愚慫空論

学ぶことを学ぶ ~【リアリティ】から〈クオリティ〉へ

アキラさんのところへ行ってから、少し考え込んでいた。

 野口整体はナンパ術だった。笑。

なぜ私はアキラさんのところへ行ったのか。目的は何だったのか。野口整体に直に触れてみたい、というのはそうである。だが、これはアキラさんのところでも言ったのだけれども、野口整体を学びたいということでは必ずしもない。また来月、アキラさんのところへ“遊びに”行こうと思っている。そこは野口整体を稽古する場だから、当然、野口整体をいくらかなりとも学ぶことになる。それは望むところだ。でも、そのことが私の本当の目的なのかと言われると、ちょっと違うと答えざるを得ない。

(実はこのあたりは、前記事『回想の野口晴哉』の前に書いてあった。現在、若干心境は異なるのだけども、そのままにする。)

このように自分に向かって問いを投げかけていく姿勢を「哲学」と評して下さる方がいる。私自身もその言葉を受けて、哲学かなと思ってみたりもする。その真似事をしているという意識はあるし、その評価を好意的だと感じるから、なおのことその評価を受け入れたくなる。でも、やっぱりどこかちょっと違うのである。「哲学する」ことが私の本当の目的ではないし、こんなブログを続けている理由でもない。

では、一体、何なのか。目的をどう表現すればよいのか。やっと納得のいく表現が見つかったと思う。それが「学ぶことを学ぶ」である。「哲学する」よりもよほど大仰かもしれないが、これがピッタリくる。

(先に予告しておきましょう。この文章は長くなります、たぶん。そうしたい気分だから。)



実は、哲学というならば、私はそれにまつわる場に籍を置いていたことが少しだけある。

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『回想の野口晴哉』

ここのところ、少し更新が滞っている。
前回のアップは23日で今日は28日。昨年後半以来の好調からすると、少し間が空いた感じ。

息切れしたわけではない。ネタはまだまだある。

理由は時間がないことだが、その内実には2つあって、ひとつは身体的理由。作業の内容がちょうど変わって「地拵え」というものになった。この作業は身体的に少しきつくて――いや、きついのは山梨の場合。そのあたりはまた改めて書くとしよう――、まだ身体が慣れていない。それで、パソコンに向かう時間が少なくなっている。これがひとつ。

もうひとつは精神的理由。少し不安定になっている。といっても、イライラしているわけでは全然ない。いつもより上機嫌なくらい。ただ、変わり目にさしかかっている予感がして落ち着かないのである。

実はこの記事、書くべきかどうか、書いていいものかどうか、迷っている。とりあえず書いているけど、公開しないかもしれない。公開してしまうと予感が外れるような気がしないでもないから。外れた方がいい、という気持ちもある。そのあたりが微妙なところで、そんな微妙さの中に今、居る。

そんななかで『回想の野口晴哉』を読んでいる。


まだ読み終えていない。読みながら、なぜか“困った”と感じている。

野口整体の創始者、野口晴哉の超人ぶりはこれまでもアキラさんから情報を仕入れていていた。それでも本書を読んでみると驚かされてしまう。

  我あり、我は宇宙の中心なり。我にいのち宿る。
 いのちは無始より来たりて無終に至る。
 我を通じて無限に広がり、我を貫いて無窮に繋がる。
 いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。
  我動けば宇宙動き、宇宙動けば亦我動く。
 我と宇宙は渾一不二。一体にして一心なり。
 円融無礙にして已に生死を離る。況んや老病をや。
  我今、いのちを得て悠久無限の心境に安住す。
 行往坐臥、狂うこともなく冒さるることなし。
 この心、金剛不壊にして永遠に破るることなし。
                                ウーム、大丈夫。


これが十代の頃の詩だそうだ。驚くよりも呆れるが、少し捻くれた見方をしてみれば、現代アニメ的(?)想像力に近いと言えなくもないかもしれない。だが、本当にそうした境地に立ち、その境地から具体的な技法を編み出していったとするならば? 一般人にとっては、信じるか信じないかの世界に入りこんでしまうし、実際、そういった取り扱いを受けているようだ。

この本には、一般人にはにわかには信じがたいことがいくつも書かれている。

私は元来、「信じがたいこと」も十分にありえると思って捉える人間なので、信じがたいことも事実だと思っている。目の前に起こったことでもそれが自分の常識から著しく外れていると信じないのが人間というもので、その事実は嫌というほど確認してきたから、「信じがたい」は単に信じたくないだけくらいにしか思っていない。

例えばだ。麻原彰晃なる人物は宙に浮くことができたと伝えられている。それは周到に準備されたマジックだったのかもしれない。が、事実であった可能性はあると思っている。それを信じた人間を信じたいから。かの人物の周りに集まった者たちは、そろいも揃って鈍いヤツラだったとは考え難いから。むしろ逆だったからこそ、困った問題だったわけだ。

ただ、いくら麻原彰晃の空中浮遊が事実であったとしても、私は何ら困ることはない。そんなことを自分と繋げたりはしないから。ただ客観的事実として受け止めて、それで終わり。科学的な解明にも興味はない。

ところが野口晴哉の場合は、なぜか繋がってしまった。だから困っている。

思い返してみれば、いままで私は無意識のうちに、繋がらないように防御線を張っていたように思う。アキラさんから情報を仕入れても、“すごい人っているよね”という「一般的理解」で済ましていた。こうした理解の仕方は(私の理解では)一種のハラスメントだ。「一般的理解」へと落とし込むことで、それ以上に「クオリティ」が上がっていくことに歯止めを掛けていた。

それはなぜかというと、“取り憑かれる”からである。私はそうした「クオリティ」を〈霊〉というふうに呼んでいるわけだけれども、この場合、〈霊〉の呼称はわれながらピッタリだと思う。“霊に取り付かれる”は、慣用句になっている。

慣用的な(?)理解でいうならば、霊に取り付かれるのは隙があったときだ。私は先週、アキラさんのところへ行って、野口整体のほんの一端に触れた。が、実はそこでも防御線は張っていて、失礼にもアキラさんに向かって、“特に野口整体を勉強する気はないんだ”くらいのことを言い放ってきた。いや、それはそれで悪いことをしたとは思っていない。実際問題として、時間あるいは経済的リソースは有限なのである。私が取り憑かれてしまうと迷惑を被る者も居る。

だから、なぜ、このタイミングでこの本を読んでしまったのかと思う。別のタイミングで読んだのなら、防御線を突破されることもなかったろうに。アキラさんに会ってしまったことで、ワキが甘くなっていた。困ったというのは、取り憑かれたということだ。

ただ、そうした予感は、以前から感じていなかったわけでもない。

取り憑かれたものをそのままにしておくことはできない。

今の私の「在り方」を維持しようと思うなら、取る手段は「除霊」になる。そうでないなら〈霊〉の導くところへ従うと選択だ。野口晴哉を【悪霊】と思うのなら迷うことなく除霊だが、野口晴哉はどうみても高級霊のようである。それもとびきりの。だからなおのこと、困っている。「何か」に誘われているようにも思う。

それと実はもうひとつ、これは全く予期していなかったことだけれども、別の「誘い」らしきものが私のところへやって来ている。それを確かめに、今日、東京へ出かけてくる。山梨に来てから2度目の東京。

東京は人の数が木の数よりも圧倒的に多いから、嫌いなんだけど。

ええい、ままよと公開だ。笑。

【追記】 昨日、東京へ向かう高速バスのなかで読了。後半、輪を掛けて素晴らしかった。オッサンがバスのなかで泣いてしまった。周囲は不気味だったろう。苦笑。

完敗である。「アキラさんにあってワキが甘くなった」いたなんてのは、単なるエクスキューズに過ぎなかった。

野口整体はナンパ術だった。笑。

昨日、念願だった野口整体「愉氣の会」へ出かけてきた。

 光るナス@らくらく塾(Facebookページ)

“念願だった”というのは、ちょっと違う。確かに、山梨に越してきて以来、富士におられるというアキラさんのことは意識していた。ネットの上ではアキラさんとは、私が熊野にいる頃からのお付合い。アキラさんを通じて私は野口整体に関心を持っていたし、野口整体は身体術だから、いくらテキストのやりとりをしていても通じるものには限界があるし、いずれ野口整体には直に触れてみたいし、そうなると門を叩くのはアキラさんのところだろうし...、と、ずっと思っていた。“念願”というとそれが出来なかったという響きになるが、やろうと思えば本当に出来なかったわけではない(昨年は本当にムリだったけど...)。ただ、なんとなく、機が熟していない、と感じていた。

それがやっと――というのが“念願”の意。今年になってから、3日間の断食をしてみたり、まだ記事にはしていないけれども、食べる量を減らしてみたり。こうした「現象」も機が熟したことの現われだと解釈しているが、その予感は実は昨年からあって、その証拠というわけではないけれども、昨年末のアキラさんへの挨拶は「来年こそよろしくお願いします」だった。

さて、そんなわけで体験してきた野口整体がナンパ術だったとは酷い話のように思われる――人はいないと思うけど、一応、念のためにいっておくと、これはものの例え。あまり上品な例えでないことは認める。ま、そこはそれ、樵の戯れ言ということで。笑。

これ、実際にアキラさんに向かって吐いた言葉なんです。アキラさんは笑って許してくれました。(^o^)

この言葉が出たのは、昨日実習したメソッドのひとつ「腕を引っ張る」の折に。呆れるなかれ、「腕を引っ張る」のが野口整体なのである――というのはさすがに嘘だが、アキラさん曰く、「腕を引っ張る」ことは野口整体のなんたるかを知る上で重要な要素がたくさん含まれている、んだそうだ。もちろん、ただ漫然と引っ張ればいいというわけではない。ピッタリ――とアキラさんは表現した――引っ張らなければならない。

回想の野口晴哉(それにしても、こういった方法論を体系付けた野口晴哉という人物はどんな人だったんだろう? とても興味が湧く。右掲書は注文してあるので、近々読んでみるつもりだ。)

それはこういうことである。他人に腕を引っ張れると、大抵の場合、人間の体は自然に拒絶反応を起こす。この拒絶は無意識に行なわれるものだ。腕に引っ張る力が加わると、身体は勝手に身構えるのである。しかし、上手にやると、身体の無意識的拒絶を引き起こすことなく、腕を引っ張ることが出来る。拒絶がないから縮こまった腕の筋肉や筋を能く伸ばすことが出来る。この「上手に」が「ピッタリ」なわけだが、そこをもう少しだけ詳しく説明すると、

 1.相手の腕を引っ張る
 2.相手の腕の反応を感じる
 3.相手の腕の反応に応じて、腕を引っ張る

というだけのこと。それだけだが、2.を感覚でキャッチしてそれを意識化して3.の動作へ結びつけるというようなことをやっていると、2.と3.に間隙が出来てしまって「ピッタリ」とはいかない。だから、意識せずに相手の反応に応じて、引っ張ることができるようにトレーニングをする。「ピッタリ」いくと引っ張られる方は気持ちがいい。

この「ピッタリ」は、人それぞれで異なる。同じ人でも、1回ずつ違う。一度引っ張れば多少なりとも腕は伸びるから、次に引っ張るときの状態は一度目とは異なっている。だから、毎回、機械的に引っ張ることはできない。相手の腕とコミュニケーションしつつ引っ張らなければならないのである。

さらに。それができるようになると、次は意識的に「ピッタリ」よりも少し強く引っ張ることをする、というのである。それを聴いて私は、なるでナンパだ、といって笑ったわけだ。相手に拒絶反応を起こさせないように、上手に、いや、かすかに拒絶反応を起こさせつつ、わずかな拒絶が快感になるように、引っ張る。これ、ナンパの極意でないかい? 

(おっと。ここで言うまでもないことを言っておくが、私はナンパの熟達者などではない。私はナンパなど、したこともない。ただ、

 宮台真司、ナンパを語る - Togetter

といったようなテキストを勉強して「アタマデッカチ」になっているに過ぎない。笑。)

このときの話をもう少し続けてみよう。

アキラ先生からの注意事項は、引っ張る姿勢にも及んだ。曰わく、腕で引っ張ってはいけない、腹で引っ張ってはいけない。背中で引っ張ってはいけない、とにかく「いけない」「いけない」をいくつか並べ立た。要するに全身で引っ張れということなんだけれども、「いけない」「いけない」を意識しては絶対にバラバラになると思ったので、そこは聞き流して(ゴメンナサイ)、私は勝手に自分で引っ張るイメージを造り上げた。そのイメージが、やっぱりナンパである。幸いにも、実習の相手はゆめやえいこさんというチャーミングな女性だ。

 ゆめやえいこ ゆめがたり

そこでイメージしたのはこうである。相手の反応を感じつつ、全身で引っ張りつつ、自分の懐の中へと導き入れる。けっして疚しいことを考えていたわけではない。ただイメージしただけだ。その証拠に、えいこさんってうちの嫁と歳かわらないんだよなと思った瞬間に、バラバラになった...。

あれ、証拠になっていない? まあ、いいや。とにかく、一時的ではあったにせよ効用があったことには間違いないのだ。もちろん、現場ではそんなことは口にしていない。出来るはずがない。笑。

まじめに書こう。いや、これまでもマジメだが。

整体入門実技が始まる前、アキラさんはごく簡単なレクチャーを行なった。そこで出てきたキーワードは3つ。「活元運動」「行氣」「愉氣」である。

これらを詳しく説明出来るだけのものは私にはない。そのあたりはアキラさんに尋ねて頂くか、右の『整体入門』でもご覧頂くとして、(私が勝手に)簡単にいっておくと、「活元運動」とは体の偏りを正す体の自発的な運動、「行氣」とは活元運動を意識的行なうための“氣”を練ること、「愉氣」とは練った“氣”を相手に同調させることで相手の身体の活元運動を促すことである。そして、この「同調」のありかたを表現したのが「ピッタリ」というわけだ。

ならば“野口整体はナンパ術である”の言は、一面的ではあるけれども、アナロジーとしてそんなに外れたものだとは言えない。と思う。

アキラさんは「同調」について、別の言い方もしていた。「ピッタリ」のような端的な言葉ではない。またしても私が勝手に言葉にすると“相手のファントムペインを感じる”ということにでもなるだろうが、こういうことだ。たとえば相手の肩に手を置いて繋がり、相手の身体と同調したとする。すると、相手の身体の痛みのある部分、仮に右の膝だとすると、その痛みが察知できて、「そこ! 痛いでしょう?」という具合にわかるという。これがさらに発展すると、直接体を触れなくても、遠隔操作でも同調できるようなるし(ユリ・ゲラーだ、というのは古いかw)、過去の「痛み」も察知できるようになる、という。

私は、それは技術なのかと(敢えて)問うてみたが、アキラさんの答えは明確に「技術だ」であった。確かに、昨日教わった愉氣の実践、それは鼻の周辺の調子を整えるためのものだったが、それを見る限りな身体の具体的な構造に基づいた技術であるといえる。ただし、やはり“氣”が何かとは具体的には言えないし、ましてそれが時空を超えても作用するといった話なると、「トンデモ」という評価にもなりかねないとも思う。

もっとも、アキラさんをはじめとして野口整体を学ばれている方々は、そんな外部の評価など気にしはしないだろう。それはそれでいいと思っているのだが、ただ、野口整体というものがどういったものなのかということを私が自分の言葉するときに、限界を感じてしまうということ。なので“ナンパ”などと言ってみたりはするのだが、それでも限界は超えられず、その限界がもどかしいのである。

長くなるが、ここでこの文章はここで切るわけにはいかない。もどかしいと感じるには(私なりのではあるが)理由がある。

いつものことだが、話が飛躍する。

『今を生きる親鸞』の第四章(「愚」に帰る)では、「かわいそうなネルソンさん」の話が紹介されている。

今を生きる親鸞

 ネルソンさんは、ベトナム戦争から帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。いわゆる戦争後遺症で、戦争をありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢といったかたちで、戦争の再体験をして苦しんだのです。
 戦場で目の当たりにした殺毅やあらゆる暴力、そして自らも多くの人々を殺したことが片時も頭から消えず、その惨劇が悪夢となつて毎晩のようにネルソンさんを襲いました。
 ちょっとした匂いや音でもすぐ戦闘状態に戻つてしまい、帰国後わずか一週間で家族から追い出され、ホームレスの生活を余儀なくされたのです。まさしく「生きる場」を失つた苦しみです。
 ネルソンさんは、その耐えがたい苦しみから、自殺を試みたのです。彼と同じように苦しむ帰還兵で自ら命を絶った仲間は数万人にのぼると言われています。
 その、ネルソンさんが立ち直ろうとしたきつかけは、ある一人の少女との出遇いでした。ホームレスを続ける彼が、学生時代の友人である教師に頼まれて、小学校でベトナムの体験を話すことになり、四年生の教室に立ちました。しかし、いざ子どもたちの前に立つと、ジャングルで自分がしてきたこと、見てきたことをありのままに語ることはできなかつたので、戦争一般の恐ろしさを話してその場をやり過ごしたのでした。
そんなネルソンさんに一番前にいた女の子が質問したのです。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」と。ネルソンさんは、そのことこそ、どうしても忘れてしまいたい、思い出したくない、消し去りたいと思つていたことなので、答えることができず、目をつぶつて下を向いてしまったのです。様々なことが頭をよぎりながら、最後に目をつぶつたまま小さな声で、しかしはつきりと「イエス」と答えたのでした。
 すると、苦しそうな彼の姿を見て、質問した女の子は彼のところまできて彼を抱きしめました。彼が驚いて目を開けると彼のおなかのあたりで目に涙をいつばいためた少女の顔がありました。「かわいそうなネルソンさん」。そう言ってまた抱きしめたのです。
 その一言を聞いたとたん、彼は頭が真っ白になり、大粒の涙が彼の目からあふれ出たのです。教室中の子どもたちが皆かけよつて彼を抱きしめました。子どもたちも先生も皆泣いていました。
 「この時、私の中で何かが溶けた」とネルソンさんは述懐しています。・・・


ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんと「同調」して「ファントムペイン」を的確に察知し、そして「愉氣」したのではなかったか。

これを子どもらしい純真さのゆえの行動だと言ってしまうこともできるだろう。だとすると、大人にだって子どものような純真さがあれば、同様の行動は可能だいえることになって、そこには「大人としての技術」は介在する余地はないということになる。が、果してそうか。

私がアキラさんに向かって「それは技術か」と尋ねた核心はここである。具体的な身体と抽象的な心との違いはある。身体の場合には傷んでいる場所を具体的に指摘出来る。が、「同調」という現象がおこっているとするならば、身体と心とが不可分な状態にあることは事実となる。もちろん、そんな事実はないという意見もあるだろうし、その意見に明確に反論できる根拠を持たないことは、上で述べたとおりだ。

「同調」が「大人の技術」として確立しうるものであり、それが身体のみならず心にも作用させることができるとするならば。何度もいうが、こういった問題提起そのものを「トンデモ」として退ける立場の者を説き伏せる材料はない。現段階で言えるのは、それを「トンデモ」と断言できるほどに私たちは私たち自身のことをわかってはいないというだけだ。

身体にも心にも「愉氣」をすることが出来る体系的な技術など原理的にあり得ない、とわかったならそれはそれでいい。かえってスッキリしていい。だが、それは私の「直観」に反する。直観としか言いようがないことがもどかしいのだが、何かあると思えてならないのである。

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」

ついでながらいうと、私は安冨教授の、「魂の脱植民地化」のテーマのもとで提示される理論が、その「何か」に近いようなきがしている。思うに、安富教授の理論は「人間そのもの」に信を置くことから出発している。そして「人間そのもの」の正体を追究することはおいて、「人間そのもの」を阻害する要因を科学的に研究するのだ、としている。この姿勢は、どこか野口晴哉が提唱したという「活元運動」に通じるものがあるのではないか。

これももちろん、根拠不明の私の直観でしかないが。


【追記】 アキラさんのほうでも、記事を挙げてくださいました。

 リアル愚樵さんにお会いできました♪(光るナス

稽古で行なった「腕の引っ張り」についてはもっと的確に表現されていて、さすがは専門家という感じです。是非ともこちらもどうぞ。

〈霊〉的ハラスメント論(1)

シリーズ「霊から貨幣へ」の8。

ここでは、〈霊〉の概念を用いて「ハラスメント」を解析してみたい。

まず「ハラスメント」とはなにか。"ハラスメント""定義"で検索してみると、トップに出てくるのが学校法人大阪医科大学セクシュアル・ハラスメント等防止委員会というページ。そこには

ハラスメント(Harassment)とはいろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を言います。その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指します。重要なことは相手がどのように感じ、考えるかは個人によって違うということであり、この点を充分認識して行動しましょう。


とあって、続いて「セクシャル・ハラスメント」「アカデミック・ハラスメント」「パワー・ハラスメント」「ジェンダー・ハラスメント」「キャンパス・ハラスメント」「ドクター・ハラスメント」「モラル・ハラスメント」「アルコール・ハラスメント」「スモーク・ハラスメント」などの具体的な説明が並んでいる。

定義としては一般的といっていいと思う。個々の例示もあって丁寧だとも思う。だが、しっくりこないところもある。それは、ハラスメントの判定が「相手の感情」に委ねられるとしているところだ。相手の感情でどうにでもなるなら、定義づけされたとしてもその定義そのものに意味が見いだせない。要するに相手から“それ、ハラスメント!”と言われればハラスメントだということになってしまうわけで、これではハラスメントを厳密に議論するということ自体が、その定義から原理的に出来なくなってしまっているということだ。

今を生きる親鸞安富教授は、もっと踏み込んでハラスメントを定義づける。

そもそもハラスメントとはどういうものなのか。簡単に言うと、その人自身を見ないということです。ある人と対面した場合に、その人そのものの姿ではなくて、勝手な「像」を押しつけるということが、私はハラスメントの本質だと思っています。たとえば、私がどこかで講演しているとします。そこで会場の聴衆が、安冨という人間が喋っていると思って話を聴いていればハラスメントにはなりませんが、東大教授が喋っているとか、経済学者が喋っていると思って聴いているとすればハラスメントです。あるいは、学生に対して教員が、「お前は経済学部の学生だ」と言って、一人の人間がもっている感情とか身体とか、そういうものではなくて、予め勝手に想定した像に向かって話しかけ、行為をすれば、ハラスメントになる。


厳密な定義とはいえないが、それでも一般的なハラスメント定義よりはずっと踏み込んだものだ。

 「東大教授が喋っているとか、経済学者が喋っていると思って聴いているとすればハラスメント」

これは一般的なハラスメントのイメージを覆す。というのも、ハラスメントは一般に「強者による弱者のいじめ」と捉えられているからだ。しかし、東大教授あるいは経済学者というのは、一般には、相手を強者だと認識することである。安富教授がヘソマガリな人で(どうもそうみたいだが)そんなふうに位置づけられるのが嫌だからいじめだ、というのではない。教授、学者という位置づけを喜ぶ人に対しても、そう思って接するとハラスメントになる。

この引用は私には都合の良いことに「像」という言葉が出てくる。〈霊〉とは、私の定義では「像」の一種に他ならない。

 霊から貨幣へ (1)~〈霊〉を定義する


・「その人自身を見る」とはどういうことか

「簡単に言うと、その人自身を見ないということです」。では、簡単にではなく、言うとどういうことになるのか。

「その人自身」というのは、なかなか定義付けは難しい。深追いすると哲学の迷路へ迷い込む。そこで、「その人自身」の定義はおいて、「その人自身を見る」というのがどういうことか、どのような表現で置き換えられるのかということを考えてみる。それは、「学習」ということになるだろう。
ハラスメントは連鎖する

〈霊〉と「学習」についてはすでにこちらの記事で触れたが

 霊から貨幣へ(4)~霊性と学習

次回は再度、『ハラスメントは連鎖する』を参考にしながら話を進めてみたい。

野蛮な日本人(2)

日本人の場合はどうなのか。何を基準にして野蛮を認定したのか。

 野蛮な日本人(1)

逆説の日本史3 古代言霊編今回は日本人の野蛮さを見てみるのに、時代をずっと遡って平安時代に行ってみる。それも、平安遷都を実行した桓武天皇の時代。ネタ本はやはり『逆説の日本史』。第3巻古代言霊編、平安建都と万葉集の謎。サスペンスに満ちていてなかなかに面白い「読み物」だ。

桓武天皇がなぜ平安遷都を行なったのか。ここは当記事の本筋ではないのだが、『逆説の日本史』の主張は大変に面白いのので少しだけ触れてみる。一言でいうと、それは「王朝交代」があったからだというのである。

時代をさらに遡ることこと百年弱、壬申の乱は西暦でいうと672年。天智天皇の後継者争いだが、実はこのときに「王朝交代」があったという。大海皇子すなわち天武天皇は、天智天皇の弟などではなくて別の系統の人間だった。井沢説によると、漢人だという。つまり、現在信じられている天皇家万世一系は、ここで一旦途切れているというのだ。その証拠は天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺にあって、ここには代々の天皇の位牌が祀られているらしいのだが、なぜか天武から称までは除外されているという。一般常識で考えるならば、位牌がないのはそれらは先祖ではないということだ。

称は女性天皇だったのしかも子どもがいなかった。その後を継いだ光仁は天智系だった。ただし井上皇后は天武系でその子である他戸親王が皇太子だった。光仁は井上と他戸とを抹殺し、別の妃との間に生まれた山部親王に後を継がせた。ここで天皇は純粋に天智系へと復帰するのだが、その山部が桓武天皇というわけだ。

桓武は当然、自分が天武系から天智系への転換点であること、すなわち「王朝交代」が為ったこと意識していた。だから遷都したというのである。

大変、面白い。

さて、その遷都だが、当初は、今の平安京ではなくもう少し西寄りの長岡京で行なわれる予定だった。途中まで造営が進んでいたにもかかわらず途中で放棄され、平安へと変更された。これもおかしな話だ。

理由は『逆説』によれば、怨霊である。桓武は皇太弟だった早良親王を謀殺したのだが、その怨霊が出たので長岡は捨てて平安へと変更した。もちろん、学会での意見の大勢は異なる。私たちが教科書で教わるとおりだ。

ただ、桓武は早良の怨霊を「公式」に認めてはいるらしい。それが史料で確認できるというのだ。日本の怨霊信仰は(井沢説は異なるが)学会「公式」にはこの桓武から始まったとされている。

桓武が行なった大事業は他に3つある。軍隊の廃止。死刑の廃止。そして蝦夷(えみし)征伐である。

明治憲法が日本で効力を持っていた時代、天皇は統帥権を握る軍隊の頂点だった。しかし、このことは日本の長い歴史からすると異常なことだった。古代では天皇は軍団長だった。桓武以前の時代は中国の律令制を採り入れていたわけだが、律令のなかには徴兵制度も組み込まれていた。ところが桓武はこの軍隊を放棄した。これ以降、明治まで天皇は基本的に軍事からは遠ざかることになる。理由は、怨霊、穢れである。

死刑の廃止も同じ理由からである。

ところがその桓武が、当時東北地方を支配していた蝦夷(えみし)に対して大規模な討伐軍を送り込んでいる。軍を征夷大将軍坂上田村麻呂に託して蝦夷を討たせた。田村麻呂は見事任務を果し、蝦夷の首領アテルイを捕縛した。アテルイは田村麻呂に投降してきたのである。

田村麻呂はアテルイを平安京へ連行した。それは田村麻呂の任務である。桓武はアテルイに処刑の断を下した。田村麻呂の強い助命嘆願を受け入れずに。

一方で軍隊と死刑を廃止し、一方で討伐軍を興し首領を死刑にする。このダブルスタンダードは何なのか。現代人の我々から見れば、このダブルスタンダードは野蛮に見える。

そう、キーワードは「野蛮」である。当時と今とでは「野蛮」の基準が異なるのである。現代人の我々は、桓武もアテルイも同じ人間だと見る。同じ人間に異なる基準を当てはめるのは、当てはめる人間が野蛮なのだと判断する。

これは動物であっても同じで、例えば現代のグリーンピースのような動物保護団体は、人間に近い知性を持つ(と推測される)鯨類を捕獲する日本人を野蛮だとして非難する。ここでは「知性の高さ」が基準なのである。

このような基準は、たぶんに思い込みでしかない。日本人を野蛮だとする欧米人も、その昔は鯨を大量に捕獲していた。鯨油を採るためだった。アメリカが江戸幕末に日本に開国要求してきたことの理由のひとつは、太平洋で活動する捕鯨船団の寄港地を確保するためだった。当時、欧米人は鯨の知性が高いとは思っていなかった。同様に桓武も、アテルイについては「思っていなかった」のである。では、その「思っていなかった」のが何かということだ。

それが怨霊を為すということ。桓武は野蛮なアテルイを処刑しても、早良親王(後に崇道天皇と諡)や井上皇后のように祟るとは考えなかった。桓武はアテルイを「霊的存在」とは見なかったのであって、この「霊的」こそが桓武にとっての野蛮の基準だったということである。

もし仮にアテルイが霊的存在だと見なされていたとするならば、祟りを怖れる桓武が処刑できるはずがない。よしんば処刑をしたとしても、そこには必ず神社が建立される。それが日本という国のやり方なのである。アテルイが処刑されたのは河内国だと記録されているが、河内のどこにもアテルイを祀る神社など存在しない。

(ただし茨城県の鹿島神社には、「悪路王」としてアテルイが祀られているらしい。なぜ茨城の地で祀られているのかは、よくわからない。)

(3)に続く。


雑談 ~「自力作善」と『ケ・セラ・セラ』

とりとめのない話を。
毒多さんところのコメント欄を読んでいたら、書きたくなったので。

 「卒業式」・・・といえば国旗掲揚、国歌斉唱だな(dr.stoneflyの戯れ言)

また犬の話(笑)。といって、我が家のフクとブーの話ではない。

山梨に越してきてからのことだが、ある日、ある現場へ向かおうと、車を降りて山道を歩き出すと、ほんのすぐのところでミニチュア・ダックスフントに出会ったことがあった。近づく私たちをみてキャンキャンと吠え立てるのだが、逃げようとしない。ははぁ、これはここに捨てられたな、と察しがついた。

ミニチュアダックスは人気の犬種だったから。「人気者」というのはしばしばこういう目に遭う。

現場で作業を終えて返ってくると、そのダックス君はまだその場にいた。飼い主を待っていたんだろうね。かわいそうに。
我が家にも犬はいるから、その心理はだいたいわかる。

このまま推移すれば、このダックス君はやがて山で暮らす他の動物の食料になるだろう。彼は「飼い犬」だ。犬も魂のある生き物だから、「飼い犬」から自立した「野犬」へと変貌する可能性はある。そうなれば生き残ることはできるかもしれない。でも、おそらくは無理だろう。そう推測した。我が家のフク、ブーなら「野犬」になるだろうけど。

そう考えると、突きつけられる問題は、このダックス君と自分自身がどう向き合うか、ということである。

見なかったフリをする、という選択がある。これがおそらくは一番無難だろう。でも、たぶんいちばん良くない。

ダックス君を助ける、という選択肢もある。現実的に最も困難な選択肢だ。

現実的というなら、私には不可能だった。フクとブーがいるから。飼う余裕がないというのもあるけど、連れて帰るとタダでは済まない。たぶん殺される。やつらはこの程度の大きさの動物を獲物だと思い込むフシがあるらしく...、後は想像にお任せする。

そのとき一緒にいた同僚は(ふたりだった)、これも借家だから飼えないといい、友人に犬関連の仕事(訓練士だったか?)をしている者がいるので問い合わせてみると言って、実際、すぐ携帯で連絡をとっていた。後日、その首尾を尋ねたら、「あれはもういいんです。」といった答えだった。なるほど。

そして三つ目の選択肢。それは敢えて見捨てるというもの。私の採った選択はこれ。かわいそう。でも、仕方がないね。縁がなかった。頑張って生きろよ。では、さよなら。

私はこれでいいと思っている。もちろん、人間ならこうはいかない。目の前に助けを求める人がいたら、何とかしなければならないと思うだろう。でも、目の前にいなかったら? 

そうした場合はたいてい1つめだろう。もしくは4つめ。とりあえず心を痛めたフリをして、自分が善人であるフリをして、自分を騙してやり過ごす。

「自力作善(じりきさぜん)」という言葉あるそうだ。先週のマル激で知った。

 これからわれわれは3・11とどう向き合うか

親鸞聖人の教えに「自力作善(じりきさぜん)」がある。これは、自分が何とかできるとか、自分が何かをわかったつもりになってしまうことを指す言葉で、浄土真宗では誤った態度として戒められている。本多氏はわれわれの多くが自力作善に陥り、本当は何もわかっていないのに、すでにわかったこととして、自分の中に固定化した考えを知らず知らずのうちに作り上げていたのではないか。そして、その「わかっていたつもり」が、今の政治、経済、社会の状態を生み、そしてそれがこの震災によって打ち砕かれた状態にあるのではないかと指摘する。まずは、大震災と原発事故という大惨事を目の当たりにして、何が正しくて何が間違っているのか、何が救いで何が幸せなのかがよくわらからくなって動揺している自分と向き合わなければならないと言う。



ゲストの本多氏は「東大話法」の安富教授との共著で

今を生きる親鸞

を出版された人。この本の存在は以前から知っていて、読みたいなぁ、でもちょっとカネがないなぁ、ここのところ本の買い過ぎやら福島行きやらで嫁が不機嫌だしなぁ、近所の図書館に入らないかなぁ、とか思っていたんだけれども、このマル激を見て、すぐに買ってしまった。今はネットで買えてしまうから、決めればすぐだ。

人間が自分が善人であるフリをしてしまうことと「自力作善」とは、深い関連がある。この関連こそ「闇」というべきものだろう。その「闇」に身を置く。それでいいではないか、と。

このことはしかし、自身もが、ことによっては「縁がなかったね」と言われて見捨てられてしまうことを覚悟しなければならない。人間はそれが出来ないから、本当はちっとも善人なんかじゃないのに、いや、ちょっぴりは善人だけれども、大部分は悪人なのに、というより、好むと好まざるに変わらず悪人でしかいられない、いいかえれば自分が善人でいられる範囲でしか善人ではないのに、それを見つめるのが不安になって「本当は善人なんだよ」と嘘をつきたがる。そして、「だから助けて!」と言いたがる。それどころか「ゆえに助けられるべきだ」と言い募るようになる。

「だから」は必要ない。むしろ邪魔だ。ただ「助けて」だけでいい。

生きる技法

でも、「だから」がなければ助けてくれないじゃないか。オマエも見捨てると言ったじゃないか。それとも「助けて」も捨てろというのか?

実は、少し前までの私はそうなれたらいいな、と思っていた。なれない自分に執着を感じていて、それがもどかしかったのだけれども、今ではもどかしいというのも嘘だな、と思い始めている。“「助けて」を捨てる”ことを自力でやろうと思っていた。これこそ自力でできるわけがないのに。

「だから」は捨てて「助けて」だけでいい。「だから」を捨てることができれば、もし運悪く助けてもらえなくても、そのことを恨まなくて済む。恨まなくて済むなら上出来ではないか。

「だから」を捨てるのには、自分が助けるときにも「だから」を捨てることだ。助けたいと思ったら助ける。助けたくないなら助けない。どのように、あるいはどの程度助けるかも、自分に正直にやればいい。

誤解を招くのを承知でいえば、助けるときには「神」になればいいのだ。自分の気分の赴くままに、でいい。俗世のしがらみに囚われた非力この上ない神だけど、そのことも含めて、それでいいんじゃないか。

好感を持てば助けるし、嫌悪感を持てば切り捨てる。その時の自分の感性を信じる。ただし、あくまで「その時」だ。いつでもどこでも自分の感性を信頼するなら、それもまた「自力作善」だろう。


話は変わるが。

ここのところ関心を持って読んでいるブログに『ノマドでいこう!』というのがある。この挑戦を好感を持って眺めているんだけど、そのなかのひとつの記事

 ノマドな私の自己実現(elm200 のノマドで行こう!)

を読んで、そこで紹介されいた、「なでしこ Voice」なるものを訪れてみた。

 「なでしこVoice」海外で働く女性への第三弾取材旅行(READY FOR)

今はこんなのがあるんだね。で、これも「いいな」と思ってしまったんで、また嫁の機嫌が悪くなるなと思いながら、チケットを3000円も購入してしまった。1000円にしようかと思ったが、お土産が欲しいから。笑。

今、TVのCMでこれが流れている。


なんのCMかは知らないけど。

世界への信頼に満ちた歌。『ケ・セラ・セラ』は有名な曲だけど、今改めて聴くと、以前とは違って新しく聞こえる。「フクシマ」後の現在だから、なおのこと「ケ・セラ・セラ」で行きたいと切望する。

だから、「だから」の合理性ではなく「いいね」の感性で社会が動いていくように。若い人が率先してその方向へ足を踏み出しているのなら、オヤジがそ知らぬフリをすることなんて出来ないよね。ネット上ではあるけど、それが目の前に現われてしまったら。貧乏だけど、それで満足しているけど、その満足に埋もれないで、「出来るだけ」をしてみるかな、と思ったわけだ。


人間には「一般意志2.0」を実装できるスペックがある

エントリータイトルの付け方を変更。『霊から貨幣へ』の(7)である。

〈霊〉に関するこれまでの記事はこちらから。

 カテゴリー〈霊〉

今回は(6)で予告した通り、「一般意志2.0」について〈霊〉的な視点から語ってみる。

一般意志2.0


東浩紀氏が提唱する「一般意志2.0」の「2.0」とは、私に言わせれば「1.0」の霊性バージョンアップということになる。〈霊〉とは、個々の人間の「器(インターフェイス)」のなかで結ばれる他者の「像」だが、「一般意志」というのもそうした「像」の一種ということができると考えている。ただしそれは、社会的〈霊〉というべきもので、個々人の中に宿る個別的〈霊〉の延長線上にある集合的〈霊〉である。

「一般意志」を〈霊〉で説明するに当たって、もう一度〈霊〉の定義について考えてみたい。

コンピュータのイメージ図

このイメージ図は、コンピュータを構成する主要要素の関係を示すものである。
『PC初心者の館』より拝借。)

コンピューターが必ず持っている、5つの要素を紹介します。
   これはつまり、コンピューターが行っている仕事と言い換える事が出来ます。

    ・制御 ----- 各装置を制御。人間で言えば神経に相当します。
    ・演算 ----- データを処理。 人間では脳に相当します。
    ・記憶 ----- データを保存。 これも人間では脳になります。
    ・入力 ----- データを受けつける部分。人間では目や耳になります。
    ・出力 ----- データや処理の結果を外に出す部分。
                  人間では口や手足等になります。

   これらは コンピューターの5大要素と呼ばれます。

   5大要素を人間の器官に例えたのは、
   コンピューターは人間を真似て作られたからです。


コンピュータを持ち出したのは、むろん〈霊〉を再考するためだ。(1)では『ハラスメントは連鎖する』の「魂」と「インターフェイス」の定義を借用して〈霊〉を定義してみたが、その「魂」「器(インターフェイス)」「〈霊〉」をコンピュータの5大要素に置き換えてみようというわけだ。

「魂」に相当するのは、制御と演算の役割を担うCPUだろう。インターフェイスという言葉は、コンピュータ関連の術語としては入出力装置に相当するが、〈霊〉の定義としての「器(インターフェイス)」は入出力装置+記憶装置に相当する。ここでは「器(インターフェイス)」としていたものを「器」と「インターフェイス」とに分離し、「器」が記憶装置、「インターフェイス」が入出力装置に相当するものとしよう。

すると、〈霊〉の所在地は「器=記憶装置」の中ということになる。

(1)では、チンパンジーとヒトとの行動の差異からチンパンジーおよびヒトの「器」の中に結ばれる「像」のクオリティを推測し、ヒトのクオリティの高い「像」を〈霊〉だと定義した。チンバンジーおよびヒトの構成は、その遺伝子が99%同じだと判明している通りに、ほぼ同じだと考えてよいはずだ。異なるのはクオリティである。ヒトはチンパンジーと同様の構成をしていながら、高性能のCPU、広大なメモリ領域、多様なインターフェイスを備えた高性能のマシンなのだ。そしてヒトを人間たらしめる〈霊〉とは、高性能マシンの登場で実現したマルチメディアと考えられる。MS-DOSで動いていたマシンのスペックではマルチメディアの実装は到底無理だが、それでもマシン自体の基本構成に変化はない。


夢を語ろうと思う。未来社会についての夢だ。

日本発の新しい民主主義
民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。(中略)だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。


以上のコンピュータモデルを民主主義を遂行する社会に当てはめてみる。

民主主義に必要な「熟議」を担うのはCPUである。民主主義社会においては、さしあたっては議会であろう。議会は議員で構成されるが、その議員たちの集合意識的なメモリに「一般意志」は「像」を結ぶ。

議会のCPUなメモリも、集合意識的ではあるが構成するのは人間であるから、そのスペックは基本的には人間と同じと考えてよいだろう。ただ議会のCPUとメモリに情報を提供する入力装置は、人間身体に備わった感覚装置のスペックと同等とは考えられない。それは社会制度に制約された非常に回路の細いものであって、情報量は少ない。

いくらCPUとメモリのスペックが高くとも、インターフェイスから入力される情報量が少なければクオリティの高い「像」を結ぶことは出来ない。従来の「一般意志1.0」とは、クオリティの低い、いわば静止画像的なものであってマルチメディアとは到底言えない。が、入力インターフェイスが改良されて情報量が多くなれば、結ばれる「像」はマルチメディア的〈霊〉となっていく。東浩紀氏が想像する「一般意志2.0」とはそのようなものであろうと私は解釈する。

東氏は次のように言う。

 「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー

加えて、人々は政治家というものに対して、勘違いをしているんじゃないかと思っています。政治家というのは、基本的に民衆の空気を読む人たちです。みんな、政治家がわけのわからない勝手なことをやっていると批判しますが、それは政治家が空気を読めなくなっているということを意味するにすぎない。


政治家も私たちと同じ人間である。ゆえに私たちと同じ構成と同等のスペックを持ったマシンだと考えられるだろう。ならば、政治家が「空気」を読むことが出来させすれば、大衆の欲望の集積であるところの「一般意志」を高い精度をもって感知できるだろう。

それは具体的にはなんだっていいんです。僕は本でニコニコ動画を取り上げましたが、それは一つの例に過ぎない。ただ、情報技術によってサポートされた、世論調査を遥かに超えた、細かい精度をもった民意の可視化システムを整えるというのは、これからの政治、国家にとって、非常に重要なことだと思います。そしてそれこそが本当は近代民主主義の原理に近いというのが、僕がわざわざルソーを読み返した理由です。そういう発想がないからこそ、独裁ポピュリズムしか出口がなくなっているんです。


これは要するに、入力インターフェイスの情報量を増大させよと主張しているのである。そうすれば自然に、高いスペックを持て余しているであろう議会は、もっと生き生きとしたクオリティの高い「像」(〈霊〉)を生み出すであろう、と。

私は東氏のこのような楽観的ともいえる姿勢に好感を持つ。希望を語るならばこうでなくてはいけない。自身のスペックの高さを信じて、高パフォーマンスの発揮を阻害している要因を見出し改善する。この姿勢は私が〈霊〉の発想をする元になった安富歩氏の姿勢とも共通する。

この提案について「しょぼい」とか批判が寄せられていますが、これはまったくしょぼくないと思います。この変化をしょぼいと考えるのは、想像力がないからです。考えてみて欲しい。ニコニコ動画は単純なサービスです。あれが登場した当初、それが映像の見方をここまで変え、クリエイターのコミュニティをここまで変えるとだれが予見したか。でも現実はこうなった。スクリーンのうえにコメントを流す、という単純なアイデアが、クリエイター、ユーザー、プラットフォームの関係を劇的に変えてしまう。それと同じようなことが政治でも起こると思います。


ニコ動が付け加えたのは、動画上にコメントを流すというごく単純なことである。情報量の増加という観点で見れば小さいかも知れない。しかし、それがブレークスルーポイントになって、大きなクリエイティビティを発揮させることになった。その源泉を辿れば、チンパンジーとヒトとのスペックの差異であろう。ならば、そのスペックの高さを信頼するなら、政治で情報量増大のブレークスルーがあれば創造性は発揮されていくようになるはずだと期待するのは当然の流れである。

確かに東氏が提案したシステムとしての「一般意志2.0」の具体例は、しょぼいと言える。だが、それは、チンパンジーと人との遺伝子の差異が1%しかないからしょぼいと言っているのと同じことだ。その1%の差異がどれほどの創造性を発揮したか。そのことを予想できるのはやはり「想像力」であろう。

人知の闇

3月も半ばが過ぎた。

暦はとうに春に入っている。寒さも幾分緩みだした。
山にも春の気配が、まだ少しではあるけれども、着実に訪れてきている。

山はまだまだ寒い。雪が残っていて、その上を渡ってくる風は冷たい。
それでも、どこか華やいだ気配を感じる。
冷たいなかにも、ほのかに暖かさを抱いている。
そんな感じがする。

日が長くなった。日差しも少し強くなった。
木々の芽の膨らみも大きくなり始めた。
渡りの鳥たちも姿を見せるようになってきた。
どうかすれば、さえずりも聴くことができる。
間違いなく春の気配だ。

春の気配は、これから一雨降るたびに色濃くなってゆくだろう。
新緑が萌え出すのも、もう間もなくだ。



嬉しいはずの春の訪れも、しかし、フクシマのことを思えば憂鬱になる。
春になって生態系が活発に動き出せば、放射能の影響もまた活発になりはしないかと思うからだ。

 チェルノブイリのいま – 死の森か、エデンの園か(WIRED)

1986年に事故があったチェルノブイリの周囲では、現在、豊かな生態系が甦っているという。だがその豊かさは、見せかけだけのものなのかもしれない。たくさん死ぬから、たくさん外から入り込んでくる。放射能は動物には感知できないから、危険も察知できない。放射線の影響でたくさん死ぬところは、死なないところと比較すると生存競争が緩い。それで多くの個体が外部から入ってきているのではないかというのである。いわばブラックホールの豊かさだ。

同じことがフクシマでも起こるだろう。

そんなことを考えてしまうと、嬉しいはずの春の気配も憂鬱なものになった。

核の技術は、自然の道理をねじ曲げてしまう。
人類はそんな技術に手を出すべきではなかった。

「人知の闇」という言葉が、春の気配のなかで、重くのしかかってきた。

今を生きる親鸞


霊から貨幣へ(6)~〈霊〉の潜在的需要

 〈霊〉に関するこれまでの記事はこちらから。

 カテゴリー〈霊〉



ご存知、『涼宮ハルヒの憂鬱』冒頭の、キョンの長台詞である。なんど聴いてもこれはなかかなの名調子だ。
(引用した動画は妙な字幕がついているし、音声はこもり気味で不満なのだが、良いのが見つからなかった。著作物なのはわかるが、『涼宮ハルヒ』はもはや文化遺産なのだから、冒頭の部分くらいはネットで「ふつう」に見ることが出来てもよさそうなもんだ。)

「サンタクロースをいつまで信じていたか――、なんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどーでもいい話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じいさんを信じていたかというと、俺は確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。
 幼稚園のクリスマスイベントに現れたサンタは偽サンタだと理解していたし、お袋がサンタにキスをしている所を目撃した訳でもないのにクリスマスしか仕事をしないじじいの存在を疑っていたさかしい俺なのだが、はてさて宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織や、それらと戦うアニメ的特撮的漫画的ヒーロー達がこの世に存在しないだということに気付いたのは、 相当後になってからだった。
 いや、本当は気付いたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織が目の前にフラリと出てきてくれることを望んでいたのだ。
 しかし! 現実てのは意外と厳しい! 世界の物理法則がよく出来ていることに関心しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や心霊特集をそう熱心に見なくなっていた。
 宇宙人、未来人、超能力者?そんなのいるわけねぇ。でも~ちょっと居てほしい~みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。
 中学を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業してこの世の普通さにも慣れていた。俺はたいした考えもなく高校生にもなり、そいつと出会った…」


この台詞が面白いのは、その調子の良さもさることながら、語られている内容にもある。子どもの頃はみんな誰でも「あの世」――つまり彼岸の存在を信じていた。それが大人になるにつれ、キョン曰わく「そんなガキな夢を見ることから卒業」し、極めて精巧に出来上がった物理法則が普通に支配する「この世」に慣れていくもの。そういった普遍的事実が語られているからだ。

普遍的? いや、違う。それは近代的と呼ぶべきだ。

普遍的なのは、子どもは彼岸を信じているということの方だ。それこそ古今東西、変わりはない。大人になっても彼岸の存在を信じている者は少なからずいる。何を隠そう、私もそのひとり。

だが、今シリーズで取り上げている〈霊〉は、近代的常識とは異なって、彼岸の存在のものを指しているのではない。それは(1)で定義した通りだ。

 『なまはげの潜在的需要』(yamachanblog)

なまはげこのおもしろおかしいブログ記事でも「キョンの長台詞」と同じようなことが語られている。もう一歩踏み込んで、「なまはげ」という彼岸の存在の効用が語られている。子どもという彼岸に近しい存在が、近いゆえに彼岸を信じるという普遍的特性を利用して、「なまはげ」を子どもたちを此岸に適応させるためのツールとして使うといったような内容である。

大人は「なまはげ」という名で呼ばれる「鬼」(彼岸の存在)が、少なくとも此岸には実在しないことを知っている。知った上で、「なまはげ」をかたどった面をかぶり、「なまはげ」を此岸に召喚する。これをアウフヘーベンと呼んでよいかどうかは正確にはわからないけれども、アウフヘーベンのようなものであるとは言えるだろう。「なまはげは実在する」というテーゼと、「なまはげは実在しない」というアンチテーゼとが、実在しないとされながらも彼岸から此岸へと召喚されるのだから。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか実は私が考えている〈霊〉というのも、この「アウフヘーベンのようなもの」である。近代以前の社会では、「霊」は実在するものだと信じられていた。近代以前の人間にとって世界とは、此岸と彼岸とが入り混ざったものだったからである。それが近代社会では社会が人間化したために、此岸と彼岸の間には厳密な境界線が引かれ、彼岸は忘却の彼方へ追いやられた――とまではいかないが、意識の隅の方に見下されつつも辛うじて位置を占めるといったような状態になってしまった。

〈霊〉は、そのような位置づけになった「霊」を此岸へと召喚したものである。

〈霊〉とは「器(インターフェイス)」すなわち人間の「心」のなかで生じる「現象」である。それは生き生きとした「像」として私たち人間には知覚される。知覚されるが外界(此岸)に存在するものではない。私の言う〈霊〉とは、そうした「心的現象」を言葉によって定義づけすることで此岸へと召喚して、此岸で取り扱うことができるようにしようという試みであり仮説である。

この記事のタイトルの“〈霊〉の潜在的需要”は、yamachanblog の記事から流用させてもらったわけだが、もちろん実際に潜在的需要もあると考えてのことだ。需要があるというのは「効用がある」ということだが、次回は具体的にその効用を示してみたいと思う。その対象には「一般意志2.0」を予定している。

一般意志2.0


「フクシマ」と「福島」 それぞれの思い

3月11日、福島県郡山市まで出てかけてきた。


参加者は1万6000人だったそうである。私は1万6000人の1だったというわけだ。誘って下さる方がいて、企画されていたバスツアーに参加させていただくことになった。以下はその折りの感想だが、例によってヒネクレタたものとなる。笑。

 参考記事:報告 : 原発いらない!3.11福島県民大集会

もともと3月11日はどこかへ出かけたいと思っていた。行くなら東京だろうと思っていた。福島に行ったのは、声がかかったから。特に東京でなければならないとも思っていなかった。でも、反原発の意思表示をするなら東京が相応しいだろうとは漠然と思っていた。

なぜ東京だと思っていたのか。漠然と思っていたことの理由に気づいたのは、恥ずかしながら「福島県民大集会」へ出かけていったからだった。ここにあったのは「フクシマの思い」だったのである。それは必ずしも「福島の思い」ではなかった。

我々にとって3.11とはどのような日であるのか。それは1に大震災があった日。2に原発事故があった日。そして、被災していない私にとっては、2のウエイトが大きい。1よりもかなり。これは偽りのないところだ。だから「福島」は「フクシマ」なのである。

しかし、「福島」の人にとってはどうか。ここのところがよくわからない。県民大集会の渦中にいると、それは私と同じである。2のウエイトが大きい。県民代表として訴えた6人の声も同じであった。でも、それが果して本当に「福島」の声なのか。

集会の後は、お決まりのデモ行進。デモで訴えの声を挙げる我々に手を振って、賛同の意を表してくれる人もいた。が、私の印象では、好意的な人はそれほど多くなかったように思う。関心無さそうな人は多かったし、なかには私たちに向かって罵声を浴びせかけた人もいた(私が遭遇したのはひとりだけ)。そうした人の背後に、どれほど無言の抗議があることか。

デモ行進の最中、我々の方も声を挙げていたこともあってその罵声の内容は聞き取れなかったが、その抗議の声の主にしてみたところで、原発の再稼働を望んでいるわけではなかろうと想像する。東電は未だに福島第二の再稼働の野望を捨て切れていないようだが、それはどう考えてもあり得ないだろう。

では、原発反対を叫ぶ我々に浴びせた罵声は何だったのか。それは「福島」を「フクシマ」としてしか捉えない我々への抗議ではなかったのか。原発で最も深刻な被害を受けたのは福島であることに間違いはない。空間線量も高い。だが、それでも、福島に暮らす者たちはそうでない我々には窺い知れぬ葛藤があるのだろう。一番の被害者だから一番反対のはずではあることに間違いはないはずだが、我々が想像するように、「一番」と「一番」とが単純に結びついているわけではないようだ。

帰りのバスの中、参加者たちで意見を述べ合った。私を除いて、参加してよかったという意見が占めた。私とて、参加に後悔をしているわけではない。だが、次は反原発の意思表示のために福島に行くことはない。行くのなら原発推進の本拠地である東京だ。「福島」の声を「フクシマ」に単純化し、それを背景に訴えることはもうしたくないし、する必要もないだろう。仮に「フクシマ」がなくても、原発には反対なのだから。

もう一点。

県民代表の訴えに先立って、作家の大江健三郎が登壇した。彼はドイツを引き合いに出して「倫理」という言葉を口にした。ドイツは倫理的な観点から反原発へと舵を切った。日本も見習うべきだ、という。まことに尤もなことだが「無責任なことを言ってくれる」というのが、私の感想だ。日本人にドイツと同じ「倫理」は逆立ちしても無理だ。

集会で一番盛り上がったのは、加藤登紀子の歌でもなく、大江健三郎の演説でもなく、県民の代表6人による訴えだったと思う。さすがに生の声は違う――だが、私は少し退いて見ていた。大江健三郎の「倫理」があったために。

県民代表の訴えに、集まった民衆が応える。それは「熱いもの」だったし、その「熱さ」を否定するつもりはまったくない。ただ、見方を変えれば―――集会の場はまるで被告不在の法廷のようであり、「県民の訴え」は「被害者の意見陳述」であり、大衆の応答は被害者への感情移入だった。東電や政府が裁かれなければならないことはいうまでもない。正当に裁きが為されないから、なおのこと裁きを求める声は高まる。それはいい。だが、あの「訴え」と「応答」は、倫理的だったのだろうか。

同じ集会に参加した人に倫理的だったかと問えば、倫理的だという答えが返ってくるだろう。しかし、私にはそれは「倫理」の意味を理解してのことだとは思えない。ここで言われる「倫理」とは、敵であっても通じる共通のルールということだ。だが、東電に果してそれがあるのか。我々も東電や政府にそれがあると思っているのか。

民主主義は闘争である。しかしそれは、共通のルールに立った上での闘争だ。宮台真司が何度も言及するウルリッヒ・ベック――原発廃止の提言をしたドイツ倫理委員会の委員でもあったらしい――の『危険社会』によれば、原発は民主主義に相応しくないという。想定できない“残余の”リスクの大きさが、民主主義的な決定の枠を超える。民主主義的に原発導入を決定はできるが、そのリスクを民主主義社会は負いきれない。『危険社会』は、チェルノブイリ以前にすでにそのことを指摘していた、という。

これこそが倫理というものであろう。倫理は民主主義を超えている。超えているから共通のルールたり得る。翻って日本はどうか。民主主義を超えたルールなど、日本人に想起することが出来るのか。

これも帰りのバスの中、やはり「倫理」という言葉を引っ張り出す者がいた。その言葉はすでに自分たちの「正義」を裏付けるものとして使われていた。闘争の土俵を定める共通のルールとしてではなく、闘争に勝つための武器として。そんなものはもはや倫理でも何でもないのだが、日本人は必ずそうなる。大江健三郎ともあろう者が、そのことに気がついていないとは。

「フクシマ」の声を自分たちの声と見なし、「倫理」を自分たちの武器だとした者たちは、さらなる【闘争】に向かうべし、と声を挙げていた。私は、共通のルールを自分たちの専有物にしてしまったら相手は倫理ない闘争で挑んでくるだけだ――と言いたかったが、残念ながらその機会には恵まれなかった。もっとも、言ってみたところで通じもしなかったろうが。

私たち日本人が共有できるのは、倫理であったとしても、それは西洋流のそれではない。3月11日、出かける前に視聴したビデオニュースドットコム――福島からの帰りが遅くなったことも相まって寝不足になってしまったが――で取り上げられていたテーマ。「倫理」と呼ぶよりも「道理」と呼ぶ方が相応しいもの。鎌倉時代に成立したといわれる「日本的霊性」ではないのかと思う。
(そのような、私からすれば他人による出来合いの【闘争】に参加するつもりは毛頭ない。)

今を生きる親鸞



野蛮な日本人(1)

前々回、『「生類とコスモス」から』の続き。今回のネタ本は井沢元彦著『逆説の日本史』の17巻『江戸成熟編』である。

逆説の日本史17巻『逆説の日本史』シリーズは絶対的に面白い。これも、前々回取り上げた『逝きし世の面影』以上に批判が多いものではある。週刊誌上の連載になっているためだろう、読み進めると同じような記述が何度も出てきたり、歴史がいきなり「教訓」になって現代政治についての著者の主張が展開されたりと、ウンザリするようなところも多々ある。元になっているさまざま文献やさまざま著作の解釈の質がよろしくないという批判もある。だが、そんなことは「面白さ」という点で見れば些細な瑕疵でしかない。『逆説』シリーズの面白さは、日本の歴史学会の「立場主義」への批判から出発しているところにある。

著者の井沢元彦氏は、1.「歴史学会の権威主義」 2.「史料至上主義」 3.「呪術(宗教)的側面の無視ないしは軽視」という「歴史学における三大欠陥」を論う。1.は説明の必要はないだろう。2.は、歴史史料に記述されていないことはなかったことにしてしまう姿勢。3.は、歴史上に実在する人間に寄り添わない、要するに「傍観者の論理」だ。原発を推進する御用学者達と共通するものを感じるのは、偶然ではない。

歴史学会の「立場主義」から離れた『逆説シリーズ』は、歴史上の人間に寄り添って、記録されていないところを想像力で補ったものになる。となると、小説家の書く歴史小説とどう違うのかという疑問になるのだが、私は区別のしようがないと思うし、また区別の必要もないように感じる。過去の人間の失われた意識を確定的に再現するなどということは原理的に不可能なのだから、それをできるとするのはオカルトだし、かといって、あったはずの意識を排除するのは欺瞞だ。オカルトと欺瞞の間隙を埋めるのは、今を生きる人間の想像力しかない。そして、その想像力が歴史を生き生きとした「面白いもの」にするのである。

というわけで、私は『逆説の日本史』シリーズを「面白い」と思って読んではいるが、「正しい」とは思っていない。「当たっているだろう」と思うことは多いが、「当たっている」と「正しい」は同じようで違う。また、想像力以上の井沢氏自身のイデオロギーは、私には面白くないと感じられない。それはまた別の話だ。


また前置きが長くなった。

17巻は副題が「アイヌ民族と幕府崩壊の謎」となっているように、第一章はアイヌについての記述になっている。

ツキノエ図  千島アイヌの図

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜日本は単一民族国家であるといった「神話」がよく語られる。そういった「神話」を語りたい気持ちは私も日本人として共有するけれども、「神話」とは宣伝によって出来上がったものでしかない。アイヌ民族問題は、「神話」が神話であることの証拠である。

『逆説の日本史17巻』のアイヌについての記述、というよりアイヌに対する日本人の記述だが、これは読み進めてみるといささか気分が悪くなる。前々回は馬の取り扱いを中心に記事を構成して、最後に北海道の馬だけは「家族」でも「客人」でもなく、また適切に「調教」されることなく野蛮と言いようのない仕打ちを受けていたとする記述を引用し、それは人間にも及んだと結んだが、本巻での記述はその実例にあたる。当時の日本人は温和な民族ではあったけれども、アイヌたちを野蛮な存在だと見なした野蛮人でもあったのだ。

日本人の好む自画像は「人情に篤い」であるとか「潔い」といったものであろう。勇敢であることよりも純潔であることを好む。勝ちさえすればよい、というふうには思わないのが日本人だと、日本人は思い込んでいる。が、アイヌに対する日本人の戦い方はこの自画像をやすやすと破壊する。アイヌを侵食していったのは後の松前藩だが、そのお家芸は騙し討ち。アイヌたちが反乱を起こし、日本人が劣勢になると、和議を申し入れて和解の席で酒を飲ませて討ち取る。純朴だったアイヌにはそもそも「騙し討ち」という概念がないので、幾度もその手に引っかかった。このことは松前藩の正史に堂々と記述されているという。

他にも「シャモ勘定」というべきものがあったらしい。

落語の『時そば』というのを御存じだろうか? そば屋の勘定をごまかすために勘定の銭を一文二文と小銭で渡す中、「今、何時だいしと唐突に尋ねて総計をごまかすアレだ。実は、この落語は、まんまと勘定をごまかしたのを見ていた別の男が、同じ手でごまかそうとするが、時刻の指定を間違えて勘定を余計に払ってしまうというのがオチになっている。
 これはあくまで落語だが、実は和人とアイヌの交易の場で、この「計算法」が使われていたというのである。

 たとえば、一〇を数えるのに、「一」の前に「始まり」という言葉を入れます。そして順に数えていって「一〇」までいったら、最後に「終わり」と言うのです。これで物々交換すると、「一〇」のはずが実際には「一二」になっています。ひどい場合には「五」の後に「真ん中」という言葉を入れるというのです。これで普通に二割、ひどいと三割は計算がごまかされることになります。文字を持たず、ろくに計算ができないアイヌ相手にはこれが通じたのだ、という話が現代にまで残っているのです。
 これが「アイヌ勘定」です。でも、この言葉は変です。大分たってからのこと、私はアイヌの人たちと一緒に葉書の宛名書きをしていました。書き終えて集計すると、数が合いません。すると、一人のアイヌ女性が「あっ、シャモ勘定だ」と叫び、その場がどっと笑いに包まれました。シャモ、つまり和人はその場に私一人でしたが、妙に合点がゆきました。和人がアイヌに対してごまかしを行なった計算法なのです。まさに「シャモ勘定」こそが正しい表現ではないでしょうか。


アイヌと和人との交易は、松前藩が北海道を掌握する以前から広く行なわれていた。江戸時代に入っても、松前藩は北海道全土を掌握していたわけではなかったが、商人たちはアイヌの土地へ入り込んで交易は行なっていたという。当時は鎖国政策を採っていた日本だったが、北海道はアイヌの土地であるにもかかわらず日本であると見なされ、しかもアイヌは和人とは異なった。鎖国というのは、あくまで一定の文明国に対してのものだったわけだ。

騙されて不公正な交易を行なっていたアイヌたちも、やがてその不公正さに気がつく時がくる。そうなると不満が募ることになる。適切に解決されればよいが、そこは卑怯な和人のことだ。アイヌたちは武力抗争へ向かうことになる。

アイヌ最大の反乱「シャクシャインの戦い」はそうした状況の下、1669年に起きた。この反乱は松前藩だけの手に負えず、幕府も鎮圧に乗り出すことになる。戦いの最中、松前藩の「お家芸」がまたもや勝敗の行方を左右したこともあったという。

現代の私たち日本人が学校で受ける「歴史教育」のなかには、アイヌのことは含まれていない。いや、今は知らない。もしかしたら学校でも教えるのかも知れない。だが、少なくとも私たちの世代までは教わることはなかった。島原の乱(1637年)以降、日本には大きな戦乱はなかったと教わっていたのだ。シャクシャインの戦いの「シャ」の字も出てきはしなかった。

これは隠蔽であり、欺瞞であり、「調教」であろう。

我々はしばしばアメリカ大陸を手中に収めた白人達のやり口を卑劣と批判する。また、インドを植民地化し中国にアヘン戦争を仕掛けた英国人を批判する。だが、日本人もやっていたことは変わらない。単一民族神話で隠蔽され、西部劇のようにおおっぴらに語られることがなかっただけのことだ。この日本人の卑劣さは、関東大震災時の朝鮮人虐殺や後の中国大陸での蛮行に繋がっていくものなのだろうと思う。

アメリカン・ネイティブを駆逐した白人達は、ネイティブたちを野蛮人だと考えていた。その考えこそが現代の視点からすれば野蛮人であり、その点は過去の日本人も同じである。しかし、相手を野蛮だと認定する基準が白人と日本人とでは異なる。白人達の方は明らかで、それは彼らの信仰に由来する。彼らにとって、キリスト教を知らず信じていない者は野蛮人なのである。また中国であれば中華思想というものがあって、漢字を使ったコミュニケーションを行なわない者たちを野蛮とする基準がある。

では、日本人の場合はどうなのか。何を基準にして野蛮を認定したのか。明治以降なら天皇の臣下ではないことを野蛮とするという「定義」が成り立つかもしれないが、近世以前では必ずしもそうとは言えない。不明瞭なのである。これは、「帝国」の辺境に位置しつづけた日本という文明の特徴と言えるのかもしれない。

(2)へ続く。

「前例なき」フクシマ

これから福島という名前は世界中に知れ渡ります。福島、福島、福島、何でも福島。これは凄いですよ。もう、広島・長崎は負けた。福島の名前の方が世界に冠たる響きを持ちます。ピンチはチャンス。最大のチャンスです。何もしないのに福島、有名になっちゃったぞ。これを使わん手はない。何に使う。復興です、まず。震災、津波で亡くなられた方々。本当に心からお悔やみを申し上げますし、この方々に対する対応と同時に、一早く原子力災害から復興する必要があります。国の根幹をなすエネルギー政策の原子力がどうなるか、私にはわかりません。しかし、健康影響は微々たるものだと言えます。唯一、いま決死の覚悟で働いている方々の被ばく線量、これを注意深く保障していく必要があります。ただ、一般の住民に対する不安はありません。

というような、ヒジョーに前向きな発言をなさったのは ↓


人間の身体が持つ対する抵抗力が、個人個人の「気分」によって左右されるというのは事実としてあると思う。“笑う門には福来たる”ではないが、常に上機嫌の人は抵抗力が高い。それを裏付ける科学的な研究もあるとは聞く。

しかし、それを根拠に気分だけ盛り上げれば、放射線被曝から身を守れるというのなら、それは科学者の自己否定だと思うのだが。

まあ、いい。とにかく気分は「大切」である。どんなときも常に前向きであるべきだ。福島は「前例」なきフクシマであり、ピンチはチャンスなのである。

さて、そのフクシマで、またもや「前例」なきプロジェクトが始まろうとしている。


これもまた凄い試みだ。東電には何としてもこの試みを成功させてもらわなければならない。成功の暁には、東電には明るい未来が拓けてくる――と、考えてはいないと思うが、もしそうなら...

いついかなる時でも前向きであることは、賞賛に値する。それはいい。だが、多くの犠牲を払って前例のない凄いプロジェクトを成功させたとしても、それは巨大な負の遺産が少しばかり解消されるだけに過ぎない。逆にもし失敗すれば、最悪、「日本はオシマイ」である。

そんなものを、たかが金儲けのために...。

そんなにカネが欲しいのなら、いっそのこと全部くれてやればいいと思う。もちろん、前向きにプロジェクトを成功させてくれればの話だが。そして残った我々は、独自に自分たちで貨幣を作ればよいのだ。

カネの亡者たちは、使い物にならなくなったカネを抱えてあの世へいけばよい。わざわざ我々が送り出してやるほどのこともない。

「生類とコスモス」から

前々回では馬の扱いに絡んだドラマのワンシーンを取り上げたのだけれども、そのとき思い出していたのが『逝きし世の面影』である。タイトルの「生類とコスモス」というのは、この本の第12章である。

『逝きし世の面影』は名著と名高いもので、わがブログでもたびたび取り上げているが、、一部“トンデモ”という批判もある。歴史的事実を生真面目に追究したものでは確かになく、幕末から明治初期にかけての異邦人の記録が元になっているとはいえ、それらを特定に意図の元に選別、編集したのだという意見もあながち的外れとは言えないものがある。肯定派のなかにも“ファンタジーとしては面白からそれで十分”という意見があるようだ。

だが、そうした見方は狭量だと思う。著者がいうように、この本は「失われた文明の記録、それも文明を形成していた「媒介形式」の記録である。そして、その文明はすでに失われたが、「媒介形式」の残骸は文化として現代の日本社会に引き継がれている。その文明と文化の落差を感じ取ること――どうしても哀惜の念に苛まれることになる――が、この本を読み込む醍醐味である。

貨幣とは何だろうかちなみに「媒介形式」を著者自身は「親和力」としているが、私がそれを「媒介形式」と言い換えたのは、『霊から貨幣へ(2)』で取り上げた右掲書にその理由がある。『貨幣とは何だろうか』は貨幣を「媒介形式」と規定しているが、その第三章で「媒介形式」の在り方の例としてとりあげられるのがゲーテの小説、その名も『親和力』である。

この当たりはいずれ「霊から貨幣へ」シリーズで言及してみたい。

が、ここでは馬の話だ。昔の日本人は馬をどのように取り扱っていたのか。

 さて馬はといえば、日本の馬は欧米人たちの間では、癖が悪いので有名だった。パンペリーはこれは北海道の馬についてだが、「去勢されていない牡であるため、彼らの劣悪な性質は普通はっきりとあらわれる」と言う。何が劣悪かというと、乗り手を放り出すのである。彼はこの馬たちのことを「始末に負えない獣」と呼んでいる。オイレンブルク一行も日本の馬には悩まされた。ベルクは言う。「馬は小さく体格が悪く、かけ足やギャロップは多くやるが、速歩はいやいやながらかろうじてする。しかし、けわしい斜面の道や多くの階段は至る所にあるので、駆け上ることには非常に長じている。騎乗するのは牡馬のみであるが、常に注意深くしていなければならない。なぜなら、ほとんどすべての馬は咬みっく癖があり、またたがいに歯や蹄で喧嘩し合うからである」。


かつての日本人は、馬を「調教」しなかったらしい。

 日本人は牡馬を去勢する技術を知らなかった。知らぬというより、そうしようとしなかったというべきか。古き日本にも駅逓の制があり牧の制があって、馬を集団的に統御する必要がなかったわけではない。それなのに、去勢をはじめとする統御の技法がほとんど開発されなかったのには、なにか理由がなくてはならぬ。それはやはり彼らが、馬を自分たちの友あるいは仲間と認め、人間の仲間に対してもそうであったように、彼らが欲しないことを己れの利便のために強制するのをきらったからであろう。バードは馬に馬勒をつけさせようとして、人びとの強い抵抗に出会った。彼らは「どんな馬だって、食べるときと噛みつくとき以外は口を決して開けませんよ」と言って、馬勒をつけるのは不可能だと主張した。バードが「ハミを馬の歯にぴったり押しつけると、馬は自分から口を開けるものだ」と説明し、実際にそうやって見せて、彼らはやっと納得したのである。つまり当時馬を飼っていた農村の日本人は、ハミをかませるなどというのは馬の本性に反することで、本性に反することは強制できないと考えていたことになる。去勢などは、馬の本性すなわち自然にもっとも反することであったろう。彼らは馬に人間のため役立ってほしいと思っていたに違いないが、さりとて、そのために馬に何をしてもいいとは考えていなかった。彼らは馬にも幸せであってほしかったのだ。人間の利益と馬の幸福の調和点が、外国人から見ればいちじるしく不完全な、日本的な馬の扱いとなって表われたのである。


調教をしないというのは、かつての日本文明の際立った特徴だったと思う。すべからくと言っていいだろう、文明とは自然を「調教」することで成立してたものだ。その第一歩がおそらくは農業であり、そうした「調教」はやがて人間自身にも及んだ。奴隷や去勢された宦官といったものは、「調教」の前近代的な在り方である。日本は前近代的調教の盛んだった中国文明から様々な影響を受けているが、奴隷や宦官といた制度は採り入れなかった。

近代に入って文明は人権という概念を導入し、前近代的な「調教」はしなくなった。だが「調教」そのものを止めたわけではない。近代社会では、「調教」は「教育」という名の下に行なわれる。「調教」の種類が変わっただけなのである。近代以降、「調教」をしなかった日本文明は滅びて、現代は近代的調教を行なう後日本文明の時代だと言えるだろう。

もっとも、近代的調教が成功しているとはとてもいえないが。

 参考記事:学問のすすめかた(つれづればな)


「馬の性質が悪くなるのは、調教のときに苛めたり、乱暴に取り扱うからだと以前は考えていたが、これは日本の馬の性悪さの説明にはならない。というのは、人びとは馬を大変こわがっていて、うやうやしく扱う。馬は打たれたり蹴られたりしないし、なだめるような声で話しかけられる。概して馬のほうが主人よりよい暮らしをしている。おそらくこれが馬の悪癖の秘密なのだ」。要するに彼女は、日本の馬はあまやかされて増長していると言いたいのだ。「馬に荷物をのせすぎたり、虐待するのを見たことがない。……荒々しい声でおどされることもない。馬が死ぬとりっぱに葬られ、その墓の上に墓石が置かれる」。馬は家族の一員であったのだ。彼女は馬子たちがけわしい道にかかると、自分の馬に励ましの言葉をずっとかけどおしなのに気づいていた。


当初、「調教」が前提の欧米人たちは、日本の馬の乱暴さを調教の失敗だと見なした。だが、事実を観察するに従って、調教そのものがなされていないことに気がつく。自分たちの「前提」に修正を加えるのである。

今の日本の知識人ができないのが、これだ。修正の効かない「前提」を別名イデオロギーというが、これこそ「調教」の失敗以外なにものでもない。

家族のように扱われたのは馬だけではない。犬も牛もそうだし、鶏でさえもそれに近い扱いを受けたらしい。

「どの村にも鶏はたくさんいるが、食用のためにはいくらお金を出しても売ろうとはしない。だが、卵を生ませるために飼うというのであれば、喜んで手放す」。彼女がこう書いたのは久保田でのことだったが、北海道の旧室蘭でも彼女はおなじ経験を重ねた。「伊藤は私の夕食用に鶏一羽を買って来た。ところが一時間後に彼がそれを締め殺そうとしたとき、持主の女がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来て、自分がその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、と言うのだった。」その鶏は、卵を生むことで一家に貢献し続けてくれた彼女の家族だったのだ。


そのように動物を扱った日本人は、人間としての自分自身をどのように位置づけていたか。

 なるほど日本人は普遍的ヒューマニズムを知らなかった。人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ一人一人にかけがえのない価値があり、したがってひとりの悲惨も見過されてはならぬという、キリスト教的博愛を知らなかった。だがそれは同時に、この世の万物のうち人間がひとり神から嘉されているという、まことに特殊な人間至上観を知らぬということを意味した。彼らの世界観では、なるほど人間はそれに様がつくほど尊いものではあるが、この世界における在りかたという点では、鳥や獣とかけ隔たった特権的地位をもつものではなかった。鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間もおなじことだった。世界内にあるということはよろこびとともに受苦を意味した。人間はその受苦を免れる特権を神から授けられてはいなかった。ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった。
 徳川期の日本人が病者や障害者などに冷淡だと見なされたとしたら、それは彼らの独特な諦念による。不運や不幸は生きることのつきものとして甘受されたのだ。他人の苦しみだから構わないというのではない。自分がおなじ苦しみにおちたときも、忍従の心構えはできていた。近代ヒューマニズムからすればけっして承認できないことだが、不幸は自他ともに甘受するしかない運命だったのである。彼らにはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。カッテンディーケは言う。「日本人の死を恐れないことは格別である。むろん日本人とても、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。彼等はその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をば茶化してしまう。……私は長崎の町の付近で散歩の途次、たびたび葬儀を見た。中にはすこぶる著名の士のそれさえ見たが、棺は我々の考えでは、非常に嫌な方法で担がれ、あたかもお祭り騒ぎのように戯れていた」。


このように見てくると、昔の日本人は現代人の感覚から見ても極めて温和な文化人であるかのように見える。だが、重大な欠点はやはりある。それは普遍性に欠けるという点だ。家族に対しては温和で、しかもその家族の範囲が非常に広い。また、客人に対しても同様。日本を訪れた異邦人たちは、とても好意的な歓待を受けている。だが、それらの範囲から外れた者に対しては、野蛮としかいいようのない仕打ちもしている。馬の例を拾ってみると

 石川英輔によると、十九世紀の英国での馬車馬は、四年働ける馬は稀なほど酷使されていたという。彼は「私が十九世紀の馬なら、イギリスより日本に生まれたい」と書いている。ただし、明治十一年の北海道では、眼を覆いたいほどの馬の虐待が行われていたことを補足しておかねば、話は不公平になるだろう。バードがそれを実見している。
 彼女が見たところでは、北海道の馬はみな背中にひどい傷を負っており、中には「手が入るような大きな穴」のあいているものがいた。「粗末で腹帯もつけない荷鞍と重い荷物」のせいでそうなるのだ。しかも彼らは「重い棒で眼や耳を無慈悲に打たれる」。あるとき彼女は、日本人が馬を調教している光景を目撃した。その馬は人を乗せるのは初めてで、少しも癖の悪いところはなかった。それなのにその男は「残酷な拍車」で責めつけて全速力で走らせ、馬が疲れて立ちどまろうとすると板切れで打ちのめした。そんな繰り返しのあと、馬はついに血を吹いて倒れた。すると乗り手はうまくとび降りて、馬が立てるようになると小舎へ曳いて行った。彼女は言う。「馬は調教されたといっても、実際は馬の心がめちゃくちゃにされたのであり、これから三生、役に立つまい」。こんな”調教”が、それまでの口本人の習慣になかつたことはいうまでもあるまい、北海道の荒々しい新天地では、未知のなにものかが生れつつあったのである。


著者の渡辺京二は、「北海道の荒々しい新天地では、未知のなにものかが生れつつあった」というが、それは違う。日本人は、蝦夷と呼ばれた北海道の大地ではずっと以前からそのように振る舞っていた。「調教」を知らない日本人は当然調教のやり方も知らないから、家族でも客人でもないとなると、その振る舞いは野蛮としかいいようのないものになる。そしてそれは、馬だけにではなくて、人間にも及んだ。アイヌ民族に対して、である。

この続きは、また記事を改めて。

口だけで「国の責任」と言われても

原発再稼働、地元合意前に国が判断 野田内閣が方針

 定期検査で停止中の原発について、野田佳彦首相と関係閣僚は、地元合意に先立って再稼働の是非を判断する方針を固めた。これまでは地元の理解を再稼働の前提としてきたが、国の責任を明確にすることで地元を説得するねらいがある。

 藤村修官房長官は8日午前の記者会見で、「原子力安全委員会の結論が得られた段階と、最終的に地元の理解を得られているかを含めて再稼働の判断を行う段階で、それぞれ(首相を含めた)4大臣で判断を行う手順だ」と述べた。

 政権が早期の再稼働をめざす関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)は、原子力安全委員会が近く、ストレステスト(耐性評価)の妥当性を確認する見通し。これを踏まえ野田首相と藤村氏、枝野幸男経済産業相、細野豪志原発相が安全性を確認して再稼働の是非を判断。そのうえで地元の理解を得たのち、再稼働を最終決定する。

 政権はこれまで「地元の理解や国民の信頼が得られているかという点も含めて最終的に(判断を)行う」(藤村氏)と説明してきた。だが、地元からは「国から明確なメッセージがない」(西川一誠福井県知事)と不満が出ていた。


前原誠司“口だけ番長”というニックネームを賜る御仁が民主党にはおられるらしいが、「口だけ」は民主党政権そのものだと、上の記事を読んで改めて思った次第。

国の責任を明確にすることで地元を説得する? 国が原発再稼働を決定することがなぜ「国の責任」になるのか、私の粗雑なアタマではどうしても理解できない。誰か説明してくれ。

仮に、借金を踏み倒してばかりいる男がいるとしよう。そんな人間だって「オレが責任を持つ」と言うことはできる。けど、常識的にはそんな言葉は信用されない。周囲はそんな男を責任を資格があるとは認めないし、そのことを自覚していない男をバカと認定するはずだ。

もうまもなく3.11になる。福島第一原発は、昨年中に「冷温停止状態」になったということで終息宣言が出された。けれど、この宣言が如何に無責任なものであるかは...、ネットで情報を得ている者にとっては常識だけれども、いまだにマスメディアに依存している人たちは必ずしもそうではなくて、非常に困ったことなんだけれども、でも、そのマスコミにも無責任をはっきり指摘するところも出てきた。


小出裕章:
もう見ていただいて分かるように
ここにプールがあって
その底に使用済み燃料がたくさん溜まっている
もしこれから大きな余震でも起きて
ここの壁が崩壊するようになれば
プールの水が抜けてしまいますので
使用済みの燃料を冷やすことができなくなる
そうするとどんどん更に溶けてしまうということになって
使用済み燃料がたぶん全て溶けてしまうだろうと思います
そうなると使用済み燃料の中に含まれていた膨大な放射能が
何の防壁もないここから外に噴き出してきてしまう

<地震が来ない内に使用済み燃料を抜き出して>
<横にプールでも造って移せばいいんじゃないですか>

ところが使用済み燃料を空中に吊り上げるようなことをすると
使用済み燃料から膨大な放射線が飛び出してきていますので
周辺の人達はもう死んでしまうしかないというくらいの強い

オペレーションフロアの上に
巨大なクレーンのようなものが見えます
これがクレーンで
実は巨大な容器を吊り上げたり
吊り降ろしたりするためのクレーンなんですが
もうこの建屋自身がもう爆発で吹き飛んでしまっていますから
もうこのクレーンすらが使えない

やらなければいけないことはたくさんあって
まずは使用済み燃料プールの中に崩れ落ちてしまっている
瓦礫などをどけなければいけない
そしてどけた後に巨大な容器を沈められるように
何らかのクレーンのようなものを
現場で動かせるようにしなければいけない
外から巨大なクレーンで吊るということができるでしょうから
その準備をする
そして沈めて
もうたぶん何がしか壊れているであろう使用済み燃料を
巨大な容器に入れて
それをまた外に吊り上げるということをやらなければいけない
ただそういうことを全部やろうとすると
たぶん何年という単位が必要になるだろうと思います

<その何年という間に建物を壊すような地震が来たら>

おしまいです


(http://www.asyura2.com/12/genpatu21/msg/661.html より)

「国の責任で」というようなことは、責任をシッカリ果してから言ってもらわないと。



霊から貨幣へ(5)~〈霊〉と名前

「霊から貨幣へ」のシリーズは長くなりそうなので、リンクをまとめたエントリーを作ってみた。

 カテゴリー 〈霊〉 

今回のテーマは「名前」である。まず、下の動画を見ていただきたい。ドラマ『北の国から』のワンシーンだ。


(40秒あたりから)
 「バカな話だ。馬を手放す気にはじめて、馬に名をつけてないことに気づいた」
 「20年近くも経っているのに」
 「ここらじゃ、滅多に馬には名をつけん」
 「名をつけてはいかんと教えられた」
 「名をつけると馬に情が移る。手放すときに心が痛む」


なぜ名前をつけると情が移るのか。名前というのは言葉である。名前と情の関係を考えてみることは、〈霊〉と言葉との関係を考えることに繋がる。

(ちなみに。『北の国から』をご存知の方には説明の必要はないだろうが、この物語のこのシーンで「馬を手放す」ということには大きな意味がある。それは、主人公の純が馬に命を救われているという前段があるから。そのシーンが、↓)



私たち人間は、外界に存在するモノに名前をつける。人間が操る言葉には多様なバリエーションがあるけれども、“モノに名付ける”ことを言葉の出発点と言って間違いはないだろう。

言葉には記号という側面がある。例えば「A」という文字。「A」は、これだけではなにものも指し示さない単なる記号だが、しかし、「像」ではある。聴覚によって認識される“A”という図形と、“エー”という音声が「器(インターフェイス」のなかで結合することで「像」を結ぶ。ただしこの「A」は「像」であっても〈霊〉ではない。生き生きしていないからである。単に視覚と聴覚とが結びついただけの「像」では、それ以上にクオリティを上げるべく更新されることはない。人間がもつ霊性が発揮されなる余地がない。

霊性を持つ人間にとって、言葉は単なる記号ではない。外界のモノを知覚することで「器」に創出される〈霊〉は、「器」のなかでさまざまな感覚と結合することでクオリティを増していく。言葉とは、そうした〈霊〉を指し示し、他のモノと区別して際立たせる「装置」である。「言霊」という言葉が存在することからも推測されるように、人間にとって〈霊〉と言葉とは近しい距離にある。

ここで今一度、(4)の最後で引用したガンディーの言葉を引っ張り出してこよう。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」


なんという卓見かと松岡正剛が感嘆しているけれども、私も同感だ。ガンディーは、人間の霊性(とは呼称しなかっただろうけれども)というものを知悉している。文字という「像」をあまりに早く覚えさせてしまうと、子どもの霊性の発達を阻害する結果になる。小麦と籾殻との区別には視角と触覚と発達が必要だし、小麦の味は味覚が発達しなければ知覚できない。そうした感覚情報が「器」にもたらされ〈霊〉として結合されるようになるのを待ってから、文字を覚えた方がよい。そうすれば、文字もまた〈霊〉として結合されるようになっていく。

これは人間の本来的な悦びにも適った教育だとも言える。霊的な動物である人間は、〈霊〉のクオリティを高めることを本来的な悦びと感じる。この悦びは、生理的な欲求を満たされた時の快楽とは本質的に異なる。なぜそうなのかは説明がつかない。人間とはそのような生き物なのだとしか答えようがないが、その「事実」は誰もが実感できるはずだ。

話を『北の国から』の馬の所へ戻そう。

馬には、たの動物種と区別する「馬」という名称がある。その馬に名をつけるということは、馬という名称で括られる動物の中から特定の個体を区別する、ということを意味する。

「名をつける」という行為は〈霊〉のクオリティを高めるという行為とほぼ同じと考えてよい。馬という一群の動物の中からある個体を選別し、その個体と「対話」を行なう。身体の形状や(仏教でいう有情のものとしての)反応などを知覚し「器」の中にある〈霊〉を更新しクオリティを上げていく。これは人間の本質的な悦びなので、その個体に“情が湧く”のは極めて自然なことだ。

そうした個体に「名をつける」ことを禁ずる、つまり、〈言霊〉のバージョンアップを禁ずるということは、間接的にではあるけれども、〈霊〉の更新を禁ずるということに繋がる。「名をつける」ことを禁じたからといって〈霊〉の更新を防ぎきれるものではないけれども、抑制する効果はあるだろう。そうしたことをしなければならない理由は、“手放すときにつらい”から。〈霊〉のクオリティが増すほどに、〈霊〉と繋がっている外界の他者の喪失は人間には苦痛と感じられる。〈霊〉は人間の心を構成するパーツなのである。

十分にクオリティが高まった〈霊〉の名前を呼ぶことは、それだけで人間にとっては悦びになる。自分にとって愛しい者がいる人なら誰でも、その名を呼ぶことが悦びであることを識っているはずだ。名前を呼ぶという行為は、人間の身体に情動(emotion)を引き起こし、情動は感情(feeling)として知覚され、その知覚が〈霊〉と結合する。知覚と〈霊〉との結合は、人間には基本的には悦びなのである。

基本的にはということは例外があるということだが、それについてはまた後述することにして、この記事は『ビューティフル・ネーム』で締めることにしよう。



霊から貨幣へ(4)~霊性と学習



 霊から貨幣へ (1) ~〈霊〉を定義する
 霊から貨幣へ (2) ~〈霊〉と死の観念
 霊から貨幣へ (3) ~〈霊〉と罪の観念

「霊から貨幣へ」シリーズ4回目の今回は、霊性を定義してみたい。

まず、Wikipedia から「霊性」についての記述を拾ってみる。

スピリチュアリティ(spirituality、霊性)とは、霊魂や神などの超自然的存在との見えないつながりを信じる、または感じることに基づく、思想や実践の総称である。必ずしも特定の宗教に根ざすものではなく、普遍性、共通性を志向する概念である。


ここで定義する霊性は、超自然的存在とは関連はない。(1)で示したように、〈霊〉の定義は“人間の本来的運動状態”、すなわち社会的存在となる以前の純自然的存在としてのヒトを「魂」と定義づけることから出発している。ヒトは自然な成長とともに「器(インターフェイス)」を発達させて社会的存在へ変貌していくが、その「器」のなかに人間が創出する他者の「像」が〈霊〉である。

さらに(1)では、チンパンジーとの比較を通して〈霊〉の定義を検討してみた。チンパンジーも当然に「魂」や「器」をもち、「器」の中に他者の「像」を創出する。しかしその「像」は、人間と比較したするとクオリティがかなり劣る。チンバンジーの「像」は生き生きとはしていないと考えられるのである。そこで、人間に最も近しい存在であるチンパンジーであっても生き生きとした〈霊〉は創出できない、つまり人間特有の生き生きとした「像」を〈霊〉と呼ぶ、とした。

このことは、人間は霊的動物だと言い換えることも出来る。霊的動物である所以は、人間のスペックの高さである。スペックが高いためにクオリティの高い「像」を創出することが出来る。

ここでいう霊性とは、クオリティの高い「像」である〈霊〉のクオリティの高さをいう概念である。

人間のスペックの高さを言い表す概念としては、他に知性や理性などがある。たとえば知性とは、人間が持つ「知の体系」のクオリティの高さ(体系の範囲の大きさ、緻密さ)をいう概念であり、ある人物を知性が高いと評するのは、その人物の「知の体系」のクオリティが平均水準よりも高い場合、あるいはクオリティを高めようとする構えを持つ場合である。また理性ならば、「知の体系」と自己制御の関連の緻密さと言えるだろう。理性の高い人間は、自己制御のクオリティが高いのである。

同様に、霊性も人間のスペックを言い表す概念だと考えることが出来る。「器」の中に創出する〈霊〉のクオリティの高さが霊性であり、高いクオリティの〈霊〉を持つ者、あるいは〈霊〉のクオリティを高めようとする構えを持つ者を“霊性が高い”と評することができる。




生きるための経済学

 最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば。この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。


あなたが初めてハンマーを見たとき、あなたのなかにはハンマーの〈霊〉が創出される。その〈霊〉は大きさ、形、色といった情報から出来上がっているが、クオリティはまだ低い。次にハンマーを手に取る。すると、手触り、重さという情報が加わって〈霊〉が更新される。クオリティが高まったのである。さらにハンマーを振るってモノを叩く。すると、叩いたときの衝撃その他もろもろの情報がさらに〈霊〉のクオリティを高めていくことになる。この〈霊〉のクオリティを高めていく「フィードバック回路」を作動させることが「創発」であり、〈学習〉である。


すなわち〈学習〉とは霊性を高める霊的行為だということができる。そうした霊的行為の積み重ねによって出来上がる工芸品などを“魂がこもる”と表現されるのは、ごく自然なことだろう。

しかし、近代教育における【学習】は、霊的行為でないことの方が多い。近代教育はむしろ霊的行為を阻害する「ハラスメント」である。近代教育においては、〈霊〉は言葉によって規定された「データ」として注入される。データの精度を高めていこうとするのは霊性の高い霊的行動だが、データを「正しいもの」として捉えて「データ」の更新を怠るようになったとき、このデータはもはや【霊】でしかない。

(〈 〉、【 】の表記については、こちらを参照 → クリック )

近代教育は、次々に新たなデータを注入していくことで、〈霊〉が〈学習〉によって更新されていくことを阻む。近代教育において優秀な成績を上げて社会から評価されようとするならば、〈学習〉に労力を割くよりも、新たなデータを受け入れる【学習】に傾倒する方が効率的であるということになる。社会からの【学習】圧力を撥ね除け〈学習〉へと構えを切り替えるには、いわゆる「社会のレール」から離脱するという選択をするか、もしくは【学習】を易々とこなして〈学習〉へと振り向ける労力を確保できる“卓越した”人間になるしかない。後者となれるのは言うまでもなくごくごく一握りの人間だけで、我が国最高学府の東京大学においてさえ、数えるほどしかいないと推測される。

 参考記事:オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱

近代教育は【学習】によって魂が植民地化された霊性の低い人間を大量生産することになる。現代の日本では学歴の良い者ほどアタマデッカチの霊性が低いバカになっていく傾向が見られるのは、近代教育が成功を収めたことの証しでもある。勤勉な日本人は、内田樹氏がいうように、システマティックにバカになっていったのである。



最後に。

松岡正剛 千冊千夜連関篇1393夜『ガンティーの経済学』


 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。
 なんという卓見か。その通りだ。ダースグプタは、このガンディーの教育には「方法論的個人主義」が開花していると評した。


 関連記事:犬の後ろ姿に感じる不安
        〔再掲載〕 知識

総懺悔2.0

わが日本のトップリーダー、親愛なる野田佳彦首相が先日、外国人記者たちを前に極めて日本的情緒なご意見を披露されたらしい。

Le Premier ministre japonais écarte toute responsabilité individuelle dans la catastrophe de Fukushima (RFI)

私は横文字はサッパリなので、コチラから翻訳文をお借りする。

野ぶ田

2012年3月3日、日本の野田佳彦首相は、外国人記者に語りかけた。
AFP / Kazuhiro Nogi

野田佳彦・日本首相は、福島原発の事故から約1年たった2012年3月3日土曜日、外国人記者のインタビューに応じた。同首相は、いかなる責任も個人にはないとし、あわせて、日本がエネルギー源の多様化を進める決意を示した。

「政府・電力業界・専門家は、原子力エネルギーの安全神話に染まっていた。」野田佳彦・日本首相はこのような言葉で、2011年3月11日に発生した大規模な災害に、日本が準備できていなかったことを認めた。

しかし、同首相は、津波のために福島原発で発生した事故で、いかなる刑事責任も個人にはないとした。

「日本の法律から見ると、第一の責任は運営会社」、つまり、事故を起こした原発を運営する東電にあると、野田佳彦氏は認めた。しかし、同氏はすぐに、「特定の個人を責めるよりも、一人一人が苦しみを分かち合い、そこから教訓を引き出したい」と付け加えた。

こうした発言があった数日前、独立の調査委員会は、東電社長が事故が困難を極めた場面で、発電所から撤退して国に委ねたいと望んでいたことを、明らかにしている。

ところで、日本首相はこのインタビューで、日本がエネルギー源の多様化を進める決意を示した。しかし、原子力の放棄については確約を避けた。



さすがは日本の首相だ。第一の敗戦時に、打ちひしがれた日本人が荒廃へと向かうのを押しとどめた「一億総懺悔」の心を、第二の敗戦ともいわれる「フクシマ」においても復活させようと呼びかけているわけだ。日本のトップリーダーたるもの、こうでなければいけない。

一億総懺悔は、アタマデッカチの知識人からは評判が悪い。一億総白痴化を招く契機になったというのである。しかし、その批判は的外れで、日本人が平和ボケの愚民に堕ちていったのは、アタマデッカチどもが推し進めた「悪平等」のためである。人間はかけがえのない存在として人権を有し、誰もが平等でなければならない。優れた者もそうでない者も、結果は平等でなければならない。そうした教育が日本をダメにしたのである。

一億総懺悔は米国GHQによる日本占領があってこそのものだ。賢明な日本人は、したたかにも安全保障をアメリカに委ねることで後背を堅め、前向きに総懺悔へと打って出た。その結果が奇跡と謳われた高度成長だ。日本に54基もの原発が立ち並び、世界の先陣を切って核燃料リサイクルに取り組むことができるのも、敗戦時の賢明な判断があったからこそである。

だが、残念なことに、日本は未曾有“想定外”の天災に見舞われてしまった。現下の事態は、第一の敗戦時と並ぶ日本の危機である。ここは再び、賢明な日本人の「心」を甦らせなければいけない。「総懺悔2.0」である。

幸いにも日本国政府は、アメリカ再占領の手はずを整えつつある。安全保障は日米安保から日米同盟へと進化した。経済面においてもTPPという名の占領を招来している。総懺悔2.0の条件は整いつつある。

遺憾なのは、賢明なる首相の賢明な主張を、マスメディアが一切報道しないことだ。今、日本人に必要なのはなによりも「絆」である。「絆」を再び総懺悔へと深化させ、現下の苦難を乗り切らなければならない。日本の未来へ向けた首相の言葉をマスメディアが伝えないのは、その役割を放棄することだと言わざるを得ない。

心ある日本人は野田首相の言葉に真摯に耳を傾け、新たな気持ちで日本の再出発に臨むべきであろう。


・・・書いていて、気分が悪くなった (-.-;)


 関連記事:霊的に不健康

霊から貨幣へ (3)~〈霊〉と罪の観念

 霊から貨幣へ (1) ~〈霊〉を定義する
 霊から貨幣へ (2) ~〈霊〉と死の観念

我が家には犬が2匹、居る。

フクブー

右がフク。左がブー。両方とも雌犬。避妊はしていない。

今までにフクは3回、ブーは1回、妊娠して仔犬を産んでいる。累計で12匹。そのうちの6匹を生まれてすぐに「処分」した。

フクは、私たち夫婦が以前暮らしていた熊野の集落の里犬だった。集落のなかのある家で生まれ、仔犬のうちは面倒を見てもらっていたが、やがて放し飼いされるようになった。要するに飼育放棄だ。集落のあちこちに訪問しては、餌をもらっていた。自分でも調達していたようだ。

そのころ、私たちの隣家には雄犬が一匹、いた。ゴンといった。飼い主の老夫婦は私たちの畑仕事の師匠だが、なりゆきで朝夕の散歩は私が担当するようになっていた。ゴンを散歩に連れて行っていると、フクはどこからともなく現われて一緒に遊んだ。遊んだ後、一緒に餌をあげたりもしていた。

犬の成長は速い。春先には仔犬だったフクも、晩秋には「大人」になっていた。冬になるとフクのお腹が大きくなり出した。犯人はゴンである。お腹の大きくなったフクは餌が足りなくなってきたのだろう、どこからか鶏を捕まえてくるようになったりしていた。このまま放置しておくわけにはいかないね、と隣の老夫婦と話しをしていた矢先、産気づいたのだろう、フクが隣の家の床下へ潜り込んでいった。引っ張り出して、我が家の納屋の一角を仕切って稲わらをしき、そこへ繋いだ。

フクはそこで仔犬を3匹産んだ。

この2匹は引き取り手が見つかって、里子に出された。売れ残ったのがブーだ。3匹を売り出すためにあちこちと見せて回ったのだが、そのとき、ある者が「こいつはブーだな」と言った。それがそのまま名前になった。

1年後、またフクが仔犬を産んだ。犯人はもちろんゴンである。今度は一匹だった。これは地域のNPO法人にお願いして引き取ってもらった。そのとき、犬は避妊手術をするように、と言われてた。やむを得ないと思った。

フクの子を引き取ってもらってホッとしたのも束の間、どうやらブーも孕んでいるらしいことに気がついた。犯人はゴンしかいないが、親娘である。まさかと思ったが、「犬畜生」と言うとおり、彼らはそういうもの。しばらく様子を見たが、妊娠に間違いないようなので、動物病院で堕胎と避妊手術をしてもらうべく予約をいれた。ところがその予約日の朝、ブーを連れに行こうと見に行ったら仔犬が3匹産まれていた。

動物病院には連絡を入れてキャンセル。そして決断した。この3匹は処分する。私たちのネットワークでは新たな引き取り手を見つけられる可能性は低い。といって、これ以上は我が家で面倒を見ることも出来ない。決断するなら早い方がよい。その日のうちにブーから仔犬を取り上げ、段ボールに入れて川へ流した。

犬は飼い主に従順である。飼い主なら仔犬を引き離しても牙を剥かない。抗議はする。いや、抗議というより哀願である。仔犬を見ようと思って取り上げると、鼻を鳴らしながら近寄ってきて、返せと訴える。差し出して出してやると、そっと口にくわえて寝床へ戻り、懐の中へ入れる。動物の持つ本能的な愛情の発露である。

私はそんな犬から子供を取り上げ、殺した。これは罪である。少なくとも私は罪の意識を感じている。今でも段ボールに入れた仔犬を川へ流したときのことはよく覚えている。遠ざかっていく仔犬の「ピー、ピー」という鳴き声が、思い返せば鮮やかに甦る。

ところがである。ブーは何ごともなかったかのように、私に愛情を注いでくれる。フクもそうだ。フクからも私は仔犬を取り上げた。この後、知り合った猟師に頼まれてフクに仔犬を産ませた。猟師のところの雄犬と交わらせた。フクは猟犬として優秀なのである。そのとき産まれた仔のうち、オスの2匹を残してメス3匹を直ちに「処分」した。猟師からはオスだけと言われていたからだ。

これはあくまで人間の都合だが、オスだけという理由はあるのだ。健康な雄犬雌犬を一緒にしておくと、際限なく増えてしまう。かといって避妊手術をしてしまうと猟犬として使い物にならなくなる。野生の勘が働かなくなるからである。猟師は(本当は法律違反だが)、犬に狂犬病のワクチンを接種させることさえ嫌がる。勘が鈍るというのである。イノシシ狩をする猟犬は命を落とすことがしばしばだが、そういった彼らにとって「勘」は生命線なのである。

以上のような理由と、必要とする仔犬に十分に母乳を与えるため、それになにより目が明き出すと処分する私の方が感情的に辛くなるという理由から、フクの雌犬3匹は直ちに処分したのである。

にも関わらず、彼らの私への愛情は変わらない。私の方は、彼らの愛情のおかげで普段は忘れさせてもらってはいるけれども、罪の意識を抱えている。

このような違いが生じる原因が〈霊〉である。私の「器(インターフェイス)」のなかには、「処分」した仔犬たちの〈霊〉が居る。だが、彼らのなかには居ない。この差異は、ヒトである私と犬である彼らのスペックの差から生じるもの。(2)で見たように、犬には「死の観念」がない。だから「殺した」も「殺された」もない。したがって彼らには罪の観念もない。


外界に他者が存在するとき、人間も犬も、その「器(インターフェイス)」の中に「像」を結ぶ。その「像」は人間の場合には〈霊〉である。


他者が消失したとき、犬の「器」のなかの「像」もまた消える。犬にも記憶はあるだろうから、他者が再び現われれば「像」もまた「器」の中に現われるのだろう。

(里子に出したブーの兄弟たちは、私のことをよく覚えてくれている。現在の飼い主がヤキモチを焼くくらいに悦びの感情を露わにする。)

だが、おそらく彼らの「器」には、外界の他者の存在と関係なく「像」が結ばれることはない。自ら「器」の中に「像」を出現させることもできないだろう。それが出来るのは人間だけだと考えられる。

人間が持つ「意志」とは、「器」の中に自在に〈霊〉を呼び出すことができる能力だとすることができるのかもしれない。

(関連記事というわけではないが、我が家の犬に関連した記事 →『犬がいなくなった』

「小沢一郎」が私たちを幸せにするのではない

『「敵」がとうとう姿を現わしはじめた』にいただいたコメントへの応答として、当記事をあげたいと思います。

政治家小沢一郎が「敵」から攻撃を受けている事実があります。この「敵」は、早い話が既得権益者たち。現在の日本の体制で最も“オイシイ思い”をしている連中。それは“カネが儲かる”というだけのことではなくて、「立場」が確保できると意味において。今の日本は「立場主義」社会なんです。

 「東大話法」と「立場主義」 - Togetter

日本は建前では民主主義社会ですから、「国民の生活が第一」という小沢一郎のスローガンは、いわずもがなの当然のこと。しかし、その当然のことは、「立場」を確保している連中からは都合が悪い。国民の生活が第一というのは、「国民という立場」が第一ということなのであって、それは社会体制のなかで「立場」を確保することは根本的なところでバッティングするからです。

だから「敵」たちは、彼らの「立場」を崩そうとする小沢一郎を攻撃し、葬り去ろうとしている。

「国民の立場」に立とうとする小沢一郎は、その意味では私たちの味方です。でも、注意しておかなければならないのは、小沢一郎が私たちを幸福にするというわけではないということ。私たちの味方あくまで私たち自身であって、政治家はその代表に過ぎないということ。

けれど、代表という「立場」を与えてしまうと、その「立場」は必ず自己目的化します。これは絶対的に避けることができないことです。だからどのような「立場」であれ、それを絶対化しないことが大切で、それが民主主義なんですね。

下に社会学者・宮台真司の動画を貼り付けますが、宮台氏がいつもいうセリフが“任せてブー垂れる”は、ダメだということ。民主主義は「参加と自治」なんです。


ここで宮台氏が主張しているのは「原発是非を問う都民投票」の目的です。「原発の是非」はもちろん大切な論点ですが、そこが主目的なのでなない。市民の意思を議会などの「立場ある者(ステークホルダー)」へ表明することで、「立場」との緊張関係を作り出すこと。ここが目的なのです。

そこが理解できないと、「小沢一郎」に期待を掛けて、“私たちを幸せにしてください”と「お願い」することになってしまう。もしくは「橋下徹」に「お願い」することになってしまう。これは危険なことなんです。小沢一郎は、今、私たちの「敵」の敵になってしますが、これはたまたまだとくらいに思っておいた方がいい。

ただ、ひとつ付記しておくと、私は宮台氏が「参加と自治」のベースになると考えている「知識社会」は日本人にはそぐわないと思っています。日本人は「空気」に縛られる人種です。それは当たり前のことですが、「空気」を生み出すからです。「空気」から自由になるには、「空気」を生まないという方法がひとつ。これが「知識社会」の方向性。もうひとつは、「空気」から自立するということ。そういった社会にはまだ名称はつけられていないけれども、日本人の体質に合うのはそちらの方だと私は思っています。

霊から貨幣へ (2)~〈霊〉と死の観念

貨幣とは何だろうか(1)より。

「貨幣を経済学の封じこめから解き放ち、人間の根源的なあり方の条件から光をあてて考察する貨幣の社会哲学」。『貨幣とは何だろうか』の内容紹介冒頭のセンテンス。その第一章は「貨幣と死の表象」である。

人間であるということは、単に生物学上の一種であるヒトであるということと少し異なる。人間はヒトととして生まれてきて、人間になる人間になるということが、他の動物との根源的な違いだろう。『貨幣とは何だろうか』の第1章では、人間と他の動物との根源的な違いを、精神でもなく、言語でもなく、家族でもなく、「死の観念」を持つことだとする。

人間に特有のもの

(前略)
 それは死の観念である。死と死の観念はちがう。死ぬという現象は、動物にも人間にも共通であり、自分以外のものの死に直面して何らかの反応を示すのも、動物も人間もたぶん変わりはない。高等動物では悲しみの感情を表現することさえある。だが、生物学的死に直面してなんらかの欠如感を示すことはあっても、死の観念という反省的な抽象観念をもつことはないであろう。
 このことを典型的に示す事実がある。それは、人間を除くどの動物も例外なく墓を持たないという事実である。墓は死の観念の具象化である。(後略)


私の考えでは、人間と他の動物との根源的な違いは、(1)で示したように、〈霊〉を持つことである。人間に最も近しい種であるチンバンジーでも〈霊〉を持つことはできない。チンパンジーが「交換」を出来ないのは〈霊〉をインターフェイスの中に持てないからだというのが私の仮説である。

死の観念も〈霊〉の仮説から導き出すことができる。

ヒトには本来的な運動としての「魂」があり、「魂」は外界との仲立ち機能を果す「インターフェイス」を持つ。外界に存在する他者はインターフェイスのなかで「像」を結ぶ。この「像」が〈霊〉である。


他者は客観的存在であるから、同じく魂とインターフェイスを持つ他人と共有されることになる。


死という現象は、外界に存在した他者が存在しなくなるという現象だが、人間は他者が消滅してのインターフェイスの中に〈霊〉を保持し続ける。


死の観念は、インターフェイスの中に残った〈霊〉と外界に存在していた他者との断絶が起こったことで生じる。

他の動物であっても、インターフェイスの中に「像」を結ぶことはあると考えられる。なので何らかの欠如感を感じることはあるだろう。しかし、人間が保持する〈霊〉は生き生きとした質感を持つ。〈霊〉はインターフェイスのなかで「生きている」。

貨幣とは何だろうか

 ここで重要なことは、人間は他人の生物学的死(生命体の機能停止)に驚き悲しむだけではなく(これは低いレベルの動物にもある)、死の観念にもとづいて死の世界を構成することである。しかも死者たちの共同体(墓)を生者の共同体の不可欠の要素にすることである。葬送儀礼は二つの共同体の結合の儀式である。目に見えないものをあたかも存在するかのように創造的に想像する能力を人間はそなえているのだろう。それは自分の死の可能性について意識をもつことであり、そこから一般的な死の世界を構想し、その反作用から人間世界の社会的、政治的、経済的、文化的現象をつくいだしていくのだ。

(太線強調は愚樵)


 まとめていえば、墳墓贈与貨幣権力は、動物にはまったく見られない現象であるが、これらを人間にしかない現象、人間特有の現象にするものは、死の観念である。人間が人間であること、人間が人間になること、人間が死の観念をもつこと、これらはまったく同じことなのである。


死の観念は人間が備えている「目に見えないものをあたかも存在するかのように創造的に想像する能力」から生まれる。これは〈霊〉を創出する能力である。よって、人間が〈霊〉をもつことと、人間であること、人間になること、死の観念を持つことはまったく同じことだと言うことができる。

 関連記事:『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』


「敵」がとうとう姿を現わしはじめた

「敵」がとうとう姿を目に見える形で姿を現わし始めたようだ。


「敵」という言葉のもつイメージに惑わされてはいけない。「敵」という言葉は焦点を持つ。つまり、特定の誰か、あるいは組織や団体など、名付けることができるものをどうしても想像してしまう。

しかし、私たちの「敵」は、これまではそのような形で私たちの目の前には姿をさらしてこなかった。
敵は姿を隠していたわけではない。原発推進、TPP推進、消費税推進。国民からの収奪を目論む者たちが、政治家、官僚組織、マスメディア等と分散して私たちを取り囲んでいたのである。

「敵の敵」には焦点があった。それが小沢一郎である。「敵」は我々国民に対して焦点を示し、サラウンドで「敵」だと連呼した。多くの国民はそれに騙されているのである。

小沢一郎はでっち上げの疑惑で裁判に掛けられている。小沢の秘書たちは「推認」によって有罪判決が下された。「敵」たちの仕業である。

民自が連携。そして、小沢派「排除」辞さず。

連携した民と自は、原発推進、TPP推進、消費税推進。邪魔な者は排除辞さず。

ヤツラが表立って姿を現わしはじめたのは、ヤツラの目論見が上手く行かなくなったためだ。小沢排除はずっと以前から始まっている。陸山会疑惑は排除の方策でしかない。

「敵」は分裂し始めている。これまで小沢排除という目的において検察と裁判所は一体だった。推認有罪はその証拠である。しかし、検察の陰謀が明るみに出始めて、さらには裁判所の闇も暴かれ始めて、裁判所は自身の保身のために検察を悪者にせざるを得なくなったのだろう。小沢に無罪判決が下るかどうかはなお予断を許さないが、裁判所が検察を放置することはもはや出来ないだろう。

検察と裁判所が分裂してしまった、ということは司法手続きでは小沢排除が出来なくなったということだ。なので、どうしても小沢を排除したい「敵」は、次は政治的に小沢を排除しなければならなくなった。そうして、上のような新聞記事が表に出るようになる。

これはマスメディアも「敵」から分離しだした兆候なのかもしれない。「敵」が“敵だ”と連呼していた小沢一郎が実は敵ではないと多くの国民が知ったとき、国民は「敵」という言葉のイメージに従って焦点を求める。焦点にされないためには、いち早く「敵」から分離した方が得策なのである。

これから先、「敵」たちは、焦点というジョーカーを誰が引くかのババ抜きのゲームに講じることだろう。

しかし、最後にジョーカーを手にした者だけが「敵」なのではない。ババ抜きゲームを講じていた者たちすべてが「敵」である。


霊から貨幣へ (1)~〈霊〉を定義する

「霊から貨幣へ」とは、またふざけたタイトルをつけたものだと思われるかもしれないが、冗談ではない。現代人にとって〈霊〉とは実体のないオカルティックなもの、逆に貨幣はリアリティそのものだから。しかし、私はこのふたつは現代人の一般常識とは異なって、近しい距離にあるのではないかと思っている。だから大まじめである。

前々回、『信頼のトーラス型/ブラックホール型』という記事をアップしたが、今回のシリーズはその続きになる。

『信頼のトーラス型/ブラックホール型』では、NHKの『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第4集』で、チンパンジーは交換をすることができないという事実を紹介したが、今回も同じNHKのシリーズの『第1集 旅はアフリカからはじまった』から、これまた同じチンパンジーについての事実を紹介する。以下のような実験である。

まず、二匹(プチとマリ)のチンパンジーを隣り合った檻に入れる。檻は出入りはできないが、品物は出し入れできるし、互いの様子を視認することもできる。そして、

1. 一匹のチンパンジー(プチ)の檻の外の手の届くところへジュースを置く。当然、プチは手を伸ばしてジュースを取って、飲む。

2. ジュースをプチの檻の前の、手の届かないところへ置く。マリにはステッキを与える。すると、プチはマリにステッキを渡すように要求し、マリはプチにステッキを渡す。プチはステッキでジュースを引き寄せて取り、ひとりでジュースを飲み干してしまう。


 
(画像はコチラより拝借)
3. 2.と全く同じに実験を行なう。すると再びプチはマリにステッキを要求し、マリはステッキを渡し、プチはひとりでジュースを飲み干してしまう。

2.と3.は同じ実験を行ない同じ結果に終わったわけだが、同じ結果で終わるということが人間とは異なっている。ヒトであれば、3.の時点では2.から学習して行為に変化が見られるのは容易に想像がつく。プチとマリがヒトならば、マリはプチの前にジュースが置かれた時点でプチの欲求と行動の予測がつく。なので、考えられる行動としては

 a) プチの欲求を察して、自発的にステッキを差し出す     
 b) プチが2.でジュースを分けてくれなかったことから、要求されてもステッキを渡さない

のどちらかだろう(もっとも、ヒトならば2.の時点でジュースを分配しているはずだが)。

チンバンジーの行動は、ヒトにとってすれば不思議に思える。マリの行為は純粋な利他行為に見えなくはないが、何かが欠けた印象を受ける。私は、その欠けた何かこそが〈霊〉だと思う。チンパンジーには霊を創出する能力がない。

〈霊〉とは「この世(此岸)」に実在するものではない。ヒトは「心」あるいは「人格」というものを持つが、それが実在しないのと同じこと。ヒトは心をもつことで「人間」になるが、〈霊〉とは人間の心を構成する部品に過ぎない。人間の心が脳の働きによって生じる一種の現象だとするならば、〈霊〉も同じ。心や人格は「魂を中核とした霊による構造体」だと定義することができる。

 参考記事:『霊魂』
       :『〈霊〉について 〔再掲載〕身体性=脳の拡張性』

『霊魂』の記事で記した霊の定義を再掲載する。それは「魂」を定義するところから始まるが、これは「東大話法」で注目の安富東大教授のものをそのまま拝借する。

ハラスメントは連鎖する

 出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉にいかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかも知れないが、魂と身体を対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ 身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの動きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての動きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。
 新生児について考えてみれば、身体という構造に魂という機能が備わっており、その魂という機能があってこそ、身体という構造が生きた状態のまま維持されていると言うことができる。
 何かを学習すると、脳内のニューロン同士の接合部であるシナプスが変化する。毎日重い荷物を運んでいると、筋肉が肥大していく。食事をして休息することにより、身体は成長していく。
 これらは運動が身体の構造を変化させていく例である。運動は身体の構造を変える。そしてまた、構造の変わった身体は、構造が変化する前の身体とはちがった運動状態をもつ。身体が大きくなれば、血液のめぐり方も変化する。このように運動状態と構造は不可分であり、魂と身体も不可分である。
 身体とは別個に魂が存在するわけではない。運動状態と身体の構造を同時に変化させながら、生物は生きている。


つまり、魂も〈霊〉や心と同様の、身体(とりわけ脳)の作用によって現象なのである。魂は、そうした現象のうちで、ヒトが本来的に持っているもののことを指すと言うことができる。

 魂というのは、人間が生まれたときからもっている本来的な運動状態である。ところが、それが人間の運動状態の全てであるわけではない。それは、人間が発達を通して運動状態を変化させていくからである。新たに得られた運動状態も当然、魂を土台にしており、魂なくして維持することは不可能である。しかし、学習を通して得られた新たな運動状態は、魂とは区別されるべきものである。
 生まれたばかりの子供は、外の世界に対して魂がむき出しの状態にある。より正確には母親の胎内での発生過程で、すでに学習は始まっているが、ここでは話の繁雑さを避けるために、生まれた状態を魂がむき出しの状態とする。
 外の世界、つまり外界とは、周囲の環境や周りにいる人間のすべてを含むものだ。魂がむき出しの状態にある新生児は、自分の欲求や気分を単純な方法で外界に表現する。
(中略)
 自然に成長していくなかで、魂と外界の間のインターフェイスが学習を通じて発達していく。インターフェイスとは、受けたメッセージを自分のわかる形に変換し、自分の送りたいメッセージを相手のわかる形に変換する装置のことである。
 インターフェイスという言葉に馴染みがなければ、「仲立ち」あるいは「媒(なかだち)」と呼び名を置き換えてもよい。
 仲立ちとは、異なる出自のもの同士のやりとりを媒介するものだ。
 そもそも、私たち人間が見ているものは、外界にある光の波そのものではなく、光の波を網膜の奥にある視細胞で受けた結果生じたものである。また、私たちが聞いているものは、外界にある空気の振動そのものではなく、蝸牛内にある有毛細胞が空気の振動に応答して、その場で作り出したものである。
 このように、私たちが外界から受けたメッセージを理解できるのは、外界からのメッセージを変換するインターフェイスがそもそも備わっているからである。
 ものの見え方や聞こえ方は、それまでに得た経験に応じて変化する。つまり、メッセージの変換のやり方が、学習によって変化するということだ。メッセージを媒介する仲立ちが経験とともに成長することにより、媒介できるメッセージも増え、種類も変わっていく。
 これがインターフェイスの発達である。


ヒトはインターフェイスを発達させることによって人間になる。インターフェイスとは人間の心・人格の外側である外界に実在する他者との「仲立ち」の機能を担うものだが、ここが自然に発達すると、インターフェイスのなかで他者の「像」が結ばれることになる。この「像」が〈霊〉である。


長々と説明(引用)したが、もっと簡単に言うことができる。例えば、友人を思い浮かべてみよう。その時に私たちの心の中に浮かび上がってくる「像」が〈霊〉である。友人は心の外(外界)に実在する。と同時に心の中にも〈霊〉として棲息している。今私の目の前にあるパソコンだって、私がデスクから離れてトイレへ行ったとしても、心のなかには〈霊〉として棲息している。目の前になくても思い浮かべようと思うとすぐに「像」が結ぶ。

しかも、その「像」は生き生きとしている。私たちは友人であれパソコンであれ、心の中にその「像」を生き生きと甦らせることができる。パソコンが静止画像を表示するように像が結ぶのではない。パソコンによって再生される動画よりももっと生き生きとしたものとして、私たちは「像」を動的に心のなかで再現できる。それが〈霊〉の特徴である。

(このような〈霊〉を「クオリア」と呼ぶことが出来るのかもしれないが、ここではそこには立ち入らない。)

話をチンパンジーに戻そう。

上記の魂の定義に従うなら、チンパンジーにも魂はある。インターフェイスもある。またインターフェイスのなかに他者の「像」も結ぶはずである。しかし、その「像」は〈霊〉とよぶに値しないものだと推測できる。つまり、生き生きとはしていないだろう、ということだ。いうなれば、チンパンジーは静止画像を再生するだけのスペックしかないパソコンのようなもの。この差はヒトとチンパンジーのスペックの違いに由来すると推測するのは合理的だろう。

もしチンパンジーの結ぶ「像」が〈霊〉であるなら、上記実験の3.の段階において、マリはプチの行動を予測できるはずである。また、プチはマリもジュースを欲していることを確信できるはずだ。しかしにはチンパンジーは、動的(霊的)な予測はできない。チンパンジーのスペックでは、相手の身体言語の意味を静的に理解するに留まる。

以上のように仮説を組み立てみれば、チンパンジーのちぐはぐな利他行為も合理的に説明することが可能であると思われる。

つづく。


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