愚慫空論

〔再掲載〕性善説



ここ二ヶ月ほど、更新が滞りがちになってしまったのですが...(^_^;)

一年の締めくくりに何か文章を書こうと思って、自分の記事を見直し始めたら引っかかりました。
我ながら、いい文章書いているじゃん。(^o^)v

誰が見てもいい文章ということにはならないことは百も承知ですが、
ボクにとってはいい。
ここに書き表したことは、まったくそのままです。

なので、再掲載します。
お茶を濁す、ともいいますが...笑

   ***



いまさらですが、性善説です。

ヒトの本性は善か悪か?

ボクは善の立場に立ちます。
そのように確信しています。
その確信を改めて自分の言葉にしてみたいと思って、この文章を書いてみます。


いつもながら、少し遠くから文章を出発させてみます。

「反知性主義」という言葉が昨年はよく取り上げられたようです。
どうやら、特定の人物を政治的かつ人格的に揶揄する言葉として多用されていたようです。
ボクも少々興味を惹かれて、こんな本を読んでみたりしました。
あ、揶揄に惹かれたんではないです。
それは後から知りました。


反知性主義とは、佐藤氏の定義によるならば、

実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度


だそうです。
この定義は、妥当であるように思えます。
そして、この定義に従って、人間の性善/性悪を判定するならば、それは性悪だとするのが妥当でしょう。
してみれば、ボクの性善説への確信は、反知性主義だということになります。

でも、ボクはそうは思いません。
性善への確信から出発することこそが知性だと思っています。


揶揄の言葉としての反知性主義とは、要するに“バカ”ということのようですが、
本来の意味は異なります。
反知性主義であるには、知性的であることが必要です。
そうでないと、自分が欲するような理解ができないんです。
「理解を選別する」というのも、それなりに知性的ではあります。

ここではまず、そういう知性の使い方をしてみます。
ボクの確信、つまり、ボクが欲するような世界の理解に都合のよいものを引っ張ってきます。
またしても内田樹さんなんですけど。

内田さんも、反知性主義について、著作をものにしています。



実はボク、この本は未読なんです。
未読なのに都合のよいものを引っ張ってくるなんて、それこそ都合が良すぎると思われるかも知れません。
けど、知性の定義だけを引っ張ってくるなら可能です。
ネット上で紹介されていますから。
それも、相当、批判的に。
内田さんの知性は没落した、と言われるほど。
例えば、こちらの記事とか。

その記事から、内田さんの知性の定義らしきものを孫引きさせていただきますと、

人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。



まさに内田さんなんですが、
これって、「自分が欲するように世界を理解する」のと区別がつきません。
いえ、ボクは付かないと思いません。
ボクは思いませんが、批判的な人たちは、付かないから批判しています。
まあ、つかないものは仕方がありません。

こういうのを読んでいると、かつての「理論派vs共感派」の思い出しますね。
もっとも、こちらはずっと知性的ですが (^_^;)


話が逸れそうなので、本筋に戻します。
繰り返しますが、この内田さんの定義はボクの「確信」には都合がいいんです。
それはなぜかを述べてみるのが、本筋です。


そもそも、“善”とは、なんなのか?
この問いは、知性とはなんなのか、という問いと大いに重なります。

まず知性の方から答えを試みてみますと、
それは、「正しさ」を追及する、ということになるでしょう。
正しくなければ「生き残る」ことができない。

自分の都合の良いように世界を理解する態度は、
たとえ、その振る舞いの一つ一つは知性的であったとしても、
必ずしも自身が生き残ることに寄与しない。
佐藤氏などは、そういったことを実例を上げながら、国家の指導者を批判しています。
これは的を射た批判だと思います。

でも、ボクは納得しないんです。気持ちが片付かない。
どこに?
その前提に、です。
「生き残る」という前提に。

「生き残る」ということは、人間性悪が前提になっているんです。
だから「生き残る」ことが必要になっていく。

何ごとも生きていなければ始まりません。
それはそうです。
けれど、「生き残る」というとき、その背後には恐怖があります。
そして、その恐怖は、同じ人間への恐怖です。

同じ人間に恐怖しなければならない。
だったら、そんな人間は性悪に決まっています。
現在の世界の有様を実証性と客観性を基準に眺めたら、どうしてもそうなってしまいます。

「確信」というのは、それとは違います。
世界の有様がどうであれ、自分が基準です。
徹底的に主観的です。
けれど、独善ではありません。
ボクだけが「善い」と言っているのではないのですから。
みんなが「善い」と言っている。

本当に「善い」かどうかは、実のところ、わかりません。
現実は「善くない」ばかりです。
このボクの周囲でも。
「善い」と決めてかかって接すると、痛い目に遭うのが現実です。
その意味では、佐藤氏は正しい。

けれど、だからといって「悪い」とはしない。
ボクは悪くないから。
確かに「善くない」ことはいっぱいある。
けれど、出来ることなら、「善く」したいと願っています。
現実がそうでないから、かえって「願い」は切実です。

知性の本性は、この「切実さ」のことです。
ボクはそんなふうに思います。

「切実」に客観性はありません。
実証も出来ません。
あくまで主観的です。
そして、この〈切実〉は、人間を「善」としなければ起動しない。
人間を「悪」としてしまうと、それはそれで別の【切実】なものが起動するのですが、
それは、もう、「独善」なんです。
ボクが、ボクの周囲が、ボクの所属する何かが、「生き残る」ことへの【切実】。

【切実】は、それが切実であるほど、【死にものぐるい】に陥ります。
で、それが果たして、「善」か?
ボクは、確信をもって、それは違うと答えたいと思います。

【死にものぐるい】は不幸ですから。
不幸が善であるわけがない。

善とは、幸福であることです。
「正しい」かどうかは、とりあえず関係がない。

二次的には関係があるんですよ。
「正しい」というのは、社会的だから。
そして人間は社会的な生き物だから。

ヒトが生き残るためには、社会的であることが必要です。
ヒトにとって、社会的であることは生存戦略なんです。
これは揺るがない事実でしょう。

そして「正しい」ということは、社会的には必要なことです。
「正しい」に基づいた秩序がないと、社会が成立しないから。
 
実はボクは、「正しい」とは別の基準に基づいた秩序は構築可能だと思っています。
でも、現実は、歴史は、「正しい」以外の方法で秩序付けがなされた文明社会は成立しなかった。
あくまで文明社会ですからね。
だから、とりあえず、社会的であるなら「正しい」は必須と考えておきます。

これは逆にいうなら、人間が社会的でないなら「正しい」ということ自体に意味がないということです。
そして、ここで問うているのは、社会的な人間のことではない。
個としてのヒトです。
ヒトが善か悪かを問うています。

ヒトにとってもっとも重要なことは、その個が幸福であるかどうかでしょう。
してみるなら、個としてのヒトが幸福であるかどうかが、「善」であるか否かということになります。


個としてのヒトは性善であるに決まっています。

なぜ決まっていると言えるのか?
それは、ヒトは、いえヒトに限らず、生き物はもともと健康になるように出来ているからです。
そういう身体を持って生まれてくる。

そして、ヒトにとって、身体と心は同じものです。
身体と心を別のものになったのは、社会がそうしたのです。
社会がなければ、心身を分ける意味がない。
個としてのヒトにとっては、心身は同一です。

ならば、話は簡単です。
身体が健康になるように生まれついているのなら、心もまた幸福になるように出来ているに決まっています。
幸福がヒトにとって善なのですから、ヒトはそもそも性善です。

実にシンプルです。
ボクは、本当のことは実はシンプルなんだと思っています。
問題を難しくするのは、問いの前提を誤るから。
前提の整理が出来さえすれば、問いの答えはみなシンプルですし、
そうでなけば得心がいったり、腑に落ちたり、気持ちが片付いたりはすることはないでしょう。


人間は性善か性悪かの問いは、個としてのヒトを対象に問うのか、社会を構築しなければ生き残ることができない生き物として問うのかで、答えが違ってきます。
現状の社会の有様を元に答えるなら、後者が妥当でしょう。

同じことは知性についても言えます。
知性/反知性の基準のうち、佐藤的なものを採用するのが妥当か内田的なものが善いかは、
これも、どの前提に立つかで違うことになる。

そして、どういった前提に立つかということが、その人間の態度です。
社会に立つか。
個に立つか。

社会に立つなら、必然、「公」は「私」より優先度が高いということになります。
滅私奉公が尊ばれる。
そこを追及することが知性の発露ということになる。
しかし、現状の社会を見る限り、社会の上位にいる人間ほど滅私奉公に遠いといわざるを得ない。
この現状を反知性主義というのは正しい。

一方、個に立つなら、「私」の優先順位が「公」よりも高くなる。
社会はあくまで「私」を幸福にするためのものに過ぎない。
なので、知性はあくまで「私」の幸せを追求するするために発揮されることになる。

ボクはもちろん、後者の立場に立ちます。
その前提としての人間性善説です。
だから、あくまでボクの主観的な確信なんです。

その選択は、反知性的滅私奉公が蔓延る現在社会の状況からしても、妥当だと思っています。
過激ですけどねww


  ****

締めくくりの音楽だけ、別のものにしておきます。
年初の音楽は「希望」のものだったけど、
締めくくりは「祈り」で。

いや、これはむしろ「感謝」だな。






『バグダッド・カフェ』





この映画を鑑賞するのは二度目です。

一度目に観たのは二十歳のころ。
『バグダッド・カフェ』の制作は1987年だとありますから、勘定が合います。

どんな理由でこの映画を観たのかは思い出せません。
暇つぶしで入った映画館でたまたまやっていたというだけのような気がします。

観た場所はなんとなく覚えているんです。
たしか大毎地下劇場という、リバイバル上映専門の映画館。
大阪梅田の毎日会館という建物の地下にありました。


先日、月一で参加しているとある映画鑑賞会で
オマエが観たい映画をチョイスしろと言われて、この映画が思い浮かんだんですね。

思い浮かんだのは他にもありまして。





どれもアメリカがまだ輝いて見えていた時代のものですね。
ベトナム戦争関連の映画が多数制作される一方で、
ここに挙げたような、「しあわせな映画」も作られていた。

そう、幸せな映画を観てみたかったんです。

若き日のトム・ハンクス主演の『ビッグ』は、いうなれば、子どものしあわせ。
名作かどうかはさておき、アメリカンな楽しさ抜群の『ブルース・ブラザース』は、青年のしあわせ。

となれば、『バグダッド・カフェ』は、大人のしあわせ。
そう、大人のしあわせ。

大人のしあわせって、なに?


『バグダッド・カフェ』は良い映画です。
なんとなく、良い映画。
どんなふうに良いかを言い当てるのが難しい。

しあわせってものがそういうものです。
とくに大人のしあわせは。

子どもならば、「子どもらしい」という言葉にそのまま「しあわせ」という感触がある。
青年でも、「青春」といえば、多少苦さや酸っぱさは混じるものの、「しあわせ」の感触がある。
ところが大人は、大人としあわせは、一筋縄ではないかない。
「家族」とか「仲間」といったようなコミュニティを一枚噛ませないといけない。

『バグダッド・カフェ』は、大人のしあわせに不可欠に絡むコミュニティのありようを映し出した映画。


ラスベガス近辺という舞台設定なのでしょう。
黒人夫婦が経営するバグダッド・カフェという名の、これは日本語でなんて言えばいいんだろう?
ガソリンスタンドがあって、アルコールやコーヒーや軽食を出す店があって、モーテルもある。
トレーラーハウスに住んでいる人や、キャンプをする人もいる。
雑多な人たちが、なんとなく集まる場所。

そんな場所が、なにゆえ「バグダッド」なのかは不明。
同じように、なんとなく集まっている人が、どういう理由でそこのいるのかも不明。
最後まで不明。

理由など、どうでもいい。
ただ、「そこにいる」ということが大切。

そのバグダッド・カフェの主人が、ブレンダという名の黒人女性。
夫がいて、いい人みたいだけど、不精者。

バグダッド・カフェを切り盛りするブレンダには、暮らしの垢とでも言えばいいのかな? 
暮らしを成り立たせていく上での負荷を、一身に背負っている。
夫を筆頭に、場のみんながブレンダに寄りかかり甘えていて、
だから、ブレンダはいつも不機嫌。
だから、バグダッド・カフェも不機嫌な場所。
不機嫌な場所なのに、そこはスルーして、それぞれ好き勝手にやっている。


ブレンダの不機嫌から募ったイライラが爆発して、不精者の夫を追い出すしたところに、
これまた夫婦げんかで夫に置き去りにされたドイツ人女性がやって来る。

この夫婦げんかの理由も不明。
ただ、とにかくやって来る。

この女性、ドイツだからドイツの名前があるんだけど、そんなのもどうでもよくて、
バグダッド・カフェでは「ジャスミン」という名前になる。

このジャスミンが、ブレンダの「垢」を落としてやる。
きれいさっぱり洗い流すというのではなくて、半分か、三割か、
そのあたりの加減は不明だけど、
とにかく、いくぶん「垢」を落としてもらったブレンダは元気になって、
バグダッド・カフェというコミュニティが上機嫌な場になっていく。


大人って要するに「人間」です。
コミュニティを構成するメンバー。
構成しているんだから、責任が当然、ある。
責任を負うからこそ、大人。

コミュニティを構成する大人が、その人なりにその責任を負担する。
大切なのは「その人なり」ということ。
なんとなく、その人なりに。

「その人なり」がそれなりにうまく機能して、それなりにコミュニティが機能する。
「それなり」で、なぜかコミュティは上機嫌でしあわせな場になる。

そうしたコミュニティのしあわせに参画するのが、おそらくは大人のしあわせというやつ。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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