愚慫空論

愉氣な経済

昨日。アキラさんのところの「愉氣の会」の稽古の最中に、頭に思い浮かんだ本。

せいめいのはなし

ことに、内田樹さんの動的平衡と経済の類似性の話。

どうして、最近経済がダメなのか、その理由を考えていて、もしかするとそれって、「経済とは何か」という本質的な問いを間違えているからじゃないかな、と思ったんです。経済って、本質的に動的平衡じゃないかな。モデル的にずいぶんと近いような気がするんです。だって、経済活動の本質って、一言で言えば、ものがグルグル回っていくということでしょ。


ものをグルグル回すためには、ものがグルグル回るシステムが必要なわけです。手渡す人がいて、受け取る人がいて、パスが繋がることが必要なわけですよ。みんながグルグル回っている「もの」ばかりに目を奪われていて、どういうふうに回しているのか、どういう工夫を凝らして継続的なパスの連携を確保しているのか、そういうことはあまり顧みていないような気がする。商品や貨幣が回っているのを見て、商品や貨幣それ自体のうちに運動力が内在していて、自力で回転しているだと思っている。でも、ぼくは違うと思う。


だから、「価値のあるもの」をやりとりするために人間たちは経済活動を始めたわけじゃないとぼくは思うんです。・・・「交換する主体」となりうるために無数の人間的条件がクリアーされなければならない。だからこそ交換が始まった。つまり、経済活動というのは人間を成熟させるための装置だったというのが僕の理解なんです。


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昨日は、縁が繋がって、富士吉田から2名、新たな参加者を連れて行くことが出来た(「愉氣の会」は、静岡県・富士市)。初めての人が来たということで、稽古の前に少し、野口整体とはなんぞや、という講義があって、活元運動(自働運動)、行氣、愉氣、型、といった説明。ことに、愉氣。愉氣とはなんぞや、どのようにどうしたら愉氣になるのか。実習を始める前の、イメージの喚起。どういう感覚を捉まえれば良いのか。

実際、愉氣というのは、言葉だけで説明するのはなかなか難しい。

 光るナス『愉氣(ゆき)のこと』

愉氣(ゆき)というのは、言ってみれば、まぁ「手当て」です。
お腹が痛いときには、思わずお腹に手をやりますよね?
歯が痛いときには、痛いところに手を当てるでしょ?
お腹が痛いときに、頭に手を当てる人はあんまりいませんよね。 (^_^;)

自分で思わずやっているそれとおんなじように、人のおかしなところに手を当てるわけです。
おかしなところに手を当てて、澄んだ気持ちでそこにこちらの注意を集注する。
な~んにも考えない。
ただ 感じる。
それが愉氣。


付け加えると、その「感じ」に、ピッタリ付いていく。「手当て」をすると、なぜか、相手の状態が変化するので、関係性が変化しないように、変化にピッタリくっついて行く。

アキラさんが仰っているのだけれど、最近、アキラさん自身に「進歩」があって、説明もそれに伴ったものになっている。(⇒「中心感覚」のこと

しかし、面白いというか、皮肉というか、愉氣は、その正体に近づけば近づくほど、言葉にすると矛盾してしまうようなところがある。これは愉氣に限らず、何かの「極意」といった類のものは、そうなんだろうけれど。昨日のアキラさんの言葉でもそうで、愉氣を“消極的な働きかけ”というふうに表現していた。その言葉が矛盾したものだという指摘も、自分自身でしながら。

そのようなアキラさんの言葉を改めて聞き、その言葉から受け取ったをイメージを体感すべく稽古をしながら、頭の中に浮かんでいたのが、前掲の『せいめいのはなし』の一部だったというわけだ。

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野口整体は、その「整体」という言葉のイメージだけで想像をしてしまうと、その実態に触れたときには裏切られてしまうこのがある。「整体」からイメージされる、たとえばマッサージのような操作感が希薄だからだ。整体の指導を受けて――ここは必ず「指導」である。というのも、身体は自ずから整うものというが、野口整体の思想だから。術者がするのは、その手助け――、受けた者が、“よく効きました!”といったような感想を持ったとすると、それは術者(指導者)にとっては恥ずかしいことなのだという。忍者のように、術者の存在はなるべくない方がよいのだという。

(このあたりは、河合隼雄さんのカウンセリング論に似たようなところがある、と、昨日初めて参加した人のひとりが言っていた。)

内田樹さんは、前掲書のなかで、資本主義者たちの最大の誤謬は商品そのものに価値があるからだと思い込んでいることにあるとしている。商品の価値は、「グルグル回すためのシステム」の整備を促進するために、仮象しているだけのものに過ぎない。

商品価値という側面から整体を考えてみたとき。そうすると、整体はまず、「サービス」でなければならない。で、「サービス」の価値を高めようと思うのなら、存在感を際立たせるのが得策だということになる。が、野口整体の思想は、それとは逆向きのベクトルを持つ。その「サービス」が、なるべく際立たないことを良しとする、というのだから。

野口整体において、愉氣において、目指すところはあくまで「グルグル回す」こと。では、一体、何を回すのか? この答えも難しいが、答えるとするならば「氣」ということになるだろう。なるだろうが、この答えもまた仮象だと思っておいた方が適切だ。

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『せいめいのはなし』は、著者が福岡伸一さんであることから想像されるように、メインテーマは「動的平衡」。内田さんの話は、動的平衡→グルグル回す→経済という連想を、人類学的な知見に基づいて膨らませたものだと言える。私の連想は、グルグル回す→愉氣。そしてそこから、愉氣≒経済 と捉えた。だから、当文章のタイトルが出てきた。

そして、そのように捉えてみれば、共通点がいろいろと見えてくる。

たとえば。愉氣は人間を成熟させるためのものである、ということができること。「ピッタリ」を求め維持するためには、さまざまな人間的(身体的・精神的)条件をクリアーしなければならないということ。

たとえば。「グルグル回す」こと自体が、経済において、発展(多様性の展開)をもたらすのと同様に、愉氣においても、「グルグル回す」こと自体に、発展性が内在しているといえること。

たとえば。「グルグル回す」ことを促すために仮象された「価値」に囚われてしまうと、「グルグル回すこと」が阻害されてしまうこと。

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愉氣の場合。「グルグル回す」ことを阻害する要因を廃し、「ピッタリ」を維持することができれば、それは自ずから「愉」になる。なぜそうなるのかを解明することは、まず不可能で、神秘とでも呼ぶしかないが、そうした「作動」は間違いなく存在する。

この「作動」の主体を「魂」と仮象してみれば、阻害する要因を廃することを「魂の脱植民地化」と呼んでみても、そう的外れではないだろう。

そして、そうした神秘的な「魂の作動」を前提とした視座(合理的な神秘主義)から、愉氣と経済との間に共通の構造を見出しうることが出来たなら。「愉」を伴う経済の可能性を見出すことも、出来るかもしれない。できたなら、それは、魂の経済学ということになるだろうか。

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「愉氣の会」からの帰りの車の中。初めてのおふたりは、しきりに、身体が温かいと言っておられた。愉氣の概念的なイメージを頭で捉えることはともかく、身体のほうは間違いなく、何かを実感したのだろう。


魂の宣言文がふたつ

以下の2つ。文章の趣きはかなり異なるけれども、共通する「何か」があると、私には思える。

2012年9月17日に、「いのちの祭り2012」で発表された宣言。

◯前文:

いのちの夢見の種子が蒔かれ、
50億年というとほうもない歳月をかけて、
草や木や虫や魚たちの秘かな祈りによって育まれてきたいのちの星。
この奇跡の、いのちの星が今、危機に晒されています。

フクシマ原発事故、それは計らずも、文明の袋小路に陥って、
魂を奪い去られているわたしたち自身の姿をあらわにしてしまいました。
そして人とは、生きるとはどういうことかと激しく問いかけてきます。
もはやこの文明にわたしたちの未来を見ることはできようがありません。
それがフクシマからの教訓です。


◯いのちの宣言

自然によって育まれてきたわたしたち。
だがその自然を破壊することができたのは、自らを自然から切り離し、
自然を単なる物と見るようになってしまったからだ。
再び自然に還り、その魂に抱かれて、わたしたちのいのちの物語を歌おう。

助け合い、支えあっていきてきたわたしたち。
わかちあうことができなくなってきたのは、欲望とエゴによって分断され、
いのちがひとつながりであることを忘れてしまったからだ。
再び人としての道に還り、共に生きる知恵を育み、つながることの喜びを祝おう。

地球とダンスしながら、いのちの文明へと歩みを進める。
緑なす地球と共に、いのちの踊りを踊ろう。

いのちの深みに降りていく生き方。
大地とつながり美しさのなかに生きる暮らし方。
いのちの花を咲かせ、実を付け、
そのスピリットの夢の秘められた種子(たね)を未来へと受け渡してゆこう。

ここにいのちの宣言をする、
いのちの文明の、未来への種子を蒔くために。



もうひとつは、安冨先生のブログで発表されたもの。叢書・魂の脱植民地化。刊行のことば。

【刊行のことば: 安冨歩・深尾葉子】

何かを知りたいという、人間の本性の作動は、知ろうとする自分自身への問を必然的に含む。対象への真摯な探求を通じて、自らの真の姿が露呈し、それによって更なる探求が始まる。これが知ることの本質であり、これによって人は成長する。この身体によって実現される運動を我々は「魂」と呼ぶ。
 この作動の停止するとき、「知」は単なる情報の集積と抽出へと堕落する。記述された情報の明示的操作に、知識の客観性を求めようとする「客観主義」は、魂の弱さの表出に過ぎず、その惰弱が知を堕落させる。対象に関する情報のみを記述し、自らの存在を押し隠すことは、客観性を担保するものではなく、実のところ、自己を傍観者という安全地帯に置く卑怯に過ぎない。この堕落が「魂の植民地化」である。植民地化された魂は、自らであることに怯え、罪悪感にまみれて暴走する。
 「魂の脱植民地化」とは、この<知>の円環運動の回復にほかならない。それは、対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程であり、修養としての学問という、近代によって貶められた、人類社会の普遍的伝統の回復でもある。「魂の脱植民地化」研究は、この運動を通じて、魂の作動を阻害する暴力を解明し、その解除を実現する方途を明らかにしようとする学問である。
 そのために必要なことは、問う主体を含んで展開する、対象との応答全体の厳密な記述である。それこそが、読む者にとって有益な、真の意味での客観的記述ではあるまいか。
 『魂の脱植民地化叢書』はそのような客観的記述のために刊行される。



似通っているのは、「魂」という言葉が使われているから、というだけではない。「魂」は、どちらの文章においても、その必然性があって記されているものだ。

前者は、「サイケデリック」「ヒッピー」と称されたムーヴメントの流れを汲むもの。もともとサイケデリックという言葉が「魂の解放」を意味している。「いのちの宣言」は、その流れを汲んで、俗にいう“スピリッチュアル”な趣きある。

もっとも、“スピリッチュアル”からイメージされる、不健全さにはここにはない。LSDのような薬物を使用していたサイケの不健康な部分も、もう既に洗い流されている。そのことは、「いのちの宣言」を起草した、おおえまさのりさんの著作に、よく表れている。

未来への舟

(余談。、実は私、大江さんがこの宣言を推敲しておられてところに、偶然、立ち会う機会があった。そこで、“魂を奪い去られている”という表現を、“魂に蓋をされている”あるいは“魂を抑圧されている”にしてみては、と提案したが、それは容れられなかったようだ。魂はいつでも「ここに在る」ものなのだから、奪うことなどできようはずはない。もっとも、“魂を奪う”という表現は慣用句として成立しているから、不適切というわけではない。)

「いのちの宣言」を民草の決起ということができるなら、後者は学者の決意だろう。魂という神秘を前提として、その作動を阻害する「暴力」を排除するための学問。そこに向けての決意文だ。

これは、有名な「コギト・エルゴ・スム」に相当するものといえるかもしれない。「我思う、ゆえに我あり」というところに立ち至ったデカルトにも魂の遍歴があったはず。欧州で強固だったはずの、キリスト教を基盤とした思想が揺らぎ、その揺らぎをデカルト自身が引き受け、結実した「コギト」。近代の出発はこの「コギト」である。

その「近代」が、いまや、魂を抑圧・植民地化する【知】の集積へと堕落してしまっている。その【知】を我が身に引き受けた学者が、魂の遍歴を開始し、結実した。

魂の脱植民地化とは何か


現代日本は、抑圧の強い、生きていくことが難しい社会であり、時代である。その傾向は、これから加速度的に強くなっていくだろう。だが、それは同時に、新しい潮流が生まれてくる時代でもある。

生まれつつある新しい潮流に身を委ねることができれば、これほどわくわくする時代もない。おそらくは、命懸けのわくわくだが。

「貨幣レジーム」から「社会の人間化」まで

昨日のツイートの一部を、ブログへ転載。(修正、追記あり)

貨幣レジームの変革とベーシックインカムの持続可能性
   ―文明の未来はマルクスではなくダグラスが握っている―
』 より

・「貨幣レジーム」 ← 現代社会を的確に表現する言葉だと思う。

・近代貨幣レジームの3大欠陥。 「不況からの脱却の困難性」「バブルに対する促進性」「貨幣発行益分配の不透明性」  ← この欠陥を隠蔽するために要請させるのが「イノベーション(=技術革新)(≠自己革新)」

銀行本位の貨幣レジーム → 中央銀行が貨幣を発行し、それが市中銀行に受け渡され、市中銀行が信用創造によってさらに貨幣を増大させる。

・「内生的貨幣供給モード」→ マネーサプライは、ゼロの金利を所与としつつ、需要や供給の水準、資本ストッ クなどの経済の状態によって、内生的に決定される。現在の日本は基本的には、内生的貨幣供給モード。

・そもそも近代以前の国家には、「貨幣発行益」と「税金」の2 種類の財源があった。ところが、中央銀行が設立され、さらには中央銀行の国債直接引き受けと政府発行貨幣が法的にあるいは事実上禁止されることになった。その禁止によって、国家による貨幣発行益のあからさまな全面的活用は不可能となった。

国民本位の貨幣レジーム → 中央銀行から家計、それから預金を通じて市中銀行、消費を通じて企業へ と向かう貨幣の流れ。市中銀行の信用創造は禁止され、貨幣発行益は、家計へ直接分配される。

・銀行本位の貨幣レジームでは、貨幣の流れが中央銀行→市中銀行→企業→家計。「ポスト近代」の現代では、この間にバブルが発生して貨幣発行益が家計にまで達しない。

・「持続的な貨幣発行益の源泉は技術進歩にあり」という分析は炯眼。

・技術の進歩は社会の進歩。社会の進歩を「貨幣発行益」という形に転化し、それを社会へと分配する。

・例えば、我々は住宅ローンとして、銀行から融資を受けることがある。それは本来ただで受け取ることのできる貨幣である。個人に融資する際にも、銀行は信用創造を行い貨幣を増大させる。貨幣の増大は、その分だけインフレーションの傾向を高め、国家が貨幣発行益を国民のために分配する余力を失わせる。

・信用創造を禁止すれば、銀行が融資している分に相当する貨幣を国民はただで手にすることができる。我々は本来我々のものであるはずの金を受け取る代わりに、銀行から金を借りてあまつさえ利子まで払っている。

・「国民本位の貨幣レジーム」≒「ダグラスの社会信用論」

参考:
関 曠野 講演録 「生きるための経済」― なぜ、所得保証と信用の社会化が必要か ―

・国民本位の貨幣レジームは、必然的にベーシック・インカム制度となるが、副作用として考えられるのが、労働意欲の低下、過剰消費、インフレーション。貨幣レジームの変換は同時に、社会全体の価値観が大きく変わるパラダイムシフトをもたらすはずで、副作用は、新たなパラダイムによって緩和されるはず。

・「技術の進歩は社会の進歩。社会の進歩を「貨幣発行益」という形に転化し、それを社会へと分配する」 ← しかし、この考えだと、貨幣発行益のために技術進歩が必要という考えに逆転する怖れがある。というより、必ず、逆転する。

・技術進歩は人類に恩恵をもたらす反面、自然環境を破壊するという側面もある。ベーシックインカムのために貨幣発行益が必要で、貨幣発行益のために技術進歩が必要という考えからは、自然破壊を抑制するという「思想」が生まれる必然性はない。

・ケインズは「貨幣愛」が資本主義社会の退廃を招くと予想していたという。「貨幣愛」とはつまり、愛を注ぐ対象が貨幣>社会 ということである。池田信夫氏は、「通貨の信用を維持することが国家の役割」といった旨の発言をしていたと記憶しているが、記憶通りなら、これはまさに「貨幣愛」だ。

・「貨幣愛」という言葉は皮肉語だと感じる。貨幣は「愛」の対象にはなり得ない。「執着」はしばしば「愛」と言い換えられるが、「貨幣愛」での「愛」は、、「執着」という意味での「愛」であろう。

・ダグラスの「社会信用論」(およびマルクスの共産主義思想)は、必然的に「貨幣愛」へと陥っていく資本主義社会を離脱して、「社会愛」へと向かう社会を希求することの中から、生まれたのではなかったか。

・プレ近代の呪術社会(宗教社会)から、近代に入って社会は脱呪術化(人間化)したが、それは「貨幣愛」に囚われた社会。近代が完成するには、「貨幣愛」を脱し、「社会愛」に至らなければならない。そうでないと、「近代」は完成しない。

Can_vv@gushou ここ一年、放射能は安全だという呪術世界に逆戻りしてしまっていますね…。

>>@Can_vv いえいえ。日本社会は、もともと脱呪術化していません。ただ「人間化」しただけ。だから、科学というのも呪術の一種なんですよ。だからこそ、「ニセ科学」なんてのが蔓延ることになる。

>>@Can_vv ついでに言いますと。日本では、「ニセ科学」を信奉する者の方が、まだ「魂」に近い存在です。躍起になって「ニセ科学」を退治しようとする科学教信仰者は、「無魂洋才」というべき者。

・だが、社会の人間化を目指す「近代主義」を、私は支持しない。「近代主義」の背景にある直線的な歴史観。人間は、原始状態から「進歩」して高度な存在になってゆくという、キリスト教的宗教観を背景にした思想を、受け入れることができない。

参考:愚樵空論『〈世界〉への関わり方』

・日本人である私の基層にあるのは、循環する歴史観である。それは、「山川草木悉皆成仏」といったような言葉で表現される宗教観とともにある。人間を含め、すべての生命は、大きな営みの中で循環している。そこには「進歩」などというものはない。ただ「変化」があるだけ。

・「変化」は無秩序になされるわけではない。中心がある。その中心は、「魂」と呼ばれるのが適切であろう。私たち自身の中にあることは想定されうるけれども、存在するか否かさえ、判然としない。判然とさせる必要すらない。そこは、存在するのだと「信仰」しさえすればよいようなもの。

・おそらく。それぞれの文化には、「愛の回路」とでも呼ぶべきものがある。西洋文化の場合、その「回路」の中枢にあるのは超越神。「社会愛」は「人間愛」に他ならないが、それは「神への愛」が変化したもの。神は、とりわけ、つまり他の生命よりも、人間を愛する存在だと想定されているが、その「神からの愛」と、人間からの「神への愛」とが、近代化で神が抜け落ちる過程で融合して、「人間愛」へと変化した。だから、西洋文化では、「人間愛」を遡れば「神への愛」へと行き着く(のだと思う)。

・ところが日本文化の「愛の回路」には、超越神が存在しない。代わりにあるのは、自然(「しぜん」、もしくは「じねん」)への愛である。自然(しぜん)を、自然(じねん)な循環と捉える形で「愛の回路」が存在している。いや、していた、というべきだろうか。

・西洋の場合、「神への愛」と「神からの愛」が融合することで脱呪術化され、社会が人間化した。「愛」の人間化。ところが日本の場合、「自然への愛」は、「洋才」を採用したことでただ抜け落ちただけで、脱呪術化がなされていない。「愛の回路」が抜け落ちて人間化し、人間社会そのものが呪術化した。

(「愛」は、「呪い」でもある。)

・山本七平が発見した「空気」。安冨先生が提唱する「立場主義」。これらはいずれも、呪術化した人間社会の様相ではないのか。

 

・西洋社会が脱呪術化→人間社会化していくことが出来た背景には、「言葉への信仰」があるように思う。その点こそが、日本と最も異なるところなのかもしれない。「教典」というものがない日本語の悲劇、か?

参考:愚樵空論『読書メモ ~『蠱物としての言葉』 その1』
  :光るナス 「蠱惑的」「判断的」シリーズ

漢意(からごころ 
「中国文明に特徴的であると本居宣長の考えた、物事を虚飾によって飾りたて、様々な理屈によって事々しく事象を正当化したり、あるいは不都合なことを糊塗したりする、はからいの多い態度を指す。」

・中国文明に対する本居宣長の解釈が正しいとは思えないけれども、日本近世には、外来のものに対する警戒感は、少なくともあったようだ。

・いや。この警戒感こそが、日本をおかしくしたのかもしれない。

・もしかしたら。日本は伝統的に「脱呪術化」を、外来思想に依存しているのかもしれない。そして、その依存に自覚的だった。古くは漢語を「脱呪術化」のツールとして用いた。そして、たとえば和歌のような「日本語」を呪術のままに保存した。

・しかし明治維新以後。西洋から輸入した概念を、漢字を用いて「和訳」。その過程で、日本語が「呪術言語」であるという自覚を喪失したのではないか。その自覚の喪失が現代に至り、「東大話法」へと結実したか?

・「脱呪術」的なものを輸入品で間に合わせるという日本の伝統は、貨幣においても観察されるかもしれない。なぜ、日本の天皇家は本格的に流通する貨幣を発行しなかったのか? 平清盛は中国から「宋銭」を輸入することをはじめ、その伝統は以後引き継がれた。戦国時代以降は、貨幣は武家が発行したが。

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付け足し。近代主義者と公言する宮台氏の『きみがモテれば社会は変わる』を読んでいて、あれ? と思ったところ。


主体は場所である
・・・
 キャリコットは、「なぜ環境を保護しなければならないのか」という理由について考えました。でも、「利益がもたらされるから」と功利的に考えても(開発したほうがふつうは便利です)、「義務があるから」と道徳的に考えても(環境を守ることよりも、子どもを飢えさせないために森を切り開くことのほうが、ふつうは上位の義務です)、どちらも矛盾におちいってしまう。そこで彼は、発想を逆転させ、「人を主体にするな、主体は人ではなく場所だ」と考えることが前提であると主張したのです。
 その発想は相当にユニークで、場所をひとつの主体としてとらえ、人を場所という〈生き物〉への寄生物だと考える。そのうえで、〈生き物としての場所〉にとって自然なものを許容し、不自然なものを許容しない。そうすることで、たんに人々のニーズにこたえる場合より、結果的に、そこに住む人々の〈幸福と尊厳〉を保つことができる――これがキャリコットの考え方です。


いや、全然、ユニークではないのだが。ユニークだと感じるのは、脱呪術化して人間化した社会、つまり「近代」をスタンダードだと考えるからで、こうした「脱人間化社会」的な発想そこが本来、人類にはスタンダードだというべきだ。

私が、あれ? と思ったのは、ユニークだと言いつつも、こうした「脱人間化社会」的発想に、近代主義者・宮台が注目したということ。

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付け足し、その2。

「家」から切り離されて「立場」に
 江戸時代には、人は「家」を単位に生きていました。人は「家」に属するもので、「家」を代表して社会の役割を果たしていました。より正確にいえば、「家」がひとつの生命体で、人はそれを構成する要素だったといってもいいでしょう。
 それを象徴するのが、中世の「住宅検断」です。「村」のなかで殺人事件が起きたら、村人たちは「住宅検断」といって、その犯人の住んでいた「家」を燃やし、場合によってはその「家」を構成する人々をみな殺しにしていました。犯人だけでいいじゃないかと思うかもしれませんが、当時の人々は「家」をひとつの生命体と考えており、「家が罪を犯した」と考えていました。それどころか、犯罪があると、逃げた犯人は放ったらかしにして、家だけ燃やして一件落着ということがよくあったのです。ちなみにこれは東京電力の勝俣元会長のお兄さんである、東大名誉教授の勝俣鎮夫先生が明らかにされたことで、勝俣先牛は「家」
が文字通り生命体だったのだ、と指摘しておられます。
 このように「家」が生命体であれば、「人」というのはあくまで「家」の「細胞」のようなものだったわけです。それを理解していただくには戦がいい例でしょう。中世でもそう頻繁にあることではありませんでしたが、その国で暮らす人々には「軍役」というものがありました。


この記述は、キャリコットの“ユニーク”な考え方と似通っている。「家」という場所が生命体であり、「人」はあくまで「家」の「細胞」のようなもの。「人を場所という〈生き物〉への寄生物」だというのと、同じだと断じても、差し支えないと思われるほど。

しかし、それでも私は、この安冨―勝俣の視線を、人間化社会に立脚したものだと感じる。「家」というのは、あくまで人間主体の場所。だが、“山川草木悉皆成仏”という世界観にいた当時に日本人にとっては、「家」が生命体であったとしても、それはもっと大きな生命体――自然――のなかの「細胞」のようなもの、であったはず。

このことは、特に農村の「家」――建築物としての家屋の構造と、そこに込められた思想を追いかけてみれば、明らかになると思われる。

雑念する「からだ」 『カタチと境界』

ご存じの方も多いかもしれないけれど、隈研吾さんという建築家は「負ける建築」というコンセプトで建築設計を行なっている面白い方である。

(「負ける」というコンセプトは、野口体操の創始者である野口三千三先生もおっしゃっていたことである。「負けて、参って、任せて、待つ」。)

「負ける建築」と言っても、何も吹けば飛ぶよな家を建てようということではない。

その建築を建てる土地や気候や風土に「勝とうとしない」ということであり、もっと言えばそういうものと「勝負しない」そんな建築のことである。

もともと日本の建築文化は、「自然を征服しよう」という気のさらさらないようなものであった。

そうでなければ、障子のような「薄紙一枚張っただけの仕切り」など、思いつこうはずもない。

日本の建築はどちらかといえば「自然と折合いを付けていこう」という思いがある。

日本人の世界観には「一緒に生きていかなければならないモノとは、勝ち負けを決しない」というような考え方がある。(勝ってしまうくらいならむしろ負けておけと古人は言う)

それは長い経験に裏付けられた偉大な「人類知」であると私は思うが、その思想が建築そのものの中にも現れていた。

それが隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトなのだと思う。


安冨・勝俣両先生のいう「家」からは、現代の、西洋風になった外界と遮蔽する「家」を想像してしまう。

「生きる」ために ~『もう「東大話法」にはだまされない』


安冨先生の新著。今度は新書。二〇〇頁弱。届いて、すぐに読み始めた。あっという間に読了。快著だと思った。が、同時に“怪著”でもあるかもしれない。なぜ、そうなるのかは、後で触れる。

目次

はじめに――「絆社会」を訴えることの危うさ 3
 「絆」とは自分をくくりつけるヒモ 3  日本人は「立場のある家畜」5
「立場社会」を守る話法 7

第一章 「東大話法」とは何か 19
  原発危機にも楽観的 20        「水素爆発」を必死にごまかす 21
  原発ムラと東大の共通点 23       大惨事に出現する「東大話法」 25
  原発は日本の「欺隔」の集合体 27    言葉を正すことの重要性 29
  メディアを暴走させた罪 30       良心的な学者の指摘 32
 「我が国学者」の無責任 33        都合のよい方向へ、それっぽく 35
 「東大話法」に共通する法則 36      東大話法の「模範文書」 38
 「東大話法」が議論を有利に 43      ケムにまいて切り抜ける 45
  素人やスケープゴートを侮辱 46     東大関係者だけではない 48
 「東大文化三ヵ条」 49         「権威」によって拡散される 51
 「官僚語」こそ東大話法 53

第二章 東大話法の温床は「立場主義」 55
  なぜ彼らは東大話法を操るのか 56    原発事故は「悪事の微分化」 57
  大王製紙事件は典型的なケース 58    犯罪者の「東大話法」 60 
  立場上ウソをつく「御用学者」 61   「答える立場にありません」 62
 「人」よりも尊重されるもの 64      東大は「立場」を叩き込む 65
 「立場」を明確にすると有利に 67    「立場」と「自信」の相乗効果 69
 「勝ち逃げ」こそ常套手段 70       欺隔の「立場三原則」 71
  東大ショッカー説 73 

第三章 「立場」はどうやって生まれたのか 75
 「立場」の原点 76           「家」が生命体だった中世 77
 「家」から切り離されて「立場」に 78   感情を捨てて使命に邁進 80
  人権を尊重しない人権派 81      「終身雇用」が生まれた背景 83
  私が銀行勤務で感じた疑問 85      すべてのビジネスは「関所」から 87
 「冠婚葬祭」こそ最も電要な仕事 88    増殖する「責任」と「役」 90
  技術革新を無にする立場社会 91     衝撃のバカバカしさ 93
  新卒がすぐに会社を辞める理由 95   「立場」を守るためだけに 96
  原子力委員会の強弁のからくり 98    履歴書の「派遣」「空白」は…… 99
 「くされ縁」は個人には切れない 100
 
第四章 「東大話法」がもち上げる「送りバント」 103
 「東大話法」で立場をしつける 104    「他人に迷惑がかかる」が入り口 105
  非言語でひっそりと「刷り込み」106   「立場」という椅子にうまく座る 108
 「社畜」は立場社会の本質 109      「サラリーマンはラクやからな」 111
 「感受性」を殺すしかない 114      『社畜のススメ』の「東大話法」 115
  野球は「立場のスポーツ」 118     「社畜」でも「やり甲斐」があった 119
 「役たたず」がクルクルと空回り 121    サラリーマンに「面子」はない 122
  進退を白分で決められない社長 125    日本では総理大臣も「役」 126
  無意味な会議を長引かせる 127      東大の会議で見た「立場の調整」129

第五章 「東大話法」が男と女をこじらせる 133
 「立場」に縛られる男の口癖 134     「女房が」が「我が国が」135
  立場主義者は「割り勘」を好む 137   「立場主義の妻」は搾取する 138
 「立場夫婦」は「熟年離婚」へ 141     定年した夫は「立場の抜け殻」 142
  いい奥さんを演じる 144        「東大話法」が糊塗する「立場婚」 145
 「そんなもの」に凝縮された欺瞞 147    現実の直視を避ける 149
 「良家の子女」は道を踏み外す 151     子どもは「愛情」に怯える 152
 「結婚は幸せ」という思い込み 153     ディズニーランドの「幸福疲れ」 154
  家族写真は「心」を追いつめる 156    立場上の「答え」を瞬時に返す
  アメリカ人の「幸福偽装工作」 158   東大生の「モテキ」160
  私の「将来性」を感じ取った女性 162   女性の「計算能力」は侮れない 164
 「立場の品定め」は女性ならでは 165   「立場社会」で女性は成功できるか 166
  立場主義の男と女を見抜くには 168  

第六章 「東大話法」に逆襲するには 171
 「家政婦のミタ」と「東大話法」172   「承知しました」の底力 174
 「歪み」を浮き彫りにする 176      「デタラメ」を忠実に実行する 178
 「まったく意味のない仕事」を消す 179  「立場」を守る人々からの妨害 180
 「そこまで」とはいったいどこまで 182  「東大話法」を破壊するもの 183
  東大は「秋入学」を実施すべき 185    見事にすり替えられた「目的」 186
 「機能する立場主義」はあるのか 189   「立場の機能不全」の産物 190
  中国人が衝撃を受けた日本の仏性 191  「東大話法」にダマされない方法 193

おわりに 196


ここに並んだ項目は、私のような安冨チルドレン(笑)には、おおかたお馴染みのもの。そのことが読書が早く進んだ一因ではある。が、これは逆に言うと、幅の広い知識、いくつもの著作に跨がって述べられていたことを、一冊で読むことが出来るお得な本だということができる。しかも、「東大話法」という切り口でまとめ上げられているから、読みやすい。快著たる所以だ。中高生でも、十分に読むことができるだろう。いや、中高生こそ読むべきだろう。

本書を読んで、個人的にひとつだけ残念に思ったことがある。それは発売時期。夏休み前か、せめて8月はじめにでも発売されていたら。中高生の甥っ子、姪っ子たちに読ませたのに。もちろん、今からだっていいのだけれど、夏休みというのは、自分の経験上からも、自分を見つめ直すのに適当な期間だといえると思う。そういう時期に、この本をぶつけてあげられることができたなら...。

来年へ向けて、青少年を対象に、また一冊本を書かれるとよいのではないかと思いますが、いかがでしょう? 安冨先生? 夏休みの課題図書に学校が指定するというようなことはないと思いますが。残念ながら。

話が少し逸れた。

私は、安冨先生の著作には特徴が2つあると思っている。ひとつは、「芋づる式跳躍」とでもいうべきもの。前著、『幻影からの脱出』は、そちらの特徴が際立ったもの。


もうひとつは、『複雑さを生きる』『生きるための経済学』『生きる技法』『今をいきる親鸞』『生きるための論語』といったように、著書のタイトルにもなっている、「生きる」というテーマ。「生きるための格闘」が、学問という形式となって結実した――といった趣きのもの。

この2つの特徴は、いうまでもなく、ひとつの根から芽生えた双葉のようなものである。

今日の我々の学問的への態度は、〈私〉の外部で生成する現象の本質を探究するといったものだし、そのように刷り込まれてさえ、いる。なので、必然的に、重視すべきは〈私〉が関与しない「客観的事実」であるということになる。「東大話法」というのは、そうした土壌に芽生えた徒花のようなものでしかないわけだが、安冨先生の学問的態度はそれとは全く逆で、〈私〉こそが学問の中心であるべきというもの。

「芋づる式跳躍」というのは、外部中心の態度からすればそう見えるというだけのもので、〈私〉を中心に視座を据えれば「芋づる式」は当然のこと、「跳躍」は、あくまで他者からはそのように見えるというだけのこと。「生きる」ための格闘も〈私〉を中心だとすれば、それもまた当然のことである。人間はそれぞれ、世界の中で日々格闘を繰り広げているわけで、その「格闘」が学者であるなら学問という形式で結実するのは、この上なくあたりまえのことだという以外にない。

そんなわけだから、「生きるための○○」といった著作名から連想される“啓蒙書臭さ”といったものからは無縁。これもまた安冨先生の著作の特徴と言っていいだろう。

それからすると、本書は若干、“啓蒙書臭さ”がないではない。それは、「格闘」で得られた既知の知識を「東大話法」を軸に編集したというところからもたされた“お得”なところと引き替えに出てきてしまったもの。その代わりといってはなんだが、本書には、安冨先生の個人的な「格闘体験」が詰め込まれている。そして、その個人的「格闘体験」が、快書の痛快感を通り越して、“怪”書たる印象を与えることになる。

その趣きは、第六章で『家政婦のミタ』が登場したきたときに、明確になる。


この『家政婦のミタ』というTVドラマは、近年稀に見る視聴率をたたき出したという意味でも怪物的作品だが、それ以上に、その内容が“怪”作の称号に相応しい。

 あのドラマの凄いところは、このような日本の平凡な家庭の欺瞞の危険性に、真っ正面から向き合ったらどうなるのかということをテーマにしたところでしょう。舞台となるのは閑静なベッドタウンの一軒家で、わかりやすい「幸せそうなマイホーム」です。ところがそれはすべてまやかしで、父の不倫と母の自殺によって、子どもたちは愛し合ったオスとメスから生まれたのではなく、「立場上」生まれた存在だということに気づき、悩み苦しみます。そのようなウソの塊である家族に三田さんが介入し、死んだ母親が仕掛けた呪縛を徹底的に破壊して、家族はゼロから再生をするのです。
 放映される半年前、東目本大震災による、福島第一原発事故が起きました。本書でも繰り返しお話をしてきましたが、原発というのは「東大話法」によって生み出され、「東大話法」によって崩壊しつつある立場主義社会の権化みたいなものなので、あの事故によって、日本という立場社会全体が激震を受けました。まさしくあのドラマにでてくる一家のように、欺瞞性が一気に噴出したのです。
 そんな欺瞞性をあえて徹底させることによって破壊し、愛情を再生する。立場主義社会のなかで「生きる」ということは何かということを日本人に突きつけたので、あのドラマは人気を博したのではないかと私は考えています。(p.175~176)


『家政婦のミタ』が“怪”作であるのは、主演・松嶋菜々子の“怪”演に拠るところが大きいのだが、本書での主演者の振る舞いは、決して“怪”ではない。心ある人間のもの。だが、だからこその“怪”。歪んだ実像を歪みなくストレートに映し出したがために、“怪”作となってしまう、という逆説である。

一見、逆説に見えることを信念を持って実行する。本書には一度も登場しないマイケル・ジャクソンだが、そのMJが歌った『JAM』の精神。「東大話法」に欺されずに心豊かに生きようと思えば、現代社会のシステムのなかでは、必然的に『JAM』を迫られることになる――。



暴力とは ~『護身の科学』


著者の毛利元貞さんは、元傭兵という経歴の持ち主。(⇒Wikipediaの経歴欄

人は、本当に身に危険が迫ったときには、直感で恐怖を感じます。この感覚はとても重要です。恐怖は、人間に備わった「身に迫る危険を知らせる警戒警報」といえます。そのうえで本書ではQ&A方式を用いてあなたの不要な怖さを取り除くノウハウを提供していきます。(「まえがき」より)


正直なところ、本書で紹介されるノウハウを理解したからといって、直ちに危険を回避できる達人になれるかどうかは、疑問。本書は、「科学」とタイトルされているが、内容は「極意」というべきもの。傭兵という死線をくぐり抜ける体験を経て極意を体得した著者が、その極意を平易に具体的に――科学的に――紹介・説明というのが本書の内容だが、平易に説明は出来ても、体得は困難を極めるというのが「極意」というもの。

人間は、直感で恐怖を感じることができる生き物だということは間違いないだろう。でも、だからといって、その直感を、なかなか上手く働かせることができないのが、人間というものでもある。

本書の効用は、人間とはどのような生き物なのかを、暴力というフィルターを通じてよく理解できることにある。つまりは、人間のもつ二面性。直感力と、直感に「蓋」をしてしまう不要な思い込み。この思い込みとは、「常識」であり「正常性バイアス」。

(本書には「正常性バイアス」という術語は登場してこない。「正常性バイアス」は防災心理学の用語で、昨年の大震災の後に頻繁に語られた言葉だが、本書の出版は2005年。)

暴力とは「心とからだを傷つける行為である」とわたしは定義しています。自分や他人を身体的に傷つけるのは、暴力の最終段階といえます。(p.8)


この定義は極めて重要。一般的には、暴力とは「からだを傷つける行為」とはされても、その範囲に「心」が入れられることはない。暴力の対象に「心」を入れ、「からだを傷つける行為」をその最終段階と捉えることで、「心理を読めば暴力は回避できる」という方法論を確立することが出来るようになる。これを著者は「暴力学」とする。

暴力学では、暴力を理解することからすべてがはじまります。それは人の気持ちを察することにつながります。つまり、いかに円滑な対人関係を構築するするかを学ぶことなのです。「力による支配」を理解すれば、言動の意味も見えてきます。相手の気持ちがわかれば、暴力が発生する前にさまざまな処方箋を用いて対処できるのです。(P.9)


ということで、本書は、被害者・加害者・専門家、そして傍観者の心理を読み解いていくのだが、なかでも重要だと思われるのが傍観者の心理だろう。

残虐な事件を起こした犯人が逮捕されると、必ず不可解な現象が起きます。たとえば隣人たちがマスコミに登場し、さまざまなコメントを好き勝手に話します。どうして隣人たちが加害者の家族以上に普段の生活や性格を知っているのでしょうか。ありえない話が平然と語られるのです。なかでも危険なのは、隣人のコメントの多くは顔にモザイクをかけられたり、音声を変えたりしているという点です。匿名性という立場で、好き放題にかたっています。責任感を感じることにない彼らのコメントは...(p.27)


責任感のない傍観者が、匿名性を盾に、自らの主観で好き勝手に語る。残虐な事件のみならず、目下話題の国境紛争に関しても同様の現象を見て取ることができる。

さらに言うならば、本書の範囲を逸脱するが、無責任な傍観者への盾となるのは、匿名性だけではない。日本社会は、「立場」というものが、実名ではあっても、無責任をシステマチックに担保する構造になっている。「立場」を維持するための欺瞞言語が日本社会を蔽っている。


本書の暴力の定義に従うと、「心を傷つける行為」も暴力だということになる。そして、心への暴力を「ハラスメント」という。「東大話法」と命名されるような欺瞞言語を駆使する人たちは、「近代教育」という名の心への暴力行為を受け、その環境に高度に適応してしまった人たち。その結果、暴力を避けるのに必要な直感(魂の作動)に「蓋」をしてまう傍観者となるばかりか、社会のシステムを無意識のうちに悪用して、合法的な暴力を振うようになってしまった人たちだ。

*****

本書では、「教育」の効用についても言及されている。

米国陸軍の調査結果によると第二次世界大戦当時、敵に向かって発砲して兵士の比率は全体の20パーセント弱であったとされています。残りの80パーセントの将兵は「敵を狙うことなく」見当違いの方向に発砲していたのです。もしくは負傷兵を運ぶ、弾薬箱を運ぶといった発砲以外の行動を意識的に選択していました。この報告書を検証すると、人が人を殺すことには拒否感を持つ生き物であることがわかります。ある意味で安心する話ですが、この理性はやがて「条件付け」で抹消されていきます。軍上層部は射撃訓練で丸形の標的を使用していたことが原因だと考えたのです。以後、射撃訓練では人型標的が用いられるようになりました。その結果として、ヴェトナム戦争では敵に向かった発砲率は90パーセントまで高められています。


「条件付け」とは「教育」に他ならない。その他にも、恐怖を怒りへと変換させる「教育」も施されたりする。

そうした「教育」を受けた兵士は、自らの意志で殺人を犯していくようになる。

もっとも「条件付け」にも悪影響があります。人を殺したという記憶は決して、兵士の脳裏から消え去ることはないという点です。一生、重荷となって心に残ります。人を殺した記憶が罪悪感となり、わたしのように心理療法やカウンセリングを受ける兵士もいます。心の痛みに耐えきれず自殺してしまう兵士もいるのです。


兵士が自らの意志で殺人を犯すようになるとは言っても、それが自覚されることは少ない。自覚されないからこそ、「心の痛み」となって発現する。


 参考:愚樵空論『「当事者」の時代』


―草木虫魚のいのり―

日本経済新聞9月12日の記事。


勘弁してやって欲しい。希望を与えてくれた木に、こんな無残な仕打ちをすることは。希望を「ゾンビ」にしてまでも、なお、希望に縋り付きたいのか。

よしこさんのツイート

これは何。最初、目を疑った。木が、そのまま死んで自然に還ることも許されず処刑されている。9分割され幹の芯をくり抜かれる。3.11以後の日本政府の行動の象徴してる。


同感。付け加えるならば、この「一本松ゾンビ」は、日本政府のみならず、“がんばろう福島”や“絆”のスローガンに呼応してしまう人々。原発がなくなれば経済が立ちゆかなくなると声高に主張する知識人。「何か」を喪失した日本人の姿の象徴でもある。

その「何か」とは、なにか。「魂」と呼ぶに相応しいもの。目に見えない、私たちの心の裡にあるはずの、神秘としか言いようがないもの。目に見えないものを感じる力を失ったがために、希望を、それがたとえ「ゾンビ」であっても、目に見えるかたちにしなければ不安で仕方がない人々。

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この本の冒頭に配置されているのは、「序章 供養――死者と向き合う」。

その序章に、カキの養殖家畠山重篤さんの言葉が採り上げられている。「森は海の恋人」という言葉を聞いたことがあるだろうが、畠山さんは、その言葉を掲げて、仲間とともに山に落葉広葉樹を植えた漁師として全国的に知らた人。森と川と海は一体的な世界であり、よい森とよい川が漁場としても歌かな海をつくっているということを、その活動をとおして明らかにしてきた人。

その畠山さんも津波で被災。

 津波からまだ何日もたたない頃、畠山さんは「それでも海を信じ、海とともに生きる」というメッセージを出した。おそらく、津波との折り合いがついたのであろう。もちろん、折り合いなどついているはずがない。多くの漁師仲間も町の人たちも亡くなった。お母さんは津波にのまれた。海辺の集落も消え、彼の養殖施設も崩壊した。どう考えても折り合いがつくような事態ではない。
 しかし、と私は思う。どこかで折り合いがついたのだ。そうでなければ、「これからも海を信じて生きる」というメッセージが発せられるはずがない。
 とすると、どこで折り合いがついたのか。おそらく、魂の次元でだ。海とともに生きてきた、そして自然とともに生きてきた漁師の魂がそう言わせ、そう感じさせているのだろう。


 自然の災禍からの再出発とは、おそらくはこういうことなのである。知性から苦しさや困難性がみえていても、生命それ自体は、すなわち魂はもう一度海とともに生きる決断をしている。そしてそうえあるなら、すでに再建に向けた歩みははじまっている。
 大きな災禍からの復旧、復興への歩みがはじまるとすれば、その出発点にあるのは、魂の諒解、魂の次元での折り合いではないのだろうか。


ゾンビとなって甦るであろう「奇跡の一本松」に、果たして魂はあるのか。感じることができるのか。

 そして、だからこそ原発事故という文明の災禍は大変なのである。はたしてこの問題において、魂の次元で折り合いや諒解はありうるのだろうか。畠山さんは「それでも海を信じて生きる」というメッセージを発したけれども、もしも、「それでも原発を信じて被曝地で生きる」と言う人がいたら、私たちはその浅はかさに驚嘆するしかない。ここでは魂というような次元のことが、全く通用しないのである。危険なものは、知性の力で科学的に考えて危険だと言うしかない。この問題に関する限り、魂の諒解が介入する余地さえない。


魂がないはずの「ゾンビ」になおも希望を見出そうとする浅ましさ。魂の次元とは完全に別の次元で作動する原発に、事故後もなおすがろうとする浅ましさ。これら2つは、同じ次元にいるのだと、私には感じられてしまう。

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魂とは無関係の次元で展開する社会を「告発」した、マイケル・ジャクソン。



*****

内山さんは続けて、次のように言う。

 欧米の世界においては、社会とは生きている人間の社会のことである。もちろんその背後には神がいるのかもしれないが、その神はこの世界を創造した神であり、いわば社会の上に超越的に存在している神である。
 ところが日本の伝統的な社会観はそれとは違う。社会とは自然と人間の社会であり、生者と死者の社会であった。社会の構成メンバーのなかに、自然と死者がふくまれていた。自然とともに社会をつくり、死者とともに社会をつくるのが伝統的な発想である。


「魂の次元」からみてみれば、生者も死者も自然も、同じじ次元の存在であるということだ。そして、社会の中で魂は、神秘でありながら、かつ、なくてはならない機能を果たしている。社会にまんべんなく魂は行き渡っていると捉えられている。だから「八百万の神」であり「山川草木悉皆成仏」。

しかし、欧米の世界観からすれば、我々が感じる「魂の次元」は「神の次元」となり、社会からは超越している。魂がなくとも、社会の構成要素たりうる。欧米流の人間社会には、もともと魂は存在しない。近代社会とは、キリスト教によって社会から「魂の次元」が排除されたからこそ成立した。

 ⇒『オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱』

ビデオニュース・ドットコム第564回より、宮台真司氏の発言。

ところで、今申し上げたハーバマスという人と共著を出した現教皇のグレゴリウス十六世、ヨセフ・ラツィンガーという人ですけど、彼がね、最近著でこういうことをいってるんですね。

「キリスト教は、従来の宗教とは違って、社会の人間化をもたらした。社会を作るのは人間である。神は社会を作らない。神が登場するのは裁きの時。」

というふうにして人間化をもたらしたことで近代社会が実現できた、社会学者の多くもそのようにいっている、それはおそらくそうなのだろう、と。ここで彼は面白いことを言っている。

「しかし、自分たちが自分たちの社会を作れるというときにこそ、人間は自分自身と向き合うことを要求される。私たちが自分自身と向き合うことが出来るのは、社会を人間化したからで、これはひとつの試練なんだ」

という言い方をしている。つまり、キリスト教的なものがさまざまな呪術から人を解放したり、戒律から人を解放しなければ、人はいつも神に向き合って自分自身には向き合わなかったけれど、人は神から解放され、簡単にいえば「人間であること」のみに根拠をおいて社会をつくれるようになった結果、実は他方でいろいろな暴走をもたらしていて、他方で自分と向き合うことができるようになった。これは不可逆なプロセスなので、おそらく彼が言いたいのは、自分に向き合うことを通じて僕たちの社会が人間的に作られてしまっているということがもたらしがちな、暴力、災厄をなんとかコントロールしましょうというニュアンスだと思うんですね。


近代的な世界観からすれば、「魂の次元」の作動からくる祈りや作法は、自由な人間性を阻害する呪術や戒律として捉えられてしまう。

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だからといって、近代は全否定されるべきものだとは、私は思わない。それは、それぞれに引き継いできた文化的伝統の問題であり、ひいては諒解の「型」の問題だ。

「神の次元」を背景に社会を人間化し、その結果、自分自身と向き合う道を進むことが必要となる「型」。この「型」からも、3・11後のドイツの倫理委員会の決定に見られるように、原発は民主主義に適合しないとして、廃止を決定されることになる。

だが、私たちの「型」は、それとは異なる。問題は、私たちが、人間の社会の背後にあるはずの「(超越)神の次元」を諒解できるかどうか。それは「折り合い」ではなく、「信仰」という「型」になる。

端的に言えば、全知全能で、世界を創造した神の存在を信じ、それに帰依することができるかどうか。

私自身は、できないと同時に、する必要がないと思っている。できる人を尊敬すると同時に、する必要がない自身に誇りを感じる。「私は日本人である」と。

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であるからこそ、「草木虫魚のいのり」に心が動く。魂に響くものを感じる。



神秘と感じるわたしがいなければ、世界に神秘はありはしない。世界そのものがない。アニミズムの経済学とは、収奪ではなく共生の、贈与の経済学今から今へと時は移ってゆく。 ここからそこへではなく、ここからここへと移ってゆく。私が宇宙の中心であり、あなたが宇宙の中心なのだ


贈与の経済学は魂の経済学であるはずだと、私は考える。生命は、それぞれが個々に最適発現し、それがそのまま生態系の均衡発現になっている。 

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例によって引用だらけの記事を、最後は『未来への舟』からの引用で閉じることにする。

魂としての葬送

葬送の歴史は、人類の起源にまでさかのぼるのかもしれない。
人の逝去において、その魂を彼岸へと見送って、神や仏に救いとられるように導き、あるいは神上がりとしてお祝いしようとする。
そこには生死を超えた魂とこの世ならざる彼岸というものがあらかじめ想定されている。
まこと人類は、死をもって、人となったのかもしれない。おそらく、多分そうなのだろう。

死の自覚が、人をして、魂を自覚させ、彼岸への想いを起こさせたのだ。魂であるわたしがここにいる、と。
そして魂であるわたしは、(太陽が没して、再び生まれ来るように)死を超えて、永遠である。そうでないはずはない。もし世界が巡り還るものでないならば、このような世界はありえないだろうと。魂のエコロジカルな循環である。
そう、(非実体的な)魂としてのわたしであるからには、(魂に境界はなく)わたしは宇宙のすべてであって、円融(互いに含み合い、融け合い)しながら、時間と空間を超えて、永遠性を生きている。

いのちが(この身から)羽ばたいていく――それはとても自然なこと。死を受け入れていく文明が問われている。


『ちいさないのちの祭り』における、生と死

『ちいさな命の祭り』という催しに、参加してきた。


9/8(土)の朝9時頃に、会場である長野県高遠町の千代田湖キャンプ場へと到着。10日(月)の16時頃に、現地を後にした。祭りは、翌11日まで行なわれていた。

私は知らなかったのだけれど、『いのちの祭り』という大きな催しが、1988年、2000年とあったらしい。今年、2012年にも、その流れを引き継いだ大きな祭りが企画されている。


大きな方は、上の案内にもあるとおり、今週の金曜から来週月曜にかけて。私が参加したのは、小さな方。大きな方も、小さな方も、どちらも、88年、00年の流れを汲んでいるのだが、いろいろと経緯があって、分裂したということらしい。

大きな方――そう名乗っているわけではないが――が、どのように大きいのかは、私にはわからない。私にわかるのは、参加費が高額だということ。4日間で18000円。宿泊施設に泊まるわけではない。自前でテントを張って、その値段。それだけ出演者等が「充実」しているということなのだろうか?

小さな方の参加者の中には、高額であることに違和感を表明する人が多くいたのは事実。私も、その値段では参加はするつもりにはなれない。そうした価格設定ができるほど『いのちの祭り』というのは、ブランドとしての評判が確立しているということなのだろう。

  ***

私が『ちいさないのちの祭り』に参加してみることになったのは、まったくの偶然から。こちらは、特に宣伝もせず、ネットで告知することすらしなかったらしい。「縁」がある人だけ、くればよい――というスタンス。私もたまたま、そういう「縁」に恵まれて、参加することになった。


メイン・ステージの「ティピ」と、開会の挨拶をする発起人。

感想を述べれば、まず、時間がゆっくりと流れていた。メイン・ステージでは、朝から夜までずっと誰かがパフォーマンスをしていたけれど、それらを観なければ、といったような「空気」は皆無といっていいほど。友達とのお喋りに花を咲かすも、よし。思いの外たくさんあった出店を巡るのも、よし。


自由な雰囲気と、出店。店はまだまだたくさん、あった。

要するに、お祭りである。みんな自由に、思い思いに行動して、それでいて、どこか一体感のある空間。ふつうのお祭りと少し違うのは、テント等での泊まり掛けであること。時間の流れがゆったりであること。いずれ、お祭りは非日常の空間で、大抵の場合は、時間の流れは日常より速く感じられるものだけれども、『いのちの祭り』では、泊まり掛けということもあるのだろう、日常よりも時間の流れが緩やかであるように感じられた。

子どもの姿が多く見かけられたのも、やはりお祭りである。面白かったのは、2日目、3日目となる従って、服を着ていない、裸の子どもが見られるようになったこと。こうなってくると、祭りというより、むしろ「村」といった雰囲気だ。村祭りである。


太鼓のリズムに合わせて、


みんなが踊り出す。


歌に合わせて、子どもたちも踊る。


夜は、「熟女」たちの踊り。


夜が明けると、神輿が登場。

お祭り騒ぎばかりではない。原発のこと。リニアのこと。自然エネルギーのこと。真摯な訴えかけの場面も、数多くあった。


南アルプスを貫くリニアを説明する、パネル。

  ****

2つ上の画像。これは「マラ様」という神輿なんだそうだ。この「マラ様」が、、この『いのちの祭り』を象徴するものであったように私は思う。フンドシ姿の男たちが、女性を神輿に担ぎ上げて、練り歩く。女性は、画像には写っていないけれども、女性は神輿に突き起つ“マラ”にしがみついている。命の営みの始原。

そんな祭りに参加している女性たちはみな美しく、子どもたちは生き生きとして可愛らしかった。これは決して、気のせいなどではない。

しかし。

私はひねくれ者なのだろう。そうした「命」と「生」の祭りに身を浸しながら、別のことを考えていた。メメント・モリ。死を想え。

  *****

1988年に『いのちの祭り』が始まったのは、1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故が大きく影響しているという。

  NO NUKES ONE EARTH
  NO WAR   ONE LOVE


核と戦争。いずれも、「死」を想起させるものである。未来を切り拓き、「生」を揺るぎないものにするに違いないと想われた原子力も、その正体は「死」を招く核であることが露呈したチェルノブイリ。そしてフクシマ。「死」が想起されれば、その反撥として「生」が謳いあげられるのは、当然といえば当然の流れではある。

だが、「命」において、「生」と「死」は分かつことはできない。「生」と「死」は二項同体。「生」のみが「命」ではないのである。『いのちの祭り』というのであれば、「生」を謳いあげるだけでは足りない。「生」を真に享受するには、「死」を安心して迎え入れることができる“心”がなければ、ダメである。この『祭り』の、どこにそれがあるのか。

それは、しっかりと存在した。書籍という形で。


著者のおおえまさのりさんは、88年、00年の『いのちの祭り』の実行委員長を務められた方なんだそうだ。今回の『ちいさな命のまつり』にも、参加しておられた。本書の出版は、『祭り』に合わせる形で行なわれたそうだ。すなわち、9月8日が出版日。

『チベットの死者の書』という、有名な書物がある。現在、日本でもいくつかの訳本が存在するが、最初に日本で訳本を出版したのがおおえさんなんだそうである(1974年)。そのような人物が、「3・11後を生きる」ためのメッセージとして――特に、若い人たちに読んでもらいたいと、希望を述べておられた――出版した本の中には、「生」と渾然一体となって、「死」が語られている。

 目 次

はじめに――

第一部 草木虫魚のいのり


① わたしを尋ねる
闇との対話  神秘  大地の夢  シャーマニズム  わたし  ドリームタイム

② 夢時間への旅
再統合  母なる宇宙 心の故郷  全き今への旅  大地の子宮への旅

③ 神を解き開く
バルド  宗教

④ 思考の彼岸
思考の彼岸への旅  道  花  永遠への投機  愛  救われて在る  信と覚  霊性  色即是空 空即是色  相入相即  空の光明  絶対肯定的生を巡って

⑤ 草木虫魚のいのり――ニライカナイへの賛歌
母たちのカミ  自然がカミとなるとき  カミのあらわれとして  カミの神話  人はなぜカミを   ウタキ(御嶽)  祈り  カミあそび  自然そのもののカミ  永遠への回帰  取り戻された魂

第二部 未来への舟

⑥ 花粉の中心を歩く――自然そのもののカミに支えられた新しい社会の夢――
いのちの不思議  花  巡り  いのちの巡り  多様性  聖性  性  時間と空間  無限ということ  死  永遠  天国   存在  ことば    生と社会  コミュニティ  豊かさ  ヴァーチャル・リアリティ  進化  歴史  倫理  伝統  贈与の経済学  祭儀  楽  遊  非暴力  ヒロシマ  夢見る母胎  国家という幻想  内なる宇宙への旅  夢――眠りのふしぎ  超絶のプログラム  瞑想という時  紅葉  神秘的合一  何もない空間  道化  学び  円融  関連生起と空    律動  食  農  医  介護  死との対話  恐れ  葬送――ひとつの儀礼  魂としての葬送  祈り  終句

あとがき――琉球弧賛歌――


目次を見てもわかるように、多くの項目が語られている。その項目ひとつひとつの文章は、平易で、かつ、短い。詩的な文章になっている。

オビに綴られた文章にも、感じ入る。

神秘と感じるわたしがいなければ、世界に神秘はありはしない。世界そのものがない。アニミズムの経済学とは、収奪ではなく共生の、贈与の経済学今から今へと時は移ってゆく。 ここからそこへではなく、ここからここへと移ってゆく。私が宇宙の中心であり、あなたが宇宙の中心なのだ


わが『空論』の読者であれば、私が惹かれるのはご理解いただけると思う。安冨先生がいう「神秘的な合理主義」をも、想起させるような文章だ。

 私が提案した「創発を阻害するもの」についての研究は、神秘の存在を前提にして構成されている。創発という暗黙の次元に作動する神秘を前提とし、そういった語りえぬものを語ろうとするような冒涜を回避し、ただありがたく受け取る。その上で、創発を阻害するようなもの、という語りうる部分にのみ、議論を集中する、という作戦である。これを私は「合理的な神秘主義」と呼んでいる。
 この合理的な神秘主義の観点から、既に我々が手にしている知識を再編成しよう、というのが、私の提案する新しい学問である。この学問を「魂の脱植民地化」という。

(『atプラス13』所収、安冨歩「他力思想の射程」より引用)


  ******

もう少し、書き足したい。


妄想と現実の二項同体

内山節さんの本と思想は、私の中で大きな位置を占めている。それは、私が樵であるということと深く関係している。内山節さんは、田舎の哲学者だから。

そんな内山さんの本の中で、どれか一冊をあげるということになると、『なぜ日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』


本書の述べるところのよると、日本人は、だいたい1965年を境に、キツネにだまされることがなくなった、という。

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なつかしの『まんが日本昔話』。子どもの頃、よく観た。

人間がキツネやタヌキに化かされるという話は、この『まんが日本昔話』にしばしば出てくる。それらの話を、私はファンタジーとして受けとめていた、と思う。つまり、現実の話ではない、と。

いきなり話が逸れるようだが。



サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことは
 たわいもない世間話にもならないくらいの どうでもいい話だが
 それでも、俺がいつまでサンタなんていう
 想像上の赤服おじいさんを信じていたかというと
 俺は確信をもって言えるが、最初から信じてなどいなかった。


知っている人にはお馴染みの『涼宮ハルヒの憂鬱』冒頭のキョンの台詞だが、この台詞に言い表されたこの感覚。これは、確かに私自身の感覚でもあった。『マンガ日本昔話』で、人間がキツネやタヌキに化かされていたというファンタジーに接しても、「確信をもって言えるが、最初から信じてなどいなかった」。

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しかし、その確信が消えてなくなる日がやってくることになる。

私は、2001年から2009年まで南紀・熊野で暮らしていたが、その地で、知り合いの人が、キツネだったかタヌキだったかは忘れたが、化かされてしまった、気がつくと森の中で眠り込んでいた、という目に逢ったという話に遭遇した。昔話ではなく、つい、昨日の話として。

それは確か、2007年の夏前だったと記憶している。『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』が出版された年。その話に遭遇して、そのすぐ後に出かけた内山さんの講演で、1965年を境に日本人はキツネにだまされなくなったのだという話を始めて聞き、そして本が出版された。

日本人がキツネやタヌキに化かされたというのは、現実の話ではないという意味での【ファンタジー】ではなかった。ファンタジーではあるが、本当にあった〈ファンタジー〉だった。

 かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、おおくの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師として山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく滞在した。「ところが」、という伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナにだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人たちは、けっして動物にだまされることはなかった」
 いまなら動物にだまされた方が不思議に思われるかもしれないが、、当時のこの村の人たちにとっては、だまされない方が不思議だったのである。だから「外国人はだまされなかった」という「事件」が不思議なはなしとしてその後も語り継がれた。
 同じ場所にいても同じ現象は起こらなかったのである。おそらくその理由は、その人を包み込んでいる世界が違うから、なのであろう。村人を包んでいる自然の世界や生命の世界と、その外国人たちを包んでいた自然の世界や生命の世界が、客観的世界としては同じものでも、とらえられた世界としては異なっている。それがこのようなことを生じさせたのだろうと思う。

(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 p.115)


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1965年以前。日本人は、しばしばキツネやタヌキに化かされたいた。外国人は化かされていなかった。1965年以降は、化かされることがなくなっていった。この事実から、日本人が外国人たちと同じ精神世界に棲むようになったのだ、と断じることはできない。だが、外国人たちの精神世界と、精神世界が生んだもの――文明、文化――に影響されたことは間違いない。おそらくは、影響は受けたものの、まだ同じ精神世界に棲めずにいる。現在の日本人の精神世界は、どっちつかずの、地に足がつかない状態にあるのではなかろうか。

以前、そういった内容の文章を、外国人の精神世界を〈学〉、日本人を〈術〉として、書いてみたことがある。

 ⇒ 愚樵空論 〈学〉と〈術〉

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ここで考えて見たいと思ったのは、変容していく日本人の精神世界と政治との関係。参考書は、おなじみ安冨先生の新著。『幻影からの脱出』。

「第三章 田中角栄主義と原子力」において、72年体制、非主流派という概念が提示されている。


 一般には五五年体制は一九九三~四まで、つまり四〇年近くも継続した、と考えられています。しかし私はこれがもっと早く、一九七二年に、佐藤栄作率いる佐藤派のなかの派中派として、田中角栄率いる「田中派」が成立したときに崩壊した、と見るべきだろうと考えたのです。そして同月の田中角栄の首相就任、一九七二年九月の訪中によって、「田中角栄主義」とでも呼ぶべき政治思想が確立したと考えます。
 これによって日本の政治は、

  保守本流 (親米:都会の官僚、エリート層中心)
  田中派  (親中:田舎中心)
  社会党  (親ソ:都会の労働者中心)

という鼎立構造絵と移行したのです。私はこの体制を、「七二年体制」と命名したいと思います。
(『幻影からの脱出』 p.117,118)


七二年体制の成立で、田舎の「非体制」の人々が、政治へと参加するルートが開拓されることになった。大雑把にいえば、投票行動を通じて政治に参入し、政治権力でもって、つまりは公共事業で、前近代的な田舎を近代的に「改造」していくことになった。

その「改造」のなかには、もちろん、原発も入っていた。

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ちなみにいうと、私が属する林業の世界も、かなりの部分は「公共事業の世界」に飲み込まれている。その先兵の一つが森林組合という組織。

余談だが、私が最初に林業の世界に跳び込んだとき、所属したのは森林組合だった。そこは「腐臭」の漂う場所だった。

七二年体制とは、田舎の「非体制」が体制へと取り込まれていく現象。その原動力になったのは、端的に貨幣欲。田中派が浴びる批判の定番は金権政治、つまり金による政治腐敗だが、その同じ匂いが森林組合にもあった。それは、私の属したところがたまたまそうだったのかもしれないが、いろいろと伝え聞く話を総合すると、どうもそうした「腐敗」は標準的なもののようだった。

その一方で、現場で働く人たちの中には、キツネにだまされていた日本人の面影が色濃く残っていたようにも感じた。その感じは、森林組合を辞め、民間の林業会社に移ったとき、より強く感じられた。

とはいうものの。そうした面影を色濃く残している人たちは、自身を時代遅れの人間だと規定してた感も、同時に強くあった。自身の価値観と社会の価値観のギャップ。

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政治の世界で田中角栄が力を持ち、田中派が成立したこと。このことで則ち、「非体制派」が出現したというにはならないはずだ。

内山さんは『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』のなかで、次にようにいう。「山川草木悉皆成仏」という、もともとの仏教からは逸脱した教えが出てきたことも重要だが、もっと重要なのは、その教えを受け入れた民衆の心である。

田中派の成立も同様に考えるならば、重要なのは、田中角栄の「日本改造計画」を受け入れた「田舎の人々の心」ということになる。田中派は「田舎の人々の心」の受け皿となったことで、政治的に力を持ち、「非体制派」が出現することになった。

では、一体、この「心」とは、どういったものだったのか。それは、日本人がキツネやタヌキに化かされなくなったことと、深く関連しているはずだ。

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日本人の精神世界の変容は、何かに置き換わっていく、ということではなく、空洞化だったのではなのではないのかと私は思う。

キツネやタヌキにだまされてしまう、ということは、それだけ自身をとりまく風土――「自然環境」という言葉でもいいが――とのコミュニケーションが深かったということである。深いコミュニケーションは、深い安心感をもたらす。この深さは、死生観へ至る深さであったと思う。

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』で述べられているのは、この死生観についてである。

そうした「深さ」が失われていった。結果、不安が募る。意識に昇ることのない、通奏低音のような不安。田中派が受け皿になったのは、不安の方であったのではないか。不安に受け皿が出来てしまったことで、人々は不安から目を逸らすことが出来た。しかも、近代的な便利な生活という「成果」も得ることが出来た。

しかし。現在は、田中派はほぼ崩壊してしてしまった。それは七二年体制がもともと抱えていた構造上の帰結である。そして、「成果」の大きな象徴となっていた原発は、爆発して吹き飛んだ。にもかかわらず、「成果」で不安から目を逸らしていた人々は、いまだ「成果」を追い求めている。

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『幻影からの脱出』の第四章、「なぜ世界は発狂したのか」。その最後のチャプターは、「妄想から現実へ」。

 本田透さんという作家がいます。いわゆる「萌え」という概念を確立し、世に送り出した人です。『電波男』(講談社文庫)という本がよく売れたことで知られています。私は彼の著作をいくつか読んで、その思想と独創性とに感心しました。彼は、現代という狂気に満ちた妄想の時代を打ち破るためには、更なる妄想が必要だ、という興味深い議論を展開しています。(p.207)


本田さんの答えは、三次元空間には愛がない、という絶望的なものでした。そして彼が採用した手段は、愛が失われた三次元空間を去って、「萌え男」となって二次元空間に旅立つことでした。しかし、それは、二次元空間に逃避するためではなく、そこで徹底的に愛を「妄想」し、その力によって三次元世界に愛を取り戻す、という崇高な戦略を実現するためなのです。(p.209)


ここで、『涼宮ハルヒ』の冒頭の台詞を思い思い起こしていただきたい。「確信をもって言えるが、最初から信じてなどいなかった」

私は、本田徹さんも、この「確信」を共有しているように思う。だからこそ、さらなる妄想、という方向性に向かうのだと思う。『涼宮ハルヒ』もまた、そうした作品だ。

「更なる妄想」から得られる架空の愛に、反応するものは確かにある。だが、それは同時に、ある種の虚しさも伴う。そこには現実がない。つまり、閉じた【ファンタジー】でしかない。架空の愛から得られた感覚は虚空を漂うしかなく、どうしても、自身の不安を隠蔽するのに都合のよいものへと成り下がってゆき、束の間の空虚な安心感をもたらすものとして「消費」されてしまう。

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安冨先生は、妄想に妄想で対抗するのは無理筋だといい、妄想から目覚めなければならない、と言われる(『幻影からの脱出』(p.212)。そして、そこから〈跳躍〉し、第五章冒頭、「子どもに聞くこと」へと至る。この流れには、感心させられる。

だが、少し違和感がないではない。それは、妄想と現実とが「二項対立」として表現されていること。私は、妄想と現実とは、二項同体なのだと思う。〈私〉とは、妄想と現実の接点にある存在。妄想と現実とを矛盾しながらも分離させず、矛盾のまま繋がることのなかから生起してくるものと、言ってもいい。「愛」というものは、その「生起」とともに生まれてくる。「矛盾を繋げる力」=「愛」。

私が〈 〉のつけて表現する〈ファンタジー〉とは、現実に向いて開かれた妄想、という意味だと理解していただきたい。

日本人がかつて持っていた、キツネやタヌキにだまされることができるという「力」はもはや失われてしまった。これは、日本人の「愛」の形のひとつだったのだと私は思う。それを取り戻すことは、もはや不可能だろう。

だが、かつてそうした「愛」を私たちは持っていたのだということ。私たちの中には、まだどこかにその名残はあるのだということ。ここを妄想ではなく、現実として見据えることは、とても重要なことだと思う。

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