愚慫空論

『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ』


またしてもライブドアニュースから拾った話題をネタに。

 「電通の先輩『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ』」 
  ブロガー・はあちゅうさんのツイートに反響




なんというか...


この本を思い起こさせる、興味深いツイートです。

ツイートと一冊の本を同列に語るのは乱暴ですけど、
『言ってはいけない』が言わんとしていること
 「残酷すぎる真実」とやらと、
このツイートが言わんとしているところはほぼ同じという印象を持ちます。

もっとも、僕は、これらが真実とするものは間違っていると思っていますけど。

 ひとは幸福になるために生きているけれど、
 幸福になるようにデザインされているわけではない


否。
僕に言わせれば

 ひとは幸福になるために生きていて、
 幸福になるようにでざいんされているけれど、
 人間が作り上げた社会は幸福になるようにデザインされてこなかった


です。

これは結論です。
言い換えれば直観です。
そして、結論を先に立てれば、

 いかなる理由と経過で私たちの社会は不幸になるようにデザインされてきたのか

という問いが生まれます。
この問いに対する回答が納得いくものであるならば、
直観で立てた結論も納得できるものになるはず、、、です。

だけど、僕の直観では、納得は得られない。
回答がどれほど合理的でも、なかなか納得は得られないでしょう。

納得を拒否する理由が納得をしない者のなかにあるから、です。
そして、その理由となるものが僕のなかにもある。

その理由となるものを、僕は【怨】と表現しています。
ニーチェの言葉でいうなら、ルサンチマンが相当するでしょうか。


【怨】は、僕の中にある。
僕の中に実存することで、それがそのままレセプターとなっています。
すなわち、実存が「同感」する。

上掲のツイートは、そのレセプターに引っかかるわけです。


ツイートの内容を、僕なりに分析してみます。

テレビという機械がある。
テレビ放送というシステムもある。
そのシステムを支えているのがCMという仕掛けです。
CMにスポンサーが資金を提供し
その資金で「番組」が制作される。
視聴者は「番組」を視聴するつもりでCMを視る。
ある種の詐欺ですが、それで誰もが幸せになっていたわけだから、罪はなかった。
CMは優れた仕掛けでありシステムでした。

近代社会という大きなシステムがあって、
そのサブシステムに学校というものがある。
偏差値というのは、学校というサブシステムを効率よく運営するための仕掛けです。

偏差値概念を支える正規分布やら何やらは面倒なので説明は省きますが、
偏差値40という数値は、全体を1から100へと序列づけたとき、
下から16番目を位置するということを意味します。
すなわち偏差値さ40とは全体の84%に相当しますから、
 「偏差値40の人に理解できるようにする」と教えは、
非常に合理的です。

84%を指して「普通」というのも、合理的です。

社会というシステム(電通はそのシステム上位)にいるということが意味するのは、
「偏差値」という数値が、
単なる客観的数値ではなく、
学校というサブシステムを通過したという体験を持つ者にとって、
非常に主観的でもあるということです。
いいかえば「身をもって理解」できる。

凄い教えです。
役に立ったというのも頷けます。

さらに凄いのは次。

 「この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ」

偏差値という指標を用いて客観的にいえば、
 普通ではないのは事実です。
電通に入社するのに必要な偏差値は70程度だと推測されるとすると、
 70以上は全体の2%強です。
「普通ではない」のは、そのとおりです。

ですが、ここで語られている「普通ではない」は、客観的以上の意味を持つ。
主観的にも普通ではない。

ツイート主が「役に立った」と言っているということは、
 「普通ではない」を主観的に捉えているということです。
そして、主観的に捉えているのはツイート主だけではない。
このツイートが反響を呼んだという事実が意味しているのは、
 多くの人もまた「普通ではない」を主観的に捉えたということです。


では、その「普通ではない」電通という会社の実態はどうなのか?
ソースは持ち出しませんが、「普通ではない」。


ここで気がつくことがあります。

客観的な「普通ではない」には、解釈はひとつしかありません。
客観的だという以外にない。
ところが主観的解釈になると、解釈はいくつも出てきます。
話を単純にするために、〈善〉/【悪】に二分することにします。

「普通ではない」ことが役に立ったと言っているツイート主にとっては、
 その言葉を額面どうりにかいしゃくするならば、
  「普通ではない」ことは〈善〉です。
そして、そのことから推測されるのは、
 電通の実態もまた善だと解釈しているかもしれない可能性です。

過労自殺が出るような実態だとしても、〈善〉。


驚くべきこと?
いえ、まったく「普通のこと」です。

「普通ではないこと」は、いろいろなことに置き換えることが出来ます。
たとえば「靖国神社で顕彰されること」。

歴史は示しています。
靖国神社で顕彰されるという「普通ではない」ことのために、
 多くの人間が自らの生命を賭し、失っていったこと。

これは、ある時代においては「普通のこと」だったし、
 現代でも「普通のこと」として捉える向きが多いのも事実です。

主観的な記号(〈 〉/【 】)を用いて書き直しましょう。

 靖国神社で顕彰されるという〈普通ではない〉ことのために、
  多くの人間が自らの生命を賭し、失っていったこと。

 これは、ある時代においては〈普通のこと〉だったし、
  現代でも〈普通のこと〉として捉える向きが多いのも事実
です。


現代は幸いなことに、かつての時代とは違います。
電通の「普通ではない」は【普通ではない】と一般的には捉えられ、
 批判を浴びているし、国も【普通ではない】という解釈をしているようです。

ですが、安心はできない。
【普通ではない】ことが
 〈普通ではない〉ことになって
  〈普通のこと〉になってしまう危うさがなくなったわけではない。
危うさがなくなっていなことの証左が
 このツイートへの反響のありようだと僕は捉えています。


件のツイート文章も、〈善〉【悪】を用いて書き換えてみましょう。

 CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。
 この会社にいる時点で〈普通ではない〉と自覚しろ。
 世間にはおそるべき量のおそるべき【普通ではない】人がいる。
 そしてそれが日本の【普通の】人だ」


問題は、ツイート主の

 「役に立った」



 〈役に立った〉

なのか

 【役に立った】

なのかです。

額面どおりだと〈役に立った〉でしょうが
 反面教師として【役に立った】としている可能性は排除できません。

そして、その曖昧さが、ツイートを読む読者の主観的判断を招いています。
ツイート主にとって〈役に立った〉と読者は読むならこの文書全体は【悪】になる。
【役に立った】と読むなら現実の醜さを指摘する教訓、すなわち〈善〉になる。

〈善〉と読むか【悪】と読むか。
僕を含めた読者のなかにある【怨】へのレセプターのありように左右されます。


【怨】へのレセプターが広く行き渡ってしまっている社会は危うい。
プロパガンダしだいで、容易に【悪】が〈善〉へと転ぶからです。

その危うさの根っこはシステムにあると僕は考えています。
システムの中で生きざるをえない人間、
 学校というサブシステムを経由してヒトから人間になることを強制される現代人。
正常な現代人にとって、 偏差値70以上に位置するということは

 〈普通ではない〉

ことです。
この根幹は揺るいでいません――
――僕には揺るぎつつあるように見えますけども。

システムを作動させているのは、
 認知革命を経てヒトが獲得した虚構生成能力です。
システムへの【過適応】、
 すなわち【普通ではない】こと
そうした人たちがリードしないと保たれていかない【システム】
現に保たれている【システム】
そして、制度疲労によって崩壊しつつある【システム】


【怨】への機序は、また改めて語ることにします。


【追記あり】 『COCORA 自閉症を生きた少女』



『自閉症スペクトラム~発達障害の当事者による「壮絶な告白」』

『現代ビジネス』の記事です。

この記事によると、



上掲の本が電子書籍に限り、
       全3巻刊行予定のうちの第1巻に限り、
       期間限定で
無料で閲覧できるようです。

現代ビジネスの記事を見ると、僕にとっては興味深いないようです。
せっかくですので、読ませてもらいます。

感想等は、後ほど。

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『サピエンス全史』その3~虚構の効用


『その2』はコチラ


 


ゲノムを迂回する

言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬものとどうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件の下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、1789年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、公言神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。



〔虚構〕の効用は2つ。

 1.大勢の見知らぬ者どうしが効果的に協力できる。
 2.虚構構造を変更することで、協力の仕方を変更することができる。

引用ではフランスの例を引いていますが、日本でも似たようなことがありました。
明治維新です。

徳川幕府による大政奉還の後、朝廷は「五箇条の御誓文」を発布し、
日本という虚構構造(神話)を一変させてしまいました。
協力のしかたが変わったわけです。

徳川幕府時代においては、徳川家康は「神」でした。
「神君家康公」と呼ばれた。
さらには「天照」の向こうを張って「東照」大権現と呼ばれた。

「東照」を中心とした協力態勢が、あっという間に「天照」中心に戻ってしまったのが
明治の維新でした。

「天照」が中心に戻るにあたって、興味深い儀式が為されていました。
讃岐にあった白峯神宮が京都に遷座された。

讃岐院と言えば、崇徳院です。
「魔王」と呼ばれていたお方です。

日本が「東照」中心になったのは、
 武家の神話によると、それだけの功績があったから。
 公家の神話によると、魔王に祟られたから。

江戸時代は前者が優勢でした。
それが維新で後者優勢にひっくり返った。

ひっくり返るにあたって、公家たちは、自分たちを祟っていた讃岐院を赦した。
それが白峯神宮の京都遷座です。
そういう「儀式」をまず執り行なった。
五箇条の御誓文発布は、その次。

面白いと思いませんか?


たとえば、1900年に生まれ、100歳の天寿を全うしたベルリンの女性を想像してほしい。彼女は子供時代をウィルヘルム2世のホーエンツォレルン帝国で過ごし、成人してからはワイマール共和国、ナチスの第三帝国、共産主義の東ドイツで暮らし、再統一された民主主義のドイツの市民として生涯を終えた。彼女は、DNAが少しも変わらなかったにもかかわらず、5つのまったく異なる社会政治的体制を経験できたのだ。



たとえば、安政6年(1860年)に生まれ、100歳の天寿を全うした江戸の男性を想像してみましょう。
彼は幼少時代を徳川家茂の徳川治世の時代で過ごし
 物心がついたころに時代は明治へと変わった。
明治期の発展、大正期の成熟を体験し、昭和の破滅も経験した。
GHQによる占領期も経験し、日本の再独立を目の当たりにしてからこの世を去った。

この人生の間に、どれほどの神話の変更を体験したか。
ベルリンの女性には及ばないかも知れないけど、
 大きなところだけでも、明治維新、太平洋戦争敗戦の2回。

神話なんて、条件さえ整えば、簡単に替わる。
それこそがサピエンスが認知革命によって獲得した能力です。

これこそサピエンスの成功の鍵だった。一対一で喧嘩したら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。だが、何百人という規模の争いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。彼らはライオンの居場所についての情報は共有できたが、部族の精霊についての物語を語ったり、改訂したりすることは、おそらくできなかった。彼らは虚構を創造する能力を持たなかったので、大人数が効果的に協力できず、急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることができなかった。



人類は社会的な生き物です。
デフォルトで、すなわち〔虚構〕の助力なしでも社会を作る。
ただし限界はあって、その大きさは成員150人くらいが限界らしい。
デフォルト以上の「大きな社会」を作るには、〔虚構〕の助けなしには不可能です。

そして〔虚構〕の助けを得ることができるのはサピエンスだけです。

人類の特徴は大きな脳です。ことに大脳が発達している。
大脳の大きさに社会の大きさは比例するようです。

ネアンデルタール人はサピエンスよりも大きな脳を持っていたらしい。
体躯もサピエンスよりも頑丈であったらしい。

そのネアンデルタール人がサピエンスに生存競争で負けた。
サピエンスに負けたのはネアンデルタール人だけではない。
生態学的ニッチが重なる他の大型哺乳類等も、負けた。
しかも、彼らが消えた時期とサピエンスの進出時期が一致している。

これら事実の意味することを、認知革命後のサピエンスなら理解できるはずです。



紹介の順序を間違えてしまいました。

〔虚構〕の効用の第一は交易です。
国家・帝国といった虚構構造の登場は、農業革命以降の話。

交易は、虚構の基盤を必要としない、とても実際的な活動に見える。ところが、交易を行う動物は、じつはサピエンス以外にはなく、詳しい証拠が得られているサピエンスの交易ネットワークはすべて虚構に基づいていた。交易は信頼抜きには存在しえない。だが、赤の他人を信頼するのは非常に難しい。今日のグローバルな交易ネットワークは、ドルや連邦準備銀行、企業を象徴するトレードマークといった虚構の存在物に対する信頼に基づいている。部族社会で見知らぬ人どうしが交易しようと思ったときは、共通の神や神話的な祖先、トーテムの動物に呼びかける。



原初的な形の交易としては「クラ」が有名です。

クラ(Kula)は、パプア・ニューギニアのトロブリアンド諸島、ルイジアード諸島、ウッドラーク島、ダントルカストー諸島などの民族によって行われる交易である。クラ交易とも表記する。

クラは人類学者のブロニスワフ・マリノフスキによって詳細に研究され、彼が『西太平洋の遠洋航海者』という著作を発表して以来、多くの研究者の注目を集めている。マリノフスキは、クラに用いられるヴァイグアをトロフィーにたとえて論じた。マルセル・モースは、『贈与論』で贈与と交換の体系からクラを研究した。カール・ポランニーは、『人間の経済』でクラを互酬関係の1つとして論じた。



交易は認知革命の最初で最大の成果です。
すなわち〔虚構〕の効用の最初で最大のもの。
そして、交易においては、国家・帝国におけるものほど
 「神話の変更」が頻繁に行われていない。

国家・帝国における「神話の変更」を語ること、想像することは、さほど難しくない。
上で取り上げたように、100年生きた人を想像してみればいい。

ところが交易における虚構構造の変更を想像するのは難しい。
難しいという事実が示すのは
 交易という営為を支える〔虚構〕の作用が

  よりサピエンスの深層に及んでいる

と考えることができるということです。


ここから先は「第3部の統一」での話になります。

『その4』へ続きます。



再び、『この世界の片隅に』



『世界の片隅に』について、もう少し追記。

最初の記事はコチラ (^^)っ 『この世界の片隅に』
当文章の、出発点はコチラ (^^)っ 『サピエンス全史』 その2~虚構とは何か


〔大人〕を【大人】たらしめているのが、【虚構】です。



予告動画にはすずが号泣するシーンがあります。
すずが激しくなく理由は、かけがえのないものをうしなったからではありません。
姪っ子を失い、自身の右手も失った。

「喪失」という現象を、〔からだ〕は受け容れます。
受け容れることが出来なければ、死にます。
生きているということは、受け容れたということです。

「号泣」は抗うことです。
「嘔吐」と同じとは言えませんが、似ています。
「突き上げてくるもの」があるんです。

すずは玉音放送を聞いて初めて、「突き上げてくるもの」を感じた。
ここで初めてレセプターができあがってしまった。
レセプターが存在するようになったから、【疎外】と感じるようになった。


「戦争のある生活」を、【疎外】が当たり前に存在する暮らしを、
 すずは当たり前に受け容れてきた。

この「当たり前」は、【大人】の感じる当たり前ではありません。
【疎外】を感じるレセプターをもつ〔大人〕は、
 【疎外】を感じつつも
  それを「当たり前」のことだと自らを欺瞞することで【大人】になる。

すずには〔大人〕のレセプターがなかったがゆえに欺瞞も生まれなかった。
自然に〈当たり前〉なのと、欺瞞によって【当たり前】なのと。
同じ「当たり前」でも、まったく正反対のものです。

この映画に危険なところがあるとしたら
 それは、〈当たり前〉と【当たり前】が混同されてしまうことです。

〈当たり前〉のときの〔からだ〕と
【当たり前】の〔からだ〕は違います。
欺瞞のある【カラダ】と素直な〈からだ〉が同じであるわけがない。

ところが言葉を経由してしまうと、それを同じものだと解釈できてしまう。
だから言葉はデタラメで危険なんです。


言葉によって組み上げられる【虚構】から出てくる反応と
〔からだ〕の素直な反応を峻別できる者にとっては、
『この世界の片隅に』が、危険な映画であることはありえません。

また、【虚構】からの反応より〔からだ〕の反応を優先する者、
 すなわち〔主体〕のある者にとっても危険はありません。

〔からだ〕の反応を優先できず、【虚構】に〔主体〕を奪われてしまう人間には、
 もしかしたら危険な映画であるかもしれない。
すずの〈当たり前〉を【当たり前】だと権威によってすり替えられたとき、
 それに抗うことができない。
抗うどころか、すり替えに隷属することを「社会善」だと感じるようになってしまうでしょう。


矛盾するようなことを申し上げます。

本当は、この『世界の片隅に』という映画はとても危険な映画です。

誰にとって?
【システム】にとって、です。

〔からだ〕に素直であることを促す作品だから。
そして、誰もが〔からだ〕に素直になってしまうと、
 【虚構】によって編まれた【システム】が保たない。

象徴的な言い方をすれば「戦争ができなくなる」ということです。


ですが、残念ながら、そうした危険性が露わになることは、まずない。
ほとんどの者がこの映画を虚構だと受け止めて終わるから、です。
つまり「消費」されて終わる。
消費という構造の中を循環することで、【システム】への危険性は無害化される。
【システム】に支えられた毎日の暮らしのなかで
 現実問題としてすずのようには生きられないし
  そういう人間が実在したとしても、愛すべき例外であるにすぎない。
そのように考えて、自身を無害化してしまう。

すなわち、怯懦です。



※追記

大切なことを書き漏らしていました。

『この世界の片隅に』は
 クラウドファンディングで資金を集めて製作されたという事実。

この映画が【システム】にとって危険な映画であるとしたら、
 この事実は、その危険性が大きくなったことを示します。

瑞兆だと思います。

『モヒカン故郷へ帰る』


偶然が二度続く。

理由はわからないし、わかるはずもないし
そもそも理由があるかどうかもわかりません。
わかりませんが、偶然が二度続く、という現象がなぜが僕には頻発します。



映画『モヒカン故郷へ帰る』のエンドロールを眺めていて、目に留まったのが、「呉」という文字。

公式サイトにロケ地の地図が紹介されていますが、やっぱり「呉」がある。
ロケ地は呉市ではないんだけど (笑)

映画で「呉」と言えば、のんが声を演じる―― (^o^)つ 『この世界の片隅に』


どうでもいいような話から文章が始まってしまいましたが (^_^;)
まあ、そういう映画です。
そういう映画だと僕は思いました。

僕が、自分で観る映画をチョイスするなら、この映画はおそらく観なかった。
他人がチョイスしたから、観た。

面白かったです。
こういう言い方は不遜に聞こえるかもしれませんが、

映画を暇つぶしの手段の一つとしている人――映画を好きな人
 ――にとっては、暇つぶし以上の楽しさをもたらしてくれる映画です。

映画鑑賞になんらかの教訓のようなものを求める向きには、不向き。
映画に対して欲張りな人には。

映画を好きな人のための、映画。


他薦のものを見たり聞いたり、僕は結構好きです。
同じ空間で、というのは若干、いえ、かなり苦手ですが (^_^;)

僕は欲張りな質なので、他薦でないとこういった作品に出会う機会を作ることができない。
どのようなことであれ「機会がある」というのは、良いことです。


タイトルから想像されるように、コメディです。
笑いのツボがうまく押えてある。
若干、ツボを強く押しすぎじゃね? ――と感じるところもありますが、
まあ、そのあたりは、人それぞれの好みでしょう。

特筆しておきたいのは、ツボの幅の広さ。

「ツボの幅」は、わかりにくいかな。
ツボが利く対象が広い、ということ。

公式サイトのロケ地紹介分に、

 エキストラとして、下は赤ちゃんから上は最高齢100歳のおじいちゃんまで島民総出で

とあるんですが、その甲斐もあってか、
子どもからじいちゃんばあちゃんまで楽しめそうな映画。

コメディっていうのは、誰もが楽しめそうでいて、案外間口が狭いことが多い。
「常識(虚構構造)」とのズレを虚構のものとして表現することで楽しませるのがコメディですから
ある程度、「常識」が一致していないと笑えないんです。
現代のように、世代間の違いが著しい時代では、
「常識」が一致している部分というのは小さいのですが、そこをうまくすくい上げている。
これは原作者の力量でしょう。


そういう「ツボの幅広さ」でいうと、ジャンルは違いますが、思い浮かんでくるのが



このオモシロオカシイ動画が大ヒットしたのは共通する「常識の幅」が大きかったからです。
幅が大きい上に、ズレが単純で、誰もが真似できそうに思える。
それもズレが単純だから、真似をしても真似にならない。
真似する人の個性が出る。

そう考えれば、ピコ太郎さんが提供したのは「プラットフォーム」なんですね。
笑いのプラットフォーム。

こういう単純なことは、為されてしまうと単純なんだけど、
提出することは誰にでもできることではありません。
やはり才能でしょう。

そして、プラットフォームだと考えると、
これはイノベーションの構造と似ていることがわかる。
たとえば、ジョブズが提出したiPhoneだとか。

そしてそして、イノベーションが生む単純さにも、特異な才能によるものと、
広範な現象の生起のなかから必然的に生まれてくるものとがあって、
後者については、おそらく人工知能のほうがヒトよりも優れている――

おっと、話が全然違ってきましたね (^_^;)


話を戻しまして。

この映画の影の主役は、矢沢永吉さんです。

島の中学校の吹奏楽部がYAZAWAの『アイ・ラヴ・ユー、OK』を演奏するんですが、これが最高にダサイ^^;
楽曲使用には、当然、矢沢さん当人の承諾があったはずですが、
よくOKを出したもんだと思うくらい。

矢沢さん当人はともかく、YAZAWAの純粋なファンなら、
 このダサさにはキレても不思議ではないと思います。

コメディを生むズレは、一方で、つねにキレられる危険性も孕んでいます。
それは、ズレの対象になる「常識」に、その人がどれほど依存しているかによる。
「常識」を相対化し依存から自立している人は、
 すなわち「常識」によってアイデンティファイされていない人は、
  そうしたズレが見えるし、笑うことができる。

いや、これは逆か。
笑わすことができれば相対化が起こる。
ヒトの身体は、たぶんそういう機序で作用する。


また話がアッチヘ行ってしまいました ^^;
映画のほうへ戻っていきましょう。

矢沢さんが楽曲使用を許可したということは
つまりキレなかったということから推測されるのは、
矢沢さんはご自身の作品をすでに相対化している、ということです。

そういうことがわかると、ひとつ期待が生まれる。
もしかしたらこの映画に、矢沢さん自身が出演するシーンがあるのではないか?

そう期待させる場面があるんです。

YAZAWA大ファンの父親が、ガンを患って、死期が近い。
それで息子が父親の希望を聞き出すわけです。
死ぬまでに叶えておきたいこと。
すると父親は「えーちゃんにあいたい」という(笑)

お、これでもし本人が出てきたら、グレート(笑)だな、と。
残念ながら、その期待は叶いませんが。


キレられるといえば、危ういと感じた場面をもうひとつ。
結婚式のシーン。
キリスト教式なんですが、いくらコメディとはいえ
 おちょくるにもほどがあるかもなぁ、と思わなくはない。
厳粛さが欠片もない。
これ、キリスト教原理主義者がみたら、キレるかも?

コメディとしては、そういう危険なもののほうが引き立つわけです。
そうした構造はフランスでテロを招いたジャーナリズムにも当てはまること。

どうせ脱線だらけなので、ついでに言及しておきますと、
このとき、欧州を中心に起こった"Je suis Charlie"は、ダサいと思いました。
オマエら、九鬼周造を読め、と。



シャルリー・エブドがやったのは、ズレを露わにすることです。
このことは、九鬼の基準で言うならば「いき」なことです。
YAZAWA流に「グレート」かどうかは知りませんが(笑)

露わになったズレにガチギレするのは、ダサい。野暮です。無粋でfす。
その野暮に対して"Je suis Charlie"は、これまたダサい。

"Je suis Charlie"を裏打ちしている「常識(虚構構造)」は言論の自由ですが、
これを持ち出すことがもう、ダサい。
イスラーム側は、別の「常識(虚構構造)」をもっているのだから。
そうなると、ガチ対ガチにならざるをえない。

常識≒虚構=アタマvs身体(からだ)という構図で見ると、このダサさがよく見える。
明治時代の日本の知識人には、まだまだこういう構図が生きていたんですね。
それは『逝きし世の面影』の反映であり、ピダハンという源像に近いものだと思います。

(上のように、他者を批判する僕も、【アタマ】vs〈からだ〉:の構図の〈からだ〉の側に立って振る舞うことができるかというと、まだまだ十分にはできていません。
方法論は見えてきたように思っています。
その方法論が正しいとするならば、〈からだ〉の側に立つことを阻んでいる【傷】が僕の中にある。
この【傷】によって生じている歪みによって阻害が起こっていると推測されるので
歪みを修正する構造改革をしないといけない。

「普通」に生きて行く分には、別に構造改革など必要ないのだけれど、
自分の伝えたいことを、純粋に伝えたいと思うなら、その必要が出てくる。
無粋にならず〈いき〉に振る舞う必要。)


またもや話は戻って (^_^;)
この映画での結婚式の場面です。
無難に済ますなら、神式あたりを採用したほうがよかった。

もっとも当映画にキリスト教徒がガチギレするような機会は、まず、ないだろうけど。
『PPAP』ほどに欧米人受けしないだろうから。

そういう意味でも、これは日本人のための映画です。
結婚式という儀式(虚構構造の表現)を相対化して用いることができる。
『逝きし世の面影』を、あるいは『神神の微笑み』の系図に加わる作品だと言えなくはない
――けど、苦しいかな?


やっぱり、純粋な映画好きよりも欲張りな文章になってしまいました (^_^;)

ベーシックインカムとデフレ


情報収集がネット主体になっている人は多いと思います。
僕もそうなんですが、そうなると欠かせないのはネットニュースですよね。

僕はライブドアニュースをよく見に行きます。

今日は、ライブドアニュースから拾った2つの記事をネタに。
経済関連のニュースです。

 『なぜ働かなくてもお金がもらえる「ベーシックインカム」を導入すべきなのか

 『デフレの先にある2つの地獄!

ライブドアニュースには、こういった啓蒙記事(?)がしばしば出てきます。
今日(1/24)は、僕が関心を持っているテーマがふたつ並んだので、記念(?)に、というわけです (笑)


ベーシックインカムに関する記事は、以前より多くなっている気がします。
ライブドアニュースでも、「ベーシックインカム」はトピックスになっているようで、
関連記事一覧がすぐに出てきます

ベーシックインカムの議論そのものは、ずっと以前からあります。
僕自身がブログを始めたころは、割とホットな話題だった記憶があります。

ホッとといってもごく限られた範囲でのことでしたが、
それが今は、多くの人が閲覧するであろうネットニュースのトピックスになっている。
いいことだなぁ、と思うんです。


今の社会の仕組みは制度疲労を起こしていて、もう長くは保ちません。
ベーシックインカムに関心が出てくるのも
 長く保たないという予感が拡がりが為せる技ではないかと思う。

もっとも、ベーシックインカム導入程度で
 今の社会構造の病巣が解消するわけではない。
悪くすると、病巣そのものを温存する弥縫策で終わってしまう可能性もある。

現在の社会構造の病巣、僕が【システム】と呼ぶ構造の核心は
 〔虚構〕への依存です。
ベーシックインカムは依存を解消するわけではない。

わけではないけれども、解消への大きな一歩にはなると思います。
主体的に「働きたい」と考える人が
 収入の多寡に縛られずに
働くことができるようになるハードルがぐっと下がるでしょうから。

ベーシックインカムが実現すれば
 【システム】による主体性への縛りがかなり緩くなる可能性が高い。
もし、弥縫策にしかならないとしても、 ベーシックインカム思想の底にある
 【システム】からの束縛感は変わらない。
ベーシックインカムで束縛感が緩まなかったとしても
 緩めるために〔システム〕をデザインするということの一歩は踏み出すことになる。

そういう一歩を踏み出す態勢が
 社会を下支えしている人々の集合無意識のなかに整いつつある――
そんな感想を持って、僕は、いいことだと思うわけです。


もうひとつの記事はデフレの話題でした。

こちらの記事が展開する啓蒙は、まいったなぁ、という感想です。
だから経済学はプロパガンダなんだ(怒)――
  と、お決まりの反応が出てきてしまいます(笑)

インフレ、デフレ関連の記事も良く目にします。
アベノミクスという日本の現政権の経済政策
 ――政権の経済政策はつねにホットトピックスです――
  との関連も深いですから、当然ではあります。

記事では、デフレは悪いことになっています。
それはその通りなんですが、そうなってしまう暗黙の「前提」がある。
実はこの「前提」こそが、上で振れた【システム】の核心なんです。

そもそもの経済というのは、「お金のこと」ではないんです。
人々の暮らしのこと、です。
「暮らし」が「お金」に完全に置き換わってしまっている。
置き換わることが「良いこと」だと思ってしまっている。
「良いこと」だとプロパガンダしている。
置き換えることを「合理的」だとし、置き換えることでどのような利益があるかを考える。

考えることはでき、その通りに行動したとしても利益にならないことも多いんですが。
それはなぜかというと、「合理的」と考えることが間違っているから。

経済学を眺めていて、僕なんかがいつも思うのは、順序が逆だということです。

経済学を合理的ならしめる要素は、貨幣です。
経済現象を貨幣に置き換えないと、合理的な理論が構築できない。
理論が構築できないから、貨幣に置き換えることは合理的でなければならない

合理的でなければならないから合理的だなんて、天地逆さまです。

合理的と考えることは可能です。
が、合理的だと考えないことも可能です。
合理的と考えたとしても、敢えて不合理な行動をとることも可能。

こうした可能性を、現実に可能ならしめる存在が〔主体〕です。
つまり個々の人間です。

お金がないという状態は
 社会とのコミュニケーションなしでは生存不可能な〔主体〕の行動を制約してしまいます。

貨幣というのは、コミュニケーションツールです。
経済が実はコミュニケーションだから。

コミュニケーションというのは、情報のやりとりをだけを指すわけではない。
いえ、情報のやりとりを指す言葉がコミュニケーションなんですが、
 コミュニティを維持するというコミュニケーションの効用を考えると
経済もまた同じ効用をもつ営みだと言うことができる。

そして経済のための集約情報(←こういう用語はありません、適当に当ててみました)
 が、貨幣なんだから、
貨幣はコミュニケーションツールだと言っても、的は外れていないはずです。

詳細は長くなるのでまた別記事にまとめますが、
貨幣をコミュニケーションツールだと考えれば、デフレは「良いこと」です。

理由は単純。
貨幣コミュニケーション(今日の意味での経済)の比重が、
人間が為すコミュニケーション全体に対して、下がるから。
別の言い方をすると、時間に余裕ができる。

いえ、この言い方は精確ではないです。
時間に余裕ができるようになるはず、です。
はずなんだけど、今の【システム】においてはならないでしょう。

本来、そうあるはずのものがそうならない。
つまり【逆接】です。

時間に余裕ができるはずが、なぜかそうならない。
ミヒャエル・エンデを思い起こします。



では、なぜ、そうあるはずのものがそうならないのか。
どんな理由で【逆接】が生じたのか。

この歴史を明かすのが、
現在展開中の『サピエンス全史』シリーズ(のつもり)です。


それにしても。

『なぜ働かなくてもお金がもらえる「ベーシックインカム」を導入すべきなのか』
『デフレの先にある2つの地獄!』

【システム】からの束縛感を緩和する方向性の記事と、
  それとは逆のベクトルを持つ記事が
同時に並ぶという現象。

興味深いです。
ただの偶然でしょうけど。

けど、本当に偶然なの? という疑問も湧かなくはない。
この現象にだれか固有の〔主体〕を求めると、陰謀論になります。
陰謀論の否定は、不可能性の証明という言語の弱点の問題が出てきて、アウトです。

だけどだけど、アウトになってしまうということが、これまた面白い。
言語で言い表すことができない
 人々の集合無意識の為せる技だという気がしないでもない。
だとすると、人々は、〔虚構〕への依存心も強く持っているということになります。

束縛からの解放への願望。
束縛への依存への願望。

その両方が、バランスを取ったのかもしれません。

『サピエンス全史』 その2~虚構とは何か


『その1』はコチラ


繰り返し持ち出すのはなんとなく心苦しいのですが、ピダハンです。

『ピダハン』ほど認知革命以前の姿を推測するのに適した「資料」はない。

「資料」という表現には我ながらいささか引っかかるものがあります。
「資料」という表現ににじみ出る突き放したような捉え方を
 僕はしているわけではない。

客観的にみるなら「資料」で間違いはないかもしれません。
だけど、それは、「資料」以上のものです。

「源像」であり「希望」です。
不幸と無縁であり、なおかつヒトなのです。
現在の自分自身の存在と無関係とは思えない。いえ、思いたくない。


不幸と無縁とは、不幸へのレセプターが欠けている、ということでもあります。
ピダハンとは違うのですが、不幸へのレセプターの欠けたイメージに、
つい最近、僕は接しています。

これです。



『この世界の片隅に』を取り上げた記事に、僕はこのように書きました。

 すずは、社会適応という側面に関していえば、障害者です。
 だからこそ、大人になっても〈子ども〉のまま。
 そんなすずは、大人にならざるを得なくなっても、
 やはり【普通の大人】にはなれない。

 「ならない」ではなく「なれない」のだと思います。
 でも、それこそが幸せへの方法。


〔大人〕を【大人】たらしめているのが、【虚構】です。

『世界の片隅に』の予告動画。
すずが号泣したのは、かけがえのないものを失ったからではありません。
愛する姪っ子を失い、自身の右手を失っても。


「二重の現実」に生きざるをえない認知革命以降のサピエンスは
〔虚構〕に合わせて、もともとの現実のほうを改変する力を身につけた。
その能力がアフロ・ユーラシア大陸ではホモ・ネアンデルターレンシスを、
ホモ・デニソワを、あるいはマンモスを、
ベーリング地峡を渡った後はエレモテリウムやメガテリウムを、
オーストラリア大陸への渡海を成し遂げたときにはディプロトドンを、
それぞれ忘却の淵へと追いやりました。

【虚構】の破壊力は、サピエンス自身にも及んでいます。
最もたるものが戦争。
それも総力戦。
別の言い方をすると殲滅戦です。

なぜ、こんなことになってしまったのか。
その疑問に答えるのは、まだまだ先になります。



〔虚構〕とは何か。
直接答えるには、けっこうな難問です。
ところがアナロジーを用いると簡単に理解できる。
実際に存在する事例の特徴を列挙し「これが虚構だよ」といえば、
わかる人には容易にわかります。

アナロジーが理解できる能力を持っているということが
 認知革命の成果なのでしょう。

『サピエンス全史』では、プジョーの例が引かれています。
フランスの自動車会社です。

アナロジーは手段ですから、別にプジョーでなければならないわけではない。
こんなことも一般的な大人なら難なく理解できることです。
日本ならトヨタでいいし、ニッサンでも、ホンダでもかまわない。
自動車会社である必要もなくて、ソニーでもかまわない。
会社である必要もない。
東京大学でもいい。
一般的に知名度がなくても、全然かまわない。
それぞれが通っていた地元の小学校でも
 十分にアナロジーとしてのの目的を達することはできます。
それどころか、もっと身近に家族だってOKです。

以下引用する文章の「プジョー」は
 自分勝手に好きなものに読み替えてもらって結構。
むしろ読み替えできることを確認してもらいたい。

シュターデルのライオン人間にどことなく似たマークが、パリからシドニーまで、至る所の乗用車やトラック、オートバイについている。それは、ヨーロッパでも老舗の大手自動車メーカー、プジョーの製造した乗り物を飾るボンネットマークだ。プジョーはシュターデル洞窟から300キロメートルほどの所にあるヴァランティニェの村で、小さな家族経営事業として始まった。同社は今日、世界中で約20万人の従業員を雇っているが、そのほとんどは、たがいにまったく面識がない。だが、彼らは実に効果的に協力するので、2008年にプジョーは150万台以上の自動車を生産し、およそ550億ユーロの収益を上げた。

私たちはどういう意味でプジョーSA(同社の正式名称)が存在していると言えるのだろうか? プジョー製の乗り物ならたくさんあるが、当然ながら、それら乗り物自体は会社ではない。たとえ、世界中のプジョー製の乗り物がすべて同時に廃車にされ、金属スクラップとして売られたとしても、プジョーSAは消えて亡くなりはしない。同社は新しい車を製造し、年次報告書を発行し続けるだろう。同社は工場や機械、ショールームを所有し、機械工や会計士や秘書を雇っているが、これらをすべて合わせてもプジョーにはならない。何かの惨事で従業員が一人残らず亡くなり、製造ラインとオフィスが全滅するかもしれない。それでもなお、同社はお金を借り、新たに従業員を雇い、工場を新設し、新しい機械を買い入れることができる。プジョーには経営陣と株主がいるが、彼らが同社を構成しているわけではない。経営陣を全員首にして、株式をすべて売却しても、会社自体は元のまま残る。

これはなにも、プジョーSAが不死身だとか不滅だとかいうわけではない。仮に判事が同社の解散を命じれば、工場は存在し続けるし、従業員や会計士、けいえい人、株主は変わらず生き続けるが、プジョーSAはたちまち消えてしまう。要するに、プジョーSAは物理的世界とは本質的には結びついてはいないようだ。それでは、同社は本当に存在しているのだろうか?



構成員。
構成員が集う場所。
構成員が構成員たる旗印。

その旗印を認知できさえすれば、虚構は成立。
ただし、それはそう簡単ではありません。

プジョーSAの場合、決定的に重要な物語は、フランス議会によって定められたフランス法典だった。フランスの立法府の議員たちによれば、公認の法律家が正規の礼拝手順を踏み、儀式を行い、みごとな装飾に施された書類に必要な呪文宣誓をすべて書き込み、いちばん下に凝った署名を書き添えさえすれば、あら不思議――新しい会社が法人化された。1896年に会社の設立を思い立ったアルマン・プジョーは、法律家を雇って、こうした聖なる手続きを一つ残らず踏ませた。その法律家が正しい儀式をすべて執り行ない、必要な呪文と誓いの言葉を残らず口にし終えると、何百、何千もの廉直なフランス市民が、プジョー社が本当に存在しているかのように振る舞った。

効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって膨大な数の人間を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人どうしが力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるかだ。想像してみてほしい。もし私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教育、法制度を確立するのは、どれほど難しかったことか。



「法的手続き」を儀式、呪文、宣誓といった言葉に置き換えてあるのは
レトリックでもアナロジーでもありません。
実際にそうなのです。

ここのところが『サピエンス全史』を読み解くカギです。
一般的感覚ではレトリックに見えそうなところが、「本当のこと」に思えるかどうか。
レトリックに見えるのは「時代の常識」に囚われているからなのですが、
実は虚構は、「時代の常識」がないと機能しないのも事実だから難しいところ。

ちなみに僕は、「本当のこと」以外の理解はできません。

ついでに引用しておきますが、ここはレトリックとしておくほうが無難でしょう。

アメリカでは、有限責任会社のことを、専門用語で「法人」と呼ぶ。これは皮肉な話だ。なぜなら「comproration(法人)」という単語はラテン語で「身体」を意味する「corpus」に由来し、これこそ法人には唯一欠けているものだからだ。法人には本物の身体がないにもかかわらず、アメリカでは法人を、まるで血の通った人間であるかのように、法律上は人として扱う。


レトリックに読みようがないか(笑)

サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、今日では、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、神や国民や法といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。




余談ですが、僕はこの文章を読んだとき、別の本のとある記述を思い起こしました。
それはイスラム法学者中田考さんの発言で
 内田樹さんとの対談本で読んだのだと記憶しています。
曰く、

 イスラームにとっての最大の敵は法人だ

イスラームとは
 アッラーを唯一の虚構として認める思考体系だということのようです。
森羅万象はすべて霊的存在であり、それぞれの言葉でアッラーを称えているとする。
「アッラーを称えている」というところを除けば
 ピダハンたちの世界感に近いものがあります。

近いけど、決定的に違います。
〔虚構〕は、それほどに決定的なもののようです。


引用する部分を少し遡ります。

プジョーは法的虚構のうちでも、「有限責任会社」という特定の部類に入る。このような会社の背景にある考え方は、人類による独創的発明のうちでも指折りのものだ。ホモ・サピエンスは、有限責任会社なしで幾千年、幾万年とも知れぬ月日を暮らしてきた。有史時代のほとんどの期間、資産を所有できるのは生身の人間、つまり二本の脚で立ち、大きな脳を持った種類の人間に限られていた。



著者が施した「指折り」という形容表現を、僕は皮肉だと受け止めています。
指折りだということそのものは、中立的に評価して、その通りだと思う。

が、歴史というストーリーに中立ということがありえません。
正当か不当か。
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリさんは不当だと捉えているらしいと
僕は捉えているいうのは、前に記した通りです。


『その3』へと続く

『サピエンス全史』 その1~認知革命



 


「その0」で書くべきことを書き落としてしまっていました。

『サピエンス全史』は、著者ユヴァル・ノア・ハラリさんが語る「ストーリー」です。

どのような本であれ、また、ブログエントリーであれ、「ストーリー」であることは本質的に変わらないと思います。
もちろん、歴史も。

本書には、そういうことをわざわざ言いたくなるようなものがある。

すべての事実を網羅することはできません。
できたとしても、そのデータ全体は、なんらの意味も持ち得ない。
誰かが編集して、意味を構築しなければならない。

『サピエンス全史』も、そうして意味を持たされたものです。

興味深いのは、その意味の持たされ方。
著者は、ある種の異端者だと僕は感じます。
全体として、絶望的な趣がある。
それはことに、最終章で顕著になりますが...

私たち人類世界を、通常とは違う感覚で眺めている気がする。


そもそも歴史とは正当化のためのツールです。
私たちは正しいんだ、と言わんがための記述が歴史です。
いろいろはバリエーションはあっても、最終的に「正しい」が目的です。
本書はそうではない。



第1部 認知革命の構成は、以下の通りです。

 第1章 唯一生き延びた人類種
   不面目な秘密
   思考力の代償
   調理をする動物
   兄弟たちはどうなったか?

 第2章 虚構が協力を可能にした
   プジョー伝説
   ゲノムを迂回する
   歴史と生物学

 第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
   原初の豊かな社会
   口を利く死者の霊
   平和か戦争か?
   沈黙の帳

 第4章 史上最も危険な種
   告発のとおり有罪
   オオナマケモノの最期
   ノアの方舟

サピエンスを「史上最も危険な種」だと認定し、有罪だと断じている。
これはレトリックに見えなくはないし、著者もそのつもりかもしれません。
著者がどうであれ、多くの人がレトリックと捉えるのは間違いなさそうですが、
レトリックという捉え方で、本書のようなストーリーが語れることが可能なのかというと、
僕には疑問です。


さて、本題の認知革命です。

本書が提示する3つの革命(認知革命、農業革命、科学革命)の中で、最重要のもの。
にもかかわらず、それがどういったものかについての直接の言及はありません。

学者たちはこのような乏しい実績に照らして、これらのサピエンスの脳の内部構造は、おそらく私たちのものとは異なっていたのだろうと推測するようになった。



認知革命は「推測」にすぎないんです。

「乏しい実績」とは、以下のような事柄です。
 ・サピエンスは、15万年前に東アフリカで誕生した。
 ・7万年前までは、他の人類種と同じく、取るに足らない種でしかなかった。
 ・なのに、なぜか、7万年前に突如変化をした。

この「推測」は、しかし、そんじょそこいらの推測ではない。
進化論と同等の威力を持つ「推測」です。

進化論と同様に、異論を唱える余地はあります。
余地はあるけれど、合理的に考えるなら、納得せざるをえない。
進化論と同様に、もっと合理的な推測の可能性を排除はできないけど。


なぜ認知革命という推測が大きな合理的説得力を持つのか。
それは、認知革命後の私たち人類の描写が、非常に的確に思えるからです。
ことに「第2章 虚構が協力を可能にした」の記述。

サピエンスは認知革命を経ることによって、「二重の現実」の中で暮らすようになった。
この「二重の現実」がどういったものなのかは、記事を改めて紹介します。


ここではその前に、「二重の現実」ではないものについて、
認知革命があったとしたらそれ以前に営まれていたであろう人類の「現実」について、
まず語りたいと思います。

構造的には、そういうことを語るのは不可能です。
というのも、認知革命以前は文字もなく、したがって資料もない。
推測は可能でしょうが、推測は現実ではない。
それこそ、推測という行為そのものが「二重の現実」があって初めて可能なものです。

にもかかわらず、語ることができるとした、それは「奇跡」があったということになります。
「二重の現実」ではない「一重の現実」、すなわち「直接体験の法則」。

「直接体験の法則」で、現在も暮らしている人々。



「二重の現実」が「一重の現実」だということは論理的に間違いないとして、
その「一重の現実」がピダハンの「直接体験の現実」と同一とは言い切れません。
言い切れるとすると、それはまさに奇跡です。

原理的には、認知革命以前の「現実」は確認しようがありません。
それはもはや失われてしまったものです。
が、現在でも「一重の現実」で生きている人たちがいる。
その人たちの「現実」は、現に存在しているのだから観察可能だし、
観察が認知革命以前の「現実」を推測するのに大いに参考になると思うのです。

太古のサピエンスは見かけは私たちと同じだが、認知的能力(学習、記憶、意思疎通の能力)は格段に劣っていた。彼らに英語を教えたり、キリスト教の教義が正しいと信じさせたり、進化論を理解させようとしたりしても、おそらく無駄だったろう。逆に私たちにとって、彼らの言語を習得したり、考え方を理解したりするのは至難の業だろう。



『ピダハン』には、ピダハンたちにキリスト教の教義が正しいことを信じさせることが不可能だったことが記されています。
また、ピダハンたちが、英語はおろか周囲の人たちが日常的に話しているポルトガル語さえ、体系的に理解できなかったことも記されている。

認知革命以前の「現実」の推測と、あくまで想像ですが、ピダハンの「現実」が一致する。

そればかりではありません。
ピダハンは、現代文明に浸った私たちからすれば貧しく危険な生活を営んでいますが、それにもかかわらず、幸せな生活を送っていた。不幸にすることができなかったと言っていいほどです。

この記述もまた、本書において推測が展開されている「第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし」と似通っているように思える。

不思議です。
不思議だけど、現実です。



サピエンスは生物進化の過程において、東アフリカで出現した。
科学的に裏付けられている事実です。
一方、ピダハンたちは南アフリカのアマゾンで暮らしています。
科学的に裏付ける必要のない事実です。

東アフリカにおいて取るに足らない種として生息していたサピエンスが今日のように繁栄することができたのは、本書の推測では認知革命があったから。認知革命があったからこそ、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと進出し、ホモ・ネアンデルターレンシスやホモ・デニソワやマンモスや、ベーリング地峡を通過してからはエレモテリウムやメガテリウムなどを絶滅に追いやりつつ、生息領域を広げることができた。

ピダハンが認知革命以前のままだとすると、認知革命がなければなしえなかったアフリカから南アメリカまでの長大な旅を、そのように為し得たかのかは、不思議なことです。

不思議か奇跡か、何があったにせよ、現在の科学的なものも含む現実の中で、『ピダハン』ほど、認知革命以前の姿を推測するのに適した「資料」はなさそうです。

『その2』へと続く

『サピエンス全史』 その0


やっと、『サピエンス全史』を語る段になりました。

 


何度かに分けて語ることになります。
幾度になるのかは、現段階では僕にもわかりません。
いつものように気ままに書き連ねさせてもらいます。


『サピエンス全史』の読書は、僕にとっては「ミッシングリングの発見」です。
『サピエンス全史』によってつながった僕の体系を記すのが、当記事およびその続きの目的です。


 〔世界〕
 〔社会〕
 〔システム〕
 〔人間〕
 〔ヒト〕

体系を語るのに、これまでも用いてきたキーワードです。
今後は、キーワードを中立的に用いるにあたっては“〔 〕”の括弧記号を用いることにします。

各キーワードの定義らしきものも記しておきましょう。

〔世界〕:あるとあらゆるもの全体。客観的に存在するものも、虚構上に存在するものも、すべて。
〔社会〕:コミュニケーション可能なものの全体。
〔システム〕:コミュニケーション可能なものなかの、虚構上のもの。
〔人間〕:虚構とのコミュニケーションが可能になったヒト。
〔ヒト〕:生物種としてのヒト。


〔世界〕は〔世界〕でしか、ありえません。
〔ヒト〕もまた〔ヒト〕でしか、ありえない。
〔世界〕も〔ヒト〕も、「あるがまま」でしかありえないからです。

ただし、あるがままにしかありえないには、限定が付きます。
生物学的にいう進化が有効であるようなタイムスパンでは、〔世界〕も〔ヒト〕も変化していきます。
進化しても、それはそれで「あるがまま」とは言い得ますが、そこは除外して考えることにします。

〔社会〕〔システム〕〔人間〕は、逆に「あるがまま」ではありえない存在です。

なぜ「あるがまま」になれなくなったのか?
カギは認知革命にあります。
詳細は後述します。

認知革命によって〔社会〕は〔世界〕から分離した。
同時に〔システム〕の萌芽もあった。
分離した社会は〔世界〕とのあり方で、〈社会〉もしくは【社会】になる。

〔世界〕と順接の関係にあるのが〈社会〉。
〔世界〕と逆接の関係にあるのが【社会】です。



本書は上下2冊4部構成になっています。

第1部 認知革命
第2部 農業革命
第3部 人類の統一
第4部 科学革命

とりあえず構成の順に進めるつもりですが、とりあえずです。

この構成で面白いのは、第3部に 「人類の統一」が入っているところです。
本書によれば、人類は3つの大きな革命を経験した。
認知革命、農業革命、科学革命の3つです。

その3つの革命の、第2と第3の間に「人類の統一」が入っている。
この構成の意味するところは何か?


〔システム〕は認知革命で萌芽します。
大きく発展するのは、農業革命以降です。

〔社会〕と〔システム〕は連動します。
すなわち、
 〔システム〕が〈システム〉だと〔社会〕は〈社会〉だし、
 【システム】であるなら【社会】になるということです。

農業革命で〔システム〕は【システム】へと変貌し、発展した。
その【システム】が、人類を統一へと導く原動力になっている。
第3部に「人類の統一」が入る意味です。


では、第4部の意味は?
ここを語るのは、かなり先のことです。
意味が未確定だから。


順接/逆接のカギは〔システム〕にあります。
〔システム〕が〈システム〉だと〈社会〉だし〈人間〉です。
【システム】だと【社会】だし【人間】になる。
人間が人間である以上、全部地続きです。

ただ、〔世界〕と〔システム〕が地続きであるかは、微妙なところ。
スケールの順でいうならば

 〔世界〕 > 〔社会〕 > 〔システム〕 > 〔人間〕=〔ヒト〕

ですが、誕生順でいうと違います。

 1.〔ヒト〕/〔社会〕
 2.〔人間〕/〔世界〕/〔システム〕。

2.を生み出したのが認知革命です。

また認知革命は、〔ヒト〕に起こった現象だと言えます。
〔ヒト〕は認知革命によって〔人間〕になり、同時に〔世界〕と〔システム〕を生んだ。
つまり〔世界〕と〔システム〕は兄弟です。双子の兄弟。似ていない兄弟です。

血縁の濃さでいうなら、親子関係のほうが兄弟関係よりも濃いといえるでしょう。
親子は間違いなく「地続き」ですが、兄弟はそうとは言えない可能性がある。

その可能性が、どちらに振れるか?
振れ方で順接にもなれば、逆接にもなるのです。


では、次に、認知革命へと斬り込んでいきます。

『この世界の片隅に』



観てきました。

いつもの書き方だと、予告編の動画を貼り付けて、そのまま本文を始めるのですが、
この作品については、本文は【追記】のほうへ書くことにします。

(【追記】も表示されているなら、一度、トップページ戻ってください)

理由。
まっさらで観てほしいから。

ストーリーのネタばらしを書いているわけではないのですが、
いつものように、とりとめもなく思ったことを書いているだけなのですが、
いつものように、踏み込んで、僕なりの解釈を書いてしまっています。

それは、参考程度にしていただければ幸いという程度のものですが、
本作については、未視聴であるなら、「参考」もなしがいいと思います。

というわけで、すでにご覧になった方は、安心して【続きを読む】をクリックしてくださいますよう。


あ、本文の締めだけ、ここに記しておきます。
これならば、視聴に影響はないと思いますから。

  ***

『この世界の片隅に』、もちろんオススメです。
それも、大切な人と一緒に観るのがいいと思います。

だけど、観るべきかというと、微妙です。
そういう「べき」といったような 論法には似つかわしくない映画だと思うから。
そういう論法で語りたくないし、語って欲しくない。

この映画を観る機会あるいは機縁に恵まれない人は、残念です。
残念に他意はありません。
ただ単に残念だという以外にない。

機会と機縁に恵まれるなら、迷うことはありません。
そのような迷いに労力を取られるのは、もったいない。
人生そのものが試される映画と言っていいかもしれない。
そんな作品は、そんじょそこらにあるものではありません。

  ****

では。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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