愚慫空論

【媒体】がイッパイ!


またもやクラドニ・プレートの話。


生命の〈振動〉は、「媒体」によって視覚化される。
「媒体」によって視覚化された「構造」を“共同のもの”とコミュニケーションを為す。
そうしたコミュニケーションによって運営される集団が、共同体。コミュニティ。

“共同のもの”すなわち【コムニス】は、とても便利なもの。
まず理解しやすい。言葉とか貨幣とか。つまり「記号」だ。
「記号」は記録することができる。そのことによって、空間的にも時間的にも遠くへ伝えることが出来るようになった。

明文化された言葉(法律)によって秩序づけることができる。
歴史を構築することもできる。
正確に計算することができる貨幣によって、経済を運営することが出来る。

こういったことで実現するのが文明社会。大きな社会。

「大きな社会」は非常に強力である。
内に向けても、外に向けても猛威を振るう。

外に向けては環境問題として、現在、立ち現れている。
内に向けては、貧困問題。
社会は強力で全体としては豊かになったのに、なぜか貧しい人々が多く出現してしまう。
強力なはずの社会が混乱して、戦争が起きてしまう。

これらはみな、【コムニス】による〈コナトゥス〉の抑圧から起きる。

では、「コムニス」は絶対的悪か?
そう考えてしまうとディープ・エコロジー、文明の全否定になってしまう。

必要悪か?
だとすると、消極的にではあっても、戦争や貧困問題や環境問題を、必要なものとして受け入れるしかなくなる。

技術の進歩が全てを解決する。
そういう希望もなくはないが、もはやSFチックな夢でない。

「コムニス」は善でも悪でもない。
生命の〈振動〉の上に「触媒」をバラ撒くことが出来る。
そうすることでヒトは「人間」になる。
ヒトが「人間」になるのは、ヒトの大きな特長だ。そこを殺すことはない。

ただ、特長が特長であるが故に行き行きすぎて、反って種として滅亡の原因になることがある。
ヒトだけではなく、他の種でもある。
生態系に普通にある現象だ。



グラトニ・プレートに「媒体」を撒く。
どんどん撒く。
撒いて撒いて撒きまくる。
すると、どうなるか? 想像してみてほしい。

〈振動〉は「媒体」に埋もれてしまって、抑圧されるようになる。
魂の抑圧。

適度な量ならば視覚化される「構造」も、埋もれて不明瞭になってしまう。
社会秩序の混乱・崩壊。

「媒体」は【コムニス】となって、〈コナトゥス〉を疎外し始める。
生きにくいのは、当然。

【空気】化による「糞捨て場」


「コミュニケーション」のためのツールとして「言葉」。
〈コミュニケーション〉のための〈言葉〉。
【コミュニケーション】のための【言葉】。

〈言葉〉と【言葉】は同じもの、というより、「言葉」のなかに〈言葉〉と【言葉】の両方の要素がある。
どちらを観て、どちらを受け取るか。そして、どちらに返すか。

〈言葉〉に〈言葉〉で返す。 楽しいおしゃべりとか。感情的な口喧嘩とか。
【言葉】に【言葉】で返す。 冷静な議論。
〈言葉〉に【言葉】で返すのもあるし、【言葉】に〈言葉〉で返すのもある。いろいろグラデーションがある。
そうしたグラデーションを使いこなすことが出来る能力が、コミュニケーション能力。


以上を踏まえて、

『なぜ日本のネット空間は「2ちゃんねる的」なのか』(第三の波平ブログ)

日本人の「空気」による同意を目指すネット空間

ネットコミュニケーションはフラットな空間として設計されているために、基本的に「上からの声」はない。すると「空気」による暗黙の同意を目指すことになるが、テクストのみのネットコミュニケーションでは「空気」は伝わりにくいというフラストレーションが絶えず、日本のネットコミュニケーション空間に生まれ続ける。

日本のネットコミュニケーションは絶えずいかに「空気」を伝えるか、「空気」を操作するか、を元に作動している。空気は論理的な一発言では伝わらない。コメントが連続することで生み出される。それも論理的であるよりも感情的、刺激的なコメントによって。



「空気」は、〈言葉〉によって生まれる。〈言葉〉だけではないが。
「空気」を伝えようとするのが〈言葉〉である。
なので、本来、「空気」は〈空気〉なのだが、それが【空気】になってしまうのが日本的。
「空気」は本質的にはフラットな〈空気〉であるのに、【空気】は序列的。

例えば「スクールカースト」のような問題は、【空気】によって引き起こされる。

  『スクールカーストとは?』(NEVERまとめ)

日本で〈空気〉が【空気】化しやすいのは、まず、日本語の基本構造が〈言葉〉的だから。
蠱物(まじもの)としての言葉蠱物(まじもの)としての言葉
(1989/10)
佐々木 孝次

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そもそも【言葉】的な欧米の言語は、まずもって「空気」が生まれにくい。

しかし、それだけが【空気】化の条件ではない。
「ミスマッチ」がある。
「近代」と「日本」のミスマッチ。
日本的「空気」が「近代」に引きずられて【空気】化する。
特に「学校」が、システマチックに〈空気〉を【空気】化していく。

日本のネット空間は、〈空気〉が【空気】化していくことの副作用として生まれた。
2chは、【空気】化への抵抗の場。
ネトウヨやブサヨなどの政治的言論ふうの場は、【空気】化への場。
いずれにせよ、【空気】化によって生じる情動的な「糞」の捨て場である。

「糞」を“ゴミ”としてみれば、2ch批判になる。
【理性】的で、近代的視線である。

「糞」を生命の自然な作用だと捉えると、2chは巨大な「セラピー」の場だと捉えることができる。

ツイッターやFacebookのようなネット空間は現実世界にリンクしやすいように設計されているから、「糞」を捨てにくい。
2chやブログはフラット設計で匿名性が高いので、捨てやすい。
なので「糞捨て場」になる。

現在の学校も「糞捨て場」になっていると思われる。
コミュニケーション能力の高い者が低い者へ「糞」を押しつけるという意味での「糞捨て場」。
糞まみれにされた者は学校という場から逃げ出すが、
しかし、「糞」を捨てないわけにはいかないので、
次々に「糞」を押しつける相手を探すことになる。

いつから糞が糞になってしまったのか?

映画『OASIS』

クラドニ・プレートの話は一回休みで、映画を採り上げます。

2002年制作の韓国映画『オアシス』。
未鑑賞の人は、ぜひ見て欲しい。

見始めて、最初は気持ちが悪い。
どこかおかしな振る舞いの男。おそらく軽度の知的障害者。出所してきたばかりの前科者。
気持ち悪さは、重度脳性麻痺の女が出てくるところで、さらに高まる。

『オアシス』は、そんなふたりの恋愛物語。

気持ち悪さに耐えて二人の恋愛を観ていると、自身の「気持ち悪さ」が嫌悪感に変わる。
「気持ち悪い」というのが、偏見だと気づかされる。

二人の社会への適応能力は低い。
そんなふたりだから恋に落ちたという解釈も成り立とうが、そんなことはどうでもいい。

社会への適応能力とは【コムニス】を解する能力、すなわち【コミュニケーション】能力である。
社会のなかで自身も、その周囲の者も含めて、快適に暮らすには重要な能力だ。
このふたり、そこは低い。
男の方はすれすれ、もしくはちょっとアウト。女は完全アウト。
そんなふたりの恋愛も、完全アウト。
愛を交わしたら警察沙汰になる。それも周囲の「善意」が作用して。

でも、そんなの全然関係がない。
ふたりの〈コミュニケーション〉能力の高さとは。

(ときおり「異常」なふたりの恋愛模様が、ファンタジックで美しい「正常」な様子に切り替わる場面がある。
「異常」に見えるかもしれないが、ふたりはこんなに楽しい恋を展開しているのだぞ、と。
この手法、嫌らしいほどに効果的。)

『オアシス』は、社会の異常性をえぐり出す。高度に正しく理性的。
〈コミュニケーション〉を基準にすれば、社会の常識的な正常というのが、如何に異常なことか。
「異常」とか「病気」とかいうレッテルを貼り付けて、そして〈コミュニケーション〉を停止してしまう。

〈生きる〉というのはどういうことなのか?
激しく突きつけてくる。
超名作。

【コムニス】からの離脱


“コムニスからの離脱”というのは、安冨さんの『経済学の船出』第6章のタイトルである。



“コムニス”という語はラテン語で、“コミュニケーション”という言葉の語源にあたるらしい。
意味するところは、「共通のもの」。
とすると、“コミュニケーション”と「共同のものを共有すること」ということになる。
語源を同じくする“コミュニティ”は「共同のものを共有する集団」。

では、「共同のもの」とは何か?

生命の〈振動〉に「触媒」がばらまかれ、「構造」が視覚化される。



視覚化された「構造」が「共同のもの」であり【コムニス】なんだと私は考える。

ちなみに『経済学の船出』第6章コムニスからの離脱、第7章『エチカ』に非線形性では、スピノザの思想を軸に【コムニス】批判が展開されていて、【コムニス】に対応する概念も提出されている。それを〈コナトゥス〉という。 

〈コナトゥス〉を説明するのに『経済学の船出』では、ホイヘンスの振り子時計共振実験が採り上げられている。
別々に製作した振り子時計をたまたま同じ壁に掛けておいたら、いつの間にか振り子が同期していた、という発見。
〈コナトゥス〉というのは、人間の本質としての自己保存の努力といったような意味らしいが、それを超えて、それぞれ個性をモノ(生命も含む)が共振・共感しようとする意志のようなもの、とでも言えばいいか。

共振・共感するということは、そこに繋がる“何か”があるんだけど、そこに「触媒」【コムニス】は必ずしも必要ではない。
いや、「“何か”がある」という発想がすでに【コムニス】志向なんだろう。



振り子時計は、ただ繋がっているだけ。繋がれば、共振・共感しようとする意志のようなものが万物には備わっている。その性質を〈コナトゥス〉と呼ぶ――といったところが正確な記述かな。

この振り子時計共振実験から連想するのは、振り子時計をグラトニ・プレートに置き換えて共振実験をしてみたら、どんな現象がみられるか? ということ。「触媒」が描き出す「構造」は、それぞれどのように変化するのか? 同期してそれぞれで寸分違わぬ模様を描き出すのか?

興味深いところだ。どこかに実験動画ないかな?

〈コミュニケーション〉と【コミュニケーション】


「コミュニケーション」に“〈 〉” もしくは “【 】”の括弧をつけて表現した、

 〈コミュニケーション〉と【コミュニケーション】。

この2つは同じようで大きく異なる。



生命は〈振動〉である。
個体ごとにちょっとズレている周波数をチューニングするのが〈コミュニケーション〉



〈振動〉に「媒体」がばらまかれて、視覚化された「構造」を一致させようとするのが【コミュニケーション】。

ヒトが【コミュニケーション】能力を獲得することで、人間となる。
ヒトは【コミュニケーション】能力を獲得したことで、他の種の生存競争に勝ち抜いてきた。
ヒトは【コミュニケーション】能力によって【社会】を運営するようになり、文明を築き上げた。
ヒトは【コミュニケーション】能力によって【欲望】を憶えるようになり、際限なき競争を繰り広げるようになり、環境を食いつぶすようになってしまった。

【コミュニケーション】は〈学習〉を停止させる危険が高い。



メッセージを投げ合い、AとBそれぞれ固有の〈振動〉を調和させようとするのが〈学習〉であり〈コミュニケーション〉。
メッセージのやりとりは「媒体」を使って為されることもあれば、身体的な信号をやりとりすることもある。
前者はヒューマンコミュニケーション。後者はアニマルコミュニケーション。

ヒューマンコミュニケーションは【コミュニケーション】を孕んでいて、〈学習〉を停止させる危険性が高い。

AとBが「媒体」を使って「コミュニケーション」をしているとする。
「コミュニケーション」を重ね、双方の「模様」が一致したとしよう。
すると、“模様”に対して〈振動〉をチューニングしようとする働きが起こる。
この働きは、おそらく“理性”と呼ばれるものだ。

生命体としてのヒトの順当な流れは 〈振動〉 ⇒ 「媒体」 ⇒ 「構造」 である。
この働きは、たぶん“知性”。

知性によって「構造」が構築され、【コミュニケーション】によって個々の「構造」調整が行われる。
そして、 「構造」 ⇒ 「媒体」 ⇒ 〈振動〉 という逆転現象が起こる。
「構造」に合わせて〈振動〉をチューニングする。
ここにおいて理性による【暴力】が生まれることになる。

【コミュニケーション】の目的は多くの場合、相手の支配である。
「構造」調整――「正しさ」の追及――によって相手を追い詰め、調整された「構造」に〈振動〉をチューニングするように相手を責める。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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