を起草したトマス・ジェファーソンにしても然りだ。ホモ・サピエンスには自然権などないし、それはクモにも、ハイエナにも、チンパンジーにも自然権がないのとまったく同じだ。だが、私たちの召使いには教えないでほしい。さもなければ、私たちは彼らに殺されかねないから。

そのような恐れはしごくもっともだ。自然の秩序は安定した秩序だ。重力が明日働かなくなる可能性はない。たとえ、人々が重力の存在を信じなくなっても。それとは対照的に、想像上の秩序はつねに崩壊の危険を孕んでいる。なぜならそれは神話に依存しており、神話は人々が信じなくなった途端に消えてなくなってしまうからだ。想像上の秩序を保護するには、懸命に努力し続けることが欠かせない。そうした努力の一部は、暴力や強制という形を取る。



  努力し続けることが欠かせない

この「欠かせないもの」は農業革命から始まっています
『サピエンス全史』に明確に指摘はされていませんが
流れとして明らかでしょう

 人は救済と思い込んで 隷属を求めて闘う

スピノザの言葉です
救済と勘違いてしまった隷属への希求が始まったのも
やはり農業革命から

隷属を求めての闘い すなわち「懸命の努力」が
暴力や強制という形を取ることになるのは 必然です

暴力や強制の元となる心因を ぼくは
 
 【恨】 

と表現することにしていますが
これについてはまた別のところでまとめることにします

ここでは 流れに逆戻りしてしまいますが ひとつだけ振れておきます
「第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇」の中の「革命の犠牲者たち」から

人間と穀物とのファウスト的な取引は、私たちサピエンスが行った唯一の取引ではなかった。ヒツジやヤギ、ブタ、ニワトリといった動物たちの運命に関して行った取引もある。野生のヒツジを追い回していた放浪の生活集団は、餌食にしていた群れの構成を少しずつ変えていった。おそらくこの過程は、選択的な狩猟とともに始まったのだろう。


とはいえ、羊飼いではなくヒツジの視点に立てば、家畜化された動物の大多数にとって、農業革命は恐ろしい大惨事だったという印象は免れない。彼らの進化上の「成功」は無意味だ。絶滅の瀬戸際にある珍しい野生のサイのほうが、肉汁たっぷりのステーキを人間が得るために小さな箱に押し込められ、太らされて短い生涯を終える牛よりも、おそらく満足していただろう。満足しているサイは、自分が絶滅を待つ数少ない生き残りだからといって、その満足感に水を差されるわけではない。そして、牛という種の数の上での成功は、個々の牛が味わう苦しみにとっては、何の慰めにもならない。



人間と家畜の関係は
【システム】と〔人間〕の関係に そのままアナロジカルすることができます



ついでにこの動画も




話を元に戻して ハンムラビ法典とアメリカ独立宣言です

ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根ざしていると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は2つの性と3つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)にそれぞれの性と階級の成員の価値はみんな違う。女性の一般自由人の命は銀30シュケル、女奴隷の命は銀20シュケルに相当するのに対し、男性の一般自由人の目は銀60シュケルの価値を持つ。


彼らの独立宣言は、普遍的で永遠の正義の原理を謳った。それらの原理は、ハンムラビのものと同様、神の力が発端となっていた。ただし、アメリカの神によって定められた最も重要な原理には、バビロンの神々によって定められた原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。 

我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。



ハンムラビ法典とアメリカ独立宣言の共通点
 ⇒ともに 普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしている

両者の相違点
 ⇒ 前者は「万人は平等でない」とし 後者は「万人は平等だ」とする

では どちらが正しいか
 ⇒ どちらも間違い

ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな創造力や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、客観的な正当性はない。



平等と人権の擁護者は、このような論法には憤慨するかもしれない。そしておそらく、こんなふうに応じるだろう。「人々が生物学的に同等でないことなど承知している! だが、私たちは本質において平等であると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。私は、それに反論する気はさらさらない。それこそまさに、私の言う「想像上の秩序」に他ならないからだ。私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じていれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪や陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。ただし、覚えておいてほしいのだが、ハンムラビなら、ヒエラルキーについての自分の原理を、同じロジックを使って擁護したかもしれない。「上層自由人、一般自由人、奴隷は、本来異なる種類の人間ではないことを、私は承知している。だが、異なっていると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。



下線を引いた部分
ここがぼくと『サピエンス全史』著者の相違点です。
ぼくは 反論する気満々です (^o^)

想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいるわけだ。



「自由」に向かうしかないのなら そのとおり
が そんなことは一体 誰が決めたのか?

想像上の秩序から逃れる方法がないことには同意します
〔ヒト〕が〔人間〕である以上 どうしようもないことです

が 想像上の秩序(言語現象世界秩序)は
ユヴァル・ノア・ハラリさんが指摘するように 造り変えることが可能なもの
今後も造り変えられていくことに間違いはありません

本書のもっとも大きな価値は

 想像上の秩序は造り変えられてきたのだ

ということを指摘しているところだとぼくは考えます
その意味において 第6章はまさに圧巻です
その上 さらに 

 どのように造り変えられてきたのか

も記述がなされている
つまり 歴史 です
この意味における圧巻は科学革命における記述だと思います
科学革命については 後述します
 
想像上の秩序がどのように造り変えられてきたのかの記述を通じて
判明してきたことは

 〔自由〕に向かっては もはや行き詰まっている

ということです

〔自由〕というのは おそらく

 〔ヒト〕が〔人間〕になろうとすること

そのものなのでしょう
ぼくとても その価値を認めないわけではありません

ですが 行き詰まっていることが明らかなのなら
価値を認めた上で 別の方向性を模索する必要があるでしょう

 もはや〔人間〕は もう十分に〔人間〕になった

だったら どうするか

 〔ヒト〕に戻る

いえ 〔ヒト〕には戻れません 不可能です
ですが そのように信じることは可能だし
そのように信じた上で 想像上の秩序を構築することも可能なはずです

問題は不可能だと理解しつつ 信じることができるのかという点ですが――

 ⇒ 愚慫空論 『自在主義』

そういうことをやろうとした人物
いえ 正確には 

 やろうとしたと 拡大解釈可能な業績を残した人物はいる

とぼくは思っています



『その7』へと続きます

「ニューロティピカル」と「エイティピカル」

20170217ニューロティピカル1

このタイトルが適切かどうかは 正直 疑問です
疑問ですが 今のところ 他に適切な言葉が思い浮かばなくて
ご容赦ください

ここで語りたいのは 前々回 前回 で取り上げた

 >言語現象世界秩序

すなわち

 〔システム〕

についてです

一応 「ニューロティピカル」の定義を挙げておきます

定型発達(ていけいはったつ、ニューロティピカル、英:Neurotypical, NT)は、自閉コミュニティにおいて造り出された用語で、自閉症スペクトラムに当てはまらない人々を指し示す。

いわゆる健常者の発達のこと。

定型発達の人々は、(行動学上)大多数の人が「普通」とみなす神経学上の発達をとげており、特に言語情報やソーシャル・キュー(社会的合図)を処理できる能力をもつ。


〔システム〕が滞りなく運営されるには

 ・言語情報
 ・ソーシャル・キュー(社会的合図)

が共有される必要があることは 言うまでもないでしょう

たとえば 大多数の者が“イヌ”と呼ぶ動物を
大多数の者が“ネコ”と呼ぶ動物だと思っていた者がいたとします
当然 話は通じません

日本語と英語で考えてもいいでしょう
日本語話者が“イヌ”と呼ぶ動物を
英語話者は“dog”と呼ぶ

いずれも 言語情報が異なる ということです

この程度の単純な差異ならば 
 思い違いを正す(多数の思い込みの方に少数者が合わせる)
 翻訳をする
といったことで解決できます

ですが
そうした言語情報の総体からできあがっている言語現象秩序が異なるとなると
解決は簡単ではないでしょう

言語現象世界秩序の観点から「ニューロティピカル」を定義すると 次のようになるでしょう

 同じ言語をコミュニケーションする集団の中で
 ほぼ共通した言語現象世界秩序を共有する者たち

対して「エイティピカル」は

 同じ言語をコミュニケーションする集団の中で
 大多数の者とは異なった言語現象世界秩序を持つ者


そのように定義をし直した上で
ニューロティピカル/エイティピカルの差異が生まれる機序について
アナロジカルに語ってみたいと思います




またしてもクラドニプレートです

同じ〔ヒト〕であっても棲息環境が異なれば
言語現象世界秩序は異なったものになる

これは前々回に述べました
たとえば
 主に大ブリテン島と生成した英語という言語と
 主に日本という島々で生成した日本語という言語が
互いに異なる ということです

このことをクラドニプレートの構成要素に即して考えてみます
クラドニプレートは 3つの要素で構成されています

 ・振動を与える装置
 ・振動する膜
 ・振動を可視化する「触媒」

話を単純化するために ここでは振動装置は同一と見なします
クラドニプレートにとって振動装置とは動力源であり
生命の源 です

「膜」に相当するのは ここでは〔ヒト〕の言語機能を司る
大脳 だと考えておけば良いでしょう

「触媒」に相当するのは 環境から入力されてくる情報です
日本と大ブリテン島では 〔ヒト〕が受け取る環境情報が異なる
言語を成立させるに至った「偶然」も異なる

「触媒」が異なれば「膜」の上に出現する幾何学的模様もまた異なったものになる
幾何学的模様とは言語現象世界秩序です

「触媒」のちがいの他にもうひとつ 幾何学的模様の差異を生む要因があります
「膜」です

「触媒」が同じであっても
「膜」の質が異なれば
描かれる幾何学的模様は異なったものになる
言語現象世界秩序は異なったものになる

「膜」の質の違いで生まれた言語現象世界秩序の差異
これが
 ・ニューロティピカル
 ・エイティピカル
の違い(だという仮説)です


「触媒」の違いも
「膜」の違いも
どちらも異なる言語現象世界秩序を生み出します

「触媒」の違いから生まれる言語現象世界秩序の違いは
〔システム〕の違いとして認識される
〔システム〕が異なると コミュニケーションが難しくなりますから
そこに諍いが起こる

この「諍い」が戦争のもとであることは言うまでもないでしょう


「膜」の違いから生じる秩序の違いが生み出すの様相は異なります

喩えるなら  〔システム〕を「OS」だとすると
エイティピカルの言語現象世界秩序は 「OS」に適応しない「アプリ」です
「アプリ」はそれ自体 完成したものであっても
「OS」と整合しないので 「バグ」があると見なされる

「バグ」 すなわち 「障碍」です



大切なのはここからです

〔人間〕の考え方では 重要度が高いのは

 「OS」 > 「アプリ」

になります
そう考えるから 「OS」に合わない「アプリ」は「バグ」だと見なされる
「OS」のほうに「バグ」があるとは考えないのが
〔人間〕というよりも ニューロティピカルの考え方です

ですが 〔ヒト〕を構成する生命の原理からすると 
この考え方は転倒しています

前回記したように
ニューロティピカルもエイティピカルも 同じく〈フラクタル〉です
大きな〈円環〉の世界の片隅に たまたま そのように出現したにすぎない存在です

生命現象を生む〈円環〉の中で たまたま〔ヒト〕に生まれ
〔ヒト〕を生む〈円環〕のなかで 
 たまたまニューロティピカルに
 たまたまエイティピカルに
生まれただけ

そうした〈円環〉に遡って考えるならば

  「OS」 < 「アプリ」

でなければおかしい
「アプリ」は 〔ヒト〕が〔ヒト〕である次元
〔人間〕がどうこうするべきではない次元の問題
すなわち 自然現象世界の問題

一方、「OS」は 言語現象世界の問題
〔人間〕がどうこうするべき次元の問題です

〔人間〕がどうこうするべきではない次元の問題と
〔人間〕がどうこうするべき次元の問題とが 転倒してしまいます


この「転倒」を告発するのが




「転倒」は【逆接】です
〔システム〕が【システム】になってしまいます。

人類に【逆接】が生じた歴史上の出来事があります

では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物群だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。



 


今や【システム】は 誕生時よりもずっと巨大化してしまっています
巨大化につれ その言語現象世界秩序は より
 単純に
 厳密に
なってしまっています

その現実を指摘しているのが 



単純で厳密になってしまった【システム】は
ニューロティピカルですら疎外するようになってしまっています

この本は あくまで「指摘」にとどまっています
「告発」にまで至らない
ニューロティピカルだからです

 「OS」 > 「アプリ」

だからです

サピエンスの集合的な力の劇的な増加と、表向きの成功が、個人の多大な苦しみと密接につながっていることを、私たちは今後の章で繰り返し目にすることになるだろう。



というわけで 当記事も
『サピエンス全史』シリーズ『その6』へと続きます



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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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