愚慫空論

「コミュニケーション」




・・・・

似合うはずもないふたりと 噂されるのもいいさ
キメすぎばかりじゃ息も出来ない
心の奥を覗いて愛を確かめるなんて
男の女の謎の楽しさ
知らず知らずに捨ててるだけだよ

はじめからちょっとズレてる周波数
無理も我慢もしなくていい
ちょっとずれている周波数 百も承知でいたよ

・・・・

懐かしいなぁ (^_^)

前記事に毒多さんがコメントをくれた沢田研二『恋のバッドチューニング』
作詞は糸井重里なんだね。
歌謡曲(というのも懐かしい)らしく恋愛がテーマだけど、これはコミュニケーションのあり方そのまま。

恋をして仲良くなって遠慮がなくなって、自我を押しつけ合うと、恋は破綻する。



こんなのを思い出してしまった。


生命活動は〈振動〉である。



生命をそれぞれ個別のクラドニ・プレートだと考えると、個別の生命は個別の周波数を持っている。
同じ種だと近いけれど、同一の周波数ではない。
“ちょっとズレている周波数”なのだ。

〈コミュニケーション〉とは、ズレている周波数をチューニングして共振させること。



コミュニケーションを為しているAとB。
メッセージを送り合い、それぞれ〈学習〉している。
この〈学習〉こそ、チューニング。

子曰
學而時習之不亦説乎
有朋自遠方來不亦樂乎
人不知而不慍不亦君子乎


論語でいうなら、「学」はメッセージの送受信。「習」がチューニングになるんだろう。

学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや

〈学習〉は楽しい。

朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや

遠方の友人が訪ねてくれたように、と言うんだけど、恋愛のようにと言えなくはないかもしれない。

人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや

〈学習〉を為すにはコミュニケーション回路が開かれていなければならないのだけど、回路が開いていると相手の周波数に一方的に同調してしまう危険もある。そうなると、恋は辛い恋になってしまう。
君子はそんな辛い恋はしない、ということだね。^^;

「自我」


今回は「自我」。
私は私である、という自己認識。アイデンティティー。

昨日の夜、寝て、今朝、起きた。昨晩、寝る前の「私」と、今、目覚めた「私」は同じ「私」。
変わらない。
本当は変わっているだけど、変わらない感じる。

本当に同じ「私」なのか? という疑問が浮かぶことはあるけど。
本気で疑いだしたら、病気。ふつうは、ね。

三度、同じ動画の登場。これから何度も登場することになる。



プレートの「振動」が生命活動に相当すると考える。
私たちの「自我」を支える生命の振動。

そこに「触媒」が蒔かれる。
この場合、「触媒」はおそらく言葉であろう。
ヒトは言葉を習得することができる。

言葉を学習すると、生命の「振動」に導かれて「構造」が浮かび上がる。
構造の形は、変化しないように見える。
これが昨晩の「私」と今朝の「私」を同じだと感じさせる「自我」


「媒体」


前回「触媒」ときて、今回は「媒体」。

実は、「触媒」と「媒体」は“同じもの”なんだよね。

もう一度前回の動画を。



プレートが振動しているところに、砂を蒔く。
そうすると、砂が「触媒」となって、振動のなかに潜んでいた“構造”が顕在化する。

この“構造”はプレートの材質とか振動数によって決まっている。
けど、見えない。

砂は構想を可視化・顕在化させるだけで自身は何も変化しないから「触媒」。
変化しないから可視化・顕在化させることができると言えるかもしれない。
また、変化しないから他人と共有することができる。だから「媒体」。


こんなことを考えながら思い出したが、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に紹介されていた話。
下巻12章の「文字をつくった人と借りた人」のなかの「インディアンが作った文字」というセクション。

『銃・病原菌・鉄』

1820年頃、アメリカ・アーカンソー州にセコイアという名前のチェロキー・インディアンがいた。鍛冶屋だったセコイアは、そのころのインディアンの多くがそうであったように、読み書きが出来なかった。白人たちが紙になにやら記号を書き込んでいるのは知っていたが、何をしているのかは謎だった。

そんなセコイアが文字を発明してしまう。『銃・病原菌・鉄』では「アイディアの模倣」と表現されている。白人が話す英語を全く理解できなかったセコイアは、文字の形こそアルファベットの模倣だけど、英語とは全く関係なしにチェロキー語の文字を作ってしまった。

このことが出来事が示すのは、文字を知らなかった人間でも、文字を作るだけの“土壌”は持っているということ。土壌はあるから、「アイディアの模倣」という“種”を蒔いてやれば発芽する。振動しているプレートに砂を蒔いてやれば潜んでいた“構造”が顕在化してくる。


英語を「教育」などする必要など、別にない。
チェロキー語の“構造”は英語とは当然、違うから、文字がなくて読み書きが出来ないインディアンを哀れんで、白人がお節介にも「教育」を施そうとすると、それは、潜在的な“構造”を破壊してしまうことになる。

そのような啓蒙教育は数限りなく行われてきたし、今も行われているだろう。
現に、言語はその数をどんどん減らしていると言われるし。
でも、言語は「媒体」だから、共有するためのものだから、社会が「発展」して大きくなると、必然的に減っていってしまう。
守れ! といっても守れるものではないだろう。

「触媒」



コミュニケーションの失敗から必然的に生まれるもの、責任と秩序と権力。
とはいうものの、コミュニケーション失敗から即、それらが生まれるわけではない。
コミュニケーションの失敗は、それらが生まれる土壌のようなもの。
責任や秩序や権力が土壌から発芽するのは、きっかけ、気づき、といったようなものが必要。
しかもわかりやすい形で社会に共有されないといけない。

責任・秩序・権力が発芽する、社会に共有されるきっかけ。これを「触媒」と呼んでみたいと思う。

「触媒」をイメージするのにちょうどよい動画がある。



この動画は、
『自然の幾何学とアーカイブ』(雑念する「からだ」)
から
『「世界」は振動という「空(くう)」に満ち満ちている』(光るナス)
という順序でここへやってきた。

『光るナス』のアキラさんは、クラドニプレートを「世界」と解釈し、振動を「空(くう)」と見、そして

「世界」には、こういうありとあらゆる振動が満ち満ちていて、その振動と振動との狭間に、粗いものが吹き寄せられていく。
その「集まり」を、僕らは「姿」や「形」や「状態」として認識しているのではないか?


と投げかけてこられる。うん、腑に落ちるものがある。視覚や聴覚のような感覚はこのようなイメージで立ち上がるのだろうと思う。振動数の高い者ほど、緻密な「姿」「形」になる。

感覚には「触媒」は特に必要とされない。
なぜなら、それはもともと身体にビルトインされているから。

人間は、振動するグラトニー・プレートによってイメージされる「世界」をもうひとつ抱えて、そちらは「触媒」を必要とする。
プレートの振動を“可視化”する砂。
この砂がなければ、プレートが振動していることが理解されない。社会に共有されない。
社会で共有されることがなければ、いかに土壌(振動するプレート)が整っていても発芽はない。

責任・秩序・権力といった観念。
そればかりではなく、言葉も貨幣も「触媒」である。

権力が生まれるところ


前回、前々回と提示したのは、

コミュニケーションは失敗する。
コミュニケーションの失敗に備える必要性から、責任と秩序が生まれる。



今回、提示するのは、

秩序が曖昧なら責任も曖昧

そして

曖昧な秩序を明確にするために権力が要請される

単純明快。単純すぎる?


具体例として、2014年問題を採り上げてみよう。ウィンドウズXPのサポートが終了するというお話だ。
(もうすでに古い話になったような気でいたら、IEのおかげ(←皮肉)でまたクローズアップされたみたい)

マイクロソフトがウィンドウズXPをリリースしたのは2001年。MSは長きにわたってセキュリティサポートを続けてきて、もう勘弁してくれと停止したのが先日4/8の話。

マスメディアはXPの危険性を言い立ててウィンドウズ8の販促をするばかりで、ネットにアクセスしてもXPサポート終了をネタにしたベタな宣伝ばかり。おまけにネット世論もXPを使い続けるなんて犯罪であるかのごとき。

でも、まだXP自体も、XPを搭載したパソコンも十分使えるのにもったいない、変だな、と思う。ネットに接続しなければいいと言うけど、XPにはネット機能は標準搭載じゃないか。サポートだってネット経由で行うのがデフォルトなのに。

元はと言えば、マイクロソフトがセキュリティに問題のある不完全な製品を売りに出したことに原因があるのではないのか?
だからセキュリティサポートをしていたのだろう?
不完全な製品を完全なものにする責任はマイクロソフトにあるのではないのか?
なのにXPユーザーがOSの買い換えだけでなくパソコンも買い換えるという責任を負わなければならないのか?

もちろんMS側にだって言い分はある。

OSのような複雑極まりないものを完璧にするなんてそもそも無理だ。
だからといって、サポートを続けるのは営利企業として限界がある。
それでも長きにわたってサポート実施し、責任を果たしてきた。
・・・・

責任はXPを発売したMSにあるのか、ユーザーにあるのか?
突き詰め始めると議論は尽きないだろう。


解決方法は3つあると思う。

1.権力を呼び出して裁定(裁判とか)

近代民主主義の制度でなら、議論を喧々諤々やって、“正しそう”な方を権力(裁判所)が判断する。
前近代的な独裁制なら、独裁者が恣意的に判断する。
民主的な裁判も独裁者の恣意的判断も、権力が裁定するというところでは同じ。

2.権力をあからさまに呼び出すことはせず「空気」に任せる

他の国ではどうか知らないが、「空気」の国日本では、この主に解決法。
メディアで宣伝して「空気」を醸成し、従わない人間は犯罪者扱い。

3.「成長」による解決

資本主義的解決法。
XPユーザーに解決するだけの経済力があれば、責任を云々するだけ野暮というものだろう。



3.の解決法は権力を要請しない。ということは、コミュニケーションが成功しているということになる。

資本主義はコミュニケーションの形態のひとつと捉えることが出来る。
資本主義コミュニケーションがうまく作動していれば、責任は生じないし、権力もお呼びでない。(〈秩序〉はある!)
けれど、資本主義コミュニケーションも失敗する。
そうすると、1.か2.のオプションが呼び出されることになる。


余談というより、少し話を先に進めてみる。

ネットというのは、従来なかった新しいコミュニケーション空間。
新しいから、当然、秩序が安定していない。
XPの問題は、ネット秩序の不安定さと関連している。

コミュニケーションだから、悪意といったようなものが介在する余地が生まれる。
よしんばXPが完璧な製品でなかったにせよ、悪意のユーザーが入り込む余地がなければ、問題はさほど大きくない。
XPは不完全なコミュニケーションツールであるがために、悪意のユーザーはツールを改造して、アンフェアなコミュニケーションを行うことが出来てしまう。アンフェアを許してしまうことがセキュリティー問題。


こちらはホントに余談。

先日『ドッグウィル』という映画を観た。
これはコミュニケーション不全かつ権力不作動だと、どのような事態に陥るのかを描き出した作品(だと思う)。

秩序が生まれるところ


生命が生を営むのに必須のコミュニケーション。
なのに失敗を免れないことができないコミュニケーション。

必ず生じるコミュニケーションの失敗に予め対処することが、責任

あるいは、

必ず生じるコミュニケーションの失敗に予め対処することが、秩序

だとも言える。

責任と秩序の違いは、その対象の違い。

責任の対象は、特定の個人あるいは集団
秩序の対象は、社会。社会は個人や集団を内包するもの。


“不徳の致すところ”という言葉がある。コミュニケーションの失敗によって秩序が乱れて特定の個人あるいは集団が責任を負うべき事態に至ったとき、謝罪の言葉として発せられる。
現代的な意味では、“不徳”はコミュニケーション能力不足といった意味だけど、もともとは違う。
“不徳の致すところ”という言葉は、社会の秩序の責任に責任を負う者すなわち統治者の言葉だった。
社会の秩序が乱れてコミュニケーション失敗への対処がうまく行かない状態に至ったとき、統治者個人に直接の原因はなくても、その責任は統治者という個人に帰せられた。たとえ天変地異などが原因で秩序が乱れは統治者の“不徳”の表れとされた。


余談。

“不徳の致すところ”は本来、統治者が発すべき言葉だとするなら、現代なら政治家に相応しい言葉だろう。事実、少し前までは政治家からこの言葉がしばしば発せられていたように思う。けど、最近はめっきり聞かなくなった気がする。政治家から秩序に責任を負うという気概がなくなっているような気がする。

『ジャパン イズ バック』

『ジャパン イズ バック』で安冨さんは、安倍政権は、

  「コミュニケーション不全を生み出したい」

のだとズバリと指摘してる。

コミュニケーション失敗に対処するための〈秩序〉を乱して、コミュニケーション失敗を頻発させる【秩序】を打ち立てたい。
“不徳”に至りたい。
Japan is Back.

そんなことを日本人は本当に望んでいるのだろうか?

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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