愚慫空論

「普通がいい」という病

なかなか更新が進まない。
で、存在証明というわけではないけれども、本の紹介でも。

図書館で見かけて、借りてきた本。
タイトルの惹かれたのと、ベストセラーという紹介が付いていたので、つい、手に取った。


「普通がいい」という病

タイトルから受け取るイメージはありがちなお説教的啓蒙書なんだけど、予想は裏切らました。
良質な理性の書。
お薦め。

こうした本がベストセラーというのは、喜ばしい。
(けど、初版は2006年なんだけど。 今頃ベストセラーって...?)

僕の考えるところだと、理性というものは自律。

 自(みずか)らを律する
あるいは、
 自(おの)ずから律せられる

本書に従うならば、
 律する主体は、「頭」
 律せられる対象は「心」。
そして、「心」と「身体」は、一心同体。
一方、「頭」と「心」の間には、【蓋】がある。

【蓋】が閉まっていると、一方通行の「自(みずか)らを律する」になり、
【蓋】が開いているいると、「頭」と「心」と「身体」が繋がって「自(おの)ずから律せられる」ということになる。

本書はもちろん、【蓋】を開けることを勧めるもの。

しかも、その勧め方がいい。

著者は精神科医なんだけど、その立場から勧めるというスタイルは取っていない。
個人的な「経験」に基づいて、自らもその道を歩んでいて、だから、あなたもどうですか、という感じ。

精神科医としての臨床体験も登場するけれど、本書の主役はむしろ読書「経験」かも。

なお、「経験」に「」をつけたのは、本書に紹介されている森有正の体験/経験の区分に基づきます。

ここは引用させてもらいましょう。

 人間はだれも「経験」をはなれて存在しない。人間はすべて「経験を持っている」わけですが、ある人にとって、その経験のなかにある一部分が、特に貴重なものとして固定し、その後の、その人のすべての行動を支配するようになってくる。すなわち経験の中のあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる。そのようなとき、私は体験というのです。
 それに対して経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立し直していくのが経験です。経験というのは、根本的に、未来へ向かって人間の存在が動いていく。一方、体験ということは、経験が過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうことです。
 だから、そんなに深い経験でも、そこに凝固しますと、これはもう体験になってしまうのです。これは一種の経験の過去化というふうに呼ぶことができましょう。過去化してしまっては、経験は、未来へ向かって開かれるという意味がなくなってしまうと思うのです。
 
 (中略)

・・・絶えず、そこに新しい出来事が起こり、それを絶えず虚心坦懐に認めて、自分の中にその成果が蓄積されていく。そこに「経験」というものがあるので、経験というのは、あくまで未来へ向かって開かれている。すべてが未来、あるいは将来へ向かって開かれていく。というのは、つまりまったく新しいものを絶えず受け入れる用意ができているということです。それが経験ということのほんとうの深い意味だと思うのです。

森有正 『生きることを考える』より



〈生きている〉ということは、絶えず新しくなっていくということですからね。
「経験」もまた然り、でしょう。


<<蛇足>>
本書でいう「頭」は、僕の言葉でいうと「霊」になります。
また「心」と「身体」を合わせたものが「魂」に相当します。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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