愚慫空論

【復讐】の連鎖

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ボクは、これは復讐なんだと思います。


誰が? 誰への?

ことの顛末は次の通り。

・冬の富士山の山頂付近で遭難事故発生。
・要請を受けた静岡市消防局がヘリを出動、救助に向かう。
・救助に失敗。
・遺族が静岡市を提訴。
・ネットで騒ぎ。

ありがちなパターンです。
そして「自己責任論」。

 危険を危険を承知で冬の富士山へ行ったのだから、救助に失敗したからとって、ヒドいだろう。
 だったら、なぜ、そんな危険な行為を許したんだ?

提訴されてしまう要素はあるようです。
というのは、救助隊は一旦は遭難者のピックアップに成功しているんです。
遭難者をヘリから降ろしたロープでつり上げて、ヘリに収納しようとしたところで、落っことしてしまった。
痛恨のミス、というやつです。

遺族にしてみれば、そこでそんなミスをしでなさなければ――、という怒りが湧くのは、致し方ないかもしれません。

とはいえ、救助に当たったレスキュー隊員がベストを尽くさなかったというわけではない。
(ネットからの情報によるところでは)
・標高3500mでのレスキューは、訓練も含め、初。
・もっと確実な確保手段はあったが、すでに男性は意識を失っていて、確実性より迅速性を優先した。
・気象条件は厳しく、隊員も凍傷を負っていた。
(これもネットによると)当時の音声記録が残っているらしいのですが、本当にギリギリの状況だったようです。
嘘偽りなく、命がけ。

だからこそ、ミスは“痛恨”だったろうと想像します。
誰にとって? 救助に当たった隊員にとって。

その証拠といっていいでしょう。
件の隊員は、再度の救出を志願したらしい。
落としてしまった遭難者の再度のピックアップにトライしてみたい。
が、これは隊長が許可しなかった。
全体の状況を鑑みれば、二次遭難の危険が高かった。
やむを得ず、撤退。
結果、遭難者の男性は死亡。

事の経緯を、結果だけ見れば、ミスであることは明白です。
そのミスから遭難者が死に至ったのは、ほぼ確実。
その瑕疵を責め立てる権利は、遺族にはある。
提訴するか否かの選択権があるわけです。

それを遺族は行使した。
救助の状況を遺族は知らされなかったはずはありません。
にもかかわらず、遺族は瑕疵を責める選択をした。

その提訴を受けて、でしょう。
静岡市はある決断を下します。
標高3200m以上でのヘリコプターでの救出作業は、今後行わない。
3200mを越える山は富士山しかありませんから、富士山頂部での救出はしないことにした。

遭難事故は場所を選びません。
可能性で言うなら、標高の高いところの方が高いといえる。
遭難の可能性が高いところは、救助における危険性も高い。
今回の事件を受けて、それが標高3200mというラインで線引きが為された。
この線引きが、今後、様々に影響してくることになるでしょう。


不幸な事故を始点とした【不幸】な事件だと思います。
事件というのは、ネットで騒がれたことも含めて。
ボクがネットの片隅で取り上げているこの文章もまた、「事件」に含まれます。
含まれますが、ボクの想いは、わずかでも不幸な連鎖を止められたら、というものです。
性善説を唱える者の責任なのかもしれません。


【不幸】はどこから始まったか?
遺族の【復讐】からです。

そもそもでいうなら、登山という行為は「愚行」です。
それをすることで誰も得する者はいない。

いえ、誰もいないというのは言い過ぎですね。

危険行為にはそれなりの準備が必要です。
体力、経験、装備。
体力を養うのも、経験を積むのも、装備を調えるのも、すべて経済活動。
なので、そのことで利潤を得る人もいる。

問題はバランスです。
冬山への登山行為は上級者のものです。
体力、経験、装備、どれも整えるのに多くの経済活動が必要ではある。
その分、利潤を得る人も増えるわけだけれど、登山という行為の性質上、上級ほどリスクが増す。
利潤とリスクのバランスからいうと、冬山登山は愚行と考えられることになる。

では、愚行は禁止するべきかというと、そう簡単ではない。
もっと、そもそもでいうなら、人間は合理的な生き物ではない。
不合理な行為を敢えて行おうとする〈気概〉を持つ生き物。
善き社会とは、そのような〈気概〉を受容する社会だと言っていいでしょう。

その観点からすれば、冬山登山を行ったこと自体、愚行であるとはいえ善くないとは言えません。
一方で、愚行を禁止することは善くないといえる。
家族が愚行を容認したことは〈気概〉を認めたということですから善いと言えると思います。

しかし、残念なことに、リスクは善行と関係がありません。
(結果としては)不運にも、事故が起こった。

事故を受けて、レスキュー隊員が救助に向かった。
この行為は、そういう体制を整えている行政の仕組みも含めて、文句なしに善行です。

合理的に考えるなら、救助を行うという行為も愚行なんです。
救助活動だって経済活動ではあります。しかし、それに見合わないリスクがある。
にも関わらず、これまではそんな愚行を行ってきた。行う準備があった。
理由は〈気概〉でしょう。
ミスはしたかもしれないけれど、レスキュー隊はその〈気概〉を示したと思います。

ここまでは、結果は不運であり、個人的には不幸な出来事が生じたかもしれないけれど、
社会としては善きことだったんです。

それが、逆転を始めた。
その始点は、遺族の提訴です。

これまたそもそもでいうなら、救助活動そのものが愚行です。
そのことは今回の「事件」で明らかです。
静岡市は、富士山での救助活動が(言葉の上ではどうかは知りませんが)愚行だと認めて、今後やらないと決めた。
リスクから考えれば合理的な判断といわざるを得ない。


遺族は自分の個人的な不幸の【復讐】をした。
誰に? 社会に、です。

そもそもの原因というなら、家族自身の愚行です。
それを許した自身の判断の誤りです。
しかし、そんなことを認めても、自身に降りかかった不幸が覆るわけではない。

【復讐】の対象は個人でもよかったかも知れません。
ミスを犯した隊員。あるいは撤退の判断をした隊長とか。
けれど(これはボクの想像ですが)〈気概〉を示した彼らには【復讐】はできかった。

個人には【復讐】出来ない。
が、不幸を受容出来ない。
だから社会に【復讐】することにした。
相手が必要だったから、静岡市にした。

なんとも残念で、不幸なことです。
こういったことが本当に残念なのは、個人的な不幸の受容を、だれも強制することができないということです。
もう完全に個人的な“心”の問題だから。

社会はそれを抑圧することはできます。
できますが、それは蛮行であり暴力の行使です。
それに、たとえ一旦は出来たとしても、別の形で吹き出してくることになる。
受容出来なかった不幸は、必ず誰かに転嫁されます。

「必ず」です。
そして、それは大抵弱者です。
その人より弱い者です。


そうした【復讐】の行動は、静岡市にも見て取れます。
彼らもまた【復讐】をした。
誰に? 未来の遭難者に、です。

ネットもまた、【復讐】に反応します。
遺族を愚かだといって攻撃する。
確かに、今回の「逆転劇」の始点は遺族です。
けれど、そういう自分だって、その逆転に荷担している。

遺族が不幸を受容出来なかったことは、誰にもどうしようもないことです。
天災や(今回のような)不運な事故がどうしようもなく起きてしまうように、
遺族の【復讐】は、どうしようもなくおきてしまうものです。

その【復讐】は、社会を悪しきものへと改悪していく力となる。
けれど、そこで社会正義を振りかざして攻撃することは、これまた【復讐】です。
遺族と同じく、どうしようもなく降りかかった不運を、個人的に受容出来ないんです。

これもまた想像でしかありません。
遺族だって、ギリギリなんだろうと思います。
ギリギリのところで(社会的な)過ちを犯した。
それを第三者が批判する権利があるというなら、ギリギリの状況であったといえ、痛恨のミスを犯してしまった者を遺族が責め立てる権利を認めないわけにはいきません。

過ちは責めてはいけません。
過ちを受容出来ない者を責めてはいけません。
過ちを受容出来ない者を受容することでしか、【復讐】の連鎖は止まりません。

【復讐】の連鎖がこのまま進めば、どうなるか?
登山といった愚行は、お金持ち以外は不可能ということになるだろうと予測します。
【復讐】のリスクに耐えることができる保険が売り出され、
それは当然、高額なものになり。
そんな高額商品を購入出来る少数の者以外は、事実上愚行が規制させてしまう社会。

愚行を行う自由ですら、金銭の多寡で制約される社会が幸せな社会だとは、ボクには思えません。

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「ゲスの極み」に草生えるw


ネットのニュースでその存在を始めて知ったのですけど。
「ゲスの極み」なんて言葉を名乗っているバンドがあって、人気なんですね (^_^;)

で、ちょっと検索してみたら、



ああ、これは「かぶき者」ですな。

かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。


「傾き」は、「歌舞伎」とも書きます。
伝統芸能・歌舞伎の源流ですね。

このバンド、そういうのを意識しているんじゃないかな?

常識を逸脱した行動に走る――“不倫”というはその典型ですからね~~wwww
あ~、草生えるわ~wwww

それで、「かぶき者」といえば、前田慶次ですね。
マンガで有名になりました。ボクもそれで知りました。
『花の慶次』というやつ。
あの『北斗の拳』の次の連載だったので、初めの方だけ読んでいたのが記憶にあります。

今では「傾(かぶ)き」は、一時的な流行を超えて、時代の精神にまでなっているんじゃないですかね?
ロックというのも、そうでしょう。
生まれは海外だとしても、その精神はやっぱり「かぶき」のそれ。
時代に反発して「傾(かぶ)く」のは、それはそれで健全なことでしょう。

健全だからこそ、惹かれる者も出てくる。


彼女、いいと思います。

バラエティーは関心無いのでよくは知りません。
今でもよく知りません。
「元気の押し売り」とあだ名を付けられたということくらいしか知りませんww
あくまで想像ですけど決して“押し売り”ではないんだな、と。

それにしても気の毒ですね、彼女。
「傾(かぶ)き」の犠牲者だと思います。
いろいろな意味で。

ところで、上で紹介した音楽なんですけど、

 「なるほど、才能あるね♪」

というのがボクの感想です。
が、好みではありません。ボクには傾(かぶ)き過ぎて、違和感の方が強い。
確信犯的に不健全な方向性を打ち出していると感じます。
ネットニュースで伝えられる振る舞いに、それは一致しているようにも思える。
(ところが、歌の歌詞は健全なんです、、、)

ボクは、やっぱり健全性を志向したものが好みです。
「数寄者」の方ですね。

今の音楽で「数寄」というと、これでしょうかね?



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ボクたちは、いったい、いつまで争いあえばいいのだろう?




雪です。
ボクの周辺でも、4~50cmは積もったようです。

アラウンド・フィフティーンになっても、雪が積もるとなぜか心が浮き立ちます。
子どもの頃のような、ウキウキ、ワクワクというのとは、ちょっと違いますけど。

ウチの犬たちは、もう10歳を超えた老犬の域に達していますけど、それでも嬉しそうに雪の中に飛び込んでいきました。
ボクにもはや、そんな元気はないけれど、でも、そういう感覚はまだ、どこかに残っていて。たぶん。
生命が沸き立つ感覚。
それと、心が洗われる、といった感覚。

年々、後者の方に傾いて行っていると感じます。



そんなわけで――って、なにが“そんなわけ”なのかは上手く言えませんが、
次に書く心づもりでいたことはやめにして、このタイトルにすることにしました。
心が洗われて、ゲスなことwはどこかに行ってしまいましたが、そのかわり、浮き彫りになって出てきた言葉です。



僕たちは、いったい、いつまで争いあわなければいけないのか?

生存競争ということはあります。
生きるためには食べなければなりません。

人はパンのみによって生きるに非ず。
されど、パンなくして生きること能わず。

食べるために「死にものぐるい」になるのは、生あるものとしてごく自然な行動です。

ボクが、積もった雪に飛び込むといった衝動をまだ抱えていた頃に読んだある歴史小説が思い出されます。



ボクがこの小説で一番印象に残っているのは、主人公政宗の活躍ではないんです。
当時の戦争――というより戦(いくさ)というべきでしょうか――の有様です。

当時の日本、いわゆる戦国時代は、兵農分離が進んでいませんでした。
兵農分離を行ったのは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉で、いわゆる「刀狩り」という政策。
この小説を読む以前から、そうした(受験的)知識はありましたが、
では、その実態はというと、知らなかった。

農民が兵士でもあるということは、戦争は農繁期にはできないということ。
食うために忙しいときに、他人と争っている暇はありません。
だから戦(いくさ)は、農閑期に行う「季節行事」だった。

政宗は最後は今の仙台を本拠地にしましたが、出身は米沢だそうです。
仙台よりもずっと雪深いところ。
戦(いくさ)は、農繁期もできないし、雪が深くなってもできない。
なので、雪が降る前の晩秋から初冬にかけての行事だった。

今の感覚で言えば、疑問があります。
なぜ、そんな季節行事にしか過ぎないものに、命がけで従事しなければならないのか?
人間はそんなに戦争が好きなのか?
あるいは、それほど当時は憎悪に満ちた世界だったのか?

そうではない。これもまた、食べるためだった。

他国の領民から食糧を奪う。
農民が、いわば副業で兵士になるのは、これもまた食べるためだった。

大人が食べるためだけだったら、食糧は自己生産分だけで間に合ったかも知れない。
けれど、今よりずっと出生率は高かった。
子どもが次々産まれた。
その子たちを食べさせなければならない。食べさせてあげたい。
けれど、手元には十分な量がない。

では、どうするか?
有るところから、持ってくる。
どこにあるかは知っている。
誰がもっているかも知っている。
その人たちは、自分たちと同じような境遇の人たちだということも知っている。

見知らぬ人の窮乏と、今、目の前にいる身近な者の窮乏と。
どちらが切迫しているか?

答えは考えるまでもありません。
ごく原始的な身体感覚が応えてくれます。

だから戦(いくさ)が起こった。
それには、生物学的といっていい理由があった。
(だから「性悪」だということも出来ます...)


翻って、現代です。

今現在、世間を騒がせているニュースにこんなのがあります。


「CoCo壱番屋」というカレーチェーンから出た廃棄物が、産廃業によって横流しされ、食品として販売されていたという事件です。

一言で言って、ひどい話です。
何が酷いかって、社会秩序を乱す事件だからです。

口に入るものは、誰もが安全・安心を求めます。
が、いちいちそれを証明するのは難しい。
やろうとすると膨大なコストがかかってしまう。
だから「信頼」というのが重要になる。

それなくしては商品経済は成立しないと言っていいほど、信頼は重要な要素です。
その信頼を失墜せしめた。
ことは重大です。

ですけれど、「ひどい」の一言で断罪するだけでは足りないものがある。
何か取りこぼしたような残務感が残ります。

そう思っていたら、こんなニュースが引っかかりました。


これまた、ひどいと思いました。
小倉氏の発言のどこが、珍発言なのか?

幸いなことに、日本とシリアは遠く離れています。
というより、日本は島国ですから、地勢的に他の地域とは分離されている。
シリアが北朝鮮でもいいんですが、隔絶されているため、文明の利器たる交通手段がなければ、簡単にはやってこれません。

けれど、もし、簡単にやってこれたらどうなるか。
中国の歴史や中東とヨーロッパの現在の状況にようになる。
難民が押し寄せてきます。

商品経済に慣れきった日本人の感覚からすれば、廃棄物は商品ではなく、商品でないものは食品ではない。
では、本当に食べることができないのか?

本当は食べることができるということは、誰だって識っています。
万全の安全・安心がないだけ。
万が一、お腹を壊すかも知れない。
不運だと死に至ることもあるかもしれない。
そういうリスクはあります。

が、“食糧”には十分なり得る。
もしそうでないなら、販売は不可能です。
廃棄物とはいいながら、実はそのリスクは極めて惹くから、商品だという詐欺を働かせることができる。
だから立派に“食糧”です。
飢えた人間なら、その程度のリスクをものともせず、喜んで食べるに違いない。
シリアに行かなくても、日本の国内でもそんな状況の人は、もはや少なくない。

社会秩序。安心、安全。信頼。
これらは確かに必要です。
ボクだって、これらが失われるのは困る。とても困ります。
たとえシリアの子どもたちの飢えていようとも、私たちの「秩序」をなくすわけにはいきません。

だから、戦争が起きます。
私たちの「万が一」のために。
私たちの「万が一」は、私たちだけで完結しているわけではない。
誰かから奪っています。
「秩序」には、そういう略奪も含まれています。
見えにくいだけの話です。
これまではアメリカがそういう「秩序」を率先して維持してくれていたので。
アメリカという国にそれだけの【実力】があり、率先して維持することがかの国の国益とやらにも適っていたから。

それがここに来て、アメリカの実力が低下してきた。
けれど、「秩序」は大切でしょ?
だったら、日本も【実力】を行使しろよ!
安保法制云々は、とどのつまりはそういう話なんだと思います。

【実力】を行使するというのは、争うということです。
飢えている人がいても、食糧を廃棄して、「万が一」を守る。
「万が一」が守られる秩序を守る。


これしか方法がないというならば仕方ありません。
でも、本当にそうか?
「これしかない」というのは、反知性主義ではないのか?
安保法制を支持する立場の人たちは、そういうことのはずです。

現在、世界で生産されている食糧の1/3は廃棄物とされていると言います。
それが事実なら(たぶん事実でしょう)、「これしかない」はご都合主義だとボクには思えます。

過去は、食糧の絶対量が足らなかった。
未来は、また足りなくなるかも知れない。
が、現在は、足りている。

なのに戦争はなくならない。
だとするならば、その理由は生物学的なところにあるのではない、ということです。
もしくは、生物学的に理由がなくても争わずにいられない、ヒトはそういう生き物、つまりは性悪だということです。
ボクは後者は支持しません。

だとすると、何処かに原因があるはずです。
どこにあるのか?
そして、それは変えることができないのか?

原因は突き止められるし、変えることもできるとボクは思っています。
その原因を、自分の中に探すのなら。


性善説



いまさらですが、性善説です。

ヒトの本性は善か悪か?

ボクは善の立場に立ちます。
そのように確信しています。
その確信を改めて自分の言葉にしてみたいと思って、この文章を書いてみます。


いつもながら、少し遠くから文章を出発させてみます。

「反知性主義」という言葉が昨年はよく取り上げられたようです。
どうやら、特定の人物を政治的かつ人格的に揶揄する言葉として多用されていたようです。
ボクも少々興味を惹かれて、こんな本を読んでみたりしました。
あ、揶揄に惹かれたんではないです。
それは後から知りました。


反知性主義とは、佐藤氏の定義によるならば、

「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」

だそうです。
この定義は、妥当であるように思えます。
そして、この定義に従って、人間の性善/性悪を判定するならば、それは性悪だとするのが妥当でしょう。
してみれば、ボクの性善説への確信は、反知性主義だということになります。

でも、ボクはそうは思いません。
性善への確信から出発することこそが知性だと思っています。


揶揄の言葉としての反知性主義とは、要するに“バカ”ということのようですが、
本来の意味は異なります。
反知性主義であるには、知性的であることが必要です。
そうでないと、自分が欲するような理解ができないんです。
「理解を選別する」というのも、それなりに知性的ではあります。

ここではまず、そういう知性の使い方をしてみます。
ボクの確信、つまり、ボクが欲するような世界の理解に都合のよいものを引っ張ってきます。
またしても内田樹さんなんですけど。

内田さんも、反知性主義について、著作をものにしています。



実はボク、この本は未読なんです。
未読なのに都合のよいものを引っ張ってくるなんて、それこそ都合が良すぎると思われるかも知れません。
けど、知性の定義だけを引っ張ってくるなら可能です。
ネット上で紹介されていますから。
それも、相当、批判的に。
内田さんの知性は没落した、と言われるほど。
例えば、こちらの記事とか。

その記事から、内田さんの知性の定義らしきものを孫引きさせていただきますと、

人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。



まさに内田さんなんですが、
これって、「自分が欲するように世界を理解する」のと区別がつきません。
いえ、ボクは付かないと思いません。
ボクは思いませんが、批判的な人たちは、付かないから批判しています。
まあ、つかないものは仕方がありません。

こういうのを読んでいると、かつての「理論派vs共感派」の思い出しますね。
もっとも、こちらはずっと知性的ですが (^_^;)


話が逸れそうなので、本筋に戻します。
繰り返しますが、この内田さんの定義はボクの「確信」には都合がいいんです。
それはなぜかを述べてみるのが、本筋です。


そもそも、“善”とは、なんなのか?
この問いは、知性とはなんなのか、という問いと大いに重なります。

まず知性の方から答えを試みてみますと、
それは、「正しさ」を追及する、ということになるでしょう。
正しくなければ「生き残る」ことができない。

自分の都合の良いように世界を理解する態度は、
たとえ、その振る舞いの一つ一つは知性的であったとしても、
必ずしも自身が生き残ることに寄与しない。
佐藤氏などは、そういったことを実例を上げながら、国家の指導者を批判しています。
これは的を射た批判だと思います。

でも、ボクは納得しないんです。気持ちが片付かない。
どこに?
その前提に、です。
「生き残る」という前提に。

「生き残る」ということは、人間性悪が前提になっているんです。
だから「生き残る」ことが必要になっていく。

何ごとも生きていなければ始まりません。
それはそうです。
けれど、「生き残る」というとき、その背後には恐怖があります。
そして、その恐怖は、同じ人間への恐怖です。

同じ人間に恐怖しなければならない。
だったら、そんな人間は性悪に決まっています。
現在の世界の有様を実証性と客観性を基準に眺めたら、どうしてもそうなってしまいます。

「確信」というのは、それとは違います。
世界の有様がどうであれ、自分が基準です。
徹底的に主観的です。
けれど、独善ではありません。
ボクだけが「善い」と言っているのではないのですから。
みんなが「善い」と言っている。

本当に「善い」かどうかは、実のところ、わかりません。
現実は「善くない」ばかりです。
このボクの周囲でも。
「善い」と決めてかかって接すると、痛い目に遭うのが現実です。
その意味では、佐藤氏は正しい。

けれど、だからといって「悪い」とはしない。
ボクは悪くないから。
確かに「善くない」ことはいっぱいある。
けれど、出来ることなら、「善く」したいと願っています。
現実がそうでないから、かえって「願い」は切実です。

知性の本性は、この「切実さ」のことです。
ボクはそんなふうに思います。

「切実」に客観性はありません。
実証も出来ません。
あくまで主観的です。
そして、この〈切実〉は、人間を「善」としなければ起動しない。
人間を「悪」としてしまうと、それはそれで別の【切実】なものが起動するのですが、
それは、もう、「独善」なんです。
ボクが、ボクの周囲が、ボクの所属する何かが、「生き残る」ことへの【切実】。

【切実】は、それが切実であるほど、【死にものぐるい】に陥ります。
で、それが果たして、「善」か?
ボクは、確信をもって、それは違うと答えたいと思います。

【死にものぐるい】は不幸ですから。
不幸が善であるわけがない。

善とは、幸福であることです。
「正しい」かどうかは、とりあえず関係がない。

二次的には関係があるんですよ。
「正しい」というのは、社会的だから。
そして人間は社会的な生き物だから。

ヒトが生き残るためには、社会的であることが必要です。
ヒトにとって、社会的であることは生存戦略なんです。
これは揺るがない事実でしょう。

そして「正しい」ということは、社会的には必要なことです。
「正しい」に基づいた秩序がないと、社会が成立しないから。
 
実はボクは、「正しい」とは別の基準に基づいた秩序は構築可能だと思っています。
でも、現実は、歴史は、「正しい」以外の方法で秩序付けがなされた文明社会は成立しなかった。
あくまで文明社会ですからね。
だから、とりあえず、社会的であるなら「正しい」は必須と考えておきます。

これは逆にいうなら、人間が社会的でないなら「正しい」ということ自体に意味がないということです。
そして、ここで問うているのは、社会的な人間のことではない。
個としてのヒトです。
ヒトが善か悪かを問うています。

ヒトにとってもっとも重要なことは、その個が幸福であるかどうかでしょう。
してみるなら、個としてのヒトが幸福であるかどうかが、「善」であるか否かということになります。


個としてのヒトは性善であるに決まっています。

なぜ決まっていると言えるのか?
それは、ヒトは、いえヒトに限らず、生き物はもともと健康になるように出来ているからです。
そういう身体を持って生まれてくる。

そして、ヒトにとって、身体と心は同じものです。
身体と心を別のものになったのは、社会がそうしたのです。
社会がなければ、心身を分ける意味がない。
個としてのヒトにとっては、心身は同一です。

ならば、話は簡単です。
身体が健康になるように生まれついているのなら、心もまた幸福になるように出来ているに決まっています。
幸福がヒトにとって善なのですから、ヒトはそもそも性善です。

実にシンプルです。
ボクは、本当のことは実はシンプルなんだと思っています。
問題を難しくするのは、問いの前提を誤るから。
前提の整理が出来さえすれば、問いの答えはみなシンプルですし、
そうでなけば得心がいったり、腑に落ちたり、気持ちが片付いたりはすることはないでしょう。


人間は性善か性悪かの問いは、個としてのヒトを対象に問うのか、社会を構築しなければ生き残ることができない生き物として問うのかで、答えが違ってきます。
現状の社会の有様を元に答えるなら、後者が妥当でしょう。

同じことは知性についても言えます。
知性/反知性の基準のうち、佐藤的なものを採用するのが妥当か内田的なものが善いかは、
これも、どの前提に立つかで違うことになる。

そして、どういった前提に立つかということが、その人間の態度です。
社会に立つか。
個に立つか。

社会に立つなら、必然、「公」は「私」より優先度が高いということになります。
滅私奉公が尊ばれる。
そこを追及することが知性の発露ということになる。
しかし、現状の社会を見る限り、社会の上位にいる人間ほど滅私奉公に遠いといわざるを得ない。
この現状を反知性主義というのは正しい。

一方、個に立つなら、「私」の優先順位が「公」よりも高くなる。
社会はあくまで「私」を幸福にするためのものに過ぎない。
なので、知性はあくまで「私」の幸せを追求するするために発揮されることになる。

ボクはもちろん、後者の立場に立ちます。
その前提としての人間性善説です。
だから、あくまでボクの主観的な確信なんです。

その選択は、反知性的滅私奉公が蔓延る現在社会の状況からしても、妥当だと思っています。
過激ですけどねww


天命を知る

160103天命



数を数えるのは「0」からか、それとも「1」から始めるべきか?
「0」だとすると、「無」から始めることになる。
「1」だと「有」から始まる。すでに始まっている。
「始まる」は誰かが始動させる。
「始める」は自ずから起動する。

どちらかが正しくて、どちらかを選ばなければならないということはないでしょう。
ケースバイケースというやつでしょう。

こんなことを考えたのは、この正月で、ボクが五十になるからです。
俗にいう“数え”という数え方で。

“数え”の数え方は、誕生日以前なら、一般的な満年齢に2を加える。
誕生日以後なら、1をプラス。
毎年の元旦に1を加える。

現在は満年齢が一般的ですが、年齢というものは「始まる」ものなのだから、“数え”の方がふさわしいのかな、と。


「無」から始まるということも、あるのではないか?
そうかもしれませんが、もし、そうだとすると、それは何なのでしょう?
それが「何か」であるとするなら、すでに「有」であるわけだから。

親が子どもの年齢を数えるのに、満年齢はそれなりに合理的だろうと思います。
けど、自立したはずの大人はいかがなものでしょうか?

〈私〉は誰かによって始められたものではない。
すでにあった〈私〉のなかから、立ち上がってきたもの。
母親の胎内から生まれたものであるのは間違いありません。
けど、親が〈私〉を始めたわけではない。

そんなことを考えると、親が子どもを満年齢で数えるもの考えものかもしれません。
科学的ではある。けれど、どことなく所有感が漂う気がします。
決して、子どもを所有しているつもりで満年齢という言葉を使っているわけではないでしょう。
そういうつもりはなくても、言葉の無意識の次元で仕組まれたものが漂う。

無意識の次元の言葉というものは、強力なものです。


なにはともあれ、否が応でも、五十です。
そして、五十といえば、天命を知る。

それにしても、「天命」とはなんなのでしょうか?

孔子さんの中国には「天」という概念があるようですから、
「天命」は誰かから与えられるものなのでしょう。
けれど、僕は日本人で日本教徒ですから、
何ものかを与える人格的な概念としての「天」と言われてもピンと来ません。

ボクが生まれるより先に「天」はあったことは間違いない。
ボクの誕生に「天」がずっとずっと間接的にですが、関わりがあったことも間違いないでしょう。
とはいえ、自ずからあっただけのことで、何かを命ずるような存在ではない。
「天」は、いろいろなものを包摂するもの。

いろいろあるうちの、そのなかのひとつ。
そのことを自覚する。
そのひとつもまた、「天」というものの中に包摂されているのだ、と。

「いろいろ」を「十」とします。
「十」があって「一」があるということではない。
そうだと「始める」になります。
「天命」は与えられるものになる。

「一」があって「十」です。
絶対的な時系列で言えば、「十」が先、「一」が先です。
そうではなくて、意識に上った順番です。
「一」が始まらないと「十」も知覚されない。
「十」に包摂されているということもわからない。

絶対的な時系列を否定しているわけではありませんよ。
それとは別の順番がある。
矛盾しない。
両方成立するんです。
両方ということが大切なんです。


天が先で〈私〉が後だという絶対的な時系列は、これは与えられるものです。
〈私〉はこの世界に数十億存在します。するはずです。
いずれの〈私〉にとっても、こちらの時系列は当てはまる。
だから「正しいもの」として、均一な、客観的確信をもって与えることができる。

〈私〉が先の順番だって正しいんです。
数十億それぞれの〈私〉にとって正しい。
ただし、こちらはバラバラなんです。
均一の、つまりはひとつの「正しい」があるわけではなくて、
独立した数十億の「正しい」があるだけ。
だから、こちらの「正しい」は主観的な確信でしかありません。

均一バラバラとが、ひとつの人格のなかで矛盾することなく成立する。
こういう状態を“自立”というのだと、僕は思います。
その自覚を指して「天命を知る」という――

そんなことを考えていた年明けでした。


ところで、こんな歌を見つけました。


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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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