愚慫空論

『オーダーメイド殺人クラブ』を読んでみた

ポジションが定まらないというのは、どんな人にとっても、どんな場合においても、つらいものがある。

ここでいうポジションには、大きくふたつの意味がある。人間関係上の「立場」という意味。仕事や勉強に向き合う「構え」といったような意味。アイデンティティという言い換えることができるかもしれない。子どもは大人へ成長する過程で、様々な意味でのポジションを確立していかなければならない。

ポジションを確立するためには、揺るぎない基盤を探り当てなければならない。不安定な足場の上では、どのような関係、どのような構えも、不安定なものにならざるを得ない。確固とした基盤を探り当ててポジションを確立することは、人生の目的だとすら言っていいかもしれない。



ひょんなことから読んでみることになった、『オーダーメイド殺人クラブ』。作者の辻村深月の名は、直木賞受賞ということで聞いてはいたが、特に関心もなかった。が、読んでみると面白かった。

作品の主人公は、ポジション確立への旅に踏み出し始めたばかりの、小林アン。アンは、「特別な存在」であることを“死ぬほど”に希求している、思春期の只中、中学二年生の女子。

思春期の少年が不安定なのは、人間という生き物の性質上、やむを得ない。子どもというのは弱い存在だが、その弱さは、人間ならばだれもが経由しなければならないところであり、広く認知された絶対的特性であるために、そのポジションは安定している。対して大人は、子どもというポジションから離れ、個々にポジションを確立しなければならない存在。思春期は、子どもから大人へ移行期であるから、そこが不安定な時期になるのは、人間という生き物の性質上、やむを得ない。

もっとも現代社会においては、子どもにそのポジションは十分に与えられているとは言えない。現代の子どもたちの多くは、「子ども時代」を奪われている。

その原因は、ポジションが確立するものから獲得するものへと変化したからだ。ポジションには「立場」と「構え」の二つの意味があると上で述べたが、現代では「立場」の比重が非常に重いものになってしまった。現代人は、競争に勝ち抜いて「立場」を確保することで、ポジションを獲得しなければならない

いや。必ずしもしなければならないわけではない。が、なければならないという強迫観念に囚われてしまっているのが現代人である。

本来、「子ども時代」とは、大人へ移行していくことを義務付けられている子どもが、ポジションを確立していくための準備期間である。ところが獲得競争が激化してしまった現代では、「子ども時代」は奪われて、子どもの時からすでに獲得競争へと臨むことを、大人たちからの【善意】という形で強いられている。つまりは、ハラスメントである。

そのようにして思春期に入った少年少女たちは、学校やクラスという小さな社会の中で、学業成績という分野のみならず、時には自身の生存すら賭けて、ポジション獲得競争に臨むことになる。

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『オーダーメイド殺人クラブ』の面白さはまず、このポジション獲得競争の描写、思春期の少女たちの「立場の生態系」描写の鮮烈さにある。それは主に、主人公アンの心情描写を通じて描き出されている。

アンの棲む小さな世界は、暗然としたヒエラルキーが存在する世界。アンは他のクラスメートたちと同様、そんな世界でポジション獲得ゲームを演じるプレイヤーのひとり。ポジション獲得競争が内面化してしまっている彼らの世界は、大人の社会と同様か、それ以上のヒエラルキーが出現してしまっており、ヒエラルキーの中でどのようにポジショニングするかが、彼らの最大の関心事。もっともエネルギーを費やすところだ。

時に友達を仲間から外し、時に仲間から外される。彼氏彼女を作るのも、優先されるのはヒエラルキーで、ポジション獲得が主目的。彼氏彼女がいるということは“リア充”という特別な名称で呼ばれ、それはヒエラルキー上層部を指す言葉ではあるが、こうした言葉とその意味が存在すること自体、本来は個人の自由で、個々人の生きる「姿勢」に属するはずの恋愛ですらが、「立場」に従属するものになっていることを示している。

所属するグラブ。趣味。容姿。服装のセンス、など。ありとあらゆる要素が「立場」の生態系のなかに絡め取られ、しかもその世界は狭いのである。そんな世界の中で、プレーヤーたちは、自己中心的に他者からの評価を獲得すべくゲームを演じている。ヒエラルキー上部へ行くほどプレーヤーは、ヒエラルキーのなかのポジショニング、すなわち「立場」を失うことを怖れ、自分の立場を確保するためには他人を陥れることも辞さなくなってゆく。

その有り様は、大人社会の縮図といったところを超越して、煩悩世界のミニチュアと評した方が適切かもしれない。世界が狭い分だけ、競争は熾烈なのである。アンはそんな世界にうんざりしながら、そんな世界から“解脱”できない自分をもっとうんざりして、「特別な存在」になることを“死ぬほど”に希求するである。

『オーダーメイド殺人クラブ』のストーリーは、アンの希求が、具体的な「殺人の計画」となって準備されていくという形で進行する。それは、アンがクラスのなかでの「立場」を喪失していくことで深まってゆく、“解脱”願望の高まりと並行する。

この「準備」には、協力者が存在する。クラスメートの徳川である。徳川との出逢いが、アンをして「事件」へと舵を切らせる決定的要因となる。

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『オーダーメイド殺人クラブ』のもうひとつの面白さ。それを“面白さ”と評するのは、私の主観においては相当の抵抗があるのだけれど、「立場の生態系」のリアルな描写とともに、作品としての面白さの主要部分を構成していることは間違いない。すなわち、“命の軽さ”である。

アンにとって、命とは、ポジション獲得のために“使うもの”である。アンは、同年代の少年少女の自殺のニュースに接したときに、もったいない、という感想を抱く。せっかく命を“使った”のだから、もっと大きなポジションを獲得できなければもったいない。アンは、そうした事件の記事を蒐集し、同時に「少年A」――猟奇的事件を侵した未成年が、世間に報道されるときの名称――的なもの惹かる。徳川は、そんなアンの前に、「少年A」として出現するのである。

アンは徳川に、アン自身の殺害を依頼する。アンはそうやって自身の“命を使う”ことで、「特別な存在」となり、ポジション獲得競争から“解脱”することを目論む。“命を使う”からには、少しの間、世間を騒がせるだけではもったいない。その「事件」は、その後に続くであろう事件のモデルとなり、後世に語り継がれなければならない。そのためには、どのように「事件」を計画し、実行するか。彼らが辿り着く結論が「オーダーメイド殺人」というわけだ。

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少し冷静に考えて見れば、ポジション獲得のために“命を使う”などというのは、どう考えても矛盾しているし、バカげているように思うだろう。が、冷徹に社会を見渡してみれば、人間は、また特に日本人は、そのように“命を使う”のである。

数年前、『希望は戦争。』という宣言が物議を醸したことがあった。フリーターという「立場」に甘んじることを強いられた者が、「立場の生態系」が崩壊することを希求したものだった。ここには自らを「特別な存在」たらんとする希求が潜んでいる。この宣言は、多くの共感を呼んだ。

(『希望は戦争。』の筆者は、アンが「オーダーメイド殺人」によって獲得しようとしたポジションをを、この文章によって獲得したと言ってよいかもしれない。もっとも、筆者は“死ぬほど”希求したわけではなかったし、そのことは文章の欺瞞となって現れていると、私は思っている。)

戦争ということでもっと遡れば、かつての戦争中、日本の若者は、「立場」に殉じて自ら死を選んでいった事実が多く存在する。そうした若者が望んだのは、靖国において英霊という名の「特別な存在」としてのポジションを獲得することだったのだ。

 ⇒ 「立場主義」という日本文化が陥る罠(1)

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人間にとって生きる力を生み出し、創造性を生み出す源は、状況の中で我々の身体が生み出す情動であり、それを脳は感情としてモニターし、意味を生み出す。

アンの情動と感情は引き裂かれている。アンが置かれている「立場の生態系」からの情動・感情と、アン自身の命から生まれる情動・感情である。アンの意識においては前者が支配的であり、だからこそアンは苦しみ、前者を選択しているつもりになる。後者の情動・感情を克服することで、「特別な存在」へと至ろうと企てる。

アンにとっての「少年A」である徳川は、アンと共に「事件」を計画しつつも、アンの決意を疑っている。その疑念を幾度かアンに投げかける。

しかし徳川は、実は「少年A」ではない。アンに疑念を投げかけている時点で、もはやそうではないのである。もし徳川が真性の「少年A」であるならば、そんな疑念を投げかけ、アンの決意をわざわざ確かめる必要などない。アンは徳川にとって都のよい素材でしかないはずなのである。徳川は徳川で「少年A」たらんと希求する動機を抱えているが、徳川に「少年A」たることを求めていたアンには、そのことは盲点になっている。徳川の心情はほとんど描かれていないので、確かなことは作品からは読み取れないけれども、徳川自身ににとっても盲点だったろう。

盲点が明らかになるのは、もちろん、クライマックスの場面である。

アンは決意を固めている。ところが「少年A」だったはずの徳川は、アンを殺すことができない。

徳川がアンを殺すことができなかったのは、徳川が、実はアンが死を望んでいないことを識っていたからだ。徳川のこの認識は、徳川の意識には到達していなかった。徳川もまた徳川の理由で「少年A」という「特別な存在」であることを希求していたから。アンとふたりでオーダーメイドした殺人計画通りアンを殺害して、「特別な存在」になる。意識はそちらを選択してために、アンの真意は意識にまでは届かない。識っているのは、意識に昇る以前の、情動の領域でだ。

徳川は、アンの確固たる決意は認めた。だから「事件」を実行に移そうとした。だが、情動から沸き上がった感情に押し留められてしまう。それでも徳川は「少年A」たることを諦められない。そこでアンと計画していたのとは別の「事件」を企てようとする。

アンは、徳川のその意図を察知する。アンもまた徳川を情動の領域で理解していたからである。アンは徳川の意図を察し、情動から沸き上がる感情の赴くままに行動する。すなわち、徳川がアンと計画した「事件」以外で「少年A」になってしまうことを押し留める。

かくして、「オーダーメイド殺人」は未遂に終わる。

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アンと徳川は「オーダーメイド殺人」を計画、準備するなかで、同じ時間と空間を共有した。同じ目的を持ち、互いの認識をすり合わせてきた。そうした共有から生じた情動が、感情となってモニターされたとき、その感情は“愛情”もしくは“友情”という名称で呼ばれる。

もっとも、ストーリーのなかでは、彼らはそういった名称で呼ばれるような関係をとり結ぶには至らない。おそらくは、アンと徳川は、互いの「事件」を阻んだ感情がそのように呼ぶことができるのだということに思い至らなかったがために。

愛情も友情も、広い意味で愛のカテゴリーへ分類することができよう。そして、愛とは、冒頭のポジションの話に戻っていえば、「構え」を確立することに相当する。アンと徳川は「死」を経由することで「特別な存在」たる「立場」を獲得することを求め、時間と空間を共有するうちに、当人たちも意識しないうちに「構え」を確立することになる。

彼らは、計画した目的は果たせない。彼らの求めた絶対的は「立場」は獲得できなかった。しかし、代わりに「姿勢」を確立することはできた。では、彼らが真に希求していたものは、つまり、小さな社会の「立場の生態系」から“解脱”することはできるたのか。

そこは作品には明確に描かれていない。ストーリーのクライマックスは終わり、後は簡単なエピローグが記されているだけである。

アンは勉強に本腰を入れ、高校は進学校へ、さらに東京の大学へ進学することになる。また徳川は、美大へ。それぞれのポジションに獲得するという結末。そして、アンと徳川の新たな「出逢い」の予感を仄めかして、作品は幕を閉じることになる。

「同じ人間」と「同じ社会」のミスマッチ

「春名風花」という芸名の子役タレントがいることを、こちらのブログ記事で知った。

 《いじめている君へ》(きっと誰かに愛されている)

朝日新聞がいじめをテーマになにやら特集記事を組んでいるらしいことは、朝日新聞は購読していないけど、なんとなく知っていた。ネット経由で情報は入ってきていた。けれど、正直なところ、興味はなかった。いかにも朝日らしい、ありがちな大人のパフォーマンスだろう、くらいにしか思ってなかったから。読みもしないで先入観を持つのは良くないことだが、そうした先入観を持つには、それなりの経緯はあるのだ。ネット上の「いじめ談義」に嫌気がさしていたこともある。

ところがたまたま、春名風花さんのメッセージを見ることになった。そしてビックリした。

今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめてる子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。

 いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身(ほしん)のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。

 ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪(しゅうあく)なゲームで遊んでいるんだもんね。


この「告発」がもたらす衝撃もさることながら。驚いたのは、その視線。大人の「上から目線」では、この「発見」はなかっただろう。同じ子どもの目線からの告発。

ただ。やはり子どもの言葉ではある。この「告発」を読む者は、自らが大人であると自覚するのなら、その言葉をそのまま受け取るべきではない。大人のつもりだけの大人は、得てして、自分の先入観に都合のよい言葉を、そのまま採用する傾向がある。

「相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。」

そういう大人にとっては、この言葉は快く響くだろう。我が意を得たり。そして思考停止。でも、違うだろう。

相手を同じ人間だと思っているから、いじめができるのである。いじめる方もいじめられる方も、同じゲームを遊んでいると思っている。同じ人間だから。

人間は、自分の物差しでしか他人を測ることができない。大人と子どもの境界線は、できるないことを識っているかどうか、というところにあると言ってもいい。無知の知。

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それにしても、いじめは奇妙な適応である。

ヒトは基本的に、快/不快の感覚に基づいて行動する。「快」は、その個体の生存にとって有利だと判断されている。「不快」は逆。この行動原理は、赤ん坊から大人に至るまで変わることはない。

もうひとつの、ヒトにとって基本的な行動原理。それは、社会性。社会性は生まれたばかりの赤ん坊にも、すでに備わっている。ヒトは赤ん坊のときからすでにヒトの顔に敏感に反応するように出来ている。

社会は、ヒトにとっては安全保障である。社会があって、ヒトは初めて人間になる。人間にとって、自らが社会の一員であるということを確認できるということは、自らの生存が有利であるということが判明するということであり、「快」に感じられることのはずだ。

ところで、いじめる者は、いじめゲームに「快」を感じている。ということは、それが生存に有利だとの判断が下されているということになる。しかし、それは、社会の破壊行為である。クラスメート、友達仲間が社会であるとするならば。

いじめる者は、自らが所属するはずの社会への破壊工作を「快」だと感じていることになる。安全保障を脅かすことを「快」だと感じている。これはどう考えてもおかしい。

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もう一度、「同じ人間」という言葉の意味を考えてみる。

「私たちは同じ人間である」というときに含意されるのは、2つの意味。1は、生物種として同じという意味。同じ感覚装置を持ち、同じようなことを感じ、同じような思考をするだろうという暗黙の前提である。「自分の物差しでしか他人を測る」という行動も、この前提から派生するものである。

2は、同じ社会に所属するという意味。

現代の民主主義社会では、1と2は分離しないものだということになっている。基本的人権という思想は、1と2が同一であるというところに立脚しているが、歴史的にみれば、この同一は、普遍的なものではない。歴史的には、1と2が分離しているのが当然であり、生物種としては同じヒトであっても、所属する社会が違えば人間ではなく、殺しても構わなかったし、殺しても倫理的に問題となることはなかった。そうすることが正義でさえ、あった。

1と2が分離した前近代的価値観は、同じ人間だからこそ、共有されていた。

再度、春名風花さんの文章。

けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。


ここで告発されている事態は、どう見ても、1と2とが分離した前近代的な状態である。いじめる者がいじめることができるのは、いじめる者を、「同じ社会の人間」だと感じていないということになる。つまり、いじめる者は、いじめゲームが社会を破壊しているとは考えていないし、いじめられる相手も、同じ社会に所属していないのだということを共通認識として、同じ人間として、共有していると考えている。

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同じ社会の人間同士でも、優越感に根ざしたいじめというものはある。恥ずかしながら、私自身にもそうしたいじめの記憶はある。したこともあるし、されたこともある。

優越感に根ざしたいじめには、限界がある。いじめる相手がいなければ、自分の優越感を確保できないし、いじめる相手もまた「同じ社会」の一員であるから、その相手が居なくなると社会が動揺することになる。社会の動揺は不安に繋がり、「不快」である。もっとも、だからといって不幸な事件が皆無というわけではなかったが、社会の動揺は倫理的な問題を引き起こし、個人にとっては「心の傷」という形となって残った。

これは、古典的ないじめの形。だが、現代のいじめは、明らかに古典的な範囲を逸脱している。現代のいじめは、もはや犯罪という声も大きい。

だが、犯罪的ではあっても、犯罪と断定できるかどうかは難しい。というのも、犯罪という概念は「同じ社会」を前提にしなければ成り立たない。「同じ社会」のなかのイレギュラーが犯罪であり、そのイレギュラーは「犯意」という形式にまとめられるが、現代的ないじめの場合、犯意が特定できない。いじめる当人はあくまでもゲームだから。同じ人間同士で行なう、異なる社会間のゲームである。しかも、子どもが興じるゲーム。

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このようなおぞましいゲームを子どもたちが行なう理由は、実に簡単で、それを大人たちが行なっているからである。

私は伝え聞いているだけだから真実かどうかはわからないが、昨年の福島第一原発の事故の際、福島から東京電力の社員その他、正確な情報を知ることを出来た者だけが、周囲に正確な情報を知らせることなく、自分たちだけが逃げたという話。もしこれが本当なら、東電社員たちは、福島県民を、同じ空間で生活しながら、同じ社会で暮らす人間だとは思っていなかったいうことになる。

その後の東京電力の原発事故被災者への対応も、到底、同じ社会の人間だとは考えられないようなものだと伝えられている。

同じ社会の人間だと考えているように見えないのは、東電ばかりではない。日本社会のエリートたちに共通する考えのように見える。彼らは、日本社会への破壊工作に「快」を感じているようにすら見える。いじめをする子どもが自らは学校のクラスという社会には所属していないと感じているように、エリートたちは、日本という社会には所属しているとは感じていないかのように思える。

奇妙というしかない事態だが、そうとでも考えなければ合理的に説明がつかない事態が進行中なのは、どう見ても事実である。なぜ、こんなことになったのか。

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いじめられる側の方は、学校のクラスあるいは日本社会は、いまだ一つの同じ社会だと考えているし、感じている。しかし、いじめる側の方は、同じ社会だとは考えているだろうが、感じていない。考えることと感じることが分離してしまっていて、自己欺瞞に陥っている。その欺瞞が、大人の社会では、民主主義を形ばかり成立させている。同じ人間が同じ社会の成員であるという前提を、欺瞞でもって塗り固めている。

その欺瞞を、子どもは正直に内面化してしまう。だから、保身のためではなく、正直な気持ちで、「じぶんはいじめていない」と言うことができてしまう。

大人にこの正直さが発見できないのは、エリートたちの欺瞞を批判する者も、欺瞞を少なからず取り込んでしまっているからだ。自らの欺瞞は棚に上げて、より欺瞞の大きい(と思われる)者を攻撃する態度を身につけてしまっている。自らの欺瞞を隠蔽するために、より大きな欺瞞を、時には捏造しても探し出そうとする。反原発派の中に生じつつある亀裂は、こうした態度から生まれてくるものだと私は思っている。

そんな大人に、子どもの正直なおぞましさが発見できないのは、道理である。

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大人は、いじめられている子どもたちには、逃げろ、と言う。
逃げずに福島でがんばっている人たちを、応援しよう、と言う。

いじめられている子どもには、勇気を持って、そのことを周囲に伝えようと言う。
「がんばろう福島」「がんばろう日本」と言う。

同じ人間だから。「同じ社会」という虚構を維持しなければならないから。
虚構だけ維持しても、欺瞞は深まるばかりだというのに。


マイケル・ジャクソンの〈ファンタジー〉を『ムーンウォーカー』に観る

ファンタジーについていろいろと考えを巡らせていたら、行き着いたのがマイケル・ジャクソンだ。

マイケル・ジャクソンはファンタジスタである。

ファンタジスタというと。はてなキーワードより。

イタリア語の名詞(fantasista)。語源はイタリア語で空想、霊感を意味するファンタジーア(fantasia)。
元々は、ウィットに富みアドリブの効いた即興芸が得意な舞台役者や大道芸人を指す言葉。あるいはファンタジーアを感じさせる者。
転じて、創造性豊かなインスピレーションと並外れたテクニックを持ち、世界のトップレベルにおいても、フィジカルに頼ることなく1つのプレーで局面を変えてしまう優れたサッカー選手を意味する。


マイケルが創造性豊かなインスピレーションと並外れたテクニックを持つエンターテイナーであることは、ファンならずも異論はなかろう。が、マイケルはそればかりではなく、観る者の「局面」――「心」をそのパフォーマンスで変えてしまうことを志していた。そうした「マイケル・ジャクソンの思想」が形となって現れた作品。それが『ムーンウォーカー』である。



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私は先日、『のだめカンタービレ』というアニメ作品を題材に、〈ファンタジー〉について語ってみた。主人公のだめは、ピアノの才能があり、ファンタジーを一杯抱えたキャラクターとして描かれているが、のだめのファンタジーは、自分のための【ファンタジー】でしかなかった。

『のだめカンタービレ』は主人公の閉じた【ファンタジー】が、多くの人のための開かれた〈ファンタジー〉へと成長していく物語と観ることが出来るが、それと同じ構図が『ムーンウォーカー』の中にも見られる。

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『ムーンウォーカー』は3部構成になっている。

 1部:PV集
 2部:マイケルのファンからの逃走劇
 3部:マイケルが悪の組織から子どもを救うファンタジー劇

1部は『Man in the Mirror』からはじまって、ジャクソン5時代のものも含めて、ライブ映像等が数曲、続く(私は残念ながら、その曲名の全てを知らない)。1部が表現するのは、才能溢れたスーパースターとしてのマイケルだ。

1部の最後に登場するのは『Bad』だが、これはなぜか少年バージョン。(動画があったので貼り付けておく)


“少年”が意味するところは何か。それは、のだめが師匠のオクレールから“べーべちゃん”と呼ばれたのと同じ意味。才能溢れるが、それは未熟な閉じた【ファンタジー】でしかない、ということだろう。

2部は、『Bad』を演じた少年が映画スタジオへ入り、マイケル本人となって現れるという形で始まる。そしてスタジオ見学に来ていたファンに見つかり、マイケルの逃走劇が始まる。

逃げるマイケルは、楽しそうである。対して、マイケルを追いかける者たちの姿は人形になっているが、この人形の姿が『Thriller』に出てくるゾンビになんとなく似ているのは、偶然ではあるまい。

ゾンビから逃げ切って、荒野で一人楽しげに踊るマイケル。しかし、そこに警官がやって来て、「マイケル禁止」の表示が。このシーンの意味するところは、【ファンタジー】の禁止であろうか。

マイケルは、自身に「子ども時代」はなかったと述懐している。子ども時代の悦びの代わりにスーパースターとして成功した。1部で描かれるのは、物質的に成功したマイケル。だが、それは精神的には未熟なものでしかない。そうした成功から逃走し、ひとり荒野で自らの【ファンタジー】を楽しもうとするマイケル。だが、これは禁止。この禁止は警官の姿と標識になって表現されるが、マイケル自身の理性であろう。

でも今では、曲をつくるとき、僕は自分が自然の楽器のような気がします
自然はどんなにか喜ぶことだろうと思います
僕たちが心開いて、神から与えられた才能を表現するとき
賞賛の拍手が宇宙じゅうに鳴り響き、世界はマジックで満ちあふれます
不思議さへの感動で胸がいっぱいになるその一瞬に垣間見たもの
それは生命の遊びの楽しさです

(1993年グラミー賞授賞式でのスピーチより。前々記事参照。)

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そうした過程を経て始まる3部は、子どもを救うファンタジー劇。途中に挟み込まれる『Smooth Criminal』のPVは素晴らしいけれども、全体としては荒唐無稽なお話になっている。

(どういったストーリーなのかは紹介しない。DVDを見て欲しい。)

荒唐無稽なファンタジーの完成度は、正直、高いとは思わない。だが、これでいいのだと思う。3部はマイケルが実現したかった夢の表現だろう。夢は完成度が高くてはいけない。

(3部の後の、映画のクレジットのバックに流される黒人の祈りのような歌にも、大きな意味があるように思うのだが、そこは私にはよくわからない。)

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『ムーンウォーカー』は、全体としても見ても、あまり完成度は高いとは言えないかもしれない。マイケルのファンがそのパフォーマンスを楽しむのはいいとしても、3部でマイケルが宇宙船に変身してしまったりと、ちょっと首を傾げてしまうようなところがある。ファンタジーがいっぱい、なのである。

それゆえ、『のだめカンタービレ』のような作品と並べて論ずることもできるというわけだ。

だが、大きく異なるところもある。『のだめ』においては、開いた〈ファンタジー〉に目覚めるというのは終着点であった。対して、マイケル・ジャクソンにあっては、そこが出発点である。マイケルは、そこからさらに先へ行った。

しかも、マイケルは、のだめのような架空のキャラではなく、実在の人物であった。ゆえに存在感が架空のキャラとは比べものにならない。実在であったがゆえに、毀誉褒貶が激しいものになってしまったというマイナスもあったけれども。

マイケル・ジャクソンはファンタジスタである。神から与えられた才能を発揮することで、世界の「局面」を変えることを夢見た。そのあまりに大きな夢は十分に果たされたとは言えないけれども、それはマイケルの「夢」があまりに大きすぎたためであろう。

関連記事:マイケル・ジャクソンは儒家であった

「学習資本」と「努力主義」のミスマッチ

前記事に頂いたすぺーすのいどさんのコメントへの返信を書いているうちに、とある言葉が頭に浮かんできた。「学習資本」。「不安」という言葉をタイプしたときに、浮かび上がってきた。

「内田樹の研究室」の8月8日の記事。「学力と階層」解説。私はここで初めて「学習資本」なる言葉を知った。

苅谷さんの知見のうちで、私がもっとも重要だと思うのは、前著では「インセンティブ・デバイド」(意欲格差)という言葉で語られ、本書では「学習資本」という言葉で語られる、「学ぶことへの意欲」そのものが社会構築的な能力だというアイディアである。


ここに定義される「学習資本」は、『生きるための論語』において提出されている〈学習〉の定義、および孔子の思想と大部分は整合する。

  子曰。
  學而時習之。不亦説乎。
  有朋自遠方來。不亦樂乎。
  人不知而不慍。不亦君子乎。


子の曰く、學んで、時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋、遠方より來たるあり。また樂しからずや。人知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや。

先生が言われた。何かを学び、それがあるとき自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。


 この「学習」という考えは、論語の秩序論の根幹を為す。この章が示すように、学習過程が開かれていることが、君子の条件である。逆にそれが停止している人を「小人」というのだと私は解釈する。


“大部分は”ということは、整合しない部分もあるということである。それは「学習資本」には「君子」という思想が抜け落ちていること。

再び『「学力と階層」解説』より。

その一方で、私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。そのような「努力することができる」集団と、「努力する能力を早い時期に損なわれた」集団が日本社会には解離的に存在しており、その隔たりは、日々拡がっている。階層上位の人々は、「強者連合」的な相互扶助・相互支援のネットワークを享受しているが、階層下位の人々は分断され、孤立化し、社会的流動性を失っている。それが苅谷さんが「『学習資本』の階層差」と呼ぶ事態である


努力することへの動機づけ」を安定的に備給されることで、【学習】への努力を為し、「学習資本」を蓄積するエスタブリッシュメントの子どもたち。そうした子どもたちが君子へと成長するかというと、答えは否であろう。「偏差値」だけは高いエスタブリッシュメントが主導する日本国のありさまがその答えを示している。「学習資本」を蓄積した者は君子には非ず。もとより選良意識による努力から蓄積される【学習】などで君子になれるわけはないのだが。

しかし、君子をめざす〈学習〉でなくても、エスタブリッシュメントという「立場」の獲得を目指すための【学習】であっても、「学ぶことへの意欲」が社会構築的な能力になっている。だか、私は思うに、それは偶然結果として、そうなっているだけであって、必ずしも必然ではないのではないか。

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孔子=安冨の、君子による社会秩序という理論には、とある必然性が前提とされている。「魂の作動」である。〈学習〉とは、「魂の作動」を従い、「魂の作動」の範囲を拡大させていくことであり、その結果として秩序が保たれることになる。

一方、「立場」を獲得するための【学習】には、そのような必然性はない。「立場」とは、安冨先生によれば、日本に独特の人間生態系であり、戦後において完成を見たもの。「立場」を獲得するための【学習】が社会秩序を保つことに偶然結果として社会秩序を保つことになっているのは、戦後日本が「立場主義」社会だからである。

苅谷=内田の「学習資本」理論は、戦後日本において限定的に成立するもの。苅谷さんも内田樹さんも、現代日本社会の病理という視点で眺めておられるわけだから、限定的だいうのはもとより前提だろう。

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下流志向内田さんは、そうした限定的な病理が発生した理由を教育への市場原理の侵入と、子どもたちの消費者化に求める。その著作は私も読んだし、納得させられることが多かった。だが、疑問が残っていないではなかった。

それは、市場原理の侵入、および、子どもたちの消費者化、は日本に限定された現象ではないはずだから。それが特に日本の子どもたちに強く作用した要因があるはずで、そこのところの指摘が不十分なようには感じていた。

私にとってその答えの一つが、安冨先生の「立場主義」になっていたわけだが、それとは別の答えを内田さんの『「学力と階層」解説』の文章から見出したように思ったのである。「不安」という言葉が梃子になって。

学習機会はすべての子どもの前に平等に開かれている。学力や体力には個体差があるが、「努力する能力」は万人に均等に分配されている。というのが、近代日本において、一度として懐疑されたことのなかった「努力主義」イデオロギーである。
苅谷さんはこれがある種の歴史的状況のもとで生まれた、一個の臆断であり、それによって日本の教育が深く損なわれていることを指摘する。これは教育学史上に残る卓見だと私は思う。


「学習機会」の概念を「学校教育」に限定してしまえば、これがある種の歴史的状況で生まれた、それも近代日本に限定された現象だということはできるだろう。しかし、〈学習〉とは、必ずしも学校教育におけるいわゆる「知育」だけを指すわけでもない。「学習」という言葉は、近代以降の日本では「勉強」という言葉と強く結びついているけれども、日本にはもうひとつ「修行」という言葉もあって、これもまた〈学習〉である。というより、〈学習〉を自己変革だと捉えるならば、「修行」こそが、日本においては〈学習〉の本道であった。

日本人の「修行」の対象範囲は広い。子どもが一人前の大人になるには「修行」を経ねばならなかったと認識されていたし、その認識は現在でも根強く残っている。ただ、それは現代では「修行」が「勉強」に置き換わってしまっている。

「勉強」が「修行」に置き換わったという点に着目すれば、「努力主義」は近代日本限定のものであるといえる。しかし、「努力主義」そのものに着目すれば、それは近代日本に限定されない。近代以前、江戸期の「勤勉革命」を経由して、さらに源流を遡ることができるものだ。日本限定ではあっても、日本近代限定ではない。

ただ、日本近代において、「努力主義」がイデオロギーと化しているという指摘は、正鵠を射ていると思う。「不安」を克服するのではなく、隠蔽するのがイデオロギーだという意味において。

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再度、以下の文章に着目する。

その一方で、私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。


ここには“未だに”という語がある。“未だに”の意味するところは過去と現在の対比だから、“未だに~いる”という文章が暗示的に意味するのは、“かつては~たくさんいた”である。では、前段に“かつては~たくさんいた”に相当する文章あるいは文言があるのかと探してみれば、見つからないのである。

現在の状況分析から、“その一方で”、その分析に当てはまらない状況が提示されるというのは、論理的である。しかし、そうであるだけなら、“未だに”の語は不要なはずだ。それに対応するのは一見、“「努力主義」イデオロギー”のように思えるが、実はそれとても現在の状況分析でしかない。“「努力主義」イデオロギー”から、“その一方で”の間の文章も、現在の状況の分析でしかない。“未だに”に対応する文章及び語句は、『「学力と階層」解説』のなかには存在しない。

これは「盲点」である。

“未だに”によって想定される文章は、次のようなものであろう。

>>かつては、私たちの社会では、エスタブリッシュメントではなくても、人々は「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されていた。どのような階層であっても、子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人と同様に努力することを義務づけられている」という宗教的意識に従って努力をしていた。<<

“選良”意識に置き換える語句を少し思案したが、やはり“宗教的”でいいと思う。特に日本人の場合。

「立場主義」に絡めていえば、大人になって、世襲の「役」を担うべく修行し、努力すること。そうした意識が、日本人には宗教的と称していいほど、意識の古層のなかに刷り込まれている。

ところが近代以降の近代教育制度が普及した日本では、「役」は世襲のものではなくなった。努力を傾けるべきは「修行」から「勉強」へと移り、「勉強」は近代的教育システムのもと、市場原理の子どもである競争原理に晒されることになった。つまり、「役」も「立場」も、獲得するものへと変わってしまった。

その結果、「努力主義」は普遍的で宗教的なものから、「不安」を隠蔽するものへと変化した。宗教的というのは、「不安」を和らげ克服し、「安心」を供給するいう意味でもあるのだけれど、システムが変化したために「立場」「役」が「安心」を供給する役割を機能的に無くしてしまい、つまり、獲得すべきものへと変化したために数量的にも減少したにもかかわらず、それがいまだに「安心」をもたらすものだと認識されてしまっていて、ミスマッチが生じている。そのミスマッチから生じる「不安」を「努力主義」というイデオロギーで隠蔽してしまっているのが、現代日本教育制度の構造上の欠陥になっている。

そして、その構造は、教育者としての苅谷=内田の「立場」からは「盲点」になっている。なぜなら、近代教育システムの一員である彼ら自身ももまた、システマチックに「安心」を「不安」へと転換している共犯者だからだ。

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学習への意欲を駆り立て、あるいは阻害しているのは「不安」である。「安心」への距離感と言い換えてもいい。内田さんのいう「エスタブリッシュメント」とは、「勉強」という意味における【学習】を、競争の結果、自身の「役」として、「立場」として、獲得するに至った者たちを指す。そこの生まれた子どもたちは、選民意識よりも、むしろ古層的宗教的意識に従って、親と同じ「役」と「立場」を果たすべく、周囲と同様の「努力」を傾ける。周囲と同様であるということが安心感をもたらし、子どもの「努力」を下支えする。

もとより子どもは、大人になるに当たっては「不安」を感じるものだ。生理的な身体の変化からはじまって、さまざまな要因で「不安」を抱えるのが子どもである。それを「安心」をもってバックアップするのが大人の役割だが、エスタブリッシュメントは、そうした「不安」と「安心」のバランスが、かつてのように未だうまく機能している集団を指すのではないか。

そのエスタブリッシュメントたちは、ますます「不安」が増す社会の中で、自分たちの「安心」を確保しようと、エスタブリッシュメントの「立場」を獲得した能力をさらに発揮する。そのことが「立場」の生態系をより強化し、もはや“搾取”といってよい域にまで達している。

一方、非エスタブリッシュメントたちは「不安」と「安心」のバランスをうまく取ることを、社会によってシステマチックに阻害されてしまっている。そのためにますます解消できない「不安」を偽装しようと、“子どもの為”という大義名分を掲げ、教育という名のハラスメントを子どもたちに行なってしまう。子どもたちは子どもたちで、「安心」を得るために、親からのハラスメントを甘受してしまうことになる。

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『「学力と階層」解説』に最初において指摘される、日本の教育危機の実相。

「自分探し」イデオロギーを深く内面化した子どもが社会階層下位に集中していること。
階層下位の子どもたちほど学習機会を放棄する自分に自尊感情を抱いていること。

苅谷剛彦さんが導き出したというこれらの事実と、「不安」による学習意欲の駆り立てあるいは阻害の理論は、よく整合するように思う。と同時に、「不安」と「安心」のアンバランスによって学習意欲を阻害されている子どもたちに大人が差し伸べなければならない、「努力することへの動機づけ」の形も見えてくる。

それは「君子」への〈学習〉だが、それこそが今の日本の大人たちにもっとも欠けたもの。また、それゆえにこそ今の日本の惨状がある。ゆえにまず、大人がそこを自覚することから始めなければならないのだが。


そういうのは、半分ずつとかできないのかな?

三たび、中二少女である姪っ子との対話から。

先日、妻の実家で催されたお盆恒例BBQの折り。「そういえばおじさんに聞きたいことがあったんです」と彼女が繰り出してきた質問が、竹島について。まさか彼女の口から「竹島」などといった政治マターな言葉を聞くとは思わなかったので少々、面食らった。いったい何を聞きたいというのか。あやふやな記憶を辿ってみる。

「竹島は日本のものなのか。それとも韓国の領土なのか。」

まず尋ねてきたのはこの質問。私は答える。

「それは難しい問題。日本にも韓国にもそれぞれに主張がある。この種の問題は、どちらが正しいか、で決まる問題ではないから。むしろ、どちらが強いか、で決まる。」

「どちらが正しいかということでいえば、他にも領土問題は北方領土とか尖閣諸島とかあるけれども、竹島についてだけいえば、どうも日本が正しいらしい。」

姪「じゃあ、なぜ韓国は竹島を自分の領土だという?」

「竹島という小さな島自体にはあまり価値はないけれども、領海とか排他的経済水域という意味では竹島は価値がある。竹島が領土だということになると、その分領海が広くなるから、そこで漁業ができたりする。韓国にしても日本にしても、自分の領分が広い方がいいからね。」

姪「そういうのは、半分ずつとか出来ないのかな?」

  ***

「半分ずつとか出来ないのかな?」というのは、質問の形になっているが、これは姪の「主張」であろう。彼女自身もそれが自分の主張だとは意識していなかったろうけれども。だが、間違いなく彼女の気持ち。子どもっぽく純真で、子どもっぽく無責任。

思い返してみて、私は彼女からこの主張が出てきたことを嬉しく思う。彼女がこの主張をしたくて、その相手として私を選んでくれたとのだとしたら、私としてはとても嬉しい。

が、私は、その場ですぐにこの嬉しさに気がついたわけではない。なぜ姪はあんなことを尋ねてきたのか。それが引っかかっていて、記憶を再構成してみたときに、気がついた。だから、私の都合の良い思い過ごしかもしれない。たとえそうであったとしても、気分が良い。

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姪が無責任なのは、無力だからだ。彼女自身も、意識はせずともそのことを知っている。だから彼女の「主張」は質問という形を取った。

対して、大人はどうか。どうすべきか。日本国民であることを自覚して、「正しい主張」を為すべきか。そして、その「正しい主張」を無力で無責任な子どもに教育すべきか。

大人が、同じ大人や、あるいは有権者としての権利が認められている国家に対して、主体的に「正しい主張」を為すのは適正なことである。竹島が国際法上日本の領土であるとことは「正しい」。だから、韓国にも日本国にも責任ある大人としてそのことを主張し、同時に、子どもに対しても「正しい教育」を施し、責任を自覚する「正しい大人」に育てなければならない。ゆえに、彼女の子どもっぽい主張は、無責任な誤ったものとして退けるべき。

――と、私は思わない。同じ大人や国家に対する責任の部分については同意できる。だが、「正しい教育」を施すことが子どもに対する大人の責任だとは思わない。そのような教育は、「正しい」という名の元で行なわれる無力な者への抑圧でしかない、と思う。

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(「半分ずつとか出来ないのかな?」の続き。)

「それは互いに欲の皮が突っ張っていたら、難しい。欲の皮でなくても、たとえば漁業者にはそれぞれ生活があるわけだから。」

「もっと難しいのは、過去の恨みといったような問題。戦前、日本に占領されていた韓国は、当時は北朝鮮も合わせて朝鮮国だったのだけれども、日本によって支配されていたという恨みがあるから、どうしても日本に対しては攻撃的になってしまう。」

姪「韓国は、今でも昔のことを日本に誤れと言ってきているみたいだけど、なぜ誤らなきゃダメなのかな?」

「今でも韓国のお年寄りの人たちは、日本語で話をしたりすることが出来たりするらしい。戦前には日本語の教育が行なわれていたから。自分たちの言葉を奪われて、さらに「創氏改名」とかいって、名前まで奪われた。他にもいろいろ差別的な行いがあった。

そんな記憶を持っている人たちがいて、また、直接酷い目にはあっていなくても、そういう話を聞かされた人がたくさんいる。これはどうしようもない。」

姪「日本だって、原爆を落とされたりとか。」

「そういうこと。こういう恨みの問題はとにかく長く引きずる。他にも、例えばユダヤ人の話とかがあって...(略)」

私が姪に話したことを要約すれば、とにかく難しいということ。世の中は、いや、大人の世界はこんがらがっていて、なにが「正しい」のかなど、判定しようがない。

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大人としての絶望的な気分とともに、思い起こされるのは、これ。


(0'55"より)
My childhood was completely taken away from me.
There was no Christmas. There was no birthday.
It was not a normal childhood. No normal pleasures of childhood.
Those were exchanged for hard work, struggle and pain,
and eventual material and professional success.
But as an awful price, I cannot recreate that part of my life.
Nor will I change any part of my life.

僕には子ども時代というものが全くありませんでした
クリスマスもなく、誕生日もなく
普通の子ども時代ではありませんでした。子どもとして普通に味わう喜びは全くなかった
そのかわりに一生懸命に働き、もがいて苦しんで
そして最終的には物質的に、プロとして成功しました
でもその大きな代償として、僕は人生の中のその部分を生き直すことができない
人生のどの部分も取り替えることはできないのです

However, today, when I create my music, I feel like an instrument of nature.
I wonder what delight nature must feel
when we open our hearts and express our God-given talents.
The sound of approval rolls across the universe and the whole world abounds in magic.
Wonder fills our hearts for what we have glimpsed for an instant
- the playfulness of life.

でも今では、曲をつくるとき、僕は自分が自然の楽器のような気がします
自然はどんなにか喜ぶことだろうと思います
僕たちが心開いて、神から与えられた才能を表現するとき
賞賛の拍手が宇宙じゅうに鳴り響き、世界はマジックで満ちあふれます
不思議さへの感動で胸がいっぱいになるその一瞬に垣間見たもの
それは生命の遊びの楽しさです

And that's why I love children and learn so much from being around them.
I realize that many of our world's problems today from the inner city crimes
to large scale wars and terrorism and our overcrowded prisons
are a result of the fact that children have had their childhood stolen from them.
The magic, the wonder, the mystery and the innocence of a child's heart
are the seeds of creativity that will heal the world. I really believe that.

だから僕は子どもたちが好きだし、一緒にいることでとても多くを学んでいます
僕にはわかっています。現在の世界の問題の多くが、スラム街の犯罪から
大規模な戦争、テロ、超満員の刑務所にいたるまで
それらは彼らが子ども時代を奪われてしまったという事実の結果なのだと
マジックや不思議なこと、神秘、そして天真爛漫な子どもの心は
創造性の種であり、それが世界を癒すのです。僕は本当にそう信じています

What we need to learn from children isn't childish.
Being with them connects us to the deeper wisdom of life
which is everpresent and only asks to be lived.
They know the way to solutions
that lie waiting to be recognized within our own hearts.
Today, I would like to thank all the children of the world,
including the sick and deprived. I am so sensitive to your pain.

僕たちが子どもたちから学ぶ必要があるのは、子どもっぽさではありません
子どもたちといると、生命のより深い智恵というものに到達できるのです
それはずっとそこにあって、ただ生かされるのを待っています
子どもたちは、解決への道を知っています
それは僕たち自身の心の中にあって、僕たちが気づくのを待っているのです
今日、僕は世界中の子どもたちに感謝したいと思います
病気の子もハンディキャップを負った子もみんな。君たちの痛みをすごく感じています

(英文書き起しと訳文は、こちらより拝借しました。)

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大人も、詰まるところ、無力である。「正しい主張」をするのはいいだろう。その権利は確かにある。が、社会に「正しい」は、「正しい主張」をする人の数だけある。だからこそ世の中はこんがらがって収拾がつかなくなっているのに、それでも、大人は子どもに「正しい主張」をするべく教育することが、大人の責務だと思っている。

そのような「責務」は、大人であるにも関わらず無力である自身を隠蔽するための、欺瞞ではないのか。自分は無力ではないと思いたい。思いたいから、正当化したいから、主張し、一方で団結を呼びかけ、一方では同志を排斥しながら、権力の獲得を目指す。教育を施すのも、主たる、しかし隠蔽された動機は正当化だろう。

「そういうのは、半分ずつとか出来ないのかな?」という主張はまったく正当なものである。実現不可能な子どもっぽいファンタジーのように感じてしまうけれども、自身の「大人」である部分――さまざまな知識の学習と、そこに伴って吸収してしまった恨み、反発、そういった感情を削ぎ落としてみれば、互いに譲り合って半分ずつにしようという主張は正当なものと認めざるを得ない。

認めることが出来ないのは、自身も子どもと同様に無力であることを認めたくないからだ。それを認めてしまうと、大人になるべく費やしてきた努力が無に帰すように感じられてしまう。自分が払ってきた努力の正当性を主張するために、子どもにも同じ努力を要求する。その要求が、子どもから子ども時代を奪う。

〈ファンタジー〉を鍛えるということ。『のだめカンタービレ』

たとえばアニメなどというものは、もとよりファンタジーだ。そのファンタジーを〈ファンタジー〉と受けとめるか、【ファンタジー】だとして切り離してしまうかは、それぞれの受け手の“構え”の問題。

この“構え”こそ、私は「愛」と呼ばれるものだと思っている。愛するということ

 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしていではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度性格方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。
 ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ信じている。これは、私たちが先に述べたのと同じ誤りである。つまり、愛が活動であり、魂の力であるということを理解していないために、正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくゆくと信じているのだ。
 この態度はちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、正しい対象が見つかるまで待っていればいいのだ、ひとたび見つかればみごとに描いてやる、と言い張るようなものだ。一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」ということができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。


エーリッヒ・フロムの古典的名著『愛するということ』より。fantasticな文章だと思うが、さて、それは以下のどの意味においてだろうか?

fantasticの意味
  1 とてもすばらしい, すてきな, すごい.
  2 途方もなく大きい[多い].
  3 〈事・物が〉空想的な, 奇想天外な, 現実離れした;
   〈計画などが〉とてつもない;奇妙な;
   〈人・考えなどが〉気まぐれな, とりとめのない.
  4 想像上の;根拠のない  


fantasticの意味は、【大人】的感覚からいえば分裂している。素晴らしいが根拠がなくバカげているのが、fantastic であり、fantasy。それは同時に「愛」というものへの感覚でもある。

上記文章の特に後半など、素晴らしいがバカげていると感覚を呼び起こす典型的なものだろう。

「あなたを愛している」ということができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。


そう言えたらいいね。でも世の中を、現実を見てみろよ。とてもそんな具合には行かない。それこそまさにファンタジーだ――というような声が聞えてきそうである。

愛とファンタジーは、よく似ている。私の直観では、ファンタジーは愛の前段階。ファンタジーが方向性を持てば、愛になる。私自身にであれ、他人にであれ、全世界に向けてであれ。ファンタジーが溢れ出したものが愛なのだといっていいかもしれない。

  ***

以上を前置きとして、今回は『のだめカンタービレ』という作品の主人公について語ってみる。原作は二ノ宮知子によるクラシック音楽をテーマとした日本の漫画作品。テレビドラマ・テレビアニメ・実写映画などの作品が制作された。私が見たのはアニメである。

主人公「のだめ」を語るには、まず、この動画がいいだろう。


音楽大学でのレッスンの一コマ。ハリセンを持っているのは教師で、その教師を前にのだめはファンタジーを繰り出す。それが『もじゃもじゃ組曲』である(『おなら体操』というのもあるw)。

のだめは優秀なピアノの技術的才能を持っている。音楽についての才能も持っている。だがその才能には「蓋」がされてしまっている。「蓋」をしたのは彼女が幼い頃に受けた【教育】である。

ハリセンを手に大阪弁でしゃべる教師の造形は、【教育】を施す者の姿をカリカチュアだ。彼にとってファンタジーは【ファンタジー】でしかない。だから、呆然とした顔をしている。【音楽】を学ぶはずの学校において、ピアノを弾いて遊んでいる生徒の存在自体が彼にとっては驚きである。【教育者】にとってピアノを弾くことと【音楽を学ぶ】こととはまったく異なるなのだから。

しかし、実は、のだめにとってもファンタジーは【ファンタジー】でしかない。というのも、ファンタジーは彼女の逃避先でしかないから。のだめは自分のファンタジーを活かそうとして、幼稚園教諭(あるいは保母)を志望している。

『のだめカンタービレ』はのだめの葛藤の物語であると同時に、ラブストーリーでもある。のだめは千秋真一という男に恋をする。恋をする者は、恋した相手の願望を自らの願望と見なし、二人の願望が成就することを望む。千秋は指揮者を志望する優秀な青年で、次々に成功を収めていくが、その千秋とコンチェルトで共演することがのだめと千秋の夢になる。

もっとも。その夢へのスタンスは二人の間で決定的に異なる。千秋にとってその夢は、さらなる夢への一歩にすぎないのに対して、のだめにとっては最終ゴール。のだめはその望みを果たして、千秋に寄り添って幸せに暮らすことが出来ればいい。そのゴールを通過しなければ、千秋との幸せはないのだという強迫観念に取り憑かれたキャラクターがのだめという存在が描かれている。あくまでコミカルに。

ちなみに千秋の夢は、一個の独立した音楽家としてののだめとともに〈生きていく〉ことである。この場合、〈生きていく〉ということは〈音楽をする〉ということに他ならない。それが音楽家であるということだ。こちらはかなりシリアスに描かれている。

のだめと千秋のふたりは、それぞれに思い描く未来の姿を異にしながら、それでもそれぞれに成功を手中にしつつ、成長していく。しかし、物語としてはそれで終わらないのが常道。悲劇が待ち構えている。その悲劇は、のだめが思い描いていたコンチェルトを、他の者と実現してしまうという形になって現れる。

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もう少しあらすじを整理してみようか。

当初千秋は、指揮者志望のピアノ科の学生として登場。「優秀な」教師であるハリセンと衝突してのだめと出会うというところからスタートする。そこへ世界的指揮者であるシュトレーゼマンが登場。千秋はシュトレーゼマンの弟子となって、指揮者修行への道に入ることになる。

そのシュトレーゼマンと千秋とが、学園祭においてコンチェルトで共演する(曲目はラフマニノフの2番)。この成功が千秋の出世のきっかけになると同時に、のだめの「夢」になる。つまり、指揮者千秋とピアノ大好きのだめ
の「夢の」共演である。

そんな「夢」を抱えたのだめは、夢を実現するべくピアノを勉強しようと決意する。ハリセン教師についてコンクールを受けるが、落選。夢が破れたと思ったのだめは実家へ帰る。そこへ千秋が迎えに行き、コンクールで審査員をしていたオクレールというパリの音楽学校教師から留学の招待を受けるという幸運もかさなり、パリで千秋とともに音楽の勉強を続けることができるという展開になる。

パリでのだめはまだ学生だが、千秋はプロの指揮者としての道を順調に歩き出していく。のだめもリサイタルを開いたりと順調。のだめはファンタジーを発揮し、聴衆を魅了する。ことにモーツァルト『キラキラ星変奏曲』では、【ピアノ教育】を施されてピアノ嫌いになりかけていた少年たちにピアノの楽しさを教える。

ここにのだめのライバルが登場する。既に名声を確立した女流ピアニスト、ルイ。千秋とのだめはふたりで共演するために、ラベルのピアノ協奏曲を勉強する。ところがその曲を千秋はルイと共演してしまう。その「裏切り」の結果、のだめはシュトレーゼマンとの共演へと走ることになる(ショパンの1番)。

世界的指揮者との突然の共演とその成功は、のだめをスターの座へと押し上げようとするが、のだめは「もうあれ以上のものを弾けない」といって逃亡してしまう。のだめにとって千秋との共演は「最高のもの」でなければならなかったが、その「最高のもの」を別の者と実現してしまった。のだめの【ファンタジー】の限界が露呈し、のだめは行き詰まって逃亡するしかなくなくなった。

パリにおけるのだめのピアノ教師であるオクレールは、のだめを終始「べーべちゃん」と呼ぶ。のだめはファンタジーを誰よりも抱えていながら、それを自分のためにしか使えない“子ども”だからである。そのオクレールが、のだめを世間的・音楽業界的な「成功」に導いたシュトレーゼマンを非難する。

べーべちゃんは、もう少しで本当のピアニストになるところだったのに。本当のピアニストとは〈音楽と生きる〉決意をしたもので、彼女はさまざまな作曲家の〈音楽〉に触れることで少しずつそのことを身につけようといていた。それをシュトレーゼマンが「成功」させてしまったことで、台無しにしてしまった、と。

逃亡から返ったきたのだめを〈音楽と生きる〉ことに踏み出させたのは、子どもたちである。逃亡から返ったのだめは、今度は子どもたちへと逃亡する。かつてのように。『きらきら星変奏曲』で子どもを魅了するが、ちょっとした即興演奏を子どもたちに面白くないと言われてしまう。そこへ「のだめはちゃんと弾くとすごいんですよ」と
ベートーヴェン・ピアノソナタ31番を弾き始める――。

(ベートーヴェンのこの作品こそ、「蓋」が外れることを音楽として表現した作品である。)

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『愛するということ』において、エーリッヒ・フロムは愛を技術だと主張する。だとするならば、ファンタジーもまた技術であり、鍛えることができるといえる。

ファンタジーは自由な魂から生まれる。しかし、自由は鍛えようがない。自由とは解放された状態、抑圧されない状態を指すのであるから、その「状態」を鍛えるというのは論理としては矛盾する。言えるのは自由を目指して「何か」を鍛える、ということだけだ。その「何か」がファンタジーに当たる。

だからファンタジーを【ファンタジー】としてではなく、〈ファンタジー〉として捉えるのは重要なこと。【ファンタジー】では自由を目指すことを放棄することになる。

では〈ファンタジー〉を鍛えるということはどういうことか。これは感性を磨く。修行をする。そのように表現されることなのだと私は思っている。そうすることで〈ファンタジー〉の多様性が増す。多様性が増すと自由な魂を表現する方法が増える。それで魂はますます自由になる。

感性を磨くというのは、制約の意味をするところを知るということ。ファンタジーが自由な世界であるのに対して現実は制約の世界である。ファンタジーを【ファンタジー】として切り離してしまうことは、制約を受け入れてしまって自由な魂に「蓋」をしてしまうこと。だが、自由な〈ファンタジー〉は、自由であるがゆえに相手には届かない。自由とは、逆に言えば孤独である。

孤独から逃げる方法には2つある。ひとつは制約を共有すること。オマエとオレは同期の桜だ、と。同期であり桜であり、桜の先には日本国のために「花と散る」という共有がある。共有する者は孤独から免れる。が、自由ではなくなる。

自由でありながらかつ孤独から解放されるには、相手との回路を切り拓かなければならない。制約を伝達の回路へと変換しなければならない。それには制約の意味するところをよく知らねばならない。制約の意味するところを知悉し、操れることが出来るようになることを“自在”と表現するのだと私は思っている。

音楽家として〈音楽に生きる〉とは、音楽という制約あるいは楽器という制約の中で、その制約を我が物として〈生きる〉ということに他ならない。昔の作曲家の記した楽譜というのもまた制約である。それが我が物として習得することは、技術といっていいだろう。楽器の演奏に習熟することも。それらの技術を身につけるに従って、魂は自由を発露させることが出来るようになっていく。

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のだめは、ビアノという制約については習熟した存在として設定されている。ファンタジーも豊かに抱えていて、そのことが音楽の才能として垣間見られるという設定になっている。しかしそれには「蓋」がされてしまっていて、そのファンタジーを自分のための【ファンタジー】としてしか使えない。そのことがやがてのだめ自身の抱える矛盾となって、のだめを追い込む。『のだめカンタービレ』はそうした物語をコミカルに描いた作品になっている。コミカルであることが逃避の表現となった作品になっている。

その物語から浮かび上がってくるのが、自由な魂は、自由なだけは自由ではいられないという真実。不条理と形容してもいいかもしれないが、同時にその不条理を我が物にする「術」があるということも示唆されている。ただ残念ながら、明瞭に示されているとは言いがたいが。

が、それは『のだめカンタービレ』という作品の責任ではない。そういう「術」はたぶん誰にも明示できない。明示できないからファンタジーになる。

〈ことば〉と〈ファンタジー〉

ファンタジーについて、引き続き書いてみたくなったので。

私の考えでは、「ことば」には〈ことば〉と【ことば】がある。同様に、ファンタジーにも〈ファンタジー〉と【ファンタジー】とがあることになる。

私は〈 〉と【 】の表記を多用する。使い始めたのはこのあたりから。「良心」と【良心】とを区別したのが始まり。それから【 】の対比として〈 〉の表記を用いるようになった。

〈 〉と【 】を区別する具体的な定義はまだ考えていない。漠然としたイメージがあるだけ。

  〈 〉 ← 開いたイメージ
  【 】 ← 閉じたイメージ

という単純なもの。開いていれば繋がるし、閉じていれば切断する。

その伝でいくと、〈ファンタジー〉および【ファンタジー】のイメージを語るとどうなるか。先の藤浩志さんの記事で、私はこのように書いた。

>> ファンタジーの世界を自由な世界というならば、現実の世界は制約の世界である。現実はファンタジーのようには行かない。だから多くの人間、いや、大人は、ファンタジーと現実とを切り分けてしまって、それで納得してしまう。けれども、思い出していただきたいが、私たちが少年少女であった頃は、私たちもファンタジーと現実の世界の両方に跨がって生きていたのである。<<

この文章を〈ファンタジー〉【ファンタジー】を使って書きなおすなら、

>> ファンタジーの世界を自由な世界というならば、現実の世界は制約の世界である。現実は【ファンタジー】のようには行かない。だから多くの人間、いや、大人は、【ファンタジー】と現実とを切り分けてしまって、それで納得してしまう。けれども、思い出していただきたいが、私たちが少年少女であった頃は、私たちも〈ファンタジー〉と現実の世界の両方に跨がって生きていたのである。<<

現実と切断されているのが【ファンタジー】。現実と繋がっているのが〈ファンタジー〉。【ファンタジー】は妄想であるが、〈ファンタジー〉は希望である。同じ「ファンタジー」でも、現実からの逃避に使うのなら妄想になるが、それを現実を生きるための糧とするなら希望になる。

  ***

それが〈ことば〉と、どう関係するのか。それが当文章の主題だが、そこをつなぐ鍵が“子ども時代”。そして、「センス・オブ・ワンダー」。

 センス・オブ・ワンダーとは、レイチェル自身の言葉によると「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のことをいう。
 この感性は、これもレイチェルの説明によると、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである。
 そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供たちをもつ親たちに知らせたかった。なぜなら『沈黙の春』執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、自分の時間がなくなってしまう前に、なんとしても自分が生涯を賭けて感じた「かけがえのないもの」を次世代にのこしておきたかったからだった。その「かけがえのないもの」がセンス・オブ・ワンダーだったのである。



  ****

“子ども時代”とは“自由な魂の時代”と言い換えてもいいだろう。自由な魂と〈ことば〉とは深い関係にある。子どもはどんどん〈私〉を膨らませて成長するが、それは〈ことば〉が増殖し、つながることである。せわしく明滅する有機交流電灯が、その数を増やしていくのが“子ども時代”。

「ことば」は言霊(ことだま)でもある。生まれたばかりの赤ん坊はインターフェイスなしの剥き出しの魂の状態だが、成長するにつれてインターフェイスを発達させ、そのなかを霊で満たす。

 ⇒ 魂に「蓋」をするもの その2

〈霊〉や〈ことば〉は開かれている。「蓋」をされていない、抑圧から免れている自由な魂は、〈霊〉あるいは〈ことば〉で満たされた開かれたインターフェイスで蔽われている。その開かれ方は自由である。現実世界にも、現実ではない想像の世界にも開かれている。未体験のことが多い子どもが、初めて出会った体験ばかりでなく繰り返し出会う体験の中にも神秘や不思議を感じるのは、インターフェイスが開かれていて魂と繋がるからだ。

五感に感知された感覚は複合されて「ことば」になる。「ことば」は魂と繋がることで〈ことば〉になり、〈私〉の一部になる。新たに出会った神秘や不思議を魂経由で別の〈ことば〉へと接続させれば、それはファンタジーだ。ファンタジーとは魂が紡ぎ出すインターフェイスのなかの物語であり、開かれた自由な魂においては、現実世界と繋がってゆく〈希望〉となる。

  *****

“子ども時代”は、子どもだけのものではない。肉体的に成長し年齢を重ねて、社会的には大人と認知されるようになっても“子ども時代”を生きることは可能。そうした〈大人〉が存在するということは前の記事で記した通り。制約の多い現実世界の中で、制約を逆に自由の糧として自在に生きることができる〈大人〉である。

自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための 後編

前編を書いて、後編を上手く書けないと思っていたのだけど、突然、書ける気になった。前記事で「ファンタジー」という語を出したら、〈ことば〉が繋がった。

前記事では“地図の上を歩く”というファンタジーについて書いた。ここでいうファンタジーは、“fantasy”の訳語通りの意味。すなわち、途方もない空想, 現実離れした想像, 夢想, 幻想。

しかし、藤浩志さんにおいては「ファンタジー」の意味がいささか異なる。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


から、安冨先生の藤浩志さんについての紹介文を再度、引用。。

彼の作品は「わらしべ長者」のように、老松のぬいぐるみや、鴨川の中の鯉のぼり、ゴジラとハニワの結婚式といった学生時代の作品から始まって、彼自身の人生の転がり具合のなかで、人々との交歓=交換を繰り返し、かえっこしながら、どんどん膨らんでいく感じがします。その行き当たりばったりの、波乗りファンタジーの生み出した、お伽話としての作品の数々を、皆さんと楽しんでみたいと思います。


後半の文章。一応、文章としては藤浩志さんと藤浩志さんの作品とが区別され、「ファンタジー」は作品について言っているのだと整理はできる。けれど、文章全体のイメージでいうと、「ファンタジー」は作品にも藤浩志さん自身にも言えるような感を受ける。8/4の講義は、まさにそのような内容だった。

ファンタジーが作品を指すのであれば、それは一般的なファンタジーの語彙からはみ出してはいない。「作品は、途方もない空想, 現実離れした想像, 夢想, 幻想の表現」と言明しても、何らおかしいことはない。ファンタジーと現実とは切り分けられ、作品は表現という形で両者の接点に立つ。しかし、“作品”が“作者”に置き換わるとどうか。作者がファンタジーと現実との接点に立つ。立つとは言っても、作者は作品と違って現実に生きているのである。

こうなると、ファンタジーは現実ではない世界という範疇から少し逸脱している。ファンタジーを生きる人間を介して、幻想の世界が現実の世界に紛れ込んでくる。

ファンタジーの世界を自由な世界というならば、現実の世界は制約の世界である。現実はファンタジーのようには行かない。だから多くの人間、いや、大人は、ファンタジーと現実とを切り分けてしまって、それで納得してしまう。けれども、思い出していただきたいが、私たちが少年少女であった頃は、私たちもファンタジーと現実の世界の両方に跨がって生きていたのである。“地図の上を歩く”とき、それは架空の幻想の世界だったかもしれないが、まぎれもなくそこで生きていた。お人形を抱いておままごとをしているときも、そう。それは小さな世界ではあるが、そう感じるのは大人になった私たちが現在の地平から俯瞰してしまうからそう感じるのであって、当時は自分の世界を精一杯、自由に生きていたのである。

ファンタジーと現実との区別もなく、自由に生きることができる。これを“自由な魂”と呼ぶことができるのだと私は思う。その視点から藤浩志さんを見てみると、「わらしべ長者」のように“自由な魂”の活動がどんどん膨らんでいく感じがする。「お伽噺」は作品ではなく、むしろ藤浩志さん自身だ。

では、そんな藤浩志さん自身の作品は、従来の意味で作品と言えるのか。言う必要は無い、と私は思う。鑑賞する者がそう言いたければ言えばいいし、そうでないと思えばそれでいい。

(関連して思い出すのは、こちらの記事でとりあげた「じょうぶ学園」の知的障害者たちの作品。知的障害者たちもまた、ファンタジーと現実の接点に生きているように思えるし、いわゆる“健常な大人”が制約しなければ、彼らの作る自由な作品は、作品と言っていいのかどうか判別のつかないようなものになる。しょうぶ学園のHPで紹介されているのは、そういった作品の中でも、作品らしいもののようだ。)

さて、話の続きとしては、藤浩志さんの経歴を紹介することで作品「藤浩志」に迫るということになるのだろうが、それは省略。私としては、「自由な魂」というものがどういったものかを自分なりに綴ることができれば目的は達したわけで、それからすれば、既に目的は達したように思う。

というわけで、終了。

【ことば】は〈私〉を抑圧する (8)

前回からの続き。姪っ子への「授業」の話。

私は姪の前で白紙の上に日本地図と世界地図を描いて見せた。

日本地図だと、まず北海道の菱形を描く。菱形の上の角は宗谷岬。右に角は上下二つに分かれていて、上の角が知床。下の角は納沙布。納沙布から左下へ進んでいって、北海道の下の角は襟裳岬。さらに進めると、北海道の左は菱形にはなっていなくて、渡島半島という足が出ている。足の土踏まずのところに函館。

津軽海峡を挟んで、北海道の下。右が大きな下北半島。左は小さな津軽半島。その付け根に青森。右からいって、海岸線は太平洋に向かって少し膨らみつつ何か。岩手県で、リアス式海岸の三陸で、途中に宮古や釜石があって、牡鹿半島のトンガリに至ると宮城になって、少し窪むと仙台に至る。何かを続けるとまた太平洋に向かって少し膨らんで、福島。バクハツした原子力発電所はこのあたりかな...

...と、こんな感じ。ここで続けるのは長くなるので切り上げるが、このような具合で大雑把な日本地図を描いてみた。世界地図も、同じような感じ。

姪は、なぜそんなに憶えているのかと尋ねてくる。そう尋ねられても、困る。出てくるのは出てくるとしか答えようがない。
(ただし、そうした出力はところどころ欠落がある。例えば、実は私は「納沙布岬」の名が出てこなかった。「根室」は出てきたのだが。また、記憶の網の目が細かいところと粗いところがあったりもする。)

では、姪にはそうした能力はないのか。そんなことはない。

中学2年の姪は、今は夏休みだけれど、ウィークデイは毎日学校へ通っている。徒歩でだいたい30分かかるという。その道程を地図に描いて見せろと言われれば出来るはずだ。実際、できるという。そのときの地図の書き方と私がやって見せた地図の書き方は、同じのはずだ。

ただ違うのは、姪の家から学校までの地図は彼女自身が経験していること。日本地図、ましてや世界地図は、実際に経験したことではない。仮想的に“地図の上を歩く”ことを通じて身につけたもの。そうやって身につけたものだから、今でも残っている。そういった知識を身につけたのはもうかれこれ20年以上もまえのことで、ゆえにところどころに「抜け」はあるけれども、まだ大方は残っている。同じ頃、苦心惨憺して憶えたはずの英単語が見事に抜け落ちていることと比較すると、その差は歴然。私にとって、地図上の地名は〈ことば〉に成っているのに対して、英単語は【ことば】だった。英単語は〈私〉の形成に関連のない、単なる知識だった。

今度は私が姪に尋ねる番だった。地図の上を歩いてみたことはある? “地図の上を歩く”ということがどういったことなのか、わからないという答え。そうだろう。

  ***

“地図の上を歩く”というのがどういったことなのかを説明するのは難しい。わかる者にはわかる。わからない者にはわからない。この差は単にわかるわからないだけの差ではない。胸が踊るか踊らないかの差でもある。“地図の上を歩く”ことを識っている者は、そのことを思い出すときに胸が踊る。これは「子ども」の得意技だ。

子どもは空想が大好きだ。たとえば人形遊び。人形の中に〈私〉を没入させて、人形になったつもりなって、そこからさらに空想を羽ばたかせる。人形が飛行機や車のオモチャでもいい。道ばたから拾ってきた石ころでもいい。とにかくなんであろうと、そこの〈私〉を投入して、ファンタジーを繰り広げる。そんな能力が子どもにはある。

“地図の上を歩く”というのも、そうした空想の延長線上にあるものだ。たとえば北海道のオホーツク海沿岸、宗谷岬から知床半島までを歩く。歩き始めるとすぐ「クッチャロ湖」という名前に出会う。変な名前におかしくなって空想が始まる。怪獣でも済んでいるのか?(そういえば、クッシーというUMAがいるという噂があった)。進むとこんどは「紋別」。これも変な名前。さらに「サロマ湖」。お、これはなんだかカッコイイ。「網走」。刑務所だ! マンガで読んだことがあるぞ。「知床」。きれいなところなんだよね。唄で聞いたことがある...

こんな具合に、時にすでに知っている〈ことば〉とつながり、時にちょっとしたきっかけから空想に入る。そんなようなことをしながら、仮想的に歩く。そんななかで「憧れ」が生まれてきたりすることもある。この海岸には冬になると流氷がやってくる、なんてことを後に学習すると、“歩いた”経験があれば、さらにファンタジーは膨らむ。

  ****

そういう子どもに、「紋別」や「網走」といったような地名を【ことば】として暗記させるのは、「子ども時代」を奪う行為になるだろう。“地図の上を歩く”というような芸当は、子どもなら誰もがするというものではない。それそれの個性や出会いによって、好んだり関心を持たなかったりする。

学校で施される教育とは、個性や偶然を塗りつぶそうとする行為である。「紋別」や「網走」を【ことば】として憶えなさい、というのはそういうことだ。子どもにとって、それがファンタジーを含んだ〈ことば〉であろうと、単に暗記しただけの【ことば】であろうと、ペーパーテストの点数という“その場限り”の評価に、その差は現われることはない。

いや。“その場限り”という表現は誤りだ。その時の「点数」が後々の子どもたちの人生に響いてくる。そのことを子どもたち自身も知っている。その意味において、“その場かぎり”ではない。ただし、これはあくまでも「点数」であって、そのことも子どもたちは知っている。

が、ペーパーテストで「点数」を稼ぐという行為は、間違いなく“その場限り”である。だからこそ〈ことば〉と【ことば】の差異が反映されない。そのことばが〈私〉を形作るものなのか否かの差は、「点数」には現われない。なのに、その「点数」が大人からの評価になり、子どもを規定していく。これは「子ども時代」の抑圧であり、ハラスメントだろう。

  *****

姪は中学2年生だが、未だにファンタジーが大好きなようである。ただ、やはり、小学生の頃と比べると、得意ではなくなってきた。彼女自身がそう言った。地図を憶える方法だけではない。先の記事であげた文章問題を解く方法もそう。〈自分〉を入れる。そういうのは、小学生の頃の方が得意だったという。

これは由々しきことだと思う。もちろん、ファンタジーだけではいけない。大人になるということは、ファンタジーだけでは生きていくことができないということを識ることだ。だが、大人になることと引き替えに、子どもの得意技であるファンタジーを失うのでは、成長の意味がない。そういった「引き替え」を教育が強要しているのだと私は思っている。

  ******

では、具体的にどうすればいいのか? ファンタジーを失わず大人になっていく方法。すぐに見つかるわけもないのだが、続けて考えてみたい。

【ことば】は〈私〉を抑圧する (7)

前回の続きを書くつもりだったけれど、止めることにした。いろいろ考えては見たけど、どうも上手く書けない。たぶん、藤浩志さんのことを調べて勉強してしまったからだろう。純粋に「講義」で感じたことだけを綴ればよかったのだが、余分な知識を仕入れてしまったために混乱してまとまらなくなってしまった。

というわけで、とりあえず続きを書くことは放棄。気が向いたら書くかもしれない。

  ***

というわけで前々回の続きだが、また記事のタイトルを変更した。通し番号は継続。

 〈私〉とは複合感覚である
 〈ことば〉が〈私〉を形作っている
 【ことば】は〈私〉を抑圧する

この3つのセンテンスは私のなかでは同じ意味を為しているのだが、若干説明が必要か。

「ことば」には〈ことば〉と【ことば】とがある。〈ことば〉は〈私〉を形成しているもの、〈私〉のなかで縦横無尽に繋がって、ある〈ことば〉を引き出せば、芋づる式にずるずると別の〈ことば〉も感覚的に連なってくるような、そんな「ことば」。対して【ことば】は単なる記号。連ならない、中に浮いた「ことば」。

  ****

また話はがらっと変わって。

先日、中学2年生の姪の“勉強をみる”機会があった。以前から、勉強ではなく“勉強のやり方”について話をしてあげるよ、などと言っていたのだけど、そういう機会が実現したというわけだ。そうはいっても、あちらは具体的に“勉強をみて”もらうつもりだったようで、まあ、そういう期待は当然ではあるだろう。彼女やその親にとって、気になるのは数字で表わされる「学校の成績」だろうから。

私は「勉強のイメージ」を話するつもりで、実際その話をしたのだけど、取っかかりとして夏休みの宿題として出されている学習ドリルの出題を一緒に解いてみることにした。大抵の子どもが苦手としていて、姪もその例外ではない数学の応用問題。一次連立方程式の文章題というやつ。

まずはこんな出題。

50円の切手と80円の切手がある。合計枚数が15枚。合計金額が960円になるときの、50円切手、80円切手のそれぞれの枚数を求めよ。


文章題の初歩の初歩。ここらは難なくクリア。ところが

列車が走っている。列車が650mの鉄橋を渡り始めて渡り終わるのにかかった時間が25秒。750mのトンネルに入り終わって出始めるまでの時間が30秒。列車の長さと速度を求めよ。


となると、もう躓いてしまう。文章をうまく方程式に置き換えることが出来ない。

  *****

姪と話をしていて気がついたことがある。それは一生懸命、【ことば】を操作をしようとしている、ということ。

前の出題は、〈ことば〉から【ことば】への置き換えは単純である。50円切手の枚数をx、80円切手の枚数をyと置けば、すぐに連立方程式になる。後の出題でも、列車の長さと速度をそれぞれ代数に置き換えれば良いのだが、文章の通りに連立方程式を組み立てることが出来ない。

といって、彼女が出題文が提示している状況を理解できないかというと、そうではない。自分が列車の運転手になったつもりになって「鉄橋を渡り始めたとき」「鉄橋を渡り終えたとき」「トンネルに入り終えたとき」「トンネルから出始めたとき」の状況、つまりは列車の先頭にいる自分の位置はどうかと尋ねたら、なんの躓きもなく易々と答えることができる。

なのになぜ、連立方程式を組み立てることが出来ないのか。私は尋ねてみた。「650とかいう数字が出てきた瞬間に、数字に囚われていないか?」 姪は、「そうかもしれない」と答えた。

大抵の中学2年生は、連立方程式を解くことができる。前の出題から組み上がる方程式は

 x+y=15
 50x+80y=960

だが、この方程式を彼らは【ことば=記号】を操作して、x=8 y=7 と正解を導き出すことができる。

前の出題の文章は、数学的・記号的な【ことば】操作の方法でそのまま連立方程式を組み立てることが出来た。ところが後の出題は、その感覚では連立方程式は組み上がらない。それとは別の、彼らにすでにインストールされている〈ことば〉の感覚を用いないといけないし、用いれば組み上げることができる。ところが彼らはその感覚を用いずに、どうも【ことば】的感覚で出題を眺めているようなのだ。

【ことば】的操作感覚では、列車の運転手になったつもりにはなれない。姪は、出題を解くに当たって、自分が列車の運転手になるというような想像をしてみることをしなかった。〈ことば〉的感覚においてはそれができるにも関わらず、「蓋」をしてしまっていた。いや、されてしまっていたというべきか。

  ******

【ことば】操作感の基盤を為しているのは「等価」である。たとえば、上の連立方程式を解いて、x、yを求めるという操作をしてみる。

① 上の式を y=15-x に変形。
② ①を下の式に代入。 50x+80(15ーx)=960
③ ②を計算して -30x+1200=960 ⇒ 30x=240 x=8
④ ③の結果を ①に代入して、y=15-8 ⇒ y=8

これらの操作はすべて、記号(【ことば】)が“等価”であることを前提に、「置き換え」をしていくもの。

文章題の前の出題は、この「置き換え」だけで連立方程式が組み上がる。ところが後の出題は【ことば】的「おきかえ」の前に〈ことば〉的な操作が必要なのだが、これは「等価な置き換え」ではない。“自分が列車の運転手になったことを想像する”という行為は、「等価な置き換え」からは生まれてこない。〈ことば〉的想像力は、芋づる式の〈ことば〉感覚からしか生まれてこない。

姪には、後の出題の状況を想像するには十分の〈ことば〉的想像力はすでに備わっていた。ただ、それを発揮するべき場面でないと思い込んでいただけのことのようなのである。だとすれば、その思い込みはどこから生じたのか。そして、思い込んでしまって〈ことば〉的感覚を自ら封印してしまう者(出題を解けない者)とそうでない者(出題を解くことができる者)の違いはどこにあるのか。

  *******

思い込みの原因は、「箱」システム的教育にあるのかもしれない。つまり、数学は数学。国語は国語と、それぞれ「箱」に入れてしまう教育の在り方。国語的理解でいえば、後の出題は中学2年生には何ら問題がないレベルのはず。にもかかわらず、それが数学になってしまった途端に理解できなくなる。理解ができなくなるのではない。理解が封印されるのである。

数学で学習することはいろいろあるが、まず習熟しなければならないのは計算。これはどんな複雑なものであろうと「等価な置き換え」。足し算、引き算、かけ算、割り算。自然数、小数、分数、マイナスの概念、代数と、学習が進むにつれていろいろな要素が加わってくるが、それらの要素は「等価」の在り方のバリエーションが増えるというだけのことであって、だからこそ計算が可能。不等式という学習もするが、それとても「不等」という“等価”のバリエーションが増えるだけのことだ。

(【ことば】的「等価な置き換え」操作を「形式論理」というのではないのか? 〈ことば〉的想像を「弁証法」というのではないのか?)

数学の学習では、計算問題を基本とし、文章問題を応用と位置づけている。ここには計算問題は簡単で、文章問題は難しいという暗黙の前提が盛り込まれているが、果たして本当にそうなのか。確かに、テストをすればと基本とされている方の得点率は高く、応用とされいる方が低い。この事実からは基本⇒易/応用⇒難という「事実」が容易に推測されてしまうけれども、教える側のそうした「推測」こそが、教わる側の初歩的な〈ことば〉的想像力に「蓋」をしてしまうことになっていて、それが結果として現われて、基本⇒易/応用⇒難ということなっているのではあるまいか。

  ********

基本⇒易/応用⇒難ということについての、私自身の感覚の話。私もつい最近まで、基本⇒易/応用⇒難と思っていた。おそらくは思い込んでいた。私自身が中学生の時、基本問題は苦手で応用問題は得意だった。正答率でいえば基本問題は低く、応用問題の方が高かった。

私自身の正答率ということでいうなれば、私にとって難しいのは基本問題の方で、応用問題はむしろ簡単なのだと言わなければならなかったはずだ。にもかかわらず、私自身も基本⇒易/応用⇒難だと、ろくに考えもせずに思い込んでいた。

けれど、よくよく自分自身の感覚をモニターしてみれば、応用問題の方が楽である。計算問題を解くのに必要な【ことば】的「等価な置き換え」操作は、それを為すのはとても不自然な感じがする。自分の身体に見合わない不自然な動作を強いられているような感がある。だから苦であり、よく間違う。対して応用問題の方は、〈ことば〉的想像力を用いればよくて楽。身体的にごく自然な動作をしている感触。なので間違うことはまず、ない。勘違いはあったとしても。

これまで、家庭教師などで応用問題を苦手とする者の勉強を見た経験はあるけれども、その際にも、基本⇒易/応用⇒難の前提で向き合っていた。応用問題を解くことができない者は、能力が不足しているのだと考えていた。しかし、そうした態度では、しっかりと相手に向き合うことができていなかったのかもしれない。相手は苦しいやり方で苦労しているのに、それは見過ごして、自分は楽なやり方をやっていたのかもしれない。教える立場でありながら楽な方法は教えず、自分の能力を誇示してみせるようなことをしていたのかもしれない。

そう思って思い返してみれば、微妙な「教える」という行為に微妙な違和感を抱き続けていたことを思い出す。正解を求めて、相手を誘導するという感じ。誘導できると達成感があるが、相手の手を放すとまた迷ってしまい、問題を解くことが出来ない。このときの落胆。違和感。目隠しをした者でも手を引けば誘導できるが、放せばまた迷うのは道理だ。相手は目が見えないのではない。目隠しをされてしまっているだけ。手を引くのではなく、目隠しを外すべきだったのではなかったか。

  ********

つづく。

自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための 前編

先日、8月4日。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


を受講してきた。当記事はその感想文だが、さて、どのように綴ったものか。たった90分ほどの講義だったけれども、とても楽しく、とても面白く、そう簡単に整理ができない。整理をするのがもったいない。私は以前は読書で、ここ半年はそれに加えて動画や講演、コンポジウムといった形で“安冨歩体験”をしてきたが、今回はそのなかでも、もっとも楽しい体験だったと言ってよい。

それはなぜか、と、まずその理由を考えてみた。

「魂の脱植民地化」を唱える安冨理論は、魂そのものは研究できないが、魂を抑圧するものは厳密に検証することができるという立場に立つ。なので勢い、論じるところは「抑圧」になる。それは興味深く刺激的ではあっても、やはり「抑圧」についての話であるから、憂鬱さを伴うことは避けることが出来ない。その典型は、新著『幻影からの脱出』の4章で語られている「世界の発狂」。面白く読むことは出来ても、楽しく読むことはできない。

その点でいえば、アメーバブログの方の『マイケル・ジャクソンの思想』は、M・Jという「自由な魂」の紹介だから、面白くかつ楽しい。で、今回の講義は、「藤浩志」という自由な魂の紹介。それもライブ。面白くかつ楽しいのは道理なのだ。

自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための講義。

細かな点にこだわっておくと、「講義」はレクチャーというよりインタープリテーションというべきものだったと思う。授業というより仲介。私を含め参加者の多くは藤浩志のことを事前にしらなかったので、授業的要素は少なからずあったけれども、中核部分は「仲介」であったと思う。少なくとも私はそのように思ったし、だから楽しいと感じたわけだ。

  ***

では、藤浩志さんは、どのように自由なのか。そこを語るには、まず「不自由」を語らなければならない。自由は自由であるとしかいうことが出来ない性質のものだから。

安冨先生がまずレクチャーしたのは、ネットが発達して以来とみに耳にする「リテラシー」という概念だった。リテラシーの意味するところは、“わかっていないことをわかっている”こと。言い換えると、“枠組みがあることをわかっていること”。

世の中の現象は本来、分割できない連続のもの。しかし、人間の認知とは、本来分割できないはずのものを何らかの形で分割・線引きすることである。この分割は恣意的だが、その恣意こそが「枠組み」になる。

古典芸術は「形式」が前提になっている。形式は「枠組み」だが、それが広く共有されているうちは恣意とはみなされない。現代芸術はその共有に疑問をもつことからスタートする。形式への疑問を恣意的な「枠組み」とし、その「枠組み」を破壊することが芸術行為だとした、恣意的芸術。それが「進化」していくと、共有され破壊されるべき形式はなくなり、恣意的に「枠組み」を見出し破壊すること、恣意から恣意へという自己満足が芸術行為になってしまう。あるいはリテラシーを持っていることを示威するためのデモンストレーションが芸術行為となってしまう。

そうしたものから自由なのが、藤浩志さんなのだという。恣意というのは自らの内にある作為であり、作品を創造する際には欠かせないにも関わらず、その作為をできる限り彫琢しなければならないという厄介なものだが、そこを「OS的表現」という形で棚上げしてしまった。「OS」とはWindowsに代表される、OSである。

だから、藤浩志さんの作品には恣意が感じられない。感じられないということは、作品が鑑賞の対象ではない、ということだ。作品には作家の恣意が込められ、その作為が如何に彫琢されているかが鑑賞され評価の対象になるのだが、そこが棚上げされているために、鑑賞するにもしようがない。従って、藤浩志さんの個々の作品はすごくないし、そもそも作品と呼んでよいのかどうかすら定かでない。

その代わりに引き出されてくるのが、鑑賞者の恣意である。「OS的」の意味するところは、鑑賞する側の恣意のプラットホームになるということ。鑑賞者が藤浩志の作品を見ることで何らかの恣意を感じたら、藤浩志さんの勝ちになる。

例えば、こんな作品。


これを見て、「あ、ちびまる子ちゃんだ。ちびまる子を好きな○○に見せてみたいな。おしゃべりしてみたいな」と思ったら、藤浩志さんの勝ち。

  ****

だからなんなのだ? と思われる方も多かろう。それは確かに自由ではあるだろうけれども、そんな自由のどこが楽しいのか、と。「藤浩志の作品」として見る限り、その疑問は湧き起こる。そんな自由はちっぽけなものでしかないし、なによりそこに魂は感じられない。

彼の作品は「わらしべ長者」のように、老松のぬいぐるみや、鴨川の中の鯉のぼり、ゴジラとハニワの結婚式といった学生時代の作品から始まって、彼自身の人生の転がり具合のなかで、人々との交歓=交換を繰り返し、かえっこしながら、どんどん膨らんでいく感じがします。その行き当たりばったりの、波乗りファンタジーの生み出した、お伽話としての作品の数々を、皆さんと楽しんでみたいと思います。


この文章は上記リンクからのものだが、ここに書かれているように、藤浩志さんの作品は“どんどん膨らんでいく”「藤浩志」という作品の一部であり、作品としての魂は「藤浩志」にある。作品のワンピースが「藤浩志」と繋がり、そのワンピースに何らかの恣意を感じることが「藤浩志」という作品をさらに膨らませることだと理解したとき、感知することができなかった面白さが湧き上がってくる。しかも藤浩志さんの“行き当たりばったり”こそ、「自由な魂」の発露。行き当たったものに対して既成の観念を適用せず、ただ自分の感性に従って膨らませてきた。

そうして膨らませてきた成果の表れのひとつが、これ。


といって、これもまた、だからなんなのだ? だろう。この大量の使い捨ておもちゃが何を意味するのか。

これらはすべてアーティストの藤 浩志さんが考案した、おもちゃを交換するシステム「かえっこ」によって藤さんのもとに集まってきたもの。2000年に始まった「かえっこ」は、子供たちがいらなくなったおもちゃを持ち寄り、子供たち自身がおもちゃの価値(ポイント)を査定して、もらったポイントに応じて好きなおもちゃと交換できる仕組み。13年間で国内外1,000カ所、5,000回以上にわたって開催し、各地域の市民が主導するコミュニティプロジェクトに発展している。


これは画像のリンク先から引用。では、「かえっこ」とは何か。紹介HPページはこちら(アイコンをクリック)。


What's kaekko? かえっこってなに?

かえっこはいらなくなったおもちゃを使って地域に様々な活動を作り出すシステムです。

かえっこでは「カエルポイント」という世界共通の(?)「子ども通貨」(遊びの通貨)を使います。

子どもたちが遊びの中で自主的に、自由な活動を実施し、地域社会に新しい活動が芽生えるといいですね。

かえっこによってそれぞれの地域活動がつながってゆくともっといいですね。


かえっこの参加資格

子どもの心を持った人。

× 大人の価値観を押し付けようとする人に参加資格はありません。


余計に何が面白いのか、わけがわからなくなってしまうかもしれない。

  *****

実はここまでは、かなりイジワルな構成になっている。大人が大人の頭で理解しようとすれば、ますます何が面白いのかさっぱりわけがわからなくなるようにと思いつつ、文章や引用を構成している。というより、そうするほかに上手い方法が見つからない。

「かえっこ」は子どもの心のための場である。私には、まだ子どもの心をほんの少しだけの子どもの心が残っているつもりがあるけれども、残念ながら、その心をそのままに表出できる技法を持ち合わせていない。そうでなくても理屈を並べる私の文章では、子どもの心は表出できない。

できるのは、大人の文章で表出できない子どもの心を想像してもらうことだけ。子どもたちが「かえっこ」を面白いと感じるのは事実であり、その証拠に2000年以来、5000回以上も開催されているという。さらにその証拠が物語るのは、「かえっこ」を面白いと感じる子どもの心を持った大人が少なからず存在すること。いくら面白いといっても子どもにイベントが開催できるはずもなく、大人が面白いと感じなければ5000回以上も継続するはずがない。

とするならば、大人の文章で表出できない子どもの心も、大人が子どもの心を保持しているならば、想像できなくはないはずだ。そして想像がそこへ至ったのなら、

それにしても、なぜこんなにおもちゃが集まるのか。それは藤さんの自問であり、鑑賞者一人ひとりに対して投げかけられる問いでもある。本展では、「かえっこ」の13年を辿ると同時に、「かえる(変える、還る、換える、買える)」をテーマに、膨大なおもちゃを素材としたインスタレーションやワークショップ、サイレント・オークションなどを行う。来場者が実際におもちゃに触れることで、大人も子供も小さな違和感に向き合い、意識や関係をそれぞれに「かえる」きっかけになることを狙う。


という、大人としての狙いも理解できるだろうし、さらには

世の中を根本から変えるには大きなビジョンを打ち出すよりも、小さな活動が連鎖して、つながっていく仕組み、プラットフォームをつくっていかなければ。美術という力でそれを推進していきたい


という藤浩志さんの言葉も理解できよう。この言葉の出所はまぎれもなく健全な「大人の心」だが、その心はまた「子どもの心」を大切にすることに重なっている。これを「自由な魂」と言わずしてなんと言おうか。

  ******

長くなるので、後編へ続くことにする。

〈ことば〉が〈私〉を形作っている (6)

『〈私〉とは複合感覚である』とタイトルして記事を5つ書いてみたが、続きの本記事からはタイトルを変更。

「〈ことば〉が〈私〉を形作っている」の意味するところは、「〈私〉とは複合感覚である」とほぼ同じ。〈ことば〉というのが複合感覚であり、〈私〉とは、複合感覚である〈ことば〉が統合されたものだからである。

わかりにくいかもしれない。書いている私自身も、実はよくわかっていない。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電灯の
  ひとつの青い照明です
   (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電灯のひとつの青い照明です 
   (ひかりはたもち、その電灯は失はれ)


上は宮沢賢治の「春と修羅序」の冒頭部分だが、イメージとしてあるのは、これ。「わたくしという現象」が〈私〉。あらゆる透明な幽霊の複合体。この「幽霊」というのが〈ことば〉であり、その〈ことば〉もまた、せわしく明滅する現象。

人間のもつ五感は五色の電灯。五色の電灯が組み合わさって〈ことば〉というひとつの照明が出来上がる。五色の光が明滅する〈ことば〉。そのような無数の〈ことば〉がさらに組み合わさって〈私〉という照明を形作っている。そんなイメージ。

〈ことば〉に対して、私は【ことば】という表現も用いている。〈ことば〉が明滅する現象であるとすると、【ことば】は確定した存在。いま、私のこの文章を読んでくださっている読者の方の視覚に跳び込んでいるのは【ことば】である。PCモニターに表示されている文字は物理的にいえば現象でしかないはずだが、人間はそれを存在と認識する。が、存在としての【ことば】が、読者の内に入ると、それは〈ことば〉という精神的現象になる。

  ***

話はまたしても、あっちを向いて飛んでいく。



これは藤浩志さんという方の『トイザウルス』という作品なんだそうだ。私は藤浩志というような名前も作品も、つい先日までまったく知らなかった。知ったのは、安冨先生つながりから。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


といった催しがあることを知って藤浩志という名をはじめて知り、上の画像をグーグルで検索してきて貼り付けた。

私から見て、『トイザウルス』はよくわからない。作品名と視覚的な形状から、恐竜、それもティラノザウルスを模していることはわかる。けれど、何が面白いのは、さっぱりわからない。

上の画像は、広い意味での【ことば】である。それが私の視覚を経由して私の内に入って〈ことば〉になるわけだが、『トイザウルス』という〈ことば〉に複合してくる感覚が何もないから、〈私〉には統合されない。宙ぶらりんの〈ことば〉として『トイザウルス』はある。そんなものが面白いはずない。

  ****

【緊急企画】のページには藤浩志さんのブログ記事へのリンクが貼られている。

 AIT企画の「環境・術」での「ファンタジー」トーク(Report 藤浩志企画制作室)

これが面白い。といって、私は記事の内容が理解できるわけではない。

イメージの連鎖の話をするうちに、安冨さんが「それはファンタジーですね」と切り込んでくる。

まさか自分の表現をファンタジーと呼ばれるとは・・・。

とっさにその言葉に対して、どちらかといえば拒否反応を抱いたが、よく考えてみるとじわじわと染みてくる。


記事の核心部分は安冨先生が藤浩志さんの作品を「ファンタジー」と呼んだことにあるようなのだが、何がどうファンタジーなのか、その文脈は私にはさっぱり見えない。だから、内容を理解しようとしても、さっぱり面白くない。私が面白いと感じていることと、「ファンタジー」の意味するところとはまったく関連はない。関連できるだけの材料を私は持っていないのだから。

面白いと感じるのは、「ファンタジー」という【ことば】を藤さんが自身の内に取り込んでいって、藤さん自身の〈ことば〉にしていったことを読み取ることができるから。そして、安冨先生は、それを狙い澄まして「ファンタジー」ということばを放ったのだということが、(藤さんの主観を通して)わかるから。

・・・つまり言葉にできなかった物事をそれぞれがそれぞれの経験の中でそれぞれの方法で言語化し、それなりに経験を重ねているので、・・・


それぞれの方法で言語化するということが、【ことば】を〈ことば〉にするということだ。

  *****

学者とは、「ことば」を操ることを生業とする人種だと言っていいだろう。そして、我々の漠然とした学者のイメージでは、学者が操るのは【ことば】である。【ことば】には「箱システム」がよく適合する。
(「箱システム」については、前記事参照。)

安冨先生が操る「ことば」は、〈ことば〉である。だから、一般的な学者のイメージでいると裏切られることになる。学者でありながら「箱(≒専門)」がないと言っていい。当人もそういっておられる。あるのは、安冨歩という〈私〉(≒人格)だけ。

だから「魂の脱植民地化」などといった、一般的な学者のイメージからすると奇妙なことを唱えることになるのだろう。「魂の脱植民地化」とは、平たくいえば、私は〈私〉なのであり、他人や「箱」に囚われる必要ないのだ、ということ(だと思っている)。

  ******

私は、明日行なわれるという上記イベントに行ってみるつもりでいる。予約もした。

抱いている期待は、お気に入りのミュージシャンの新曲を聴きに行くようなもの、といえばいいだろうか。安冨先生はお気に入りのミュージシャン。藤浩志さんのことは私は何も知らないから、新曲である。どんな〈ことば〉を奏でてくれるのか。

ミュージシャン、アーティスト、芸術家。そういった人種は、〈私〉を表現するものと言っていいだろう。安冨先生にとって学者であるということは、マイケル・ジャクソンがミュージシャンであることと同じと言っていいだろうと思う。それが学者であるかミュージシャンであるかの違いだけ。

学者が操るのは〈ことば〉である。ミュージシャンなら音楽になるのだろうが、音楽も広い意味では〈ことば〉になる。〈私〉を構成するパーツという意味での〈ことば〉。

〈私〉とは複合感覚である (5)

健全な感覚に裏打ちされない〈ことば〉の複合によって成り立っている〈私〉。この不十分な〈私〉は、常に判断に迷うために不安に苛まれている――というのが、(4)までの話だった。

そうした不十分な〈私〉は、不安を打ち消すために【ことば】への依存を深めていくことになる。自らの判断を自らの感覚に拠るのではなく、外部に頼る。他人の判断。体系化された知識。自分の判断の不安を打ち消す拠り所を探そうとする。

  ***

話は飛んで、ここで林業の作業の話をしたい。間伐の話。

間伐とは人工林を構成する樹木を間引きする作業。樹木が生長していくにつれて過密化してしまう林地を適当な密度にし、健全な林の発育を促す。実際の作業においては間伐率といった用語があって、通常間伐率30%というと、本数にして3割の木を間引きする、ということを意味する。(材積で間伐率を表わすこともあるが、ほとんど本数。)

ここに、30%という間伐率で施業する林地があるとする。難しいのはこの30%をどのように選ぶかということ。30%というが、実際はこのような数字は単なる目安に過ぎず、きっちり数を数えて3割を伐るというようなことをしない。密集化して息苦しく感じられる林を、感覚的にスッキリしたものにする。密集具合と3割という数字からスッキリ具合を想像して、適当に伐っていくというのが実際の所。そして、どの木を伐ればよいのか、明確な基準は存在しない。

初心者が躓くのがここのところ。基準がないということ。もちろん大まかな基準はある。途中で折れたり曲がったりしている障害木。生長が遅い劣勢木。こういったものはすぐ判別できるのでいいが、密集具合からするとどれかを伐らなければならないが、優劣の判断を付けがたいところが出てくる。そのような時の判断。これが下せない。

こういった時に私が言うのは、「伐りたい方を伐れ」である。私だけではない。経験を積んだ者なら多くの者が同じように言う。面白いのはそのように言われた初心者の反応。みなそれぞれ違いがある。

大別すると、「ああ、それでいいんですか。」とすぐに納得する者。そう言われてもなかなか納得できない者。後者は不安な人間である。納得が早い者ほど、感覚的にしっかりしているというのが、私自身の体験的法則。

不安な者は、いくら理詰めで説明しても不安が解消されることはない。木の本数、並びなどの客観的状況から推して、これかこれのどちらか。率からいうと、両方というわけにはいかない。見ても優劣の判別はつかないから、伐るオマエが好きな方を伐れ。そのように言ってもダメ。自身で判断することを怖れ、判断を委ねようとしてくる。

  ****

上の話に納得がいかない人もいるだろう。感覚的に判断がつかないのだから、判断に不安を抱くのは当然のはずではないか、と。それはその通りなのだが、そういう人もまた、自身の判断に不安を抱いている人間だと私は推測することになる。

自分の感覚に従って、感覚的に判別がつかない場合でも「勘」といったようなものに従って判断を下すことが出来るような者を判別する、別の見方がある。それは車の運転を観察してみること。特にマニュアル・ミッションの車が具合がいい。作業に使う車は大抵そうだ。

車を運転するというのは、感覚的な判断の連続である。例えばカーブに入るとき。適切なブレーキ、スピード。どこでギアを入れ替えるか。カーブの連続する山道を登っていくような時。判断が適切な、つまり運転の上手な者だと、エンジンの回転数に注目してみていると、比較的安定しており、スムースな運転をする。対して下手な者は、回転数のブレが大きい。ギクシャクした動きになる。

そして。運転の上手い者は大抵、「伐りたい方を伐れ」で素直に納得出来る。運転の下手な者ほど納得が遅い。「偏差値」が高かったりすると、その傾向に拍車がかかる。

車の運転の上手下手に「偏差値」はまったく関係はない。「伐りたい方を伐れ」の納得の早さにも基本的には関係がない。ただ、「偏差値」の高さは遅くなる方向を助長する傾向はあるように感じる。それは「偏差値」の高い人間ほど、理(というよりも屁理屈)へと逃げる能力が長けているからだろうと思っている。自分の感性よりも、外部の客観的な状況を判断の基準にしようとする傾向が強く、またその能力に長けている。長けているからこそ、そちらを尊重したがることになるのだろう。

ついでに言うと、「伐りたい方を伐れ」の納得の早さは、危険回避能力と高さと相関していると私は感じている。自分の感覚に不安のない者ほど、危険な状況に陥ったとき(林業の作業ではそういった場面にしばしば出くわす)の判断が早く、的確。きっちりデータを取っているわけではないから、それこそ私の感覚的な話でしかないけれども、初心者を見るときには、そういったところを見ている。事故がなによりも怖いから。

幻影からの脱出  *****

さて、もう一段、話は飛ぶ。

安冨先生の新著はすでに紹介した。その記事で私は、本書の「読み方」を

 Don't think.FEEL!

だとしたわけだが、このことと自分の感覚に不安がないということとは関連する。紹介記事でも取り上げた「芋づる式」の部分だ。

これに対して私の頭は「芋づる式」です。私は何かを考えようとすると、それに関連する知識が、ズルズルと出てくる構造になっています。その「関連」というのは、「同じ箱」とか「隣の箱」とかではありません。なんとなく、感覚で繋がっているものが出てきます。(p.40)


もし、感覚に不安があるなら、たとえ感覚で繋がって出てきたとしても、それをそのまま表出することに不安を憶えるはずだ。不安を憶えたなら、その不安を読者に察知されないように、また自身にも隠蔽するよう、装飾を施すことになる。そうした装飾に適しているのが「箱システム」。つまり体系化された自身の外部の知識である。

 自分の身体感覚に沿って思考し、理解していくと、身体感覚に合わない部分には、体が反応して拒絶します。この部分が私にとって最も重要な部分です。この拒絶には二つ理由が考えられます。一つは、書かれていることが間違っている、という可能性です。もう一つは、自分自身の中に何らかの精神的な傷があって、そこに書かれていることを理解しようとすると、傷が疹く、という可能性です。
 前者の場合、その部分に意識を集中して考えると、どこがどう間違っているのかやがて解明されます。それに対して、後者の場合、考えようとしてもどうしても考えられず、頭が真っ白になります。それを私は「盲点」と呼んでいます。こういう場合には、なぜ盲点になっているのか、よく考える必要がありますが、考えようとしてもなかなかうまくいかないのが特徴です、いずれの場合でも、何かを理解しようとして真剣に文章を読むと、この身体の拒否反応によって立ち止まらざるを得ず、大いに時間が掛かります。
 これに対して、何でも素早く理解してみせる東大生の場合、こういった身体の拒否反応を感じないようになっているのだと、私は理解しています。そうなっていれば、身体に煩わされることなく、何でも書かれていることを、書かれているとおりに、ホイホイ理解して、記憶することが可能となります。
 同時にこういう人々は、何も理解しないのです。というのも、理解というものは、自分の考えの変化のことだからです。「ああ、そういうことか」という気づきによって、自分自身が変化するのが、人間の知るという過程であり、それこそが人生の最大の喜びだ、と私は思います。それには身体の感じる力が不可欠です。
 ところが、何でもかんでも理解して答えを出せる人には、こういう喜びがありません。なぜなら、そもそも自分がありませんから、変化のしようがないのです。彼らが「理解」だと思っているものは、自分自身の変化ではなく、「箱に入れる」ことだと私は考えています。(p.36~37)


知識を手際よく「箱に入れる」という芸当は、感覚的な不安を押し隠すのにもってこいであろう。そうした芸当に頼る必要がなく、このような指摘が出来てしまうということは、安冨先生には感覚的な不安はないのだ、と推測することができる。

「何でも書かれていることを、書かれているとおりに、ホイホイ理解して、記憶することが可能となる」。この記述は大変重要な指摘だ。私ならば“記憶する”を“記録する”と表現してみたいところだけれども、そう表現したくなるほどに、その“記憶”は機械的。〈ことば〉はさまざまな感覚の複合であり、〈ことば〉を“記憶”するということは、さまざまな感覚との繋がりを記憶することに他ならないわけだけれども、機械的な“記録”は、そうした繋がりとは無関係なもの。感覚と繋がらないから、身体の拒否反応を感じないのも当然のことだろう。

ここでもう一度、ガンディーのことばを引っ張ってこよう。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。

ここでいう“教える”というのは、文字の内部“記録”術のことではない。外部記録である文字を、自身の内部の〈ことば〉と複合させる、ということ。それに対して優秀な東大生のような者は感覚と繋がらない【ことば】を扱う芸当に長けていて、それがあまりにも見事なので、他人に対しても自分自身に対しても、ほぼ完全に装飾・隠蔽してみせることができる。その芸当を指して「東大話法」というのだろう。

  ******

【ことば】の扱いに長けているがゆえに、自身の〈ことば〉を持たないであろう優秀な東大生。そんな者に、一度間伐をさせてみたらどういったことになるのか。「伐りたい方を伐れ」にどのように反応するのか。大変興味深いと思うのだが、そのような機会には、残念ながら恵まれたことはない。

不安を隠蔽してしまって感じないのなら「伐りたいように伐れ」を素直に実行できるはずだが。

つづく。

〈私〉とは複合感覚である (4)

前回から時間が空いてしまって、何を言いたかったのかを忘れてしまった...

思い出してみる。

(1)で考えてみたのは、まず、〈ことば〉が複合感覚であるということ。そして、すべての〈ことば〉を統合している〈私〉もまた、複合感覚であるということ。

(2)では、「ラーメンは蕎麦である」と言明することの、感覚的な気持ち悪さについて。

(3)は、(2)との比較で「原発は安全」と言明することの気持ち悪さ、歪みについて書いてみるつもりだったが、話が別の方向へ行ってしまった。ということで、今回は(3)の仕切り直し。

なぜ「彼ら(原発推進派・東大話法話者)」は、「原発は安全」と言明しようとするのか。なぜ、健全な感覚を歪め、〈私〉を構成する〈ことば〉を歪めようとするのか。欺瞞の言語は他人に欺瞞的である以上に、自分自身に対する欺瞞である。

結論から先に言えば、それは「子ども時代」が奪われてしまったため、ということになる。
幻影からの脱出

私の考えでは、今日の世界が抱える問題は、都心部の犯罪から大規模な戦争やテロ、満員の刑務所に到るまで、子どもから子供時代が奪われてきた、という事実の結果に他なりません。子供の心に宿る魔法、不可思議、神秘、純真こそが、創造性の種子であり、それが世界を癒すのです。私は本当にそう信じます。

 私たちが子供から学ぶべきことは、子供っぽさではありません。子供と共にいることで、私たちは生命のより深い智慧へと導かれ、それは常にここにあり、生きられることのみを求めるのです。ここに、私たち自身の心のなかにあり、気づかれるべく待機している、解決策へと至る道があります。


この引用に出てくる「私」がマイケル・ジャクソンであることは言うまでもない。

人間が「子ども時代」に養うものは、健全な感性。五感である。

「ナイー・タリム」はその原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。
 もっと画期的なのは、「そもそも子供のためのシラバス自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだ」としたところだ。これがすばらしい。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。
 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。


この引用も、何度も取り上げた。松岡正剛千冊千夜第1393夜『ガンディーの経済学』の記述から。「ナイー・タリム」とは、ガンディーが始めた“新しい教育”という意味だそうだ。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。ガンディーが自身をもって書いたというこのセンテンスの意味を、私なりに書き直してみると、「子どもが〈ことば〉を修得するよりも先に、【ことば】を教えてはいけない」となろうか。

小麦と籾殻を子どもが区別できるようになる。それは健全な五感の働きの結果として、小麦と籾殻の区別がつくようになったということ。つまり、子どものなかに〈小麦〉〈籾殻〉という〈ことば=複合感覚〉が生成されたということ。

これに先んじて【小麦】【籾殻】という【ことば=文字】を教えてしまうと、どうなるか。「子ども時代」が奪われてしまうことになる。小麦と籾殻の区別が感覚によってなされるより先に、大人の【知識】によって与えられてしまう。発見は一度きりだから、子どもは二度と「区別」を発見することが出来ない。

  ***

【ことば=文字】とは、記録である。記憶ではない。この違いは重要だ。

〈ことば〉は記憶である。そして〈ことば〉とは複合感覚だから、〈ことば〉の記憶にはさまざまな感覚の記憶が複合されて残っている。対して【ことば=文字】は記録であるから、つまり、感覚とは無関係な(視覚は関係するが)外部のものであるから、【ことば=文字】から感覚が呼び起こされることはない。〈ことば〉よりも先に【ことば】を教えてしまうことは、健全な感覚の発達の機会を奪ってしまうことになる。

といって、「子ども時代」を奪われてしまった子どもが、〈私〉を〈ことば〉の複合によって生成しないのかというと、そうではない。ただし、〈私〉を構成する〈ことば〉は、感覚的に未発達な不十分な〈ことば〉でしかない。〈私〉は健全な感覚に裏打ちされていない、不十分な〈私〉でしかなくなってしまう。

常に感覚的に区別を為すことが出来る人間は判断に迷うことがない。不十分な〈私〉でしかない人間は、感覚的に判断がつくことが少ないから、常に迷うことになる。常に迷う人間は不安である。「子ども時代」を奪われてしまうと、出来上がってしまうのは不安に苛まれる大人ということになる。

  ****

つづく。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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