愚慫空論

『アムリタ』

「君が、どんどん変化していくのを見ていると、人間っていうものは本当に、いれものなんだ、と思うんだ。いれものなだけで、中身はどうにでもなるって。別人にもなるんだって。道を歩いている誰かと、基本的には何も変わらないんだ。運命の成り行きで、君はつぎつぎ新しいものを中に入れていくけど、その変化するいれものにすぎない君という人間の底の底のほうに、なんだか『朔美』っていう感じのものがあって、たぶんそれがっていうものだと思うんだけど、それだけがなぜか変わらなくて、いつもそこにあって、すべてを受け入れたり、楽しもうとしている。それは君が死ぬまでそこにあると思うと、何だかいじらしいような、苦しいような気がして、いてもたってもいられなくなるんだ。」


ここがこの小説の〈クライマックス〉だと思いました。

  


いやはや恐れ入りました。吉本ばななさん。

僕はお父さんの吉本隆明さんをあまり評価していなし、どちらかといえば小説は読まないしで、喰わず嫌いをしておりました。ところが気まぐれに手に取ってみると、実に面白い。ずんずん読み進めるのがもったいなくて、ちびちび読んでいます。

実はこの文章を書いている時点でも、まだ最後まで読み通していません。
最後まで読み通しても、引用したところが〈クライマックス〉であるという確信は揺るがないと思います。

隆明さんとばななさんには、明確に異なる一線があると思います。
「共同体感覚」です。
共同体感覚なしにこの文章は書けません。
恋人を捕まえて「道を歩いている誰かと、基本的には何も変わらない」ということができる感覚。

この『アムリタ』は共同体感覚を描き出すための小説です。


唐突に「共同体感覚」という言葉を持ち出しましたけど、これは


で知ったアドラーの言葉です。この本でも共同体感覚が〈クライマックス〉です。そこが理解できると全体の風景を見渡すことができる場所です。


いつものように余談ですが、吉本隆明さんを評価できない理由は、共同体感覚を持ち合わせていないと思うからです。

人間を筆頭に、生命は複雑で多様です。
この〈複雑さ〉を【単純さ】に還元しないで受け入れるのに必要な感覚が共同体感覚。
共同体感覚のない人間は、どうしても恣意的な評価基準を用いての評価をしてしまいます。

共同体感覚のあるなしは、原発への態度をみればわかります。
原発を容認できる者は、共同体感覚を欠いている。
原発に反対だからといって共同体感覚があるとは限りませんが、
容認できる者に共同体感覚があるとは、少なくとも僕には思えません。

そのあたりの詳細は、また別の機会に。
その前に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を取り上げないと。


『仏教思想のゼロポイント』




あるところでこの本の存在を知って、その場所で所感を書いたのだけれど、こちらでもまた改めて。

仏教の思想に多少なりとも関心がある人には是非とも目を通してもらいたい思います。
こちらの批評を僕は読後に知りましたけど、これは決して売らんがための宣伝文ではなくて、本当にその通りだと思います。

僕的には、この本は安冨さんの『〈生きる〉ための論語』に並びます。
どちらの本も資料(仏典、論語)を著者自身が再構成して、自身の思想として展開していると感じます。ゴーダマ・ブッダの思想、あるいは孔子の思想の原初は、彼らが生存していた時代から遠く離れた現代では、もはや手が届かないものです。だから、方法としては、誰かがブッダあるいは孔子になりかわって再構築するしかありません。その偉業をゴーダマ・ブッダの思想において果たしたのが本書だろうと思います。

ここで伏線を張っておきますが、もし本書を『〈生きる〉ための論語』と同様のやり方でタイトルを付けるとすると、『〈死ぬ〉ための仏教思想』となるでしょう。つまりベクトルが違います。このベクトルの違いに僕は引っかかりを憶えています。

再構築されたということは、ゴーダマ・ブッダの原初の思想と本書の著者である魚川さんの思想が一致している、ということではないことになります。本来的あるいは仏教的に言えば一致しているかは意味のないところですが、そこはやはり現代の学者さんです。一致することを目指していて、そのことは本のタイトルにも現われています。世が世なら、仏教の新たな宗派の開祖となってもおかしくはないと思うくらいです。

あいや、今の世でも「開祖」はいっぱいいましたね。(^_^;)

本書の中身については、もう、自ら本書で辿ってもらうのが一番。もともとの思想が思想だけになかなかの険路ではありますが、誘導するガイドに迷いがないので、しっかりと跡を追いかけていくことができる。険路を登る体力さえあれば、確実に「ゼロポイント」に辿り着くことができます。


と、紹介した上で、案内された「ゼロポイント」から僕が眺めた「風景」を綴ってみたいと思います。
(そうした「風景」のひとつは上述の通り、別の場所で書きました。)

本書『仏教思想のゼロポイント』にも「クライマックス」があります。
僕はこの「クライマックス」という言葉の僕独自の使用法を『アフォーダンス』という文章で開陳しましたが、『仏教思想の苦ゼロポイント』でも、「クライマックス」にあたるところで登場してくるのはアフォーダンスでした。

これは偶然の一致か、それとも僕がそのように「クライマックス」を設定したのか?

あ、『仏教思想のゼロポイント』に「アフォーダンス」という言葉は出てきません。ですが、本書を読む限りゴーダマ・ブッダは認知をアフォーダンス的に捉えていると思えます。

執着による苦と「世界」の形成

プンナよ、芽によって認知されている諸々の色で、好ましく、求められていて、意にかなう、可愛の諸形態で、欲を伴い貪り染まったものがある。もし比丘が、それを歓喜して迎え入れ、執着していると、そのように歓喜して迎え入れ、執着している彼に喜悦が生じる。そしてプンナよ、この喜悦が集起することから苦が集起するのだと、私は言う。


同様のことが、目によって認知される色以外の、耳・鼻・舌・身・意によって認知される声・香・味・触・法についても言われており、つまり六根によって認知される六境に、執着して喜悦することが苦の原因であるという趣旨が説かれている。そして次に、苦を滅する方法はその逆であって....(後略)



認知される対象に欲を抱いてしまって煩悩を抱えてしまうのが、私たち凡夫である――というのが、僕のこれまでの「苦」の理解でした。だけど、そうではないと『ゼロポイント』では言います。「意」による認知対象の形成以前の知覚ですら、「苦」であるとゴーダマ・ブッダは言っている、と。

アフォーダンス理論では、知覚される環境そのものに予め「価値」があるとします。ここでいう「価値」とは、当然〈生きる〉ためのものです。知覚を「苦」であると捉えるということは、「価値」はあると認定してつつ否定するということです。

ゴーダマ・ブッダはそこまで否定していたのかと、正直、唖然としました。

私自身は後の章でのべるような理由によって、ゴーダマ・ブッダの仏教が「生」そのものを徹頭徹尾否定するものであったとは、言い切れないように考えている。だが、それは「凡夫(悟っていない衆生)が生の内容だと思っているところのもの」を、少なくともいったんは否定し、そこからの「解脱」を促すものでは確実にあった。

したがって、ゴーダマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまうような作用をもつものなのである。


著者の魚川さんは、予めこのように断っています。そして、ゼロポイントに至れば「いったんの否定」からの再帰が為されることになるのも間違いありません。

しかし、それでも僕は納得がいきません。知覚の「価値」の否定は、やはり「生」そのものの否定だと思います。『ゼロポイント』では、否定の否定が起こって〈生〉への再帰が始まることになりますが、だかといって〈生〉そのものを否定していないということにはなりません。むしろ、〈生〉を徹頭徹尾否定したからこそ再帰があったと言うべきです。

魚川さんがここで言っている「人間として正しく生きる道」というのは、ごく一般的な意味のはずです。ということは、社会的存在としての人間を対象にしていると考えてよいでしょう。そうだとするなら、知覚から「意」によって認知対象を形成する段階で生じる「欲(煩悩)」を否定することまでは得心がいく。ですけど、本書によれば、いえ、正しくは本書による僕の理解によれば、ゴーダマ・ブッダはそれ以上のことを否定していたことになります。それはもはや、“人間として”以前の、“(動物としての)ヒト”をも否定していると考えざるを得ません。

本当にゴーダマ・ブッダがそう考えていたのなら、それは行き過ぎだと思います。

また少し脇道に逸れますが、ゴーダマ・ブッダが「生」そのものまでの行き過ぎた否定を為したからこそ大乗仏教が生まれたのではないかと仮説を立てることができると思います。


ゴーダマ・ブッダが行き過ぎたのだとしたら、そこになにか原因はあったのか。
そう疑問を提示したとき、思い当たるのが有名なスジャータの逸話です。

生死の境に踏み込むほどの苦行を続けていたゴーダマ・ブッダは、スジャータに施されたミルク粥で生命を取り留め、苦行の無意味さを理解した。心身共に回復したブッダは、ほどなくして菩提樹の下で悟りを拓いた――。

通常の人間は生死の境に至るほどの苦行をできるものではありません。ゴーダマ・ブッダは、あるいは特別な人間であったかもしれません。そういう伝説がたくさんある伝説上の人物ですから。しかし、そうした思い込みを退けて、ゴーダマ・ブッダもまた生身の、普通の人間であった考えたらどうでしょうか。

通常の人間が尋常でない苦行をなす心理的な原因。苦行は自傷行為です。自傷行為を為すような人間にあるのは心の傷です。心の傷は、ハラスメントによって生じます。

そう、ゴーダマ・ブッダのものらしい思想は、どうもハラスメント臭いのです。

スジャータの粥で苦行を否定したという話と、知覚の「苦」を「ゼロポイント」において否定するという思想も、構造は同型です。しかも、否定したのは“行き過ぎ”の部分だけであって、行き過ぎた原因まで遡っての否定は為された形跡はない。

都合のよいところだけ伝説を引きますが、ゴーダマ・ブッダが生まれたとき、その父であるシャカ族の王は「世界を征服する帝王になるか、比類の無い賢者になるか、どちらかだ」と賢者から告げられたといいます。弱小王国でしかないシャカ族の王である父は当然、前者を期待したでしょう。すれば、帝王学をゴーダマ・ブッダに施したであろうことも、想像することは容易です。

ゴーダマ・ブッダが私たちと変わらぬ生身の人間であったとしたなら、そうした「教育」がハラスメントになっていたと考えても不思議ではありません。今日ではよく「教育」を受ける「いい子」ほどキレやすいということは半ば常識です。ゴーダマ・ブッダもそうした「いい子」であったのが、キレて自傷行為に走った――というだけのことであったかもしれません。

もっとも、そうだとしても、その思想の価値は何ら変わりません。生身でないことを前提にする宗教では価値は下がるかもしれませんが、生身の人間が為す思想としては、ゴーダマ・ブッダも普通の人間だったと認識される方が価値は高まるかもしれません。

ゴーダマ・ブッダがハラスメントを受けていたと考えることができる状況証拠はあります。

シャカ族はゴーダマ・ブッダ存命中に滅ぼされました。なのに、ゴーダマ・ブッダはなぜか冷淡でした。伝説的に考えるなら、その理由は「悟りに至った」からでしょう。普通に考えるなら「ハラスメントを受けていた」からでしょう。合理的に考えるなら、僕は後者になると思います。

まだ傍証はあります。ゴーダマ・ブッダが生産を否定する出家主義だったということです。

ごく普通に思考するなら、人間は生産なしでは生存できません。『ゼロポイント』では出家と在家の折り合いについて、具体的には「律」というものについて触れられていますが、意地悪く言うならご都合主義です。出家主義ありきの考え方でしかありません。

出家を支えるのはカーストです。それまでのバラモン教のようにカーストを盾に収奪するということはゴーダマ・ブッダはしませんでした。それどころか、生産そのものの否定にまで“行き過ぎ”た。思想は行き過ぎることはできても現実では不可能だから、そこにご都合主義が生まれた。

なぜそのように考えなかったのでしょうか。偶然であり、それがゴーダマ・ブッダの思想なのかもしれません。しかし、ここも意地悪く見るなら、そういった認識を阻む原因があったと考えることができます。自らがシャカ族の出自である事実です。

ゴーダマ・ブッダがハラスメントを受けていたとして、そのハラスメントにまで視線を向けていたらどうか。生産の否定という“行き過ぎ”はなかったのではないか、と考えます。ハラスメントの原因である自らの出自から目を逸らしたが故に、「生産する身分/収奪する身分」という社会の構造にまでゴーダマ・ブッダは踏み込むことができなかった。そこを避けたために必然的に“行き過ぎ”にならざるを得なかった――。


以上が、『仏教思想のゼロポイント』を読むことで湧き上がってきた僕の中の「風景」です。妄想とも言います。笑。
それもこれも、『仏教思想のゼロポイント』が迷いのない道を示してくれたからこそ、です。

僕の妄想はさておき、本はオススメです。是非。

『桐島、部活やめるってよ』


映画シリーズのバリエーションということで。

桐島といえば、バレー部のキャプテンです。


『桐島、部活やめるってよ』というタイトル名は、どこからともなく僕の耳にも届いていました。
「桐島、部活やめるってよ」という口語がタイトルになっているというだけでも、かなり印象に残るものでした。よい作品らしいという評判も、なんとなく。

そういう噂がいつの頃のものだったか定かではないのですが、今回、観る映画(安く視られるもの)を探すなかで、目にとまったのが、『桐島、部活やめるってよ』だったというわけです。

面白かったです。

この映画を観てまず思ったのは「スクールカースト」でした。これは多くの人もそう思ったみたいで、"桐島、部活やめるってよ" "スクールカースト"で検索をしてみると、記事がいくつもヒットしてきます。

そういった記事を幾つか読んでみると、映画の『桐島、部活やめるってよ』というのは小説を原作にしたものであるということがわかりました。

小説と映画ではストーリーが異なるのかもしれません。上記検索では、映画と小説の感想が一緒になって出てくるので、僕が気になった点が映画だけのものなのか、小説に共通するものなのかがわからない。そこは調べようと思えば簡単に調べはつくのだろうけど、別にいいや――ということで、映画のほうで話を進めます。

この『桐島、部活やめるってよ』という映画には、実はタイトルロールが登場しません。桐島君が出てこないんです。
桐島君は、どうもスクールカーストの頂点に君臨している人物らしい。バレー部のキャプテンで、勉強だってできる。すなわちスペックが高い。当然、彼女は校内一の美少女。登場してこないけど、イケメンであることも、疑いなし。

そのような「頂点」には、周囲から要求される振る舞いがある。バレー部のキャプテンであることは「頂点」の威光を表すツールであると同時に、周囲から要求でもという二重性があります。この二重性があるからこそ、カーストは固定的な身分ではなく、一種の生態系として機能する。

ところがその桐島君が部活をやめてしまう。理由は不明です。ストーリーのなかでも明かされません。

明かされないのには理由があるのでしょう。つまり、そんな理由はどうでもいいんです。どうでもいいから桐島君も登場しない。「頂点」がいなくなるとカーストは動揺します。この映画が描いているのは、カーストという秩序構造の動揺です。動揺があるからこそ、その構造のなかで生きている者たちが生き生きと描き出される。

そう、とても知的な映画です。

どんなふうに描かれているかは、知っている人はすでに知っているだろうし、まだ観ていない人は楽しんで欲しいところなので、ここでは触れません。

ただ、ここの話の都合上、触れなければならない部分もあります。

『桐島、部活やめるってよ』という映画は、単にカースト構造を生きる者たちを描いたというだけではなく、メッセージ性もあります。そのメッセージは、下部カーストの上部カーストへの抵抗という形で出てくる。

 「今を精一杯生きよう」

『桐島、部活やめるってよ』のメッセージは、これ。

他の批評を読んで知ったのですが、昨今では映画部というだけで、もうすでに“下”という位置づけがなされているんだそうですね。要するに(何が“要する”なんだか)、“オタク”ということか。確かに映画部員のキャラはオタクっぽい。

映画部は、映画のなかでも見下されています。この見下され方は、あるいはあからさまに、あるいはあからさまではない形で、とてもリアルに感じます。いまどきの高校生はこんなんだんだろうなぁ、というオサーン世代の目線です。

ここはリアルではないと願いたいところですが、映画部は顧問からも見下されています。コンテストに入賞したと持ち上げられつつ、映画のシナリオはお仕着せのもの。部員が希望するシナリオにはNG。『教室内(スクール)カースト』という著書では、教師もカースト翼賛体制のなかに組み入れられているという指摘がありましたが――。

映画部の上部カーストへの抵抗は、お仕着せ教師への反抗に端を発します。どんな形で展開するのかは、知っている人はご存知でしょう、そうでない方は映画をご覧あれ、ということにして、ここで言っておきたいのは、この映画のメッセージは、受信する者の立場によってとらえ方がまったく異なるだろう、ということ。

スクールカーストなどというものから無縁なところに生きている僕からすれば、「今を精一杯生きよう」というメッセージは心地よく感じられます。スクールカーストを実感したような気にもさせてくれますし。けれど、メッセージが心地よいのは、実は、無関係で無責任だからです。無責任でいられるから、都合のよいところだけ楽しむことができてしまう。

現にスクールカーストの中で生きている者は、そうはいきません。無責任ではいられない。そんな者にとって、『今を精一杯生きよう』などというメッセージは、嘘くさいものに感じてしまうかもしれない。

カースト頂点が突然いなくなるなどという事態がそもそもリアリティに欠けます。リアリティに欠けるからこそ敢てスルーしているのがこのストーリーの知的なところですが、知的だから楽しめるというのが、そもそもにおいて無責任です。関係のある当事者にとっては、知的では片付けられないシャレにならない話だろうと想像します。

シャレにならないなら、嘘臭いことにしてしまった方が気楽です。もとから作り話だし。そうなると、この物語は「つまらない嘘話」で、「クソッタレなメッセージを発する駄作」という評価になる。この物語はカーストの埒外にいる部外者のための物語です。



クソッタレなメッセージを発するという意味において、桐島君とオバマ君は、共通のものがあります。
片やリアルで、片やフィクションではありますが、また、カースト規模も圧倒的に違いますが、どちらも「クソッタレなメッセージ」を発してきます。受け手の立ち位置によってクソッタレかそうでないかが違ってくるという点も、同じです。

報道によれば、オバマ大統領は今年日本で開催される順番になっているサミットに参加する機会に、広島へ訪問するのだそうです。原爆投下の謝罪なしに。

クソッタレです。
僕は別に腹を立ててはいませんけどね。けど、腹を立てている人はたくさんいると思います。

アメリカが2つの原爆を投下したおかげで犠牲者が少なくて済んだ。
そんなの嘘だと思うけど、でも、そういうこともあったかも知れないと思うけど、どっちにしたって関係のない話。新兵器の試し撃ちでたくさんの犠牲者が出たという事実とは。

戦争をしたことは謝らなくていいだろうけど、だからといって、原爆を落としたことも謝ってはならない、というのは、スジとしては別の話です。

しかし「スジとしては別」というのはカーストの埒外にいるからこそ言える無責任な言葉ではある。

ここでいうカーストとはつまり、“パックス・アメリカーナ”です。アメリカの軍事力による平和。軍事力だけではないけど、こと広島に関しては、軍事力だけを語ればよい。平和をもたらしている軍事力は「正義」でなければならない。そのように要請されています。カーストの「頂点」に君臨しているオバマ君は、もはやレームダッムであったとしても、要請された役割を果たさなければならない。「オバマ君、広島を謝罪したってよ」というのは、そのカーストのなかで生きている者にとっては、シャレにならないことなんです。

アメリカの軍事力行使が「正義」だなんて心の底から思っている人など、誰もいないでしょう。あちこちでやらかしてしまっていますから。加えてロシアのしたたかさが際立ってきたし、中国の台頭もある。パックス・アメリカーナは揺らいでいます。だからかえって「正義」であることににしておかければならないという要請は強くなる。

そう考えれば、オバマ大統領が謝罪なしで、それもわざわざ事前に謝罪なしと宣伝して、広島を訪問するというのは知的な行為です。最近では池上彰さんや佐藤優さんなどが啓蒙する“インテリジェンス”とかいうものでしょう。

けど、どれほど知的であっても、オバマ君の行為が、当事者にとってはクソッタレであることに変わりはありません。知的であろうが関係ない。知的だからそれでいいのだというような人間もいますが、本当にそう思っているなら、サイコパスの類いです。

そして厄介なことに、その当事者というのは私たち日本国民です。
ここにジレンマがあるわけです。
当事者なんだからクソッタレと感じるのは当然なんだけど、そう言ってしまうと無責任になる。

こんなときは、為政者の振る舞いは難しいですね。クソッタレと伝えつつも責任ある態度を取らなければならない。矛盾した態度を人格で統合しないといけない。難度の高い演技を要求されます。こうした演技を付けるのは、これまたインテリジェンスでしょう。

いちばんダメダメは振る舞いは、どっちつかずの態度を取ってしまうことです。カースト秩序の維持に貢献するでもなく、蛮勇をふるってクソッタレと言い放つでもなく、己のカースト内のポジションを維持するために振る舞う。

『桐島、部活やめるってよ』のなかにもそういうキャラクターは登場してきていました。そりゃ男なら、女子からキスしよって言われれば喜びますよ。肉体で男を釣って、男を狙っている別の女に見せつける。そうしてカースト上位の男の彼女という地位を守ろうとする。

こういう振る舞いは嫌らしいですよね、安倍くん?
自分の肉体でも嫌らしいのに、アンタの場合は....、ふうっ

中学生高校生という存在は、子ども以上大人未満。大人になろうしている存在です。スクールカーストは高校生たちの特性ではなく、大人の振る舞いのコピーです。大人の振るまいが、大人未満の時点ですでに内面化してしまっているから、彼らの特性であるかのような形で現われてしまう。

大はパックス・アメリカーナ。日本の視点でいえば安保体制。小はそれこそキリがない。至る所に「カースト」が蔓延っている。大人未満の少年少女たちが、そのことを身をもって表現している。

そう思えば『桐島、部活やめるってよ』は、大人が無責任に楽しむ作品ではないはずです。

懺悔しなければならない

今朝、とても大切なことに気がづかされた。


我が家では犬を二匹飼っている。どちらも、もう、老犬で、12才と13才になる。名前は、フクにブー。フクが母親でブーがその娘。

朝の散歩に連れいったときに事故が起こってしまった。2匹が別の犬に襲いかかってしまった。別の犬がいるとわかっている場所で、僕がうっかりブーのリードを落としてしまったのだ。

ブーは一瞬、何が起こったの? といった反応をして、リードが落ちているのを発見すると、近くの犬に襲いかかった。ブーが襲いかかったことを見たフクが加勢しようとするのを、とっさにフクに蹴りを入れて牽制して、もうすでに噛みついてるブーを蹴り上げる。噛みつかれた犬は、情けない悲鳴を上げていた。

この2匹には、これまでもたびたびこのようなことがあった。人には極めてフレンドリーなんだけれど、四つ足の生き物には理不尽な牙を剝く。一旦スイッチが入ってしまうと、通常の命令では届かないので、彼らの暴力を制止させるのは、こちらはそれ以上に暴力的な方法に出るしかない。これも幾度となく経験してきたことだ。

蹴り上げられて圧倒的な暴力に怯えたフクとブーは、しっぽを丸めて逃げ出そうとする。非常なことと思うのだけど、それが相手の被害を最小限に抑えるには最良の方法だ。力で引き離そうとすると、スイッチが入っている彼らは、余計に力を入れて噛みついたところから離れようとしない。恐怖であれなにであれ、自発的に放させるのが最良だ。

これは、体重60キロあまりの僕と15キロ程度の犬との間の、る物理的な力の差があるからこそ可能なことである。僕は、自身のミスから暴力を行使する嵌めに陥ってしまった。


常々不思議に思っていた。なぜ彼らは、このように理不尽な暴力を振るうのだろうか、と。そういう習性だといってしまえばそうではある。けれど、僕にはずっと腑に落ちないものがあった。

母親のフクは猟犬である。和歌山で暮らしていた頃は、山に放って獲物を追わせたこともある。猟師さんから頼まれて仔犬を産ませたこともある。猟師はフクを優秀な猟犬だと認め、だから、その子を欲しがった。

対してブーは、優秀な猟犬であるフクの娘ではあるけれど、猟犬としては優秀とは言えない。優秀かそうでないかは、立ち振る舞いで判別がつく。フクはタッタッと普段から軽やかに歩くのに、ブーはドタドタと歩く。跳躍力にも差がある。頭のデキも違う。林の中のように障害物が多い場所に連れて行くとよくわかる。フクが効率のところを瞬時に見分けて通っていくのに、ブーはそれができないから、障害物に遮られて立ち往生し、戻って別の道を探すということが多い。

それよりも何よりも、意欲が違う。猟へ行きたいという意欲が、どうもブーにはあまりない。山へ行へ連れて行くとフクはみるみる精気が増すが、フクにはそういう反応はない。フクが喜んで駆けだしていくと、後を追っていくくらいが関の山だ。

もっとも、こういったことは、猟犬として役に立つという尺度で見たときの評価である。フクもブーも我が家の家族であり、ということはつまり、彼らの生存は僕たちが保障しているわけだから、猟犬としての尺度はほとんど重要ではない。むしろ不出来なブーのほうが可愛いくらいだ。ただ、この評価は個体の優劣、もし野には放たれるようなことがあれば、生き延びることができる可能性の大小へと直結するだろう。ブーよりフクのほうが、生き延びる可能性は高いと思われる。


以上の事実からするならば、彼らが他の4つ足の生き物に牙を剝くのが習性であるとするなら、ブーよりフクのほうが凶暴性が高いということにならないといけないはずだ。だが、観察される現象は、それとは異なる。なぜかブーのほうが攻撃性が高い。

先に行くのは、必ずブーのほうだ。フクは、山に放てば率先して獲物を捜索に行くが、道で遭遇する他の4つ足を獲物としては認識していないようだ。必ずブーのあとに、ブーが戦闘を開始したのを認めてから自分のその中へ入っていく。

ブーの4つ足への攻撃性は度を越していて、凶暴性と行ってもいいくらいだ。かつては体重差が圧倒的に違う馬に向かって行ったこともあった。馬の後ろ足に後ろから噛みついて、見事に逆撃を喰らって、頭を蹴飛ばされた。パコンといい音がしてブーはしっぽを巻いて退散したが、しばらくすると足が棒のようになって歩けなくなり、抱きかかえて連れて帰ると、泡を吹いて倒れ込んだ。脳震盪だったろう。死ぬかと思ったけれども、翌朝にはケロリと治っていた。ただ、以降、馬には怯えるようになった。

フクは馬へは行かなかった。体重差のある鹿や猪には向かって行くが、馬はさすがに差がありすぎるのだろう。怯えはしないが、適切な距離を保って近づこうとしなかった。ちゃんと犬としての常識(本能)が機能していると見える。


ブーのこの過剰な攻撃性は、何なのか。ずっと考えていた。そして、今日、やっと思い当たった。

「怯え」だ。


ブーは、フクよりも謙虚である。飼い主である僕や家内にはもちろん、他の人にも、近づいていくときには“下手”から行く。フクが頻繁に厚かましいのに対して、ブーはあまりそういうことはない。撫でてよう思ってフクとブーを呼ぶと、フクはぐいぐい前に来るが、ブーはどこか遠慮がち。フクが居座ると、ブーはすぐに諦めてあちらへ行く。あちらへ以降とするのを、改めて声を掛けて呼び止めることが多い。

これはブーの個性なのかもしれない。そして、過剰な攻撃性も、個性で片付けられるのかもしれない。それぞれ個性と言ってしまえば一応のアンサーにはなって、安心することができる。この「安心」は居心地がよいが、ここに棲みつくのは「怠惰」だろう。そんな批判を僕は展開していたりする。

「ブーの謙虚と攻撃性には関連がある」と考える。考えることは意志である。意志していると浮かびかがってくることがある。それは「言葉」という形になって登場する。この場合は「怯え」という言葉である。

ブーの「謙虚」の正体は「怯え」である。「怯え」は負であり、バランスを取るには過剰な「正」が必要になる。

犬が狩りをするのは、正でも負でもない。彼らの生存戦略だ。フクが山に行くと生き生きしだすのは、犬が犬としての「生命のあり方」が発現できると感じるからだろう。その「生命のあり方」のなかの、狩りは大切な核心であるはずだ。

ブーは、犬としての「生命のあり方」から、一歩引いたところに普段はいる。だから謙虚だ。そのかわりに、一歩引いた分を埋め合わせようという欲求を抱えている。攻撃してもよい対象を探している。普段から“一歩引いている”から、普段から“一歩出よう”として攻撃対象を探している。

「攻撃をしてよい対象」というのは【敵】である。

フクは獲物を探す。獲物を見つけると攻撃する。「獲物」に対する攻撃も【敵】に対する攻撃も、同じ身体能力を使ってなされるので、現象としては同じようにみえる。だけど、動機においては異なる。

フクとブーには、タイムラグがある。ブーは他の四つ足を見かけると直ちに【敵】と認識するが、フクはそうでない。フクには「獲物」→【敵】という回路が働くから、ブーのように相手をいきなり【敵】だとは認識しない。ブーの攻撃を確認してからではないと、攻撃に移らない。

なによりブーは、まずもって「獲物の探索」という欲求に欠けている。この点においても“下手”だ。なのに過剰な攻撃性を発揮するという事実を説明するには、ブーには【敵】が必要なのだと考えるしかない。

ブーは、彼女の生命力のバランスを取るために【敵】を必要としている。
彼女は普段から“下手”に出て生命力を抑制している分だけ、常に“上手”に出て補いを付けようともしている。
そうしてバランスを取ることを、ブーの生命力がブーに要求している。

このアンバランスは、ブーの個性なのだろうか。そうでないと僕は考える。個性だと考えておくと楽だけれど。

ブーのアンバランスが個性ではないとすると、環境に原因があることになる。

フクとブーはほぼ同じ環境で暮らしている。となると、ひとつ考えらるのは、フクとブーの身体能力の差。身体能力においてフクに劣るブーは、同じ環境の中でも常に出遅れる。その結果がブーが常に下手に出る構えにつながったと考えることはできる。

しかし、フクだけが原因だとは考えるのは難しい。ブーは、何よりも僕にもっとも怯えているからだ。ほぼ同じ環境で暮らしているといっても、まったく同じ環境ではない。僕たちのフクとブーへの接し方もまったく同じというわけではない。

といって、僕がブーにより暴力的に接しているというわけではない。むしろ逆。ヒトと犬の力の差を行使する機会は、フクに対してのほうがずっと多い。ブーは常に下手だから、人間の顔色を見て行動する。人間の嫌がることを察知してしようとしている。スイッチさえ入らなければ。その点、厚かましフクは、そういった配慮に欠ける。街中でも野山でいるかのように振る舞おうとするフクには、どうしても“注意を与える”機会が多くなってしまう。

同じ強度で接しても、フクとブーとでは、受容の仕方が違う。これはある程度個性ではあるだろうが、それ以上のところもある。「絆」の強度の問題だと思う。

フクと僕の間には、ブーとの間以上に強い絆がある。それはフクの猟犬としての適性が遠因となって生じてしまった差異だ。特に、こんな出来事があって以来、僕とフクの絆は深くなったようだ。家内もそのように言う。


僕は、その絆に甘えていたのだと思う。今朝、そう気がついた。

フクは多少、手荒に扱っても大丈夫だ。なぜなら、僕とフクの間には絆があるから。フクに与える「注意」が暴力的あっても、僕とフクの絆は揺るがない。どれほど怒っても、フクはすぐに僕の顔色を窺いながら、低く小さく尻尾を振りながらすり寄ってくる。僕が怒りを解いたのがわかると、フクは大きく尻尾振り、頭を撫でるように要求してくる。

そういうフクに僕は満足していた。
いや、違う、フクにではない。そういう具合にフクを調教している僕自身に満足していたのだ。

ブーとは、残念なことに、それほどの絆はできていない。そのことは僕も自覚していたから、注意を与えるときは、フクよりもずっと気を遣っていたつもりだった。だけど、ブーは、フクに注意を与えているときでも怯えてしまう。犬はバカではないから、誰に注意を与えているかはしっかり判別している。にも、かかわらず、ブーは怯えてしまう。

困ったことだと思っていた。
困ったことだと思いたがっていた。
困る原因はブーの個性にあるのであって、僕の対応も上手いとはいわないけれど、仕方がないと思っていた。

「僕の満足」を失いたくなかったから。
「僕の満足」を保つためには、ブーは困った犬でなければならない。

ブーは確かに困った犬になってしまったが、そうしたのは100%ではないかもしれないが、僕が原因だと思う。
ブーは彼女なりに生命のバランスを取っているだけだ。

僕は懺悔をして、彼女たちとの接し方を改めなければならない。

絆が深いのは誇らしいことだと思う。
これからもフクとの絆は変わらないと思うし、そう願っている。

だけど、絆を都合よく利用するのはダメだ。
そんなことのために絆はあるのでない。
絆はツールではない。勲章、つまりは“飾り物”ものだ。

絆は飾り物で充分。道具として使って、泥を塗ってしまってはもったいない。


アフォーダンス


ストーリーにはクライマックスがあります。

クライマックス。英語です。climax.
「登る」という意味の“climb”と、「最大」という意味の“max”が合成されて、「頂点」。

「頂点」という意味からすると、ストーリーのクライマックスというのは、もっとも盛り上がるところ。
即物的にいうなら、感覚刺激が最大になるところ、という言い方が適切ではないでしょうか。
「ストーリーにはクライマックスがある」なんてごくありふれた言辞です。

もちろん、そういうありふれたことを言いたいのではありません。
僕がここで言いたい「クライマックス」というのは「感覚刺激の最大点」などではありません。
刺激の大きさは関係ない。
これも即物的に言うなら、ストーリーの転換点といったほうが適切かもしれません。

それが適切ならそちらを使えばいいではないかと思うんですが、どうしても「クライマックス」という言葉を当てはめたんです。「最大点」ではあるので。物理的な刺激ではなく、「意味」における最大点。


ストーリーは、意味の連なりというふうに解釈もできます。
小説は言葉で記述されますが、言葉にはひとつひとつに意味がある。ひとつひとつの意味を連ねていって、大きなまとまりとして「意味」を表現しようとする営為の結果が、小説というものでしょう。
小説全体が意味しようとしているところがもっとも良く現れている場所。そこを「クライマックス」といっても間違いではないし、その場所が感覚刺激の最大である必要性もないことは理解していただけると思います。


例えば、昨日取り上げた『いなくなれ群青』です。
主人公くんは、大好きな彼女が彼の目の前に現れたことを許せないんです。そこは“捨てられた島”だから。そこに彼女が現れたということは、彼女は“捨てられた”ということを意味しています。

誰に捨てられたのか。そう、彼女自身にです。彼女が大好きだけど、決定的に彼女とは会わないと思っている主人公くんは、遠くで彼女が幸せでありさえすればいいと思っていた。自分がいようがいまいが、彼女は彼女だから。なのに、よりによって“捨てられた島”で再会した。これは彼女が彼女ではなくなったということです。

その事態を主人公くんは、どうしても許せない。自分が捨てられていることは、むしろ心地いいくらいに思っているのに。だから、彼は決意をします。彼女をこの島から脱出させよう、と。

『いなくなれ群青』の「クライマックス」は、主人公君の決意が露わになるところです。

ストーリーは「クライマックス」を迎えたあと、終結に向かって進んでいきます。一般的な意味でのクライマックスは、大抵、終結の手前で現れる。意志が実現した瞬間か、あるいは折れた瞬間か。前者だとハッピーエンドだし、後者ならバッドエンド。


ストーリーには「クライマックス」がありますけど、「クライマックス」はストーリーにしかないわけではありません。

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』というドキュメンタリー映画は、ストーリー仕立てではありません。ビル・カニンガムとはどういう人物なのかを紹介することがこの映画の目的ですから、ストーリーになる必要性はありません。そういう演出も可能だろうけれど、そういうのは作り手の作為が入ってあざとくて、ビル・カニンガムという人の魅力をかえって棄損してしまう恐れが強い。

では『ビル・カニンガム&ニューヨーク』に「クライマックス」はないかというと、それがあるんです。記事でも紹介しましたけど、「ファッションは鎧だ」といったあとの彼のの笑顔がそこです。僕はあの笑顔に、彼の人生観が集約されていると感じました。だから、そこが頂点であり「クライマックス」です。


次は、これ、いってみましょう。


「The Berlin Celebration Concert」です。1989年です。

1989年でベルリンというと、「ベルリンの壁の崩壊」と歴史的事件があった時と場所です。その崩壊をcelebration したときのコンサートの記録です。他にもベルリンの壁崩壊を祝うイベントはいろいろあったでしょうが、それでも“the”という定冠詞を付けて語られるのは、これになる。そして、演目はベートーヴェンの『第九』になる。もちろん理由があるんです。

その理由は、当然、『第九』の「クライマックス」と関連しています。では『第九』のクライマックスは、どこか。この動画だと、1:22:50 あたりからがそうです。

ここは何かというと「祈り」です。平和を希求する祈り。

『第九』のキモは何かというと、「人間の声」を導入したところにあります。「歌」ではなく「声」なんです。
楽器で奏でられる器楽に、楽器としての「声」を導入した。それが『第九』という音楽のアイディアでした。

どうもベートーヴェンは、はじめからそのアイディアをもとに『第九』を作曲していたわけではないらしい。いろいろ考えあぐんで、あるときそのアイディアに目覚めんた。ベートーヴェンは作曲途中のスケッチが詳細に残っているんですが、なので作曲過程が詳しく研究できるんですが、1~3楽章はかなり苦労して作曲していたのに、「声」が入る4楽章は一気に書き上げたらしい。アイディアが降りてきて、勢いが出たんでしょうね。だから、プロのなかにはもっとも盛り上がり、かつ『第九』の結論である第4楽章を批判する人もいる。純粋に音楽の構造としてみると、出来が悪いんだそうです。

プロの意見は尊重しなければなりませんが、しかし、聴くのは素人です。どう聞いても第4楽章が結論だし、“the Celebration Concert”の演目にもなる。「クライマックス」が「祈り」の音楽のだからこそ、ふさわしい。

『第九』の「クライマックス」では単に楽器として扱われていた「声」が、ここでだけは「歌」になるんです。まず器楽で[世界]が提示され、そこに「声」が登場して[社会]が表現される。ここだけ抜き取るとまるでダーウィニズムですが、この音楽を無神論として批判する人はいません。「クライマックス」が「平和への希求=神への祈り」になっているから。ここは人間性の表現である「歌」でなければならない。

「クライマックス」とは、「表現の構造」と「意味の構造」が一致する場所というふうにいうこともできます。『第九』はその典型例だと思います。


同じベートーヴェンでは、以前、31番のピアノ・ソナタも取り上げました。この作品には「〈悲〉響き」があるという話をしましたが、そこがまさに「クライマックス」。ここの「クライマックス」は、音と音のあいだの「間」です。楽譜には音符として書かれないことで表現されているところが「クライマックス」になっています。

「間」に意味を見出すなんて「水を感じるために水を抜く」という枯山水の手法みたいですが、そういうことが表現には起きます。伝統的に日本人は、そうした手法に意識的だったと思います。「引き算」ですね。


こういったふうに、ストーリーのような“構造”のある作品を「クライマックス」を探しながら鑑賞すると、とても面白くなります。「クライマックス」を見つけることができるというのと、作品の意味を理解するということは、ぼほ同じと言っていい。

ただし、これは構造のあるもの、という限定がつきます。たとえばポップスなどは、構造をもつには短すぎる。作品全部がクライマックスという感じで、ということは、クライマックスはないということです。なので、意識的かどうかは知りませんが、何かを伝えたいと考えているアーティストは、短い作品を集めた「アルバム」といったものを作ろうとする。「アルバム」になると構造ができあがりますからね。

また「クライマックス」はあっても、それが「表現の構造」と「意味の構造」の一致でないようなものもある。音楽なら、バッハなんかの純音楽とか。「表現の構造」はあるけど、「意味の構造」がありません。そういう意図が始めからない。「伝えよう」という意志がない。意志のない表現があるだけ。




新しい認知理論であるアフォーダンス理論の出発点は、新しい理論がすべからくそうであるように、それまでの前提の否定です。何を否定したかというと、「形」を否定した。視覚で知覚する対象には「形」があるはずだ。アフォーダンスでは、そんなものはない、というんです。

では何があるかというと「動き」だといいます。情報は絶え間なく変化しながら感覚器官に入力されて続けている。私たちが「形」と認識するのは、変化のなかの不変なものです。アフォーダンス理論の提唱者ジェームズ・ギブソンはそれを「不変項」といいましたが、私たちが行っているのは、常に変動する環境からの入力のなかから「不変項」をピックアップすることだというのです。

ではなぜ「不変項」がピックアップされるかというと、それは主体にとって「意味」があるからです。入力されてくる情報のなかのある一定の特徴が、情報を探索する主体にとっては予め意味がある。主体は意味のある特徴を見出そうと情報の探索を常に行い、発見した意味ある特徴を「不変項」つまり「形」として認識します。

 アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。アフォーダンスとは良いものであれ、悪いものであれ、環境が動物に与えるために備えているものである。アフォード(afford)は「~ができる、~を与える」などの意味をもつ動詞であるが、英語にアフォーダンス(affordance)という名詞はない。アフォーダンスはギブソンの造語である。
 アフォーダンスは事物の物理的性質ではない。「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは知覚者の主観が構成するものでもない。それは環境の中に実在する、知覚者にとって価値ある情報である。



物理的性質でもなく、かといって主観でもない。私たちは「主観vs客観」という二項対立でものを考えるのになれてしまっていますから、そのどちらも否定されてしまうとイメージすることがなかなか難しい。

本書はそこいらをイメージしてもらうことが目的なわけですから、詳細なイメージを欲するならば本書を読んでもらうとして、ここでは僕の言葉で表現させてもらいます。

アフォーダンス理論のキモは、情報が時間を含んでいると(いう言い方はしていませんが)したことです。「形」というのは無時間であるのに対し、「動き」は時間がないことには成立しません。
時間という観点から見れば、主観も客観も、どちらの無時間です。無時間という前提でどちらが正しいかを探っても、情報の実体が有時間であるなら意味がない。アフォーダンス理論は無時間というものの限界を示したものだと考えます。

しかし、無時間がまったく意味がないのかというと、そうではない。上記引用に「価値」という言葉が出てきますが、この「価値」は無時間です。知覚者が価値ある情報をピックアップするということは、有時間から無時間をピックアップしているということになります。私たちの環境で生起する現象は有時間であり、ゆえに環境から常に入力されてくる情報も有時間です。それを無時間にすることによって私たちは知覚を行っている。

この有時間から無時間への変換は、人間の性質だろうと思います。環境は、別の言い方をすれば複雑系で非線形空間です。ですけれど、私たちの理解はどうしても線形へと単純化されたものでないと難しい。人間は有時間から無時間、非線形から線形への変換を無意識のうちに行っていると考えられます。

ただ、変換が人間だけのものなのかは疑問です。ギブソンはアフォーダンス理論は動物の認知理論だと考えていたようですが、だとするなら、有時間・無時間変換は動物の特徴だということになります。

また、僕は、この無意識の変換を「意志」だと捉えています。その理由は後ほど述べますが、なるほど、この意志は動物的ではあるのです。人間に固有の「意志」もありますが、それはもっと顕在的で意識的なものだと感じています。


さて、では、前半の「クライマックス」の話とアフォーダンス理論を結びつけたいと思います。
「クライマックス」の話を「クライマックス理論」と呼ぶことにすると、クライマックス理論とアフォーダンス理論は、アナロジーで語ることができると思う、つまり相似形だと思うのです。

アナロジーの軸は、無時間/有時間です。

言葉というのは無時間です。一方で、言葉によって紡がれるストーリーは有時間。物語を読むという行為は、無時間である言葉を時間のベルトコンベアの上に乗せて鑑賞していく行為です。

無時間→有時間という行為のなかで、言葉たちはその輪郭を失っていきます。有時間な言葉たちの集合は、たんなる言葉の集合以上の意味を持ち始めるようになる。言葉以上に意味がある言葉の集合の意味を「ゲシュタルト」と言います。

ストーリーをアフォーダンス理論に準えるなら、それは環境です。ストーリーに没入した体験を持ったことのある人なら、ストーリーが環境に相当するという考え方は、感覚的に理解出来ると思います。

言葉はアフォーダンス理論が否定した「形」に相当します。しかし、「形」としての言葉は時間のベルトコンペアのなかでゲシュタルトとなって「動き」になります。

だとすると、「クライマックス」は「不変項」に相当します。

私たちは絶え間なく変化する環境の中から常に「価値」を探索しています。ストーリーという環境の中で輪郭を失った言葉たちは、その意味が揺れ動いています。言葉たちの意味が確定するのは「クライマックス=不変項」が立ち上がってからです。「クライマックス」の出現によって、揺れ動いてた言葉たちは、一瞬にして秩序づけられ然るべき場所に配置されることになります。

リアルな環境においても、この秩序づけの作用は同じでしょう。「不定項」の出現によってその他の情報も、「不定項」の価値に沿って意味づけられることになる。そうやって私たちは環境を認識しています。

アフォーダンス理論とクライマックス理論の相違点も、もちろんあります。
アフォーダンス理論では、価値は予め定まっているとされますが、クライマックス理論では異なります。価値は知覚者が発見するものであり、後付けです。

その意味で、アフォーダンス理論は「ビフォー・アフォーダンス」だと言えます。クライマックスは「アフター・アフォーダンス」です。この違いがあります。

(あれ、この話はどこかで読んだ記憶があるぞ? 平田オリザさんだったかな?)

また「意志」の質も違います。アフォーダンス理論における意志は無意識で潜在的なものであったのに対し、クライマックス理論の意志は意識的・顕在的です。アフター/ビフォーと無意識的/意識的は相関関係にあると思われます。

しかし、最大の違いは、「価値」のあり方です。アフォーダンス理論における価値は主観が構成するものではないとされますが、クライマックス理論における価値は完璧に主観的です。完璧すぎて、共有するのが不可能なほどです。

ここを時間の観点でいうと、アフォーダンス的価値は無時間な客観にむいてアフォードしているのに対し、クライマックス的価値は同じく無時間ではあるが、主観の方に向かってアフォードしているということができると思います。

さらにもう一つ。
客観に向いてアフォードしている「意志」は、動物的です。ギブソンがアフォーダンス理論を動物の認知理論だと考えたのと合致します。対して、主観へとアフォードしている「意志」は人間的です。だとすると、クライマックス理論は人間の認知理論だということになります。


そう考えていくと、今度は、動物的「意志」と人間的「意志」は同じものか、別のものかという疑問が湧き上がってきますが、ここを考えるのはまた次の機会に譲ります。

最後に上掲書からの引用を。

 本書の「新しい認知の理論」という副題につられて読み進めてきた読者は、やや失望したかもしれない。たとえばこの本には、認知の理論には欠かせない「言語」の話がないと思われたろう。しかしアフォーダンス理論は「言語」にも応用可能である。これまでの認知理論は、人によって「話されること」を、こころが解釈する「記号」と考えてきた。言語を理解することは、知覚とは別のこととして扱われてきた。しかし「感覚・知覚」と「認知」をこのように分けてしまうことは「感覚主義」の悪い伝統である。発話を理解することは、記号を解読することではなく、知覚の問題である。
 (中略)
 もちろん環境から情報をえることと、声によるコミュニケーションから情報を得ることとは異なる。ただし、言語の研修者がすべきことは、ギブソンが視覚の領域でしたこと、つまり視覚にとって「環境」とはどのようなものであるのか、視覚が獲得する「不変項」がどのようなものであるのか、そして視覚のためには身体はどのようなシステムであるのか、ということを言語の領域で探求することであろう。言語のための「環境」、「不変項」、「知覚システム」などがどのようなものであるかが明らかにされれば、「エコロジカルな言語理論」が成立するだろう。それがどのようなものなのかはまだ見当もつかないが、もしその試みが成功すれば、感覚主義の視覚理論と生態学的視覚論がまったく異質であったように、現在の言語理論とは異質なことばの理論が誕生するだろう。



なんだか大袈裟な話になってしまいました...(^_^;)

『いなくなれ群青』

図書館でたまたま目に留まって、手に取ったライトノベル。



ライトノベルは、ほとんど読んだことがありません。
アニメでみた『涼宮ハルヒの憂鬱』が、これも図書館にあるのをみかけて読んでみたくらい。アニメとまったく同じ(というか、ラノベの方がげんさくなので、アニメの方が同じ)と思った以外は特に感想もなし。あと何か一つ読んだような記憶もあるけれど、思い出せません。

好んでは読まないライトノベルですが、この『いなくなれ群青』は、なかなか。“軽い小説”では決してないと思いました。ラノベらしい様式――現実にはありえない設定でボーイミーツガールのストーリーが展開される――は踏まえていますけど。


このラノベのテーマを一言で言うならば、「否定の否定」でしょうか。

主人公は七草某。名前は出てきません。
このラノベの登場人物でフルネーム出てくるのはただ一人。ヒロインだけ。あとは、主人公も含めて、苗字だけかもしくはニックネームしかでてこない。ヒロインは特別なんです。

主人公とヒロインの関係は、『ハルヒ』のキョンとハルヒの関係を彷彿とさせます。実は大好きなんだけど、迷惑な存在。ヒロインは行動力抜群だけど、人の気持ちがわからないから、迷惑なやつ。ただし、ハルヒのように陽性でありません。

そんなヒロインと主人公は、「捨てられた島」で再会します。ふたりは幼なじみなんだけど、一度、別れています。好きなんだけど、迷惑で付き合うのが大変だから一緒にいたくなかったヒロイン、と再会してしまう。

捨てられた島は、ラノベのお約束なんでしょう、不思議な島です。とっても都合のいい設定になっています。それがどんなものかはさておくとして――、あ、魔女が支配しているだけ、言っておきましょうか。

問題なのは、捨てられたと言うけれど、いったい何が誰に捨てられたのか、ということ。その謎を解くのがこの小説のテーマで、そこが「否定の否定」になる。

ネタばらししてしまいます。
最初の否定は「成長」のステップです。何らかの事情で、自身で自身の人格の一部を否定する。大人になるというのは、たいてい、そういうものですね。

そういう否定を魔女が見つけると、否定された人格の一部を捨てられた島へ連れてきてしまう。人格の一部は、島では一つの人格として振る舞う。また、一部を切り捨てた方の人格は島の外、すなわち現実社会で「立派に」暮らしています。そういう「お話」なわけです。

この物語のなかで活躍するのは捨てられた人格の方です。現実社会では都合が悪いと抑圧され、心の奥に押し込められた自分自身の一部。「無意識」として取り扱われ、「心の闇」だと見なされる部分が活躍する。心の表と裏がひっくり返っているわけです。

これはなかなかに考えられたプロットだと思います。

心の表と裏をひっくり返して、闇を表にしてしまう――といっても、そんな深刻な話にはなっていない。そこはやはり「ラノベ」ではあります。だけど、裏を表に出してくる方法論としては、ラノベ特有のありえない設定も含めて、ありなんじゃないか思えてしまいます。

裏と表が入れ替わるという設定から、ストーリーは切り離された一部の再統合へと流れていきます。この「流れ」は、裏と表を入れ替えるという「設定」から生じる「必然」なんですね。
なので、一部人格を捨てるという「否定」は、人格を再統合するという「否定の否定」にむかって流れていくことになります。

といったような内容が、地味な恋愛模様に乗っかって展開していくというのが、このライトノベルの作りです。

『いなくなれ群青』は、シリーズ化される予定の第一弾だそうです。続編も面白いかもしれません。

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』

チャーミングな爺さんがいるものです。


これは、ほんとうにおすすめです。
幸せな気分にしてもらえます。
ビル・カニンガムの幸せが伝染してくるからです。

僕がこの映画に興味をもったのは、コメント欄で紹介いただいたから。
「ファッションは現代人にとっては武装だ」
この言葉に興味を惹かれました。

確かにビル・カニンガムはこのような言葉を映画のなかで語っています。
だけど、僕が想像していた文脈とはまったく違っていました。

「ファッションに否定的な声もある。
 混乱を極め問題を抱えた社会で、ファッションが何の役に立つ? 自体は深刻だと。
 だた、要するにファッションは、ファッションは鎧なんだ。日々を生き抜くための。
 手放せば文明を捨てたのも同然だ。」

日々を生き抜くための鎧だというときの表情。
まさか、こんな柔らかい表情で“armor”と言葉が発声されるとは。
(予告動画 1'15" あたり)

ここには攻撃的な色合いは微塵もありません。
そもそもの言葉がもつイメージが見事にひっくり返されています。
とはいえ、“armor”という言葉を選んだ理由は、何かあるはず。

「最高のファッションはストリートにある」

と、ビル・カニンガムは言います。
このセリフはキャッチーで、動画にも取り上げられていますが、その映画のなかではその理由も語られています。
といって、「蕩々とした説明」があるわけではないんですけどね。

「誰にもセンスはある。ただ勇気がないだけ」

「鎧(armor)」というのは、言い換えれば「ペルソナ(仮面)」でしょうか。
自分という仮面です。
偽りのない自分をいかに演じることができるか。
文明社会では、それはファッションにこそ現われる。
――と、ビル・カニンガムは言ってはいませんが、きっとそんな風に考えているんだろうと思います。

お金にとらわれることなく、〈生きる〉ことが仕事になっている。
課題を分離した生き方の、見事な標本です。

いきなり出てきましたが、「課題の分離」というのはアドラーです。

  

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』は何度も愉しめる映画だと思いますが、愉しむだけではなくて、ここから「人生の意味」みたいなもの(あくまで“みたいなもの”)を引き出そうと思うなら、上の二冊は最高の参考書だと思います。

いや、逆かな? 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の参考映画が『ビル・カニンガム&ニューヨーク』。

「勇気」という言葉は、かなり重たい。
上の二冊は勇気の大切さを蕩々と説いてくれます。
その理路が理解すればするほど、勇気を持つということは、難しくて大変なことだと感じてしまいます。

難しくて大変なのは間違いではないでしょうけど、そこに無意識のうちに付随してくるイメージが問題です。
重たい。

ビル・カニンガムが示してくれているのは、勇気です。
それは、現代文明においては、ファッションという形でストリートに現れている。
彼は魅せられて、ただただ追いかけているだけ。
この生き方もまた勇気です。
自分に必要なものだけしか必要としない。
「禁欲」とか「節制」とかいったような“重たいもの”ではない。
魅せられたものを追いかけていくと、ごく当たり前にそうなったに過ぎない。

とても軽やかな勇気。
この勇気が、映画を視ている者を幸せな気分にしてくれます。

断わっておきますが、あくまで幸せな“気分”です。
幸せになるには勇気が必要ですが、さすがにそこは自身で調達するしかありません。


もっとも、ビル・カニンガムはこのようにも言っています。

「誠実に働くだけ。それがNYではほぼ不可能だ。
 正直でいることは、風車に挑むドン・キホーテのようなものだ」

彼はファッションを武器にカテゴライズされる「鎧」と言った理由は、ここにあるのかもしれません。


YouTubeで全編視聴することができるようですね。300円から。
 僕はネットでレンタルしましたけど。送料別で80円なり。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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