愚慫空論

「呪い(のろい)」の構造



映画『きみはいい子』の記事では、「呪(のろ)い」という言葉を用いました。

呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう


上のwikipediaでの定義は呪いという行為の本質を誤解したものだと考えます。呪いとは、具体的かつ直接的な行為ですが、wikiではそのように記述されていません。

人間の身体から遊離した霊などという存在は呪いとは関係がありません。ゆえに、霊的な手段などという記述も不要です。一方、呪いは具体的な行為なのですから、物理的手段ではありえます。
悪意であることも必須の要件ではありません。善意から呪いという具体的な行為を為すことは十分に考えられます。

意識があって行為が為されるという認識が一般的ですが、この順序は逆だということが明らかになっています。行為が先で意識は後。呪いという行為でも、行為が為されたあとに悪意が認識されるのですから、呪いの行為の視点は悪意ではありません。

そのあたりを修正すると、

「呪いとは、人間が、物理的手段ないしは精神的手段で、他の人間や社会全般に対し災厄や不幸をもたらしめようとする行為」

と記述されることになりますが、これでもまだ不十分です。センテンスの前半が具体的なのに対し後半が抽象的でアンバランスになってしまっています。



まず、呪いという行為の具体性を映画『きみはいい子』から読み取ってみます。



この映画は「起」と「転」の二部構成のシンプルな映画です。「起」で呪いがかけられ、「転」じて呪いが解かれていく。そんな映画のなかに前半と後半でほとんどに同じシーンが出てきます。

映画では母親に虐待されている、つまりは呪われている子どもが登場します。


その子に、他所の母親が「うちの子にならない?」と勧誘しているところです。仲の良い家族の間ではありがちな場面ですよね。


子どもはその提案を全身で拒否します。前半の終盤です。

後半の終盤にも同じ登場人物の構成で、同じ提案がもう一度繰り返されます。


そしてまたもや、子どもは全身で提案を拒否します。

同じく全身での拒否なのに、前者と後者では、発しているメッセージは180度異なります。

子どもは母親に対して「私を愛して!」と訴えかけています。
子どもの(母親に対する)メッセージは、前半も後者も同じです。
が、母親のメッセージは異なります。
前者は(子どもの)拒絶。後者は承認です。

拒絶が具体的な呪いの行為です。




あらゆる生物のなかで、ヒトほど子どもが無力で生まれてくる生物種はありません。

赤ん坊は無力で生まれてきます。しかも長期間にわたって無力なままです。このことは種および個体生存戦略上の大きなリスクですが、そうしたリスクを冒してでも得ることができるリターンがあるはずです。リスクを冒してリターンを得るのが戦略の意味するところです。

ヒトがリスクを冒してえるリターンは社会性です。
ヒトは社会を営むことで、他種との生存競争を勝ち抜こうと選択しました。
もちろんこの「選択」は、事後的にそのように解釈できるというだけのことです。意識に先立って行為が為されるのは、種の生存戦略でも同じです。


いわゆる高等動物は複雑な身体を持ちます。
複雑な身体が生成されるにはそれなりの時間が必要。ところが未完成な身体を抱えるということは、生存上のリスクです。

動物の社会性の起源は、未完成な身体を抱える時間という生存上のリスクにあると考えられます。種の保存のためには子孫を生存させなければならない。しかし子どもとは未熟な存在ですから、子どもの存在そのものが大人の個体にとってはリスクです。そのリスクテイクのために社会性が生まれてきました。社会性とはリスクのリターンであり、同時にリスクテイク能力です。

社会性をもつ動物はヒトの他にも存在します。しかし、ヒトほど大きく社会性に依存している動物は他に存在しません。他の動物は、群れを作って生活する種でも、ヒトよりずっと個体としての身体能力に依存して生存しています。それは子どもというリスクテイクをする場合でも同じで、ヒトほど子どもというリスクを負うに当たって社会性に依存する種はありません。


草食動物の赤ん坊は、生まれてすぐに立ち上がり、程なく駈けることができるようになります。肉食動物は草食動物に比べれば子どもの成長は遅いですが、そこは子どもの生存リスクの差でしょう。子どもが捕食される危険が草食動物より低いと考えられます。草食動物の中でも武装を持たず逃げ足に生存を賭けた馬などは、駈けることができるようになるまでの期間が短い。

このような違いはリスクテイクのあり方の違いです。草食動物は長期間母体の中に子どもを抱えておくという方法でリスクテイクをする。母体にとっては、なるべく早く子どもを切り離す方がリスクは少なくて済むはずですが、そこは子どもの生存リスクとのバーターになります。完成度の高い子どもを出産する方が子どもの生存率は高くなりますが、その分、母体へのリスクが増します。母体には、そのリスクを負うだけのリスクテイク能力が要求される。


ヒトを含む類人猿のリスクテイクは、草食-肉食動物のリスクテイク方程式から逸脱しています。子どもというリスクの大きさが個体の身体能力というリスクテイク能力に比べて大きい。特にヒトにおいては際立っています。そのアンバランスを克服するために、ヒトや類人猿は、個体としては甚だ未熟な状態で子どもを産んで、未熟なうちに社会性を発達させるという戦略を採用した。

社会性は、母体の中にいる間は成長させることができません。また、未熟なうちに学習を始めるほど、社会性は生来のものとして個体にインプットされていくことになります。ヒトはそうした戦略を採用して大成功を収めています。その表れが現代の文明社会です。


以上のような観点から見ていけば、愛情というものが社会性の産物であるということが理解できます。未熟な子どもが大人に要求する愛情は、大人へのリスクテイクの要求に他なりません。リスクテイクを要求することも、その要求に応えることも、どちらも愛情です。愛情を発露させることで、子どもも大人も双方ともにリターンを得ることができる。リスクとリターンとは表裏一体なのです。

リスクとリターンが一体となった形で愛情が発露されることで、種としてのリスク/リターン、個体としてのリスク/リターンの間に存在する矛盾が解消される。愛情は社会性をもつ動物における生存戦略の発動です。

愛情が生存戦略の発動であるならば、子どものリスクテイク要求への拒絶は、生存戦略が不発に終わっていることを意味します。これこそが「呪い」の意味するところです。


大人が子どものリスクテイク要求を拒絶してしまうのは、その能力が不足しているからに過ぎません。しかし、身体的には十分に能力は備わっています。現に(映画では)物理的には育児をしています。身体的物理的能力がなければ、育児放棄をするほかないはずなんです。

虐待はリスクテイク拒絶の表れですが、その能力欠損は身体に由来するわけではない。だとすれば、問題は社会性にあることなります。個体(個人)の社会性がすなわち精神性です。大人の社会性の欠損が愛情の発動を妨げ、子どもというリスクテイクを拒絶せしめてしまうわけです。

育児は為されつつも虐待を受ける子どもは、「オマエは(社会的)リスクだ」というメッセージを受け取ることになります。そのようなメッセージを受けつつ社会性を発達させていった子どもは、自身をリスクだと認識するようになります。自身をリスクだと認識することとは、自己否定・自己嫌悪に他なりません。

虐待が世代を超えて連鎖する理由がここにあります。子どもの頃に自身をリスクだと感じてしまっている人間は、大人になってもそのまま自身をリスクだと感じています。自身をリスクだと感じている人間が、加えて子どもというリスクテイクをできるはずがありません。自身に十分なリスクテイク能力があると認識していて始めて、リスクテイクをしようという意志すなわち愛情が生まれます。社会性の欠如は、身体的には十分に備わっているはずの愛情の発動を阻害してしまう。その状態で子どもに接すると、虐待が生まれてしまいます。

愛情の発動を促すには、その発動を阻害している原因を除去すればいい。社会的な承認を与えればいい。それがすなわち「きみはいい子」とメッセージです。子どもはもちろんのこと、大人もそのメッセージを必要としている。大人は十分にリスクテイク能力を備えて、もはやそのようなメッセージを必要としない状態であるのが本来のはずですが、そうなっていないのなら、大人になってからでも承認メッセージは与えてあげなければなりません。


リスクテイク能力とは、言い換えれば生命力です。生命力が身体的にも精神的にも十分に発育することで、子どもというリスクテイクを行なうことが出来るようになる。してみれば、「呪い」というものの構造も明らかになります。

呪いとは、生命力の発動を阻害されることです。生命力が十分に発動できないと、個人や社会が不幸に陥っていくのは自明の理です。逆に言えば、おかれた状況がどうであれ、生命力を十全に発揮することができさえすれば、幸せと呼ばれる状態になります。

結論。

呪(のろ)いとは、人間が、物理的手段ないしは精神的手段で、他の人間の生命力の発動を阻害し、社会全般のリスクテイク能力を低下させる行為。

『神なるオオカミ』


まず、映画で観ました。


映像美については満足のいく出来映えです。
が、肝心の〈物語〉については、、、、正直、ピンと来ません。

次に、松岡正剛さんの書評に目を通してみました。

つまり本書は一から十までが今日の中国体制批判であり、儒教に象徴される中国的保守思想の歴史的な批判なのである。

松岡正剛千冊千夜1494夜より



なるほど、映画の〈物語〉が中途パンパなわけがわかったような気がしました。映画は中仏合作。小説の(主題であるらしい)政治性を〈物語〉の組み込むわけには行かないでしょう。
映画の「枠」はラブロマンスかな? と思っけど、それにしてはラブの方の決着も付けずに終了。よく分かりませんでした。

というわけで、現在、小説の方を読み進めています。



こちらは実に面白い。例によって読みかけ途中でのブログアップで、この小説が宿しているという政治性は、まださほど姿を現してはいません。記述の8割はオオカミにまつわるエトセトラですが、これが実に面白い。

この小説は、著者自身が中国文化大革命時に下放の憂き目に遭った知識青年であることから推しても、ほぼノンフィクションなのでしょう。オオカミの生態の記述がリアルなだけではなく、オオカミへの人間の感情もまた、とてもリアルです。

なかでも際立って面白いのが、オオカミの知恵の高さ。戦略性。すなわち社会性です。

オオカミの身体能力は高い。といっても、モンゴル草原の他の種と比べると、たとえば足の速さなどでは、劣る部分があります。そこをヒトと同じく社会的戦略性で補って余りある行動を採る。結果、人間を除けば、草原の食物連鎖ピラミッドの頂点に立つことなります。

草原という大きな生命のなかで機能するオオカミの役割。それは人間と同じく社会性を有するが故にでしょうか、非常に重要なものとして捉えられています。オオカミこそが、草原の生命の流れを左右するキーポイント。


オオカミを通して描写される草原の生命のあり方は、森林を主とする日本のそれとはかなり違います。日本よりずっと血生臭く、艶めかしい。



モンゴルへ行くと、観音様がこんなふうになるんですね。生命の円環はモンゴルの草原であれ日本の森林であれ、同じ原理で回っているはずです。なのに、その顕れの姿は違います。「草木国土悉皆成仏」の日本にはない慈悲の姿です。

が、『神なるオオカミ』の記述を読み進めると、艶めかしい慈悲にも違和感がなくなるから不思議です。



それにしても思うのは、確かにオオカミの社会性は素晴らしいけれども、種にとっての社会性の重要度・依存度という点において、ヒトより大きな生き物はいないだろうということです。だからこそヒトにおいては社会性が政治性へとつながっていく。

それは逆に言えば、オオカミの社会性の方がヒトよりも“自然”に近いだろうということです。

ところが中国人である著者は、オオカミと草原の生命を讃えながらも、生命の自然性にアプローチしていく感がありません。オオカミの社会性もまた、生存のための戦略性という解釈の型へ嵌められていくようです。それは自然での生存競争の枠もを超えて、人間同士、文明の社会性の優越という視点へ収斂していく。松岡さんの書評を見る限り、そのようです。

そうした社会性の突出は日本人である僕などとは違った感覚で、本書は儒教批判とは言いながら、しかしその批判のありかたもまた儒教的な感じを受けます。その(ヒトとしてではなく)人間としての感覚の違いもまた、この小説を読み進める上での面白さです。



(※読了後に追記か、あるいは続編をアップすることになると思います。)


『きみはいい子』




とてもシンプルな映画です。
起承転結の「起」と「転」だけ。

前半は観ているのが辛いです。
前半だけにタイトルをつけるなら

 「オマエは悪い子」

でしょう。つまり、

 「起」=「オマエは悪い子」
 「転」=「きみはいい子」

というだけの構成。

 「起」=「呪い」
 「転」=「解呪」

と言ってもいいでしょうか。
よくもまあ、こんなにシンプルに作ったものです。

何のひねりもないシンプルな映画なのに、ダレません。
俳優たちの演技に目を見張るものがあるとか、そういうものでもありません。
ここに描かれているテーマが、人間というものに近しいモノだということです。


この映画のシンプルさから思い起こしたのは、とあるシンプルな歌です。これまた何のひねりもない、ただまっすぐな歌。ちょっとカトリック臭いですけど、ジブリの『魔女の宅急便』程度です。気にならないと思います。

その歌は、ここから聞くことができます⇒クリック!




シンプルというのは怖ろしいもので、ことの核心にスッと迫ってしまうんですね。


「子どもに優しくすれば、世界は平和になる」


あまりにシンプル過ぎて、ウソみたいに思われるかもしれません。
ウソとは言わないまでも、盛り過ぎだと思われるかもしれません。

ウソでも盛り過ぎでもありません。ごくごくシンプルな真実です。


世界は必ずしも優しくありません。
神様は(がいるとするならば)イジワルだから。
いや、人間がバカをしでかしたから、罰せられたのかな?

でも、世界がイジワルなのはヒトにだけではない。
他の生き物にもイジワルです。
イジワルな世界で生命は全力で生きていて、
そんななかでもヒトに近いケモノたちは、みんな子どもに優しい。

人間くらいです、子どもに優しくせずに呪うのは。


「呪い」なんて言ってしまうと、いささかアッチ系な感じですが、
ちょっと他に適切な言い方が思い浮かばないんです。
強者が弱者の生命力を抑圧してねじ曲げてしまうような振る舞い。
こうした行為を言い表すのに、「呪い」以上に適切な言葉を僕は知りません。



この映画は、リトマス試験紙のようなものとして機能するかもしれません。「呪い」がかけられているかどうかが判明する。

好悪どちらであっても、感情が強く反応する人には「呪い」がかけられています。反応の強さは「呪い」の強さに比例する――、
いえ、「呪い」が感受性を奪う域にまで到達していたら、反応できないかもしれません。そんな人には専門家の治療が必要でしょう。

「ふ~ん、そうだよねぇ~」
「こんなの、ふつうのことじゃん」
くらいの感じで、あまり反応しない人は幸いです。


『きみはいい子』の構成は、よくよく考えられて練られたものなのか、あるいは考える以前の直観のヒラメキで作られたのか、どちらかだと思います。細部は練られた形跡を感じますが、骨組みはおそらく後者でしょう。

キモは「結」がないことです。
「解呪」はそうそう簡単には終わらないからです。





『物語ること、生きること』


僕が作家個人に興味を持ったのは、初めてです。



上橋菜穂子さんの作品がお好きな方は、是非どうぞ。

「物語ること」は「生きること」。

上橋さんの主観からすれば、そうなんだろうと思います。
そのことは、この本からよくよく伝わってきます。

印象が上橋さんが創作した「物語」と同じなんです。
上橋さんの「物語」が〈生きる〉ということをダイレクトに表現しているように、
この本もまた上橋さんの〈生き方〉が表現されています。



第一章は「生きとし生けるものたちと」というタイトルで、
その始まりが「おばあちゃんとわたし」です。

ああ、そうなんだよな、と思いました。
上橋さんは「物語」の中に生まれ落ちてきたんでしょう。
これは感触です。


内山節さんに

という本があります。

以前に取り上げたこともありますが、ずっとひっかかっていたことがあるんです。
それは、この本のタイトルが提示している答え。「なぜ、日本人は、キツネやタヌキやカワウソにだまされなくなったのか」

どこかで書いたような記憶がありますが、僕の知っている人がタヌキに化かされたという話を聞いたことがあります。それは昔話ではなく、つい昨日という話。タヌキにダマされて、気がついたら一晩、林のなかで寝てしまっていた、というウソのような話。熊野で樵をやっていたときの話です。

僕が上橋さんに感じ入ったのは、物語の構成が上手だとか、そういうことではないんですね。
『日本的霊性』の記述を思い起こさせるような、「生きとし生けるものと共に生きている」という生々しい感触です。そういう感触が『鹿の王』にはあります。

それは初期の『精霊の守り人』あたりでは、まだ感じられないものです。あそこにあるのは、とても生き生きとしていますが、やはりファンタジーなんです。リアルにタヌキにダマされたという物語にはまだ距離がある。

日本人がキツネやタヌキやカワウソにダマされなくなったのは、暮らしの中に「物語」がなくなったから。本書『物語ること、生きること』にも取り上げられていますが、『遠野物語』や『忘れられた日本人』の中に記されている民話の類いは、私たちが通常そう受け取るような人間の外の話なのではないんですね。人間がその中で生きている物語、その物語を内側から書いたものです。

具体的に書いてみますと、「守り人」シリーズの主人公バルサ。バルサはおそらく、上橋さん自身がそうなりたかった理想の姿です。現実とは異なるバルサの(上橋さんの)「物語」を上橋さんが上橋さんの「中」で創作をした。ここには上橋さんのルサンチマンというか【我】があるんですね。その【我】が表現されて『守り人』になるわけですが、『守り人』を読む別の人間は、その物語を自身の「外」のものだと認識します。

『鹿の王』では、主人公は上橋さんの【我】を投影したものではなくなっています。純粋に「理想」であり「憧れ」です。しかも、主人公であっても、それは物語の一部なんです。『守り人』では、物語そのものがバルサのために組み立てられたという印象がある。『鹿の王』では、そういう感じがない。『鹿の王』はヴァンのための物語ではないんです。

比較するなら、『指輪物語』と似ています。『指輪物語』もまた、主人公のための物語ではない。主人公と言えども「物語」のためのパーツに過ぎない。物語こそが主人公であって、登場人物には【我】は検出されません。

ただ僕自身は『指輪物語』には、あまり感じないんです。やっぱり別世界だから。「外」だと思ってしまう。しかし『鹿の王』は違う。ここにある「物語」は、僕自身が生きている「物語」に近い。いや、同じかもしれません。別世界だとは思わないんです。

なぜそうなのか、その謎の答えは、日本人がキツネやタヌキやカワウソのだまされなくなった理由と同じです。人間がそのなかで生きるような〈物語〉が喪失したからです。言い換えれば、暮らしそのものが〈物語〉だという感覚です。

そうやって考えてみると、上橋さんの創作は、新たな物語の創造というより、昔からの〈物語〉の「再創造」あるいは「再編集」と言ってもいいような気がします。


その〈物語〉とは、どういった感触をもっているのか。
『物語ること、生きること』からふたつ、抜き出してみます。

「どんなものにも魂はあるのだから大事にしなければならぬ」というのが市五郎さんの信条でした。そして、それは孫の宮本常一さんの少年時代のエピソードにもあらわれていました。
 山の田のそばの井戸に一匹のちっちゃな亀がいて、常一少年は、そこに行くとその亀を見るのを楽しみにしていました。
 あるとき「こんなにせまいところにいつまでもとじこめられているのはかわいそうだ」と思って、おじいちゃんに頼んで亀を井戸からあげてもらって、家に持って帰って飼うことにしたのです。
 喜びいさんで帰りかけたのですが、歩いているうちに「見しらぬところへつれていったらどんなにさびしいだろう」と思って、だんだん亀が気の毒に思えてきました。とうとう耐えきれずに「亀がかわいそうだ」と大声で泣きだしてしまいます。
 結局、祖父の市五郎さんに頼んで、亀をもとの井戸に戻してもらうのですが、そのとき市五郎さんが、こういうのです。
「亀には亀の世間があるのだから、やっぱりここにおくのがよかろう」
この言葉だけでも、私(上橋さん)は、涙が出そうになります。


この引用は、おわかりと思いますが、『忘れられた日本人』からの孫引きです。そして上橋さんは、「市五郎さんのまなざし」に身に覚えがあると言います。

「市五郎さんのまなざし」こそ〈物語〉を見る視線でしょう。

同様の記述を『逝きし世の面影』で接した記憶があります。

幕末から明治にかけて、西洋人が多く日本にやって来るようになりました。彼らは牛乳を飲む習慣を持っていますが、当時の日本人は飲まなかった。牛は日本でも暮らしの中で一緒に生きているにもかかわらず、です。
なぜ牛乳を飲まないのか、と問うた西洋人に対して、日本人は「それは牛のものだから」と答えた、と『逝きし世の面影』には記述されています。

進歩史観では、日本人が牛乳を飲まなかったという事実に「未開」という解釈の型を当てはめます。その当てはめにあうように、「牛乳を飲むと牛になると信じていた」というような迷信をもってくる。そうした迷信が生まれたのは、証拠はありませんが、おそらく日本人も牛乳を飲むようになってからです。牛乳を拒否する人が作り上げた物語。牛乳を飲む以前は、「それは牛のものだから」だったんだろうと思います。

この牛への「なまざし」もまた「市五郎さんのまなざし」です。

 アボリジニの人たちは、よく「ケアリング&シェアリング」といいます。
 相手を思いやり、世話をしたり、何かをわかち合ったりすること。
 自分個人の財産を持たず、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のものと考える。
 狩猟採集民にはよくある考え方ではあるのですが、彼らはそれをいまでも思いがけないところで実践していたりするのです。

 (中略)
「カンニングするのはアボリジニに子が圧倒的に多い」という話が出てきました。
 最初は人種差別か、偏見かと思ったら、どうもそうではないらしい。
「ねえ、テストのとき、カンニングしたりすることがある?」とアボリジニの子どもらに聞いてみると、彼らは、あっさり、あるよ、と笑うではありませんか。
「俺は解答がわかった。でも隣に座っているいとこはわからなかった。シェアしなければ、欲張りな、やなやつじゃん」
 つまりチビたちいわく、これもケア&シェアなのだと。
「俺がいい点をとることはそれほど大事じゃない。それよりも教えて、一緒に同じ点をとった方がいいじゃないか」
 なるほどね、と納得しそうになるのをこらえて「でもそうしたら隣の子は、勉強しなくなっちゃうよね」と言ったら、彼は言うのです。
「彼は彼で、ほかに得意なことがあるから、いいんだ」



これもまた「市五郎さんのまなざし」。
生きとし生けるものと一緒に暮らしているという〈物語〉へのまなざしです。

『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』


いい本を読むことが出来ました。


オビの選挙権云々の売り文句はどうでもいいです。



第1章 「自分が主役」になる環境で育った
       ~つくし世代は、上の世代とどう違うのか
第2章 コミュニケーションは「広く、深く、軽く」
       ~つくし世代は、他人とどう関わるのか
第3章 お金より大事なもの
       ~つくし世代が本当に求めている「居場所」と「仕事観」
第4章 若者が生き生き働ける環境とは何か
      ~コーディネーターの存在と「ナナメ」の関係
第5章 恋愛、結婚、家族よりも優先されるもの
      ~つくし世代の恋愛・結婚・家族間
第6章 「身近な」ところから「しか」変えられない!
      ~つくし世代にとって「政治」とは何か
第7章 つくし世代の良さを引き出すために  
      ~「それな!」で共感するとき、ものすごいエネルギーを生む


一読どころかナナメ斜め読みですっ飛ばしてしまいましたが、読後の第一感は

  羨ましいな!

です。みんながみんな「うらやましい」の対象にはならないし、若き頃をバブルで過ごしたオサーンからすれば気の毒というか申し訳ないという感想もあるのですが、全体としては羨ましいな~、いいなぁ~、と感じます。

つくし世代は、先祖返りだという印象を受けます。

先祖返りというと、全世界的にそういう傾向にあるという指摘があります。
それはたとえば、この本なども指摘するところです。


「世界をその手につかまえろ!」という売り文句。
まさにオッサン世代です(笑)
想像ですが、つくし世代に人たちはにはこの手の文句は響かないだろうと思います。

「身近な」ところから「しか」変えられない!

と感性がネイティブであるならば、世界云々といったような“大きなコトバ”は効かないでしょう。

その点、僕のようなオッサンには、こういう“大きなコトバ”がネイティブなので、どうしても効いてしまうんです。もはやそういった「大きな話」はダメだよ、ということは理解していますが、そこはネイティブな感性で捉えているのではなくて、思索・思考という過程を経ています。ネイティブで捉えられるのが羨ましい。

  ⇒『小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉』

もっとも「大きな話」が無効だというわけではありません。

日本が高度成長期の時代、その頃は「一つの、職業で地道に続ける」ことに、名実ともに「価値があった」のです。

しかし今の生きる若者には、いくらでも職業的な選択肢があっても、「たった一つの選択」にすべてを捧げる殊に対しては疑問を感じています。現在から10年スパンの未来においてすら、若者自身が何を選択すれば長期的に安定した雇用が維持されているのかどうかを予測できないからです。つまり、若者にとっての最大のリスクは、未来を保証しえない不透明な「今の時代」そのものになります。

(p.208~209)



これは「大きな話」ですよね。


つくし世代の第一の特徴としてあげられるのは、まず、
 ・自己が確立している
ということだそうです。この特徴があるからこそ
 ・つながりを求める
という欲求が強くなる。

この特徴は、「社会を営むことで人間になるヒト」の生物としてのデフォルトな設定に沿っています。当たり前ですが、人は「ヒト」として生まれてきます。最初から「人間」として生まれてくるわけではない。すでにある社会に適応して「人間になる」のです。

本書では、このような特徴をもつつくし世代が出現した原因を社会の成熟としていますが、僕はこの見解は一面的だと思います。社会の成熟であるにしても、「大きな話」の視点からいえば、そういう条件が成立してたまたま出現した状況に過ぎないし、そのバランスはとても危うい。別の捉え方をすれば、社会が解体しつつなかで、人間関係の密度が薄くなっていったからこそ、必然的に子どもたちが「自立」する環境が整った、と言えるのかもしれません。

しかし、どのような流れであれ、つくし世代の若者たちが自己を確立して自立しているという事実に変わりはないでしょう。以前の世代より比較的薄い社会の中で生まれたからこそ、ヒトとしてのデフォルト(本能)が発揮されて、既存のものとは違った種類の社会を作りだそうとしている――羨ましいですね。

同じ学校、クラス、同じ会社に属しているなど同じ属性だからとって「つくす」とは限りません。しかし「同じ方向性を向いている」「同じ価値観を持っている」等の共感ポイントがあれば、彼らは連携し、お互いに仲間と認め合い、「つくし」「つくされる」仲間関係を構築していきます。つくし世代とは、いわゆる「それな!」で共感し合い、その共感をつなげ、広げていくことを最大の喜びとする世代。そう定義することもできそうです。



次につくし世代の特徴としてあげておかねばならないのは、
 ・デジタルネイティブ
だということ。これもまた羨ましいところです。

僕のような世代の者にとっては、IT技術で広がったコミュニケーションの世界は、どこか別世界だという感触があります。インターネット黎明期からの流れを体感しているという利点(?)はあるかもしれませんが、ツールを扱うにあたっての習熟度は、ツール発展の速度の追いつかず、未熟なままです。

その結果、どういったことが起こっているかというと、ネット世界との折り合いが上手くつけられずに都合よく使ってしまうということになっている。Facebookでの「リア充」の強調、「いいね!」の強要、ヘイトなコメントの投稿など、実社会では作法が確立されていてやらないような行為を、ネットではやってしまいます。

ネット上のヘイトな行為は満たされない若者たちの行為だという先入観が以前はありましたし、今もあるのかもしれませんが、それは先入観に過ぎないことが研究の結果で明らかになっているようです。

デジタルネイティブな若者だちは、本書によるならば、僕たち世代などよりもずっとIT技術を扱う上での洗練度はずっと上。すでに作法すら確立しているように思えてしまいます。


ヒトとしてデフォルトな社会性の発現とデジタルネイティブという特性から生まれてきているのは、従来の血縁や地縁を拠り所とした社会とは異なった形態の、「仲間」というコトバで言い表される共同体です。デジタル技術によって時間的空間的な制約が解き放たれて、自身の個性に沿った「共感ベース」で「仲間」を見つけ出すことが従来よりも容易になった。その結果、第4章にあるように、恋愛や結婚や家族についての観念も従来とは違ったものになった。

こうしたIT技術による可能性は、別につくし世代だけに広がっているものではないはずなんですが、ネットコミュニケーションのでの不作法と「大きな話」に依拠したアイデンティティが障害になってしまって、つくし世代より上の世代では芽が出なかった。個人レベルでは障害を突破している人はいるでしょうが、それが「仲間」というレベルにまでなるには、個人を超えた社会的なレベルで「障害」が超えられなければ実現しない。つくし世代は、世代というレベルでその「障害」を超えた、ということなのでしょう――羨ましい。



本書『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』に接しての所感は以上ですが、以下、いつものように本題的で空想的な余談(笑)に入っていきたいと思います。


本書に描写されたつくし世代の生態から連想したのは、「交換様式A」です。


つくし世代のコミュニケーションが織りなしている「仲間」は、まだ「社会」と呼べるレベルにまでは達していないと思います。本書のタイトルが示しているように、課題であり可能性というに留まっているようです。

その可能性が実現すると、どういった形になるのか。
あくまで僕個人の予断ですが、それは先祖返り的な「交換様式A」に近いものになると感じます。つくし世代のコミュニケーションのあり方に、どこか懐かしい感じがする。地縁血縁をベースにした「有縁」な社会を構築しながらも、同時に「無縁」なアジールの存在を許していたような社会におけるコミュニケーションのあり方。


「共感ベース」のコミュニケーションは、上掲書で提示されている「無縁」の領域でのコミュニケーションに近いものがあるように感じます。ここで言われる「縁」とは地縁や血縁のことですから、IT技術の出現によって、そうした従来の「縁」とは違ったところをベースにするとなると、歴史的に見れば「無縁」ということになっても不思議ではないでしょう。

現在の日本で「無縁」というのは、甚だネガティブなコトバです。『無縁社会』という本などもありましたが、ここでいわれる「無縁」とは社会のセーフティーネットの網から漏れている、といったような意味です。しかし、中世日本では「無縁」は必ずしもネガティブでない。社会的にはネガティブだったからこそ、実はヒトとしてデフォルトなコミュニケーションが機能していたという、ネガティブ否定のポジティブな意味合いがありました。

明治維新を経て日本社会が近代化への道を歩み始めた後、敗戦・復興・経済高度成長と、自民党経世会が中心になって推し進めた日本列島改造によって、日本社会は国家権力(交換様式B)と商品交換経済(交換様式C)が全域化しました。このような社会での「無縁」とは【システム】(交換様式B&C)の機能不全に他なりません。

しかし、【システム】が全域化する以前の社会では、ヒト・デフォルトに近い交換様式Aが広範に作動していました。共同体間の「有縁」な交換で様式B&Cがすでに支配的でしたが、「ムラ」という共同体内部で交換様式Aが十分に機能していたし、「有縁」なネットワークから外れた「無縁」な世界では、交換様式Aか、ヒト・デフォルトそのものの共同寄託が機能していていました。

つくし世代たちの「共感ベース」のコミュニケーションの形態が(「有縁」に対する意味での)「無縁」的なものであるとすると、そこで優勢になる交換様式はAになるだろうと予想するのがとりあえずは順当でしょう。


可能性としては、柄谷行人さんが期待している交換様式Dでありえるとも考えられます。というのは、つくし世代たちの社会的な基盤は、交換様式Aのそれとは異なっているからです。

交換様式Aが機能した時代は、人類の生存基盤が現代ほど確立されていなかった時代です。社会を営むのは人類の生存戦略ですが、交換様式Aは社会を営むという行為の初期段階。初期段階であるがゆえに、ヒト・デフォルトの社会構築能力からさほど逸脱はしていなくて、現代社会と比べれば物質的には貧しかったかもしれないが、精神的には豊かであったかもしれない時代。「幸せ」という基準においては、おそらく現代よりもずっと豊かであっただろうと考えられる時代です。

ところが人類社会は「発展」してしまいます。「発展」の理由は生存戦略をより確立することにあったのでしょう。「小さな社会(氏族・部族)」よりは「大きな社会(王国・帝国)」の方が、人類という単位で考えたときには生存能力が高い。人類は社会を大きくすることで生存リスクを低くしようと試み、成功してきました。

より確実な生存戦略を可能にしたのは技術の発展です。農耕による定住革命、国家と世界宗教の出現、貨幣の現近代国家の成立、貨幣から資本への移行、資本の全域化、すべてが技術発展の成果です。農具の開発、武器の開発、文字の発明、コインの発明、印刷技術の発明、兌換紙幣の発明、貨幣のデジタル化――。社会の発展と技術の発展は協働作業によるものです。

技術と社会の発展によって人類は、他の生物種に対しては圧倒的で非対称な優位性を獲得しました。現在社会では、「ヒト」は「人間」でありさえすれば、ほぼ間違いなく生存が保証されます。それほどに人類の生存戦略は成功してしています。成功しすぎて、人類自身が人類の生存リスクになってしまっているほどです。

一方で現代社会で全域化してしまっている交換様式B及びCは、ヒト・デフォルトから遠いがゆえに「ヒト」が社会に適応して「人間」になるコストを高くしてしまいました。「ヒト」が「人間」になる(「ヒト」を「人間」にする)には「教育」が必要ですが、現代の日本でも教育コストが高騰してしまって、一部の者しか「教育の再生産」ができないような状況に陥っています。

「ヒトが人間になるコスト」が上昇して限界に達してしまったときに起る現象が「革命」です。革命は古くから起きてきましたが、その原因は主に交換様式Bの失敗によるものでした。近代になってからは交換様式Cの失敗である「恐慌」も頻繁に起きるようになり、交換様式Cが「コスト」を高くしてしまっている(労働の再生産ができなくなる)とみたマルクス一味が新たな革命を試みました。が、その試みは交換様式Bに帰着してしまって失敗に終わっています。

革命や恐慌は「失敗」であると同時に「リセット」です。人類社会は革命に失敗するたびに交換様式Aに立ち返り社会をリセットしてきました。そうしたリセットを最も多く経験しているのはおそらくは中国文明でしょうが、その中国の詩人杜甫は「国破山河在――」と詠みました。この詩のタイトルは『春望』ですが、それはすなわち「リセット」でしょう。


そうして人類社会がリセットを繰り返すうちにも、技術は進歩してきました。そしてIT技術によるコミュニケーションに習熟し作法まで確立しているデジタル・ネイティブな人たちが出現しました。また、その人たちは、交換様式AからBおよびCへ移行し発展してきた「社会」を前提に生きています。そんななかで、「(すでにある)社会への適応」よりも「自分たちにとって良い社会のつくる」ことに関心がある――というのは、『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』に記されてあるとおりです。

つくし世代の若者たちのコミュニケーションは(「有縁」に対する意味での)「無縁」的なものです。「縁」となる要素よりも「共感ベース」でコミュニケートして「仲間」を集めて共同体を作ります。彼らの共同体は、まだ社会には至っていません。「仲間」と呼ばれるコミュニケーション集団に留まっています。

つくし世代の「仲間」が社会へと発展するには、まだもう一段のブレイク・スルーが必要なように思われます。そのブレイク・スルーは技術的なものなのか、すでにある技術を使ってのイノベーションなのか。僕はイノベーションの方だと予想していますが、まだわかりません。

いずれにせよ、ブレイク・スルーの方向性は定まってきているように思います。「小さな」方向です。

交換が始まる以前の「ノマド」の時代から定住革命を経て交換様式Aが始まり、B,Cへと主要形態が遷移していく中で、変化しなかったのは「大きさ」への志向でした。国家、帝国、グローバル経済、いずれも「大きさ」志向です。

しかし、大きく成熟してむしろ崩壊の危機にある社会で生まれてきたつくし世代の人たちは「大きさ」を志向していないと言います。社会を新しくつくることに関心を持ちながらも「身近な」ところから。この志向は、僕たちのようなオッサン世代にはないものです。

『世界史の構造』の著者である柄谷行人さんは、僕の世代より上の人です。当然、その志向は「大きさ」を向いています。そういった人が期待した新たな交換様式Dは、当然のごとく「大きさ」を志向しています。マルクスの残滓を引きずって「世界同時革命」などと、もはや実現の可能性が甚だ低いことが判明している可能性に未だ囚われてしまっています。

「小さく」しかし、ネット技術を用いて「広く、深く、軽く」コミュニケーションを取ることが出来る人たちが、新たな交換様式を編み出すとするなら、「世界同時革命」が必須であるような手段にはならないでしょう。「小さく」始まって「大きく」育つ。きっとそんな交換手段を編み出してくれるだろうと思います。期待したいところです。

『鹿の王』


『アムリタ』に続いて、小説のレビュー。
いや、レビューというんじゃないなぁ、こんな文章。なんて言えばいいんだろう?



『アムリタ』同様、読みかけで書いています。しかもまだ半分も読んでいません。〈クライマックス〉はまだまだの予感。

とてもいいです、この物語。
こんな文章を書き始めたのも、きっと読み進めたくないからだと思います。

(6月11日読了し、追記しました。)

著者の上橋菜穂子さんについては、少し前から視野に入っていました。『精霊の守り人』シリーズがドラマ化されて話題になっているというようなことは知らなかったんですが、知人からいいよ、と薦められていたりしていましたので。

なので機会があったら読んで見ようと思っていました。機会があったら、というのは具体的には図書館で本を借りられたら、ということなんですが――(^o^) 

そんな感じで関心を持つようになったところで、昨年の本屋大賞を『鹿の王』が受賞していたという情報を僕のアンテナが感知したりするようになってきました。それまではあまりそういう方向にアンテナの志向性が向いていなかったんですけど、まあ、機縁なんでしょうね。

機縁は続きます。「cakes」というサイトの上橋菜穂子さんのインタビュー記事が目に留まったんです。

 上橋菜穂子【前編】人の社会がウイルスと重なって見えた
 上橋菜穂子【中編】自分の体が見えないように、自分の物語は見えない
 上橋菜穂子【後編】ひとつの場所にはいられないし、いてはいけない

これらの記事を読んで、『鹿の王』は読んで見ようと決めました。
決め手になったのは、上橋さんがアボリジニーの研究家でもあるということ。

「決める」というのは「機会があったら」よりも積極的です。
機縁を受け身ではなくて、自ら求める。

とはいえ、他にもまだ読むべき本や為すべき作業があったので、ペンディング状態になっていました。

そうしたら機縁が向こうからやってきました。上巻だけですが、図書館にありました。大抵は貸し出し状態なんですけどね。(『精霊の守り人』もあったので、借りてきました。読了済みです。)


現時点で読みが進んでいるのは、第三章の「トナカイの郷で」というところ。上巻の半分くらいのところです。物語としてはまだ地ならしの段階ですね。物語の背景と主要人物の紹介が一通り済んで、それらを再度掘り下げて、物語にリアリティというか立体感というか、そういったものを読者に感じさせていくところ。

この「立体感」に、僕はやられてしまいました。その感触を僕自身のなかで確かなものにしたくて、この文章を書いている。

上橋さんは「生命の営み」というものをよ~くよく識っておられると感じます。『精霊の守り人』でもその気配はありましたけど、まだまだ観念的というか、アタマでこしらえたものという感じがしていました。もっとも、まだ読んだのは第一作だけなので、続編がどのようになっているかは楽しみにしているところではあるんですけれど。

『鹿の王』で展開されている立体感は、ずっと具象的です。具象的であって、なおかつ客観的ではない。主観的。小説なんだから客観的でないのは当たり前かもしれませんが、読み進めていると、こうした記述には、上橋さんがアボリジニーたちと一緒に暮らしていた経験が生きているんだろうなぁ、と感じずにはいられない。アボリジニーたちを単なる研究対象として観察していたわけではなく、寄り添って一緒に暮らしていたんだろうなぁ、という想像が働くんです。

こんなことを書くのも、そうでない感じを受けることが多いから。上橋さんの研究者としてのカテゴリーは文化人類学ということになると思うのですが(確かめていません)、この分野の著作には、僕はどうも馴染めないところがあります。対象を観察する“冷たい目”が感じられて、どうも好きになれない。そこから得られる知見は素晴らしいものですけどね。


『鹿の王』を途中まで読み進めて、この文章を書き出すまでの間に、実は別の本を取り出して読み返すということをしています。『鹿の王』を読んでいるうちに、以前読んだある文章に当たってみたくなった。その文章に当たってみたら、このエントリを書いてみたくなった。そんな流れです。

その、以前読んだ文章を紹介して、このエントリの締めとします。

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。



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『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』


やっとこの二冊に順番が回ってまいりました。

  



早くからアドラーは取り上げたいと思っていました。
何度か書きかけていたんですけど、そのたびにボツになって。
これらの本の読書後にうけた別の本からの衝撃でアドラーの位置づけが揺れ動いてしまいまして、
やっと揺れも治ってきて位置づけが落着いてきました。


いつものように大回りします。
今回は少し親切に見出しを付けることにして、先に見出しを案内しておきます。

・アドラー心理学は宗教である
・人間をして宗教と感じさせるもの
・宗教の目的
・「編集の自由」が人間にはある
・アドラーとゴーダマ・ブッダの共通点と相違点





・アドラー心理学は宗教である。

アドラー心理学は宗教である――なんていうと、アドラーは心外に思うに違いありません。

『嫌われる勇気』に記述がありますが、アドラーは「共同体感覚」というものを提示します。すると、それまでアドラーを支持してた者たちの少なからぬ者が、宗教だと感じてアドラーの元を去って行った。そのように考えられてしまったのはアドラーにとっては心外なことで、アドラー自身は、自身の思想を宗教だとは考えていなかった。

哲学とは考えていたかもしれませんし、上記二冊の本のアドラー紹介の体裁も、哲学のスタイルを採っています。

しかし、アドラー自身がどのように考えようとも、アドラーの思想には宗教性があると思います。

そもそも宗教性というものは、自身がどう感じるか、です。アドラーがどのように考えていようとも、アドラーの思想を受容した者が宗教性を感じたならば、宗教性はある。

もっとも、時代の文脈からして、心理学と宗教は相容れないものと捉えられていた。この「時代性」は現在でも継続中ですが、それゆえ、宗教性を感じてた人がアドラーのもとを去ったという事態は、やむを得なかったろうと思います。それはアドラーの責任でも、去った者の責任でもない。時代の責任です。

僕の感触では、アドラーの宗教性は「共同体感覚」にあるのではありません。いえ、共同体感覚は宗教的だけれど、アドラーの宗教的なものはところは、それ以前から芽を出しています。その「芽」を見てみれば、宗教性とは何なのかということが見えてくると思います。


・人間をして宗教と感じさせるものは「何ものか」

宗教は難しい概念です。明確に定義することが困難で、どのように定義しても反論が予想される。
例によってgoogle先生のお伺いを立ててみると、アタマにはwikipediaがでてきます。その定義を曳いてみると

宗教(しゅうきょう、英: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。

と出てきます。

重要なのは、“一般に”という言葉です。この言葉が要請させるのは“例外もある”からです。例外がたくさんあると、それは定義としては成り立ちません。Wikipediaの文言には、“無難な解釈”という評価が適切だろうと思います。

例外を考えてみましょう。大きなところでは、儒教とか。

一般に日本人は、儒教を宗教だと認識します。欧米人もおそらくそうです。しかし、当の中国人たちは儒教を宗教だというと反発するのだそうです。中国人に言わせれば、儒教は実践的な政治学だそうです。

しかし、いくら中国人がそのように主張しても、また政治学であるという実績を示してみたとしても、私たちは儒教が宗教であるという感覚を拭いきれません。そのただ中にいる中国人は気がつかない宗教性を感じさせる「何か」が儒教にはあると言わざるを得ません。

儒教と対照的なのはイスラム教です。イスラームが宗教であることはムスリム自身も認めますが、その宗教認識は日本人や欧米人とは異なります。社会的・政治的でもあって、儒教と似通って部分がある。違いは、信者たちが宗教と自認するか否か、に過ぎないという感じです。

逆に宗教とされてはいるものの、あまり宗教性を感じさせないものもあります。仏教です。
大方の大乗仏教は宗教臭プンプンですが、禅や上座部仏教などゴーダマ・ブッダの初期仏教を志向する一派は、宗教性は稀薄で哲学的な色合いが濃い印象を受けます。

無神論を誇る日本人にも、どこかしら宗教性があります。


人間をして宗教と感じさせるものは「何ものか」は、言い換えれば宗教性ですが、それはまず“観念”ではないかと考えられます。しかし、日本人の宗教性を鑑みてみると、それも怪しい。日本人の宗教は、観念的ですらありません。アミニズムやシャーマニズムもそうですが、もっと根源的というか原始的な感じします。宗教性は観念以前の感覚的なところにありそうです。

宗教性の在処を教えてくれたのは、何度も取り上げますけれど、この本です。



例えば、私たちは日常生活でごく自然に「異性」を認識し、それに執着することがあるけれども、その「異性」というのは実際のところ、感覚入力を素材として捏ね上がられたイメージなのであって、比喩論的に言えば「物質」に過ぎないものである。

実際、私たちが認識している「美しい顔」は、よく分析にしてみれば目に入っている色の組み合わせに過ぎないし、その「美しい声」は、単に鼓膜を振るわせている音波によって形成されているものに過ぎない。つまり、私たちが持つ「美しい異性」という認識は、そのような感覚入力を素材として構成された単なるイメージ、もしくは物語に過ぎないわけだ。(中略)

では、なぜ私たちは、そのような「ありのまま(如実)」でないイメージを形成し、物語の「世界」を立ち上げてしまうのか。それは、私たちが(中略)認知を形成する諸要素に欲望を抱き、それに執着して実体視する(「我」だとみなす)からである。


ゴーダマ・ブッダの認識の鋭いところは、観念(イメージ)を経ず、「認知を形成する諸要素」に直接欲望を抱く、と喝破した点にあります。そして、その欲望が観念と物語を形成する。

「認知を直接欲望する」と考えるのは、「認知には予め価値がある」と考えるアフォーダンス理論と同じ捉え方です。価値とは欲望の対象ですからね。ここでゴーダマ・ブッダ(というより『仏教思想のゼロポイント』では、次に形成されるものとして「観念」と「物語」を同値に置きましたが、僕の感触では、「物語」のほうが先で「観念(イメージ)」は後です。つまり、

価値 ⇒ 認知 ⇒ 欲望 ⇒ 物語 ⇒ 観念

という順番で形成されていく。

「物語」のほうが先という感覚は一般的ではないかもしれませんが、実際に物語を創造している作家さんたちの感触は僕のそれに人が多いはず。すぐに実例は思い浮かびませんが、多くの作家さんたちが、ストーリーのプロット(観念)より自分でも上手く制御できない創造性に重きを置いておられる。

「創造性」は「物語性」です。
「物語」を言葉で表現すれば文学になり、色と形で表現すれば絵画になり、音で表現すれば音楽になり、――(以下略)


・宗教の目的

宗教性とは何なのか。上の問いの結論を先延ばしして、宗教が目的とするものはどこかを探ってみます。題材は物語から採ることにします。



あらすじ等には触れません。この物語の裏の主人公がウィルスであること。ウィルスとの戦いが主題の一つであること。ウィルスとの戦い方を巡っての対立があること。以上だけ、記しておきます。

ウィルスとの戦いを巡っての対立とは、ズバリ、科学者と宗教家の対立です。物語の世界では「エホバの証人」を彷彿させるような宗教が設定されていて、科学者が精製するワクチンに宗教的拒否反応を示す。そのことが治療ひいてはウィルスとの戦いの障害になっています。

少し引用します。

・・・
 ミラルは深くため息をつき、目を閉じて頭を垂れた。
 長いことそうしていたが、やがて、目を開けると、鷹匠の妻子に静かに声をかけ、お悔やみを言い、遺体を清めたら呼ぶから、それまで少し他の部屋で休んでいて欲しいと告げて、彼女らを部屋の外に連れだした。
 真那が一緒に出てきた。
 廊下に出ると、彼は、そっと鷹匠の妻子に近づいて声をかけた。
「祭司医の真那でございまする」
 鷹匠の妻子は、はっと顔を上げ、すがるような目で真那を見つめた。その視点を包むように受けとめて、真那は穏やかな声で言った。
「苦しい最期であられましたが、天の神はあの苦しみを見ておられました。いま、神はその御手に御夫君を抱き、よく頑張った、よく生きた、と御認めになって、天上で安らぎへと導いておられます」
 微塵の揺らぎもない言い方だった。それを聞くや、妻子の目に涙が盛り上がった。
 真那は静かな声で続けた。
「おつらいでしょう。しかし、頑張って、よく生きてください。神は見ておられます。神に与えられた、この地上でのいっときの生、見事に生き遂げれば、やがて、天上にて、御夫君と、いま一度抱き合うときが訪れます。それまでの辛抱です。どうか、よく生きてください」
 妻子が声をあげて泣き始めた。その泣き声は、しかし、さっきまでとは違う、どこか、解き放たれたような、ほっとしたものを感じさせる泣き方だった。
 ミラルが茫然と、その様子をながめている。
 マコウカンは、わずかに腰をかがめて妻子を慰めている真那を見ながら、
(祭司医は、やはり医術師というよりは、神に仕える者なのだな)
と思った。
 人の力では及ばぬところへ来たときは、祭司医の方が、人を救えるのかもしれない。そんな思いが、ふと心によぎった。
 ・・・


ミラルというのは医術師、すなわち科学者です。真那はいうまでもないでしょう。

人がひとり死んでしまった。人間の力(科学)が及ばなかった。
しかし、その遺族には「何らかの力」が及んで、遺族の何か変わった。
「何らかの力」は、あきらかに宗教の力です。
では、遺族の「何」が変わったのか。

人間が
価値 ⇒ 認知 ⇒ 欲望 ⇒ 物語 ⇒ 観念

という順序で何ごとかを考えるとしたら、どこで何が変わったか。

遺族にとって、死んだ人であっても「価値」は変わらないはずです。
「認知」は、身体の機能ですから変わりません。
「欲望」も変わりません。大切な人が死んでいようが生きていようが、「大切さ」に変わりはない。

変わったのは「物語」です。
「大切な人が生を全うする物語」から「大切な人が生を全うした物語」に、遺族の心の中の「物語」が変わった。そのことによって、亡き人への「思い(観念)」も変わった。
宗教の力で変わりました。

すなわち、「物語」を再編集することが宗教の目的です。
となると、宗教が宗教たる宗教性とは「物語性」ということになります。
先の問いに答えると、人間の認知の過程の「物語」の部分に何らかの作用を及ぼすものが宗教として感じられる、という結論になります。


・「編集の自由」が人間にはある

宗教が宗教たる宗教性は「物語性」にあります。人間が認知そのものを欲望することによって紡ぎ出す「物語」が宗教性の鍵です。となると、宗教とは、人間の物語性を再編集するための物語、ということになるでしょう。

鷹匠の妻子は宗教によって「大切な人が生を全うする物語」から「大切な人が生を全うした物語」へと「物語」を再編集した。その宗教には宗教独自の「物語」があって、その上に観念であるところの「神」がある。神の物語である神話、宗教の教義や儀礼も「物語」であり、宗教施設や組織は「物語」を支えるための「装置」です。

宗教に仕える祭司もまた「装置」です。上の物語に出てくる真那は、「装置」としての役割を見事果たした言えるでしょう。宗教の「物語」が彼の「物語」になっていたからです。だから逆に、彼はその「物語」を堅持しようとします。彼の「物語」、すなわち宗教の「物語」が揺らいでしまうと、他の者の「物語」を再編集する力を振るうことができなくなってしまいますから。


さて、やっとアドラーに辿り着きました。

『幸せになる勇気』の帯には、「人生を再選択せよ!!」という言葉が踊っています。しかしこれは、冷静に考えると変な言葉です。人生は選択できるものはありません。
言葉足らずなんですね。何か言葉を補えば、きちんと意味が通るようになります。

では、どのような言葉を補えばよいか。
そう、「物語」です。

   人生の物語を再選択せよ!!

かなり意味が通るようになってきました。が、まだ違和感があります。
「物語の再選択」といっても、人生において、全く別の物語をあれか、これか、と選べるわけではない。全く別の物語を選ぶというのは、別人になるというのに等しい。物語を構成する要素、すなわち「経験」は再選択不可能です。ならば、正しい言葉としては、「選択」より「編集」でしょう。

   人生の物語を再編集せよ!!

アドラーの目的はこれにつきると思います。そして、物語を再編集する行為には「勇気」が必要だということです。


・アドラーとゴーダマ・ブッダの共通点と相違点

宗教が人間の「物語」するものだとすると、アドラーは立派に宗教です。といって、一般の宗教ほど宗教臭くはない。むしろ哲学臭が強い。その理由は、「物語」を編集するための「物語」を持たないことにあります。

いわゆる宗教と哲学の違いは何か。
「物語」の編集権が誰の手にあるか、ということです。
宗教では「神」に、哲学では「人間」にその編集権があります。
自身の「物語」を自身で編集する。そのための方法論がアドラーの心理学なんです。

アドラー心理学が目的とするところは、人生の物語の再編集ですから、宗教です。
一方、その方法論は「物語」に頼らない、哲学的なもの。
つまり、アドラー心理学は、哲学的な宗教だと言えます。

哲学的な宗教であるという特徴は、ゴーダマ・ブッダと似通っていますね。


アドラーが目的とするところはシンプルです。
「自分自身を嫌いな物語」を「自分自身を好きな物語」へと再編集すること。

そのシンプルさを支えている方法もシンプル。

「かわいそうな私」
「悪いのはあなた」
「これからどうするか」

人それぞれ多種多様なはずの「物語」をこの3つに収斂させてしまいます。

「かわいそうな私」「悪いのはあなた」。この2つはどちらも「自分自身を嫌いな物語」です。「嫌いな物語」の受容を促し、「これからどうするか」と問いかけることで、「自分自身を好きな物語」を引き出そうとします。

価値 ⇒ 認知 ⇒ 欲望 ⇒ 物語 ⇒ 観念


この流れでいうならば、「かわいそうな私」「悪いのはあなた」のどちらも「観念」です。自己嫌悪という名の観念。その「観念」を支えている「物語」がある。

『幸せになる勇気』では、犬に噛まれた経験という例を取り上げています。

「自己嫌悪な観念」のもとでは、犬の噛まれたという不快な経験しか思い出しません。その後に、大人に助けてもらって慰めてもらったという体験もしているのに、そのことは「観念」に合わせて都合よく隠蔽してしまいます。

こういった現象は事実であろうと信頼できます。というのも、アドラー心理学は、エビデンスをもとに仮説を組み上げる科学でもあるわけですから。

そうした現象が広く観察されるのであれば、もとから人間は「物語」を編集しているということになります。アドラーの入口である目的論は、科学的にいうのであれば、「そもそも人間は「物語」を編集する生き物である」という事実をもとに組み立てられた仮説、ということができるはずです。

そもそも人間が「物語」を編集する生き物であるなら、再編集することだってできる。
そもそも人間が「物語」を編集する生き物であるという仮説が成立するなら、「物語」を再編集することができるだろうという仮説を組み立てることもできる。

ここがアドラーのキモであり、ぎりぎり人間的なところです。
つまり、これ以上行ってしまうと人間的ではなくなってしまいます。
そして、それを行ったのが、ゴーダマ・ブッダです。


自己否定的な「観念」がある。
自己否定的な「物語」がある。

この2点は、アドラーもゴーダマ・ブッダも認めました。
アドラーとブッダを分けたのはこの先、「欲望」です。
アドラーは「欲望」を否定的に捉えなかった。ブッダは煩悩だとして否定的に捉えた。

この次元での「欲望」は、生理的欲求との境も曖昧な根源的な部分です。人間は誰でも自分自身を愛したいという欲望を抱えている。なのに、体験から組み立てられる物語は、自己否定的なものになってしまっている。

ハラスメントとは、「欲望」と「物語」の“逆接”だと定義していいのかもしれません。

アドラーは“逆接”を“順接”に組み直そうとした。
ゴーダマ・ブッダは「逆接」のまま進み、「欲望」を否定した。
「欲望」の否定はもはや〈生〉そのものの否定になってしまいます。

深さで言えば、ゴーダマ・ブッダは深い。ただしそれは、ハラスメントの深さでもあります。



〈生〉の否定に至ったゴーダマ・ブッダが、その方法論として「出家」、つまり〈社会〉の否定に至ったことは、自然なことです。〈社会〉は〈社会〉で肯定の論理が働きますから、社会を肯定するわけにはいきません。

アドラーは、哲学的手法を駆使する宗教ですが、対象はあくまで「個人」です。〈社会〉についてはノータッチ。もちろん〈生〉に対してはぎりぎり肯定。ぎりぎりということは、根源的ということでもあります。

「共同体感覚」ということになると、〈社会〉の肯定へ一歩足を踏み出していくことになります。ただ、そのための方法論をアドラーは提示していません。なので、現実的には、やはりノータッチという評価でいいだろうと思います。


『世界史の構造』の問題意識


正確に言うと、『世界史の構造』に反映されている僕の問題意識、なんですけど。



その問題意識を、僕なんかが語るより、もっと雄弁に語ってくれている人がいます。
黒板五郎さんです。



「草太のことは悪く思うな。
 アイツはアイツで一生懸命なんだ...」

「オレのやってることは時代に合わん。
 草太の言うとおりだ。」

「考えてみると、今の農家は気の毒なもんだ。
 どんなにうまい作物を作っても、それを食べた人から
 直接ありがとうって言われることないもんなぁ。」

「だからオイラは小さくやんだぁ
 ありがとうの言葉が聞ける範囲でなぁ。」




五郎さんは第一象限〈生命〉領域で生きています。ただし、ご自分でも言っているように“小さく”です。
五郎さんの大部分は第四象限〈浄土〉領域にあります。
そうです、アキラさんが言うように五郎さんは“聖人級”です。

草太兄ちゃんは、主に第二象限【ハラスメント】領域で生きています。
だから彼は嫌がらせをする。してしまう。
聖人である五郎さんは、そのことをよく識っています。
だから「草太のことは悪く思うな」と純を諭します。


五郎さんが「草太の言うとおりだ」と言うとおり、時代は【ハラスメント】領域にあります。
〈生命〉領域で生きようとすると、第四象限〈浄土〉に身を置きつつ“小さく”行くか、
もしくは以下の形を取るしかありません。



【ハラスメント】領域に本体を置きつつ〈生命〉領域へと貫通していこうとする「成功者」の生き方。

また「成功者」は別の概念で表すことができます。
アブラハム・マズローの「自己実現理論」です。



「自己実現の欲求」を満たすことができた者が「成功者」です。

世のあまた出回っている自己啓発の書は、「自己実現の欲求」の満たし方を指南してくれます。
そして、誰でも自己実現欲求を満たすことができる、という。

しかし、それはウソです。
交換様式という視点からみてみれば、誰でも自己実現欲求を満たすことができるというのは、その領域で生きている限りは原理的に不可能だということが理解できます。

その領域で生きる、ということはすなわち、その時代で生きる、ということに他なりません。
私たちのこの時代は、支配的な交換様式によって規定されている【ハラスメント】領域の時代です。
ですから、大部分の者は自己実現欲求を満たすことができません。

そうすると、残された道は五郎さんの生き方に行くしかない。
しかし、その道は容易ではありません。
僕に言わせれば「アクロバット」が必要です。
〈生〉を否定せざるを得ないような絶望を経なければならない。
絶望からの回帰が必要になってしまいます。
「絶望からの回帰」はアクロパット級の難易度になってしまいます。
その有様は『北の国から』がよくよく活写するところです。

しかし、絶望に追い込まれてしまうと回帰するしか〈生きる〉方法がないとはいえ、そもそも、この世の〈生〉を受けた者の誰が絶望を望むというのでしょう?

ここが黒板五郎さんを通じて見る『世界史の構造』の問題意識です。


ちなみに五郎さんの言葉にもひとつウソが混じっています。

今の農家は気の毒なもんだ」

これはウソです。
もちろん、意識してウソをついているわけではありません。
無意識にそのように物語を捏造しているだけです。

五郎さんが尊ぶ「ありがとう」は交換様式Aです。
そして、農家つまり農協共同体は、交換様式Bによって出現するものです。
なので、昔から、農家が直接消費者から「ありがとう」と言われることはなかったのです。
そういう回路がなかった。
むしろ、ネットが発達した現代のほうが直接「ありがとう」をもらえる回路ができています。

五郎さんは勘違いをしているんです。
「ありがとう」というのは、同じ共同体のなかのメンバーである完次と交したものです。
同じ共同体だから交換様式Aでいいのであり、交換様式Aで営まれるのが共同体です。

共同体外部との、つまり農家と消費者との交換は、様式BかCになります。
そこに「ありがとう」という言葉が添えられることはあるでしょうが、気の毒だとかそういう話ではありません。
そんなのは五郎さんのストーリーを正当化するための後付け理論です。

ただ、そういう理論を捏造したくなる気持ちはわからなくはありません。
『北の国から』で描かれているのは、共同体の交換様式がAから主にCへと移り変わっていく有様だからです。その先頭を切って走っているのが草太に他なりません。五郎さんを筆頭に様式Aに愛着を感じている人は、違和感を感じながらも「時代の流れ」に逆らうことができず、絶望からの回帰を経て生き方を“聖人級”へと転換するほかなかったのです。


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「人間という病」


別のところに文章を書きました。リンクを貼っておきます。

   「人間という病」

人間複素平面


先のエントリで提出した、〈生〉を横軸に〈社会〉を縦軸にそれぞれをいた直交座標系を

 「人間複素平面」と命名することにしました。



なぜかとても嬉しい (^^)v
と同時に、なぜこんな簡単なものにもっと早く気がつかなかったのかとも思います。

上図に記したように、
 第一象限を〈生命〉の領域
 第二象限を【ハラスメント】の領域
 第三象限を「涅槃」の領域
 第四象限を「浄土」の領域
と考えます。


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愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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