愚慫空論

〈悲〉の響き

小説の方の『あん』について書いたときから、このタイトルで文章を書いてみようと思っていました。

〈悲〉というものの具体的な“形”について。
どのように感覚されるのか、ということについて。


本題に入るまえに、改めて「悲」というものを考えます。
手がかりは「悲」という文字(漢字)ですね。

「悲」という文字は“心に非ず”と構成されています。

心に非ず。
もうこれだけで、なんだか哀しいニュアンスが漂ってしまいますね。
その理由を掘り下げてみると、それは「心」について抱いている私たちのイメージにあることがわかります。

私たちにとって「心」はとても大切なものです。
大切な、プラスのイメージ。
それが、非ずと否定されてると、プラスが転じてマイナスになってしまいます。
このあたりが一般的な「悲」のイメージでしょう。

しかし心は、本当にプラスなのでしょうか?
心は、仏教的に言うならば煩悩の原因です。
喜怒哀楽、これらはみんな心の「ざわめき」なんですね。
つまり不幸というマイナスの種でもある。
そう考えると「心」は必ずしもプラスではありません。

プラスでもマイナスでもない心。
そんな心ではないのだとすると、では何か?
心の奥にあるのもの。
すなわち〈命〉ということになるのではないか。

以上の解釈は小説『あん』について書いた文章で紹介した、野口晴哉著『風の効用』の構えと共通すると思います。


心は「ざわめき」である。
そうだとすると、心は音として感じられるというになります。
これは比喩として言っていますが、完全に比喩というわけでもない。
音楽というものが存在するからです。
音楽というのは「心の形」を音を素材に表現したものです。

そう、今回は音楽で〈悲〉について語ってみたいと思っているんです。
題材は、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番。


実は、この曲については、ずっと以前に一度取り上げたことがあるんです。
語りたいことの中身は基本、同じです。
今回は「〈悲〉の響き」ということに焦点を絞って、それが音楽のなかでどのような形になって現れているのかを語ってみたい。

恥ずかしながら、以前の僕自身の文章を引用してます。こんなふうに書いています。

嘆くとはいっても、ここにいるベートーヴェンは、もはや何ものにも憤ってはいない。かの有名な“ジャジャジャジャーン”の音楽を創作した頃のように、身に降りかかる「運命」と果敢に格闘しようというような気概はすでにない。ここにあるは運命との闘いに破れ、運命がもたらすものを従容と受け入れようとしている哀れな男の姿。運命を受け入れようとし、しかし受け入れられきれず、どうしても心からはみ出してしまう分が哀しみとなって滴り落ちているような、そんな旋律。


そう、ベートーヴェンは“負けた人”なんですね。
徳江さんやラスコーリニコフと同じです。

心を形作る器となるノスタルジーは、ひとりでは作り上げることはできない。親や兄弟や友人などといった周囲からの承認がなければできない。周囲の者たちの手によって捏ね上げられていく。だから器なのであり、こね上げられていった感触の記憶がノスタルジーなのだ。


ノスタルジーは『あん』のなかにもありましたね。
ブラウスの話を通じて“こね上げられていった感触の記憶”も語られていましたね。
それが無残に破壊されたことも。

ノスタルジーが破壊されて、心が壊れる。
心は壊れても、その断片はまだ心なんです。
だから、痛みを感じてしまう。
哀しいものです。

この音楽は、3つの楽章から構成されています。
1つめは、今言ったノスタルジーです。
2つめは、“成功への闘争”と言えばいいでしょうか。

ベートーヴェンは、確かに一度は“成功”しています。
この「成功」から収穫された実りは、本当に豊かなものです。
それだけで十分に偉大な作曲家として名を残せたに違いありません。
これは、社会的なものですね。

ベートーヴェンが“負けた”のは、昔読んだ伝記の記憶を辿ると、家族の問題が原因だったそうです。

3つめの楽章は、負けてしまったベートーヴェンの悲哀と再生の音楽です。
ですから、僕が指摘したい「〈悲〉の響き」もここにあります。

この3つめの音楽は、2つの対比が二度繰り返されるという形、つまり4つの部分で構成されています。
心の痛み。
立ち上がろうしてあがくさま。
壊れた心の断片。
そして再生。

再生の直前に「〈悲〉の響き」はあります。
上に掲げた動画では、18:45付近から始まります。



タン♪ タン♪ タン♪

と和音が3つ、間を置きながら短めに打ち鳴らされる。
その後、先の3つより心持ち長い間を置いて、4つめが今度は響きに余韻を残しながら、打ち鳴らされる。

「〈悲〉の響き」は、この3つめと4つめの間にあります。
3つめと4つめの、少し長めの「間」が「〈悲〉の響き」だと僕が感じるところです。
音楽としては音がないところ。
音がないところにこそ、深い意味がある。

音を追いかけてみると、3つめまでと4つめ以降とでは響きが違います。
これは明白に知覚されるものです。そのように作られていますから。

見づらくて申し訳ないのですが、4つめの音符にはナチュラル記号(「♮」)がついています。
これは、楽譜左端のプラット(「♭」)を打ち消すためのもの。
フラット記号は“半音下げる”という意味ですから、それを打ち消すということは、流れとしては“半音上げる”ということです。
で、4つめは4つの音で構成された和音ですが、その中の一部が変わるということは、響きが変わるということになります。
つまり、3つめまでの響きと、4つめ以降の響きの間には断絶があるんです。

3つめまでの響きを素直に解決しようとすると、落ち着いてしまいます。
心の断片が奏でる音楽を受けた響きが解決してしまうというのは、深淵へ“落ち込んで”しまうということになる。
3楽章の4つの構成の2つめでは、そういう音楽になっています。(13:42付近)
今、焦点を当てているのは、一度は落ち込んだ響きの再チャレンジです。

今度は4つめで違った響きになります。
「跳躍」です。
ほんのかすかな動きだけれど、確実に立ち上がっている。
この「立ち上がり」の直前の間に、立ち上がるため「力」が現れている。
それはもはや「心のエネルギー」ではありません。
心の「ざわめき」「揺らめき」の表現としての音では、表現出来ないもの。
心の奥に秘められている力。
それを言葉で表現すれば「生命力」なんだと思います。

楽曲全体でみたとき、ここらあたりの部分はこの音楽のキモであり、前の記事での言い方に倣えば“底”です。

ここは是非とも、各々の音のに込められたニュアンスも味わっていただきたいところです。
このキモまでは、音楽を奏でるピアニストは「表現をしよう」としています。
言い換えれば「心を込めて」鍵盤を叩いています。
音楽の流れにそって、さまざまに揺らめきながら。

しかし、キモのところにさしかかったとき「心を込める」ことをやめてしまう。
素っ気なく、力なく、3つの音は打ち鳴らされる。
ここには心があってはならないからです。

そして「跳躍」が出てきます。
自らの響きをフィードバックして増幅するかのように音量と力強さを増した音たちは、そのまま何の躊躇もなく駆け登っていく。
生命力のそのものの純粋な発露なんだと思います。

(ちなみに仏教では、この生命力の純粋な喜びの境地を「歓喜自在」というようです。
 そして怖ろしいことに、これは仏の境地の一丁目一番地でしかないと言います。
 仏教が「生命の教え」なんだとしたら、生命にはまだまだこの先に深いところがあるということになります。
 あな、怖ろしや。)

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映画『あん』 

やっと観ることができました。映画のほうの『あん』です。


河瀨直美監督。
そう、河瀬監督の作品だと思いました。
だから(というのは論理的ではないけど)、いい映画です。

といって、僕は「河瀬監督の作品」なんて言えるほど、河瀬さんの作品を観たわけではないんだけど。
『殯の人』だけ。
そのときの印象が蘇ってきます。


この映画が“ベース”してあるのは、「ざわめき」なんだと思いました。

予告編の動画の冒頭。
満開の桜が風に揺れています。
それもかなり強く。

満開の桜は、いえ、桜に限らず、満開の花というものは、静かに咲いていても、それだけでとってもざわざわとした感じがするものです。

物語のクライマックスで徳江さんが彼女の人生を語る場面でも、背景は木の「ざわめき」でした。

「ざわめき」は徳江さんの心を映し出しています。
徳江さんだけではないか。

心の状態がいろいろとあるように「ざわめき」にもいろいろあります。
登場人物の心の状態に合わせて、「ざわめき」が映し出される。
これは、映画や文学など常套手段ですね。

常套手段というのと“ベース”というのとは違います。
いろいろな「ざわめき」が映し出されているけれど、この映画では「ざわめき」そのものが“ベース”にあるような気がするのです。

そういう気がするのは、小説『あん』を読んだからでしょう。
小説の方の“ベース”、というより“底”は、「静けさ」だと思ったから。


“ベース”と“底”の違いを少し説明しますね。
あくまで僕の主観的なところですけど。

“ベース”というのは、平らなんです。
平らということは、共通しているということ。
物語のなかで常にとはいわないけど、頻繁に感じられるということです。

対して“底”というのは、一番深いところといったところ。
物語のなかで。
頻繁には出てきません。一度か二度がぜいぜい。
 

小説の『あん』の感想で、僕は前に conversion ということを書きました
月との対話。
木々との対話。
そう、ここのところが“底”ですね。

これは文章で読んでいるからということもあります。
あるけれど、この“底”では、背景はとても静かなんだと感じます。
徳江さんは、月や木々と対話をしていて、対話の声はあるんだろうけれど、
その背景はしーんと静まりかえっているんじゃないかと感じられます。

映画の方では、そこにも「ざわざわ」があります。
徳江さんの生前のお話しが録音で語られます。
月の話も出てきます。
そこに「ざわざわ」と木々のざわめきの音が重ねられています。

ああ、平らになっちゃった――、と思いました。


「ざわめき」が“ベース”なのと、「静けさ」が“底”なのと。
当然、違いが出てきます。
この違は微妙だけれど、ある部分で決定的に違う。
その違いは、伝わってくるものの差となります。

映画のラストは、千太郎が満開の桜の下でどら焼きを販売するシーンです。
もちろん、ここにも「ざわめき」はある。
公園で休日を楽しむ人たちの声もそうだけど、なにより満開の桜の「ざわめき」。
生命が萌えるときの、穏やかだけれど力強い「ざわめき」。

意気消沈していた千太郎は、徳江さんの遺言と形見に力づけられて一からどら焼きの商売を再開します。
そこには、満開の桜に象徴される穏やかな力強さがある。
再開の前と後を繋いだのは、涙でした。
徳江さんの遺言に心を動かされての涙。
そして、涙にもまた「ざわめき」はある。

ここで伝わってくるものは、「がんばれ」というメッセージです。
徳江さんは、不運なことに、とても辛い境遇におかれたけれど、負けなかった。
だから、あなたも、この千太郎と同じように、負けないで、と。

そのように伝わると、徳江さんや千太郎やワカナちゃんを不自由へと追い込む世間の不条理が浮かび上がってきます。
不条理に負けない人間。
『殯の森』を思い起こしたのも、そういうところからです。



小説の徳江さんは、負けてしまっています。
不条理に心が折れて、なにも無くなってしまった。
「ざわめき」すらも。
そんなところへ、月の声が届くんです。

仮に「ざわめき」を気力だとすると、それがなくなったということは、生きる意欲がなくなったということになります。
これは、生きるのが嫌になったというのとは違います。
千太郎もワカナちゃんも、生きるのが嫌にはなっています。
ですけど、嫌になっているうちは、まだ生きる意欲はもっている。

「ざわめき」が“ベース”としてあるということは、これはずっと繋がっているということなんです。

映画の徳江さんは、生きるの嫌だったことを克服した。負けなかった。
小説では、負けて、気力すらなくなった。
この違いは、とても大きい。

生きる意欲がなくなったということは、ある意味、死んだも同じです。
徳江さんは、一度、死んだ。
でも、蘇った。
だから、月との対話の後の徳江さんは、その前と同じ人物なんだけど別人なんです。

徳江さんを蘇らせたものは、何か。
これを〈生命力〉というんだと僕は思います。
アタマがどれほどくたびれても、黙々と下支えしてくれている力。
アタマが働かなくなっても、それは動いている。
むしろアタマが動かなくなったからこそ、聞こえてくる。

徳江さんの「再生」から伝わってくるメッセージは、「負けても大丈夫」です。
負けても、あなたは生きている。

もちろん、負けることは好ましくないことです。
負けないに越したことはない。
ないけれど、でも、大丈夫。
あなたは生きています。
あなたの〈生命力〉に生かされています。
〈生命力〉が生きてさえいれば、その時々のあなたの状況に応じて「声」を聞くことが出来る。
その「声」が、あなたに生きる意味を教えてくれます。
だから負けても大丈夫です。

『原子力戦争』

こんなん、見てしまいましたww って、感じですかね (^o^)



まず、看板に偽りありです。
ただし、“今となっては”という限定付きですが。

撮影地は福島ですね。それも、原発のすぐ近く。
どうも第二の方みたいだけですけど。

原発も映り込んでいる海岸のシーンの後に主役の原田芳雄が登場して、町の食堂へ入っていく。
そこには「原子力みやげ」の看板がある。

フクシマ以降、「原子力みやげ」の意味が変わっていますよね。
以前の「みやげ」がどのような物品だったかは知らないけど、今では「原子力みやげ」というと、放射性物質を想像してしまう。品の良くない想像ですけれど。

映画タイトルという看板も、そういう構造です。
公開当時と今とでは、言葉が抱えている意味合いが異なってしまっている。
当時の感覚では、『原子力戦争』は“ネタ”だったんです。きっと。
それが“マジ”になってシャレにならなくなった。

なので、今のマジな感覚でこの映画を見ると裏切られます。
最初は、ですけれど。
しかし、見通していくと、実はこの映画は結構マジ(本気)なのが伝わってきます。


ストーリーの構成を簡単に紹介します。

基本はサスペンスかな?
海岸で男女の死体が発見される。どうも心中らしい。
男は原発の技師。女は地元の娘なんだけど、上京していた。

主役の原田芳雄の役柄はやくざ者。いわゆる「ヒモ」です。
死んだのは原田の女だったんですね。
納得いかない原田は、真相を探り(?)やって来る。

この謎解きに佐藤慶演じる新聞記者が絡む。

途中経過はすっ飛ばして、やがて真相は原発事故隠蔽のための殺人事件だったということが明らかになってくる。
炉心の燃料棒が欠損して「チャイナアクシデント」が起きたらしい。
殺された技師はそのことを公表しようとしていた。
心中に見せかけたのは偽装工作。

サスペンスでしょう?
でもね、実はそうは見えない。
その理由は、ことに原田芳雄が体現している「昭和の香り」です。

「昭和の香り」がどんなものなのかには触れずにおきましょう。
『原子力戦争』を視聴する一番の愉悦はここだろうから。
これは、まずは、原田芳雄を楽しむための映画だと思うんですね。

平成の今なら、原田芳雄の役は、たとえば、そう、水谷豊とか。
『相棒』の二時間スペシャルとか劇場版とか、長尺もののネタになっても不思議ではない感じ。
水谷豊がスマートな頭脳派だとすれば、原田芳雄はダサい肉体派とだけ、言っておきましょうか。

では、映画の作りもダサいのかというと、さに非ず。
スマートというより、クールです。今風に言うなら。非常に知的。

この映画はネタがマジになってシャレにならなくなったものだと言いました。
だからいって、ネタなだけではない。
ネタとマジの、ギリギリの境界の上を行っています。

ネタを体現しているのは主に原田芳雄ですが、山口小夜子も特筆しておきましょう。
山口はストーリー的にも裏側の狂言回しのような役柄ですが、なにより存在感がスゴい。

マジを体現しているのは、これは主に佐藤慶ですね。
放射能漏洩疑惑に斬り込んでいくのは、佐藤の役割。

事故隠蔽の親玉である教授に、佐藤が原田を介して入手した証拠資料を手に斬り込むシーンがあるんです。
そこで教授が語るセリフは、とってもマジです。
もっとも僕のような反原発の立場から言わせれば、茶番ですけど。
茶番なのにマジだから救いようないのですが、彼らもそれを自覚しているからこそ隠蔽を謀る。

こういう救われない上にこの上なく迷惑なマジを、しかし、暴き立てるという作りにはなっていないんです。
そこを昭和の香りプンプンのネタで上手にコーティングしてあります。
でも、コーティングだけではない。コーティングだけではクールとは言えませんからね。

追究をする佐藤に対して、本社から圧力がかかります。
で、佐藤は折れるんですね。このあたりがとってもクール。

このあたり、僕は興味津々で筋を追っていたんです。
もし佐藤が「正義」を貫いたなら、ジャーナリズムだけはネタのまんまだったということなるな、と思いつつ。
けれど、僕のイジワルな期待に反して、そうはならなかった。
現実でもそうであろうように、記者は折れた。

ここを描いて見せたことに、映画の本気を感じさせられます。
「茶番と知りつつ折れてしまうマジ」を描くという本気です。
戦争というなら、ここが一番の戦争でしょう。

原作は田原総一朗さんですが、現実にはマジになりきれないという田原さんの限界も含めて、とっても彼らしい作りだと感じました。


翻って。
上で『相棒』の名を挙げましたが、現在の大手TVは映画会社が、原発を題材にした作品を作るでしょうか?
たぶん、無理でしょうね。
例えネタであっても。

当時でも、ネタにしなければ難しかったでしょう。
しかし、逆に言えば、ネタにすれば作品化は出来たと言うこと。
このことは、作品の中でネタに紛れてマジに斬り込むと言うのとは、別次元の話です。

当時は原発安全神話が生きていた。
この映画は神話を揶揄していますが、揶揄できたのは、神話が未だ神話として機能していたからに他なりません。

神話の機能が崩壊した今では、もはや揶揄すらシャレになりません。

『祝の島』




 概要・解説は『ポレポレタイムス社』のHPを

静かな映画です。

視聴を始めてしばらくは、ごめんなさい、眠たかったです。

祝島は上関町に属します。
祝島の人たちは上関町の原発誘致に、ずっと反対している。
島の人たちが町議会に反対の意思表明をするシーンから映画は始まります。
まあ、ありきたり。

その後、島の人たちの具体的な暮らしが淡々と描写されていきます。
この淡々が、結構、長い。
ですけど、眠いのを我慢して(笑)見続けていると、効いてきます。


中国電力が原発建設のための埋め立て工事を行います。
島の人たちは漁船で反対運動に出かける。
船で隊列を組んで、中国電力が雇ったクレーン船が作業できないように。

で、中部電力側の船から勧告があるんですね。
マニュアル通りの。

「あなたたちの行為は違法行為です。
 直ちに退去してください。」

島の人たちは「おまえたちは命懸けで何かをやったことがあるのか!」と応じる。

「命懸け」発言は穏やかではありません。
そもそも「命懸け」と言明すること自体が穏やかではないのですが、
今の日本でも、それ以外の不穏な彩りが付け加わってしまっている。
今、映画を見ている僕はどうしても今の空気に左右されてしまいます。

命懸けなら、何をやってもいいのか?

ちょっと、そんなふうにも思ってしまいました。
もっとも、自身の命懸けを理由に他者の命を奪うような過激すぎるところは、一切ありません。
戦いだけれど、戦争ではありませんから。

「おまえたちは命懸けで何かをやったことがあるのか!」
これは訴えであり同時に挑発だけど、生命のやりとりまではしないという一線は共有されています。

見続けていると伝わってくるのは、この「生命」の在り様です。
「あそこに原発ができると、海が死んでしまう」
老漁師は言います。
冷ややかに突き放すなら、
「それはそうかもしれないが、けれど人間の生命を奪おうというのではない」
という反論があるでしょう。
現に電力会社や行政は漁業補償を出すとしている。
それを拒否しているのは、島の人々の方です。

この齟齬は生命のとらえ方の違いからきています。
お金があれば、今の日本の社会なら命はつなぐことが出来るかもしれない。
けれど、この命は「切り離された生命」です。
最低限の衣食住があれば、とりあえず維持はできる生命。
原発を推進する町や電力会社が捉えている命は、きっとこちらでしょう。

けれど、島の人たちはそうは捉えていない。
生命は繋がっていると思っている。
暮らしを共にする人たちと。
糧を恵んでくれる海や山と。

この映画で多くの時間を費やして描いているのは、生命の具体的な繋がりの有り様です。
こういうのは、パッは伝わらない。じわじわとしか。
じわじわと伝えてくれるんです。この映画は。

それは『アレクセイと泉』にもあったものです。
『あん』にも、あると思う。ただ、全面には出てきません。徳江さんが長年暮らした療養所のなかに、あったのではないか、と。

島の人たちは、みんな「海や山に生きさせてもらっている」と言うんですね。
ありきたりな言葉ですけれど、この感覚こそが原発に反対する意志の中核なっています。

海から魚を捕るのは「私」
田んぼから米を収穫するのは「私」

今の私たちの普通の感覚はこちらでしょう。
梅原猛さんが批判する人間中心主義ですね。
自然を人間の方へ引き寄せている。
自然を“意のまま”にしようと意志する「私」。
そのための科学技術。
原発はその延長線上にあります。

島の人たちは、そんなふうに感覚していないと思います。
自分たちが祝島の自然に寄り添っています。
ここの人たちに「山川草木悉皆成仏」と説けば、しっかり受容されるはず。

いえ、このような島の「暮らし」は、その土地それぞれの風土で外形は異なったとしても、
日本の至る所で展開されていたはずです。
だから「山川草木悉皆成仏」が受容されていた。

でも、残念な現実がこの映画にも映り込んでいます。
それは、梅原猛さんと東浩紀さんの間にあった「断絶」と同様のもの。
そしてもっと具体的なものです。

島の暮らしの次代の担い手がいない。
次の世代の人たちは、もはやほとんど島外で生活を組み立ているという現実。

前の世代と今の世代(といってもすでにご老人ですが)は、しっかり繋がっています。
「暮らし」の具体的な形として。
映画では、そこもしっかり描かれています。
お祖父さんが子や孫のために30年かけて拓いたという棚田がそれです。

僕も樵をやって自然を相手にしていた経験があるのでなんとなく感覚的に理解出来ますが、
あの棚田を拓く労力は、本当に大変なものです。
今なら機械力を使ってわずかな時間で出来上がる。
けど、おそらくあれは、ほとんど人力でしょう。
畜力はあったかもしれませんけど。

子や孫のために、その労働を継続しようという「意志」。
この「意志」を培ったのは、自然に寄り添った暮らしだったのだと思う。
そして、それは今の世代にも受け継がれていて、反原発を貫く「意志」となっています。

でも、それらは次の世代には受け継がれていない。
こういう意志は、学校へ行っても培われません。
如何に秀才でもダメ。
学校で教わることが出来るのは、その「意志」を下支えする感覚が喪失してしまった形骸化された「倫理」だけです。

たとえば、子や孫のために労働べしという「倫理」。
この「倫理」は、島の人には、暮らしに下支えされたごく自然なものに違いありません。
そしてそれは、島の人たちだけではなくて、今の日本でも多くの人が共有する社会規範でもある。
けれど、そのほとんどは、下支え感覚を喪失した上っ面のものにしかなっていない。
他者を攻撃する材料として使われるのが、関の山といったところです。


『祝の島』はいい映画です。
けれど、希望のある映画ではない。
希望の残光を捉えた、というのが適切かもしれません。

『アメリカン・スナイパー』

またしても映画の話です。

3月の半ばから時間ができてしまって。
そんなわけで、今、映画モードなんです。



この映画をいい映画言っていいかどうかは微妙です。
いろいろな意味で混乱しています。

作品としてまとまっていないという部分もあります。
だけど、まとまっていないから悪い作品ということには必ずしもなりません。
分裂した印象を与えるからこそ、大きく訴えかけるものがある。
そういったことだってあるからです。

この映画は、そういうまとまりのなさが良い方へ作用している面と、悪い方へ作用している面と、両方あるように感じられます。

良い部分。
戦争を扱った作品ですが、単純な勧善懲悪のエンターテイメントではないということ。
この映画のテーマは、戦争の大義名分である「正義」が人間を心を引き裂くというところにあります。
引き裂かれているんだから、分裂していていいんです。

この映画は実在の人物の自叙伝の実写化なんだそう。
その宣伝の効果もあるのでしょう、主人公クリスの心が“引き裂かれる”シーンには引き込まれるものがあります。

とはいうものの、「分裂」の掘り下げは不十分だと感じます。
単純なエンターテイメントではないとは申し上げましたが、けれどやっぱりエンターテイメントの枠から完全に飛び出しているわけではない。
その意味では中途半端です。
エンターテイメントの手法とテーマの食い違い。
ここは完全に昇華されているとは言い難い。
良くない部分ですね。

しかし、逆に言うと、エンターテイメントの枠のなかでは十分に健闘した作品だと言っていいのかもしれません。
エンターテイメントに求められる爽快感は、あまりありません。
なのに、十分に見られる映画にはなっていて、鑑賞後は考えさせられる作品になっている。
このあたりは、監督のイーストウッドの手腕なのかな、と。
繰り返し見たいとは思いませんが...。



(映画とは直接関係ありませんが、相応しいと思うので挿入しておきます。
 スティングの『フラジャイル』。)

人間は本能の壊れた動物である。
そう言ったのは、確か岸田秀だったと思います。
説得力のある言葉です。
『アメリカン・スナイパー』を見ると、その言をもう一歩進めた方がいいのではないかと思ってしまいます。

  人間は本能を自ら壊す動物である――

人間には、一個の動物として部分があります。「ヒト」と書き表しましょう。
動物としての本能がもっとも強く作用する、人間の「ヒト」としての部分。

しかし「ヒト」は、個としては生存能力に劣る。
だから生存戦略として集団であることを選択しました。
「ヒト」は生き抜くために社会を営む「人間」となった。
「人間」の部分もまた、強く本能が働く部分です。

前回取り上げた『アレクセイと泉』は、人間の「ヒト」としての部分と「人間」としての部分とのみごとな調和が描写された作品でした。
年老いて、生命の摂理にしたがって、「ヒト」として生き抜く期間を終えようとしている人たち。
「ヒト」としての終わりを「人間」としての幸福の中で迎える。
豊かさとは、「幸せの十分条件」を満たすことであると伝えてくれる映画。

『アメリカン・スナイパー』のクリスは、個としての生存能力に秀でた人物のようです。
しかも、健全な『ヒト』としての本能を持っている。

物語の前半部分。
恋人と巡り会って結ばれ、 軍人としても一人前になり、幸せな家庭を築いていきます.
このあたりの構成は『愛と青春の旅立ち』のパロディでしょう。

『愛と青春――』では、一人前になった主人公が戦場に赴くことはありませんでした。
軍人もひとつの職業。生活を築くための方法でしかなかった。
それからすれば、『アメリカン――』は『愛と青春――』の続編と言っていいのかもしれません。


「ヒト」は生き抜くために「人間」になる必要がありました。
「ヒト」は食べなければ生きていけない。
されど、食べるだけでは「人間」ではない。
他の生命を、時に殺し、時に育む。
それは必要に迫られてそうするのですが、“必要”という言葉が示す単純な合理性だけで表現しきれるものではありません。
神秘的と言いたくなるような複雑な調和がそこには存在します。
この「調和」は人間の本能が作り出すものだと僕は思います。

戦争はその「調和」を根こそぎ破壊してしまいます。
軍人を職業として選択したクリスは、一方で「調和」を破壊しつつ、一方で「調和」を追い求める。
クリスは戦場で敵と判断した人間を狙撃しながら、同時に妻とも繋がっている。

こんなシーンがあります。
宿った新たな生命は男の子であると、戦場にいるクリスに妻が電話で告げる。
その言葉が届かないうちに、クリスは戦闘に巻き込まれる。
妻は、電話を介して「戦場」を感じる。
引き裂かれ感がよく出ているシーンです。

職業を選択する、というのは社会の中で生きる人間の行為です。
職業に就くことによって、「人間」は「社会人」になる。
「社会人」とは、その社会に埋没して生きていくということ。

そこが戦争をする社会であれば、軍人という職業選択肢もそのひとつでしかありません。
他の職業と同じように、軍にだって夢も希望も達成感もある。
あると宣伝され、そう思い込んで使命感を抱き、目的に向かって邁進する。
実に「人間」的です。
人間としての本能が健全に作用して「人間」的であるがゆえに、良き「社会人」となる。
クリスはそういう人間として描かれています。

ところが社会は戦争をする。
戦争とは、「人間」の敵が「人間」になってしまうことです。
そして戦争は必要なことだと宣伝されています。
けれど、本当にそうなのでしょうか?

『アメリカン・スナイパー』は、この疑問には何も回答しません。
戦争をする社会は、そういうものだと無条件で提示される物語の前提でしかない。
この物語では良き「社会人」でありことが「人間」を蝕んでいってしまいます。

もう一度繰り返しておきましょう。
『アメリカン・スナイパー』は、実在の人物の叙述を映画化したものです。

『アレクセイと泉』

いい映画でした。


舞台となる〈泉〉は、1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発(旧ソ連・現ウクライナ共和国)の爆発事故で被災した、ベラルーシ共和国東南部にある小さな村ブジシチェにある。
この村の学校跡からも、畑からも、森からも、採集されるキノコからも放射能が検出されるが、
不思議なことに、この〈泉〉からは検出されない。
「なぜって?それは百年前の水だからさ」と、村人たちは自慢そうに答える。

この百年、人間は何の豊かさを求めてきたのだろう。
《水の惑星=地球》の強い意志のようにこんこんと湧く〈泉〉は、私たちに"本当の豊かさとは何か"を静謐に語りかける。



本当の豊かさとは、何か。
これはとても難しい問いです。

なぜ難しいか。
とっても複雑なことだから。
複雑すぎて、簡単に言葉に出来ない。
言葉に出来ないけれど、なんとか表現しようとすると、こういう作品が生まれます。

なのに、そういう作品を見て言葉を綴ろうとする。
自己満足のため? 
たぶん、そうなんですが、そこを超えた欲もまた、ある。
承認欲求というやつでしょうか。


それは、さておき。


この映画の視聴中、父親のことを思い出していました。
末期の癌で自宅で死を待っているということは、少し前に書きました
同じ問いを、この映画も問いかけていると思いました。

幸せに死ぬというのは、どういうことか。

こんな記事もありました。

穏やかに旅立てる…死の間際に「お迎え」がくる現象を約4割が体験


・死の間際に亡くなった人々が枕元に立つ「お迎え現象」
・366人のアンケート回答によると、約4割が体験したと答えていた
・医療現場ではよく知られており、医学的には「せん妄」と診断されている
・「お迎え現象」が起こるのは自宅が圧倒的に多い
  ・「お迎え現象」は、人間に備わった死の恐怖を和らげる自衛作用

“自衛作用”と科学的に書いてしまうと身も蓋もありません。
まだ(幸いにも?)死を当事者でないものからすれば、そういう意味合いでしかないでしょう。
ですけど、死にゆく当事者にしてみれば、自身の幸不幸に関わることです。

重要だと思うのは、病院よりも自宅での方が「現象」が起こる率が高いこと。
「お迎え現象」が“自衛作用”だとして、では、その作用の発動率に大きな違いがあるのはなぜか?
(なお、「お迎え現象」がないと不幸だといっているわけではないので、念のため。)


1986年4月26日。
映画の舞台になったブジシチェから南西に180キロ離れたチェルノブイリで原発で、臨界事故が起きました。
そして、ブジシチェ村には政府から退避勧告が出ます。
多くの人がそれにしたがって村を去って行った。
ブジシチェ村は、地図から抹消されてしまいます。

 (チェルノブイリ原発の生々しい画像【原発事故】 - NAVER まとめ

にも関わらず、55人の老人と1人の若者が村に残りました。

ヒトに限らず動物は死を恐れます。本能的に。
さらにヒトは、抽象的な恐怖を理解します。
政府から村で暮らしていては危険だと言われたら、死の恐怖に駆られるのは自然なことです。
だから大半の者は村か去った。

ブジシチェ村から、チェルノブイリ近辺と変わらないくらいの放射能が検出されます。
ただ、村の中心に湧く泉だけからは放射能はまったく検出されない。

村に残った人たちにとって、泉から放射能が検出されないという事実が心の拠り所です。
それは映画から強く伝わってきます。
村の人々にとって、泉は「奇跡」なんです。
100年前の水だから放射能が検出されない――そのような科学的事実を超えた意味が泉にはある。
奇跡の泉は、村の人々に“自衛作用”を発動させる要件になっています。

映画が伝えてくるのは「奇跡」のだけではありません。
村で営まれる日常の暮らし。
馬がいて、犬がいて、猫がいて。
豚。鶏。ガチョウ。
夏になると収穫されるジャガイモ。
秋に実るリンゴ。
たくさんの生命のなかに自分たちの暮らしがある。
自分(たち)の場所です。

「お迎え現象」という「奇跡」の大きな発動要件は、自宅であるということでした。
日常の暮らしとは、自身の“生命活動の在処”です。

アレクセイという若者の存在もまた「奇跡」です。
彼がいないと、どうしても村の暮らしが成り立たない部分がある。
老人たちにとって「奇跡」は必要でしょう。
けれど、まだ若い彼にとっては必要なのかは疑問です。
ただ、両親との暮らしは彼にとって大切なもの。


本当の豊かさと幸せは、人間にとって深く繋がったものです。
本当の豊かさとは何かという問いと、幸福とは何かという問いは、ほとんど同じ問いでしょう。

ヒトはひとりでもヒトです。
けれど、ひとりでは人間ではない。

末期癌患者がヒトひとりとして生存を追求するのであれば、自宅でより病院で看護してもらう方が合理的でしょう。
病院の方が設備が整っているのは確実ですから。
また、ヒトひとり生きて行くことの合理性を追求するなら、放射能汚染のない場所の方が良いに決まっています。

生きていなければ、幸福もなにもありません。
けれど、残念なことに、「生きていること」は幸福の必要条件ではあっても十分条件ではない。
ヒトひとりでは人間になれないヒトにとって、このことは本能といっていい。
ヒトは本質的に社会的な動物だ、ということです。

『アレクセイと泉』が提示してくれたのは、「幸福の十分条件」なんだと思います。

哲学者って、何ものだろう?


「あの日」から、5年あまり。
思うところ&偶然とがあって、「あの日」のことを取り上げたもの、検証したものとか、論じたものとか、いくつか読んだり視聴したりしています。
主に、NHKだったりします。

そんな中で今回とりあげてみたいのは、

  3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく

放映日は、「あの日」からほぼ一年後。
一年後に放映された番組を、五年後に見てみるとどう感じたか。
そのあたりを少し書いてみます。

梅原さんは、日本を代表する“日本の”哲学者、と言っていいと思います。
“日本の”というのは、日本の思想や宗教観などをベースにしている、ということです。
梅原さんが番組で語られた思想も、「草木国土悉皆成仏」という言葉に代表されるように、日本の思想が展開されていました。そんでもって、

 人間中心主義の西洋近代文明はダメ
 新たな文明の在り方を、日本思想をベースに構築したい

紛れもなく“日本の”哲学者ですね。

片や東浩紀さん。
この人も、梅原武さんとは違った意味で“日本の”哲学者なんだと思います。
どう違うかというと、梅原さんが日本の伝統的な思想に立脚しているのに対して、東さんは、主に現代の潮流が舞台。
「オタク」という言葉を持ち出しておけば、間違いなく的に当たる。

で、このおふたかたの対談なんですが――正直、がっかりでした。
「伝わっていない」ということが、画面からひしひし伝わってくる。
映像というものの情報量はすごいものです。

タイトルから想像がつくように、主に語るのは梅原さんで東さんは聞き手という構成なんですが、
このふたりの間にはとても大きな断絶があって、それが超えられないんですね。
超えられない断絶こそが、まさに今の日本の姿。

インド発中国経由の思想を、「草木国土悉皆成仏」という独自の共生思想に高めた日本。
そんな日本のはずだったのに。
世界でもっとも原発に向いていない国土に数十発の原発を立ち並べ、
5年後の現在は、何事もなかったかのように、再稼動をさせる。

番組の後半で梅原さんが『一粒の麦もし死なずば』を持ち出して、自身の思想の“種”が受け継がれる希望を語っていましたが、
そしてそれこそ梅原さん自身もおっしゃったように哲学者の役割なんでしょうが、
だったら、東浩紀という土壌にしっかりと着地するところが見たかった。

梅原さんは、西洋近代文明を批判していましたけれど、
その西洋文明では、哲学という方面において、原発はダメだという結論を出しています。
代表は、この著作でしょう。

著者のウルリッヒ・ベックは先頃亡くなったと聞きましたが、
氏はドイツの脱原発に深く関わっています。
福島原発事故を受けてのドイツの政策決定の場に招かれている。

梅原さんも復興会議に招かれていたというのは番組で紹介されていました。
その場で「文明災」という言葉を提出しましたが、
私たちの日本では「文明災の種」は刈り取られることなく、再び国土に蒔かれてしまった。

確かに原発を生んだのは人間中心主義の西洋近代文明ですが、
その人間中心主義の哲学は、原発のリスクは制御できないと認識しています。
そして、その認識は政策に反映された。
つまり、繋がっているんです。
哲学と政治が。

翻って、日本においては、世代の違いはあるとはいえ、哲学者の間ですら、繋がっていません。
その断絶の、もっとも象徴的な部分。
梅原さんの「草木国土悉皆成仏」に、東さんが「オタク」で応えたところ。

「現代の日本には、非人間的なものを擬人化したキャラクターを創造する、世界に類をみない日本独自の文化がある。」

今更告白するまでもありません。
ボクはオタク文化が好きです。
萌えキャラに違和感を感じません。
楽しむことができます。
世界に冠たる日本の文化だという意見に賛成です。

でも「草木国土悉皆成仏」とは比較になりません。
思想的な深度において。

世界的な有名な日本の哲学者、というより宗教家。
鈴木大拙の代表著作『日本的霊性』


「霊性」というのは、思想的深度のことだと理解していいでしょう。
深度がある一定レベル以上に達した思想は霊性を有する。

大拙の指摘に拠るなら、日本の思想が霊性を持つに至るには鎌倉時代を待たなければならない。
平安の時代にも花鳥風月を愛でる「雅」の心性はあったが、霊性を得るには至っていない。
浄土真宗と禅の登場によって、日本の思想は霊性を獲得するに至った――
「草木国土悉皆成仏」は、浄土真宗から派生した思想だったと思います。

「オタク」の心性は日本独自です。
が、並べるべきは「雅」でしょう。
「草木国土悉皆成仏」とは比べられません。

現代の日本は、平安時代の再帰なのでしょう。
西洋近代文明の果実たる科学技術のおかげで、消費者という名の貴族が登場した。
日本の消費の多様性は、最近は「ガラパゴス化」と揶揄されたりもしますが、世界でも類をみないと言われます。
もはや貴族的と言っていい。
かような「庶民貴族」が出現したのも、もしかしたら日本独自なのかもしれません。

現代が平安時代の再帰であるとするなら、政治もまたそうであるのかもしれません。
国家の秩序を担うはずの貴族が権勢を恣にし、社会の秩序を食い荒らした。
その結果、社会秩序は荒廃。
社会秩序の再構築は、武士たちの手に委ねられることになる。
そして霊性を得るに至った日本の思想は、新たな秩序の担い手たちの精神的支柱になりました。


思想的深度を測ることができない哲学者とは、いったい、何ものなのでしょうか?
また、思想的深度を測ることができない哲学者に「種」を託す哲学者とは?
(もっとも、梅原さんに「オタク」の深度を測れというのは酷な要求でしょうが...)
すべてがテレビ的予定調和の枠のなかで治まってしまっている。
すなわち視聴たる「消費貴族」に供されるための哲学。

哲学者が営々と組み立てた「種」も、消費の糧に供されてしまっては芽が出る希望など持ちようがないのではないでしょうか。
「あの日」から5年。
震災によって生まれた「もののあわれ」もまた「消費貴族」たちに消費されてきました。
平安時代のごとく無責任な政治が跋扈する日本社会の、その端的な姿を改めて見せられたようで、とても暗い気持ちになってしまいました。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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