愚慫空論

ふたつのシステムを結ぶもの


「人間」はふたつのシステムにまたがって生きている存在です。



上橋菜穂子さんの『守り人シリーズ』では、「目に見える人間の世界(サグ)」と「目に見えない精霊の世界(ナユグ)」という「2つの世界」が設定されています。

「2つの世界」という発想は、いうまでもなく、上橋さんのオリジナルではありません。誰かの発想をアレンジしたものです。

では、その誰かとは誰か。

誰でもない、というのが答えでしょう。人類に普遍的な発想。“この世”“あの世”といったような「彼我の分離」を行うのは、ヒトという生き物の特長だと考えていいでしょう。

ヒトのこの特長からは、もうひとつの特長が派生します。彼我の分離を統合しようとすることです。

ヒトが彼我を分離するという特長から推測できることが、ひとつ、あります。それは、ヒトは世界を神秘と捉える、ということです。

そもそも「彼我の分離」がなければ問いは生じません。問うということ自体が神秘を前提としている。問うて解を求めるという行為そのものが、「彼我の統合」に他なりません。

といって、分離された彼我は、ピッタリもとの姿にくっつくわけではない。切断されたものは繋がなければなりません。繋ごうと欲するならば、引き寄せて、結び目を作らなければならない。

ヒトは、「彼」を「我」へと引き寄せ、「我」と「彼」の重複部分を折り曲げてつなぎ目を作ります。比喩でいえば、2枚の紙を繋ぐようなもの。「我」の平面を折り曲げ、「彼」の平面も折り曲げ、立ち上がった部分を合わせて折り曲げる。

このときの折り曲げ方には2つの方法があります。「我」の側へ折り曲げるか。あるいは「彼」の側へと折り曲げるか。

我が子イサクを神に捧げると決断したアブラハムは、「彼」の方へ折り曲げる選択をした。
一方、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す」と示した孔子は、「我」の方へと折り曲げるように薦めた。

「彼」の側へ折り曲げれば超越論になり、「我」の側へ折り曲げれば内在論になる。超越論と内在論、折り曲げ方は違うけれども、彼我が統合されるという意味においては、同じだろうと思います。

超越論を選択した者は、神秘的な合理主義者というべきでしょう。「彼我の平面を折り曲る」という「神秘への問いかけの解」を「彼」の側へと預ける。つまり、神は神秘なり。結果、「我」の側には合理が残る。合理は「知」で知ることが出来るはずですから、超越論者は主知主義になります。

内在論選択者は、合理的な神秘主義者になります。「神秘への問いかけの解」を「我」に引き受ける。「為」というのは「我が引き受ける」ということ、つまり、我は神秘なり。結果、「我」の側には神秘が残る。神秘は「為」で知ることができますから、内在論者は主意主義になります。

  ***

前置きが長くなってしまいました。

語りたいと思ったのは「ふたつの世界」ではなく、「ふたつのシステム」でした。
システムは、あくまで“この世”の話です。

現実世界の話ではあるけれども、ヒトの特長、すなわち「彼我の切断・統合」という行動の型は当てはまると考えます。いえ、当てはめて考えてみたい。


「人間」がふたつのシステムにまたがって生きている存在であるということを言い換えると、人間にはふたつのレイヤがあるということです。「ヒト」というレイヤ。「社会人」というレイヤです。

人間はヒトとして生まれ、社会環境に適応して社会人になっていく。社会人になるべくして生まれるのがヒトという生物種の特長です。

「ヒト」というレイヤにおいて属しているのは、生態系というシステム。
「社会人」というレイヤにおいて属しているのが、社会というシステム。


生態系というシステムの型を科学的な術語を用いて表現するならば、非平衡開放系ということになるでしょう。

散逸構造(さんいつこうぞう、dissipative structure)とは、熱力学的に平衡でない状態にある開放系構造を指す。すなわち、エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化のもと発生する、定常的な構造である。イリヤ・プリゴジンが提唱し、ノーベル賞を受賞した。定常開放系、非平衡開放系とも言う。

散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、(略)、一定の入力のあるときにだけその構造が維持され続けるようなものを指す。

(略)

散逸構造系は開放系であるため、エントロピーは一定範囲に保たれ、系の内部と外部の間でエネルギーのやり取りもある。生命現象は定常開放系としてシステムが理解可能であり、注目されている。


地球生態系は、主に太陽からの一定のエネルギー供給を受ています。そのエネルギーを外部(宇宙空間)へと放出していく(散逸させていく)過程で、自己組織化が発生し、定常的な構造が生まれる。その定常構造が生態系です。

生態系の要素のうち、外部からのエネルギー供給とその散逸という「開いた」部分を無視して、内部物質の循環という「閉じた」部分だけを象徴的に図示すると、下のようになります。


この円環構造は、生態系全体の象徴的図示であると同時に、個々の生命そのものの象徴的図示でもあります。つまり、生態系と生命はフラクタルであり、自己相似。それが人間の「ヒト」というレイヤが属しているシステムの型です。


ヒトが未だヒトのうちに留まっている間。つまりは子どもの時、彼我の分離がなされていなくて自我が未発達な間は、ダイナミック円環型の生態系システムのみに依って生きています。環境から、社会から、大人から必要とするのは、乱暴を承知で言ってしまうと、生態系システム相似系である生命システムを維持するために必要なエネルギーだけ。

子どもは成長し、自らの能力でエネルギーを獲得する大人になります。効率のよいエネルギー獲得には、環境に適応する必要がある。その適応こそが大人への成長です。

環境が自然環境のようなダイナミック円環型であるなら、その適応において、生命の型であるダイナミック円環型を何らの障害なく維持することができるでしょう。が、環境の型が異なるなら、生命システムの型の維持には障害が生じる。環境に適応すればするほど、生命システムの型との間の齟齬が大きくなることになってしまいます。

文明社会というシステムの型は、残念ながらダイナミック円環型ではありません。いうなればブラックホール型です。


  ****

文明社会がブラックホール型になったのは、神秘の折り曲げ方を間違えたから、というのが僕の見立てです。「彼」の方へ折り曲げてしまった。

純粋に神秘の探求であるならば、「彼」へ折り曲げるのもありです。「彼」はあくまで想像上の世界。想像可能な場所まで含むのが「神秘なる世界」なのですから、「彼」の方へ折り曲げることも世界の内部の話。だからこれはあり。

しかし、“この世”、現実世界に限っていうならば、「彼」の方に向いて神秘を折り曲げるのはあり得ません。

現実世界に限っても、世界が神秘であることに変わりはない。そうであるのに、神秘を「彼」へ向かって折り曲げてしまうと、神秘は現実世界の外に出て行ってしまうことになる。

神秘的な合理主義者が、神秘を世界の外へ追い出してしまうと、単なる合理主義者になってしまいます。そんな合理主義者が組み上げるシステムには、神秘は含まれない。

世界は神秘を内在したシステムです。生態系の型であるところの非平衡開放系が図示不可能なのは、エネルギーの流入散逸を無視しなければ具体的にイメージできないのは、それがヒトの空間把握能力を超えた「神秘」だからです。エネルギー流入散逸まで含めたモデルを図示しようと思うなら、おそらくは四次元以上の空間を想像できなければならない。が、ヒトにはそういう空間を想像することはできません。

具体的想像はできなくても言語で表現可能なところに人間は到達しています。もはや数式ですら表現可能です。その表現が理解できたなら、空間的把握はできなくても理解はできると言えなくはない。それは神秘的理解です。

ただ、残念ながら、社会システムのデザインは神秘を外へ追いだした形で為されています。だから、予測可能な形でデザインが為されているはずなのに、現実は予測不可能なのです。神秘を追い出したと言っても、それはデザイン時に追い出しただけのことで、現実の世界はやはり神秘です。

デザイン時に追い出したはずの神秘が働く現実社会で、システムが取りこぼした神秘を知識を持って追い詰めようとする姿勢。これもまた主知主義です。

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人間というひとつの主体が、型の異なるふたつのシステムに所属する。この事態こそ、人間に「主体」というものを生むことになります。「主体」とは、「自我」です。

ヒトがヒトでしかない子どもの間は、「我」がありません。「我」は外部環境(「彼」)への適応過程で生じるものです。生命システムと外部のシステムとの齟齬を埋めるために生成されるのが「主体」であり、「主体」を認識することで生じるのが「我」です。

とすれば、内部システムと外部システムとの齟齬が大きいほど、「主体」もまた大きくならざるをえないのは、自然なことです。そして、生存のためのエネルギーを効率よく獲得するには、外部環境への適応が欠かせない。その外部環境が生命システムとは異なった型であるとすると、適応するほどに「主体」もまた大きくなる必要がある。

が、そうはいっても「主体」は無限に大きくなることが出来るわけではない。「主体」を大きくすることにもまた、ヒトとしての能力に限界があります。限界を超えた部分、限界を超えて誤作動を起こすようになった部分が「呪い」というやつです。

その誤作動に拘る間は「呪い」は解けません。能力の限界を超えた誤作動を回避するには、「主体」を能力以下に抑えなければならないわけです。



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古代の中国では、人間を聖人・君子・小人・愚人の4つに分類したそうです。

人間には2つの能力がある。すなわち“才”と“徳”です。徳とは、今日の言い方なら人間性になるでしょうか。

聖人とは、才と徳、ともに優れている者。
君子とは、徳が才を上回っている者。
小人とは、才が徳を上回っている者。
愚人とは、才も徳も、ともに不明な者。

才と徳を今回の議論に合わせていうならば、才とは外部システムに適応する能力、徳とは内部生命システムに順応する能力ということが出来るでしょう。

君子とは、別の言い方をすれば主意主義者です。小人は主知主義。知識をもって外部システムへの適応を目指す者。

孔子はいうまでもなく主意主義者です。外部システムに適応するのではなく、内部システムの機序を以て外部システムをデザインしようと志した者。それが徳治主義です。

孔子がそのように主張せざるを得なかったのは、すでに外部システムがダイナミック円環型とは異なったものになっていたからでしょう。そこを突いたのが老荘であって、彼らは外部システムそのものを否定します。無為自然、元のダイナミック円環型の外部環境へ帰るべし、という主張。外部システムがダイナミック円環型であるなら、才による適応の結果も、生命システムへの順応も、結果としては同じことになります。そうすれば君子と小人の区別がなくなるだろうし、君子、あるいは小人であることへのハードルも下がる――老荘はそのように考えたのだろうと想像しています。


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内部生命システムの機序を以て、外部システムをデザインする。このことは今日までは、結果的には不可能でした。が、今日まで不可能だからと言って、未来において不可能だとは限りません。現代は、孔子や老荘の時代からは想像が不可能であるほど技術が進展しています。

才とは、具体的に技術です。徳もまた具体的な技術ですが、それは内面を向いたもの。才は外へ向いた、すなわち環境へ向けた物質的技術。社会システムのデザインにおいては必須の技術です。

現代の技術水準をもってすれば、社会のシステムをダイナミック円環型にデザインすることは可能だと僕は想像しています。それは持続可能社会ですが、なにより貨幣システムが異なる。

貨幣は人間が生みだした最も効率的な経済システムです。ただ、従来の技術では、ブラックホール型にしかデザインが出来なかった。現在の技術なら円環型にデザインが可能です。

  ⇒愚慫空論『貨幣ネットワークの民主化』

減価する貨幣とベーシックインカムで社会システムがダイナミック円環型になれば、人間が主知主義で行動するメリットは減少します。

貨幣システムは、社会システムのアウトラインのみをデザインするものです。アウトライン以外の詳細デザインは、人間の神秘に委ねられる。従来の資本主義システムは、神秘を外側へ追い出そうとする主知主義的システムであるのに対して、こちらは詳細な秩序形成を人間の神秘に委ねる、ある意味無責任なシステムデザインです。

無責任なシステムのなかで人間が「主体=我」を確立しようとするならば、自ら進んで責任を負うという選択をしなければならなりません。そうやって主意主義的に行動することがダイナミック円環型システムでは高い評価になるし、主知主義的に行動しても、それがシステムへの適応であるなら同じ結果になります。

儒家の思想と老荘の思想とが、高い技術レベルにおいて双方とも実現する。そんな場所へ到達することができるだけの外面的内面的双方の技術を僕たちはすでに保持しています。

『さとにきたらええやん』

昨日は、僕には映画の日でした。一日で映画を3本観ました。

自宅で長時間動画を視聴するということはしばしばありますが、自宅以外で、つまりは映画館などでというのは、20代の
頃はよくやりましたが、最近はない。都会へ出かけたこともあって、疲れましたww

で、何を観たかというと『シン・ゴジラ』と『さとにきたらええやん』と『野火』の3本。『野火』は市川崑監督の古い方。都会から帰ってきてから、近所の映画の会で。新しい方はDVDで観たし、新旧の違いも面白くて書いてみたいことではあるんですが、また『シン・ゴジラ』も興味深かったのですが、まず記しておきたいのは『さとにきたらええやん』です。


とてもいい映画です。でも、ダメです、この映画。

何がダメって、「いい映画」にしようとしているところ。その姿勢が、映像が描き出していることと、映画が伝えようとしている製作者のメッセージとの間に齟齬を生んでしまっています。

こんなことをいうのは気が引けるけど、日テレの『24時間テレビ』のようなもの。愛は地球を救う? そんな「いい番組」はダメでしょ、というアレ。

僕はこの映画を観ていて、徐々に暗い気分になっていってしまいました。
SHINGO★西成の『心とフトコロが寒いときこそ胸をはれ』のリズムもメロディが、僕の感覚の上っ面を流れていってしまうことが残念でした。


そもそもでいうなら、この歌がダメ。こういう悲しい嘘はやめましょう。

フトコロが寒いときに胸を張るのはいい。それができるなら、大いにやればいい。
だけど、心が寒いときにはダメでしょう、そういう嘘は。虚勢を張ったって、しんどいだけ。

心が寒いときこそ胸をはりたいという気持ちはわかるけど、そんなことを続けていると、自分の気持ちがわからなくなってしまいます。この映画が描いているのが、まさにそれ。子どもたちを優しく暖かく見守って、そのことが子どもたちを自分の気持ちがわからないところに追い込んでいる。それは映像が映し出す子どもの表情から伝わってくるのに、製作者はなぜかそのことに気がついていなくて。

これは負けている映画です。
何に? 何よりも自分に。
誰が? まず、子どもたちが負けてる。
つぎに製作者が負けています。「いい映画」を作りたいという欲があって、それに負けて、「負けている子どもたち」が見えていない。

負けている子どもに、軽快なヒップポップで 

  ♪自分に負けない♪ 

なんて唄って聞かせたらどうなるか。彼らは共感してくれます。負けている自分に目を逸らすことができるから。全力で目を逸らそうとして、懸命に聞き入ってくれます。でも、それだけ。子どもたちはそこから動こうとはしない。


映画の終盤。子どもが「さと」から“自立”していきます。幼いときから預けられている少女。その子が学校(中学? 高校?)を卒業して、就職して、「さと」から巣立っていく。送別会らしき映像。

これがもう、まったくダメ。周囲の無言の期待に応えようとして、自分に嘘をついていることがありありと映し出されている。本当は出て行きたくない、そんな自信は私にはないと、その子の眼は訴えている。なのに、もはや既定路線となった彼女の“自立”を誰も疑わず、彼女は「さと」を去る。

おいおい。いつでも誰でも来ていいんじゃなかったの?
なのに、そんな追い出し方をしたしまったら、もう、この子は帰れないじゃないか。

もとより「さと」は「帰る場所」ではない。あくまで「預かる場所」でしかない。
「居てもいいところ」だけど、居着いてはいけない場所。
その期間がどれほど長くても、あくまで「預かっている」だけであって、帰るべき場所は他にある。

けど、それは言葉の意味での「さと」ではない。里(さと)とは「勝ってきて場所」のはずだから。
だから、「さと」は“さと”とは名乗っていても里(さと)ではない。カンバンに偽りあり、だ。

そういう嘘をついているから、とても良い場所なのに、残念なことにしかならない。
そして、映画はそのことを映し出しているのに、「いい映画」にしようという欲に目が眩んで、残念な現実から眼を逸らす。クソだと思います。クソと罵るのに値する、いい映画。観る価値はある。


そういうことをできない僕が言う資格は無いんだけど、そこを敢えて言います。

ダメなんです。キチンと信頼してあげないと。親から見捨てられた子どもは確かにかわいそうで、だれかが「保護」してあげなければいけないのだけど、「かわいそうな子」として扱ってはダメ。たとえその能力がなくても「自立した人間」として扱わないと、ダメ。

不運な子どもは、自分で自分をかわいそうと思っている。けど、それを認めてはダメなんです。かわいそうなのはあくまで「その子の問題」であって、その子を預かる人間の問題ではない。その課題の分離を「さと」と名乗ってしまったことでできなくなってしまった。

課題の分離はネグレクトではありません。分離こそ、信頼の証。


そうした「分離」が出来ていないことが端的に表われているシーンがあります。

それは、里の主が「私はアンタの味方だよ!」と言葉をかけられているシーン。いいシーンです。印象に残ったとしているクソな感想が多いシーンですが、これは端的にダメなところ。

その子は“自立”していく件の女の子。卒業して就職して稼いだお金を母親に取られてしまう。そんな破廉恥な母親の行為をスルーして、「アンタは母親の味方かも知れないけど、私はアンタの味方だよ」と。

クソな感想は、この言葉の都合の良い部分だけを印象に残します。すなわち「私はアンタの味方」の部分だけ。前半は忘れてしまう。前半の方がずっと大切なのに。

なぜ、子どもは自分を捨てた母親の味方をするのか。そこしか「帰る場所」がないから。「さと」は「預かる場所」でしかないから、現実は帰れなくても、その子の心のなかでは、そこしか「帰る場所」がない。だから味方をせざるをえない。そんな子どもの味方をしたところで、「帰る場所がないかわいそうな私」を認めているだけに過ぎない。ダメです。クソです。

そういう不運で残念な場面では、「アンタの味方」ではまったく足りないばかりか、子どもが本来持っている〈生きる力〉を阻害してしまいます。〈力〉を発揮するには場所が要る。なのにこの言葉は、その場所を奪われてしまっていることを追認してしまっている。まったくダメです。

ここでの答えの選択肢は2つしかありません。

1.この「さと」こそ、アンタの「帰る場所」だ! と宣言する。
2.この「さと」は、アンタの「帰る場所」ではない、と宣言する。

1.ならば、母親の破廉恥な行為に怒らなければなりません。母親に怒り、母親からお金を取り返し、法律がどうであろうとこの子は我が子であると認め、「さと」の位置づけを「預かる場所」から「帰る場所」へと改める。

2.であるなら、その子を追い出さなければなりません。“自立”していくなどという嘘の物語を作ってはダメ。ここは「預かる場所」で、アンタはお金を取られてしまうくらいすでに“自立”しているのだから、もはやアンタを預かることはできない。自分で帰る場所を探しなさい――と言わなければならない。そして、「さと」というカンバンも書き換えるべき。

そして、この2つは、実は選択肢でもなんでもありません。それは初めから、つまり「さと」の在り方を定めるときから決まっていて然るべきものだし、そうでないなら、その時点で「できること」をするしかない。1.ができるなら1.を。それができないなら2.を。選択の自由なんて、最初からありません。

「さと」と名乗るなら1.であるべきだけど、それができないなら「さと」はやめて「(無期限)預かり所」とでもする。お金も取った方がいい。



「さと」の館長は荘保共子さんというのだそうです。凄い人だと思います。どのように「さと」を経営しているのかは映画からは想像がつきませんが、いろいろと苦労はあるだろうし、壁もいっぱいあったろうと思います。そうした困難を乗り越えて、周囲を巻き込んで、「こどものさと」を運営しているのはとても凄いことだと思います。敬服します。

だけど、そのことと「残念なこと」は話が別。「残念なこと」は、逆に荘保さんが凄すぎたが故に、起ってしまうことなのかもしれません。だから、荘保さんが倒れてしまうと、ジ・エンド。映画でも、その危機は描かれていました。

荘保さんの人生としては、「さと」は文句なしに素晴らしい場所でしょう。彼女の「帰る場所」です。だけど、他の人にとってはそうはなっていない。「帰る場所」でもなければ「帰る場所を作る拠点」にもなっていない。通過点です。もちろん、単なる通過点ではないけど。


映画を見始めて始めに気がつくのは、大人も子どもも、みんな身体距離が近いということ。ドキュメンタリーとはいえ、カメラが本の近くまで迫っているのに、まったく緊張感がない。そういう絵が撮れているということだけでも、この映画は十分に優れていると言えます。そこに文句は何もありません。

そういう身体感覚の近さは、しかし、映画が進むにつれて代償行為でしかないこと気がつかされます。本当に身体距離を近づけたいのは誰なのか。

荘保さんは、誰でもいい人なんでしょう、きっと。そんな荘保さんが仕切る場だからこそ、みんな身を寄り添っていられる場所になっている。その場所が子どもたちの頼れる場所になっている。身体的にはそうです。

だけど、子どもはまだ荘保さんではありません。心身ともに距離をゼロにしていい「誰か」が要る。その「誰か」は残念ながら荘保さんではなく、やはり親。これは心の問題だけれど、それが解決しない限りは近い身体距離も代償行為の域を出ません。

そうした代償行為しか経験していない子どもが、ホンモノの自信を抱えて真に自立していくことが出来るか。この映画は「できたらいいな」「やればできるよ」と伝えたいようですが、映像から伝わってくるものは「できない」。カンバンとは裏腹に、とても切なくやさしい映画です。

【怨】の効用

まずお断り。長い文章になると思います。

もとよりこの文章は僕自身のためのもの、僕の存在を主張するためのものです。
だったら、わざわざ「長い」などと断る必要もなさそうなものですが、自分自身のためと言いつつも、他者の視線を気にかけているところはどうしてもあるのですね...、我ながら、良いことだと思います .


(なお、タイトルの【怨】は、【毒】や【恨】と同じ観念を差します。今回、【怨】を用いることにしたのには理由がありのですが、それは後ほど明らかにします。)

 ***

出発は、映画『きみはいい子』です。



この映画はごく最近取り上げたばかりで、僕自身もまだ記憶に新しい。 

   愚慫空論『きみはいい子』

この文章の中で、僕は次のように書きました。

キモは「結」がないことです。
「解呪」はそうそう簡単には終わらないからです。


このように書いて文章を締めています。今回はまず、この続きを書いてみます。

「解呪」は簡単に終わらない。

たとえば、子どもを虐待してしまう母親。「きみはいい子」と抱きしめられた。が、それで直ちに虐待がとまるわけではありません。実は、本当の苦しみはそこから始まります。

その母親だって、虐待をしたくてしていたわけではありません。そうせざるを得なかった。そのような身体になっている。したくないと思っていても、そのように身体が動いてしまう。その身体が、一度の抱擁ですっかり入れ替わるわけではありません。

自分の身体がそのように動いてしまう理由は、アタマではわかった。なのに、まだ身体はそのように動く。抱擁から始まるのは自分の身体との戦いです。みんながみんな、この戦いに勝利できるわけではない。脱落する者もたくさん出ます。

映画『きみはいい子』は、いうなればプロローグに過ぎません。そこから、自身との本当の戦いが始まる。だから、物語に「結」があってはおかしい。

おかしいというのは、あくまで僕の解釈です。


かつての僕は、そのようには理解していはいませんでした。かつての僕なら、同じ『きみはいい子』を「結」のある物語だと解釈していたと思います。そこから何が始まるかを知らなかったから。


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僕の4年前の文章です。

  愚慫空論『野口整体はナンパ術だった。笑。』

この文章で僕が語ろうとしたことは、今現在おいても、何も変わりはありません。訂正するものはなにもない。ただ、その上に付け加えるべきものは、この4年間の間に生まれています。

ただし、言葉については訂正したいものはあります。内容は変わらないけれど、表記は、今なら別のものを採用するだろうという部分。

ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんと「同調」して「ファントムペイン」を的確に察知し、そして「愉氣」したのではなかったか。


この文で用いた「同調」は、今なら「共鳴」とします。「同調」したなら「察知」ではありませんしね。このあたり、自己と他者の分離がまだキッチリできていなかったと感じます。


大切なところなので、かつてと同じ引用を再び引いてみます。

今を生きる親鸞

ネルソンさんは、ベトナム戦争から帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。いわゆる戦争後遺症で、戦争をありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢といったかたちで、戦争の再体験をして苦しんだのです。

戦場で目の当たりにした殺毅やあらゆる暴力、そして自らも多くの人々を殺したことが片時も頭から消えず、その惨劇が悪夢となつて毎晩のようにネルソンさんを襲いました。

ちょっとした匂いや音でもすぐ戦闘状態に戻つてしまい、帰国後わずか一週間で家族から追い出され、ホームレスの生活を余儀なくされたのです。まさしく「生きる場」を失つた苦しみです。
ネルソンさんは、その耐えがたい苦しみから、自殺を試みたのです。彼と同じように苦しむ帰還兵で自ら命を絶った仲間は数万人にのぼると言われています。

その、ネルソンさんが立ち直ろうとしたきっかけは、ある一人の少女との出遇いでした。ホームレスを続ける彼が、学生時代の友人である教師に頼まれて、小学校でベトナムの体験を話すことになり、四年生の教室に立ちました。しかし、いざ子どもたちの前に立つと、ジャングルで自分がしてきたこと、見てきたことをありのままに語ることはできなかつたので、戦争一般の恐ろしさを話してその場をやり過ごしたのでした。

そんなネルソンさんに一番前にいた女の子が質問したのです。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」と。ネルソンさんは、そのことこそ、どうしても忘れてしまいたい、思い出したくない、消し去りたいと思つていたことなので、答えることができず、目をつぶつて下を向いてしまったのです。様々なことが頭をよぎりながら、最後に目をつぶつたまま小さな声で、しかしはっきりと「イエス」と答えたのでした。

すると、苦しそうな彼の姿を見て、質問した女の子は彼のところまできて彼を抱きしめました。彼が驚いて目を開けると彼のおなかのあたりで目に涙をいつばいためた少女の顔がありました。「かわいそうなネルソンさん」。そう言ってまた抱きしめたのです。

その一言を聞いたとたん、彼は頭が真っ白になり、大粒の涙が彼の目からあふれ出たのです。教室中の子どもたちが皆かけよつて彼を抱きしめました。子どもたちも先生も皆泣いていました。
「この時、私の中で何かが溶けた」とネルソンさんは述懐しています。・・・


ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんの「ファントムペイン」に「共鳴」して、その「痛み」に的確に「愉氣」したのだと思います。


僕がネルソンさんのことに関心を持つのは「ネルソンさんは僕」だからです。だから、次のような文章を書く至った。これは今から考えても自然な流れだったと思います。

  愚慫空論『自身の恨みに愉氣をする』


当時の僕の解釈では、これは「結」でした。愉氣さえ出来れば苦しかったことが解決すると思っていました。そう思いたかった。


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同じころ、ネルソンさんについて再度取り上げています。

   愚慫空論『当事者の時代』

佐々木俊尚さんの『当事者の時代』という本を読んで感心すると同時に、疑問も提示している。佐々木さんの示した枠組みではネルソンさんの「当事者性」をうまく解釈することができないと思った。といって、僕自身のなかにもうまく解釈することができる枠組みがあったわけでもない。

今を生きる親鸞

4 回復に必要だったもの

    「どうして殺したのか」

一対一のカウンセリングのとき、ダニエルズ先生がきまって最後に聞くことがありました。「あなたはなぜ人々を殺したのですか」という質問です。

私は、あるときは「戦争だったから」と答えました。すると先生は「わかりました。じゃあまた来週」と言ってその日の治療を終えました。

次の週、やはり一時間のカウンセリングの最後に、「なぜあなたは人々を殺したんですか」と聞かれました。私は、少し考えて、「上司の命令に従ったからです」と答えました。先生はまた、「わかりました。また来週」と言いました。

  (略)

ところが、ダニエルズ先生の治療を受け始めておよそ九年がたったある日は、違っていたのです。私が診療室に入ると、先生は、いちばん最初に、「ネルソンさん、あなたはどうして人々を殺したのか言ってもらえますか」と聞いてきました。
  (略)

私はまた言い逃れをしました。「命令に従ったからです・・・・・・」。するとダニエルズ先生は、ごく自然に合いの手を入れるような口調でたずねました。「ふむ、で、あなたはなぜ人を殺したのですか」。

私はまた言いました。「先生、戦争だったんですよ。敵を殺さなきゃ、こっちがやられていたんです」。するとダニエルズ先生はまた聞きました。「うん、で、どうしてあなたは人を殺したのですか」。

  (略)

もしそのとき、「君はウソをついている!」とか「本当のことを言え!」などと強く言われていたら、「抵抗」のしようもあったと思います。でも先生は、私が言うことに対し、本当に淡々と、「オーケー、で、あなたはどうして殺したのですか」と聞き続けるだけでしたから、私としても、その聞かれたないようについて向き合わざるを得ませんでした。

  (略)

「もう『逃げ場』がないな」。そう感じたとき、私は言い訳をつくることをやめました。私はよくなりたいと思っていたし、ダニエルズ先生は必ず私を助けてくれるとわかっていました。だから、「いまここで、もっと自分の心の深くまで行かないと」と思ったのです。

私は、自分がベトナムでしたことを認めるのを拒否している――自分の言葉が言い訳であると感じるに従って、私にはそんな自分が見えてきました。そして思ったのです。

「だれも、本人がしたくないと思うことを、その人にさせることはできない。したくなければしなければいいのだから。私自身が、戦場で人を殺したいと思ったからこそ、軍は私にそうさせることができたんじゃないのか」。

そこまで考えて気づいたことを、私は口にしました。

「殺したかったからです」。

ダニエルズ先生は、だまってうなずいていました。とても不思議な瞬間でした。私のなかで何かが動き出しました。

そう、自分が殺したかったからそうしたのです。それは私自身の行為であり、だれに指図されたからでもありません。軍も上官も、攻撃命令を下すにしても、あの人を殺せ、この人を殺せと指定するわけではありません。それら一人ひとりを撃ったのは、たしかに私の意志であり、それは、私が殺したいと思わなければ起こりえないことでした。


愉氣をもって「結」だと考えたかった僕には、ネルソンさんが提示したことの意味がわかっていませんでした。「回復に必要だったもの」と明記してあるのに、届かなかった。まだ準備ができていませんでした。

ネルソンさんについてのふたつの引用は、時系列でいえば上が先、下が後でしょう。調べてはいませんが、内容からみて間違いないはずです。そのことは、4年前でもわかったはずなんです。なのに僕は考えなかった。それは、僕自身が愉氣を「結」だと考えたから。そう考えたかったから、下の方が提示するところに反応できなかった。自分自身の中で壁を作っていたわけです。


 ******

現在の僕は、ふたつのネルソンさんを解釈する枠組みを持っています。

上のネルソンさんは「かわいそうな私」。

ネルソンさんは【怨】に苦しんでいました(なぜ【怨】なのかは、後ほど記します)。そのネルソンさんに共鳴した少女は、「かわいそうなネルソンさん」と言い抱擁した。その抱擁を受け入れたネルソンさんは、自身を「かわいそうな私」だと定義しました。

下でのネルソンさんは、その定義を受けて「悪いのはあなた」だと主張しています。この場合の「あなた」とは戦争です。ところがダニエルズ先生はその主張を認めてくれなかった。少女のように「かわいそうなネルソンさん」とは言ってくれませんでした。


ダニエルズ先生の振る舞いは「機」というものだろうと思います。弱かったはずの〈いのち〉が、自分自身の力で〈生きる〉ことを始める、その「機」です。〈いのち〉には自ら変わっていく〈力〉があります。その〈力〉が発現し始めるその瞬間。

  参考 ⇒ 光るナス『自ら変わっていく力(足湯の意味合い)』

足湯をしてもらう目的は、自分の体の働きを活性化させ、高めていくためです。
ですから時間を区切るということが、とても大事になるんですね。
20分も足をお湯であたためていれば、体は
「あ 楽チン。お湯であったかいからいいや」
と、自分で発熱することをサボってしまいます。

そうなると、足をお湯から出せば、あとはどんどん冷えてしまうばかりでしょう。
自分であたたかくなることは、サボらせちゃってるわけですからね。
だから、6分間だけとか 8分間だけ・・という時間の区切りが、大事になってくるわけです。


足湯(そくとう)には8分という目安があるんだそうですが、あくまで目安。本来は、ひとりひとり、その「機(足湯を止める瞬間)」を見極めなければならないもののはず。

「愉氣」というのは、いうなれば「足湯」です。弱った〈いのち〉に「愉氣」は有効ですが、だからといって、それに頼りっきりでは〈いのち〉は自ら〈生きる〉ことをサボるようになってしまいます。

もっとも【怨】というやつは、それを自覚してしまうとサボることを許してはくれません。それが【怨】の効用のひとつでしょう。


ダニエルズ先生は「機」を見極め、それによってネルソンさんは「かわいそうな私」「悪いのはあなた」という構図から脱却しました。

「かわいそうな私」「悪いのあなた」という構図を提示しているのはアドラーです。アドラーは、この構図から脱却して目指すべき場所を示しています。「かわいそうな私」「悪いのはあなた」に安住するのではなく「これからどうするか」を探求せよ、と。

  参考 ⇒ 愚慫空論『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』

アドラーが目的とするところはシンプルです。
「自分自身を嫌いな物語」を「自分自身を好きな物語」へと再編集すること。

そのシンプルさを支えている方法もシンプル。

「かわいそうな私」
「悪いのはあなた」
「これからどうするか」

人それぞれ多種多様なはずの「物語」をこの3つに収斂させてしまいます。

「かわいそうな私」「悪いのはあなた」。この2つはどちらも「自分自身を嫌いな物語」です。「嫌いな物語」の受容を促し、「これからどうするか」と問いかけることで、「自分自身を好きな物語」を引き出そうとします。




 *******

以下は、いささか不愉快な話へと進んでいきます。なので、以降は「追記」の方へ記すことにします。


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『言ってはいけない―残酷すぎる真実―』





この本については、残念な読書をしてしまったと思っています。
粗探しというか、盲点探しというか。

この本に列挙されている「科学的事実」についての粗(あら)を探す能力は僕にはありません。反証を探すことはできるかもしれませんが(ネットはそうした目的には便利です)、そのような行為は僕にとってはコストパフォーマンスが低い振る舞いなので行いません。なので「盲点探し」をするための読むということになった。

「盲点探し」は、僕の読み方でもあります。だけど、自己弁護をするようですが、初めからそのことを目的して読むということは、あまりしなくなりました。いつからか、そういうアタマの使い方は気持ちのよいものではないと感じるようになったから。それで、目的のものを発見したとしても、せいぜい“ドヤ顔”をしてみることができるという程度のリターンしか得られない。


読書の目的は知らないことを知ることです。

その意味でいうならば、本書は、僕の知らないことをいくつも提供してくれました。いつもなら、そのことを純粋に楽しめるのに、今回はそうはいかなかった。目的が違ったからです。

知らないことを知って、自分がすでに知っていることと統合していく。その統合の過程で生まれる言葉を綴ってみる。僕の最近のブログ記事はそういうものであることが多い。その過程で「盲点」が浮き出てくる。知らないことを知って、知っていることととの間に生まれる齟齬が「盲点」なわけです。

――と、自己弁護はしてみたものの、反省もあります。「盲点」を著者の属性のように書いてしまうこと。このあたりの書き方は工夫の余地があるのでしょうが、まだまだ手探り状態です。

そんなわけだから、公開で書いてはいても、誰のためでもない、僕自身の為のもの。僕の存在を主張するためのもの。
そういうわけだから、書き方もかなり不親切だと自覚もしている。タイトルに掲げた本なり映画なりを、僕の文章を読んでくれた人に関心を持ってもらいたいというような書き方はしない。敢えてしていないわけではないのですが、それをすることは僕が書きたいこととバッティングすることが多いので、排除されてしまうことになってしまいます。



前置きが長くなったようですが、このような前置きを書きたくなるような要素がこの本にはあります――と、また著者批判になってしまうのですけど、そこはお目こぼしをいただくことにして(頂けないのなら、読まない自由があるので行使をしていただいて)、その要素を取り上げます。ここが本題です。


煽り文句でしかないような本書のタイトルをみて、最初に思ったのは、「言ってはならない」ことを敢えて言うことの意義があるのか、ということです。著者にはそういう意義への自覚があって、読者である僕はそれを汲み取ることができるのか。

結論からいえば、汲み取ることは出来ませんでした。この著者は“ドヤ顔”をして見せたいがためにこの本を書いたのだな、と思ってしまった。そう思ったから、上のような「前書き」になったのですが――。


科学的事実は「言ってはいけないこと」ではありません。科学者は科学的真実を追究することが使命なのですから、その使命を果たすに当たって「言ってもよい」「言ってはいけない」といった社会的尺度は不適合。言っても言わなくても、真実は真実。言うことで悪用される危険はあるかもしれないが、言わないことで知らないうちに悪用されてしまっていることがあるかもしれない。いずれにせよ、それは「言う」ことがあって始めて判明することであり、判明した後どう対処するかは科学者の責務ではありません。

著者は科学者ではありません。科学的事実(というよりも仮説)を“エビデンス”として称して、「言ってはならないこと」を言おうとするライターです。科学的事実(仮説)を、社会の尺度に適用して某かの文章を書く。そういう生業の者。この著者にとっての「意義」とは「生業」の範囲を超えていない。


もっとも、それは批判に値するべきことではないかもしれません。ただ、残念と思ってしまうのは仕方がない。科学者が、科学をするのは生業でしかないと言うのを聞いてしまうと、残念と思うのと同じです。

「言ってはならない」ことを言うのは、「言わねばならない」ことがあるからだ――というのが、僕が解釈する「意義」です。もちろん“僕の解釈”ですから、他の人に強要するつもりはありません。強要するつもりはないが、それを聞きたかった、汲み取りたかったというのは、偽らざる気持ちです。それは過大な期待なのかもしれませんが――。


「前書き」において著者は、

ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。


とテーゼを提示します。続けて、
私たちを「デザイン」しているのは(かつては「神」だと考えられていたが、現在では)“進化”だという。

そういう著者が主張する“エビデンス”は、実は著者が提示したテーゼの証明になっていません。著者がエビデンスをあげて証明したのは(それができているとするならばですが)、

あらゆる生命は幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない

ということです。「ひと」に限定しなければならない根拠はどこにも見当たりません。

このことは少し考えてみれば当然のことだとわかります。科学は「ひと」を特別視しないからです。生物種の一形態として「ひと」を見るのが科学の視点です。だとするならば、科学的エビデンスをいくら並べ立ててみても、「ひと」だけが幸福になるようにデザインされていないとする根拠が見つかるわけがない。

もっとも、本書は「ひとだけが幸福になるようにデザインされているわけではない」と書いてはいません。それは僕の拡大解釈かもしれない。しかし、「すべての生命が幸福になるようにデザインされているわけではない」のであれば、そもそも幸福について考えることに意味がないということになります。幸福について考えることに意味がないのであれば、「考えること」にも意味はないでしょう。ひとは幸福になるために考えるのだから。

――というような考え方はニヒリズムですけれど、科学的エビデンスからニヒリズムは必然だという解釈を引き出すのなら、それはそれで意義のあることだと思います。僕がその解釈を容れることはないけれども、その「理」を認めることはやぶさかではないし、突き詰めればそのまま「反転」することが出来るだろうとも思う。

理を反転してみて、うまく反転できずに残るもの。それが「盲点」だろうと考えています。



2015年1月7日、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など12名が犠牲になった。この事件を受けて、日本を代表するリベラルな新聞社は、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と宣言した。

本書の企画を思いついたのは、この驚くべき主張を目にしたからだ。誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しようとした過去の反省によるものだと思っていたが、“リベラル”を自称するひとたちの考えはちがうらしい。

ちなみに私は、不愉快なものこそ語るべき価値が在ると考える。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。


以上は著者後書きからの抜き書きです。

本書の発端が“リベラル”への反発心であることはいいでしょう。僕も、単に不愉快だからという理由で他人の言葉を抑圧しようとする企てには反発心を持ちます。だけど、だからといって、不愉快なことを述べてもよい、それこそ価値が在るとは思いません。不愉快を越えて提示すべき意義がないなら、不愉快は単に不愉快なだけです。

もっとも、どのように意義を汲み取るかは読者の問題です。著者が意義のない大義名分に依って記したとしても、読者のなかに意義があるのであるなら、自身の「知らなかったこと」の中に意義を生みだすことはできるでしょう。どんな目的で書かれたものであれ、知らないことは知らないこと、なのですから。


知らなかったことを「知らないこと」と為すのは、読者の課題です。「知らないこと」を「知っていること」と為していく過程で「反転」を為すのも、そう。その課題を意識させてくれるのに、(反面教師としてですが)、本書は意義あるものだと思います。

本書に残る「反転できないもの」は反発心です。別に反発心そのものは良いも悪いもないんですが、不愉快に感じられるのは、反発心を正当化しようとする「心」。別に正当化しなくてもいいのに。

『日本のいちばん長い日』


今日は朝から、『日本のいちばん長い日』を観てみました。リメイク版です。



「日本のいちばん長い日」が昭和20年8月15日であるのは言わずと知れたこと。この映画を今日観たのは、そういう意図があったわけではなくて、諸々の事情でそうなっただけの偶然ですけどね。(^_^;)

まあ、なんというか、滑稽な映画です。誠実に「滑稽」を描いた映画――と僕は受け取りました。
そういう感じを受け取ったのは、もしかしたらリメイク版だからかもしれません。原作未読、最初の映画も観ていないので、この感触に自信はないけれども、滑稽ということそのものに間違いないし、そう受けとめてもいいと思います。そのように受けとめるべき時間がすでに経過したと思います。


主役は役所広司演ずる阿南惟幾陸軍大臣。このキャラクターについては、特に言うべきことなし。あるべきところにあるべきようにある。そのことは、年配のキャラクター全般に言えること。

昭和天皇の役回りについては、別の意味でなんとも言えませんww

個人的に興味を惹かれたのは畑中健二陸軍少佐。“使命”だとか“七生報国”なんてセリフを吐くこの人物は、「からっぽ」なんです。心の中が。大袈裟な大義に身命を賭して、そのからっぽを埋めようとする。


僕がそんな風に感じるのは、僕自身がそういう人間だからです。
僕はたまたま戦後に生まれ、自身の「からっぽ」に気がつく機会があり、また「護符」にも恵まれてなんとか生き長らえることができていますが、時代が時代で、軍隊のようなところに所属してそれなりの責務を負うことになってしまえば、この畑中少佐のような生き方になっただろうと思うんです。

自身の【信念】に盲目的に忠実に。周囲に迷惑を及ぼすことを省みず。というより、まったく気がつかず。【大義名分=信念】だから。畑中少佐もアスペルガー気質だったんじゃないかな――? と思ったりします。


僕が観るところ、この物語の〈クライマックス〉を演じるのは主役ではないんです。この畑中少佐なんですね。だから、本当の主役は畑中少佐と言えるのかもしれません。

畑中少佐のグループはクーデターを起こします。当時の陸軍の「空気」を体現し、実現しようとする者たち。すなわち本土決戦です。が、それは天皇の意志に反する。天皇の意志に反してでも自身の【信念】に殉じようとする者たち。

昭和天皇の、いわゆる「玉音」というやつが録音される。その録音原盤を彼らは奪取しようとして放送局を襲います。目的はもうひとつあって、自分たちの【信念】の宣伝です。「玉音」放送を阻止し、自らの【信念】を放送させるのが目的。

が、原盤は放送局にはなく、宣伝をしようと放送局員を脅迫するも、放送局員の反抗にあって電源を落とされてしまう。電源が落ちた暗い部屋の中で、ひとり自らの【信念】に基づいた決起文を読み上げる――。

「滑稽」なこの物語の中でもっとも滑稽で独りよがりなシーン。独りよがりが露わになる〈クライマックス〉です。



時代が経過したと思うのは、もはやこのよう暴力的「独りよがり」が反社会的な振る舞いだということが認知されるようになってきた、それどころか、暴力的にそうした「独りよがり」を抑圧するようになってきたのではないか、という点です。現代なら、畑中少佐のような人物は「コミュ障」認定されるのではないか、という気がします。

「コミュ障」などという烙印は、もちろん良くないことです。とはいうものの、「コミュ障」が滑稽で巨大なな迷惑をかけてしまうことと比べれば、まだマシといえるかもしれません。

阿南が演じる役回りは、「コミュ障」にぴっぱられる「空気」を変えること。史実はどうか知りませんが、その点、畑中少佐のキャラもそうですが、少なくとも映画のなかでは、そうです。畑中が体現する「空気」は惡で、阿南が変えようとした「空気」――これが昭和天皇の意志だというところが疑わしいと思うのですが――正義という構図があるから、阿南は主役ということになるんだけど、それは裏から見れば畑中が主役ということです。

阿南たちは文字通り“懸命”になって「空気」を変えた。そうしなければならないくらい、「空気」は強固なものだった。それから比べれば、「コミュ障」ということでそうした「空気」の芽を未然に摘んでしまうのが現代の社会だとすれば――。

いえ、これはこれで、別種の「空気」を生みだすだけですね。


ただ、現代の社会でも、戦前のような「空気」が生き残っている場所があります。政治の世界がそう。戦後の「空気」を排除して、戦前の「空気」を復活させようと願望しているところ。政治の世界の住人のみんながみんなそうとはいわないけれど、現在の首魁はそういう人で間違いなさそうです。


さて、いつものように余談ですが、畑中少佐は、現代のキャラでいえば、碇シンジになるんだろうと思ったりします。


シンジは弱者の位置に置かるので「逃げちゃダメだ!」だけど、これが畑中のように強者の位置なら「七生報国」になるでしょう。

で、『エヴァ』の庵野監督は『シン・エヴァ』をほっぽり出して『シン・ゴジラ』を作ったのですが(未視聴ですが)、どこかの記事で読んだところによると、『シン・ゴジラ』制作に当たって、この『日本でいちばん長い日』を参考した
とのこと。これが本当なら、面白いと思います。

だとすれば、もし庵野監督が『シン・日本でいちばん長い日』を制作するようなことになれば、「畑中シンジw」が主役になるでしょうね。その場合「いちばん長い日」は、昭和25年8月15日ではなく平成23年3月11日でしょうけど。果たして畑中は誰になるのか――想像するだけで、面白い。

ところで、天皇の仕事って?


天皇陛下の「お気持ち」とやらの放映を見ました。
ごく、ふつうに。

ごくふつうに接してみれば、天皇陛下の「お気持ち」とやらも、とある一人の爺さんの(当事者としての)意見というだけのことで、もちろん、その「ひとり」は(政治的に)特別なひとりではあるんだけど、特別であっても生身の人間であることに変わりはありません。

そして、生身の人間として見てみると、特別なだけでなく(人間として)格別でもあるなぁ、と思う。日本国民統合の象徴としての務めを誠心誠意勤めてこられたんただな、という感慨を持ちます。

天皇陛下の「お言葉」とやらに接する機会は、ふつうに日本人をやっていれば年に数回あるわけですけど、そのたび、語り口の誠実さを感じずにはいられない。語っておられることの内容は抽象的で親近感がないのだけど、語り口には親近感が持てる。それが象徴としての「在り方」――というより、天皇という役割を背負った一人の人間の「生き様」だろうと思ったりします。

そういう人が、象徴でよかったと思います。そう思うから、当事者としての「お気持ち」を汲んで差し上げたい――と思わなくはないのですが、ちょっと待てよ、と思うところがなくはない。


象徴としての国事行為や国の祭主としての務めは、天皇という「生身の個人の都合」に合わせて左右してはならないものだと、陛下は意見を述べられた。それは当事者の言葉だから重いというだけのことではなく、「象徴」というのは、ただ単に言葉だけのことではなくて、内実が伴っているんだよ、ということを述べられたわけです。生身の人間に大きな負担をかけるような内実が。

ところが、この内実というものの中身がわからない。
これは、公表されているものも多いだろうけれど、いわゆる「菊のカーテン」とものの向こう側にあるのも多かろうと思うんですね。

この問題、当事者が内実を伴っていると言ったのだから、それでいいではないか――というわけにはいかないと思うんです。陛下が嘘を言っているとはさらさら思わないし、皇室は税金で暮らしているのだから国民には知る権利がなるなどと、野暮なことを言うつもりもない。儀式の詳細などアカデミズムの贄に捧げるべしとも思わない。

だけど、内実があると言い、その内実を全うさせるために生前退位するのが望ましいというのであれば、その内実とは「これこれこういうことだ」ということは、公表するのがスジなのではないかい? と思うのです。

いや、そこは、やはりそのまま神秘のベールで覆っておくべき、という意見もあると思います。だとしたら、それは当事者がどう言い募ろうが、大部分の国民から見た「内実」とやらは、言葉の上での「象徴」というのに留まるし、だったら、気の毒だけど、死ぬまで天皇でいてください、ダメなら摂政という既定があるのだから、それを活用してください、ということになるのがスジだろうと僕は考えます。


陛下ご自身の「お言葉」に、こういう下りがありました。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。


いや、それはないでしょ。もしそんなことがあったとしたら、それはもはや「象徴」の域に留まっていないわけで。国民の生活は、皇室の事情とはほとんど関係のないところで営まれているというのが事実でしょう。だから、天皇陛下のお言葉は、いつも、内容としては空疎。たとえば、現総理大臣がそのまま同じ言葉を口にしたらどのように響くかを想像してみれば、言葉の内容としての中身の無さはすぐわかります。

ただ、言葉には「言霊」というべきものがあって、同じ言葉でも誰が発するかで伝わり方がまったく違う。その意味で、今上陛下は、特別というだけではなく「格別」だと感じはするし、そう感じられることは好ましいと思います。

今上陛下個人の「格別」を重視するのであるなら、当人の希望には反するけれども、死ぬまで天皇を務めてもらっていても、その「格別」は何ら減ずることはない、いや、死ぬまで勤めてもらって方が「格別」は増すだろうから、むしろその方が好ましいでしょう。

だけど、当事者が「象徴としての勤め」を、そんなものではないと言っている。そのように、今回、言ったのだと思う。「格別」は、「象徴としての勤め」を誠実に果たしたことによる副産物のようなもので、大切なのはそちらではない、と、だけど、その「大切なもの」が菊のカーテンで遮られて見えないのであれば、国民は副産物の方を見るしかない。

――まあ、その方が、本音では天皇機関説を支持しているであろう権力者たちには都合がいいだろうけれど。

念のために言っておきますけど、僕は、皇室を国民の身近なものにするために、内実を詳らかにせよといいたいのではありません。身近なものになることは悪いことではないけれど、一丁目一番地ではない。そうではなく、国民の生活と天皇の務めがどのように繋がっているのか。そこを明らかにして欲しい。

そうでないと、内実のための退位といわれてもピンとこない。なんだか雲の上の話をしているなぁ、で終わりです。それが政治というのであれば、それは為政者のための政治でしかないということだし、為政者のための天皇だということになる。けど、そんなこと、陛下自身、夢にも思っていないはず(と思いたい)。


偶然だろうと思いますけど、この「お気持ち」が発表される前夜、何度目かの『もののけ姫』のテレビ放映があったらしいです。宮崎監督は、映画のなかで庶民に「帝なんて知らな~い」と言わしめています。現代に生きる僕たちは知らないではいられないけど、内実は、映画の中の庶民と大差ないのでは、と思わないではないですね。

『狐笛のかなた』


上橋菜穂子さんの物語について書くのは、前回で打ち止めだろうと思っていました。



ところが、『狐笛のかなた』を読んでみると、そうはいかなくなってしまいました。「言いたいこと」が湧き出て来てしまいました。

『狐笛のかなた』は、霊験あらたかな護符のような物語です。

まだ「呪い」にまみれていない子どもたちにとっては、「呪い」へのお守りになる。
「呪い」にまみれた大人にとっては、「解呪」への手がかりを提供してくれる。

もっとも大人の場合、自身が呪われているのだという自覚がなければ「解呪」には至りません。
自覚なき場合でも、一時的なヒーリングのためのストーリーとして消費されてしまうことになるでしょう。多くの物語と同じように。

自覚があるときには、この物語は生々しいファンタジーです。
ファンタジーなのに、生々しい。
いえ、ファンタジーだからこそ、生々しいのかもしれません。


この物語の主人公は、“野火”という名の霊狐です。
もう一人の主人公は、小夜という名の娘。いわゆる異能者です。
『狐笛のかなた』は、このふたりの恋物語です。といって、いわゆる“ラブストーリー”とは違うのですが。
野火は、呪術者に仕える使い魔という設定で、“狐笛”というのは霊狐を呪いで縛る道具です。

使い魔は絶対に呪術者である主には逆らえません。命を握られているから。霊狐はもともとは〈あわい〉と呼ばれる世界の生き物なのですが、呪術者は魔術によって〈あわい〉から霊狐をつまみ出す。つまみ出したときに術によって命を握り、いつでも握りつぶすことが出来る――という設定。

こうした設定は、子どものためのものでしょう。だからといって、そうした設定が本当に架空の話かというと、読む者にとってはそうでない場合がある。

 自身の生殺与奪を誰かに握られているという恐怖。
 恐怖ゆえに従わねばならないという屈辱。
 屈辱が生みだす憎悪。
 憎悪を飼い慣らそうとして陥る不信。

この不信は、他者へ向けてである以上に自分自身へ向けてものです。
そのことに気がつけば、子ども向けの設定であっても、リアリティがあります。


上橋さんは、野火と小夜のふたりを、ひとりの登場人物の独白という形で次のように評します。

この娘は、やさしい。後先を思うより先に、情で身体がうごいてしまう娘なのだろう。
野火もまた、おのれの身を守るより、この娘をたすけてしまうような獣だ。
(・・・・・・この子らは、蜘蛛の巣の、細い糸の先でふるえている、透きとおった水の玉のようだ。)
そのあやうさが、半天狗の木縄坊には、哀してならなかった。


後先で思うより先に、情で身体が動いてしまう。
このような心身を「惻隠の情」あるいは「忍びざるの心」と言います。孟子です。

惻隠の情は「同情心」と解されますが、“心”ではないのです。心に先立って動く“身体”です。
今にも井戸に落ちそうな子どもを見たら、ハッとして、惻惻とした陰痛を心に覚える――と、『孟子』には記されているらしいのですが、「心に覚える」と書くから「同情心」という解釈になる。柔軟な心身ならば、陰痛を覚えるより先に身体が動く。ハッとして、気がついたらもう動いてしまっています。

心が思うより先に身体が動くという命題は、現代の心理学において真とされていることです。たとえば、椅子に座ろうと思ったとすると、その考えが意識に登るより先に身体が先んじて動いている。身体の動作と意識の間にはコンマ数秒の差がある。心は身体のモニターです。

そうした惻隠の情も、呪いが支配する世界では危ういものでしかない。そのことをアタマが理解し、思うより先に動いてしまう身体に後からブレーキをかけてしまう。後からのブレーキこそが「呪い」という現実的な効果です。



「呪い」が人間にとっては現実的な効果であるということ。
それは「ハラスメント」であるということ。

これらのことは、今まで散々述べてきたことです。なので、これが特に今回「言いたいこと」だといういうわけではありません。「言いたいこと」は、次のことです。

後書きで上橋さんは、この物語を「〈なつかしい場所〉と物語」と記しているます。これにはいささか驚かされました。僕の「言いたいこと」はこの驚きから生じています。

このような呪いの物語のどこがなつかしいのか。

「なつかしい」は「やさしい」の親戚です。たしかに、野火も小夜もやさしい。彼らを支えるキャラクターたちも、多くはやさしい。だけど、『狐笛のかなた』は全体としては、呪いと怨みが支配する世界の残酷な物語です。野火や小夜たちの「やさしさ」は、世界の残酷さを際立たせるためのスパイスだと言えなくもない。サイコパスな人工知能あたりに分析をさせれば、残酷な物語という判定が下ってもおかしくないと思うくらいです。

というわけで驚きはしたけれ、しかし、腑にも落ちるのです。その理由は、僕は先に上橋さんの『物語ること、生きること』を先に読んでいるから。


この本の頭の方で上橋さんは、おばあさんから物語を浴びせられるようにして育ったと述懐しています。『狐笛のかなた』はきっと、「おばあさんの物語」の系譜を接いでいるに違いない――勝手な憶測ですけれどね。

 日々暮らしているうちに、知らず知らずのうちに溜め込んだイメージが、心の底にしみこんで、溶けあって、深い泉のようになっていて・・・・・・そういうところから生まれてくる光を、てのひらの内にくるみこんだ灯りのように輝かせて、物語を描きたいとずっと思っていました。
 野火と小夜が駆けて行く春の野の香りを、感じていただけたら幸せです。


僕が『狐笛のかなた』を“霊験あらたかな護符”のようだと思ったは、この文章を読んだとき。おばあさんからの護符を受け継いだ上橋さんは、新たに護符を認めた――と思ったのです。


「呪い」をオカルトだとしてしまうと、「護符」もまたオカルトな意味しかもちません。
ですが、何度も繰り返しますが、僕は呪いを現実だと考えています。ですから、護符もまた現実的な意味を持ちます。

そのように考えていくと、本当は、昔話は残酷なものだったという真実も納得がいきます。昔話もまた護符だったんです。呪いから心身を守るための護符。「ワクチン」と言った方がいいかも、ですが。

呪いに打ち勝つイメージを子どもたちの心に植え付け育ませるための物語。
上橋さんの心の底にある〈懐かしい場所〉というのは、「打ち勝つイメージを育んだ場所」ということなのではないでしょうか。

読者はその〈イメージ〉を上橋さんから受け取る。これはなにも『狐笛のかなた』に限らないことですが。『守り人』シリーズにも『鹿の王』にも、しっかりとあったものです。そして、その〈イメージ〉を、僕たちは自身の身体の中で育むことができる。上橋さんがそうであるように。



以下、余談です。

僕は、『狐笛のかなた』とよく似た物語をふたつ、知っています。

ひとつは、アニメ映画です。


ハウルは野火です。呪われた魔法使い。ソフィーは小夜です。『ハウル』が二人の恋物語であり、しかし、いわゆる“ラブストーリー”ではなく、恋をエネルギーにしたふたりの解呪の物語であることも、『狐笛』と同じ。

もうひとつは、歌劇です。ヤナーチェクの『利口な女狐の物語』
(動画はBBCのアニメ版を貼り付けておきます。)


『女狐』と『狐笛』がどのように似ているのかは、長くなってしまうのでここでは触れません。ただ、野火はオスで『女狐』ではないという違いはあるにせよ、同じ狐であるということは偶然の一致ではないだろうということは記しておきたいと思います。

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