愚慫空論

創発価値説 ・・・ 「味方」とは?

人間は人間の敵か、味方か?
それ以前に、敵であるとは、味方であるとは、どういうことか?

この疑問を考えるのに、経済学の観点から議論される次の動画がとても参考になる。

2013/03/13 【文化】多様な生き方を実現できれば経済的価値も生み出す―安冨歩×平智之 対談

最初の20分だけでもいいから、見て欲しい。

働くことが苦しいと思う人が増えている一方で、国の政策によって金融を中心とした経済は元気になっていく感じがする。

と平さん。言及されていないけど、具体的には「アベノミクス」のことだよね。株価などは上昇したけれども、社会の格差はますますひどくなって、多くの庶民は展望が持てない。苦しい労働を強いられることが予想される――、これって、経済が(多くの人間の)「敵」になってしまっていると言い換えていいのだろうと思う。

平さんの問いに対して安富さんは

経済学では、楽しい労働と苦しい労働を区別しない。楽しい消費、楽しくない消費という概念もない。そこが経済学の最大の問題である。
楽しいとは幸福につながることで、悲しい・辛いは幸福につながらない。そこをはっきりさせない限り、まともな経済の議論はできない。


と応え、持論を展開していく。これが「人間は味方」の経済学。

幸福は測れない。
しかし、測れないものを前提にものを考えるということをしないと、まともな経済学を考えることが出来ない。
ところが現在の学問においては、測れないもの・記述できないものはないものとして取り扱われる。

経済学ではもはや「価値論」は語られない。価格決定論でしかない。
かつて経済学で価値が議論されたのは、人間社会が再生産されていく中に「善きもの」がないと社会が成り立っていかないという考えが背後にあった。

「善きもの」とは何かと何かを問うべき → 創発 ―― 生きる神秘的な力の発揮
人が何らかの形で「生きる力」を発揮したら、それが「価値」
(たとえば、お腹をすかせた人がご飯を食べると、すでにして「価値」)

だが、その「価値」は測れない――


測ることができない〈価値〉を受け入れる。それって、「味方」ということでしょう?
だとするなら、測ることが出来ない〈価値〉を軸に回る経済社会は、「味方の経済」。

けれど、歴史はそれとは逆の方向へ進んできた。測れないものはないものとしてカウントされない。
測ることが出来る【価値】を軸として経済社会は回るようになってきてしまった。その結果が「敵の経済」。

味方同士ならば、測ることが出来なくても、不確実でも通じ合える。
しかし、敵を相手に交易をしようと思うなら、確実でなければならない。
確実でなければ殺し合うしかない。敵なんだから。
だから、確実性をベースにした経済は、本当は「敵と殺し合わないための経済」のはず。

現在の経済学は、「価値」=「価格」だと暗黙の内に前提している。
平・安冨両氏は、それは幻想にすぎないと一蹴するけれども、「敵と殺し合わないための経済」と「味方同士の経済」とが一致しないのは当然でしょう。ベースが違うんだから。

「価値(善きもの)」を問うことを忘れてしまい、確実性を追い求めて価格決定論に堕した経済学がはびこる現在の経済社会は、「敵と殺し合わないための経済」ですらなくなってしまった。今の経済は、「人間を敵にしてしまう経済」。


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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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