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愚慫空論

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自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための 前編

先日、8月4日。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


を受講してきた。当記事はその感想文だが、さて、どのように綴ったものか。たった90分ほどの講義だったけれども、とても楽しく、とても面白く、そう簡単に整理ができない。整理をするのがもったいない。私は以前は読書で、ここ半年はそれに加えて動画や講演、コンポジウムといった形で“安冨歩体験”をしてきたが、今回はそのなかでも、もっとも楽しい体験だったと言ってよい。

それはなぜか、と、まずその理由を考えてみた。

「魂の脱植民地化」を唱える安冨理論は、魂そのものは研究できないが、魂を抑圧するものは厳密に検証することができるという立場に立つ。なので勢い、論じるところは「抑圧」になる。それは興味深く刺激的ではあっても、やはり「抑圧」についての話であるから、憂鬱さを伴うことは避けることが出来ない。その典型は、新著『幻影からの脱出』の4章で語られている「世界の発狂」。面白く読むことは出来ても、楽しく読むことはできない。

その点でいえば、アメーバブログの方の『マイケル・ジャクソンの思想』は、M・Jという「自由な魂」の紹介だから、面白くかつ楽しい。で、今回の講義は、「藤浩志」という自由な魂の紹介。それもライブ。面白くかつ楽しいのは道理なのだ。

自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための講義。

細かな点にこだわっておくと、「講義」はレクチャーというよりインタープリテーションというべきものだったと思う。授業というより仲介。私を含め参加者の多くは藤浩志のことを事前にしらなかったので、授業的要素は少なからずあったけれども、中核部分は「仲介」であったと思う。少なくとも私はそのように思ったし、だから楽しいと感じたわけだ。

  ***

では、藤浩志さんは、どのように自由なのか。そこを語るには、まず「不自由」を語らなければならない。自由は自由であるとしかいうことが出来ない性質のものだから。

安冨先生がまずレクチャーしたのは、ネットが発達して以来とみに耳にする「リテラシー」という概念だった。リテラシーの意味するところは、“わかっていないことをわかっている”こと。言い換えると、“枠組みがあることをわかっていること”。

世の中の現象は本来、分割できない連続のもの。しかし、人間の認知とは、本来分割できないはずのものを何らかの形で分割・線引きすることである。この分割は恣意的だが、その恣意こそが「枠組み」になる。

古典芸術は「形式」が前提になっている。形式は「枠組み」だが、それが広く共有されているうちは恣意とはみなされない。現代芸術はその共有に疑問をもつことからスタートする。形式への疑問を恣意的な「枠組み」とし、その「枠組み」を破壊することが芸術行為だとした、恣意的芸術。それが「進化」していくと、共有され破壊されるべき形式はなくなり、恣意的に「枠組み」を見出し破壊すること、恣意から恣意へという自己満足が芸術行為になってしまう。あるいはリテラシーを持っていることを示威するためのデモンストレーションが芸術行為となってしまう。

そうしたものから自由なのが、藤浩志さんなのだという。恣意というのは自らの内にある作為であり、作品を創造する際には欠かせないにも関わらず、その作為をできる限り彫琢しなければならないという厄介なものだが、そこを「OS的表現」という形で棚上げしてしまった。「OS」とはWindowsに代表される、OSである。

だから、藤浩志さんの作品には恣意が感じられない。感じられないということは、作品が鑑賞の対象ではない、ということだ。作品には作家の恣意が込められ、その作為が如何に彫琢されているかが鑑賞され評価の対象になるのだが、そこが棚上げされているために、鑑賞するにもしようがない。従って、藤浩志さんの個々の作品はすごくないし、そもそも作品と呼んでよいのかどうかすら定かでない。

その代わりに引き出されてくるのが、鑑賞者の恣意である。「OS的」の意味するところは、鑑賞する側の恣意のプラットホームになるということ。鑑賞者が藤浩志の作品を見ることで何らかの恣意を感じたら、藤浩志さんの勝ちになる。

例えば、こんな作品。


これを見て、「あ、ちびまる子ちゃんだ。ちびまる子を好きな○○に見せてみたいな。おしゃべりしてみたいな」と思ったら、藤浩志さんの勝ち。

  ****

だからなんなのだ? と思われる方も多かろう。それは確かに自由ではあるだろうけれども、そんな自由のどこが楽しいのか、と。「藤浩志の作品」として見る限り、その疑問は湧き起こる。そんな自由はちっぽけなものでしかないし、なによりそこに魂は感じられない。

彼の作品は「わらしべ長者」のように、老松のぬいぐるみや、鴨川の中の鯉のぼり、ゴジラとハニワの結婚式といった学生時代の作品から始まって、彼自身の人生の転がり具合のなかで、人々との交歓=交換を繰り返し、かえっこしながら、どんどん膨らんでいく感じがします。その行き当たりばったりの、波乗りファンタジーの生み出した、お伽話としての作品の数々を、皆さんと楽しんでみたいと思います。


この文章は上記リンクからのものだが、ここに書かれているように、藤浩志さんの作品は“どんどん膨らんでいく”「藤浩志」という作品の一部であり、作品としての魂は「藤浩志」にある。作品のワンピースが「藤浩志」と繋がり、そのワンピースに何らかの恣意を感じることが「藤浩志」という作品をさらに膨らませることだと理解したとき、感知することができなかった面白さが湧き上がってくる。しかも藤浩志さんの“行き当たりばったり”こそ、「自由な魂」の発露。行き当たったものに対して既成の観念を適用せず、ただ自分の感性に従って膨らませてきた。

そうして膨らませてきた成果の表れのひとつが、これ。


といって、これもまた、だからなんなのだ? だろう。この大量の使い捨ておもちゃが何を意味するのか。

これらはすべてアーティストの藤 浩志さんが考案した、おもちゃを交換するシステム「かえっこ」によって藤さんのもとに集まってきたもの。2000年に始まった「かえっこ」は、子供たちがいらなくなったおもちゃを持ち寄り、子供たち自身がおもちゃの価値(ポイント)を査定して、もらったポイントに応じて好きなおもちゃと交換できる仕組み。13年間で国内外1,000カ所、5,000回以上にわたって開催し、各地域の市民が主導するコミュニティプロジェクトに発展している。


これは画像のリンク先から引用。では、「かえっこ」とは何か。紹介HPページはこちら(アイコンをクリック)。


What's kaekko? かえっこってなに?

かえっこはいらなくなったおもちゃを使って地域に様々な活動を作り出すシステムです。

かえっこでは「カエルポイント」という世界共通の(?)「子ども通貨」(遊びの通貨)を使います。

子どもたちが遊びの中で自主的に、自由な活動を実施し、地域社会に新しい活動が芽生えるといいですね。

かえっこによってそれぞれの地域活動がつながってゆくともっといいですね。


かえっこの参加資格

子どもの心を持った人。

× 大人の価値観を押し付けようとする人に参加資格はありません。


余計に何が面白いのか、わけがわからなくなってしまうかもしれない。

  *****

実はここまでは、かなりイジワルな構成になっている。大人が大人の頭で理解しようとすれば、ますます何が面白いのかさっぱりわけがわからなくなるようにと思いつつ、文章や引用を構成している。というより、そうするほかに上手い方法が見つからない。

「かえっこ」は子どもの心のための場である。私には、まだ子どもの心をほんの少しだけの子どもの心が残っているつもりがあるけれども、残念ながら、その心をそのままに表出できる技法を持ち合わせていない。そうでなくても理屈を並べる私の文章では、子どもの心は表出できない。

できるのは、大人の文章で表出できない子どもの心を想像してもらうことだけ。子どもたちが「かえっこ」を面白いと感じるのは事実であり、その証拠に2000年以来、5000回以上も開催されているという。さらにその証拠が物語るのは、「かえっこ」を面白いと感じる子どもの心を持った大人が少なからず存在すること。いくら面白いといっても子どもにイベントが開催できるはずもなく、大人が面白いと感じなければ5000回以上も継続するはずがない。

とするならば、大人の文章で表出できない子どもの心も、大人が子どもの心を保持しているならば、想像できなくはないはずだ。そして想像がそこへ至ったのなら、

それにしても、なぜこんなにおもちゃが集まるのか。それは藤さんの自問であり、鑑賞者一人ひとりに対して投げかけられる問いでもある。本展では、「かえっこ」の13年を辿ると同時に、「かえる(変える、還る、換える、買える)」をテーマに、膨大なおもちゃを素材としたインスタレーションやワークショップ、サイレント・オークションなどを行う。来場者が実際におもちゃに触れることで、大人も子供も小さな違和感に向き合い、意識や関係をそれぞれに「かえる」きっかけになることを狙う。


という、大人としての狙いも理解できるだろうし、さらには

世の中を根本から変えるには大きなビジョンを打ち出すよりも、小さな活動が連鎖して、つながっていく仕組み、プラットフォームをつくっていかなければ。美術という力でそれを推進していきたい


という藤浩志さんの言葉も理解できよう。この言葉の出所はまぎれもなく健全な「大人の心」だが、その心はまた「子どもの心」を大切にすることに重なっている。これを「自由な魂」と言わずしてなんと言おうか。

  ******

長くなるので、後編へ続くことにする。

〈ことば〉が〈私〉を形作っている (6)

『〈私〉とは複合感覚である』とタイトルして記事を5つ書いてみたが、続きの本記事からはタイトルを変更。

「〈ことば〉が〈私〉を形作っている」の意味するところは、「〈私〉とは複合感覚である」とほぼ同じ。〈ことば〉というのが複合感覚であり、〈私〉とは、複合感覚である〈ことば〉が統合されたものだからである。

わかりにくいかもしれない。書いている私自身も、実はよくわかっていない。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電灯の
  ひとつの青い照明です
   (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電灯のひとつの青い照明です 
   (ひかりはたもち、その電灯は失はれ)


上は宮沢賢治の「春と修羅序」の冒頭部分だが、イメージとしてあるのは、これ。「わたくしという現象」が〈私〉。あらゆる透明な幽霊の複合体。この「幽霊」というのが〈ことば〉であり、その〈ことば〉もまた、せわしく明滅する現象。

人間のもつ五感は五色の電灯。五色の電灯が組み合わさって〈ことば〉というひとつの照明が出来上がる。五色の光が明滅する〈ことば〉。そのような無数の〈ことば〉がさらに組み合わさって〈私〉という照明を形作っている。そんなイメージ。

〈ことば〉に対して、私は【ことば】という表現も用いている。〈ことば〉が明滅する現象であるとすると、【ことば】は確定した存在。いま、私のこの文章を読んでくださっている読者の方の視覚に跳び込んでいるのは【ことば】である。PCモニターに表示されている文字は物理的にいえば現象でしかないはずだが、人間はそれを存在と認識する。が、存在としての【ことば】が、読者の内に入ると、それは〈ことば〉という精神的現象になる。

  ***

話はまたしても、あっちを向いて飛んでいく。



これは藤浩志さんという方の『トイザウルス』という作品なんだそうだ。私は藤浩志というような名前も作品も、つい先日までまったく知らなかった。知ったのは、安冨先生つながりから。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


といった催しがあることを知って藤浩志という名をはじめて知り、上の画像をグーグルで検索してきて貼り付けた。

私から見て、『トイザウルス』はよくわからない。作品名と視覚的な形状から、恐竜、それもティラノザウルスを模していることはわかる。けれど、何が面白いのは、さっぱりわからない。

上の画像は、広い意味での【ことば】である。それが私の視覚を経由して私の内に入って〈ことば〉になるわけだが、『トイザウルス』という〈ことば〉に複合してくる感覚が何もないから、〈私〉には統合されない。宙ぶらりんの〈ことば〉として『トイザウルス』はある。そんなものが面白いはずない。

  ****

【緊急企画】のページには藤浩志さんのブログ記事へのリンクが貼られている。

 AIT企画の「環境・術」での「ファンタジー」トーク(Report 藤浩志企画制作室)

これが面白い。といって、私は記事の内容が理解できるわけではない。

イメージの連鎖の話をするうちに、安冨さんが「それはファンタジーですね」と切り込んでくる。

まさか自分の表現をファンタジーと呼ばれるとは・・・。

とっさにその言葉に対して、どちらかといえば拒否反応を抱いたが、よく考えてみるとじわじわと染みてくる。


記事の核心部分は安冨先生が藤浩志さんの作品を「ファンタジー」と呼んだことにあるようなのだが、何がどうファンタジーなのか、その文脈は私にはさっぱり見えない。だから、内容を理解しようとしても、さっぱり面白くない。私が面白いと感じていることと、「ファンタジー」の意味するところとはまったく関連はない。関連できるだけの材料を私は持っていないのだから。

面白いと感じるのは、「ファンタジー」という【ことば】を藤さんが自身の内に取り込んでいって、藤さん自身の〈ことば〉にしていったことを読み取ることができるから。そして、安冨先生は、それを狙い澄まして「ファンタジー」ということばを放ったのだということが、(藤さんの主観を通して)わかるから。

・・・つまり言葉にできなかった物事をそれぞれがそれぞれの経験の中でそれぞれの方法で言語化し、それなりに経験を重ねているので、・・・


それぞれの方法で言語化するということが、【ことば】を〈ことば〉にするということだ。

  *****

学者とは、「ことば」を操ることを生業とする人種だと言っていいだろう。そして、我々の漠然とした学者のイメージでは、学者が操るのは【ことば】である。【ことば】には「箱システム」がよく適合する。
(「箱システム」については、前記事参照。)

安冨先生が操る「ことば」は、〈ことば〉である。だから、一般的な学者のイメージでいると裏切られることになる。学者でありながら「箱(≒専門)」がないと言っていい。当人もそういっておられる。あるのは、安冨歩という〈私〉(≒人格)だけ。

だから「魂の脱植民地化」などといった、一般的な学者のイメージからすると奇妙なことを唱えることになるのだろう。「魂の脱植民地化」とは、平たくいえば、私は〈私〉なのであり、他人や「箱」に囚われる必要ないのだ、ということ(だと思っている)。

  ******

私は、明日行なわれるという上記イベントに行ってみるつもりでいる。予約もした。

抱いている期待は、お気に入りのミュージシャンの新曲を聴きに行くようなもの、といえばいいだろうか。安冨先生はお気に入りのミュージシャン。藤浩志さんのことは私は何も知らないから、新曲である。どんな〈ことば〉を奏でてくれるのか。

ミュージシャン、アーティスト、芸術家。そういった人種は、〈私〉を表現するものと言っていいだろう。安冨先生にとって学者であるということは、マイケル・ジャクソンがミュージシャンであることと同じと言っていいだろうと思う。それが学者であるかミュージシャンであるかの違いだけ。

学者が操るのは〈ことば〉である。ミュージシャンなら音楽になるのだろうが、音楽も広い意味では〈ことば〉になる。〈私〉を構成するパーツという意味での〈ことば〉。

〈私〉とは複合感覚である (5)

健全な感覚に裏打ちされない〈ことば〉の複合によって成り立っている〈私〉。この不十分な〈私〉は、常に判断に迷うために不安に苛まれている――というのが、(4)までの話だった。

そうした不十分な〈私〉は、不安を打ち消すために【ことば】への依存を深めていくことになる。自らの判断を自らの感覚に拠るのではなく、外部に頼る。他人の判断。体系化された知識。自分の判断の不安を打ち消す拠り所を探そうとする。

  ***

話は飛んで、ここで林業の作業の話をしたい。間伐の話。

間伐とは人工林を構成する樹木を間引きする作業。樹木が生長していくにつれて過密化してしまう林地を適当な密度にし、健全な林の発育を促す。実際の作業においては間伐率といった用語があって、通常間伐率30%というと、本数にして3割の木を間引きする、ということを意味する。(材積で間伐率を表わすこともあるが、ほとんど本数。)

ここに、30%という間伐率で施業する林地があるとする。難しいのはこの30%をどのように選ぶかということ。30%というが、実際はこのような数字は単なる目安に過ぎず、きっちり数を数えて3割を伐るというようなことをしない。密集化して息苦しく感じられる林を、感覚的にスッキリしたものにする。密集具合と3割という数字からスッキリ具合を想像して、適当に伐っていくというのが実際の所。そして、どの木を伐ればよいのか、明確な基準は存在しない。

初心者が躓くのがここのところ。基準がないということ。もちろん大まかな基準はある。途中で折れたり曲がったりしている障害木。生長が遅い劣勢木。こういったものはすぐ判別できるのでいいが、密集具合からするとどれかを伐らなければならないが、優劣の判断を付けがたいところが出てくる。そのような時の判断。これが下せない。

こういった時に私が言うのは、「伐りたい方を伐れ」である。私だけではない。経験を積んだ者なら多くの者が同じように言う。面白いのはそのように言われた初心者の反応。みなそれぞれ違いがある。

大別すると、「ああ、それでいいんですか。」とすぐに納得する者。そう言われてもなかなか納得できない者。後者は不安な人間である。納得が早い者ほど、感覚的にしっかりしているというのが、私自身の体験的法則。

不安な者は、いくら理詰めで説明しても不安が解消されることはない。木の本数、並びなどの客観的状況から推して、これかこれのどちらか。率からいうと、両方というわけにはいかない。見ても優劣の判別はつかないから、伐るオマエが好きな方を伐れ。そのように言ってもダメ。自身で判断することを怖れ、判断を委ねようとしてくる。

  ****

上の話に納得がいかない人もいるだろう。感覚的に判断がつかないのだから、判断に不安を抱くのは当然のはずではないか、と。それはその通りなのだが、そういう人もまた、自身の判断に不安を抱いている人間だと私は推測することになる。

自分の感覚に従って、感覚的に判別がつかない場合でも「勘」といったようなものに従って判断を下すことが出来るような者を判別する、別の見方がある。それは車の運転を観察してみること。特にマニュアル・ミッションの車が具合がいい。作業に使う車は大抵そうだ。

車を運転するというのは、感覚的な判断の連続である。例えばカーブに入るとき。適切なブレーキ、スピード。どこでギアを入れ替えるか。カーブの連続する山道を登っていくような時。判断が適切な、つまり運転の上手な者だと、エンジンの回転数に注目してみていると、比較的安定しており、スムースな運転をする。対して下手な者は、回転数のブレが大きい。ギクシャクした動きになる。

そして。運転の上手い者は大抵、「伐りたい方を伐れ」で素直に納得出来る。運転の下手な者ほど納得が遅い。「偏差値」が高かったりすると、その傾向に拍車がかかる。

車の運転の上手下手に「偏差値」はまったく関係はない。「伐りたい方を伐れ」の納得の早さにも基本的には関係がない。ただ、「偏差値」の高さは遅くなる方向を助長する傾向はあるように感じる。それは「偏差値」の高い人間ほど、理(というよりも屁理屈)へと逃げる能力が長けているからだろうと思っている。自分の感性よりも、外部の客観的な状況を判断の基準にしようとする傾向が強く、またその能力に長けている。長けているからこそ、そちらを尊重したがることになるのだろう。

ついでに言うと、「伐りたい方を伐れ」の納得の早さは、危険回避能力と高さと相関していると私は感じている。自分の感覚に不安のない者ほど、危険な状況に陥ったとき(林業の作業ではそういった場面にしばしば出くわす)の判断が早く、的確。きっちりデータを取っているわけではないから、それこそ私の感覚的な話でしかないけれども、初心者を見るときには、そういったところを見ている。事故がなによりも怖いから。

幻影からの脱出  *****

さて、もう一段、話は飛ぶ。

安冨先生の新著はすでに紹介した。その記事で私は、本書の「読み方」を

 Don't think.FEEL!

だとしたわけだが、このことと自分の感覚に不安がないということとは関連する。紹介記事でも取り上げた「芋づる式」の部分だ。

これに対して私の頭は「芋づる式」です。私は何かを考えようとすると、それに関連する知識が、ズルズルと出てくる構造になっています。その「関連」というのは、「同じ箱」とか「隣の箱」とかではありません。なんとなく、感覚で繋がっているものが出てきます。(p.40)


もし、感覚に不安があるなら、たとえ感覚で繋がって出てきたとしても、それをそのまま表出することに不安を憶えるはずだ。不安を憶えたなら、その不安を読者に察知されないように、また自身にも隠蔽するよう、装飾を施すことになる。そうした装飾に適しているのが「箱システム」。つまり体系化された自身の外部の知識である。

 自分の身体感覚に沿って思考し、理解していくと、身体感覚に合わない部分には、体が反応して拒絶します。この部分が私にとって最も重要な部分です。この拒絶には二つ理由が考えられます。一つは、書かれていることが間違っている、という可能性です。もう一つは、自分自身の中に何らかの精神的な傷があって、そこに書かれていることを理解しようとすると、傷が疹く、という可能性です。
 前者の場合、その部分に意識を集中して考えると、どこがどう間違っているのかやがて解明されます。それに対して、後者の場合、考えようとしてもどうしても考えられず、頭が真っ白になります。それを私は「盲点」と呼んでいます。こういう場合には、なぜ盲点になっているのか、よく考える必要がありますが、考えようとしてもなかなかうまくいかないのが特徴です、いずれの場合でも、何かを理解しようとして真剣に文章を読むと、この身体の拒否反応によって立ち止まらざるを得ず、大いに時間が掛かります。
 これに対して、何でも素早く理解してみせる東大生の場合、こういった身体の拒否反応を感じないようになっているのだと、私は理解しています。そうなっていれば、身体に煩わされることなく、何でも書かれていることを、書かれているとおりに、ホイホイ理解して、記憶することが可能となります。
 同時にこういう人々は、何も理解しないのです。というのも、理解というものは、自分の考えの変化のことだからです。「ああ、そういうことか」という気づきによって、自分自身が変化するのが、人間の知るという過程であり、それこそが人生の最大の喜びだ、と私は思います。それには身体の感じる力が不可欠です。
 ところが、何でもかんでも理解して答えを出せる人には、こういう喜びがありません。なぜなら、そもそも自分がありませんから、変化のしようがないのです。彼らが「理解」だと思っているものは、自分自身の変化ではなく、「箱に入れる」ことだと私は考えています。(p.36~37)


知識を手際よく「箱に入れる」という芸当は、感覚的な不安を押し隠すのにもってこいであろう。そうした芸当に頼る必要がなく、このような指摘が出来てしまうということは、安冨先生には感覚的な不安はないのだ、と推測することができる。

「何でも書かれていることを、書かれているとおりに、ホイホイ理解して、記憶することが可能となる」。この記述は大変重要な指摘だ。私ならば“記憶する”を“記録する”と表現してみたいところだけれども、そう表現したくなるほどに、その“記憶”は機械的。〈ことば〉はさまざまな感覚の複合であり、〈ことば〉を“記憶”するということは、さまざまな感覚との繋がりを記憶することに他ならないわけだけれども、機械的な“記録”は、そうした繋がりとは無関係なもの。感覚と繋がらないから、身体の拒否反応を感じないのも当然のことだろう。

ここでもう一度、ガンディーのことばを引っ張ってこよう。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。

ここでいう“教える”というのは、文字の内部“記録”術のことではない。外部記録である文字を、自身の内部の〈ことば〉と複合させる、ということ。それに対して優秀な東大生のような者は感覚と繋がらない【ことば】を扱う芸当に長けていて、それがあまりにも見事なので、他人に対しても自分自身に対しても、ほぼ完全に装飾・隠蔽してみせることができる。その芸当を指して「東大話法」というのだろう。

  ******

【ことば】の扱いに長けているがゆえに、自身の〈ことば〉を持たないであろう優秀な東大生。そんな者に、一度間伐をさせてみたらどういったことになるのか。「伐りたい方を伐れ」にどのように反応するのか。大変興味深いと思うのだが、そのような機会には、残念ながら恵まれたことはない。

不安を隠蔽してしまって感じないのなら「伐りたいように伐れ」を素直に実行できるはずだが。

つづく。

〈私〉とは複合感覚である (4)

前回から時間が空いてしまって、何を言いたかったのかを忘れてしまった...

思い出してみる。

(1)で考えてみたのは、まず、〈ことば〉が複合感覚であるということ。そして、すべての〈ことば〉を統合している〈私〉もまた、複合感覚であるということ。

(2)では、「ラーメンは蕎麦である」と言明することの、感覚的な気持ち悪さについて。

(3)は、(2)との比較で「原発は安全」と言明することの気持ち悪さ、歪みについて書いてみるつもりだったが、話が別の方向へ行ってしまった。ということで、今回は(3)の仕切り直し。

なぜ「彼ら(原発推進派・東大話法話者)」は、「原発は安全」と言明しようとするのか。なぜ、健全な感覚を歪め、〈私〉を構成する〈ことば〉を歪めようとするのか。欺瞞の言語は他人に欺瞞的である以上に、自分自身に対する欺瞞である。

結論から先に言えば、それは「子ども時代」が奪われてしまったため、ということになる。
幻影からの脱出

私の考えでは、今日の世界が抱える問題は、都心部の犯罪から大規模な戦争やテロ、満員の刑務所に到るまで、子どもから子供時代が奪われてきた、という事実の結果に他なりません。子供の心に宿る魔法、不可思議、神秘、純真こそが、創造性の種子であり、それが世界を癒すのです。私は本当にそう信じます。

 私たちが子供から学ぶべきことは、子供っぽさではありません。子供と共にいることで、私たちは生命のより深い智慧へと導かれ、それは常にここにあり、生きられることのみを求めるのです。ここに、私たち自身の心のなかにあり、気づかれるべく待機している、解決策へと至る道があります。


この引用に出てくる「私」がマイケル・ジャクソンであることは言うまでもない。

人間が「子ども時代」に養うものは、健全な感性。五感である。

「ナイー・タリム」はその原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。
 もっと画期的なのは、「そもそも子供のためのシラバス自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだ」としたところだ。これがすばらしい。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。
 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。


この引用も、何度も取り上げた。松岡正剛千冊千夜第1393夜『ガンディーの経済学』の記述から。「ナイー・タリム」とは、ガンディーが始めた“新しい教育”という意味だそうだ。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。ガンディーが自身をもって書いたというこのセンテンスの意味を、私なりに書き直してみると、「子どもが〈ことば〉を修得するよりも先に、【ことば】を教えてはいけない」となろうか。

小麦と籾殻を子どもが区別できるようになる。それは健全な五感の働きの結果として、小麦と籾殻の区別がつくようになったということ。つまり、子どものなかに〈小麦〉〈籾殻〉という〈ことば=複合感覚〉が生成されたということ。

これに先んじて【小麦】【籾殻】という【ことば=文字】を教えてしまうと、どうなるか。「子ども時代」が奪われてしまうことになる。小麦と籾殻の区別が感覚によってなされるより先に、大人の【知識】によって与えられてしまう。発見は一度きりだから、子どもは二度と「区別」を発見することが出来ない。

  ***

【ことば=文字】とは、記録である。記憶ではない。この違いは重要だ。

〈ことば〉は記憶である。そして〈ことば〉とは複合感覚だから、〈ことば〉の記憶にはさまざまな感覚の記憶が複合されて残っている。対して【ことば=文字】は記録であるから、つまり、感覚とは無関係な(視覚は関係するが)外部のものであるから、【ことば=文字】から感覚が呼び起こされることはない。〈ことば〉よりも先に【ことば】を教えてしまうことは、健全な感覚の発達の機会を奪ってしまうことになる。

といって、「子ども時代」を奪われてしまった子どもが、〈私〉を〈ことば〉の複合によって生成しないのかというと、そうではない。ただし、〈私〉を構成する〈ことば〉は、感覚的に未発達な不十分な〈ことば〉でしかない。〈私〉は健全な感覚に裏打ちされていない、不十分な〈私〉でしかなくなってしまう。

常に感覚的に区別を為すことが出来る人間は判断に迷うことがない。不十分な〈私〉でしかない人間は、感覚的に判断がつくことが少ないから、常に迷うことになる。常に迷う人間は不安である。「子ども時代」を奪われてしまうと、出来上がってしまうのは不安に苛まれる大人ということになる。

  ****

つづく。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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