愚慫空論

『ヒミズ』(追記あり)


今朝の地震は気味の悪いものでした。

ここ富士吉田では大きな揺れではなかったけど
 揺れている時間が長かったから
  どこか遠くで大きな地震があったなと思ったら
   福島で震度5弱とか。

そうこうするうちに津波警報まで出て
 被害はたいしたことはないようだけど
  嫌な感じはぬぐえません。

いい加減、原発、止めろよ。





さて、『ヒミズ』です。
 園子温監督。

見たには見たけど、スルーしようと思っていた。
 だけど、今朝の地震で気が変わりました。


感想を一言で評するなら、潔い。

園子温監督の作品は幾つか見たけど、
 これまではよくわかりませんでした。

ここの作品については、
 「伝えたいこと」は、わからなくはないんですけどね。
なぜ、そんな伝え方をしたいのか? 
 ここがよく飲み込めなかった。

だけど、『ヒミズ』でわかったような気がしました。
 言い直すと、僕の中で言語化された。

言語活動によってなされる人間の思考はデタラメです。
 いかようにも世界を切り刻み、いかようにもつなぐことができる。
 
園子温さんは、そのデタラメさを、取り繕うことなく提示する。
 そこが潔い。
  潔さがあるから、表現の過剰さに、一本筋が通る。

ちなみにこの「潔さ」は
 『絶歌』の「正直さ」に通じるような気がします。
  もっともこれは、僕の言語作用のデタラメかもしれませんが。
 

園子温監督の「筋」はわかったような気はしたものの
 『ヒミズ』自体はいささか混乱した作品という印象を持ちました。
  制作中に大地震があって、途中でプロットを大幅に変更したとのこと。

『ヒミズ』には原作のマンガがあるらしく
  僕は未読なんですが
   調べてみると、バッドエンドらしい。

映画の方は、ハッピーに向かって終わっている。
 そうせざるを得なかったことは、わからなくはありません。
  わからなくはないけど、とってつけた感じはぬぐえない。


ストーリー全体の枠組みは「がんばれ!」というメッセージです。

主人公は中学生の男女。
 染谷将太と二階堂ふみ。
 住田クンと茶谷サンです。

「ガンバレ!」のメッセージは、わざとらしく出てきます。
 中学校の授業だか、ホームルームだか。
 教師が薄っぺらい「がんばれ」を自己陶酔気味に展開し、住田クンに絡む。
  住田君は一蹴する。
  茶谷サンは歓喜して叫ぶ。
  
  ふつうバンザイ!

最後
 父親を殺してしまって普通でなくなった住田君は
  「ふつう」を取り戻すために
   茶谷サンに「ガンバレ!」と声を掛けられながら
    自首するために警察署に向かって駆けていく。


「ふつう」を奪ったものは何か?
 象徴するシーンが中程にあります。

住田クンのお友達だかパラサイトだかの老人(渡辺哲)が殺人するシーン。
 その行為の背後でテレビに映った宮台真司さんが「原発の不条理」を説いている。

 住田クンを襲った不条理。
 福島を襲った不条理。

ふたつの不条理の二重写し。


けど、やっぱり、映画の主題は住田クンの不条理の方です。
 園さんが二重写しにしたい意図はわかるけど、とってつけた感は否めない。

こういったことが可能なのも
 言語思考はデタラメで
  いかようにも切り結ぶことができるから。


でも、全部が全部、デタラメというわけではありません。
 とってつける前の『ヒミズ』の方は、感性に沿った説得力があります。

たとえば、音楽。

モーツァルトのレクイエムの冒頭部分が繰り返し出てきます。
 これ、とても嫌な使い方なんですけど
  だからこそ効果的。

以前に書きましたが、この音楽は底の見えない深淵に向かって沈み行くような音楽です。
 だけど救いがある。
  それは人間の「生の声」です。

  楽器の音も心地よいものだけど
 感覚的な「救済」という点において
人間の声に優るものはない。
 ベートーヴェンが『第九』において提示したところのもの。

園さんはその「救い」を切り捨てて映画に用います。
 キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』を倣ったのか
  同じフレーズが壊れた時計のように何度も何度も出てくる。
   「救い」を切り捨てられた音たちが、何度も何度も。

こういう“嫌な”感性には、うなってしまいます。

挙げ句がバーバーの弦楽のためのアダージョ。
 『プラトーン』からパクったな。


感覚的救いという観点で見るならば
 すなわち「生」という点で見るならば、
  文字通り目を惹いたのは
   二階堂ふみの「乳房」でした。


僕がこの『ヒミズ』において、クライマックスだと感じたところ。
 ストーリー全体の方向性が決定づけられるシーン。
  それは、住田クンの父親(光石研)の演技でした。

予告編の動画にも出ています。
 住田クンに

  オマエ、本当に要らないんだよ。

と"愛情を込めて”伝えるところ。

こういう生理的に"嫌な”シーンが、園子温監督の真骨頂なんでしょうね。
 見事に気持ち悪いシーンになっています。

言葉が伝えるメッセージと身体が伝えるメッセージが見事に真逆。
 壊れています。
  壊れたメッセージを伝えられて
   受け止めて
    壊れる。

 まったくもって「健全」です。
 身体性に沿っている。

ここから『罪と罰』が始まる。
 住田クンはラスコーリニコフになり
 茶谷サンはソーニャになる。

そしてソーニャは「ふつう」で住田クンを救済しようとする。 
 茶谷サンだって不条理の中に生きているのに。
  不条理の中で生きているからこそ。

その「ふつう」をもって救済を試みるシーンで
 強調されているのが「乳房」。
  「生」。否、「性」。
ここもまた身体性に沿っています。


以上のように記すと、まったくデタラメではなさそうなんですが
 全体としてみると大きな違和感があります。
  少なくとも、僕は大きな違和感を感じる。
たとえばいえば、エナジードリンクを飲んだような感じです。

身体に「効く」成分は入っていて、かなり強烈に効く。
 だけど、その効き方は違うんじゃない? という感触。
  飲めばいっとき元気になるかも知れないけど
   それは「元気の前借り」だよ、という。

こうした映画が「効く」人はそれなりにいると思います。
 だけど、それは危ういんでないかい?

この映画が謳い上げられる「ふつう」は想像上の「ふつう」であって
 確かに【アタマ】はそういう「ふつう」を欲するけれど
  〈からだ〉のほうは違うんじゃないかな?

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〔追記〕 『ピダハン』 〔読了〕


ようやく読み終わりました。



楽しくて、かつ充実した読書体験でした。

 読了前のエントリーはこちら (^^)つ リンク

もっとも印象に残った場面の記述。

コーホイとわたしが聖書の翻訳に役立つと思われる言葉についてやりとりしていたときだ。

まずわたしが尋ねた。「誰かをとても好きだとして、その相手をなんと呼ぶ?,」

「bagiai バギイ」コーホイが答えた、

わたしはすぐに試してみようと、笑みを浮かべて「きみはぼくのイだ」と言ってみた.

「違うよ!」コーホイは笑いながら否定した。
「どうして、ぼくを好きじゃないのか?」
「好きだよ」コーホイは笑いを噛み殺しながら答えた。「おれはおまえが好きだ。おまえはおれのバギイだ。だが bagiai イというのもあって、それは好きでない相手のことだ」

その解説をわたしが理解できるように、コーホイはふたつの単語をゆっくりと口笛で表してくれた。

わたしはようやく違いを聴き取ることができた。友人にあたる言葉はバギアイで、最後のaにだけ高い声調がくる。ところが敵を表すバギアイはaの両方が高くなる。このささやかな違いがピダハン語では友と敵を分ける違いだ。このふたつの単語はピダハンにとっては相通じるものをもっている,バギアイ(友)とはもともと「触っているもの」愛情を込めて触れる相手という意味であり、バギアイ(敵)には「団結を起こさせるもの」という意味があるのだ



ビックリ仰天です。ピダハン語って、こんな言語なんだ...
 イントネーションで、言葉の意味が正反対になる言語。

イントネーションの違いで、言葉の意味が異なる言語は、日本語もそうです。
 たとえば「くも」。漢字表記だと「雲」もしくは「蜘蛛」。
 「雲」と「蜘蛛」の違いは、話し言葉であるならイントネーションで区別されます。
  関東と関西では、イントネーションの違いが正反対というおまけつき。

そんなわけだから
 イントネーションで言葉の意味が違うということそのものは
  それほど驚くべきことではない。

 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」
   という箴言がありますが
 ピダハン語の「バギアイ」は、
  この箴言を一語に凝縮したようなものだと言っていいと思います。

言葉の身体性です。

「愛」には愛の身体反応がある。
「憎悪」には憎悪の身体反応がある。
一方で、「無関心」には身体反応がない。

身体反応があることを前提に語義の「愛」の対義語を問うと
 「憎悪」が答えです。
身体反応の有無を軸に対義語を問うと
 「無関心」が答えになる。

日本語を含め、僕たちの言語は、
 身体反応と言葉との関係がデタラメです。

  愛はなぜ"愛”と呼ぶのか、
  友はなぜ"友”と呼ぶのか。

シニフィエとシニフィアンの関係は恣意的、つまりデタラメです。

ところがピダハン語は、必ずしもそうではないという。
 「友」と「敵」というシニフィアンは
  「バギアイ」というシニフィエを共有しています。
シニフィアンを区別するのはイントネーションです。
 「バギイ」か「イ」かで意味が異なる。

イントネーションは身体の作用です。
 「バギイ」という言葉が催す身体反応。
 「イ」という言葉が催す身体反応。
   その違いは音素の違いよりももっと身体に近い作用によって区別される。


著者ダニエル・L・エヴェレットさんがあげるピダハン語の最大の特徴は
 直接体験の原則
というものです。

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの人々は話が通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない。



エヴェレットさんがピダハンたちと暮らすことになった目的はキリスト教布教です。
 キリスト教布教のためには聖書のおしえを伝える必要がある。
  「伝える」には翻訳という作業が不可欠。

キリスト教布教者は、それまでの経験ではどの部族にも存在した創世神話を
 聖書を伝えることで上書きしようと試みてきた。
  そして、その試みはたいてい成功を納めてきた。

ところが、ピダハンには上書きされるべき創世神話がない。
 それどころか、ピダハンの言語には創世神話を造り出す能力がない。

  直接体験の原則。
  言語の身体性。

ピダハン語は言語と身体のつながりが断たれていないがゆえに
 デタラメにはなりえない。
  〈世界〉の整合性が、そのままピダハン語の整合性になる。


だとするなら、
 ピダハン語には、ラカンの三界の概念も通用しないということになるでしょう。

  現実界
  象徴界
  想像界

ラカンは、、現実はけっして言語では語りえないといいます。
 語りえない世界――現実界です。
が、私たちは、語り得る世界に暮らしている。
 象徴界で暮らしている。

現実界と象徴界は分離してしまっています。
 その分離をなんとかして接合しようとするのが想像界。
後期ウィトゲンシュタインがいうところの「言語ゲーム」の回答集が想像界。
 だが、そもそも分離しているがゆえに、回答は難しい。
  「言い当てる」というくらいのことしかできない。
   「言い当て」の世界が想像界。

現実界を〈からだ〉の世界だと考えるなら
 象徴界は【アタマ】の世界だとすることができるでしょう。

現実界と象徴界の分離は
 〈からだ〉と【あたま】とが分離したことの証左と考えられます。
言語が〈からだ〉と【あたま】とを分離した。
 言語は現実界を分割し、デタラメに接合する。
  〈世界〉がデタラメに見えるのは
    私たちが象徴界に生きていて
     かつ、言語のつながり方がデタラメだからでしょう。


言語のデタラメの象徴はパラドックスというやつです。
 有名なところでクレタ人のパラドックス。
  自己言及のパラドックスともいいます。

あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言った。
 クレタ人の言が真なら、その言及が偽となり、言は偽になる。
 クレタ人の言が偽なら、その言及は偽であり、言は真なる。
  【アタマ】の中だけの言語操作であり、身体性は皆無です。

そもそも「クレタ人」という〈世界〉の分割からして
  身体性が棄却されてしまっています。
   クレタ人はある人の属性ではある。
     属性は「主に従うから「属」なのに
      属が主に置き換わっている。
     その「置き換わり」の際に、身体性は棄却される。
   
身体性が棄却されているがゆえに、アタマ言語はいかようにも繋がることができます。


ノーム・チョムスキーやスティーブン・ピンカーといった学者たちが、
 言語と文化とを、まったく別次元のものだと考えたのも、
  言語が身体性を持たなくなったということを前提にすれば、
   おおいに頷けることです。
    トートロジーだとすらいってよいかもしれません。


ところが、どうやらピダハンたちには、このトートロジーが成立しない。
 現実界と象徴界は分離していない。
  ゆえに「言語ゲーム」も成立せず、想像界もない。

ピダハンたちにとって、言葉とは、身体表現の一部に過ぎない。
 他の文明人たちのように
  身体表現を超えた「真実」とやらを言語に託すことをピダハンたちはしない。


ピダハン語には「数」の概念は存在しません。
 が、ピダハンたちが数を数えないわけではない。
  数を数えるという身体行為は、ピダハンもする。
 ただ、「数」という超身体的真実は認識しない。
  その必要がない。

ピダハン語にリカージョンが成立しないのも
 超身体的真実不成立の原則によるものでしょう。


(前略)
こういう時間帯、わたしたちはみんなにふるまうコーヒーを用意し、村人たちは我が家に入ってきて腰を据えたり、ただ顔を出したりする。そんなときわたしは、神への信仰や、わたしがピダハンも同じように神を求めたほうがいいと信じる理由などを語った。ピダハン語には「神」に相当する単語がないので、わたしはスティーヴ・シェルドンに勧められるまま、「Baixi Hiooxio マイーイ ヒウオーイオ(上の高い父)」という表現を使っていた。

わたしたちの上の高い父が、わたしの人生をよくしてくれた、とわたしは言った。.以前はわたしもピダハンのようにたくさん酒を飲んだ。女に溺れ(というのは誇張だが)、幸せでなかった。すると上の高い父がわたしの心のなかにやってきて、わたしは幸せになり、人生もよくなった。急ごしらえで考えだしたこの目新しい表現や喩えがピダハンに正確に通じるのかどうか、まったく考えていなかった。自分では意味をなすと思っていた。そしてその夜、わたしはきわめて個人的な話をしようと決心していた――これを話せば、神とともにある人生.がいかに重要かをきっと理解してもらえるだろうと思っていた。

わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面日に語って聞かせた。

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。この話をすれば、わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれた聴衆から「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。

「どうして笑うんだ?」わたしは尋ねた。

「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」みんなは答えた、彼らはまったく心を動かされていなかった。はっきりしていたのは、わたしの愛する誰かが自殺を図ったからといって、ピダハンがわたしたちの神を信じる理由にならないということで、実際のところこの話はまったくの逆効果、彼らとわたしたちとの違いを浮き彫りにしただけだった。



この記述は、現実界と象徴界とが未分離の人たちの、ごく自然な反応だと思います。
 ただ、敬虔なキリスト教とには衝撃的な体験であろうことは想像に難くない。
 
こうした体験を否定的に侮辱と捉えても、何ら不思議ではありません。
 なのに、エヴェレットさんはそうは捉えなかった。
  敬服に値すると感じます。




こんな話を思い出します。
 進化という現象の機序についての話です。


生物が生存するには栄養素が必要です。
 栄養素は食物を摂取し、消化器官で消化することによって吸収される。
  消化という現象には、酵素という生化学物質が作用します。

栄養素Xを含む食物Aがあるとします。
 そこには、Aを消化する酵素F(A→X)が存在します。

ところがあるとき、何らかの原因でF(A→X)が生成されなくなった。
 F(A→X)の生成プログラムである遺伝子情報の欠落といった事故によって。

そのままでは生物は生き残ることができません。
 が、その生物には、
  Aから生成されうるBをXへと消化する酵素F(B→X)が存在した。
ならば、Bを摂取すれば、その生物は生き残ることができます。

ただ、Aは生存環境に豊富にあるものの、Bは乏しい。

そうした状況で進化が起きます。
 その生物は、AをBへと消化する酵素F(A→B)を生成することが可能になった。
  突然変異でF(A→B)を生成する遺伝プログラムが書き加えられた。

そうなると、生物は、環境中に豊富にあるAを摂取することが再びできるようになります。
そして
 
 A / F(A→X) / X

という消化回路に替わって

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という消化回路が新たに成立する。

これが進化という現象のモデルケースなのだそうです。



人間が〈生きる〉ためには、〔しあわせX〕という栄養素が必要です。

〔しあわせ〕という栄養素もまた、環境から食物Aを摂取することで得られる。
 「食物A」は言語という消化酵素によって〔しあわせX〕に分解され、吸収されます。

ピダハンの言語は、「A」から直接〔しあわせX〕へと消化できる酵素のようです。
 ここでいう「A」とはは、素のままの自然環境です。

現代の私たちは、「A」から直接〔しあわせ〕を生成することができません。
 「A」をいったん、人工環境「B」へと転換しないと〔しあわせX〕を生成することができません。

私たちの中に存在する回路は

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という回路です。

しかも、どうやら酵素F(B→X)の性能が良くないらしい。
 F(A→X)に比べ、質の悪いXしか生成できない。
  ゆえに〔しあわせ〕になるには大量のXが必要とされる。
   Xへの大量の需要は、大量のBへの需要となり、
    大量のBへの需要は、大量のAへの需要となる。

 その結果、自然環境Aは、急速に枯渇しつつある。

そして具合が悪いことに、
 酵素F(A→X)を使う回路をもつ形態よりも、
 酵素F(A→B)と酵素F(B→X)を使う形態の方が生存能力が高いらしい。

1酵素で済む回路のほうが2酵素必要な回路よりも合理的なはずなのに、
 不合理なものの方がなぜか支配的になる。
  進化という現象においてよくみられる不合理が、ここにも存在するようです。




想像をさらに逞しくしてみましょう。



この本によるならば、現行人類ホモ・サピエンス・サピエンスは
 先行する人類ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスを絶滅に追いやったそうです。

その試みは二度行われたそうです。
 10万年前の一度目は失敗し、
  7万年前から始まった二度目で成功した。

一度目の二度目のあいだにあったのが、認知革命。

ホモ・サピエンス・サピエンスは
 認知革命を経ることで
  虚構を操ることが可能になった。
   より大きな集団(社会)の運営が可能になった。
    大きな集団の力で、ネアンデルターレンシスを追い詰めた――
あくまで推測ですが。  

虚構を操ることが可能になるためには、ある前提を満たさなければなりません。
 現実界と象徴界の分離です。

認知革命が言語革命だったと想像することは、難しいことではありません。

(だとすると、なぜ、ホモ・サピエンス・サピエンスであるはずのピダハンが
 アマゾンで棲息しているのかが大きな謎になりますが。
  ピダハン語は認知・言語革命以前の言葉なのか?  
  あるいは、革命の揺り戻しによって性質した言葉なのか?)


旧約聖書に「イサクの燔祭」という逸話があります。

神に命じられたアブラハムが
 年老いて生まれた一人息子のイサクを
  生贄に捧げるよう神に命じられ
   その命令を実行しようとした。

こんな逸話はピダハンたちには爆笑ものでしょうが
 この逸話から推測されるのも身体性の棄却。


乱暴な推測です。

ホモ・サピエンス・サピエンスは言語革命によって
 身体性を破却できる方法を確立したがゆえに
  ネアンデルターレンシスとの生存競争に勝ち抜くことができた。

ネアンデルターレンシスは、きっと、生存競争など望んでいなかったでしょうけど。

旧約聖書の神が
 裁きの神であり
 戦いの神であるという事実は
  身体性を破却する言語革命の残滓を色濃く残しているからかも。 
 
繰り返しますが、乱暴な推測です。

トランプ大統領...


最近、小林よしのりさんに注目しています。

注目しだしたきっかけは、宮台真司さんと絡むようになったから。
 なんだかんだいって、宮台さんは注目しています。

こんな本が目にとまって読んでみたんですね。
 目に留まって買ったはいいが、読んだのは最近なんですけど。 


感心はしませんでしたが、まあ、言いたいことはわかります。

それから、小林さんにわりと共感するのは、天皇制についての発言です。
 "保守”ですね。
   賛同するかどうかはともかく、考え方にスジは通っていると思います。

また、こんな本も読んでみました。



これにはかなり感心しました。
 小林さんの根っこにあるのは「反抗心」なんだと思いました。
  僕と同じ七種体癖かな、とも。笑。

権威に屈するな――。
 それは正しい。
だけど、そういう小林さんが権威になりつつある。
 その矛盾を感得してはいるようだけど....

いろいろ思うところはあるにせよ、小林さんの考え方、感性は、
 時代の半歩先を行っている
  ――というのが、今のところの所感です。
 だから、注目しています。

トランプ大統領誕生のニュースについても、小林さんはどう考えているのかな?――と。

こんな感じのようです。

 (^_^;)つ 『トランプ大統領誕生、愉快だな』

 グローバリズムは終焉?
   んなわけ、ないでしょ。

確かに、今回の結果はグローバリズムへの反発です。 
 僕とても、現状のグローバリズムという名のアメリカリズムには反感を持っています。
  だから、その部分は共感します。

だけど、共感とは区別して考えなければならないことがある。

グローバリズムは必然です。
 グローバリズムという体制が出来上がったからこそ、アメリカリズムがあった。

アメリカリズムに、アメリカそのものが反発することは愉快です。
 でも、アメリカリズムとグローバリズムを混同してはいけません。

グローバリズムは技術の進展によって出現した〔システム〕です。
 技術の進展は人類史の必然ですから、グローバリズムも必然。
  必然に反感を抱くのは、保守の一つの在り方ではありますが、
   とくに「反動保守」と言います。

小林よしのりさんの天皇制に対する発言は
 真正保守だと思います。
  女系になっていくという歴史的必然を踏まえた上で
   天皇制を保守しようとしている。
    だから、共感します。
  
  必然を無視して反動に墜ちている連中に対する批判も痛快に感じます。

だけど、経済体制については、小林さんは反動保守だと思う。


反動は、良い結果をもたらしません。
 なぜかというと、【怨】の発露かだからです。
  トランプ大統領誕生は、
   かつては繁栄を満喫したアメリカ中産階級が
    没落を強いられた結果による【怨】。
   宮台式で言えば「感情の劣化」です。

【怨】や「感情の劣化」は、それを晴らすことができれば、一時的には愉快です。
 だけど、良い結果はもたらさない。


繰り返します。
 グローバリズムは歴史の必然です。
  必然の秩序なんです。

使い古された例えで言いますが、
 秩序とはリヴァイアサンという怪物です。



トマス・ホッブス著『リヴァイアサン』の、有名な口絵です。
 ここでは「リヴァイアサン」は王制という形をとっています。
  つまり、歴史ということです。
   歴史の一場面です。
 かつては王制という技術的つながり方をしていたということです。

今日では、王制ではなく、グローバリズムがリヴァイアサンです。
 王制からグローバリズムへの歴史的変化は、
  つながりの技術の変化の結果です。

リヴァイアサンは怖ろしい怪物ですが、効用があります。
 より怖ろしいベヒモスという怪物を抑え込んでいる。

リヴァイアサンもベヒモスも、ともに聖書に登場するバケモノだそうです。
 リヴァイアサンが秩序の例えなら、ベヒモスは無秩序の例えです。

【怨】や「感情の劣化」が召喚する怪物は、ベヒモスでしょう。
 直観ですけどね。

リヴァイアサンが退けられて、ベヒモスがやってくるかもしれない――
 杞憂で済めばいいし、そのように祈りますが、楽観的ではいられない。
  愉快にはなれません。



ベヒモスを制御するには、剥き出しの暴力が必要になってくるでしょう。
 剥き出しの暴力の制御には、より粗暴な権威が必要になるはずです。

権威に屈するな、は確かに正しい。
 だけど、より正しいのは屈服を要求するような権威を呼び出さないことのはず。

権威への反抗を正義としてしまうと
 その正義を全うするために、
  より強力な権威を呼び出したいという願望を抱きかねません。

小林よしのりさんの言う「愉快」に、僕は、そのような【願望】を感じてしまいます。
 そして、それが「時代の半歩先」だとしたら――。

『神様ドォルズ』


このアニメ作品、放映してのは何年前だったけ?



けっこう、好きでした。
このオープニングの曲もお気に入りでした。

OPの曲のタイトルは『不完全燃焼なんだろ?』なんですけど
 アニメの方も不完全燃焼のまま終わってしまいます。
  続き(2期)があるのかと思って楽しみにしていたけど、それもなくて。
    なんだか残念なアニメでした。

で、いつだったか、ブックオフに行ってみたら、原作の漫画が
 100円(税抜き)であったんで、買い込んでみました。
  それで不完全燃焼も、多少、解消されました。

で、で、先日
 グチャグチャになった本を整理していたら、この漫画がでてきた。
  手にとってパラパラッとめくってみると、目にとまったのがこの場面です。



なぜ、よりにもよって、こんなのが目に留まるんでしょう?
 そういうつもりではなくても、「見たいもの」を見てしまうんですね。笑。

『神様ドォルズ』は、特にオススメというわけではありません。
 たまたま目にとまった場面が、ハマっただけ。



   「お前の言うように、この村がたとえ歪んでいるとしてもだ」

   「そんなものは
     この国の
      この世界の
       どこにでも当たり前に存在する歪むに過ぎん」 
   「あえて
     あげつらうのも
      バカバカしいほどにな」
   「この村は
     特殊かもしれないが特別ではないのだ

   「そして我々は
     生まれてくる社会を選べん」

   「なら
     与えられた条件の中で
      うまくやってゆくしかあるまい?



あらためて気がつきましたがこのセリフ、名言です。
 赤字にした部分以外は、事実です。

赤字は村の支配者の主観です。
 だけど、支配者だけのものではありません。


マルクスによれば、

 ある時代の支配的イデオロギーは、その時代の支配階級のイデオロギー

だそうです。

赤字は支配者のものであると同時に
  ほとんどの社会構成員によって共有されている支配的なものでもある。

 支配階級のものであると時に、被支配階級のものでもある

ということです。

   この【同】は、僕が大嫌いなものです。




こんな本を少し前に読みました。
 この本の特徴は、「あえてあげつらうのもバカバカしいもの」を論っているいるところです。
  「バカバカしいもの」をあえて論うことで

被支配階級が気がつかない――のではなくて
 気がつきたくないであろう「事実」を提示します。


その「事実」とは、

 ・人間が社会のどの階級に属するようになるかは概ね知性で決まる。
 ・知性は遺伝的によって概ね決まる。

です。



「事実」には説得力があります。

その説得力は、事実のすべてではなく、
 イデオロギーに合致する事実のみを選択して提示したときに
  もっとも大きな  を発揮する。
      プロパガンダ



こんな本を、今、読みかけています。



出だしが名文だと思います。

今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根幹を成すこれらの要素を物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほどのちに融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがて原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成しはじめた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。



ただし、瑕疵があると思う。

物理学を、化学を、生物学を
 
 物語

と捉えたのは慧眼です。
なのに、なぜ、歴史を物語としなかったのか。

「物語」とは編集作業を経て成立するものです。
  編集作業において恣意は免れません。
   だから、「物語」とは都合の良いもの。プロパガンダになりうるもの。

歴史こそ「物語」です。
 (だからあえて「物語」とはしなかったのかもしれませんが。)

『言ってはならない』が提示する「事実」は

  歴史的事実
 
に過ぎません。すなわち「物語」です。

物理学や、化学や、生物学といった「物語」そのものを再編集するのは人間業ではありません。
 人間にできるのは、発見だけ。
が、歴史は人間業です。
 歴史を学ぶということは、歴史が人間業であることを識るということ。
  歴史そのものも再編集可能であるということを知るということです。

歴史が人間業であることを識るということは
 自身の〈生〉もまた歴史であるということ識ること。

「識る」というのは、そういう意味です。
歴史という「物語」は今後、いかようにも再編集できる可能性があるということです。


『言ってはならないこと』が言っているのは、
  
  人間は幸せになるようにデザインされていない

ということです。

『サピエンス全史』はまだ読了していませんが、
  僕が見たいと期待しているのは、

    人間が幸せにならないような社会はどのようにデザインされて行ったのか?

です。

ここが見えれば
 幸せにならない社会がデザインされていった
  という歴史的事実を踏まえて

     幸せになる社会をデザインしていく

方法論が見えてくる可能性があります。

 「あげつらうのもばかばかしい
 「与えられた条件の中でうまくやるしかない

といった態度は怯懦です。

初めから人間業の可能性を放棄していると僕は思います。




蛇足。

僕にとって【同】は「観たくないもの」です。
 なのに嫌というほど観えてしまう。

   【逆接】だからです。


「富士山」





上の画像は10/31の10時頃に撮影したものです。
 場所は、富士急行富士山駅のある建物の6階展望台から。

今年は富士山の初冠雪が遅かったんです。
 初冠雪はこの3、4日前でしたけど
  そのときに雪を被ったのは山頂部分がわずかにという程度。
   この日は7合目くらいまで、雪になっています。

富士山は、僕にとっては特別な存在です。
 富士山は日常の風景ですが、風景というカテゴリーをもはや超えています。
  富士山は眺める存在であると同時に、眺められる存在でもある。
   富士山からの視線を感じるような気がするんです。

もちろん、それは錯覚に過ぎないことは重々理解しています。
 だけど、それにしてはリアルなんです。

晴れていて
 「今日は富士山が顔を出しているだろうな」
  と思うのと同時に富士山からの視線を感じる。
   それで振り向くと富士山がいる

   「ある」ではなく「いる」です。


こんな感覚を抱くようになったのは、わりと最近のことです。
「note」というSNSを始めた頃
 面白がって毎日のように富士山を撮影してはアップしていたことがありました。

半年くらい続けていたと記憶していますが、やっぱり飽きるんですね。
 飽きてしまって、撮影はやめてしまった。
  SNSの方も中断してしまって、意識して富士山を眺めることも辞めてしまった。

それからしばらくして、去年の今頃だったと思いますが
 秋晴れの日に街を歩いていたら
  後ろから視線を感じたような気がしたんです。
 誰か知り合いでもいるのかいな? と思って振り返ったら誰もいない。
  不審に思ったのですが、はたと気がついた。
  
    あ、これは富士山だ

そう思ったときは、おかしくてひとりで笑ってしまいました。

そのときから、富士山はそこにある風景でなく
 そこにいる人格になりました。


こんなことを書いていると思い出すことがあります。
 昔、そんなことを言っていた人に出会ったことがあるんです。

富士山業界では有名な写真家さん。
 南アルプスの山小屋に居た頃のことです。

その人が有名な写真家であったことは知っていました。
 だけど、僕はへそ曲がりなんで、「有名? ふ~ん...」
  てなもので、関心を寄せていませんでした。
 その人は不思議な感覚の面白い人で、人柄は好きでしたけど。
  要するにキワモノだと認識したんですね。

当時は写真というものをバカにしていた。
  記録という意味での写真ならわかるけど
   風景を切り取っただけのものが、芸術に値するとは考えていませんでした。

だけど、ある一枚の写真が、写真が芸術に足ということを教えてくれました。
 それは高山植物の一種、イワベンケイの写真でした。

イワベンケイというのは、高山植物のなかでも、どちらかと言えば地味な存在です。
 高山は気象条件の厳しい場所ですが
  イワベンケイは、なかでもとりわけ厳しい場所に咲く。
   吹きさらしで乾燥した岩稜地帯が彼らの住処。
  ゆえに、葉は厚くなり、花弁との差もハッキリしない。
 可憐な花にはならないんです。

そのイワベンケイが、とびきり可憐な姿で写真に収められていた。
 湛えた朝露がきらきら光って、ニッコリ笑っているような。
イワベンケイは嫌というほど見てきましたけど、そんな姿は見たことがなかった。

驚いて、この写真は誰が撮ったのかと尋ねたら、富士山専門の写真家が撮った、と。

で、当人に尋ねてみました。
 あんな写真、どうやって撮ったんですか?
  ――こんなふうに撮ってくれと、花の方から言ってきたんだよ。

いかにもキワモノらしい答え。

 素晴らしい写真だと思うけど、発表しない?
  ――ん~、これは、僕に個人的に見せてくれた姿だからね。

 じゃあ、富士山にも、個人的に見せてくれた姿とかあるんですか?
  ――もちろん、ある。
      そういう写真は公表しない。
       そんなことをしたら、富士山に嫌われるから。

というような会話を交わした記憶があります。


その人にとっては、イワベンケイも富士山も、立派な人格です。
 が、当時の僕には、その感覚がまったく理解できませんでした。

  今はなんとなくわかる気がします。





『ピダハン』の読書は、楽しすぎて、遅々として進みません。
 こういった本は、一気に読破してしまうのはもったいない。
  行きつ戻りつしながら、読み遊んでいます。

この「富士山」についても、『ピダハン』からの派生です。



富士山には、「木花咲耶姫」という人格が与えられています。


僕自身は、そういう名前のついた人格として、富士山を認識しているわけではありません。
 ただ、そういう認識はありだと思います。

歴史的な伝承として「あり」というのではなく
 現に、そこにいる存在として、そういうのもあり。

現にいる存在。
 「神」や「精霊」と呼ばれるもの。
  現にそこにいるので、当然、観ることができる。
 人格として認識しているなら、人格として観る。
それが「精霊」です。

『ピダハン』の著者には、ピダハンたちが観ている精霊は見えません。
 いくら観ようとしても見えない。
ピダハンたちを信頼し、彼らが観ているであろうことは認めても
 それでも観ることができない。
  心の底から、そういう人格が存在するのだということを認めていないのでしょう。


心の底から認めるというのは、とても難しいことです。
 意識してそうなるものではありませんから。
  無意識のうちにそうなってしまうもの。
 意識していることを、意識して無意識に落とし込むというのは、至難の芸当です。

ああ、違います。「落とし込む」ではない。
 ベクトルはむしろ逆。抱え上げる?
  いえ、しっくり来ません。

別の言葉で言い換えた方がよさそうです。
  惚れる
という言葉。あるいは
  萌える
とか。

「落とし込む」は"単純なものへと整理して”という経過を踏みますが、
「惚れる」とか「萌える」は、"より複雑なものだと想い為して”という経過を踏む。
 そして
「落とし込み」は【アタマ】の認識作用ですが、「惚れる」「萌える」は〈からだ〉の認識作用。

意識して為すのは難しいけど、 〈からだ〉は勝手にやってしまう。


とはいえ、【落とし込み】も身体的に作用します。
 これが人間の哀しいところ。

映画『ロルナ』の祈りにおいて、象徴的に使われていた紙幣。
 【アタマ】の認識作用によって〈からだ〉にまで【落とし込まれた】紙幣は
  視聴者である私たちの注意を無意識のうちに惹く。
 その無意識の惹きつけによって
  私たちは登場人物たちがお金に支配されていることを感知し
   現に支配されているがゆえに同感
    支配に追い詰められて抗わざるを得なくなったロルナに共感します。

 その共感
  ベートーヴェンのアリエッタに置き換えて良しとしたことは、
   理解はできるし共感もするけれども
    ずるいとも思うというのは、先に記した通りです。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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