愚慫空論

学ぶことを学ぶ ~【リアリティ】から〈クオリティ〉へ

アキラさんのところへ行ってから、少し考え込んでいた。

 野口整体はナンパ術だった。笑。

なぜ私はアキラさんのところへ行ったのか。目的は何だったのか。野口整体に直に触れてみたい、というのはそうである。だが、これはアキラさんのところでも言ったのだけれども、野口整体を学びたいということでは必ずしもない。また来月、アキラさんのところへ“遊びに”行こうと思っている。そこは野口整体を稽古する場だから、当然、野口整体をいくらかなりとも学ぶことになる。それは望むところだ。でも、そのことが私の本当の目的なのかと言われると、ちょっと違うと答えざるを得ない。

(実はこのあたりは、前記事『回想の野口晴哉』の前に書いてあった。現在、若干心境は異なるのだけども、そのままにする。)

このように自分に向かって問いを投げかけていく姿勢を「哲学」と評して下さる方がいる。私自身もその言葉を受けて、哲学かなと思ってみたりもする。その真似事をしているという意識はあるし、その評価を好意的だと感じるから、なおのことその評価を受け入れたくなる。でも、やっぱりどこかちょっと違うのである。「哲学する」ことが私の本当の目的ではないし、こんなブログを続けている理由でもない。

では、一体、何なのか。目的をどう表現すればよいのか。やっと納得のいく表現が見つかったと思う。それが「学ぶことを学ぶ」である。「哲学する」よりもよほど大仰かもしれないが、これがピッタリくる。

(先に予告しておきましょう。この文章は長くなります、たぶん。そうしたい気分だから。)



実は、哲学というならば、私はそれにまつわる場に籍を置いていたことが少しだけある。

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『回想の野口晴哉』

ここのところ、少し更新が滞っている。
前回のアップは23日で今日は28日。昨年後半以来の好調からすると、少し間が空いた感じ。

息切れしたわけではない。ネタはまだまだある。

理由は時間がないことだが、その内実には2つあって、ひとつは身体的理由。作業の内容がちょうど変わって「地拵え」というものになった。この作業は身体的に少しきつくて――いや、きついのは山梨の場合。そのあたりはまた改めて書くとしよう――、まだ身体が慣れていない。それで、パソコンに向かう時間が少なくなっている。これがひとつ。

もうひとつは精神的理由。少し不安定になっている。といっても、イライラしているわけでは全然ない。いつもより上機嫌なくらい。ただ、変わり目にさしかかっている予感がして落ち着かないのである。

実はこの記事、書くべきかどうか、書いていいものかどうか、迷っている。とりあえず書いているけど、公開しないかもしれない。公開してしまうと予感が外れるような気がしないでもないから。外れた方がいい、という気持ちもある。そのあたりが微妙なところで、そんな微妙さの中に今、居る。

そんななかで『回想の野口晴哉』を読んでいる。


まだ読み終えていない。読みながら、なぜか“困った”と感じている。

野口整体の創始者、野口晴哉の超人ぶりはこれまでもアキラさんから情報を仕入れていていた。それでも本書を読んでみると驚かされてしまう。

  我あり、我は宇宙の中心なり。我にいのち宿る。
 いのちは無始より来たりて無終に至る。
 我を通じて無限に広がり、我を貫いて無窮に繋がる。
 いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。
  我動けば宇宙動き、宇宙動けば亦我動く。
 我と宇宙は渾一不二。一体にして一心なり。
 円融無礙にして已に生死を離る。況んや老病をや。
  我今、いのちを得て悠久無限の心境に安住す。
 行往坐臥、狂うこともなく冒さるることなし。
 この心、金剛不壊にして永遠に破るることなし。
                                ウーム、大丈夫。


これが十代の頃の詩だそうだ。驚くよりも呆れるが、少し捻くれた見方をしてみれば、現代アニメ的(?)想像力に近いと言えなくもないかもしれない。だが、本当にそうした境地に立ち、その境地から具体的な技法を編み出していったとするならば? 一般人にとっては、信じるか信じないかの世界に入りこんでしまうし、実際、そういった取り扱いを受けているようだ。

この本には、一般人にはにわかには信じがたいことがいくつも書かれている。

私は元来、「信じがたいこと」も十分にありえると思って捉える人間なので、信じがたいことも事実だと思っている。目の前に起こったことでもそれが自分の常識から著しく外れていると信じないのが人間というもので、その事実は嫌というほど確認してきたから、「信じがたい」は単に信じたくないだけくらいにしか思っていない。

例えばだ。麻原彰晃なる人物は宙に浮くことができたと伝えられている。それは周到に準備されたマジックだったのかもしれない。が、事実であった可能性はあると思っている。それを信じた人間を信じたいから。かの人物の周りに集まった者たちは、そろいも揃って鈍いヤツラだったとは考え難いから。むしろ逆だったからこそ、困った問題だったわけだ。

ただ、いくら麻原彰晃の空中浮遊が事実であったとしても、私は何ら困ることはない。そんなことを自分と繋げたりはしないから。ただ客観的事実として受け止めて、それで終わり。科学的な解明にも興味はない。

ところが野口晴哉の場合は、なぜか繋がってしまった。だから困っている。

思い返してみれば、いままで私は無意識のうちに、繋がらないように防御線を張っていたように思う。アキラさんから情報を仕入れても、“すごい人っているよね”という「一般的理解」で済ましていた。こうした理解の仕方は(私の理解では)一種のハラスメントだ。「一般的理解」へと落とし込むことで、それ以上に「クオリティ」が上がっていくことに歯止めを掛けていた。

それはなぜかというと、“取り憑かれる”からである。私はそうした「クオリティ」を〈霊〉というふうに呼んでいるわけだけれども、この場合、〈霊〉の呼称はわれながらピッタリだと思う。“霊に取り付かれる”は、慣用句になっている。

慣用的な(?)理解でいうならば、霊に取り付かれるのは隙があったときだ。私は先週、アキラさんのところへ行って、野口整体のほんの一端に触れた。が、実はそこでも防御線は張っていて、失礼にもアキラさんに向かって、“特に野口整体を勉強する気はないんだ”くらいのことを言い放ってきた。いや、それはそれで悪いことをしたとは思っていない。実際問題として、時間あるいは経済的リソースは有限なのである。私が取り憑かれてしまうと迷惑を被る者も居る。

だから、なぜ、このタイミングでこの本を読んでしまったのかと思う。別のタイミングで読んだのなら、防御線を突破されることもなかったろうに。アキラさんに会ってしまったことで、ワキが甘くなっていた。困ったというのは、取り憑かれたということだ。

ただ、そうした予感は、以前から感じていなかったわけでもない。

取り憑かれたものをそのままにしておくことはできない。

今の私の「在り方」を維持しようと思うなら、取る手段は「除霊」になる。そうでないなら〈霊〉の導くところへ従うと選択だ。野口晴哉を【悪霊】と思うのなら迷うことなく除霊だが、野口晴哉はどうみても高級霊のようである。それもとびきりの。だからなおのこと、困っている。「何か」に誘われているようにも思う。

それと実はもうひとつ、これは全く予期していなかったことだけれども、別の「誘い」らしきものが私のところへやって来ている。それを確かめに、今日、東京へ出かけてくる。山梨に来てから2度目の東京。

東京は人の数が木の数よりも圧倒的に多いから、嫌いなんだけど。

ええい、ままよと公開だ。笑。

【追記】 昨日、東京へ向かう高速バスのなかで読了。後半、輪を掛けて素晴らしかった。オッサンがバスのなかで泣いてしまった。周囲は不気味だったろう。苦笑。

完敗である。「アキラさんにあってワキが甘くなった」いたなんてのは、単なるエクスキューズに過ぎなかった。

野口整体はナンパ術だった。笑。

昨日、念願だった野口整体「愉氣の会」へ出かけてきた。

 光るナス@らくらく塾(Facebookページ)

“念願だった”というのは、ちょっと違う。確かに、山梨に越してきて以来、富士におられるというアキラさんのことは意識していた。ネットの上ではアキラさんとは、私が熊野にいる頃からのお付合い。アキラさんを通じて私は野口整体に関心を持っていたし、野口整体は身体術だから、いくらテキストのやりとりをしていても通じるものには限界があるし、いずれ野口整体には直に触れてみたいし、そうなると門を叩くのはアキラさんのところだろうし...、と、ずっと思っていた。“念願”というとそれが出来なかったという響きになるが、やろうと思えば本当に出来なかったわけではない(昨年は本当にムリだったけど...)。ただ、なんとなく、機が熟していない、と感じていた。

それがやっと――というのが“念願”の意。今年になってから、3日間の断食をしてみたり、まだ記事にはしていないけれども、食べる量を減らしてみたり。こうした「現象」も機が熟したことの現われだと解釈しているが、その予感は実は昨年からあって、その証拠というわけではないけれども、昨年末のアキラさんへの挨拶は「来年こそよろしくお願いします」だった。

さて、そんなわけで体験してきた野口整体がナンパ術だったとは酷い話のように思われる――人はいないと思うけど、一応、念のためにいっておくと、これはものの例え。あまり上品な例えでないことは認める。ま、そこはそれ、樵の戯れ言ということで。笑。

これ、実際にアキラさんに向かって吐いた言葉なんです。アキラさんは笑って許してくれました。(^o^)

この言葉が出たのは、昨日実習したメソッドのひとつ「腕を引っ張る」の折に。呆れるなかれ、「腕を引っ張る」のが野口整体なのである――というのはさすがに嘘だが、アキラさん曰く、「腕を引っ張る」ことは野口整体のなんたるかを知る上で重要な要素がたくさん含まれている、んだそうだ。もちろん、ただ漫然と引っ張ればいいというわけではない。ピッタリ――とアキラさんは表現した――引っ張らなければならない。

回想の野口晴哉(それにしても、こういった方法論を体系付けた野口晴哉という人物はどんな人だったんだろう? とても興味が湧く。右掲書は注文してあるので、近々読んでみるつもりだ。)

それはこういうことである。他人に腕を引っ張れると、大抵の場合、人間の体は自然に拒絶反応を起こす。この拒絶は無意識に行なわれるものだ。腕に引っ張る力が加わると、身体は勝手に身構えるのである。しかし、上手にやると、身体の無意識的拒絶を引き起こすことなく、腕を引っ張ることが出来る。拒絶がないから縮こまった腕の筋肉や筋を能く伸ばすことが出来る。この「上手に」が「ピッタリ」なわけだが、そこをもう少しだけ詳しく説明すると、

 1.相手の腕を引っ張る
 2.相手の腕の反応を感じる
 3.相手の腕の反応に応じて、腕を引っ張る

というだけのこと。それだけだが、2.を感覚でキャッチしてそれを意識化して3.の動作へ結びつけるというようなことをやっていると、2.と3.に間隙が出来てしまって「ピッタリ」とはいかない。だから、意識せずに相手の反応に応じて、引っ張ることができるようにトレーニングをする。「ピッタリ」いくと引っ張られる方は気持ちがいい。

この「ピッタリ」は、人それぞれで異なる。同じ人でも、1回ずつ違う。一度引っ張れば多少なりとも腕は伸びるから、次に引っ張るときの状態は一度目とは異なっている。だから、毎回、機械的に引っ張ることはできない。相手の腕とコミュニケーションしつつ引っ張らなければならないのである。

さらに。それができるようになると、次は意識的に「ピッタリ」よりも少し強く引っ張ることをする、というのである。それを聴いて私は、なるでナンパだ、といって笑ったわけだ。相手に拒絶反応を起こさせないように、上手に、いや、かすかに拒絶反応を起こさせつつ、わずかな拒絶が快感になるように、引っ張る。これ、ナンパの極意でないかい? 

(おっと。ここで言うまでもないことを言っておくが、私はナンパの熟達者などではない。私はナンパなど、したこともない。ただ、

 宮台真司、ナンパを語る - Togetter

といったようなテキストを勉強して「アタマデッカチ」になっているに過ぎない。笑。)

このときの話をもう少し続けてみよう。

アキラ先生からの注意事項は、引っ張る姿勢にも及んだ。曰わく、腕で引っ張ってはいけない、腹で引っ張ってはいけない。背中で引っ張ってはいけない、とにかく「いけない」「いけない」をいくつか並べ立た。要するに全身で引っ張れということなんだけれども、「いけない」「いけない」を意識しては絶対にバラバラになると思ったので、そこは聞き流して(ゴメンナサイ)、私は勝手に自分で引っ張るイメージを造り上げた。そのイメージが、やっぱりナンパである。幸いにも、実習の相手はゆめやえいこさんというチャーミングな女性だ。

 ゆめやえいこ ゆめがたり

そこでイメージしたのはこうである。相手の反応を感じつつ、全身で引っ張りつつ、自分の懐の中へと導き入れる。けっして疚しいことを考えていたわけではない。ただイメージしただけだ。その証拠に、えいこさんってうちの嫁と歳かわらないんだよなと思った瞬間に、バラバラになった...。

あれ、証拠になっていない? まあ、いいや。とにかく、一時的ではあったにせよ効用があったことには間違いないのだ。もちろん、現場ではそんなことは口にしていない。出来るはずがない。笑。

まじめに書こう。いや、これまでもマジメだが。

整体入門実技が始まる前、アキラさんはごく簡単なレクチャーを行なった。そこで出てきたキーワードは3つ。「活元運動」「行氣」「愉氣」である。

これらを詳しく説明出来るだけのものは私にはない。そのあたりはアキラさんに尋ねて頂くか、右の『整体入門』でもご覧頂くとして、(私が勝手に)簡単にいっておくと、「活元運動」とは体の偏りを正す体の自発的な運動、「行氣」とは活元運動を意識的行なうための“氣”を練ること、「愉氣」とは練った“氣”を相手に同調させることで相手の身体の活元運動を促すことである。そして、この「同調」のありかたを表現したのが「ピッタリ」というわけだ。

ならば“野口整体はナンパ術である”の言は、一面的ではあるけれども、アナロジーとしてそんなに外れたものだとは言えない。と思う。

アキラさんは「同調」について、別の言い方もしていた。「ピッタリ」のような端的な言葉ではない。またしても私が勝手に言葉にすると“相手のファントムペインを感じる”ということにでもなるだろうが、こういうことだ。たとえば相手の肩に手を置いて繋がり、相手の身体と同調したとする。すると、相手の身体の痛みのある部分、仮に右の膝だとすると、その痛みが察知できて、「そこ! 痛いでしょう?」という具合にわかるという。これがさらに発展すると、直接体を触れなくても、遠隔操作でも同調できるようなるし(ユリ・ゲラーだ、というのは古いかw)、過去の「痛み」も察知できるようになる、という。

私は、それは技術なのかと(敢えて)問うてみたが、アキラさんの答えは明確に「技術だ」であった。確かに、昨日教わった愉氣の実践、それは鼻の周辺の調子を整えるためのものだったが、それを見る限りな身体の具体的な構造に基づいた技術であるといえる。ただし、やはり“氣”が何かとは具体的には言えないし、ましてそれが時空を超えても作用するといった話なると、「トンデモ」という評価にもなりかねないとも思う。

もっとも、アキラさんをはじめとして野口整体を学ばれている方々は、そんな外部の評価など気にしはしないだろう。それはそれでいいと思っているのだが、ただ、野口整体というものがどういったものなのかということを私が自分の言葉するときに、限界を感じてしまうということ。なので“ナンパ”などと言ってみたりはするのだが、それでも限界は超えられず、その限界がもどかしいのである。

長くなるが、ここでこの文章はここで切るわけにはいかない。もどかしいと感じるには(私なりのではあるが)理由がある。

いつものことだが、話が飛躍する。

『今を生きる親鸞』の第四章(「愚」に帰る)では、「かわいそうなネルソンさん」の話が紹介されている。

今を生きる親鸞

 ネルソンさんは、ベトナム戦争から帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。いわゆる戦争後遺症で、戦争をありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢といったかたちで、戦争の再体験をして苦しんだのです。
 戦場で目の当たりにした殺毅やあらゆる暴力、そして自らも多くの人々を殺したことが片時も頭から消えず、その惨劇が悪夢となつて毎晩のようにネルソンさんを襲いました。
 ちょっとした匂いや音でもすぐ戦闘状態に戻つてしまい、帰国後わずか一週間で家族から追い出され、ホームレスの生活を余儀なくされたのです。まさしく「生きる場」を失つた苦しみです。
 ネルソンさんは、その耐えがたい苦しみから、自殺を試みたのです。彼と同じように苦しむ帰還兵で自ら命を絶った仲間は数万人にのぼると言われています。
 その、ネルソンさんが立ち直ろうとしたきつかけは、ある一人の少女との出遇いでした。ホームレスを続ける彼が、学生時代の友人である教師に頼まれて、小学校でベトナムの体験を話すことになり、四年生の教室に立ちました。しかし、いざ子どもたちの前に立つと、ジャングルで自分がしてきたこと、見てきたことをありのままに語ることはできなかつたので、戦争一般の恐ろしさを話してその場をやり過ごしたのでした。
そんなネルソンさんに一番前にいた女の子が質問したのです。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」と。ネルソンさんは、そのことこそ、どうしても忘れてしまいたい、思い出したくない、消し去りたいと思つていたことなので、答えることができず、目をつぶつて下を向いてしまったのです。様々なことが頭をよぎりながら、最後に目をつぶつたまま小さな声で、しかしはつきりと「イエス」と答えたのでした。
 すると、苦しそうな彼の姿を見て、質問した女の子は彼のところまできて彼を抱きしめました。彼が驚いて目を開けると彼のおなかのあたりで目に涙をいつばいためた少女の顔がありました。「かわいそうなネルソンさん」。そう言ってまた抱きしめたのです。
 その一言を聞いたとたん、彼は頭が真っ白になり、大粒の涙が彼の目からあふれ出たのです。教室中の子どもたちが皆かけよつて彼を抱きしめました。子どもたちも先生も皆泣いていました。
 「この時、私の中で何かが溶けた」とネルソンさんは述懐しています。・・・


ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんと「同調」して「ファントムペイン」を的確に察知し、そして「愉氣」したのではなかったか。

これを子どもらしい純真さのゆえの行動だと言ってしまうこともできるだろう。だとすると、大人にだって子どものような純真さがあれば、同様の行動は可能だいえることになって、そこには「大人としての技術」は介在する余地はないということになる。が、果してそうか。

私がアキラさんに向かって「それは技術か」と尋ねた核心はここである。具体的な身体と抽象的な心との違いはある。身体の場合には傷んでいる場所を具体的に指摘出来る。が、「同調」という現象がおこっているとするならば、身体と心とが不可分な状態にあることは事実となる。もちろん、そんな事実はないという意見もあるだろうし、その意見に明確に反論できる根拠を持たないことは、上で述べたとおりだ。

「同調」が「大人の技術」として確立しうるものであり、それが身体のみならず心にも作用させることができるとするならば。何度もいうが、こういった問題提起そのものを「トンデモ」として退ける立場の者を説き伏せる材料はない。現段階で言えるのは、それを「トンデモ」と断言できるほどに私たちは私たち自身のことをわかってはいないというだけだ。

身体にも心にも「愉氣」をすることが出来る体系的な技術など原理的にあり得ない、とわかったならそれはそれでいい。かえってスッキリしていい。だが、それは私の「直観」に反する。直観としか言いようがないことがもどかしいのだが、何かあると思えてならないのである。

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」

ついでながらいうと、私は安冨教授の、「魂の脱植民地化」のテーマのもとで提示される理論が、その「何か」に近いようなきがしている。思うに、安富教授の理論は「人間そのもの」に信を置くことから出発している。そして「人間そのもの」の正体を追究することはおいて、「人間そのもの」を阻害する要因を科学的に研究するのだ、としている。この姿勢は、どこか野口晴哉が提唱したという「活元運動」に通じるものがあるのではないか。

これももちろん、根拠不明の私の直観でしかないが。


【追記】 アキラさんのほうでも、記事を挙げてくださいました。

 リアル愚樵さんにお会いできました♪(光るナス

稽古で行なった「腕の引っ張り」についてはもっと的確に表現されていて、さすがは専門家という感じです。是非ともこちらもどうぞ。

〈霊〉的ハラスメント論(1)

シリーズ「霊から貨幣へ」の8。

ここでは、〈霊〉の概念を用いて「ハラスメント」を解析してみたい。

まず「ハラスメント」とはなにか。"ハラスメント""定義"で検索してみると、トップに出てくるのが学校法人大阪医科大学セクシュアル・ハラスメント等防止委員会というページ。そこには

ハラスメント(Harassment)とはいろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を言います。その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指します。重要なことは相手がどのように感じ、考えるかは個人によって違うということであり、この点を充分認識して行動しましょう。


とあって、続いて「セクシャル・ハラスメント」「アカデミック・ハラスメント」「パワー・ハラスメント」「ジェンダー・ハラスメント」「キャンパス・ハラスメント」「ドクター・ハラスメント」「モラル・ハラスメント」「アルコール・ハラスメント」「スモーク・ハラスメント」などの具体的な説明が並んでいる。

定義としては一般的といっていいと思う。個々の例示もあって丁寧だとも思う。だが、しっくりこないところもある。それは、ハラスメントの判定が「相手の感情」に委ねられるとしているところだ。相手の感情でどうにでもなるなら、定義づけされたとしてもその定義そのものに意味が見いだせない。要するに相手から“それ、ハラスメント!”と言われればハラスメントだということになってしまうわけで、これではハラスメントを厳密に議論するということ自体が、その定義から原理的に出来なくなってしまっているということだ。

今を生きる親鸞安富教授は、もっと踏み込んでハラスメントを定義づける。

そもそもハラスメントとはどういうものなのか。簡単に言うと、その人自身を見ないということです。ある人と対面した場合に、その人そのものの姿ではなくて、勝手な「像」を押しつけるということが、私はハラスメントの本質だと思っています。たとえば、私がどこかで講演しているとします。そこで会場の聴衆が、安冨という人間が喋っていると思って話を聴いていればハラスメントにはなりませんが、東大教授が喋っているとか、経済学者が喋っていると思って聴いているとすればハラスメントです。あるいは、学生に対して教員が、「お前は経済学部の学生だ」と言って、一人の人間がもっている感情とか身体とか、そういうものではなくて、予め勝手に想定した像に向かって話しかけ、行為をすれば、ハラスメントになる。


厳密な定義とはいえないが、それでも一般的なハラスメント定義よりはずっと踏み込んだものだ。

 「東大教授が喋っているとか、経済学者が喋っていると思って聴いているとすればハラスメント」

これは一般的なハラスメントのイメージを覆す。というのも、ハラスメントは一般に「強者による弱者のいじめ」と捉えられているからだ。しかし、東大教授あるいは経済学者というのは、一般には、相手を強者だと認識することである。安富教授がヘソマガリな人で(どうもそうみたいだが)そんなふうに位置づけられるのが嫌だからいじめだ、というのではない。教授、学者という位置づけを喜ぶ人に対しても、そう思って接するとハラスメントになる。

この引用は私には都合の良いことに「像」という言葉が出てくる。〈霊〉とは、私の定義では「像」の一種に他ならない。

 霊から貨幣へ (1)~〈霊〉を定義する


・「その人自身を見る」とはどういうことか

「簡単に言うと、その人自身を見ないということです」。では、簡単にではなく、言うとどういうことになるのか。

「その人自身」というのは、なかなか定義付けは難しい。深追いすると哲学の迷路へ迷い込む。そこで、「その人自身」の定義はおいて、「その人自身を見る」というのがどういうことか、どのような表現で置き換えられるのかということを考えてみる。それは、「学習」ということになるだろう。
ハラスメントは連鎖する

〈霊〉と「学習」についてはすでにこちらの記事で触れたが

 霊から貨幣へ(4)~霊性と学習

次回は再度、『ハラスメントは連鎖する』を参考にしながら話を進めてみたい。

野蛮な日本人(2)

日本人の場合はどうなのか。何を基準にして野蛮を認定したのか。

 野蛮な日本人(1)

逆説の日本史3 古代言霊編今回は日本人の野蛮さを見てみるのに、時代をずっと遡って平安時代に行ってみる。それも、平安遷都を実行した桓武天皇の時代。ネタ本はやはり『逆説の日本史』。第3巻古代言霊編、平安建都と万葉集の謎。サスペンスに満ちていてなかなかに面白い「読み物」だ。

桓武天皇がなぜ平安遷都を行なったのか。ここは当記事の本筋ではないのだが、『逆説の日本史』の主張は大変に面白いのので少しだけ触れてみる。一言でいうと、それは「王朝交代」があったからだというのである。

時代をさらに遡ることこと百年弱、壬申の乱は西暦でいうと672年。天智天皇の後継者争いだが、実はこのときに「王朝交代」があったという。大海皇子すなわち天武天皇は、天智天皇の弟などではなくて別の系統の人間だった。井沢説によると、漢人だという。つまり、現在信じられている天皇家万世一系は、ここで一旦途切れているというのだ。その証拠は天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺にあって、ここには代々の天皇の位牌が祀られているらしいのだが、なぜか天武から称までは除外されているという。一般常識で考えるならば、位牌がないのはそれらは先祖ではないということだ。

称は女性天皇だったのしかも子どもがいなかった。その後を継いだ光仁は天智系だった。ただし井上皇后は天武系でその子である他戸親王が皇太子だった。光仁は井上と他戸とを抹殺し、別の妃との間に生まれた山部親王に後を継がせた。ここで天皇は純粋に天智系へと復帰するのだが、その山部が桓武天皇というわけだ。

桓武は当然、自分が天武系から天智系への転換点であること、すなわち「王朝交代」が為ったこと意識していた。だから遷都したというのである。

大変、面白い。

さて、その遷都だが、当初は、今の平安京ではなくもう少し西寄りの長岡京で行なわれる予定だった。途中まで造営が進んでいたにもかかわらず途中で放棄され、平安へと変更された。これもおかしな話だ。

理由は『逆説』によれば、怨霊である。桓武は皇太弟だった早良親王を謀殺したのだが、その怨霊が出たので長岡は捨てて平安へと変更した。もちろん、学会での意見の大勢は異なる。私たちが教科書で教わるとおりだ。

ただ、桓武は早良の怨霊を「公式」に認めてはいるらしい。それが史料で確認できるというのだ。日本の怨霊信仰は(井沢説は異なるが)学会「公式」にはこの桓武から始まったとされている。

桓武が行なった大事業は他に3つある。軍隊の廃止。死刑の廃止。そして蝦夷(えみし)征伐である。

明治憲法が日本で効力を持っていた時代、天皇は統帥権を握る軍隊の頂点だった。しかし、このことは日本の長い歴史からすると異常なことだった。古代では天皇は軍団長だった。桓武以前の時代は中国の律令制を採り入れていたわけだが、律令のなかには徴兵制度も組み込まれていた。ところが桓武はこの軍隊を放棄した。これ以降、明治まで天皇は基本的に軍事からは遠ざかることになる。理由は、怨霊、穢れである。

死刑の廃止も同じ理由からである。

ところがその桓武が、当時東北地方を支配していた蝦夷(えみし)に対して大規模な討伐軍を送り込んでいる。軍を征夷大将軍坂上田村麻呂に託して蝦夷を討たせた。田村麻呂は見事任務を果し、蝦夷の首領アテルイを捕縛した。アテルイは田村麻呂に投降してきたのである。

田村麻呂はアテルイを平安京へ連行した。それは田村麻呂の任務である。桓武はアテルイに処刑の断を下した。田村麻呂の強い助命嘆願を受け入れずに。

一方で軍隊と死刑を廃止し、一方で討伐軍を興し首領を死刑にする。このダブルスタンダードは何なのか。現代人の我々から見れば、このダブルスタンダードは野蛮に見える。

そう、キーワードは「野蛮」である。当時と今とでは「野蛮」の基準が異なるのである。現代人の我々は、桓武もアテルイも同じ人間だと見る。同じ人間に異なる基準を当てはめるのは、当てはめる人間が野蛮なのだと判断する。

これは動物であっても同じで、例えば現代のグリーンピースのような動物保護団体は、人間に近い知性を持つ(と推測される)鯨類を捕獲する日本人を野蛮だとして非難する。ここでは「知性の高さ」が基準なのである。

このような基準は、たぶんに思い込みでしかない。日本人を野蛮だとする欧米人も、その昔は鯨を大量に捕獲していた。鯨油を採るためだった。アメリカが江戸幕末に日本に開国要求してきたことの理由のひとつは、太平洋で活動する捕鯨船団の寄港地を確保するためだった。当時、欧米人は鯨の知性が高いとは思っていなかった。同様に桓武も、アテルイについては「思っていなかった」のである。では、その「思っていなかった」のが何かということだ。

それが怨霊を為すということ。桓武は野蛮なアテルイを処刑しても、早良親王(後に崇道天皇と諡)や井上皇后のように祟るとは考えなかった。桓武はアテルイを「霊的存在」とは見なかったのであって、この「霊的」こそが桓武にとっての野蛮の基準だったということである。

もし仮にアテルイが霊的存在だと見なされていたとするならば、祟りを怖れる桓武が処刑できるはずがない。よしんば処刑をしたとしても、そこには必ず神社が建立される。それが日本という国のやり方なのである。アテルイが処刑されたのは河内国だと記録されているが、河内のどこにもアテルイを祀る神社など存在しない。

(ただし茨城県の鹿島神社には、「悪路王」としてアテルイが祀られているらしい。なぜ茨城の地で祀られているのかは、よくわからない。)

(3)に続く。


雑談 ~「自力作善」と『ケ・セラ・セラ』

とりとめのない話を。
毒多さんところのコメント欄を読んでいたら、書きたくなったので。

 「卒業式」・・・といえば国旗掲揚、国歌斉唱だな(dr.stoneflyの戯れ言)

また犬の話(笑)。といって、我が家のフクとブーの話ではない。

山梨に越してきてからのことだが、ある日、ある現場へ向かおうと、車を降りて山道を歩き出すと、ほんのすぐのところでミニチュア・ダックスフントに出会ったことがあった。近づく私たちをみてキャンキャンと吠え立てるのだが、逃げようとしない。ははぁ、これはここに捨てられたな、と察しがついた。

ミニチュアダックスは人気の犬種だったから。「人気者」というのはしばしばこういう目に遭う。

現場で作業を終えて返ってくると、そのダックス君はまだその場にいた。飼い主を待っていたんだろうね。かわいそうに。
我が家にも犬はいるから、その心理はだいたいわかる。

このまま推移すれば、このダックス君はやがて山で暮らす他の動物の食料になるだろう。彼は「飼い犬」だ。犬も魂のある生き物だから、「飼い犬」から自立した「野犬」へと変貌する可能性はある。そうなれば生き残ることはできるかもしれない。でも、おそらくは無理だろう。そう推測した。我が家のフク、ブーなら「野犬」になるだろうけど。

そう考えると、突きつけられる問題は、このダックス君と自分自身がどう向き合うか、ということである。

見なかったフリをする、という選択がある。これがおそらくは一番無難だろう。でも、たぶんいちばん良くない。

ダックス君を助ける、という選択肢もある。現実的に最も困難な選択肢だ。

現実的というなら、私には不可能だった。フクとブーがいるから。飼う余裕がないというのもあるけど、連れて帰るとタダでは済まない。たぶん殺される。やつらはこの程度の大きさの動物を獲物だと思い込むフシがあるらしく...、後は想像にお任せする。

そのとき一緒にいた同僚は(ふたりだった)、これも借家だから飼えないといい、友人に犬関連の仕事(訓練士だったか?)をしている者がいるので問い合わせてみると言って、実際、すぐ携帯で連絡をとっていた。後日、その首尾を尋ねたら、「あれはもういいんです。」といった答えだった。なるほど。

そして三つ目の選択肢。それは敢えて見捨てるというもの。私の採った選択はこれ。かわいそう。でも、仕方がないね。縁がなかった。頑張って生きろよ。では、さよなら。

私はこれでいいと思っている。もちろん、人間ならこうはいかない。目の前に助けを求める人がいたら、何とかしなければならないと思うだろう。でも、目の前にいなかったら? 

そうした場合はたいてい1つめだろう。もしくは4つめ。とりあえず心を痛めたフリをして、自分が善人であるフリをして、自分を騙してやり過ごす。

「自力作善(じりきさぜん)」という言葉あるそうだ。先週のマル激で知った。

 これからわれわれは3・11とどう向き合うか

親鸞聖人の教えに「自力作善(じりきさぜん)」がある。これは、自分が何とかできるとか、自分が何かをわかったつもりになってしまうことを指す言葉で、浄土真宗では誤った態度として戒められている。本多氏はわれわれの多くが自力作善に陥り、本当は何もわかっていないのに、すでにわかったこととして、自分の中に固定化した考えを知らず知らずのうちに作り上げていたのではないか。そして、その「わかっていたつもり」が、今の政治、経済、社会の状態を生み、そしてそれがこの震災によって打ち砕かれた状態にあるのではないかと指摘する。まずは、大震災と原発事故という大惨事を目の当たりにして、何が正しくて何が間違っているのか、何が救いで何が幸せなのかがよくわらからくなって動揺している自分と向き合わなければならないと言う。



ゲストの本多氏は「東大話法」の安富教授との共著で

今を生きる親鸞

を出版された人。この本の存在は以前から知っていて、読みたいなぁ、でもちょっとカネがないなぁ、ここのところ本の買い過ぎやら福島行きやらで嫁が不機嫌だしなぁ、近所の図書館に入らないかなぁ、とか思っていたんだけれども、このマル激を見て、すぐに買ってしまった。今はネットで買えてしまうから、決めればすぐだ。

人間が自分が善人であるフリをしてしまうことと「自力作善」とは、深い関連がある。この関連こそ「闇」というべきものだろう。その「闇」に身を置く。それでいいではないか、と。

このことはしかし、自身もが、ことによっては「縁がなかったね」と言われて見捨てられてしまうことを覚悟しなければならない。人間はそれが出来ないから、本当はちっとも善人なんかじゃないのに、いや、ちょっぴりは善人だけれども、大部分は悪人なのに、というより、好むと好まざるに変わらず悪人でしかいられない、いいかえれば自分が善人でいられる範囲でしか善人ではないのに、それを見つめるのが不安になって「本当は善人なんだよ」と嘘をつきたがる。そして、「だから助けて!」と言いたがる。それどころか「ゆえに助けられるべきだ」と言い募るようになる。

「だから」は必要ない。むしろ邪魔だ。ただ「助けて」だけでいい。

生きる技法

でも、「だから」がなければ助けてくれないじゃないか。オマエも見捨てると言ったじゃないか。それとも「助けて」も捨てろというのか?

実は、少し前までの私はそうなれたらいいな、と思っていた。なれない自分に執着を感じていて、それがもどかしかったのだけれども、今ではもどかしいというのも嘘だな、と思い始めている。“「助けて」を捨てる”ことを自力でやろうと思っていた。これこそ自力でできるわけがないのに。

「だから」は捨てて「助けて」だけでいい。「だから」を捨てることができれば、もし運悪く助けてもらえなくても、そのことを恨まなくて済む。恨まなくて済むなら上出来ではないか。

「だから」を捨てるのには、自分が助けるときにも「だから」を捨てることだ。助けたいと思ったら助ける。助けたくないなら助けない。どのように、あるいはどの程度助けるかも、自分に正直にやればいい。

誤解を招くのを承知でいえば、助けるときには「神」になればいいのだ。自分の気分の赴くままに、でいい。俗世のしがらみに囚われた非力この上ない神だけど、そのことも含めて、それでいいんじゃないか。

好感を持てば助けるし、嫌悪感を持てば切り捨てる。その時の自分の感性を信じる。ただし、あくまで「その時」だ。いつでもどこでも自分の感性を信頼するなら、それもまた「自力作善」だろう。


話は変わるが。

ここのところ関心を持って読んでいるブログに『ノマドでいこう!』というのがある。この挑戦を好感を持って眺めているんだけど、そのなかのひとつの記事

 ノマドな私の自己実現(elm200 のノマドで行こう!)

を読んで、そこで紹介されいた、「なでしこ Voice」なるものを訪れてみた。

 「なでしこVoice」海外で働く女性への第三弾取材旅行(READY FOR)

今はこんなのがあるんだね。で、これも「いいな」と思ってしまったんで、また嫁の機嫌が悪くなるなと思いながら、チケットを3000円も購入してしまった。1000円にしようかと思ったが、お土産が欲しいから。笑。

今、TVのCMでこれが流れている。


なんのCMかは知らないけど。

世界への信頼に満ちた歌。『ケ・セラ・セラ』は有名な曲だけど、今改めて聴くと、以前とは違って新しく聞こえる。「フクシマ」後の現在だから、なおのこと「ケ・セラ・セラ」で行きたいと切望する。

だから、「だから」の合理性ではなく「いいね」の感性で社会が動いていくように。若い人が率先してその方向へ足を踏み出しているのなら、オヤジがそ知らぬフリをすることなんて出来ないよね。ネット上ではあるけど、それが目の前に現われてしまったら。貧乏だけど、それで満足しているけど、その満足に埋もれないで、「出来るだけ」をしてみるかな、と思ったわけだ。


人間には「一般意志2.0」を実装できるスペックがある

エントリータイトルの付け方を変更。『霊から貨幣へ』の(7)である。

〈霊〉に関するこれまでの記事はこちらから。

 カテゴリー〈霊〉

今回は(6)で予告した通り、「一般意志2.0」について〈霊〉的な視点から語ってみる。

一般意志2.0


東浩紀氏が提唱する「一般意志2.0」の「2.0」とは、私に言わせれば「1.0」の霊性バージョンアップということになる。〈霊〉とは、個々の人間の「器(インターフェイス)」のなかで結ばれる他者の「像」だが、「一般意志」というのもそうした「像」の一種ということができると考えている。ただしそれは、社会的〈霊〉というべきもので、個々人の中に宿る個別的〈霊〉の延長線上にある集合的〈霊〉である。

「一般意志」を〈霊〉で説明するに当たって、もう一度〈霊〉の定義について考えてみたい。

コンピュータのイメージ図

このイメージ図は、コンピュータを構成する主要要素の関係を示すものである。
『PC初心者の館』より拝借。)

コンピューターが必ず持っている、5つの要素を紹介します。
   これはつまり、コンピューターが行っている仕事と言い換える事が出来ます。

    ・制御 ----- 各装置を制御。人間で言えば神経に相当します。
    ・演算 ----- データを処理。 人間では脳に相当します。
    ・記憶 ----- データを保存。 これも人間では脳になります。
    ・入力 ----- データを受けつける部分。人間では目や耳になります。
    ・出力 ----- データや処理の結果を外に出す部分。
                  人間では口や手足等になります。

   これらは コンピューターの5大要素と呼ばれます。

   5大要素を人間の器官に例えたのは、
   コンピューターは人間を真似て作られたからです。


コンピュータを持ち出したのは、むろん〈霊〉を再考するためだ。(1)では『ハラスメントは連鎖する』の「魂」と「インターフェイス」の定義を借用して〈霊〉を定義してみたが、その「魂」「器(インターフェイス)」「〈霊〉」をコンピュータの5大要素に置き換えてみようというわけだ。

「魂」に相当するのは、制御と演算の役割を担うCPUだろう。インターフェイスという言葉は、コンピュータ関連の術語としては入出力装置に相当するが、〈霊〉の定義としての「器(インターフェイス)」は入出力装置+記憶装置に相当する。ここでは「器(インターフェイス)」としていたものを「器」と「インターフェイス」とに分離し、「器」が記憶装置、「インターフェイス」が入出力装置に相当するものとしよう。

すると、〈霊〉の所在地は「器=記憶装置」の中ということになる。

(1)では、チンパンジーとヒトとの行動の差異からチンパンジーおよびヒトの「器」の中に結ばれる「像」のクオリティを推測し、ヒトのクオリティの高い「像」を〈霊〉だと定義した。チンバンジーおよびヒトの構成は、その遺伝子が99%同じだと判明している通りに、ほぼ同じだと考えてよいはずだ。異なるのはクオリティである。ヒトはチンパンジーと同様の構成をしていながら、高性能のCPU、広大なメモリ領域、多様なインターフェイスを備えた高性能のマシンなのだ。そしてヒトを人間たらしめる〈霊〉とは、高性能マシンの登場で実現したマルチメディアと考えられる。MS-DOSで動いていたマシンのスペックではマルチメディアの実装は到底無理だが、それでもマシン自体の基本構成に変化はない。


夢を語ろうと思う。未来社会についての夢だ。

日本発の新しい民主主義
民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。(中略)だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。


以上のコンピュータモデルを民主主義を遂行する社会に当てはめてみる。

民主主義に必要な「熟議」を担うのはCPUである。民主主義社会においては、さしあたっては議会であろう。議会は議員で構成されるが、その議員たちの集合意識的なメモリに「一般意志」は「像」を結ぶ。

議会のCPUなメモリも、集合意識的ではあるが構成するのは人間であるから、そのスペックは基本的には人間と同じと考えてよいだろう。ただ議会のCPUとメモリに情報を提供する入力装置は、人間身体に備わった感覚装置のスペックと同等とは考えられない。それは社会制度に制約された非常に回路の細いものであって、情報量は少ない。

いくらCPUとメモリのスペックが高くとも、インターフェイスから入力される情報量が少なければクオリティの高い「像」を結ぶことは出来ない。従来の「一般意志1.0」とは、クオリティの低い、いわば静止画像的なものであってマルチメディアとは到底言えない。が、入力インターフェイスが改良されて情報量が多くなれば、結ばれる「像」はマルチメディア的〈霊〉となっていく。東浩紀氏が想像する「一般意志2.0」とはそのようなものであろうと私は解釈する。

東氏は次のように言う。

 「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー

加えて、人々は政治家というものに対して、勘違いをしているんじゃないかと思っています。政治家というのは、基本的に民衆の空気を読む人たちです。みんな、政治家がわけのわからない勝手なことをやっていると批判しますが、それは政治家が空気を読めなくなっているということを意味するにすぎない。


政治家も私たちと同じ人間である。ゆえに私たちと同じ構成と同等のスペックを持ったマシンだと考えられるだろう。ならば、政治家が「空気」を読むことが出来させすれば、大衆の欲望の集積であるところの「一般意志」を高い精度をもって感知できるだろう。

それは具体的にはなんだっていいんです。僕は本でニコニコ動画を取り上げましたが、それは一つの例に過ぎない。ただ、情報技術によってサポートされた、世論調査を遥かに超えた、細かい精度をもった民意の可視化システムを整えるというのは、これからの政治、国家にとって、非常に重要なことだと思います。そしてそれこそが本当は近代民主主義の原理に近いというのが、僕がわざわざルソーを読み返した理由です。そういう発想がないからこそ、独裁ポピュリズムしか出口がなくなっているんです。


これは要するに、入力インターフェイスの情報量を増大させよと主張しているのである。そうすれば自然に、高いスペックを持て余しているであろう議会は、もっと生き生きとしたクオリティの高い「像」(〈霊〉)を生み出すであろう、と。

私は東氏のこのような楽観的ともいえる姿勢に好感を持つ。希望を語るならばこうでなくてはいけない。自身のスペックの高さを信じて、高パフォーマンスの発揮を阻害している要因を見出し改善する。この姿勢は私が〈霊〉の発想をする元になった安富歩氏の姿勢とも共通する。

この提案について「しょぼい」とか批判が寄せられていますが、これはまったくしょぼくないと思います。この変化をしょぼいと考えるのは、想像力がないからです。考えてみて欲しい。ニコニコ動画は単純なサービスです。あれが登場した当初、それが映像の見方をここまで変え、クリエイターのコミュニティをここまで変えるとだれが予見したか。でも現実はこうなった。スクリーンのうえにコメントを流す、という単純なアイデアが、クリエイター、ユーザー、プラットフォームの関係を劇的に変えてしまう。それと同じようなことが政治でも起こると思います。


ニコ動が付け加えたのは、動画上にコメントを流すというごく単純なことである。情報量の増加という観点で見れば小さいかも知れない。しかし、それがブレークスルーポイントになって、大きなクリエイティビティを発揮させることになった。その源泉を辿れば、チンパンジーとヒトとのスペックの差異であろう。ならば、そのスペックの高さを信頼するなら、政治で情報量増大のブレークスルーがあれば創造性は発揮されていくようになるはずだと期待するのは当然の流れである。

確かに東氏が提案したシステムとしての「一般意志2.0」の具体例は、しょぼいと言える。だが、それは、チンパンジーと人との遺伝子の差異が1%しかないからしょぼいと言っているのと同じことだ。その1%の差異がどれほどの創造性を発揮したか。そのことを予想できるのはやはり「想像力」であろう。

人知の闇

3月も半ばが過ぎた。

暦はとうに春に入っている。寒さも幾分緩みだした。
山にも春の気配が、まだ少しではあるけれども、着実に訪れてきている。

山はまだまだ寒い。雪が残っていて、その上を渡ってくる風は冷たい。
それでも、どこか華やいだ気配を感じる。
冷たいなかにも、ほのかに暖かさを抱いている。
そんな感じがする。

日が長くなった。日差しも少し強くなった。
木々の芽の膨らみも大きくなり始めた。
渡りの鳥たちも姿を見せるようになってきた。
どうかすれば、さえずりも聴くことができる。
間違いなく春の気配だ。

春の気配は、これから一雨降るたびに色濃くなってゆくだろう。
新緑が萌え出すのも、もう間もなくだ。



嬉しいはずの春の訪れも、しかし、フクシマのことを思えば憂鬱になる。
春になって生態系が活発に動き出せば、放射能の影響もまた活発になりはしないかと思うからだ。

 チェルノブイリのいま – 死の森か、エデンの園か(WIRED)

1986年に事故があったチェルノブイリの周囲では、現在、豊かな生態系が甦っているという。だがその豊かさは、見せかけだけのものなのかもしれない。たくさん死ぬから、たくさん外から入り込んでくる。放射能は動物には感知できないから、危険も察知できない。放射線の影響でたくさん死ぬところは、死なないところと比較すると生存競争が緩い。それで多くの個体が外部から入ってきているのではないかというのである。いわばブラックホールの豊かさだ。

同じことがフクシマでも起こるだろう。

そんなことを考えてしまうと、嬉しいはずの春の気配も憂鬱なものになった。

核の技術は、自然の道理をねじ曲げてしまう。
人類はそんな技術に手を出すべきではなかった。

「人知の闇」という言葉が、春の気配のなかで、重くのしかかってきた。

今を生きる親鸞


霊から貨幣へ(6)~〈霊〉の潜在的需要

 〈霊〉に関するこれまでの記事はこちらから。

 カテゴリー〈霊〉



ご存知、『涼宮ハルヒの憂鬱』冒頭の、キョンの長台詞である。なんど聴いてもこれはなかかなの名調子だ。
(引用した動画は妙な字幕がついているし、音声はこもり気味で不満なのだが、良いのが見つからなかった。著作物なのはわかるが、『涼宮ハルヒ』はもはや文化遺産なのだから、冒頭の部分くらいはネットで「ふつう」に見ることが出来てもよさそうなもんだ。)

「サンタクロースをいつまで信じていたか――、なんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどーでもいい話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じいさんを信じていたかというと、俺は確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。
 幼稚園のクリスマスイベントに現れたサンタは偽サンタだと理解していたし、お袋がサンタにキスをしている所を目撃した訳でもないのにクリスマスしか仕事をしないじじいの存在を疑っていたさかしい俺なのだが、はてさて宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織や、それらと戦うアニメ的特撮的漫画的ヒーロー達がこの世に存在しないだということに気付いたのは、 相当後になってからだった。
 いや、本当は気付いたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織が目の前にフラリと出てきてくれることを望んでいたのだ。
 しかし! 現実てのは意外と厳しい! 世界の物理法則がよく出来ていることに関心しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や心霊特集をそう熱心に見なくなっていた。
 宇宙人、未来人、超能力者?そんなのいるわけねぇ。でも~ちょっと居てほしい~みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。
 中学を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業してこの世の普通さにも慣れていた。俺はたいした考えもなく高校生にもなり、そいつと出会った…」


この台詞が面白いのは、その調子の良さもさることながら、語られている内容にもある。子どもの頃はみんな誰でも「あの世」――つまり彼岸の存在を信じていた。それが大人になるにつれ、キョン曰わく「そんなガキな夢を見ることから卒業」し、極めて精巧に出来上がった物理法則が普通に支配する「この世」に慣れていくもの。そういった普遍的事実が語られているからだ。

普遍的? いや、違う。それは近代的と呼ぶべきだ。

普遍的なのは、子どもは彼岸を信じているということの方だ。それこそ古今東西、変わりはない。大人になっても彼岸の存在を信じている者は少なからずいる。何を隠そう、私もそのひとり。

だが、今シリーズで取り上げている〈霊〉は、近代的常識とは異なって、彼岸の存在のものを指しているのではない。それは(1)で定義した通りだ。

 『なまはげの潜在的需要』(yamachanblog)

なまはげこのおもしろおかしいブログ記事でも「キョンの長台詞」と同じようなことが語られている。もう一歩踏み込んで、「なまはげ」という彼岸の存在の効用が語られている。子どもという彼岸に近しい存在が、近いゆえに彼岸を信じるという普遍的特性を利用して、「なまはげ」を子どもたちを此岸に適応させるためのツールとして使うといったような内容である。

大人は「なまはげ」という名で呼ばれる「鬼」(彼岸の存在)が、少なくとも此岸には実在しないことを知っている。知った上で、「なまはげ」をかたどった面をかぶり、「なまはげ」を此岸に召喚する。これをアウフヘーベンと呼んでよいかどうかは正確にはわからないけれども、アウフヘーベンのようなものであるとは言えるだろう。「なまはげは実在する」というテーゼと、「なまはげは実在しない」というアンチテーゼとが、実在しないとされながらも彼岸から此岸へと召喚されるのだから。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか実は私が考えている〈霊〉というのも、この「アウフヘーベンのようなもの」である。近代以前の社会では、「霊」は実在するものだと信じられていた。近代以前の人間にとって世界とは、此岸と彼岸とが入り混ざったものだったからである。それが近代社会では社会が人間化したために、此岸と彼岸の間には厳密な境界線が引かれ、彼岸は忘却の彼方へ追いやられた――とまではいかないが、意識の隅の方に見下されつつも辛うじて位置を占めるといったような状態になってしまった。

〈霊〉は、そのような位置づけになった「霊」を此岸へと召喚したものである。

〈霊〉とは「器(インターフェイス)」すなわち人間の「心」のなかで生じる「現象」である。それは生き生きとした「像」として私たち人間には知覚される。知覚されるが外界(此岸)に存在するものではない。私の言う〈霊〉とは、そうした「心的現象」を言葉によって定義づけすることで此岸へと召喚して、此岸で取り扱うことができるようにしようという試みであり仮説である。

この記事のタイトルの“〈霊〉の潜在的需要”は、yamachanblog の記事から流用させてもらったわけだが、もちろん実際に潜在的需要もあると考えてのことだ。需要があるというのは「効用がある」ということだが、次回は具体的にその効用を示してみたいと思う。その対象には「一般意志2.0」を予定している。

一般意志2.0


「フクシマ」と「福島」 それぞれの思い

3月11日、福島県郡山市まで出てかけてきた。


参加者は1万6000人だったそうである。私は1万6000人の1だったというわけだ。誘って下さる方がいて、企画されていたバスツアーに参加させていただくことになった。以下はその折りの感想だが、例によってヒネクレタたものとなる。笑。

 参考記事:報告 : 原発いらない!3.11福島県民大集会

もともと3月11日はどこかへ出かけたいと思っていた。行くなら東京だろうと思っていた。福島に行ったのは、声がかかったから。特に東京でなければならないとも思っていなかった。でも、反原発の意思表示をするなら東京が相応しいだろうとは漠然と思っていた。

なぜ東京だと思っていたのか。漠然と思っていたことの理由に気づいたのは、恥ずかしながら「福島県民大集会」へ出かけていったからだった。ここにあったのは「フクシマの思い」だったのである。それは必ずしも「福島の思い」ではなかった。

我々にとって3.11とはどのような日であるのか。それは1に大震災があった日。2に原発事故があった日。そして、被災していない私にとっては、2のウエイトが大きい。1よりもかなり。これは偽りのないところだ。だから「福島」は「フクシマ」なのである。

しかし、「福島」の人にとってはどうか。ここのところがよくわからない。県民大集会の渦中にいると、それは私と同じである。2のウエイトが大きい。県民代表として訴えた6人の声も同じであった。でも、それが果して本当に「福島」の声なのか。

集会の後は、お決まりのデモ行進。デモで訴えの声を挙げる我々に手を振って、賛同の意を表してくれる人もいた。が、私の印象では、好意的な人はそれほど多くなかったように思う。関心無さそうな人は多かったし、なかには私たちに向かって罵声を浴びせかけた人もいた(私が遭遇したのはひとりだけ)。そうした人の背後に、どれほど無言の抗議があることか。

デモ行進の最中、我々の方も声を挙げていたこともあってその罵声の内容は聞き取れなかったが、その抗議の声の主にしてみたところで、原発の再稼働を望んでいるわけではなかろうと想像する。東電は未だに福島第二の再稼働の野望を捨て切れていないようだが、それはどう考えてもあり得ないだろう。

では、原発反対を叫ぶ我々に浴びせた罵声は何だったのか。それは「福島」を「フクシマ」としてしか捉えない我々への抗議ではなかったのか。原発で最も深刻な被害を受けたのは福島であることに間違いはない。空間線量も高い。だが、それでも、福島に暮らす者たちはそうでない我々には窺い知れぬ葛藤があるのだろう。一番の被害者だから一番反対のはずではあることに間違いはないはずだが、我々が想像するように、「一番」と「一番」とが単純に結びついているわけではないようだ。

帰りのバスの中、参加者たちで意見を述べ合った。私を除いて、参加してよかったという意見が占めた。私とて、参加に後悔をしているわけではない。だが、次は反原発の意思表示のために福島に行くことはない。行くのなら原発推進の本拠地である東京だ。「福島」の声を「フクシマ」に単純化し、それを背景に訴えることはもうしたくないし、する必要もないだろう。仮に「フクシマ」がなくても、原発には反対なのだから。

もう一点。

県民代表の訴えに先立って、作家の大江健三郎が登壇した。彼はドイツを引き合いに出して「倫理」という言葉を口にした。ドイツは倫理的な観点から反原発へと舵を切った。日本も見習うべきだ、という。まことに尤もなことだが「無責任なことを言ってくれる」というのが、私の感想だ。日本人にドイツと同じ「倫理」は逆立ちしても無理だ。

集会で一番盛り上がったのは、加藤登紀子の歌でもなく、大江健三郎の演説でもなく、県民の代表6人による訴えだったと思う。さすがに生の声は違う――だが、私は少し退いて見ていた。大江健三郎の「倫理」があったために。

県民代表の訴えに、集まった民衆が応える。それは「熱いもの」だったし、その「熱さ」を否定するつもりはまったくない。ただ、見方を変えれば―――集会の場はまるで被告不在の法廷のようであり、「県民の訴え」は「被害者の意見陳述」であり、大衆の応答は被害者への感情移入だった。東電や政府が裁かれなければならないことはいうまでもない。正当に裁きが為されないから、なおのこと裁きを求める声は高まる。それはいい。だが、あの「訴え」と「応答」は、倫理的だったのだろうか。

同じ集会に参加した人に倫理的だったかと問えば、倫理的だという答えが返ってくるだろう。しかし、私にはそれは「倫理」の意味を理解してのことだとは思えない。ここで言われる「倫理」とは、敵であっても通じる共通のルールということだ。だが、東電に果してそれがあるのか。我々も東電や政府にそれがあると思っているのか。

民主主義は闘争である。しかしそれは、共通のルールに立った上での闘争だ。宮台真司が何度も言及するウルリッヒ・ベック――原発廃止の提言をしたドイツ倫理委員会の委員でもあったらしい――の『危険社会』によれば、原発は民主主義に相応しくないという。想定できない“残余の”リスクの大きさが、民主主義的な決定の枠を超える。民主主義的に原発導入を決定はできるが、そのリスクを民主主義社会は負いきれない。『危険社会』は、チェルノブイリ以前にすでにそのことを指摘していた、という。

これこそが倫理というものであろう。倫理は民主主義を超えている。超えているから共通のルールたり得る。翻って日本はどうか。民主主義を超えたルールなど、日本人に想起することが出来るのか。

これも帰りのバスの中、やはり「倫理」という言葉を引っ張り出す者がいた。その言葉はすでに自分たちの「正義」を裏付けるものとして使われていた。闘争の土俵を定める共通のルールとしてではなく、闘争に勝つための武器として。そんなものはもはや倫理でも何でもないのだが、日本人は必ずそうなる。大江健三郎ともあろう者が、そのことに気がついていないとは。

「フクシマ」の声を自分たちの声と見なし、「倫理」を自分たちの武器だとした者たちは、さらなる【闘争】に向かうべし、と声を挙げていた。私は、共通のルールを自分たちの専有物にしてしまったら相手は倫理ない闘争で挑んでくるだけだ――と言いたかったが、残念ながらその機会には恵まれなかった。もっとも、言ってみたところで通じもしなかったろうが。

私たち日本人が共有できるのは、倫理であったとしても、それは西洋流のそれではない。3月11日、出かける前に視聴したビデオニュースドットコム――福島からの帰りが遅くなったことも相まって寝不足になってしまったが――で取り上げられていたテーマ。「倫理」と呼ぶよりも「道理」と呼ぶ方が相応しいもの。鎌倉時代に成立したといわれる「日本的霊性」ではないのかと思う。
(そのような、私からすれば他人による出来合いの【闘争】に参加するつもりは毛頭ない。)

今を生きる親鸞



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