愚慫空論

『9条』の心

今年締めくくりの文章です。
――って、締めくくるというほど、書いていないんですけどね。(^ ^;
でも、邪悪、邪悪って連呼したようなので締めるのは、ちょっと気が引けて。

『9条』というのは、もちろん日本国憲法の第9条のことです。
僕はかつては護憲派で、自身を左翼と規定して、
あ、護憲派は今でもそうですけど、
左翼はやめにして、
アナーキストで護憲派だと自認しているわけです。

『9条』はあくまで憲法の規定です。
アナーキストというのは、憲法といったようなものによって規定される「体制」を認めないという考え方ですから、矛盾しています。
ですけど、『9条』というものが国家という歴史的虚構と矛盾する。
そのように僕は考えるに至った。
だから、「『9条』の心」を追及するなら、アナーキストにならざるを得ない。

僕にとっては「国家」よりも「僕」のほうが上位だということです。
「『9条』の心」って、そういうものでしょう?

続きを読む »

『絶歌』について

もう数日で平成27年も終わりますね。

年が改まるなんてことは、僕のあずかり知らぬうちに誰かが勝手に決めたことなんで、関係ない。

――と、年甲斐もなく捻くれたことを言いたいのですけれども、そうはいっても、やっぱりどこかで影響されてしまう自分がいます。「区切り」という感触がなぜか湧き上がってきます。

そして、そうやって「区切り」を意識すると、今度は「やり残し感」が浮かび上がってきます。
なんとなく「区切り」を付けておきたいこと。
別に年内にする義務はないんだけど、周囲の「区切り」にあやかって、この際、吐き出しておけばスッキリするだろうな、という気がするもの。



続きを読む »

『マダム・イン・ニューヨーク』

引き続き内田樹礼賛記事を書くつもりだったのですけど、脈絡なく映画の話を。
『マダム・イン・ニューヨーク』です。
グーグルビデオにあったので、つい見てしまいました。
とても気持ちのいい映画でした。

この映画の気持ちよさの半分、いや、7割かな? 主演女優(シュリデヴィ)のお手柄です。(異論は認めません!)



上は初登場のシーンのスクリーン・ショットなんですけどね。
ぱっと振り返りつつ登場という、ありがちな手法なんですが、その吸引力はありきたりではありませんでした...。瞳の魅惑的なこと。

魅惑的なのはお顔の作りだけではないんです。
立ち居振る舞いも、とても魅惑的。
感受性豊かで、かつ、芯が通っていて。
インド映画といえばダンスなわけで、ということはシュリデヴィだって踊りは上手なはずで、この映画の中でも彼女のダンスはちらと出てくるんだけど、彼女の立ち振る舞いの芯はたぶんにダンスからきているんだろうなと想像したりします。とても柔軟で素直な身体をしているように感じられました。

そうした全身の印象が、これまたストーリーとピッタリ。
この映画のキーワードは“ジャッジメンタル Judgemental”――偏見、決めつけ――なんですけれど、周囲、特に家族のJudgementalに敏感に反応して傷つきながら、でも、頑なになったり流されたりせずに、自身の身体が欲する方へしっかりと歩みを進める。
その様がまったく自然で、見ていてとても気持ちがよかったです。

ストーリーもよくできていたと思います。
クライマックスは主役シャシ(シュリデヴィ)の英語でのスピーチなんですけれど、で、この内容は感動的なんだけど、話の筋からすると嘘。
「家族はあなたをあるがままに受け入れます」というんだけど、シャシにJudgementalするのは家族です。そうやって傷ついた自信をなくしたシャシに、自信を取り戻させたのは英語をともに学んだ友人たちです。

けどね、話の筋からすると嘘なんだけど、シャシからすると嘘じゃない。「あなたをあるがままに受け入れます」というのは、シャシの決意なんです。傷つけられて自信を失って忘れかけたけど、友人たちのおかげで自信を取り戻すことが出来たおかげで、再び決意を固めることができた。それをシャシがスピーチしたおかげでJudgementalはなくなって、家族円満、万々歳のハッピーエンド。
これまたとても気持ちのいいストーリーです。

シャシの決意は、ラストシーンでも示されます。インドへの帰途の飛行機の中、CAが新聞をサービスしてくれる。シャシはヒンディー語の新聞はないのか? と尋ねるんです。無いなら、じゃあ、要りませんって。
あれだけ一生懸命学んだ英語なのに?
シャシが望んだのは家族からあるがままに受け入れてもらうことであって、独立して自尊を確保することではなかったんですね。その望みはかなった。だから、もう、英語は要らない――と。
うん、まことに気持ちがいい。 

『困難な成熟』絶賛読書中!

またしても、内田樹さんです。
実はこの本、ずいぶん前に購入しておいてはいたんです。
けど、なんとなく読む気にならなくて...。
まあ、疲れていたんでしょうね。



感想は読み終えてから書くのが順当なんでしょうけれど、そこを敢えてはずというのがマイ・ブームのようです。今回も、それに乗っかって、途中なんですけど、ちょっと書いてみます。

続きを読む »

『日本戦後史論』を読んでみました

白井聡さんと内田樹さんの対談本『日本戦後史論』を読んでみました。


この対談の元になった白井さんの『永続敗戦論も読んだ上で。

続きを読む »

「不可思議」

今回の話は、小学生の頃の思い出話から始めます。

5年生の時だったと思います。
算数の授業でした。先生が

「ノートに数字を1から1000まで書いてみてください」

と言ったんです。うわ、めんどくさいことを――と思ったのを覚えています。
面倒くさいことは、今も昔もキライです ^^;

それでも、お勉強なんだし、負けず嫌いだし、どうせやるなら一番になってやるか
よく憶えていませんが、たぶん、そんなことを考えたのでしょう。
文字を書く速さには自信がありましたし。
それで、1から順番に数字をノートに書き込む作業に没頭した――
すると、僕がまだ500も書き終わらないうち、隣の席の女の子が

「できた!」

と叫んだのです。
僕は驚いて(この子に負けるはずがない!)と隣に振り向くと、そこのには満面の笑顔。
この笑顔は今でもまぶたに焼き付いています。
半信半疑でその子のノートを見せてもらうと、

・・・、195、196、197、198、199、

  1000!

エクスクラメーションマークが付いていたのも、しっかり覚えています。
その後の脱力感も。

その授業の主題は「数の単位」でした。
1000までの数字をノートの書かせたのは、数の大きさを体感してもらうことが目的だったのですね。
僕にとってはその目的は達せなかったようですが、その後の「出来事」も含めて、とても印象に残る授業になりました。

(余談ですが、なぜこんなことをよく覚えているのかが、疑問でした。
 記憶はそんなものといえばそうなんでしょうけれど。
 腑に落ちたのは、僕はどうやら捻れ体癖の、それも奇数型らしいということ。
 負けたと感じたことが記憶に繋がったんでしょうね。)

さて、その後の「出来事」です。
といっても、たいそうなことではありません。
授業が終わった後に、なぜか教壇の上に放置してあった先生の教科書を覗いてみたんです。
先生の教科書は児童のものよりも大判で、授業のためのあんちょこがいろいろ書き込んである。
数の単位の授業のページの欄外に、単位が網羅してあったんです。
この網羅を覗いたというのが今回の主題を提示する「出来事」なんです。

 一、十、百、千、万、億、兆、京、垓・・・

このあたりまでは記憶にあります。今でも時々見かけますし。
そのあと、途中で漢字一文字ではなくなって、最後の「無量大数」の手前に「不可思議」という文字があった。

「不可思議!?」

この「不可思議」がなぜか、とても印象に残っています。
なぜそんな言葉が数の単位として使われるのか、不思議に思ったんです。


その不思議に自分なりに回答してみるというのが、今回の主題です。

数の最終単位「無量大数」は、要するに「無限」です。
「京」とか「垓」は知らなくても「無限」は広く知られていますし、気軽に使われもする。

しかし、「無量大数/無限」の前に「不可思議」があるのとないのとでは、
「無量大数/無限」の意味合いが違ってくるのです。

 1から数が増していって、やがて無限に至る――

ごく常識的な数字についての知識をもっていれば、これは常識でしょう。
なんの不思議も違和感もありません。

ところがここの「不可思議」という単位(言葉)が織り込まれている。
不思議も違和感もないはずなのに、そうではなくなります。

1から数が増していって、やがて無限に至る」

というのは直線的です。さらにいうならば頭脳的。

「1の次は、2」
「2の次は、3」
「3の次は、4」
 ・・・

以下、延々と、無限と繰り返すことが出来ます――
ではなくて、無限に繰り返すことができると考えます。
この「考え」は無時間です。

「n の次は、n+1」

と抽象化されることで、時間が奪われている。
たとえ頭の中で考える乗せよ、数字を具体的に次、次、次、、、
とやっていくには時間がかかる。
頭脳は時間を割愛することができます。
私たちが通常、イメージしている「数」あるいは「無限」は、
直線的な無時間の“流れ”なんです。

ところが、ここに「不可思議」が織り込まれると、流れに節目ができてしまいます。
直線的ではなくなる。
一直線に把握できていたはずなのに、もうここから先は把握でないということになってしまう。
「不可思議」というのは、そういう意味でしょう。
思議することができない。
把握することができない。

 1から数が増していって、やがて認識不可能なところへ辿り着いて、
 そのさらに先に無限がある――


「無量大数」の前に「不可思議」があることで、「無限」は文字通り無限になります。


直線的な「無限」が頭脳的であるならば、直線的でない「無限」は身体的なのか?
この次には、こんな疑問が湧いてきます。
「頭脳的」の反語は「身体的」。
直線的が否定されるなら、その反対になるのか?

そんな単純ではないと思います。
直線的でなくても「無限」はやはり頭脳的でしょう。
が、抑制が効いています。
「直線的無限」が、多少誇張していうならば、頭脳の暴走であるのに対して。
そういう意味では、「非直線的無限」は理性的です。

とはいえ、この「非直線的無限」は、どこか身体的な感じがしないでもない。

頭脳的ではあるが抑制が効き、どこか身体的な感じが漂う――
この印象を言葉にするとなると、

 「神秘」

が相応しいのではないかと思います。


なお、Wikipediaの「命数法」のページには、僕が小学生の頃に目撃した「単位の網羅」が掲載されています。
これによると、「無量大数」は「10の68乗」にあたるそうです...、
ここには「神秘」の欠片もない。

「べき乗」という表記法は、大きな発明だと思います。
この発明によって、人間が頭脳的に認識できる範囲が大きく広がった。
しかし、そのことによって「神秘」はさらに遠くに追いやられる異なってしまいました。
遠くになりすぎて、気軽に「神秘」という言葉を用いようものなら、胡散臭いという身体的反応が返ってきてしまいます。

頭脳が認識できる範囲が大きくなるのは、良いことだと思います。
ですが、何ごとにも裏表がある。
良いことの浦には、悪い面もある。
「神秘」が遠ざかったということは、僕には良くないことに感じられて仕方がありません。

「神秘」とは「有限の思考」です。
限界があると心得るということです。

現代、僕たちを支配しているのは「無限の思考」でしょう。
節目のない直線的な頭脳の暴走。

べき乗という言葉の用法が発明される、
「言葉のシステム」のイノベーションといっていいでしょう。
そのおかげで、頭脳が認識できる範囲が拡大する。
ですがそのおかげで、「言葉のシステム」の中に埋め込まれていたはずの理性が忘れ去られようとしてるのではないでしょうか?

『I Love You』

まだ『あん』を引きずっています...。
いえ、引きずっているのは「悲」なのかもしれません。
『あん』に触発されて僕の中に浮かび上がってきた「悲」がくすぶり続けている、という感じでしょうか。

それで『「悲」の響き』というタイトルで、音楽の文章を一つ書いてみようと構想しました。
この構想はMy favorite の楽曲を主題としているのですけれど、

それよりもオレの方が先だ!

といって、割り込みを欠けてきたヤツがいるんです。
こいつです ↓




ご存じ、尾崎豊の『I Love You』です。
が、歌い手は玉置浩二。

これがとてもいい。
聞き惚れて、シビれてしまいます。
もしかしたら、尾崎が歌っているのよりもいいかもしれない。


僕にとっては、という限定付きでいうならば、玉置浩二に軍配を挙げたい。
ん? さらに「今の」という限定が必要かな。
若かりし頃なら、まず間違いなく尾崎の方だったろうから。

ということは、何か変化があったんですね。
受け手である僕の中に。

楽面的には、同じ歌。
けれど、歌い手が異なる。当然、表現が異なる。
この差異、一目でわかるのは年齢です。
歳を経て、何ごとかが「経過」したということでしょうね。

では、この「何ごと」とは何か?


僕が尾崎豊を知ったのは、この『I Love You』においてでした。
それも直接その歌を聴いたのではなくて、間接的に。
とあるドラマの中で用いられていたんです。
これでもう、ピンと来る人はいるでしょう。



動画の2'30"過ぎから、『I Love You』は登場します。

(余談ですが、この『'87初恋』が僕の『北の国から』初体験です。
 これ以降このドラマのファンになりましたが、視聴を重ねるごとに脚本を書く倉本聰がキライになります。
 なんてイジワルなヤツなんだろう、
 そんな次から次へと不運をお見舞いしないでもよかろうに――
 「それはないじゃないか!」
 と、思わずにはいられません。)

『I Love You』は「悲しい」歌です。
「生きる」ことが塞がれている、と歌います。

♪今だけは悲しい歌、聞きたくないよ――

生きようとして、塞がれて、そこから逃避して引きこもる。
「悲しい」か、あるいは「哀しい」と書くべきか。

上の『北の国から』の動画のシーン、純は
「それはないじゃないか、れいちゃん」
と呻きますけれども、『I Love You』は、まさにこのシーンにピッタリ。
尾崎豊の歌いぶりは純粋で、だから、切迫しています。

現実の前に、もう、どうしようもなくて、
「それはないじゃないか!」
と呻くくらいしか、やりようがない。
せめて、『I Love You』の歌のように、“ふたり”なら...。


尾崎の純粋さと比べると、玉置の方には余裕がありますね。
「優しさ」と同時に、包容力。
同じ歌なのに印象が異なります。
尾崎の方にも「優しさ」はあるけど、でもアップアップしていて、だから切迫感が凄いんですけどね。
命を削っている感じ。

尾崎と玉置は、言うまでもなく別人です。
別人だから違うのは当たり前ですが、同じ人間という尺度で見れば、
というのは、もし尾崎が生きながらえて「経過」を経ていたなら、と想像につながりますが、
「何ごと」とは、何なのかの答えが見えてくるような気がします。

それは、とにもかくにも「生きる」ということなんだろうと思います。

僕たちはとかく、「生きる」ということと「方向性」とをセットにしてしまいがちです。

純は、「それはないじゃないか、れいちゃん」
と呻きますが、でも、れいちゃんだって、「それはないじゃないか」と思っていないはずがない。
純だってそのことはわかっているなんだけど、でも、「方向性」はれいちゃんに向いていて、
さらに、ドラマとして視ている僕たちだって、純がれいちゃんに「方向性」をむけてしまうことを、ちっとも不思議に思わない。「れいちゃんに向けても仕方ないんだよ」とお説教をたれることはあるかもしれないけれど、れいちゃんに向いてしまうことそのものに違和感を感じはしませんよね?


けれど、よくよく考えてみれば、「生きる」ということと「方向性」はセットではない。
セットになれば、それは「幸せ」なんだろうし、誰もが自身にも、他人にもそう望むことだけれど、
でも残念ながら、このふたつは別個のもののようです。

「悲」は、自然な経過を辿れば自然に至るものなんだろうと僕は考えています。
とはいえ、社会には自然な経過を見出す要因がある。
「方向性」はそのひとつなのだろうと思います。


蛇足です。

上の話の流れからすると、
 尾崎豊が歌う『I Love You』 ⇒ 「悲しい」歌
 玉置浩二が歌う『I Love You』 ⇒ 「悲」の歌
ということになります。まあ、その結論でいいと思うのですけど、でも、そう断言できるのか、ちょっと心許ないところがあるんですね。というのは、玉置浩二のは、どことなくニセモノ臭いというか。
「玉置さん、アンタのその歌、本当にそうなの?」
と問い質してみたいような気持ちになるところがあるんです。

その表現が「ホンモノ」なのか「ニセモノ」なのかと、「一流」「二流」は基本的に関係がありません。「ニセモノ」だから二流三流ということには必ずしもならない。「ニセモノ」の表現が「ホンモノ」の思いを喚起させるのなら、それは超一流ということになります。

僕が感じるこのニセモノ臭さはどこから来るのか? 
これがよくわからない。
錯覚である可能性は、かなり高いと思います。
というのも、「ニセモノ」「ホンモノ」というのも、これまた「方向性」だから。
言葉というものが根源的に持つ「方向性」なんだろうと思います。

言葉で考えつつ、言葉の「方向性」をキャンセルするのは原理的に無理なのかも知れません。

今いちど、『あん』

前回、conversion ということに触れました。
『あん』にも、conversion は出てきます。



僕の中の順番でいうと、実は『あん』の方が先だったんです。
『あん』を読んでいて、これはconversion だと思った。

『あん』には、conversion が2回出てきます。
言うまでもなくconversion するのは徳江です。
月との対話が1回目。木々のとの対話が2回目です。

こうした「対話」が、パウロやムハンマドのconversion と同等かというと、疑問はあります。
彼らのconversion は、相手が限定されていますからね。
対して徳江の、というより僕を含んだ我々のは、相手が限定されない。
だから違うと言えば違うんですけど、僕は同じようなものだと思う。

同じようなものとはいえこの違いは重大で、この違いこそ、
一神教と、我々のような多神教的、あるいは無神教的宗教観の違いだと思うんです。
言語的な宗教と、非言語的というより感覚的な宗教
シャーマニズム vs アニミズム。

シャーマニズムだと「声」を聞こえるのは、限られた人ですよね。
限られた人にしか聞こえないと、明確に思っている。
でも、アニミズムだと「声」はみんなのもの。
誰もが「声」は聞こえるものだと、漠然と思っている。
この感覚の違い。

この「明確」と「漠然」は、明確に別れるものではなくて、その境目は曖昧なんですけどね。
けれど、一部にその境目を明確にしたものがある。
それが一神教だな、と。
今回『あん』の読書から始まって、つらつらと考えたなかで思った。

この明確化は、どのように為されるか。
それは、conversion の言語化によって。
「聖典」によって教えが広まるということが、conversion の限定になっていく。
言葉から信仰に入っていくことが、そのままconversion の限定なんだな、と。

限定が進むと、それは独占になります。
そういう目で一神教を眺めてみると、歴史が進むに従って、寡占から独占へと進んだのだと理解できなくはない。
現状、一神教の最終バージョンはイスラームですけれど、この宗教は、神が唯一ということと同等か、あるいはそれ以上に「ムハンマドが最終・最大の預言者」ということに重きを置く。


の本で知ったのですけど、ムスリムに入信する際には、
「アッラーが唯一絶対」ということと「ムハンマドに従う」ということの2つを宣誓する。

不思議に思ったのは、前者はわかるにしても、なぜ後者が必要なの? ということ。
最初に宣誓するのはとても大事なことだからのはずなんだけど、それが2つあって、一方は神のことで、一方は人間のことでしょう? なぜこの2つが並ぶのかがわからなかったんだけれど、『あん』の conversion を経ることで、得心がいきました。

なるほど、これは conversion の独占なんだ、と。
そうしないと成り立たない構造をしているんだな、と。

僕の昔話なんですけれど(以前このブログのどこかで書いた覚えもあるんですけど)、
牧師さんに(正確にはその卵に)告解したことがありました。

「神が唯一だということは、理解できません。
理解できるけれど、信じることができません。」

その卵さんは、一生懸命に信じることの御利益みたいなことを説いてくれましたけれど、僕にはわからないとしか応えられませんでした。
今は、その理由がよくわかります。
conversion の限定に違和感を感じていたんです。
僕も、それが神かどうか知らないけれど、「声」を聞くことができると思っているから。
根拠はどこにもないのですけれどね。
無根拠であるがゆえに、どうしようもなく僕の中にあって、揺るがないんです。

不思議ですけれど、ね。


話は続きます。


この僕の確信を、さらに深めてくれることがありました。
そのきっかけは、はじめの『あん』の記事にアキラさんがくれたコメントでした。
映画の方には「まさにそこ」の描写がないよ、という指摘です。

これは非常に面白い。

今の時点ではまだ映画を観ることができないので、ちょっとネットで調べてみました。すると、こんな記事が出てきました。作者ドリアン助川さんへのインタビュー記事です。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/13/an-sukegawa-interview_n_7790076.html

ここにはドリアン助川さんのこんな言葉が記されています。

映画化のオファーもあったんだけど、聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語。そんなものを撮れる人は河瀬直美さんしかいないと思った。



実現した映画『あん』の監督は、もちろん河瀬直美さんです。
で、ドリアンさんは映画の出来に満足しているという。
ということは「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語」は、映画でキッチリ描かれている、ということなになるはず。

なのに、アキラさんは「まさに、そこ」の描写がない、と仰る。
これは、とてもとても面白い。

先に触れたように僕は映画をまだ観てないし、アキラさんにも確認していないので、「まさに、そこ」が僕の想像しているところとピタリ一致しているかどうかは知らないんです。それを確認しない状態でこの文章を書いているんですけど、本来なら、その確認をしてからこの文章は書くべきなのでしょうけれど、でも、まあ、その必要はないな、と思ってます。だから書いてます。

というのも、ピタリ同じである必要がそもそもないから。
その理由が、非言語ということなんです。問題は漠然とした感覚のほうであって、明確な言葉ではない。

我々にとって、conversionの明確な記述は必ずしも必要ではない。
それなくしても「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする」姿勢は十分に伝わる。

アキラさんの指摘と作者である助川さんの言葉を信用するなら、そういうことになります。

僕はどちらも信用しています。
なんといっても助川さんは作者だし。
作者が明確に「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語」と言っているんだから、そうに決まっています。
そして、アキラさんといえば「漠然とした感覚を明確化する」ということを生業としている人です。
(アキラさんにしてみれば、「感覚はそもそも明瞭なもの」なのかもしれませんが。)

小説『あん』の方を読んでみればわかることですが「「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする」ということの極点は、明らかに僕が conversion と呼んでいる場面です。「聞こえるはずがないものが聞こえた」と、そう記述されているんだから。

『あん』の最初に出てくる、徳江が小豆の様子をかぶりつくように観察するという描写。
こちら方は「見ようと思って努力を続ければ見ることができるもの」です。
そういうことを読者は意識しないでも諒解します。
その姿勢、見ようと思うという意志。
これは、容易に感知できるものです。

『あん』という小説は、その「意志」が conversion に至るという構造をしている。
つまり、徳江のこの「意志」こそが、この小説の主軸です。
その「意志」を伝達するに当たって、実は conversion そのもの(の描写)は必ずしも必要ではない。

もう一度、整理しますね。
助川さんは、この「意志」を「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする」と言っています。けれど、最初に出てくる描写は「見えるもの」についてでした。
確かに素人には見えないかもしれない。
けれど、その「意志」を持ち、見ようと努力すれば見ることができる。
この「意志」において、「見ることができる」あるいは「聞こえることができる」かは、決定的に重要な要素ではない。
「見ようとする」「聞こうとする」ことこそが大切で、結果、聞こえようが見えまいが、どちらでもいい。

だからこそ、小説の方には描かれていることが映画には描かれていなくても、伝えるべきことは描かれていると諒解される。誰より作者自身がそのように諒解しています。その諒解に我々は共感をし、だから「生きる力」を分け与えてもらうことができる。

僕は前々回の記事で、もし『あん』から力をもらったとすれば、それはあなたが心の奥底ではお月様や木々の声を聞くことができると「信じて」いるということなんです――と、書きました。ここでもまた、同じことを、少し言い方を変えて書きます。

「意志」を「信じて」いるということは、その結果が問題ではないです。
聞こえようが聞こえまいが、「聞くことができる」「見ることができる」と信じていることが大切。
そして、そう信じてさえいれば、どのように見え、どのように聞こえたかすらも、問題ではない。
というより、「問題にしないこと」が大問題なんです。

この文章の始めに一神教を持ち出したのは、僕の趣味ということもあるんだけれど、それなりの理由もあります。
「意志」という点において、つまりは信仰という点において、一神教もそうでないものも同じだと僕は感じています。
けれど、一神教は「意志の形」を規定しようとする。conversion の限定という形によって。

僕の中では「意志の形」は限定され得ない、つまり「無形」ということと「信じる」ということとがセットになっています。だから一神教とは相容れない。
それは『あん』の読書で改めて確認できたことであると同時に、たぶん(僕を含む)我々に共通のものでもある。
なぜなら、それは、表現においてconversion が必須ではないから。

どのような形であれ、conversion にまで至れば、「形」は出現します。
例えば、徳江においては、お月様の声を聞く、木々の声を聞くという「形」。
いえ、conversion にまで至らなくとも「形」は必須です。

実在であれ、想像上であれ、「個」が定まると「形」が定まる。
逆に言えば、「個」がなければ「無形」である。
「無形」であれども「意志」は共通する。
だから諒解し、共感し、「信じる」ということができる――。

我々はこういう生き物なんだなぁ、と思います。

(そうすると、次の疑問は「我々」に一神教の人たちが入るか否かなんですが。
 僕は入るような気がするんですけどね...)


 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード