愚慫空論

「杉下右京」という日本の文脈

日本の文脈内田樹と中沢新一の対談書『日本の文脈』を読んでみた。

 『日本辺境論』の内田樹と、
 『日本の大転換』の中沢新一。
 野生の思想家がタッグを組み、
 いま、この国に必要なことを
 語り合った渾身の対談集。
 鎮魂と復興の祈りを込めて――。

オビにはこのように謳われているけれども、読後の感想を言わせてもらえば、誇大宣伝。まあ、オビなんてそんなものだが。

このような言わずもがなのことを書きたくなったのは、“鎮魂と復興の祈りを込めて”、つまり昨年の3.11が商売の宣伝文句に使われていると感じているから。対談の大半は3.11以前のものだが、だからといって、「いま、この国に必要なこと」と語られていないわけではない。3.11後の混乱は「この国に必要なもの」が大きく棄損してしまっている結果として起こっていることだから、3.11以前の語られていたということが、対談者二人の知性の高さを示す上では重要なこと。しかし、それゆえに、その語り口は「渾身」ではない。むしろ普段着の、「普通」のもの。そこを魅力と感じる。

なので、「渾身」と宣伝してしまうところに嫌らしさを違和感を覚える。「商売」を感じる。3.11を都合良く使っているように感じる。そういうのは嫌悪感を覚える。

私は、3.11を語って商売をするなといいたいのではない。3.11を語ることは日本の知識人の責務だろう。だが3.11を都合よく使ってはいけない。そういった「節操」も「いま、この国に必要なこと」だと思う。わけてメディア業界において。

文句を並べてしまったが、中身は良い本なのでお勧め。


第7章は『世界は神話的に構成されている』と題されていて、これは3.11後の対談のようだが、日本の欠点を示す例としてパニック映画が話題に上っている。パニック映画は、マニュアルにない危機的状況に遭遇したときに、人はどう判断しどう行動するかの学習機会だ、という。

内田 (前略)
 パニック映画って、話の構造は同じなんです。「恐るべきもの」が切迫してくる。それを感知する人は非常手段をとることを訴える。それを感知できない人たちは自分たちの日常的な価値観の内側でことを処理しようとする。そして、「想定外」の悲劇が起きる。つまり、ハリウッドで繰り返しつくられるパニック映画って、あるいみでは危機対応マニュアル集なんですね。危機対応シミュレーションを、映画というかたちでふだんからやっている。だけど日本映画にはパニック映画ってほとんどないでしょう。
中沢 『踊る大捜査線 THE MOVIE』とか『交渉人 THE MOVIE』(2010年)とかあるけど、ちょっと違うね(笑)。
内田 日本のパニック映画といえば『ゴジラ』(1954年)が原型ですけど、ゴジラを退治に行く芦沢博士だってけっして自分から進んでいくわけじゃない。ちゃんと政府筋から要請されて公式にゴジラを殺しに行くんです。アメリカ映画みたいに、上の人たちはああしろ、こうしろと言っているけど、あいつらはぜんぜんわかっていないからって現場が自己裁量で行動して危地を救うヒーローの話って、日本映画には出てこないんです。
中沢 『ダイ・ハード』(1988年)でブルース・ウィリスが勝手に動き出すと上層部は困るけど、ああいうトリックスターが出てくるからカタスロフが回避できる。日本ではトリックスターがでてこないんですねえ。
内田 日本的システムの最大の脆弱性はそこですね。日本人は、上からの指示には従順だし、きちんと設計して精巧にものを作ることにおいては能力が高いんだけど、従来の手順では対応できない危機的状況で自己判断で動ける人財を育てるという気がぜんぜんない。



私は、私は伝統的な日本人は上に従順だとは思わないし、また、そうであるからこそ精巧にものをつくることにおいて能力が高いのだと思っている。設計図どおりに精巧に作り込むには、設計図で想定されている以上の精巧さが必要で、それは上に従順なだけでは絶対に生まれてこない。内田氏は武道家なのにそのことが感知できないのか? 武道家と職人とはまた異なるのかもしれない。

(自己判断で動ける人財をシステマティックに排除しているという点は同意。)

上に従順ではなく、職人的な精巧さと並外れた危機感知能力を持つキャラクター。「杉下右京」とは、まさにそれだろう。


(まったくの余談だが、私は『相棒』シリーズはほとんど視聴済み。『踊る大捜査線』は少し観た。『交渉人』は全然知らない。)

杉下右京のキャラクターは、アメリカの『コロンボ警部』とイギリスの『シャーロック・ホームズ』が元になったのだと想像する。精巧な頭脳と超人的な感知能力で難事件を解決していく。右京が主人公の『相棒』は大人気のシリーズのようだ(何度も何度も何度も再放送されていて、これしかないのか、といいたくなるくらい。実際にこれしかないのだろうが。)

『相棒』は刑事ドラマシリーズだから、物語の最終目標は「犯人逮捕」になる。だが、それもスケールが大きくなると「パニック映画」に近いものになる。そういったときの杉下右京は、キャラクターイメージこそ全く異なるけれども、ジョン・マクレーン(『ダイ・ハード』の主人公)と同じ役回りを演じることになる。上層部が困るということも同じだ。

ただ、トリックスターかというと少し違う感じがする。理由は杉下右京には理解者がいるからである。それが「相棒」であり、こちらの方がドラマのタイトルになっている。ここが重要なところである。

亀山  神戸尊

杉下右京が「真実の探求者」である。ただ、それはドラマシリーズのなかで絶対の正義として位置づけられているわけではなく、あくまで右京自身の信念とされる(右京の信念を相対化する人物として「官房長」がいる)。真実の探求であろうが、個人的信念に基づいて秩序を乱すのはトリックスター的なのだが、『相棒』は、そうした信念が理解者を得ることによって初めてうまく機能するのだという設定になっている。ジョン・マクレーンのように信念だけでは突っ走れないのである。トリックスターは、日本では、ただトリックスターであるだけでは機能しえない。

いや、ジョン・マクレーンにだって理解者はいる。だがその理解者は、物語の不可欠な構成要素ではない。むしろ信念の補強材料である。ところが『相棒』は違う。そのタイトルからして明らかだが、実は理解者こそが「主役」なのである。『相棒』は、理解者が主役になってゆく過程を描く理解者の成熟物語になっている。

(初代『相棒』の亀山薫は成熟した結果として「卒業」し、二代目神戸尊もまもなく「卒業」するらしい。)

もう一点。杉下右京という「コロンボ」+「ホームズ」=「日本的職人警察官」のキャラが示すのは、従順なのは「上」でも「下」でもなく「横」という点。「横」はいうまでもなく「相棒」である。

右京が忠実なのは、なにもりも自己の信念である。なので、その信念の社会的価値はどうであれ自己中心的に見えるし、実際に(といってもフィクションとしての物語のなかであるが)そういった場面も多い。だが、それは誰にも従順でないということにはならない。自身が「信念を持っていること」を理解する者には従順である。

「信念を持っていること」への理解と「信念」の理解とは大きく異なる。右京は自身の信念はあくまで自身のものであり、他人が理解すべきものとは思っていない。警察官であるならば警察官の使命である「真実の追究」を信念とすべきだとは考えている。だが「役」どころが違えば、具体的には警察官僚の「官房長」ならば、その「役」に沿った「信念」があっても構わないと考えている。自身の「信念」と他人の「信念」とがバッティングすることすらも致し方ないと考えている。と、そう考えながら、同時にどこかしら従順なところがある。自身が“うまく使われること”を意に介しないフシがある。

その点は「相棒」たちに対しても顕著だ。まるで、自身の「役」とその信念とを明確に示すことで、相棒たちが彼ら自身の「役」と信念とを探し当てることを促しているかのように見える。もちろん、それは成熟を促しているということである。

『相棒』は商業的なTVドラマである。そのこともあってだろう、「相棒」成熟のプロットが綿密に構成されているわけでく、実際の構成はいささか場当たり的ではある。今、上で述べたことは、前もって練られていた構想というよりも「流れ」としてそのようになったという印象を受ける。

が、だからこそ、こういった物語が日本で人気を博しているという事実を、「日本の文脈」から考えてみる必要があると思うのである。

  



信頼のトーラス型/ブラックホール型

今回は貨幣のことについて触れてみたいが、その前に。

トーラスというものを最初に引っ張り出してきた『祈りのゼロポイント』の記事――これは今上陛下の快癒を祈る人々に触発されて書いたもの――に、私は次のように追記をした。

この文章には根本的な誤りがあることに気がついた。ゼロポイントには実体がない。天皇が祭主であるということは、天皇はゼロポイントには位置しないということだ。ゼロポイントに限りなく近くに位置するとしても、ゼロポイントではない。

天皇の特殊な政治性は、ゼロポイントにもっとも近い存在でありながら、決してゼロポイントそのものではないことにあるような気がする。

ゼロポイントに位置するのは超越神。あるいは何も存在しない。すなわち「無」。そのいずれかだ。超越神であっても無であっても、ゼロポイントに固有の「名」を付けることは出来ない。名を付けた瞬間にゼロポイントから外れる。一神教が神の名を呼ぶこと、また偶像崇拝を禁止する理由は、ゼロポイントは名付けることが出来ないからであろう。


意識というものを持つ人間にとって「名を付ける」という行為は、「実体を与える」ということにほぼ等しい。「名付けられたもの」が物質的実体を持つ持たないは関係がない。私たち人間は、名付けられるとそれが「本質」であるかのように錯覚をしてしまう生き物だ、ということ。つまり「アタマデッカチ」なのである。

その「アタマデッカチ」をよく表すのが「ゼロ」という概念。「ゼロ」は“何もない”ということを意味するのに、「ゼロ」と名付けられた瞬間に“「ゼロ」というものがある”と人間は直観してしまう。これは、「ゼロ」を「A」という記号に置き換えると「A=非A」という大変に矛楯したことになってしまうが、これこそ人間というものであり、そこから「ブラックホール」が生じるのであろうし、この矛楯を乗り越えるのが「トーラス」ということになるのだと思う。

天皇の特殊な政治性というのも、おそらくはここに由来する。天皇は祭主である。その祭主が病に伏し、民が快癒の祈りを捧げる。この現象に私はトーラスを連想したというのが『祈りのゼロポイント』の趣旨なのだけれど、なぜそんな風に感じたのか、もう少し考えてみたら、次のようなことに思い当たった。比喩的な表現になるけれども、民は陛下の「背中」に祈りを捧げている、ということ。

祭主というものは、「ゼロポイント」に向かって祈る者である。祈るのは祭主だけでなく民も祈るから、祭主は祈る者の代表者だ。祭主が先頭に立って、ということは最も「ゼロポイント」に近い位置で祈る。そのとき、民は祭主の「背中」に向かって祈る格好になる。祭主の「背中」に向かって祈ることで、祭主の「祈り」を後押して「ゼロポイント」の「向こう側」――「ゼロポイント」の「こちら側(此岸)」が一点に収斂するブラックホールだとすると、「向こう側(彼岸)」は一点から拡散するワームホール――へ「祈り」を届けようという構えになる。その姿勢が「トーラス」を思い起こさせるのだ。



この「構え」――彼岸と向き合う――こそが本来的な政治の「構え」なのだろうと私は思っているのだけれども、今日、私たちにとって政治とは、あくまで此岸のものである。祭主が政治を司るとなると、それまで「向こう」を向いていたものが「こちら」へ向き直らなければならない。すると祭主の「背中」へ祈っていたはずが「正面」へ祈る形になってしまう。祭主は「ゼロポイント」を背に、民へと向き合うことになる。古代の神権政治といったような形は、代表者がわれわれの方へ「向き直る」ことから発生したのだろう。

だが、「向き直った」瞬間に彼岸への祈りは届かなくなり、「ブラックホール」と化してしまう。

この「トーラス→ブラックホール原理」(?)は、現在でも有効性を保っている。現代日本において、「ゼロポイント」として祭り上げられているのは天皇の他に「愛国心」というものがある。国民が愛国心に向き合うのはいい。国民の代表者が向き合うのもいい。しかし、代表が愛国心を背に国民と向き合ってしまうと、愛国心という「ゼロポイント」はブラックホールの中心と化して、国民を飲み込んでいくことになる。


前置きが長くなってしまった。やっと本題の貨幣に入る。

昨夜、NHKで貨幣のついての興味深い番組が放映されていた。

 ヒューマン なぜ人間になれたのか 第4集 そしてお金が生まれた
(3月1日(木)午前0時15分から再放送の予定あり)

この番組で特に印象に残ったのは、次の2つの指摘。

 ・貨幣は人間が信頼する生き物だからこそ発生した
 ・貨幣は「個人」を生んだ

人間にもっとも近しい存在であるチンパンジーだが、その彼らでさえ他人を信頼するということがなかなかできない。番組で紹介されていた実験は、チンパンジーにリンゴを与えて、さらにチンパンジーの好物であるブドウとの交換を促そうというものだった。人間ならば容易に交換に応じるだろう。だが、チンパンジーにはそれができない。リンゴを渡した瞬間に取り上げられると恐れを捨てきれないからだろうが、これでは交換が生じることはない。

人間経済は交換があることによって成立する。貨幣は人間経済という非平衡開放系のなかに出現する散逸構造だが、別の言い方をすれば「交換のゼロポイント」である。人間は環境から多様な資源を生み出すが、それらは貨幣という「ゼロポイント」に一旦収斂する。そのことで交換が高能率で行なわれるようになる。人間が高度な文明を発展させることができるようになったのは、「お金」が生まれたから――番組の主旨を一言でいえば、このようになろうか。

では、なぜ貨幣は「個人」を生んだのか。貨幣は「資源の交換」という経済においては「ゼロポイント」。人間が「個人」となったのは、貨幣という「ゼロポイント」を持つことで、資源の生産という「此岸」と消費という「彼岸」とを結びつけることができるようになったから――と、私は言ってみたい。

だが、人間が「個人」となることで弊害も生まれた。誰もがすぐに思いあたる「格差」という問題である。なぜ格差は生じるのか。



長い長い前置きをしたのは、実はここのところが言いたかったのだ。私たちは貨幣に対して、なんらかの感情を持つ。それは、大抵は「欲望」と呼ぶのが相応しいが、しばしばその「欲望」に嫌悪感を抱く。このジレンマは、「ゼロポイント」を背に民に対して向き直った祭主に感じるそれと同じなのではないか、ということだ。この祭主は、現代では象徴と位置づけられているが、象徴というならば現代のデータでしかない貨幣もまた象徴といえよう。私たちは、そうした貨幣の「正面」を見ているのか、あるいは「背中」を見ているのか?

貨幣に対する「欲望」は、明らかに「正面」を見ているときの感情である。では、「背中」を見ているときに生じる感情は、なんであろうか。その感情はどのように名付けられているのか。考えてみるのだが、私には名が思い当たらない。

だが、「背中」を見ているときの感情は間違いなく、ある。その感情があるからこそ、私たちは貨幣を、たとえば募金という形で見ず知らずの誰かに託すことができるし、託した後に悦びを感じる。このことは紛れもない事実である。にも関わらず、名が思い当たらない。「喜捨」が適当といえるのかもしれないが、これはどうにも「判断的」で蠱惑されないのである。

話を少し戻して、出直そう。

「資源の交換」経済における「ゼロポイント」として人類に文明をもたらした貨幣を「貨幣1.0」と呼ぶことにしてみる。貨幣1.0は、資源の生産と消費とを結びつけて、人間を「個人」にした。現代社会はその「個人」が、「個人」であるがゆえに、貨幣に欲望する社会であり、その欲望が合理的とされている社会。その果ての貨幣経済。「個人」となる以前の人間が資源に欲望したように、「個人」は貨幣に欲望する。その社会には格差が蔓延し、人間の活力を奪う社会になってしまっている。

人間社会は信頼によって活性化する社会である。貨幣は信頼の象徴であるということができるだろうが、しかし、その象徴が信頼の「ゼロポイント」に位置するわけではない。貨幣は、信頼の「ゼロポイント」に一番近い位置にあって、私たちの「正面」を向いている。その結果、貨幣という信頼が社会を駆巡る貨幣経済はブラックホール型になってしまっている。

貨幣よりも信頼の「ゼロポイント」の近くに位置することができるものは、おそらく存在しない。仮にそのようなものが出現しても、新たな貨幣として君臨するだけのことである。貨幣1.0がもし貨幣2.0へイノベートすることがあるとしたら、それは貨幣の「ゼロポイント」への距離の問題ではなく、貨幣の「向き」の問題になるのではないか。「個人」である私たちに「正面」を向ける貨幣ではなく、「背中」を向ける貨幣である。

そうした貨幣2.0が出現したとき、私たちは「個人」を超えたものになると予想するのは、さほど的外れなことではあるまい。貨幣1.0が資源の此岸と彼岸を結びつけて「個人」を生んだのなら、貨幣2.0は信頼の此岸と彼岸とを結びつけて、「なにものか」を生み出すことになるだろう。その「なにものか」は、「個人」よりもさらに自立した者であるはずだ。

生きる技法


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「立場主義」という日本文化が陥る罠(7)

日本は伝統的に「役」社会である。「役」は公的な領域に留まらず、私的な領域にまで深く浸透している。また日本は同時に「立場」社会でもあるが、伝統的にはそれは公的な領域に留まっていた。(6)の内容を要約すると、こんなところだろう。

現代日本社会が「立場主義」になっていったのは、「立場」が私的領域にまで及ぶようになったからというのがひとつ。これは言わば縦糸だが、横糸にあたる要素もある。それは「契約」である。

まず横糸の方から見てみる。

「契約」で検索してみると、まず出てくるのが「二人以上の当事者の意思表示の合致によって成立する法律行為」という定義。この定義は法律行為とあるように、主体をもった人間同士のものである。が、もっとも根源的な意味での契約は、人間と超越神との間で為される行為である。

人間同士の契約には、大きく分けてふたつの方がある。1.は全能神媒介型(左)。2.非全能神保証型(右)だ。


(A、B、甲、乙は、主体である「個」を表す。)

1.は、根源的な意味での「神との契約」が元になっている。AとBはそれぞれ神と契約し、神がそれぞれの契約を媒介することでAとBとの契約が成立する。

神は全能でありかつ不滅である。ゆえに、1.の契約は完全かつ不滅なものと考えられる。カトリック教会での結婚などはその典型例だろう。夫婦は互いに忠節の義務を負い、離婚は不可。神が媒介するからである。

近代は、〈社会〉から神が脱落した人間社会である。ゆえに近代社会における契約は、全能神が媒介するものではなくなる。契約は必ずしも忠節ではなくなり、解約も可能になる。ただし完全な契約を求める志向は変わらない。そこで、契約は考えられるあらゆるケースを事前に想定した煩雑なものとなる。欧米では契約を交わす際に取り交わす契約書が非常に分厚くなるというが、それは1.の全能神仲介型の名残りであると考えられる。

対して2.は、契約の当事者同士が、権威としての神の“前”で契約を交わすという形。契約があったことは神が保証するが、契約主体は直接神と契約を交わすわけではない。なので、契約は不完全なものとなる。ただ、主体同士で契約を“善きもの”する義務は負う。(1.では完全=善だが、2.では必ずしもそうではない。)

日本の契約の型はいうまでもなく、2.のほうである。そして、契約主体が互いに負う善きものへの義務のことを「誠意」と呼ぶ。日本でも〈社会〉に神が不在となって(表面的には)近代社会となった。そのため「誠意」は中身が空洞化した。字義の通りの誠意はなくても、見せかけの「誠意」があって契約が有効に機能しさえすればよいという性質のものとなる。


ここまでが横糸。以下は縦糸である。


伝統的な日本社会において、公私の境に位置したの「家」であった。公の「役」の体系であった「公儀」は「家」に課されたし、「立場」とは「家」にまつわる属性であって、「家」の成員はその「立場」を守る義務を負ったけれども、直接「個」人に課されたわけではなかった。「家」の成員が「家」の「立場」を危うくするような振る舞いを行なったとき、「家」はその成員を「勘当」することによって、「立場」を防衛することもできた。
 
「家」は現代社会で企業に相当するものである。しかし、「家」と企業とでは、その成員との関係は大きく異なる。企業と社員は契約によって結ばれている。企業も社員も共に主体である。しかし、「家」とその成員の関係は異なる。

「家」の成員、すなわち「個」は主体(principal)ではない。「個」は「家」に生まれてくる「家」の構成要素でしかない。養子という形で成員を外部から迎えることも多かったが、それもあくまで構成要素の“補強”であって、また、結婚は構成要素を“生産”するための作業だった。結婚は「家」を継続させるためのに欠かせない作業ではあったが、結婚によって「家」が成立するわけではなかった。

ただし、「立場」においては構成要素でしかない「個」も、「役」においてはあくまで主体であった。

もともとの「家」の成立要件は「姓」を名乗ることが許されることだった。姓は、古くは「氏」である。例えば蘇我「氏」、物部「氏」、中臣(藤原)「氏」、など。これらは古代の大和政権で、大王(天皇)とならんで朝廷を構成した豪族であった。また泰「氏」のような帰化人も独自の姓を持った。

大化の改新以降、天皇中心の中央集権国家となった日本では、姓は天皇から下賜されるものとなった。源「氏」、平「氏」がそれにあたる。さらに時代が進むと、「家」を区分する機能は「姓」から「苗字」へと移る。足利、新田、徳川、武田などは姓は「源」であるが、それぞれ独自の「家」だと考えられ、苗字を名乗ることでその区分が行なわれた。

この「姓-苗字」体制は江戸時代まで続いたが、大きな特徴は、実は日本には姓も苗字も持たない者が大半であったということだ。その体制が大きく変わるのは明治維新から。日本という国家に居住する日本人は、天皇の臣下としての日本国民であるとされ、天皇から姓が(形の上では)下賜された。このことで「家」は庶民一般にも普及することになった。

とはいっても「家」は一般化しただけであり、「立場」の主体としての「家」、「役」の主体としての個人という日本の社会構成が根本的に変化したわけではない。ただ、「家」の一般化は次の段階へ移行する環境を整えることにはなった。

以上の縦糸に横糸を交えて図示すると、下のようになる。


は私的領域における「役」の体系。は公的領域での「役」すなわち「立場」の体系であり、また契約の関係でもある。

「家」の構成要素である「個」は、他の「個」に対して「役」を果した。それは「家」の垣根を越えて行なわれたし、また「家」や「自然」に対しても「役」を果した。ここでいう「自然」には子供も含まれた。かつては子育てが(「立場」としての)親だけの「役」でなかったのは、このためである。

「役」の主体であるところの「個」における倫理は「無心」である。選択の自由に基づいた意識的な善意から組み立てる体系的「判断的」倫理ではなくて、“そこ”に生まれ“そこ”で暮らすことを諒解するというだけの、非体系的で「蠱惑的」な倫理であった。

このような日本社会の「立場(公)」と「役(私)」の二層構造は明治以降徐々に変化していったが、大きく変わったのはやはり戦後であろう。

 日本国憲法第24条1項
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。


現代日本人の常識となっているこの規定は、伝統的な「家」と「個」の関係とは大きく異なった前提に立つものである。「家」は(両性の)「個」の契約に基づいて成立する。「個」は「家」の構成要素であることから、契約を介して「家」の構成する主体へと変貌した。

ここでの契約は、2.非全能神保証型からの近代版である。

「個」が契約主体となったことで、私的な「役」と公的な「立場」とが融合することになった。「個」の倫理である「無心」も、契約主体に課せられる義務であるところの「誠意」と融合した。ここでいう「誠意」はもちろん“見せかけ”。ここまでくれば「立場主義」の完成一歩手前である。


倫理はもとより「個」的なものである。日本人の倫理であるところの「無心」は「自然」を源泉とするもの。ところが戦後の日本社会では、「自然」は「家」のなかに「子供」という形で残るのみになった。その子供に対しても親は契約主体(選択主体)の「立場」によって振る舞い、子供にもそのように振る舞うように「教育」を施した。これはハラスメントである。

原発危機と「東大話法」ハラスメントによって魂の健全な発育が阻害された子供は、倫理的に振る舞うことができなくなる。倫理的であると偽装することが“良きこと”と自己欺瞞を施すようになる。その自己欺瞞を正当化するために、「個」と「個」の関係でしかないはずの「立場」を絶対化することになる。「東大話法」は正当化の手段である。

欺瞞的「立場主義」は、ここにおいて完成することになる。


【追記1】 「立場」という曖昧な言葉が完成した漱石の『明暗』は、近代的になりつつあった「家」の矛楯に引き裂かれた漱石自身の物語であると言われている。これはおそらく事実であろうが、だとすると、「家」の疑似近代化が「立場主義」をもたらしたとする仮説とよく符合すると言えるだろう。

【追記2】 上記1.の契約型は、「和魂洋才」にならっていうならば「洋魂」に当たるものだろう。これがもし日本にも浸透したならば、「立場」といった曖昧なものに支配される余地はなかったはずである。しかし、1.は超越的絶対信仰からの近代版であるから、もともと日本人には会得不能なものであった。今後も会得することは難しいと言わざるを得ないだろう。

といって、「家」の復権を図ることが可能であるとも思えない。主体の「家」から「個」への移行は不可逆だろう。となれば、「立場主義」からの脱却は、契約主体(選択主体)からの脱却という方向で進むのが妥当ということになる。

権威のトーラス型/ブラックホール型

この話題は取り上げてよいものか、少し迷った。もう、いい加減に解放してあげればという気持ちがあるので。

<光市母子殺害>元少年の上告棄却 死刑確定へ
毎日新聞 2月20日(月)15時16分配信

山口県光市で99年に母子を殺害したとして殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(30)の差し戻し上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は20日、被告の上告を棄却する判決を言い渡した。広島高裁差し戻し控訴審(08年4月)の死刑判決が確定する。


解放してやっては思うのは、もちろん被害者遺族のこと。この上ない不運に見舞われ、それが一応の決着をみた。個人的には、もう、そっとしておいて...と思うのだが、それでは商売にならない連中もいて、情報は耳に届く。そして情報が広がると、致し方なく影響も広がっていき、多くの者が否応なく巻き込まれていく。

今、思い返してみても、この「事件」は衝撃的だった。光市母子殺人事件の最大の事件性は、加害者が為した犯罪にあるのではない。もちろん犯罪の内容そのものも衝撃的ではある。だが、はっきり言おう。所詮は他人事である。遠くで生きている関係のない者には、知らされなければ何の関係もなく過ぎ去った事件である。世の中にはおそらく、もっと残虐な事件が世間に知られることなく、ということはもちろん誰からも裁かれることなく、埋もれている。これにはほとんど確信に近いものがある。人間にはどうしようもなくドス黒い面がある。「天網恢々疏にして漏らさず」などというが、こんなのは呪文に過ぎない。この「確信」から目を逸らすための、欺瞞の呪文。

「空気」の研究この「事件」の事件性の本質は、この欺瞞が隠蔽されてしまったことにある。それは無関係な者が他人事でいられなくなった、そのアクセスの仕方と深い関係がある。そう、この「事件」は刑事事件ではない。裁判は刑事事件として裁かれたが、「事件」は社会事件である。「空気」が生み出され、メディアによって増幅され、国家権力によって正当化された。つまり「事件」は殺害現場で起きたのではない。遺族が感情を吐露した会見で起きたのだった。少なくとも「他人」の我々にとっては。

ここに遺族と我々との間の絶対的な断絶が存在する。遺族にとってはこの事件はあくまで刑事事件であるはずだ。だが、我々には違う。刑事事件が社会事件を引き起こし、その2つの円が交わる部分に本村洋という人物が立っている。我々が「事件」を事件として見ていたとしても、それは「本村洋」という媒介を介してでしかない。そのように規定されてしまったことが「事件」なのである。

この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを伝えたい


これは産経の記事からの引用である。この記事は見出しに「この判決に勝者はいない。犯罪が起きた時点でみんな敗者だ」を使っている。私は欺瞞的だと思う。「空気」を醸成しようとしていると感じるからだ。

刑事事件の被害者遺族の立ち位置からすれば「勝者はいない」の言は正しいだろう。だが、我々は刑事事件とは無関係である。我々が関係しているのは社会事件としての光市母子殺人事件なのだ。であるならば、刑事事件として向き合っている者の言の正しさを、そのままわれわれの正しさとすることは誤っている。この誤りを見過ごすことが欺瞞であり、誤りを見過ごすように誘導するのが「空気」である。欺瞞を為すことが社会的犯罪と認定されるのであれば、メディアは犯罪を侵している。

だが、これはメディアだけの責任ではない。本村氏は自ら積極的に社会事件としての光市母子殺人事件に関わってしまっている。「マイナスのものを社会から排除することが大事」。どうみても社会的な発言としてしか受け止めようがない。

(氏は望んで「事件」に関わったわけでないことは明らかだから、商売として情報を売り出しているメディアと同一に責任を論ずることは、もちろんできないが。)

社会に「マイナスのもの」があるとするならば、それを排除することは正しい。ただし、「マイナスに見えるもの」ではダメである。「マイナスになったもの」でダメ。あくまで「マイナスのもの」でなければならない。絶対的に「マイナスのもの」でなければならない。このことはセンテンスの語彙を置き換えてみればすぐわかる。

 「マイナスに見えるものを社会から排除することが大事」
 「マイナスになったものを社会から排除することが大事」

どちらも無条件に承認できない。前者ならば、排除しなければ「マイナスに見えてしまう原因」。後者ならば「マイナスたらしめた原因」だ。

世の社会人に問うてみたとしよう。社会に「絶対的にマイナスのもの」はあるのか、と。「マイナスに見えるもの」「マイナスになったもの」ならば、まず全員があると答えるだろう。だが、「絶対的にマイナスのもの」をあるとは答えにくい。即答できる者に対しては違和感を覚えるだろう。少なくとも(表面上は)無神論者が多数を占める日本では。「絶対的なマイナス」は「絶対的なプラス」を絶対的に想起させ、それは宗教性を連想させる。しかもそれは邪教の類である。

そうであるにもかかわらず、上の引用文に違和感を覚える者は少ない。正しいと感じてしまう。ということはつまり、その正しさは宗教的な「正しさ」であるということだ。感情移入を絶対化することで生じる「空気」というものの呪縛にかかっている。

加害者は「マイナスになった者」である。それが「絶対的にマイナスの者」に「見える」のは、原因があるからなのである。「空気」はその原因に目を向けることを妨げる。欺瞞である。欺瞞によって肯定された言は、当然のことながら正しくない。

だから、「誰も勝者はいない」は誤りである。刑事事件としては正しい。社会事件としては誤りである。勝者は「空気」によって、その存在を隠蔽された者。言い換えれば「空気」を正当化した者。「空気」は「空気」であるがゆえに、感じられなくなることが正当化なのだ。勝者はいうまでもなく、国家権力だ。刑事事件としては勝者はいなくても、社会事件としては勝敗は決したのである。

この「事件」によって勝者が獲得した者は、無色の、だが得体の知れない権威だ。犯罪者を裁く裁判所は無私公正という信憑だ。確かに加害者の犯罪は明白である。そこに争う余地はない。が、争点はもとよりそこにはない。権力が生者に死を宣告することが出来る範囲が拡大するか否かが社会的には争点だったのである。だが、その争点自体もまた「空気」によって隠された。

関係性が複雑に織り重なる社会には、単純に規定できる善悪はない。正邪もない。そのようなものが「ある」と認められることが悪なのである。権威が善悪を規定できるようになってしまうことが悪だ。

正しい権威とは、「マイナスになったもの」をプラスへと変換させるもの。つまり「ゼロポイント」だ。

 参考記事:『祈りのゼロポイント』
トーラス

善悪を規定する悪しき権威がブラックホール型なのはいうまでもない。

民主主義社会における死刑制度の不当性は、権威がブラックホール型に作用するからである。

人間はこの世、つまり「此岸」の生き物である。が、同時にあの世、つまり「彼岸」を想起せずにいられない存在でもある。そこから宗教が生まれる。宗教とは此岸と彼岸とに跨がる知の体系だということができる。

近代以前の人類社会は宗教社会であった。社会の中に彼岸が組み入れられた〈社会〉であった。彼岸の存在は死者であるから、死者と同居していた社会だといってもいい。ところが近代民主主義社会は人間社会である。此岸の存在である生者のみで構成されるのが、今、私たちが暮らしている〈社会〉だ。

宗教社会では「ゼロポイント」は、彼岸、あるいは此岸と彼岸の接点にあった。生者は死者になることで「ゼロポイント」を通過した。少なくとも日本の宗教社会はそう捉えていた。「死ねば誰もが仏」である。そうした宗教社会であるならば、死刑制度は「あり」である。生者を此岸から彼岸へ送ったとしても、彼岸もまた〈社会〉の範囲内であるから、「抹殺」にはならない。

しかし、人間社会であるはずの現代〈社会〉には彼岸は入らない。死者は私たちとは同居していない。少なくとも国家権力はそのような「前提」のもとに組み立てられている。そうした国家権力が生者を死者へと返還する権威を持つということは、これは〈社会〉からの抹殺、つまりブラックホール型である。複雑で多様なバランスで保っている〈社会〉を単純な【システム】へと改悪してしまう悪である。

死刑制度の不当性の焦点はここにある。生者だけで構成される人間社会の建前である以上は、「ゼロポイント」は此岸に設けなければならない。権威はそのためのものでなくてはならない。キリスト教宗教社会から人間社会への変換を遂げたヨーロッパ諸国が死刑制度を廃止するの流れにあるのは、当然の帰結なのである。人間社会においては、刑罰は教育刑以外には正当性を確保できないのである。

だから、もし日本がどうしても死刑制度を維持したいのであるならば、人間社会とは訣別して、宗教社会へと戻ることだ。実際のところ、日本社会の実態はいまだ宗教社会である。それも「空気」という見えないものによって支配されるステルス宗教社会である。ゆえに、あたかも人間社会であるかような思い込みの中に安住していられる。

死刑によって葬られた者は、日本社会の伝統に従って神社で祀られるのが正しい。私の試案としては、国家権力の犠牲者ということで、靖国の「英霊」たちと合祀されるのが適当だと思われるが、どうか。そして毎年、天皇や総理大臣が参拝するようにすればよい。

ステルスな「空気」への感度がない聾の者たちは大反対するだろうが。

「立場主義」という日本文化が陥る罠(6)

サブタイトルを付けるとすれば、「役」と「立場」の大きな違い。あるいは微妙な違い。

原発危機と「東大話法」日本社会は「役」社会である。と同時に「立場」社会でもある。現代日本は「役」社会以上に「立場」社会であると指摘したのが『原発危機と東大話法』の第4章だった。

「役」社会・「立場」社会である日本の特徴のひとつは、相手を呼ぶのに役職名を用いることが場合が多いということ。上司を、その役職が課長なら「○○課長」と呼ぶ。同じ課内なら「課長」でよい。これは日本社会の常識である。

呼称される「課長」は、「役」であると同時に「立場」でもある。

もうひとつ、呼称に関して日本の特徴としてよく挙げられるのが、家族内での呼称のあり方。子どもを基準に呼び方が変わる。「父」「母」は、そう呼ぶ「子」に新たに子どもが生まれると「爺」「婆」へと呼び名が変わる。「子」は「父」「母」である。つまり「父」「母」「爺」「婆」は(子どもに対しての)役名である。

「父」「母」が役名であるということが指摘されることはあまりないように思うが、それはそのことが意識されることがないほど「役」は日本社会の中に深く根付いているということだろう。

ただ、「父」「母」「爺」「婆」が「立場」であるかどうかは微妙なところである。子どもにとってみれば重要なのは「父」「母」ぼ「役」を十全に果してもらうこと。「父」「母」が子どもに対して「立場」で振る舞うことがハラスメントであることは、特に論証の必要もあるまい。直観的に理解できることだ。

子どもにとって「父」「母」という「役」と「立場」の違いは、微妙だが大きな違いである。そしてそれは大人にとっても同じこと。「課長」が「役」を上手く務めてくれるのは、課員にとってはありがたいこと。だが「役」を果さず「立場」で振る舞われると甚だ厄介な存在になってしまう。

「父」「母」が「立場」になるのは「家」というスタンスが絡むときで。また、「課長」が「立場」になるのは「会社」というスタンスに立つとき。今、「スタンス」と書いたが、これは本当ならば「立場」とするのが妥当なところ。つまり「家」もまた「立場」なのである。「立場」が「立場」を生むのが「立場の生態系」ということだろう。

「立場」は交代可能なものである。「会社」の場合は人事異動によって「立場」の交換がなされる。「家」においても「立場」は必ずしも不動ではない。離婚・再婚によって「父」「母」の異動が行なわれる。それに伴って果すべき「役」も変わる――というのが現代日本の常識である。

しかし、これはずっと昔から常識というわけではなかったようだ。現代のような「立場」が生じてきたのは明治以降のこと。「役」はそのずっと以前から日本社会のなかで深く定着していたと考えられる。「立場」なき「役」社会では、現代とはまったく異なる感覚で「役」の交代が行なわれていた。それを示すのが以下の例である。

『日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ』「夜這い婚って何?」(共同体社会と人類婚姻史)
夜這いの民俗学

 梅雨どき、長雨にうんざりすると若衆たちは、気がねのいらぬ仲間の家の内庭や納屋へ集まって縄ないなどの手作業をした。君に忠、親に孝などというバカはいないから、娘、嫁、嬶、後家どもの味が良いの、悪いのという品評会になる。

「おい、お前、俺んとこのお袋の味、どないぞ。」
「わい、知らんぞ。」
「アホぬかせ、お前の帰りよんの見たぞ。」
「ウソつけ。」
「月末頃にまた留守にするで来てな、いうとったやろ。どアホ。親父に行くな、いうたろか。」という騒ぎになった。

「お前、今晩、うちのネエチャに来たれ。」
「怒られへんのか。」
「怒ってるわい、この頃、顔見せんいうとったぞ、味、悪いのか。」
「そんなことないけんど、口舌が多いでなあ。」
「そら、お前が悪い。いわせんように、かわいがったれ。」

 まあムラのイロゴトは筒抜けで、まことに公明正大である。こうしたムラの空気がわかっていないと、夜這いだの、性の開放だのといっても、なかなか理解できず、嘘だろうとか、大げさなこというてとかと疑うことにもなるのだろう。教育勅語を地で行くようなムラはどこにもあるはずがなく、そんなものを守っておればムラの活力は失われ、共同体そのものが自然死するほかなかった。

「あんた、なあ。」
「なんや。」
「うちのカアちゃんどない。」
「嫌いやないでえ。」
「今晩来たってくれるか。」
娘がこうして取持ちするのもある。

 性交するだけで、すぐ結婚しようなどというバカはいない。性交は、いわば日常茶飯事で、それほど大騒ぎすることではなかった。しかし、結婚となると家とかムラとの関係が大きくなり、それほど簡単ではない。これを強いて上からの権力で統制しようとするから、いろいろな歪みが生じ、表向きのキレイゴトの陰に売春産業や売色企業が繁昌することになる。


「父」「母」が「役」であるように、「夫」「妻」もまた「役」である。現代社会では「役」以上に「立場」であろう。女性の性的な充足を満たすことは「家」の「立場」からすれば「夫」の「役」ということになって、他の者がその「役」を果すと「夫」としての「立場」が侵害され(たと感じ)る。しかし「立場」を取り払うならば、「役」を果し得る者が果すことは合理的ですらある。日本近世の「村」にも「立場」(という言葉なくても)はあったろうが、「立場」と「役」とは必ずしも一致していなかったのと考えられる。

原発危機と「東大話法」

 大化の改新は中国の影響のもとで、氏族連合体を天皇中心に中央集権化し、官僚体制として明文化する試みでした。この過程で氏が徐々に弱体化し、「職」の体系が形成され、さらに数世紀という長い時間を経て、「家」という形で再編されたのです。元平安末期には天皇の一族や藤原氏の中で「家」が形成されていましたが、それが数世紀の問に庶民にまで広がって、江戸時代という超安定社会が形成されました。中世という時代は、「氏」から「家」への長い移行期だ、というように見ることもできるでしょう。これに対して近世は、「家」と「役」とが結びつくことで安定した社会でした。この「役の体系」の頂点を占める幕府は、「公儀」と呼ばれていました。


「公儀」と呼ばれた「役の体系」は、文字通り「公」の体系であったろう。その「公役」が「家」と結びついていたというのは、上に指摘の通りだと思われる。だが、日本人にとっての「役」は「公役」だけではなく、「父」「母」「夫」「妻」といったような「私役」をも含むのである。「公役」は「家」に帰属していたが、「私役」は個人に帰属していた。そして「私役」は個人の間で容易に交代可能だった。

このことから推測されるのは、日本近世の社会では、「立場」は「家」の領域までで留まっており個人の領域には及んでいなかったということだ。武士という民分階級に属する者たちはそうでなかったろうが、武士は日本人口の1割を占めるに過ぎず9割は「村」に属する「百姓」だったのである。

(ちなみに、江戸時代は武家が日本を支配した時代だといわれるが、これは大間違いである。確かに大枠では徳川家を中心とした武家が日本を統治していた。が、その内実は‘スカスカ'だった。その証拠に、武士階級は日本を自由には歩けなかった。基本的に武士が自由に移動できたのは城下町と街道だけ。日本の大部分を占めた「村」には、限られた役職の者が限られた期間以外は立ち入ることが出来なかったといわれる。

支配階級である(はずの)武士が「村」を'シッカリ’支配しようとするならば、その居住地は「村」の中に置くのが合理的。ヨーロッパはそうで、農村の中に貴族の住居である「シャトー」が構えられた。日本で「シャトー」に相当するのは「庄屋」であろうが、「庄屋」はあくまで農民である。近世日本では、支配階級であるはずの武士は城下町に閉じ込められていたと見る方がむしろ正しいだろう。)

つづく。

『よみがえる光景 外国人が撮影した100年前の日本の古写真ギャラリー』(NEVARまとめ) より
 
子どもと遊ぶ女性

 参考記事:『女と男のガラパゴス』

祈りのゼロポイント

まず先に言っておきたいが、私は天皇家に対して特に愛着をもったりしているわけではない。わけではないけれども、このようなニュースには好ましいものを感じる。

「早い回復を」手術成功祈り皇居前に見舞いの列
テレビ朝日系(ANN) 2月18日(土)14時47分配信
 天皇陛下は心臓の血管が狭くなる症状が確認されたため、血の流れを良くするバイパス手術を受けられています。皇居前には、手術の成功を願って大勢の人が記帳に訪れています。
 記帳に訪れた人:「ご回復を願っています。この際、ゆっくり回復してほしい」「走るのを中断して、心配で記帳に来ました」「天皇陛下の病気が治るようにお見舞いに来ました」「早く良い知らせが聞きたいです」
 記帳は、陛下が退院されるまで毎日午前10時から午後4時まで受け付けています。18日午前11時現在、1577人の記帳があったということです。


先日、ごく一部で話題なっている『THRIVE』という映画がなぜか無料で見られるというので観てみた(もう観られないみたいだ)。その最初部分に「トーラス体」なるものが紹介され、“宇宙はトーラス製造工場だ”というセリフがあって、印象に残った。

(なお、『THRIVE』そのものには私は感心しなかった。これはディスインフォメーションの意図を持った者が制作した映画ではないかというのが、私の感想。)

トーラスを言葉で説明するのは難しい。それより百聞は一見如かず。下の図を見ていただいた方が話が早い。(図をクリックすると、図の引用元へリンクする。)
トーラス

上の図は、たとえば磁石が発生させる磁場のイメージ。正極から磁力が空間へ広がり負極へ収斂していく。磁石は正極と負極に別れるが、その2点が1点に融合すると、上図のようになる。その融合は「ゼロポイント」と言うことができるだろう。

先の報道を観て思ったのは、天皇とは「祈りのゼロポイント」なのかもしれないな、ということ。天皇は国と国民の平穏無事を祈る。国民は天皇の平穏無事を祈る。多様な祈りはゼロポイントに収斂し、再生され、循環する。そのような「流れ」の一部を観たような気がした。

私は冒頭で述べたように、特に天皇に愛着を持っているわけではない。だから「ゼロポイント」が天皇でなければならない、とは思わない。クリスチャン達の胸に光る十字架でもいいし、メッカのカアバ神殿の中にあると言われる「石」でも良いと思う。もちろん仏像でも、神社に祀られるご神体でも。「ゼロポイント」はたくさんある方がある方がいいと思っている。大きなトーラスの流れのなかに小さなトーラスが生まれて、またその中にさらに小さなトーラスが――という具合に、「ゼロポイント」はたくさんあるにほうがいいし、この世界は自然にそうなるもののような気がする。「宇宙はトーラス製造工場」というのは、そういった意味だろう。

(大きなトーラスが小さなトーラスを生む現象を自己組織化と呼び、自己組織化の様子を図示するとフラクタルになるのだと思う。詳しくは知らない。)

曼荼羅

話を少し天皇へ戻そう。

世の中には天皇に対して、あるいは直接天皇に対してではなくても『君が代』といったような歌に対して、よいイメージを持たない者もいる。その不快感の先にあるイメージはトーラスではないだろう。おそらくは下のようなイメージだ。

ブラックホール

これは国立科学博物館のHPのブラックホールのページからお借りしたもの。1点へ収斂されていくエネルギーはどこへも放出されない。再生されない。循環しない。「ゼロポイント」へ飲み込まれていくばかり。だからケシカランと反対する。

しかし、これはよくよく見てみなければならない。トーラスの一部分だけを見てブラックホールと勘違いしているかもしれないからだ。確かに明治維新から太平洋戦争敗戦までの天皇制はブラックホールだったと言えるだろう。見通しのない戦争に突入した挙げ句の壊滅的な敗戦は、ブラックホール的と表現するのが相応しい。

だが、ブラックホールとトーラスとは、縁の遠いものではない。ブラックホールの底が抜ければトーラスなのである。視野が狭く、トーラスの一部分だけを見てブラックホールと思い込んでしまう。そういった例は少なからずあるように感じられる。

とはいって、人はそう簡単には視野を広くは持てないものだし、自分の視野の広さも自分ではわからない。視野を広くというのは簡単だが、実際のところはあまり当てにならない。トーラスかブラックホールかを見極めるポイントは別にある。それはブラックホールは小さなトーラスの存在を許さないということだ。

戦前の天皇制、すなわち明治政府の政策でもっともブラックホール的だったのは、おそらくは明治39年の神社合祀令であろう。当時、日本全国津々浦々にあった神社を明治政府は統合整理して、国家管理の下に置いた。神社というのはそのそれぞれがトーラスなのである。小さなトーラスは大きなトーラスの一部でありながら、独立した存在である。それを整理・合理化するというと聞こえはいいが、要するに飲み込むのであって、それはブラックホールである。

トーラスは人間の肌感覚には心地よいものだ。自然がトーラスだからである。ブラックホールはどこか肌感覚的には居心地が悪いものだが、困ったことに頭脳感覚的にはブラックホールの方が快感であったりする。単純なので人間のお粗末な知力でも簡単に理解できるからだ。

南方熊楠明治の神社合祀令に反対したことで知られているのが南方熊楠である。熊楠は同時に日本における自然保護運動の先駆者としても知られている。神社合祀令の結果、各地で鎮守の森が伐採されたことに反対運動を展開した。

また、熊楠は並外れた頭脳の持ち主であったことも知られるところだ。森羅万象の探求者といったような称号で呼ばれたりもする。その熊楠の「作品」のなかでとりわけ注目されているのが南方マンダラ。

これがトーラスを彷彿とさせるのは、単なる偶然ではあるまい。

 【追記】

この文章には根本的な誤りがあることに気がついた。ゼロポイントには実体がない。天皇が祭主であるということは、天皇はゼロポイントには位置しないということだ。ゼロポイントに限りなく近くに位置するとしても、ゼロポイントではない。

天皇の特殊な政治性は、ゼロポイントにもっとも近い存在でありながら、決してゼロポイントそのものではないことにあるような気がする。

ゼロポイントに位置するのは超越神。あるいは何も存在しない。すなわち「無」。そのいずれかだ。超越神であっても無であっても、ゼロポイントに固有の「名」を付けることは出来ない。名を付けた瞬間にゼロポイントから外れる。一神教が神の名を呼ぶこと、また偶像崇拝を禁止する理由は、ゼロポイントは名付けることが出来ないからであろう。

橋下批判と『生きる技法』

橋下徹昨夜、録画しておいた先月の『朝生』を見た。橋下徹大阪市長が出演したやつだ。

私は『朝生』を毎回録画はしてある。けれども観ることはほとんどない。大抵は見ずに消去。『朝生』はやかましい面白くないし、視聴は時間の浪費だと思えるからだが、それでも録画を続けるのは、惰性がひとつと万が一に備えて。今回はどうやらその「万が一」だったようで、『朝生』はどの回でも少なからずネット上では言及されるけれども、今回はその言及されている記事に興味を惹かれるものが多かった。といって、それらの記事は面白かったわけではない。むしろ消化不良の感があって、それゆえに余計興味を惹かれたのだった。

私は1ヶ月前に、橋下市長についての記事を書いている。

 現場とは何なのか/現場とは何処なのか

また、つい最近も橋下市長を念頭に、記事を書きかけている。

 民主主義は「従順な不服従」を容認すべきか(1)

私の橋下氏への見立ては「現場を識らない人」というものだ。「現場」というものの認識が異なると言ってもいい。私にとって現場とは【システム】と〈生態系〉とが接するところ。ところが氏のいう現場は【システム】そのもの。今回の『朝生』視聴後もその印象は変わらない。

例をあげよう。橋下氏は掲げる大阪都の構想理由について、大阪市260万では行政の規模が大きすぎて基礎自治体としての実態に即していないのだと説明する。それで、市を特別区に分割して規模を縮小する。基礎自治体の平均人口は10万で、その規模だと自治体の長が地域コミュニティーがつぶさに把握できる――とまあ、このような説明であった。

氏の主張は尤もらしく聞こえるが、こんなものはまやかしだ。地域のコミュニティーというのは一種の〈生態系〉である。私は大阪市の生れで25才くらいまで大阪で暮らしていたから言うことが出来るけれども、大阪には〈生態系〉としての地域コミュニティーなど存在しない。存在したとしても、自立した生態系にはなっていない。【システム】にどっぷりと依存している。大阪から離れて約20年経つが、その間に復活したとも考え難い。

大阪のような都市部で辛うじて生き残っているの〈生態系〉は、子どもを中心としたものだろう。子どもは自然に近い〈素材〉なので、どうしてもそうなる。家庭。あるいは学校。地域の子どもを中心とした集まり。などなど。

橋下氏の主張を私なりに解釈すると、こうである。260万では【システム】としては大きすぎる。だから規模を小さくして、より効率的な【システム】へと改変する。その心は「システムの全域化」だ。

ダンバー数〈生態系〉とは「自然な集団」である。人間同士の場合、「自然な集団」は個体数にして150程度が最適。これは脳の処理能力の限界から来るとされているらしい。このことはソーシャルメディアでの「適切なフォロー数/フォロワー数」などにおいても確認されているらしい。ソーシャルメディアは双方向性、〈生態系〉も双方向性なので、ソーシャルメディアは生態系的性質を帯びるが、それが維持できるのがだいたい200位までということらしいのである。

地縁で結びつき多様な世代が同居する地域コミュニティーの場合、その限界は3000くらいだと言われている。260万であろうが10万であろうが、その限界はとっくに超えている。逆の意味で「50歩100歩」なのだ。

ところが、橋下氏への反論者たちはそのことをわかっていない。だから橋下氏が【システム】の機能不全を論い、【システム】の効率化を主張することへ有効な反論ができない。「危うい感じする」といった気分だけの反論にしかならない。

この「気分」については、私は直観的にだが同意する。氏は「ハシズム」とも揶揄されるように、権力志向が非常に強いと感じられる。ことにタレント弁護士としてTV番組で活躍していた頃の言動を知る者にはその印象が強いし、公人となった現在でも言動の端々にその印象を汲み取ることが出来る。

しかし、『朝生』における氏の対応は完璧に近い。私人と公人とを(少なくとも表面的には)きっちり区別をしている。公人としての立場は、あくまで【システム】の効率化が主眼。しかも手法はあくまで民主主義的。反論者たちは私人としての橋下徹の危うさを攻撃するが、それは公人橋下徹には届かない。氏はあくまで公人としての立場を崩さない。つまり腹を割らない。番組の最後、沈黙気味の東浩紀が満を期して(のように見えた)(暗に)「腹を割れ!」と迫ったが、うまくかわした。ここらは見事というしかない。

しかし、だ。いかに表面的には私人・公人の区別を付けようが、あくまで橋下徹はひとりの人物なのである。【システム】の効率性を掲げ、実践し、人気を獲得してカリスマとなってゆく。カリスマの地位を獲得してしまうと、私人・公人区別自体が民衆の方から撤去されてしまう。氏が狙っているのはおそらくそれだろうし、反論者達もそこを怖れている。なので、人気取り的な手法を攻撃するのだけれども、しかし当の支持者からすると、それはコミュニケーションの結果なのであって、反論者たちはその点を全く理解していない。

その典型例が「大阪市という行政組織は破壊するがコミュニティーは破壊しないと」する橋下氏の主張と、その主張の不首尾への反論者の攻撃。確かに選挙戦の最中に表現が変わったりして論理一貫していないことは事実ではあるが、そんなことが支持者にとっては全く失点にならないことを攻撃者達は理解していない。論理が途中で変わったことは、むしろコミュニケーションの成果だと支持者は捉える。そこに論理性で攻撃することは、コミュニケーションへの攻撃と捉えられる。しかもその言葉は中途半端。ゆえに、反論者たちは反発を招いた上に「バカ」のレッテルを貼られてしまうのである。

橋下氏の主張が説得力を持つ根拠は、偏にコミュニティーへの幻想にある。反論者たちですらその幻想を共有している。大阪というコミュニティーなど存在しない。が、存在して欲しいという欲求は存在している。その欲求が幻想を生み、行政組織の非効率という現実と合致して、ありもしない幻想を非効率なシステムが抑圧しているかのような「物語」が成立してしまう。橋下氏はこの「物語」の主人公となってカリスマを獲得し、【システム】の効率化を推し進める。その果てにあるのは、【システム】の全域化、〈生態系〉としてのコミュニティーへのより厳重な抑圧であろう。

橋下氏の教育論が、「気分」という文脈において、より危険視されるのも頷けることである。というのも、子どもはその特性上どうしても自然な存在であり、放っておくと〈生態系〉的コミュニティーを取り結ぶ。【システム】の全域化を目指す橋下氏にとっては、学校は子どもたちを【システム】へと取り込む入り口でなければならず、そこに発生する〈生態系〉的コミュニケーションは極力抑圧しなければならない。「日の丸・君が代」はそのための仕掛けであり踏み絵だ。氏は内心の領域に踏み込むことは注意深く避けているように見える。教師達にはあくまで【システム】の一員として【システム】のルールに従え」と言うのみである。しかし、これこそが最も危険でかつ欺瞞に満ちた言動だと私は思う。

「現場」とは【システム】と〈生態系〉との接点である。学校という現場において教師とは、その接点に経つ「現場の人」。現場の者はその双方に属する者なのである。【システム】の一員であるということは事実だが、それは事実の片側でしかない。【システム】のルールに従えという要請は、ゆえに、片方の事実、〈生態系〉を構成員であることを止めよと言うに他ならない。

橋下氏はそのことを明示的に言わない。欺瞞である。反論者達もそこを明示的に批判できない。彼らもまた実は橋下氏と同じ欺瞞を共有するからである。橋下氏は確信犯的な欺瞞者なのであり、それゆえにこそ氏のメッセージは、〈生態系〉へと向き合う覚悟を持てない者に心地よく響く。橋下氏のメッセージはこうである。

 【システム】に依存しなさい
 私が【システム】を皆さんが依存するにたる効率的で全面的なものにして差し上げます
 だから私を支持してください


【システム】においては、依存は依存でしかない。自立とは【システム】を道具として使えるようになること、つまり他者を抑圧することに他ならない。自立と依存は二項対立なのである。ところが〈生態系〉においては、依存は自立である。自立と依存は二項同体なのである。

橋下氏が先導する【システム】の合理的欺瞞性に危うさを感じている人には、この本がお勧めだ。

生きる技法


この本は〈生態系〉的に生きていく技法が論理的に展開されている。ここで展開されている論理の次元に立つことができれば、欺瞞の輪郭が見えてくる。

蠱惑的は動物的

「立場主義」シリーズ番外編。

まずは、この動画から。


この動画に私は快感を覚える。いや、「覚えてしまう」と言った方がよいか。今日の時点で23万回を超える閲覧されている。なかなかに人気の動画だ。

同種のもので、もっと人気のあるものもある。それも貼り付けておこう。


PVは50万に届こうとしている。が、私は快感を覚えない。つくりは前者と全く同じ、MADなのに。

MADムービー(マッドムービー)とは、既存の音声・ゲーム・画像・動画・アニメーションなどを個人が編集・合成し、再構成したもの。単に「MAD」と呼ばれることも多く、ネットコミュニティにおいてはもっぱらこの呼称が主流となっている。ただしパソコンやCGソフトが普及した21世紀初頭には「手書き(描き)MAD」(後述)という用語が出現するなど意味の拡散がみられる。主にファン活動の一環として行われる。「MAD」とは「狂っている、ばかげている」の意。(Wikipediaより


もうすこし説明を加えておくと、両者ともとあるアニメ(前者は『Working!』 後者は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のOP(オープニング)を、歌の方はそのままに、アニメーションの方を入れ替えてある。入れ替えに使われた素材はどちらも『けいおん!』のもの。つまり、歌は『Working!』 あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で、本来のOPにはそれぞれのキャラクターが登場してくるのだが、これらのMADムービーでは、キャラが『けいおん!』のものと入れ替わっている。単に入れ替わっているだけではなく、元来の歌に合わせて、元来のキャラクターの動きに似せて、あたかも入れ替えられたキャラクターが本当にそのアニメのなかで活躍するキャラクターであるかのごとく、作られている。

ゆえにまったく不自然さを感じない。最初にこれらMADムービーを見せられて入れ替えられたキャラの方を刷り込まれると、そちらが本物と思い込んで、本物の方に違和感を抱くようになるだろう。それくらいに、「それらし」く出来あがっている。これが「二次創作」といわれているジャンルの「作品」である。

で。そんなものの何が面白いのか?

これらに快感を覚えてしまうようになるためには条件がある。私は前者に快感を覚え、後者には覚えないと言ったが、それは後者が条件を満たしていないからである。私は『Working!』も『けいおん!』も知っていて、それらが好きで楽しむことが出来る。が、『俺の妹が...』は知らない。知らないと楽しむこともできない。ゆえに後者には快感を覚えない。

これは当たり前な回答。二次創作は一次に依存しているわけだから、一次を知らなければ楽しめないのは当たり前。この回答では、なぜ一次を知っていると二次を楽しめるのか、という疑問の答えにはなっていない。

この問いに答えるのは難しい。まず、問いの意味の方から考えなおしてみる必要がある。

そんなものの何が面白いのか?

これを「そんなものにどのような意味を見いだせるのか」と捉えると、答えようがない。意味など見い出せないからである。敢えて意味を見出そうとしても、それはスノビズムにしかならない。スノビズムでいくら答えをひねくり回してもみても、結局は上であげた「条件」の回答にしかならない。

動物化するポストモダンここで気がつくことがある。それは、MADムービーはそもそも何らかの意味を求めて作成されたのか、という疑問だ。意味を求めてのものであるなら、「意味があるのか」という問いは、「意味を探し出せるのか」と言い換えられ、意味を探し出そうとする者の意味探索能力を問うことになる。

しかし、意味を志向して作成されていないものに意味を問うても仕方がない。東浩紀がいう「動物化」とは、そのような意味を求めない志向のことを指すのだろう。MADの快楽は動物的快楽なのである。(動物的快楽≠肉体的快楽なのはいうまでもない。)

初音ミク

まだ答えは出ていない。動物的快楽(らしい)と名指しただけである。

痛車この動物的快楽に類似しているのは、右のような物体を「痛車」と名指すときに感じる快楽である。

 「立場主義」という日本文化が陥る罠(2)

MADの快楽と痛車の快楽は、どちらも「言い換え」による快楽である。痛車は、本来なら(人間的には)、別の名称で名指されなければならなかったはずのものだ。その本来的人間的名称(「萌車」というような名称もあるらしい)を「痛車」という表現で言い換えた、その時に生じた快楽。

MADによるキャラの「入れ替え」も、言語で言うなら「言い換え」であろう。『Working!』を、あるいは『俺の妹が』を、『けいおん!』によって言い換えたのである。あるいはこのように表現してもいいかもしれない。『Working!』を、あるいは『俺の妹が』を感じるために、その一部を『けいおん!』で言い換えてみた。そうすることで、もともとあった『Working!』あるいは『俺の妹が』の快楽が更新された。『Working!』あるいは『俺の妹が』の意味は動いていない。新たな意味の発見がそこにあったわけではない。言い換えられったことで快楽は更新されたのである。

こういった快楽の在り方は、シニフィアンが言語世界のなかで揺動することによってもたらされる蠱惑的快楽であろう。

 「立場主義」という日本文化が陥る罠(4)

「判断的」言語世界のイメージ     


「蠱惑的」言語世界のイメージ     

番外なので、最後は端折ろう。

快楽には「意味発見型」と「言い換え型」の2種類ある。前者は「判断的」であり後者は「蠱惑的」。また、東浩紀が定義したように後者を「動物的」とするならば、前者は「人間的」だということになろう。

いうまでもないことだが、東氏の定義はあくまで相対的なものである。「意味発見」を人間的であると見なす西洋的価値観に寄り添ったものだ。東洋的、わけても日本的な価値観に立てば、東氏が「動物的」という「言い換え型」こそが「人間的」であり、そこを中心に据えてみれば西洋型の「意味発見」へと傾いていくのは「ロボット化」である。

「ロボット化」とは、欺瞞の体系を築き上げていくことで自身や他者を欺いていくこと。「立場主義」とは「ロボット化」に他ならない。


「立場主義」という日本文化が陥る罠(5)

今回は「無心」について、だった。

ガラスの仮面私は「無心」を樵のジジイたちから教わったと以前に述べたが、ここでは別のネタから「無心」について語ってみようと思う。

 ガラスの仮面

未だ未完成ではあるが、それでも少女漫画史上空前絶後のこの作品。あらすじ等、内容を説明する必要はあるまいから、省略。
(知らなければ、一言、「読め!」)

このマンガは「役」と「立場」の物語でもある。ふたりのヒロイン、北島マヤと姫川亜弓は「役」を演じる女優、「役者」である。

「ガラスの仮面」とは「無心」の言い換えである。北島マヤは「無心」に役を演じることが出来る才能を持った少女。対して姫川亜弓は才能溢れる役者ではあるけれど、「立場」の人でもある。父母ともに演劇界の実力者で有名人。その娘として幼い頃から女優として大成することを周囲から期待され、当人もそれを望み、「役」への情熱を燃やす努力の人。

その亜弓ですら、マヤの「無心」には無力感と嫉妬を感じずにはいられない。亜弓は「立場」に縛られる人間ではない。「立場」を自分のものとし、「立場」を踏み台に上昇していくことが出来る人間だ。それでも「無心」には届かない。

ふたりのヒロインが演じることを熱望する紅天女という「役」は、「無心」の象徴である。

また、「立場」に囚われているといえば、『ガラスの仮面』の読者はすぐに思い当たるだろう。速水真澄。マヤの恋の相手である。

マヤはひたむきに「無心」を追いかける。その姿に真澄は惹かれる。それを阻むのは「立場」――この上なく古典的な設定だ。にもかかわらず『ガラスの仮面』が凡百の物語と一線を画すのは、「役」と「無心」との関係が鮮やかに描き出されているからだろう。

『ガラスの仮面』は1975年から連載が始まった古いものである。それが未だに続いているのは、ご存知の通り、長期の中断があったからだ。この事実は興味深いと思う。

作者が目指したと思われるのは、「役」と「立場」との幸福な合一であろう。凡百の物語にありがちなように。だが、「役」と「無心」との関係があまりも鮮やかに描き出されてしまったことで、「立場」との妥協が出来なくなってしまった。それをしてしまうと『ガラスの仮面』は凡百の物語へと堕ちてしまうからだ。作者の美内すずえは、そこに気がついたからこそ筆が止ってしまったのではないのか。

これはもちろん私の想像に過ぎないが、もしそれが当たっているとするなら、「立場」と「役」とは究極のところで相容れないものだということになる。「立場」を取って「役」を捨てるか、あるいはその反対か。二者択一を迫られるものだということだ。



安富教授は二者択一を迫られたら逃げろと仰っているが、この場合、どこへ逃げればいいのだろう? 「あの世」だろうか? だとすると『ロミオとジュリエット』になる。もしくは『トリスタンとイゾルデ』か。日本の作品なら『曽根崎心中』だろうか。

これはどう考えればよいのだろうか。(4)で考えたように、「立場」というものが日本語の言語感覚から生まれたものだとすれば、「役」と「立場」の分裂も日本的な経路を逆に辿れば合一できるはずである。ところが、それが現代の日本人には不可逆なものに感じられる。

ここは夏目漱石が『私の個人主義』で示していた問題意識、あるいは内村鑑三の「ふたつのJ」によって引き裂かれた精神、そういったものに繋がっていくのではないかという気がしている。日本文化が堕ちた「罠」も、そこいらあたりにあるのではないか。

つづく。

「立場主義」という日本文化が陥る罠(4)

(3)が抜けているが、そこは前記事

 オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱

が(3)に相当すると理解していただくことにして。

蠱物(まじもの)としての言葉(2)と(3)において、話の下敷きになっていたのは右掲書をもとにしたアキラさんの一群の記事だった。

 ◇「蠱惑的」「判断的」シリーズ(光るナス)

今回は「蠱惑的」「判断的」というそれぞれの言語世界のイメージについて、ざっくりと説明するところから入っていくことにする。


「判断的」言語世界のイメージ
120214判断的

「判断的」言語世界はピラミッド型で、その頂点に究極のシニフィアンであるところの(超越)神が位置している。
すべてのシニフィアンは明瞭は境界を持って他のシニフィアンと明確に区別され、かつ言語世界のなかで各々が定位置を占めている。
また、シニフィエとシニフィアンとの関係は一対一、つまり線形である。

もちろん、これはあくまでイメージであって、実際にはこのように“理想的”な「判断的」言語世界が展開されている言語は存在しない。これはいうなれば「イデア」である。

「蠱惑的」言語世界のイメージ
120214蠱惑的

「蠱惑的」言語世界は円形である。しかもその中心部は中空。中心部へ行くほど空虚になる。
すべてのシニフィアンは明瞭な境界線を持たない。また、定位置も持たない。言語世界の中をゆらゆらと漂っている。
シニフィエとシニフィアンとの関係は非線形である。例えば上図で、「B」のシニフィエは、言語世界の中を漂うシニフィアン[B]が存在するだいたいの方向を指し示めしてはいるが、明確に〈B〉に結びついているわけではない。[A]であると解釈することも可能だし、また、そもそも[A]と[B]の間に境界はないのだからシニフィエはだいたいの方向を指し示すことしかそもそもできない。

言うまでもなく、こちらの「判断的」言語世界のイメージもまた「イデア」である。人類世界のなかに実在する言語の世界はいずれも両極端な2つのイデアの間に位置する。さまざまな言語を駆使する個々人の言語世界もまたこの両イデアの間にある。そうしたなかで日本語という言語の構造は、明らかに「蠱惑的」な方向へ大きく傾いている。それが『蠱物としての言葉』が示す分析だし、またそれは日本語話者としての実感でもある。少なくとも私はそうだ。

(2)で取り上げた「痛車(いたしゃ)」という言葉は、日本語のこうした「蠱惑的」構造なしにはあり得なかったものだと言える。

もともと「痛い」という言葉が明瞭な境界を意識しずらい言葉ではある。脳細胞のある特定部位が発火したときに[痛い]という感覚が生じるのであろうけれども、脳細胞は複雑にニューロン結合しているからその「発火」はどうしてもある範囲を持つ、従って[痛い]もある程度の範囲を持つことになり、その境界は不明瞭なものにしかならない。が、「痛車」の[痛い]は明らかに元来の[痛い]という範囲を逸脱している。隣接していないようにさえ思える。こうした現象が起きるのは、「痛い」というシニフィエがもともとだいたいの方向しか指し示していなかったからだと考えるのが合理的だろう。

これはおそらく人間の視界の構造に類似している。それも脳による補正が入る前の「光景」であろう。中心部は明瞭に周縁部はぼんやりと映っており、意識は中心部に向けられている。意識が向けられることで輪郭が立ち上がり、「現象」はより明瞭な像を結ぶ。そこへ、周辺部に特徴的な「現象」が生じると意識がそちらへ向き、視線が移動して明瞭は「像」が立ち上がる。このとき「判断的」言語ならば「視線の移動」はシニフィエの変化になるが、「蠱惑的」言語の場合はシニフィエはそのままで、言語世界のなかの漂うシニフィアンが大きく揺れ動く。蠱惑的な快感はシニフィアンの揺動からもたらされるのかもしれない。


原発危機と「東大話法」『原発危機と東大話法』の第4章では、「立場」という言葉の変遷が夏目漱石の小説の分析を通じて示されている。

もともと「立場」は「立庭」という“住み処”や“居場所”を表す言葉だった。それが江戸時代までに「立場」が一般的になった。明治に入って、それを夏目漱石がさまざまな意味で使うようになった。英語でいうと[standpoint]、[position]、[situation]、[stance]などなど。英訳はシニフィアンだと考えてよかろう。処女作『吾輩は猫である』から遺作『明暗』へ至る間に用例が増えていき、指し示される「意味=シニフィアン」の範囲も広がってゆく。そしてついには単なる英語の訳語でも伝統的な純日本語でもない「立場」という言葉が生まれる。しかもその「立場」が自身の人格に帰着するようにすらなり、ここに「立場主義」の思想が完成する。

安富教授はこういった事態は英語では考えられないとしている。ならばここには日本語独特の性質があると考えなければならないが、そうなると考えられるのはやはり日本語の「蠱惑的」な性質だろう。

「痛車」の快楽は、アニメキャラのペインティングが施された自動車を見ることにあるのではなく、その光景を「痛車」と呼ぶことに存在する。つまり、この蠱惑的快楽は言語世界のなかにある。「立場」を自身の人格へと帰着させて行ってしまう力学も同様の蠱惑的快楽の中に潜んでいるのではあるまいか。

もっとも、さすがに「痛車」を自身の人格へと帰着させることは難しい。だからこそ、帰着し得ない断絶を「痛い」と感じるのであろうと思うのだが、「立場」の場合には、ここも『原発危機と東大話法』で指摘されているけれども、「役」という社会構造が存在したがために、それが「立場」という言葉の再創造とともに人格へと帰着していくことに「痛さ」が感じられることなかった――。

続きは「無心」の果す役割について、を予定。

井筒



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