愚慫空論

〈複雑さ〉を制御するもの

別の文章を書いていたんだけど、気分転換にと思って『内田樹の研究室』を訪問してみたら、「おや、おや、それはちがうんじゃないかなぁ~」という感じになってしまいました。

『日本はこれからどこへ行くのか』(内田樹の研究室)

これ、3月13日に投稿された記事なんですね。
ここのところ、内田さんの文章は毎週という感じで接していますけど、ブログの方は読みに来ていませんでした。
まあ、どうでもいいか。

また、ここのところ僕自身が批判モードになっているのも気にかかりますが、それも、まあ、いいか。


一読して思ったのは、理解がスタティックであること。内田さんはダイナミックな理解をされる方だと思っているんですけど、そうでないところもあるんだなぁ、と。

「ウチだの論文は、話は面白いが論証は雑だ」と批判されてきたというのは、ダイナミックであることの証です。論証を緻密にするとなると、どうしても話の展開はスタティックにならざるをえません。ダイナミックかつ緻密にというのは不可能ではないんでしょうけれど、不可能性に挑むようなものでしょう。挑戦しがいはあるでしょうが。


だれかがそうしようと決めたわけでもないのに、集団的叡智が発動して、相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に「ブレーキを踏む」という選択を始めた。つまり、世界史的スケールで観ると世界は「縮小」のプロセスに入り、「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し続ける世界」というイメージは終わりに近づいている――

以上のように内田さんは言いますが、概ね同意です。「概ね」というのは、意見が異なるところもあるという含みですね。

身体が壊れ始めたことに気がついて、「ブレーキを踏む」という選択肢を選ぶ人は確かに増えています。ですけれど、それはあくまで個別的です。身体的なんだから原理からして個別的です。

一方で、イノベーションというのは、そもそもからして全体的。内田さんがいうところの「飼い慣らされたイノベーション」は、ちまちまとニッチを埋めるようなものですが、大手新聞の発行数がゼロへとカウントダウンが始まってしまうような破壊的イノベーションは根底的・全体的です。なかでもグローバル資本主義は根源的に破壊的なイノベーションで、個別的な「ブレーキ」で止まるかどうか、甚だ心許ない。

僕は「個別的ブレーキ」では止まらないと思っています。人間は根源的に社会的な生き物だから。

もっとも、個別的ではない、いいかえれば身体的ではない「社会的ブレーキ」も存在します。内田さんが指摘するイスラーム共同体がそれです。イスラーム共同体がグローバル資本主義に立ちふさがった事実をもって、内田さんは「ブレーキ」だと認定しています。ですけど、僕にはそうは思えないんです。互いの存在が「アクセル」になる危険性が高いと危惧します。

内田さんは「地球を覆い尽くすことができないグローバリズム」というのは形容矛盾である、と指摘しています。しかし、この理解は甚だスタティックです。ダイナミックというのは、そういう単純な論理に落とし込めるものではありません。

グローバル資本主義というのは、それ自体がメカニカルな意志を持っているかのように運動する自律的【システム】です。この【システム】のキモは、グローバルになっていこうとする「志向性」です。最終的にグローバルが完成するか否かは問題ではありません。
いえ、むしろ、グローバルが完成しない方がグローバル資本主義にとっては都合がいい。グローバルが完成しない限り「グローバル志向」は働き続け、メカニカルな意志は終わることがないからです。

「地球上を覆う」という地理的・平面的理解でいくなら、グローバル資本主義はイスラーム共同体によって拡張を阻まれた、ということはできるでしょう。だけど、内田さん自身が指摘しているとおり、グローバル資本主義は、人間の内側へ内面化していく性質も持っています。
だからこそ、あちこちで「身体的個別的ブレーキ」が作動するんです。人間への内面化が度を超したためでしょう。

ですが、だから歯止めがかかるだろう、と楽観はできない。ことに日本においては。

内田さんも指摘していることですが、日本は世界でも希なほど人的資源に恵まれた国です。ここでいう人的資源というのは、グローバル資本主義の基準で言っているのではありません。共同体を営むためのリソースという意味です。複雑な社会性です。

グローバル資本主義は人間共同体の運営という複雑な運動を、単純でメカニカルな運動に置き換えていきます。複雑さから単純さへと置き換えていく、その触媒がイノベーションです。

内田さんはおそらくここのところが理解できていない。だから、

人間が集団的に生きるために安定的に管理運営されていなければならない制度は複雑系に委ねてはならならない


なんて言ってしまう。ここは逆です。安定的に管理運営されなければならない制度は複雑系に委ねなければならないんです。

これは実に単純な話です。人間そのものが複雑系だからです。内田さんが常々発する「身体感覚」というのは、複雑系の発動ことです。その内田さんが複雑系に委ねてはならないと主張するのは、複雑系というものを理解できていないと考えるほかありません。

複雑系が制御できなくなるのは、単純に、つまりは線形的に制御しようとするときです。複雑系は非線形ですから、単純な計算では追いつかないから、線形的に制御しようとすると、わずかな入力が大きな誤差となって出力されてしまう。だから、複雑系は複雑系で制御するしかない。身体感覚で制御するしかないんです。

内田さんほど身体感覚と言語感覚が近接してる方がこのように基礎的なところで誤りを犯すのは、これは推測ではありますが、内田さん自身がその内面を【単純さ】に犯された経験がないからとしか考えれません。【単純さ】に無自覚に犯されている人間は内田さんの身体感覚に沿った話を理解することができませんが、逆に、【単純さ】に犯された経験がないと、その恐ろしさを身体感覚として識ることができないのかもしれません。【単純さ】の恐ろしさを識っていれば、こんな間違いをするはずがないのです。

グローバル資本主義は「停止」局面を迎えた。何度も言うが、私はシステムの理非について述べているのではない。停まるべきときには停まった方がいい、と言っているだけである。「停めろというなら対案を出せ」と言われても、私にはそんなものはない。


この言は、その経験の欠落を裏付けているように感じます。

グローバル資本主義はメカニカルな意志を自律的に持っているので、止めようと思っても止まりません。グローバル資本主義の真の意味での「グローバル」は、その【システム】の中で生きている者すべてがステークホルダーだということです。カネさえ持っていれば、その世界では生き延びることが出来る。グローバリズムはローカルなアメリカニズムの全域化などではありません。

カネの分配の不公正はあるでしょう。剥き出しの資本主義に沿えば不公正になってしまうのは、すでに知られた事実です。ピケティが資本主義の傾向について改めて指摘したのは、記憶に新しいところです。自然環境との折り合いを慮外にするのであれば、剥き出し資本主義の修正方法は幾つか提案され、実行に移されてきました。ケインズのマクロ経済学もそうだし、シカゴ学派の新自由主義もそうです。

レーガミノックスやサッチャリズム、新しいところはアベノミクス。これらは、貨幣でカウントされる成長を取るか、可へ分配の平等性を取るかという、国家権力による資本主義ドライブの問題であって、グローバル資本主義の枠内の話です。

それらが不調に終わっているのは、内田さんがいうところの「(限定的)ステークホルダー」たちの不誠実ゆえです。彼らが誠実でさえあれば、修正資本主義はそこそこうまく機能するはずです。資本が国境を越えてグローバルに移動するというなら、国家間でルールを定めて課税する仕組みを作ればいいだけのことです。資本の移動に課税しようというトービン税というアイディアだってあります。これが実現すれば、社会保障の財源問題など一気に解決すると言われています。

それが実現しないのは不誠実さの問題。民主主義の問題です。
資本主義と民主主義は深い関係にありますが、所詮は人間社会の仕組みだと考えるなら、ルールが敷けないわけはないんです。

ただ、現実はというと、グローバルなルール設定のハードルは非常に高いように思われます。なぜか。身体を疎外するほどに速まったグローバル資本主義の成長速度とおそらく関係があるでしょう。民主主義の不誠実さとも深いところで交わっているはずです。

このあたりは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』が焦点を当てているようですが、僕はまだ読むことができていません。内田さんもまだなのかも知れません。

それに、残念ながら、人間社会とだけ折り合いを付ければいいという局面では、もうすでになくなっています。グローバル資本主義は自然環境を冒しています。グローバル資本主義のメカニカルな意志に委ねていては、私たちの生存基盤そのものが取り返しがつかないほど棄損されてしまう蓋然性が高い。

ということは、私たちはグローバル資本主義のステークホルダーから降りなければならないということです。限定的ステークホルダーに惑わされず、自らもステークホルダーだということを自覚する必要があるということです。

とはいうものの、私たちは社会の中で生き延びていかなければなりません。ここにオルタナティブへの要請があります。

しかし、この要請は、自らもステークホルダーであると自覚した者にしか感知できません。自身を(限定的)ステークホルダーに疎外された者と定義しているうちは、その要請に気がつくことができません。これが「意志」あるいは「天命」の問題、あるいは「CALLING」ということですが、これはまた内田さんが話題にしていることでもあります。

グローバル資本主義はいつどういう仕方で終わるのか、社会はどのようなプロセスを辿って定常的なかたちに移行するのか、脱市場・脱貨幣というオルタナティブな経済活動とはどのようなものか、といった緊急性の高い問いに今の経済記事は一言も答えていない。


とメディアを批判する一方で、「対案はない」と言い放つようでは、オルタナティブへの要請を感知できていないと思わざるを得ません。

内田樹さんもまた、グローバル資本主義のなかの無自覚なステークホルダーのようです。

『バケモノの子』



楽しませてもらいました。
気構えずに観られるのが、この手の映画のいいところ。アニメは好きだし (^o^)

ここのところ映画をいくつか観て、久しぶりにアニメを観て感じんだけど、その情報量の少なさ。
やっぱり実写の方が圧倒的に情報量が多いですね。
もちろん、情報量の多寡と映画の良し悪しが比例するわけではない。
情報量が少なければ少ないなりにやり方はあって。

発想の意外さ、ですよね。
発想が意外で、表現に説得力があれば、面白くなる。
これは映画だけに限らないことだけど。

『バケモノの子』はその両方を兼ねて備えていると思いました。
だけど、欲を言えば、説得力がありすぎるというか。

細田守監督の作品は前作の『おおかみこどもの雨と雪』も観ました
『おおかみこども』とくらべると『バケモノ』は、説得力が高くなっている。完成度が高くなっていると思います。
だから、楽しめる。
だけど、その分、考えさせられる部分が少ない――という気がします。


人間は心に【闇】を抱える。バケモノにはそれがない。
我田引水ですけど、僕は、バケモノとはヒトなんだと思うんです。
ヒトが社会に適応して人間になるんだけど、その過程で【闇】を抱える。

バケモノの熊徹(くまてつ)と人間の九太(きゅうた)の師弟コンビ。
そのライバルとして、猪王山(いおうぜん)と一郎彦(いちろうひこ)が対比する。
九太は人間として物語に登場するけど、そして一郎彦も人間なんだけど、そのことはストーリーの終盤で明かされる。

面白いのは、熊徹と猪王山のキャラクターの対比です。
どちらもバケモノなんだけど、熊徹はガキで、猪王山は立派なオトナ。
オトナに育てられた人間の子の一郎彦は、立派に(?)人間になって【闇】を育ててしまう。
ガキと一緒に成長した九太は、逆に、人間社会の中で芽生えた【闇】を育てることなく成長する。

一匹と一人のガキが互いに高めあう描写には、なんだか、安心させられるものがあります。

とはいえ、一度抱えた九太の【闇】は、消えてなくなったわけではない。
何かのきっかけがあれば大きく育とうとする。

そうした【闇】に呑まれないためには、【闇】を相対化する必要があります。
【闇】の相対化はオトナの仕事なんだけれど、『バケモノ』のストーリーでその役を果たすのは、楓という女子高生。
楓は、オトナの社会に適応するようにとオトナから求められ、オトナの期待に沿うように頑張って【闇】を抱えるんだけど、同時に【闇】に気がついて【闇】と闘ってもいる。


【闇】とメタファには共感を呼ぶもの、すなわち説得力があります。
誰しもそういうものを少なからず抱えていますからね。
【闇】が破壊衝動となってすべてのものをぶち壊してしまおうとするのも、体感的に理解ができる。

【闇】を発動させてしまった一郎彦と勝負をしなければならなくなった九太が、一郎彦に勝つために自らも【闇】を発動させて相手を呑み込もうとします。
これはまさに戦争。
戦争に向かおうとする男性の心と、そこに寄り添いつつ抗う女性の心と。
よく表現できていると思います。

でも、熊鉄が神になって九太の「心の剣」になるというメタファはよくわかりません。
ここのわからなさは、『ムスカ大統領のスピーチ』が投げかける問いへの答えのなさと、たぶん同じものです。
だけど『バケモノの子』では、ここをストーリーの説得力で丸めてしまっています。
エンターテイメントなんだから、それでいいんだけど。

でも、少し考えてみると、ここの丸め方はちょっとズルい。
熊鉄と九太の成長物語の最初に「心の剣」というキーワードを投げておいて、その伏線の回収をもって説得力としているだけだから。実は中身は何にもない。
ここのところは『おおかみこども』のときのように、説得力は低くても考えさせられる展開になれば、と思わなくありません。
とはいえ、戦争が出てきてしまうと決着を付けないわけにいかないし。
つくづく戦争というものは厄介です。

『世界史の極意』『資本主義の極意』


このところ、佐藤優さんの著作を興味深く読んでいます。今回はこの2冊。これらはセットで読まれるのがいいと思います。

  


佐藤優さんの考え方は、当人も何度も言及していますけど、基礎は神学にあります。
まず、現象を徹底的に相対的に捉える。そうすることで、もろもろの現象に通底する内在的論理を読み取っていく。

この内在的論理が“極意”というやつです。

相対的に捉えることには、自分を突き放さなければなりません。それは「神」というものを捉えようとする努力によって培われるようです。ヨーロッパでは、神学部のない大学は総合大学(University)だと見なされないということのようですが、その理由は、彼の地がキリスト教の文化の土地だからというだけではないんですね。知識をUniverseする要が神学であって、その要がたまたまというか、文化的な背景からキリスト教神学になるということなんでしょう。

なので、相対的に捉えること自体の下地は、別にキリスト教でなくてもいい。

面白いのはその先です。
現象を相対化して内在的論理を読み解くと、そこに対峙している読み手の意志も浮き彫りになってくるんです。佐藤優さんは、そういったところに自覚的です。

 さて、本書で世界史を通じてアナロジー的思考の訓練をすることには、以上の実利的目的とあわせて、別の狙いもあります。
 それは「戦争を阻止すること」です。

『世界史の極意』


実利的目的というのは、ぴじねすパーソンとしてのセンスやプレゼン能力を磨くといった類いのことを指しています。けど、これは言い訳というか釣り餌であって、佐藤さんの意志は「戦争を阻止すること」にあると感じられます。


注意して頂きたいのは、「戦争を阻止する」というのは、「戦争はダメ」というのとは根本的に異なるということです。

「戦争はダメ」は、個人的な願望です。それはとても大切な願望ですけど、あくまで個人的なものでしかありません。
一方で「戦争を阻止する」という意志は、近代以降の世界史の内在的論理が「国民国家は戦争をする」ということに対峙するところから出てくるものなんです。

国民国家や資本主義経済というのは【システム】です。「システム」は「系」という言い方もしますが、もっと具体的にいうと、非平衡開放系です。生命活動も非平衡開放系です。
福岡伸一さんが“動的平衡”という言葉を流行させましたけど、「系」という言葉に動的平衡の意が内包されています。動的平衡をなすある一定の塊(?)が「系」です。その「系」が非平衡で解放されているというのは、自己完結していないということ。外部から物質なりエネルギーを取り入れることで、「系」の動的平衡を自律的に維持している。

人間の作った機械なども、非平衡で外部に解放されていますけど、「系」ではない。自律的に活動を維持しているわけでありませんから。機械にはかならず起動スイッチがありますが、そんなものが存在するということが自律的ではないということです。動的平衡な「系」には起動スイッチなんてあり得ません。

『世界史の極意』や『資本主義の極意』ではその成立過程が説明されますが、「起動スイッチはここ」という指摘は為されていません。そんなことは不可能だから。あ、ここでいう世界史とは、国民国家が成立した近代以降に限定されています。

起動スイッチがないということは、境目がないということでもあります。世界史も経済も、人類が誕生して以来すっと継続している活動です。だけど、それらはずっと同じではなくて、近代や資本主義という名辞でもって他と区分される特徴がある。では、なぜ、そのような変化が起こったかというと、人間の内在的論理が変化したからです。

内在的論理という言葉を別の言葉言い換えれば、“一般意志”というふうに言えるでしょう。その時代の社会を構成している人間の多くに、無意識的に共有されている価値観といってもいい。

社会という「系」は自律的に運動をするけれども、しかし、その構成要素は人間です。ゆえに、大部分の人間に無意識的に内在している価値観が、社会を駆動することになる。そして、「系」は、それが生命活動であろうとなかろうと、その「系」の振る舞いを熟知する者にとっては、あたかも意志があるかのごとく感じられます。自律的に運動をしているのだから、意志があると感じるのは不思議なことではないはずです。

ということはつまり、意志は〈複雑さ〉とは関わりがないということです。【単純な】ものであっても、自律的運動でありさえすれば意志があるように感じられるということです。そういうふうにヒトはできている。

人間は本来複雑なものです。だからその意志のありようも、本来複雑です。複雑な意志を僕は《魂》と読んでいるわけですが、では、国民国家や資本主義経済システムに《魂》はあるのかというと、そうではない。というのは、これら【システム】の内在的論理は単純だから。単純だから多くの人に共有され論理になる。複雑であるということは非線形であるということですが、論理というものは線形です。


非線形が線形へと収斂する実例を提示してみましょう。

『資本主義の極意』では、資本主義に内在する論理を浮き彫りにするのにマルクス経済学を用いています。注意が必要なのは、イデオロギーを含んだマルクス主義経済学ではない、ということ。具体的には宇野弘蔵さんの経済学です。

現在、経済学といえば主流は近代経済学ですが、これは資本主義に内在する論理を所与のものとして体系を組み立てています。なので、内在的論理を明らかにするということは原理的にできない。それをやってしまうと近代経済学という論理体系そのものが崩壊します。

カネが崇拝の対象になる
 ひとたび、貨幣のような一般的等価物が生まれると、貨幣と商品の立場は不平等になります。つまりカネがあれば商品を買えるけど、商品があるからといってカネになるかどうかはわからない。
 マルクスはシェイクスピアの『夏の夜の夢』から引いて、商品とカネの関係を次のようにたとえています。
「まことの恋がおだやかに実を結んだだめしはない」
 つまり商品はお金を愛する。商品を持っている人は、それをお金に換えたいわけです。しかし、必ずしも売れるとは限りません。
 一方、お金があれば、必ず商品を買えます。恋愛でいえば片思いの状態です。マルクスは、この非対称性を「商品体から金体への飛躍は、(中略)商品の生命がけの飛躍である」(『資本論』)と表現しました。

『資本主義の極意』


下線は僕が施しました。その理由は、これらの言葉が誤用されていると考えるからです。

商品はお金になろうとする、だから愛していると表現する。適切と思えなくはありません。しかし、商品がお金になろうとすることを「堕落しようとする」と表現しても、これもまた適切に思えます。
「堕落」と「愛」は違います。同様の作用でありながらベクトルは正反対です。マルクスは、同様の作用ということで「愛」を表現として採用しましたが、僕はこれは誤りだと考えます。それは〈複雑さ〉という概念を導入してみればわかります。

商品群は多様です。つまり複雑です。交換は経済の基本ですが、複雑な交換より単純な交換の方が効率的なのは言うまでもない。交換が効率的だと要するコスト、エネルギーが少なくて済む。効率的であることは生存に有利に働きます。
だから、貨幣という一般的等価物が一旦発明されると支持されることになる。けれど、それは愛ではない。効率性と愛は、相容れないものです。効率性は【単純さ】への志向であるのに対し、愛は〈複雑さ〉を志向するものです。

同様に、“生命懸けの飛躍”というのも違和感を持つ。生存に有利という意味で生命がかかっている、というのなら理解できます。マルクスの内在的論理はおそらくそうなのでしょう。だからこそ、マルクスは唯物論なんだと思います。【単純さ】を志向している。

ですけど、にも関わらず『資本論』などは【単純さ】が〈複雑さ〉を疎外する機序を示しました。このあたりがマルクスの凄いところだと思います。

引用を続けます。

 ここで考えないといけないのは、お金というのは人間と人間の社会的関係から出てくるものであるということです。先述したように、一般的等価物は、商品の交換から生まれる。商品の交換は人間と人間の社会的関係ですから、お金の根っこには社会的関係があるということです。
 にもかかわらず、お金と商品は非対称であり、お金を持っている方が、欲望を満たすことができる。そうすると、お金自体に価値があるように思えて、崇拝の対象になる。これが物神信仰です。お金を信仰する宗教になるわけです。
 カネに対する信仰は、意識的に変えられるようなものではありません。お金は実体として力を持っているからです。

『資本主義の極意』


僕はカネに対する信仰を意識的に変えることができないとは思いません。それができないと思うことは、怯懦であり怠慢だと思います。それは佐藤優さん自身がそこへ安住したいのだと捉えます。つまり、その部分に関しては自身を突き放すことができていないのです。

僕は、宗教には〈宗教〉と書くべきものと【宗教】とするべきものの二種類があると考えています。物神信仰はあきらかに【宗教】です。【単純さ】を志向しています。

そもそもの宗教は〈宗教〉です。〈複雑さ〉の極意が〈宗教〉なんです。唯一神を全知全能だとするのは、複雑すぎて理解が及ばないからです。理解が及ばないことが現に存在すると了解し、了解することで意志を感じる。そこから創造神が創造されます。複雑で理解できないなら、創造神自体の存在も把握できない。できないけれど、意志は感じられるから信仰が生まれる。〈複雑さ〉を志向する生命活動の延長です。
イエスがなぜ、「人はパンのみによって生きるに非ず」といったのか。これは〈複雑さ〉を志向している言葉です。

神学を学んだということは〈宗教〉を学んだということのはずです。その成果として、現象を徹底的に相対化する見識を身につけた。だけど、自身の相対化は不完全です。「カネに対する信仰は意識的に変えられない」としているのがその証拠です。〈宗教〉とは正反対の【単純さ】に堕ちている。【単純】になって、内在的論理になっています。

しかしそれでも、物神信仰だと認識しているのは、まだマシです。この信仰は【信仰】ですが、それでも【信仰】だと認識しているということは、まだ非線形であると捉えているということです。これが近代経済学になると【信仰】すら抜け落ちる。そうすることで、非線形だったものが線形なものにさらに【単純化】されます。近代経済学によって把握される経済は、もはや平衡であって閉鎖されています。だから、貨幣数量説といったものが支持される。

貨幣数量説への批判は『資本主義の極意』にも登場します。貨幣数量説への支持から為される施策が金融緩和、すなわちFRBのQEやらアベノミクスですが、現象として狙いどうりに機能していないにも関わらず、都合のよいところばかりを捉えて都合の良いように解釈し、成功だと喧伝する。反知性主義というやつです。

反知性主義な人は決して善意がないわけではありません。むしろ十二分に善意がある。善意が余って自身を突き放すことができなくなっているから、知性を自身の都合のよいようにしか使役することができなくなってしまう。善意があることが、知性を都合よく使うことの免罪符になっています。だから、怯懦であり怠慢です。

反知性主義との絡みで、佐藤さんはこのように述べています。

ヘイトスピーとの背景
 ・・・
 現代がどのような時代であるかを完璧に説明することはできません。そこで、過去の歴史的な状況との類比を考えることによって、現代を理解するという作業が必要になるのです。
 この作業は、現在を理解するための「大きな物語」をつくることだと言い換えることができるでしょう。
 「大きな物語」とは、社会全体で共有できるような価値や思想の体系のこと。・・・
 (中略)
 人間は本質的に物語を好みます。ですから、知識人が「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙をグロテスクな物語が埋めてしまうのです。

『世界史の極意』


このグロテスクな物語の典型的な例が、排外的なヘイトスピーチというわけです。知識人の役割は「大きな物語」を作ることだとも言っています。

しかし、その一方で佐藤さんは次のように言います。

 どれだけ閉塞状況に陥っているとはいえ、序章で述べたように、予見される未来に資本主義に変わる新たなシステムが到来することは考えられない。私たちは、死ぬまで資本主義とつきあっていかなければなりません。

『資本主義の極意』


もはや、資本主義のオルタナティブとなる「大きな物語」はない、と言っているんですね。

 映画の寅さんの名文句に、「労働者諸君! 稼ぐに追いつく貧乏なし」というのがある。私はこの言葉が気に入っており、あちこちでよく引用します。というのもこの文句は巧まずして、現下資本主義社会での生き方の真実をついているからです。

『資本主義の極意』


僕には、この言いぐさは反知性的に感じられてしまいます。佐藤さんの都合に合わせて寅さんの文句を引っ張り出してきたように思うからです。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」という文句の基盤にあるのは、学問的に言えば石田梅岩の石門心学でしょう。「分を弁える」というのがその極意ですが、それが日本人の血肉になっていたからこそ(←過去形です)、マルクス主義イデオロギーのスローガンをパロって笑いに変えるということができた。

石田梅岩は江戸時代の学者です。ということは、江戸時代に成立した内在的論理が昭和の時代まで引き継がれていたというがあった。「稼ぐに追いつく貧乏なし」というセリフは、前時代の内在的論理の上に出現したものだということです。しかし、佐藤さんが分析して見せたのは、そうした前時代的内在論理が資本主義によって駆逐されていったということ。ということは、もはや「稼ぐに追いつく貧乏なし」というセリフは時代にそぐわないものになっているということです。

前時代の駆逐されたものをもってそれが現下の時代を生き方の真実だというようなことは、知識人の態度としては認められない。僕は認めるつもりはありません。ネタをベタにすることが知識人の態度だとは思えません。

とはいえ、佐藤さんが誠実であり善意で寅さんのセリフを提示しているということには、何の疑いも抱いていないし、大いに認めるところです。だけれども、知識人だと自負するのであるなら、それでは善意が足りない。怠慢だし、その奥には自身を完全に突き放すことを阻む怯懦があると見るわけです。

そして、その怠慢と怯懦とが「大きな物語」のオルタナティブを創造することから、佐藤さん自身を疎外しているのだと思います。

社会の残酷さが生まれるところ


〈世界〉とはあらゆる全体。
〈社会〉とは、コミュニケーション可能なものの全体。

――というのは、宮台さんの語法・定義です。宮台さんが誰かの定義を引用したのかもしれませんが、それはどうでもいいことで、僕はこの定義は適切だと思っています。ただ“〈 〉”の用法が異なります。

“〈 〉”やら“【 】”やら、おまけに最近は“《 》”まで使い出すようになって、自分でも煩わしいと思っています。
思っているけど使うのには理由があります。
その理由を最近まで言葉にできずにずっと待ってきたのですが、やっと到来してくれました。
感情なんです。これらの括弧は感情を表現しているつもりです。

もとより言葉は感情的なものです。
それをわざわざ強調して表現しようとするのは、言葉を客観的に扱おうとする潮流に反発があるからです。
感情的に言葉を使うこと容認しつつ、感情的な言葉を〈私〉から突き放して捉えたい。
煩わしい括弧たちは、その現れです。


『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』という本を読みました。



「社会」は残酷だ、と思いました。


一昨日、熊本で大きな地震があったようです。
意識的にニュースをスルーしているので、どれほどの被害があったのかは知りません。
また、多くの人が被害に遭われたことだと思います。

こうした災害に遭うと、「世界」は残酷だと思ってしまうものです。
傍観者がそう思うのだから、被災者の中にそのように思う人は大勢いるでしょう。
けど、そう思わない人も確実にいます。

「世界」のデタラメさ、気まぐれに気がついていないわけではない。
そういうものだと受け止め、自身もその一部だという確信がどこかにある。
ここには透明な感情が働いていて、そうなると、世界は〈世界〉になります。


「社会」の残酷さは、気まぐれさが起こす〈世界〉のそれとは別の作用の仕方をします。
その機序はシステマチックで、なおかつ隠蔽されています。

いえ、そうではない。隠蔽されているんではないんです。
僕はこれまで隠蔽されていると考えてきました。
でも、そうではない。隠蔽しているんです。
隠蔽の主体はシステムではなく、私たち自身です。


『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』が伝えるメッセージは、とても至極当然で、しかもとても善良なものです。。こうしたメッセージに惹かれることも、これまたとても善良なこと。

しかし、難しい問題を突きつけるメッセージでもあります。
【強欲】なシステムといかに向き合うか。
向き合わなければならないと、世界で最も貧しい大統領であるいうムサカさんは伝えますが、どのように向き合えばいいのかは伝えてくれません。

僕はこの本を買って読んだわけではありません。とあるところでみせていただく機会を得た。だから値段は読んだ時点では知りませんでした。知る必要もなかったのですが、興味がありした。貧しい大統領のメッセージを入手するための対価はいくらか?

1728円也。

高いとは思いません。正当な価格なんだろうと思います。
けど、違和感はあります。
この本を発行した人たちが善意で動き、努力した結果の数字だろうと思うので、価格そのものに批判はありません。

違和感のもとは、「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という言葉から受け取るメッセージと「1728円」という価格から受け取るメッセージのちぐはぐさ。貧しい人が、貧しい大統領のメッセージを入手したいと思ったとき、「1728円」というのは、かなり高い壁になるだろうということは容易に想像がつきます。

もっとも、メッセージを受け取る手段は本の購入だけではありません。現に僕は買ってないし。買った人の善意のおかげでその機会を得た。幸運というものです。

では、善意があればいいのか?
幸運が期待できるから、それでいいのか?

「社会」が残酷だと思ったのは、そういった善意や幸運が【システム】の冷たさを隠蔽してしまうことに対して、というのがひとつ。

さらには、善意が【システム】を駆動する活動源になっているということ。
システムの活動源とされた善意は消費されてしまって、結果として【システム】の維持に貢献してしまっていること。

善意や希望が贄になっているなんて、『まどか☆マギカ』を思い起こします。
そういう『まどマギ』もまた、贄になってしまっているんですけど。

こうした【システム】は人間が作ったものです。だから、人間が変えることができる。はず。
しかし、冷静に眺めてみると、【システム】を変えているのは悪意です。
悪意にもむきだしのものとそうでないものとがあって、剥き出しのものは破壊、善意を装ったものは改悪と、現れ方が異なるということはあります。
結果としてみるならば、善意は【システム】を改良することができていない、といわざるを得ないのではないか。

なぜ、こうなるのか。
鍵は感情にあると思います。

「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という言葉には、感情へのフックが潜んでいます。
そのフックには善意という“餌”が付けられている。
善意を消費したものはフックに引っかかるのだけれど、なぜかそれには気がつかない。
このフックには痛みが伴わない。
それほど善意は美味しい。

このフックには「返し」がついています。釣り針と同じです。
フックが引っかかっていても痛みはなくても、引き抜こうとすると痛みが生じる。
痛みを感じ、もしくは痛みを感じそうな気配を感じて、人間はそのフックを引き抜くことを躊躇する。

このフックは「理解」なんです。
ここはもう少し探ってみなければならないことですが、理解と善意には深い関係があると感じます。
理解は単純に善だと思っていたが、よくよく考えてみると、そこには「返し」がついていた。

では、この“返し”とは何なのか?
おそらくは筋肉痛です。あるいは知恵熱か。
筋肉の発達は、筋繊維と破断と再生の過程を経て成されます。筋肉痛は破断のときにではなく、再生の時に起こる。いうなれば“産みの苦しみ”。
生命はそんなふうにできているとしか言いようがないものです。





以前、『触媒』と題してこの動画をヒントに文章を書いたことがありました。

ここいう「触媒」とは、言葉のことです。
生命というプレートに言葉という触媒を蒔いてみると、きれいな幾何学模様が浮き上がります。
この幾何学模様が「理解」です。

「理解」に“返し”がついているということは、プレートの周波数が上がって模様が遷移するときに痛みが生じる、ということになります。生命反応のアナロジーとしては、とてもよく出来ていると思います。

この動画は、生命活動の内でもヒトの精神活動に特に似ています。とはいえ、表し切れないところもある。
「入れ子構造」です。
触媒となる言葉自体もプレート模様なんです。
全体の理解が変われば、言葉の理解も連動して変わる。


社会の残酷さに話を戻します。

人間の悪意こそが【システム】を変え、善意は【システム】の贄にしかならない。
これが社会の残酷さの正体です。

では、そんな【システム】を生みだす人間は性悪なのか。
そのように解釈することも可能ですが、僕はそちらに立ちません。
その理由と言葉に三つの括弧をつける理由は同じです。同じ視座から眺めると性善になります。
その視座は〈私〉です。

〈私〉から眺めたとき、人間の性善はデフォルトです。
デフォルトだからこそ善意という“餌”に食らいついてしまう。
善意が好物だということは、単純に性善だということです。

【システム】は間違いなく人間が生みだしたものですが、人間とは別の原理で作動してます。
コンピュータは人間が生みだしたシステムですが、作動原理は違う。能力が向上したコンピュータは、もはや人間にとってはブラックボックスになっており、コンピュータがその高度な計算能力をもってはじき出す結果は、もはや魔術と変わらない
マーケットメカニズムとやらも、それと同じです。

【システム】の動作を鑑みつつ「【システム】を作り出した者」という視座に立てば、人間は性悪という結論が出てきます。
この視座は〈世界〉の外側に超越した創造神がいると想定する一神教と同じ構造です。すると、全知全能で完全に善なる存在であるはずの神が創造した〈世界〉がなぜ悪に満ちているのかという疑念が生じます。
この疑念は解決不能です。
解決不能ということは、問いと視座とがマッチングしていないということです。

〈私〉という視座に立ち、人間は性善であると考えれば【システム】が合理的に悪を働くことになってしまった理由が見えてきます。
全力で〈生きて〉いない。
善意の怠慢。
【消費】は、善意の怠慢です。

【システム】に身を委ね、善意を怠慢に貪っている隙に、合理という生命の作動原理とは異なったものが入り込む。
これが悪で、社会の残酷さを生みだします。

《身体感覚》〈体感〉


ようやく《身体感覚》と〈体感〉です。

のっけから断りをいれるのも何なのですが、〈体感〉という言葉はあまり適切ではないかもしれません。ここまでの話の流れからすると〈霊的感覚〉とした方がいいのかも。縮めると〈霊感〉ですね。けれど、ここは〈体感〉でいきます。

その理由は、《身体感覚》と〈体感〉は判別が難しいものだからです。「身体感覚」も「体感」も言葉のイメージとしては非常に近い。身体感覚も体感も、どちらもに身体に響くものです。どちらも身体に響いて情動を引き起こし、その情動が意識上に感情となって現れる。

ここを「霊感」にしてしまうと全く別のイメージになります。霊感であっても情動を起こすのは同じなんですけどね。“感”は、どんなものであって情動を引き起こします。

情動の発生源が《身体感覚》であっても〈体感〉であっても、情動から感情へと意識へ登っている回路は、おそらく同じだと思います。ですから感情をモニターしていても、このふたつの違いは判別できません。

ヒトという生物がどうしようもなく社会的なのは、その発生源がどちらであれ、情動から感情へは同じ回路を用いるというところにあると思います。《身体感覚》はいうなれば生命そのものの反応、〈体感〉は主に言葉の世界の反応、つまり社会的な反応です。このふたつの反応が、意識される前段階で同じ回路に乗っかって現れる。


《身体感覚》と〈体感〉を判別する方法は3つあると思います。直接的な方法と、間接的な方法と、その中間的な方法と。

直接的な方法は身体を観察することです。身体の反応の質で《身体感覚》と〈体感〉の腑分けをする。野口整体という方法論はこちらだと思います。主眼は《身体感覚》を鍛えることなのでしょうけれど、その鍛錬には〈体感〉の腑分けも付随してくるのだろうのでしょう。

間接的な方法は、予めそれぞれの発生源を区別しておく、ということ。科学的なアプローチ。心理学や動物行動学のヒトへの適用は、こちらの方法でしょう。そのなかでもアドラーの方法論が特に、《身体感覚》〈体感〉の区別に焦点が当たっているもののように感じています。

中間的な方法は、〈体感〉の世界を秩序づけるということ。宗教やら哲学がこれだと思います。ことに近代以降は哲学でしょう。哲学にマジメに取り組むと体感することですが、“哲学史を学ぶ”ことと“哲学をする”ということは似て非なるものなんですね。“哲学をする”ということは〈生きる〉ことにつながるものがあります。

このあたりの話はまだまだ展開できそうなのですが、そこがこの文章の目的ではありません。そこは別の機会にして、《身体感覚》と〈体感〉の違いを語ってみたいと思います。方法論は間接的な方法です。


こんな記事がありました。

人間の一夫一婦制、理由は「真実の愛」ではなく細菌

4月13日 AFP】人間が一夫一婦制となり、大半の動物にとって自然な行為である、より多くの配偶関係を持つ「乱婚」を拒絶するようになった理由は何なのだろうか。道徳か、宗教か、それともおそらく愛だったのか──。
 12日に発表された研究論文によると、その答えは細菌だという。研究は、人間の祖先は、性感染症が引き起こした大混乱によって、同じ相手と一生添い遂げる方が賢明との結論に至ったとしている。


乱婚だと個体が生き延びる可能性を小さくしてしまう。だから合理的に、生存の可能性を高めるために、一夫一妻制を採用する傾向が生まれてきた――、と。

身も蓋もない話ですね。
この話は科学的な話ですが、厳密に検証するのは難しいように思います。けれど、真実はこんなところでしょう。

ヒトはそもそも乱婚するようにできています。これは善悪の話ではありません。そういう生物というだけのことです。
その証拠はたくさんあります。不倫です。どうしようもありませんww
一方で不倫批判もまた、どうにもならないものなんですね。(-_-)
だけど、不倫の“どうしようもなさ”と不倫批判の“どうにもならなさ”は違います。

この違いは《身体感覚》と〈体感〉の違いに関わります。
ヒトが乱婚するのは、《身体感覚》に沿った行動だと考えます。
一方で、一夫一妻制などのルールは〈体感〉の為せる技です。

誰だったかが発言した「不倫は文化だ」の名台詞は実は間違っているんです。
文化なのは不倫の方ではなく、不倫批判の方です。

その手の話では、先に紹介しましたが、この本も面白い。竹内久美子さんの話です。



この本の本題ではないんですが、その手の部分の概略を紹介すると、まずは

・男女間の性交渉の決定権は女性が握っている。理由はリスクの高さ。女性の方が高い。

個体の生存リスクを軸に考えると、合理的に理解できます。

性交渉というのは子を成して自らの遺伝子を継承させることが目的だと、こうした科学論は説明します。その観点からいうと、
 1.多くの“機会”を持つこと。
 2.遺伝子を継承した子孫が生き存えること。
のふたつが重要になります。女性の場合、1.は生物的に制限されているので、2.が特に重要になる。

で、2.にはさらに2つの要素が要素があります。
 2a. 生き残る可能性の高い子孫を残すこと。
 2b. 生き残り易い環境を構築すること。

2a.は交配相手の選択の問題。2b. は社会の安定性の問題です。

実は社会の安定性と乱婚性との間に直接の関係はありません。社会が中央集権的な体制で安定していれば、女性の交配相手の選択は社会構造に沿ったものになって、権力に近いものが選択される傾向が生まれるというだけの話です。

子孫生存の可能性は、獲得する相手の遺伝子の優秀さの問題と関連します。主に免疫力の問題。竹内さんによれば、免疫力の高さは身体的な特徴となって現れている。ヒトにはそういう相手を感知する《身体感覚》が備わっている。(竹内さんは「身体感覚」という言葉は使っていませんが)。

不倫というような現象がおこるのは、2a.と2b.に食い違いが起こるからです。男性の場合は、1.に起因する部分が大きいですが、1.においては男性と背反する女性の場合は2a.と2b.の食い違いが主因だということになります。この論理でいけば、ですが。

そのことを裏付ける統計的なデータがあるそうです。既婚女性の浮気率を調査したところ、夫との間で子どもがいる場合の方が、その率が高いそう。それも子どもの数が多いほど、女性の浮気率が高いという。「子は鎹」なんでしょう。夫婦の間に子どもが沢山いる方が家庭という社会の安定性が高い。だから女性は安心して...ww 

まあ、あくまで統計的データですww

話は横道に逸れるようですが、ベッキーのお相手のゲス君が世間からの批判に対して「謝る相手が違うと感じる」なんて発言をしたそうです。こうした発言にまた非難が集まったりするんですが、しかし、彼の発言は、遺伝子理論から言っても理に適っています。彼が謝るべき相手は彼が社会を営んでいる相手。そうでない者は関係ないだろう、という論理です。

このことから推測されるのは、彼は自身の周囲の社会をよく把握しているということです。のべつ幕無しに【正義】を押しつけたりしない。そういったものの有効範囲をよく知っている。それがよくわかっているから「傾き者」なんだろうと。
〈体感〉というのは、のべつ幕無しというか、節操がないというか、そういった傾向があります。伝播しやすい。【単純】だということです。さらに、伝播への強い欲求を引き起こす性質があります。イデオロギーです。


お次はこんな記事。


「私欲」老人が浅ましすぎ!過熱する「市川市保育園建設断念」騒動で「子どもが騒々しい」反対に絶望


浅ましい云々の批判の仕方に違和感を抱くんですが、批判の批判は本題とはあまり関係がないのでスルーします。
そんなことより気になるのは、「子どもが騒々しい」と感じてしまう、ということです。

子どもが騒々しいという気持ちは、理解できなくはありません。そもそも子どもはそういう生き物です。騒々しくして、時にはわざと不快感を与えるような行動をして、周囲特に大人に自身の存在をアピールする。そうするのが子どもの生存戦略です。

子どもの生存戦略が成立するには、騒々しくされることを受け入れる感受性が前提です。この感受性はいうまでもなく《身体感覚》です。女性が免疫能力の高い男性を識別するのと同じ。

女性の男性識別能力の高さは、時として、社会問題を引き起こします。ですけれど、これは、識別能力の高さを発揮し惹かれるということは〈生きる〉ことなんだと評価すべきだと思うし、問題と捉える社会に問題があると考えます。
対して、老人たちの問題は《身体感覚》の低下の問題。子どもたちに惹かれない、〈生きる〉ことが出来ていないという問題です。

生物は加齢とともに《身体感覚》が低下するという一般的傾向がある。そんな仮説も成り立ちます。
一般的傾向ですから、例外的に低下しない者もいるということです。

この仮説が成立するか、あるいは成立しないのか、厳密に検証したものの存在を僕は知りません。なので主観的な話になりますが、僕の経験から出る答えは、《身体感覚》の感度は教育の問題です。

《身体感覚》は〈複雑さ〉を知覚する能力ことです。一般的な教育は逆で【単純さ】を理解することが要求されます。
また、教育というと上位の者から施されるというイメージがありますが、《身体感覚》の向上は必ずしも上位下位は関係ない。師が弟子に教える、というのは《身体感覚》の上位者が下位の者に教えるということですが、親は子育てで育つということもある。《身体感覚》向上で重要な要素は、環境です。

その意味で、上位者というのもまた環境。親も子にとっては環境で、また逆に親にとっても子は環境です。そうした環境といかに向き合い〈生きて〉いるかが《身体感覚》の発展と関係が深い。もちろん、ここでいう環境には仕事(職場という意味ではない)も含まれます。どんな仕事をしてきたか。

いきなり違った話を持ち出しますが、マルクスが言ったところの「疎外」が何からの疎外を言っているのかというと、僕は《身体感覚》なんだと考えています。マルクスは資本主義社会が「疎外」を作り出すと考えた。確かにその指摘はその通りでなんだけれど、伝統的な地域社会に「疎外」がなかったかというと、そうでもない。伝統的地域社会に「疎外」があったからこそ、資本主義は発展したんですね。

話を老人たちのところへ戻すと、彼らが子どもの騒々しさに惹かるという《身体感覚》を養うことができなかったのは、「疎外」に原因があると考えます。そうすると、子どもは騒々しいという〈体感〉だけが出来上がる。〈体感〉はイデオロギー的な性格を持っていますから、保育園建設反対という【主張】になってしまいます。


《身体感覚》と〈体感〉と「疎外」の関係は、もっと考えてみなければなりません。

今いちど《魂》について


もう一度。「魂」について考えてみます。

「魂」とは、具体的な「形の中に感じられる「意志」なんだと前に書きました
この「形」には〈複雑さ〉が深く関わります。
この「意志」を《魂》と表記します。

しかし、よくよく考えてみると、《魂》とは外に向かって広がっていく性質のものです。
〈複雑さ〉というものは、《魂》の外向志向から生じていると考えられます。

私たちは身体を所持しています。いえ、身体に所持されています。
《魂》というのは、もちろん精神的なものを指します。
精神的なものから外部と言ったときには、ふたつのものを含むことになります。
身体の外部と身体の内部です。
身体の外部はもちろん、自身の内部だって精神にとっては外部です。
内部感覚というのもありますし。

自身の身体も外部と捉えて感覚を作動させると、そこには「意志」が感じられる。
論理としては成り立っていますが、少し違う感じもします。

論理として成り立っているというところが怪しいんですね。
論理が入り込んでくるということは、そこには【単純さ】が忍び込んだということです。

感覚の作動と「意志」とは、ひとつのものの裏表なんだと思っています。
ここは分離できません。分離すると言葉が入り込んで【単純さ】が生じてしまう。


「魂」は外向志向だから《魂》だと表記します。しかし、そうだとすると疑問が残ります。
「魂」とは、内部そのものという感触があるからです。

そのような感触は、《魂》の外向志向の論理によって説明出来るのだか誤っていると考えるのは、誤りだと思います。
ここにも同様に論理が入り込んでいるからです。
そうすると、「魂」とは、外向志向であると同時に内向志向のはず、ということになります。


・・・こんなふうに言葉で記述するのはとても疲れる上に、上手く伝わるような気がしません ^^;
というわけで、簡単な図を使ってみることにします。

ここに極めて簡単な図形があります。
この説明では「形」は関係ありません。手間(と能力)の問題で簡単にした(なった)だけです。
(本当ならフラクタルな図形の方がいいんですが...)

着目して欲しいところは「形」ではありません。その図形が及ぼした影響です。
すなわち、この図形によって“内”と“外”が出来上がりました。

さて、上で「魂」とは、精神的なものだといいました。
この図は、精神的なものの“内”と“外”を表示していると理解してください。

精神的なものの“内”と“外”とを区切るのが感覚です。
この図でいうと図形が感覚に相当します。

実は、感覚と図形は、その性質に共通するところがあります。
追究すると実在がなくなる、という点において。

この図形は、モニタの素子が発光しないこと(黒色)で表示されています。
モニタ上においての図形の実在とは、発光していない素子、つまり「ドット」です。
では、その表示をどんどん細くしていくとします。
最小は1ドットですが、これはモニタの性能による制約ですね。
しかし、この図形の本質は、そういった制約を超えたところにあります。
空想上はいくらでも表示を細くしていくとができます。無限にいくらでも。

図形が図形であることの本質は、その図(線)が実在しているか否かにあるのではないんですね。その図(線)が、空想上であろうが何であろうが、周囲の空間に影響を与えて“差異”を認識させるところにあります。

感覚も同じです。
環境の中から差異を検知するのが感覚の役目です。感覚装置が某かの化学物質を検知すると、そのシグナルが他の器官へと送られる。そのシグナルは「差」を示すのですが、それこそが“情報”です。『精神の生態学』などの著作を著して精神について研究したベイトソンは、情報を「差異をもたらす差異」と定義しています。“シグナル”もまた「差異」です。

では、差異を発信する感覚とは何なのでしょうか? 
感覚器官が発することは理解できます。ですけど、感覚=感覚器官ではありません。

感覚を追究することは「差異をもたらす差異」をもたらす差異を追究することになりますが、これは無限ループです。図形と同じように、感覚もその実体はなくてもいい。感覚の場合は、ないと断定してもいいと思います。

感覚のそもそもの性質は外向志向です。
感覚器官を保有する生物が、自身の生命保持のために情報を集めるのが役割なのですから、多くの情報を集めることが生命保持に寄与するわけですから、外向志向であるのが自然です。

精神といったようなものをもたない(と思われている)生物にとっては、身体の境が感覚の境になるでしょう。
その上にヒトは精神を持ちます。ヒト以外の生物が身体を境とする二重構造だとすると、ヒトは身体の内部にさらに精神という内部を持つ三重構造ということになります。
身体を区切る感覚は内と外の両方に働きます。となると、精神を区切る感覚も内外の両方に働くでしょう。

(身体を区切る感覚と精神を区切る感覚は別のものだと、とりあえずは考えられます。が、その問題はここでは保留にします。)

感覚が働いているということは、感覚が知覚する「対象物」があるということになります。
では、精神の内側で感じられる対象物とは何か?
これが「イメージ」。僕の言葉で言わせていただくなら〈霊〉です。

実感という言葉があります。この言葉が言い表しているのが(ほとんどの場合)〈霊〉の感触です。
大切な人、あるいは嫌悪している人物、好きな食べ物、嫌な思い出――、こうした「イメージ」を思い浮かべると、何らかの感触が生じます。その感触を生じせしめる対象はそこにはないにも関わらず、確かな感触は存在する。だから、本当は“虚”なんだけど、感触はホンモノに思えるから、わざわざ“実”をつける。

しかし、そうした感触が発見できないこともあります。「イメージ」がない場合です。
たとえば、セルフイメージを思い浮かべてみるとします。ほとんどの人が、実感を伴いつつイメージを抽出することができるはずです。
次に、その先の、イメージしている自分を感じようとすると、どうか? おそらく感触を発見することはできないでしょう。

ここで重要なのは、“得心”とでも呼ぶべき身体作用です。「ああ、ないんだぁ...」と、それまでは思い巡らせてアタマの上のほうにあった“氣”が、すっと降りてきてあるべきところへ座る、というような感触が生じます。そうした身体作用を伴った心の動きが得心だと思うのですが、そうすると、探ろうとしていた感覚の「意志」が残こる。

誰かを好きというのも、同じような感触があります。なぜ好きなのか、その理由を探って思い巡らせてみても、理由が見いだせない。「好きのイメージ」が出てこない。そこで得心すると、“好きという意志”が残ります。それが「好き」というところの本当のところだと思います。

こうした作用は内向志向です。
そして得心に伴って感じられる「意志」は、外向志向においてもあります。〈複雑さ〉を生きていると感じて、「ああ、生きているんだなぁ...」と得心すると、「意志」が感じられる。僕はそれを《魂》と呼んだわけですが、内向志向で発見できる「意志」もまた、《魂》なんだろうと思います。


感覚は実体のないものですが、拡張したり収縮したりします。実体のないものが動くというと論理的には変ですが、感覚的にはつかめると思います。

外向志向のときは感覚は拡張し、その限界に達したところで「意志」を感じる。内向志向は縮小しますが、こちらも限界に達すると「意志」が浮き上がってくる。身体作用を伴って出現する“限界”こそが、あるいは「魂」と呼ぶべきものかもしれません。

が、そのあたりはどちらでもいいと思います。ここで展開しているのは、所詮は“言い当て”に過ぎませんから、あれだこれだと確定する必要はないし、確定してしまうと「イメージ」が出来上がってしまって〈霊〉になってしまいます。

《魂》とは、〈霊〉を生みだす活動だとも考えるのですが、そのあたりは《身体感覚》〈体感〉のところで語りたいと思います。


※ 限界における身体感覚については、こちらでも文章にしています。これも外向志向です。

神は実在するか?


昨日の記事でも紹介しましたが、この本が面白かったので、改めて紹介します。



竹内久美子さんという方は、この本で初めて知りました。
動物行動学の研究者ですが、広く知られているのは、とある傾向の著作者としてのようです。
とある傾向というのは、遺伝子至上主義というか、遺伝子が神であるというか。

佐藤優さんはどこぞのラスプーチンとかいう異名をもつ方で、多くの人がおそらくそうであるように、僕も最初に接したのは『国家の罠』でした。その後は『神と国家とマルクス』だったかなぁ...。

と、初期の頃の著作を2つ読んで、また最近、ちょこちょこと読み出している人です。“ラスプーチン”とかいう異名とか外観のイメージからマッチョな印象がありますが、著作で接するとむしろ静かな学究肌のように感じます。そんでもって、この本ではもうちょっとイメージが加わって女性的な印象を受けました。

竹内さんは女性的ですけど、攻撃的でマッチョなイメージがあるみたいです。
佐藤さんも、外形的には、そう。
そういうイメージから“ガチンコ対決”という煽り文句になるんでしょうけど、対決の中身にはそういう感じは受けません。竹内さんの攻撃性を、佐藤さんが上手に包容しているという印象です。


この本の叩き台になっているのは、ドーキンスです。ことに『神は妄想である』という著作。この本もずいぶん攻撃的な本のようですが、そこに乗っかって竹内さんが攻めようとする。

それを佐藤さんが「そこで攻撃に的になっている神は、神学の世界ではもう100年以上前に終了している神ですよ」なんて応じます。的を外されるのは、竹内さんもそうですが、読者もそうでしょう。
神学が神の解釈を変更するなんて、思いませんから。

今時の解釈改憲ではありませんが、神という不動のものがあって、そこを動かすのは違反であって、厳しく罰せられる。その罰はどのような罰なのかという刑法みたいなイメージですけど、違ったんですね。

竹内さんが繰り出す話は、これはこれで面白く、興味深いものです。その内容は竹内さんの著作リストを眺めればだいたい想像がつくでしょうから割愛します。ヒトを動物として研究した成果からでてくる知見は、身も蓋もないというか、身につまされるというか、刺激的です。

佐藤さんはそうした刺激には乗っからずに、議論のあり方を概観していくという具合です。この概観が刺激を中和して落ち着くべきところへ誘導します。このような概観を使ったのが「教養」というものなのだろうと思います。

対談という形式は概観の能力と教養のあり方を感じさせるのには、適した形式ですね。
といって、読みにづらいことはまったくありません。これも対談形式の効果でもあります。重たい内容ですが、考え込むことなく読めてしまいます。


なお、神が存在するかどうかの答えですが、このネタばらしは控えておきましょう。ただ、煽り文句から期待されるほどの答えではない、そういうところを読む本ではないな、と。

〈複雑さ〉

この文章を書くのは二度目です。
以前に同じ内容のことを書いたというのではなくて。
2日前に書き上げてアップロードしようとしたら...、どっかへ行っちゃった、、、、(T_T)

テキストエディターあたりに下書きしてからブログ編集画面へコピーすればいいでしょうけど、編集画面に直接書き込むのが習慣になっていまして、なかなか改まりません。
それに、力を込めたものほど、よりによってどこかへ飛んでいく。

察する方は文面から察するでしょうけど、僕は文章を書くのに非常に力が入ってしまう。楽々とは書けないんです。
何度も言い回しを訂正したりして、継ぎ足し継ぎ足し進めていく。
それでも後から読み返すと、この言い回しは違ったなぁ、思うことが多いです。
下書きをしないのは、そんな書き方をするからだろうと自分で思っています。

前置きを書くと勢いがついて書きやすいんですが、このくらいで。


この文章は、前記事からの続きです。

前記事は、最初はタイトルを『《魂》〈霊〉《身体感覚》〈体感〉』としていました。この4つを繋げて1つの文章に使用と構想しました。《魂》と〈霊〉を腑分けして、それぞれ《身体感覚》と〈体感〉とに繋げるという構想です。《 》や〈 〉の記号が共通しているのはそのためです。
でも、途中で力尽きてしまいました、、、(-_-)

仕切り直して書こうと思ったのですが、「複雑さ」について、もっと書いておくべきことがあると気がつきました。
で、《身体感覚》と〈体感〉へ繋げる前に、この文章です。


ここで示したい「複雑さ」は、一般的にイメージされているのとは微妙に違います。
だから〈複雑さ〉と表記します。
もっとも、一般的な「複雑さ」のなかに〈複雑さ〉も含まれていなくはありません。

僕に〈複雑さ〉について考えるきっかけを与えてくれたのは、この本です。


出会いは和歌山の県立図書館でした。なにか面白そうな本はないかと書架を巡っているとき、このタイトルが目に留まりました。

 「複雑さを生きる」

これが“複雑に生きる”とか“複雑さの中で生きる”とかだったら、おそらくスルーしていたと思います。
このタイトルの「複雑さ」が一般的な意味から逸脱しているように感じられる。それで手にとって、読んでみることになった。この「複雑さ」は〈複雑さ〉です。

『複雑さを生きる』の内容を一言で書き表すと、こうです。

 〈複雑さ〉を「複雑さ」で言い表す。

“説明する”ではないんです。“言い表す”です。
「複雑さ」と〈複雑さ〉は次元が違う。直接はつながらないんです。
「このように説明しますので、察してください」が“言い表す”です。

では、「複雑さ」と〈複雑さ〉はどのようを簡単に言い表してみます。

「複雑さ」というのは「誰にでも理解できる単純なことの膨大な積み重ね」です。
根っこは「単純さ」にあります。もとは単純なんだけど、たくさんありすぎて理解が難しくなって複雑になる。
“逐次的と言ってもいいかもしれません。確実なものが次々と連結されていくイメージ。
あるいは“シーケンシャル”とか。
コンピュータというのは、この「複雑さ」の原理を具体的に形にしたものですね。

対して〈複雑さ〉は、ランダムです。ランダムなんだけど、デタラメでもない。
厳密な規則性は証明できないが、規則性らしきものはある。
多くの要素を同時に並列的に処理する。するとブレが生じてランダムになります。

ヒトの下す「判断」は、厳密にはこちらです。
こちらのはずなんだけど、「複雑さ」の方を志向するのが一般的。
「知的」の一般的イメージが“「複雑」なことを理解する能力”ですからね。

またしても名前を挙げさせてもらいますが、内田樹さんを代表される方々が提示する「知的」は“〈複雑〉な判断を的確に下せる能力”です。


『複雑さを生きる』へ話を戻します。
この本で〈複雑さ〉と「複雑さ」の橋渡しをしているのは、複雑系という科学です。

複雑系(ふくざつけい、英: complex system)とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう。

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。系の持つ複雑性には非組織的複雑性と組織的複雑性の二つの種類がある[2]。これらの区別は本質的に、要因の多さに起因するものを「組織化されていない」(disorganized) といい、対象とする系が(場合によってはきわめて限定的な要因しか持たないかもしれないが)創発性を示すことを「組織化された」(organized) と言っているものである。

複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、実際に人間にとって興味深く有用な多くの系が複雑系である。系の複雑性を研究するモデルとしての複雑系には、蟻の巣、人間経済・社会、気象現象、神経系、細胞、人間を含む生物などや現代的なエネルギーインフラや通信インフラなどが挙げられる。


「人間にとって有用な多くの系が複雑系である」という言い回しが面白いですね。ヒトも、人間が営む社会も複雑系なんだから、複雑系が有用なのは必然の理です。なのにこの言い回しは、有用という事実は一応認めながらも、その「理」を受けて入れることから逃避しているように感じられます。
こういった構えに根底にあるのが「複雑さ」への志向だと考えています。

「複雑さ」への志向というのは、実は【単純さ】への志向です。
wikiの中の言葉で言えば還元主義。


複雑系科学の発達は、コンピュータの能力の爆発的な向上に支えられているところが大きいと言います。
モデルを組み立ててコンピュータでシミュレーションを行う。
そうした手法で描き出されたグラフィックスなどは、すでに身近なものになっています。

コンピュータの計算能力は、次々に新たな知見をもたらしてくれている。新しい世界像を私たちに提供してくれています。とても興味深いし、素晴らしいし、どんどん発展して行ってくれたいいと思っています。

しかし、その一方で引っかかるものがあるんです。置き去りにされているものがあるように思う。それが〈複雑さ〉への志向です。

コンピュータの能力は〈私〉の外側の世界像を開拓するには有用です。ですけれど、〈私〉そのもの、ヒトがもつ〈複雑さなの能力〉の開拓には、何の役にも立ちません。新たな世界像の開拓がむしろ〈複雑な能力〉の開拓を隅に追いやっているような気がしています。

もっとも、この傾向は今に始まったものではない。近代という時代そのものの大きな流れです。それからすれば、コンピュータの能力のおかげで複雑系科学が発達して、改めて〈複雑な能力〉に焦点が当てられるようになった考えられなくありません。『複雑さを生きる』はそうした流れの本です。

〈複雑さ〉への志向は、実践されなければ意味がありません。
〈複雑さ〉が有用なものだとわかっても知識だけでは足りない。
〈複雑さ〉というのは、そういう性質のものです。


今、こんな本を読みかけています。


宗教と科学のガチンコ対決という煽り文句が副題になっています。
宗教側は佐藤優さん。科学側は竹内久美子さん。

このなかで佐藤優さんは「科学は魔術に見える」と言っています。
その理由が「誰でも同じ手続きを踏めば同じ結果が出るから」です。

一般的な感覚からすれば意味を把握するのが難しいでしょう。誰でも同じ手続きを踏めば同じ結果が出るからこそ科学ではないか、と。【単純さ】志向だとそう捉えるのが道理です。科学は道理なんですね。

ところが〈複雑さ〉志向からすると、これが道理から外れているように感じられる。“ぶれ”がないからなんです。複数要素の並列処理にはぶれが生じるということは、複雑系科学で明らかになっています。明かなのに、そのようには思考できません。そこには「壁」があります。

この「壁」は〈体感〉に因るものです――というのは、先走りになりますので、次で語ります。

〈複雑さ〉志向からすれば、複雑系科学などは、もはや魔術そのものです。

確かにコンピュータは人間が作ったものです。モデリングのプログラムもデータも、人間が組み上げ、抽出したもの。それらを機械に入力して計算させる。機械はその原理に従って正確に物理的に作動し、結果を出力する。この流れは道理に適っているように感じます。そう感じることは事実としてあります。僕だってそのように感じる自分がいることを感じます。

だけど、別の事実があることも確かなんです。焦点は「機械が正確に物理的に作動する」こと。ここが道理から外れていると感じるキモのところです。“ぶれ”が道理の中に組み込まれていると「正確に作動する」ことが当たり前ではない。というより、人間のものではない。たとえコンピュータは人間が作り上げたものであったとしても、その作動は人間のものではないんです。

コンピュータの作動が人間のものではない、という明確な証拠はあります。それは、コンピュータの計算結果が人間にはもはや検証が不可能だという事実です。もしかしたら、コンピュータを構成している膨大な素子のひとつが品質が悪くて求められているように正確に動作しないものかもしれない。そうなると計算結果には“ぶれ”が生じます。複雑系科学では、こうした“ぶれ”は出力の大きな違いとなって現れることを明らかにしていますが、その検証はもはや人間には「複雑」過ぎて不可能です。コンピュータの正確さを信じる以外に方法はありません。

この事実を魔術の呼ぶことは【単純】志向においても道理から外れていないと思います。


そうなると、問題は次へ移ります。
〈複雑さ〉と【単純さ】にそれぞれ道理があるとして、互いの道理は並行するのか。
あるいは並行せず、より上位の道理があるのか。

並行するのであれば、それぞれの道理は各人の趣味の問題として処理すればいい。
しかし、より上位の道理があるとするなら趣味では済まされない。社会の問題になります。

前者だと楽でいいのですが、僕は後者を支持します。
この問題は次のテーマです。


締めに《魂》〈霊〉と〈複雑さ〉の関連について。

《魂》とは、具体的な「形」に込もっていると感じられる「意志」でした。
この具体性こそが〈複雑さ〉が「形」になったものです。
「形」というのは、外部です。

また、〈複雑な能力〉による判断がぶれるのは、偶然が絡むからです。
判断にからむ偶然の要素を抑えようとすると、より感覚の〈複雑さ〉を高めていかなければならない。
感覚の〈複雑さ〉が高まると、外部の「形」の〈複雑さ〉も大きくなります。そうなると、ここにまた偶然が絡む余地が生まれる。環境と感覚が相互に影響しないながら、螺旋状に成長していくイメージでしょうか。

このイメージは「アフォーダンス」の概念に近いと思ったりもしています。

《魂》と〈霊〉



以前、『霊魂』というタイトルで文章を書いたことがありました。

〈霊〉とは心のなかのイメージです。
このイメージは、複雑で、かつ、リアルです。
このリアルさを『エヴァンゲリオン』の一部を拝借して説明を試みたのが『霊魂』という文章でした。

ヒトがリアルなイメージをもつことが出来るのは、高度に発達した脳の機能によるものでしょう。
他者のリアルなイメージを心の中に棲まわせることで、ヒトはチンパンジーなどよりもより協働性の社会を営むことができるようになり、その結果が繁栄に結びついているのだと。
しかし、当然のことながら、ヒトの高度な脳力にも限界があります

ヒトは、ヒトの脳力を超えた大きな社会を営むようになりました。
人間の不幸の原因は、突き詰めればこのオーバースペックにあるというのが僕の考えです。


少し話の方向がズレました。

『霊魂』の記事では「霊魂」と題しておきながら、「霊」のことにしか触れていませんでした。
「魂」については、安冨歩さんの定義を採用させてもらいました。

出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉にいかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかも知れないが、魂と身体を対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ 身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの動きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての動きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。


この定義によるならば、「魂」は、各人にひとつです。
そして、ヒトはそのひとつ「魂」しか感じることができない。

けれども、私たちは自らの外部においても「魂」を感じています。
少なくとも「魂」という言葉は、そのように用いられます。
他者の生命の営みに「魂」を感じるのはもちろんのこと、生命体ではないもの、すぐれた芸術作品などのなかにも「魂がこもっている」と称して、魂が感じられると発言する。

あるいは、「鎮魂」などということも言います。
同義語に「慰霊」というのもありますが、「鎮魂」と「慰霊」は、本当に同義なのでしょうか?

生命は感覚器官を通じてしか外部の情報を入手できません。
ヒトがもつ〈霊〉というリアルで複雑なイメージは、感覚器官を通じて入手される情報で構成されます。
対して「魂」は、上の定義に従うなら身体内部のものということですから、感覚器官からもたらされる外部感覚ではなく、内部感覚になるはずです。
お腹がすいた、頭が痛いといったような不快な感覚。
満腹感や覚醒感といった心地よい感覚。
また、その気になれば、内臓が働いている感覚も感知できるでしょう。
さまざまなグラデーションがありますが、こうした内部感覚が“魂の感覚”ということになります。

これらの感覚の特徴は、イメージないということです。
内部感覚をいくら感じても、心の中でイメージを結ぶことがない。
「魂」と〈霊〉との違いです。

しかし、イメージがないなら、「魂」という言葉が古来から存在することも不思議なことです。
私たちは、魂を外部にも感じることができるはずです。


いきなり結論へ跳びます。
「魂」とは「意志」です。
具体的な「形」の中に感じられる「意志」。

生命体はとても複雑です。
複雑なのに単一なんです。

冒頭に掲げたのはケヤキの木です。
ケヤキがケヤキの形になるのは、それがケヤキだから。
DNAの仕業と科学的に言ってもいい。
プラトンを拝借してイデアと言ってもいい。
これが“単一”ということです。

だけど、「この木」が「この形」なのは、科学的には説明できません。とても複雑です。
ケヤキのDNAと周囲の環境とのせめぎ合いで偶然に出来上がった、複雑で“具体的な形”です。
「この木」を別の場所に持っていけば、この木には違いないけれど、別の具体的な形になるでしょう。

この単一と複雑の落差に感じられるのが「意志」です。
単一が必然であり、複雑は偶然の作用だとすると、その間でのせめぎ合いです。
せめぎ合っているということが〈生きている〉ということで、それは「意志」だと認識される。

「意志」にもイメージがありません。
ではその「意志」を、どこでどのように感じているのか。
具体的な“形”を感じている感覚器官の作動として感じているのではないか。
感覚の作動感です。

感覚の作動は生命の営みです。
その作動状況が、生命の作動状況と相似形であるとき、自らの中にある〈生きる力〉が反映されてイメージなき意志として認識されるのではないか。

私たちは単純な「形」、例えば直線的な造形の人工構築物であるとか、そういったものには「意志」を感じ取ることはありません。それは、私たちの生命の営みの在り様とは異質のものだから。

なお、「形」という言葉です。
「形」という文字そのものには視覚的なイメージがあります。
が、ここでいう「形」は、視覚的なものに限定されていません。
「形」とは、他を識別し記憶する差異というくらいの意味です。
「形」は音にもあるし、臭いにも、味覚にもあります。
これらの感覚も記憶し、他と識別することができます。

また「魂」という言葉についても付言する必要があります。
「魂」という文字は〈霊〉です。
文字には文字の具体的な「形」がある。
それは直線的で「意志」は感じられない。
ソシュールの言葉を借りると、シニフィエです。

「意志」が「魂」という言葉によって言い表された時点で、生命の具体的な「形」を感覚する作動とは異なった作業を私たちは行ってしまっています。

言葉にはイメージがあります。
僕が今、文字を通じて伝えようとしたことが読者に伝わったとしたら、読者のなかには漠然として複雑なイメージが生成されているはずです。
これはもはや〈霊〉です。


〈霊〉は共有することができます。
ただし、共有の具合はその〈霊〉の態様によって異なります。

複雑な〈霊〉は共有することが難しい。
例えば、他人のイメージとか。同じ人物のイメージであっても、観察者によって異なるのが当たりまえです。
他には複雑な概念。ここで取り上げている「魂」のイメージなどは、なかなか共有してもらえない。

反対に単純なのは共有も易しい。
「1」という概念はある程度の知能が働くようになると、誰でも共有可能になります。

ええ、「1」もまた〈霊〉です。
ただしもともと「霊」という言葉によって広く共有されている一般的なイメージとは異なります。
一般的なイメージに引きずられていると、「1」が〈霊〉であるということの理解が阻まれてしまいます。

〈霊〉は共有可能だからこそ、人間は社会を営むことができます。
つまり人間とは、〈霊〉的な世界に生きているヒトのことです。


対して「魂」は共有不可能です。
そのヒト固有の感覚の作動感なんですから、原理的に共有不可能です。
SFチックなテレパシーなんかが実在するなら、話は違いますけども。

共有不可能な感覚の調和的な作動感を、以下、《魂》と表記します。
《魂》と表記したところで、無意味ではあるんですけどね。
無意味であるという意味を汲んで頂けたら幸いです。

(タイトルを変更しました。
 《身体感覚》〈体感〉については、別記事にすることにします。
 その前に語るべきことが浮上しきました。)

『先祖になる』

映画の話に戻ります。


なんとも力強い映画です。
まず、タイトルからしていいじゃないですか。

 『先祖になる』

だなんて。みごとな決意表明です。

津波にやられた家を自分の力で建て直す。
いえ、自分の力だけではありません。
周囲の人たちの力も借りて。

でも、まず、自分の力で。
ここが起点なんです。

自分の力で自分の家を建て直すと決意をして、
自分の力の足りない部分の協力を周囲に仰ぐ。
そうすることで、自分だけではなく、「地域」が蘇っていく。

だから「先祖」というのは、血筋の文脈ではないんです。
それは主人公の物語からはありえません。
主人公は、津波に子孫を奪われてしまったご老人です。
お孫さんは元気のようなのでその意味ではすでに先祖ですけど、
血筋に文脈では、改めて「先祖になる」には年齢的に無理があります(笑)。

ここで掲げられている「先祖」の文脈は、地縁です。
「先祖になる」と決意した老人の若々しいこと。


この映画にも、『アレクセイと泉』『祝の島』にあったものと共通のものを見いだすことができます。
生命の力強さ。
ことにこの映画では際立っています。

その理由は背景にあります。
津波が引いた後の廃墟が随所に映り込む。

『アレクセイ』は、放射能に汚染されているとはいえ、自然の営みは途切れていませんでした。
『祝の島』もそう。
『先祖になる』は、自然災害とはいいながら、街も生態系も、もろともに飲み込んでいった。
自然災害だから、人為のものだけを破壊するのではないんですね。
大自然にとっては、人為も自然も、これまた自然。

だけど、国破れて山河あり。
あ、この詩で国を破るのは人為ですけど。

映画の中で、キュウリが芽をだしているところを主人公がみつけるシーンがあります。
そこはもともと畑だったわけではない。
どこかから流された種が、たまたまそこに漂着して芽を出した。
キュウリは、ただ、「キュウリ」であろうとした。

この主人公も同じです。
津波に流されようがどうしようが、ただ、「その人」であろうとした。
その人がたまたま樵だったから、樵であろうとした。
こうした心情は、僕自身がかつて樵でしたから、よくわかる気がします。

樵であるというのは、アイデンティティというのとは違うんですね。
自分の自分による自分のための表現。
アイデンティティというのは外部への表現ですからね。
外部への表現が自分に跳ね返ってきて、アイデンティティになる。
だから跳ね返る相手がなくなってしまうと、アイデンティティも喪失してしまう。

その意味で、アイデンティティというのは社会的です。
だけど、この主人公の樵という表現は、直接自分へと向いている。
個的なんです。
映画のなかの言葉では“頑固”と言い表されています。


その人が「その人」であろうとすること。
その生き物が「その生き物」であろうとすること。

僕の中に浮かぶイメージは、かつての樵生活のなかで山でよく出くわした、根元からポッキリ曲がっている木です。
グンニャリまがっているではないんです。
ポッキリ、なんです。

そんなふうになるのは針葉樹です。
外見的に針葉樹と広葉樹がもっとも異なっている点は、上方に伸びようとするところは同じでも、まっすぐ伸びようとするか、拡散しながら伸びようとするか、です。
針葉樹はまっすぐ、広葉樹はこんもりと成長します。

そんな針葉樹の、上への成長点が失われてしまうと、ポッキリ折れた姿になる。
横にはみ出た枝が幹になるんですね。こんな感じです。
そんな折れた姿には、まっすぐに伸びた木よりもかえって力強さを感じされられたものでした。
折れても、その木が「その木」であろうとする意志のようなもの。
同じような意志を、主人公だけではなく、この映画の登場人物たちから感じます。


しかしそう思うと、少し見方が変わってきます。

主人公にとって、樵であることは、木に例えればまっすぐ上を向いて成長していく幹であったのかどうか?
それはもしかしたら、枝の方ではなかったのか?
幹だったのは、父親であることではなかったのか?
そこがポッキリ折れてなくなってしまったために、次の枝がぐんぐんと成長し始めたのではないのか?

奥さんとの間に生じた出来事まで考慮に入れれば、こちらの方が当たっているかもしれません。
地域の「先祖になる」というのは、次の枝を幹へと切り替えた生き物の〈悲〉であるのかもしれません。


奥さんは、主人公の住宅再建には反対です。
再建に反対というより、その場所が問題なんだと思います。
津波で流されるのは免れたとはいえ、生命の危機にさらされる体験をした。
その記憶から逃れられない。
より安全な所で暮らしたいと願う。

奥さんにとっては、家庭を守るいう仕事が奥さんが「その人」であろうとする表現なのでしょう。
奥さんが「その人」であるには、その場所ではダメ。

津波を境に、お互い「その人」であろうとする表現が相容れなくなってしまう。
その結果、主人公夫婦は別居することになってしまいます。
これは悲劇なんでしょうか?

この映画で見ていると、そうは感じません。
編集の所為なのか?
それとも、この映画が捉えようとしている〈生命力〉ゆえか? 

その正誤はともかく、〈生命力〉と感じさせたなら、この映画には“魂がこもっている”ということになります。

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