愚慫空論

富士山は世界遺産に相応しいか

昨日朝、山梨県東部を震源とした地震があった。

こういったことがあると、どうしても富士山噴火、または東海地震との関連が気になる。今朝の山梨日日新聞の一面トップもその話題だった。結論からいうと関連はないようだが、どうしても心配にはなってしまう。それに、用心に越したことはないわけだし。

そんなわけで、昨日、今日の情報の流れから富士山というと、地震 → 噴火の話が大きかったのだけれども、一週間という期間で見るとやはり世界遺産だろう。少なくともここ山梨では。


富士山の世界遺産登録への動きが着々と進んでいる、という印象を受けている。

私は個人的にだけれども、富士山は世界遺産に相応しい、と思っている。その思いは多くの日本人が共有していると思う。ただ、一方で、現状の富士山は世界遺産に相応しい状態ではないとも思っている。これも私ひとりの思いではなくて、以前、富士山が自然遺産として世界遺産登録申請をしようとしたときに、まさに「相応しい状態ではない」という理由で落選した。

それで今度は文化遺産として再チャレンジ、という次第のようである。地元としては期待も盛り上がるところだろう。「なんとかの皮算用」というのもあることだし。

で、今度はみごと合格するのだろうか?

先に言っておくが、私は富士山は自然遺産としても文化遺産としても、世界遺産に相応しいと思っている。だが、どちらにしても、日本人自身が相応しくない状態にしてしまっている、と思う。文化遺産として考えるなら、静岡山梨両県にそれぞれ存在する広大な自衛隊演習地をどう「処理」するか。

(ちなみに、静岡の東富士演習場は御殿場市、小山町、裾野市に跨がる約8,800ha。山梨の北富士演習場は富士吉田市と山中湖村にまたがる約4600ha。合計13,400ha。世界遺産として申請する面積が20,000ha弱。)

普通に考えるのであれば、世界遺産に申請するので自衛隊ならびに同演習地で訓練をしている米軍はお引き取りください、ということになるだろう。が、そのように「普通」には考えられないのが今の日本の常識でもある。では、いったい、どのように「処理」しているのか。

その「処理」の仕方がよくわかるのが、下の地図である。

ここには3つの区分が示されている。

 1.構成資産
 2.緩衝地帯
 3.保全管理区域

問題の演習地は3.に区分されている。

1.は、世界遺産の本体。2.は文字通り、本体を守る緩衝地帯。これらはよく意味がわかるし、ともに世界遺産の「構成要素」である。が、3.は意味が不明。「保全管理区域」を文字通り解釈すると、1.と区別がつかなくなる。世界遺産の構成資産こそ保全管理区域のはずで、だからこそ緩衝地帯まで設けるのであろう。

保全管理区域には、「東大話法」ではないが日本国独特の「隠蔽の臭い」がする。

そこで推薦書の中身を見てみることにした。ネット上で見つけたのは推薦状の原案である。

 推薦書原案 - 富士山を世界文化遺産に

原案には保全管理区域について、次のように書かれている。

資産及び緩衝地帯の外側に富士山の顕著な普遍的価値の保存に直接的には関係しない範囲を対象として、保全管理区域を設定した。保全管理区域は、国・山梨県・市町村・地元団体・所有者等が自主的な管理に努め、以て資産の保護に資する役割を持つ。


「外側に」とされているが、地図を見るとどう見ても「真ん中に」だ。さらに読み進めてみると、演習場について次にように記されている。

演習場内で行われる実弾射撃を含む行為は日本国の防衛上の観点から必要なものとされている。


つまり。演習地は日本国の重要な資産なので世界には提供しない、と(暗に)宣言しているのである。

人類社会の現在の体制では、主権国家という存在が大きな位置を占めている。その前提で「国際社会」などという。国際社会と人類社会は、その空間的範囲は同一。世界遺産とは、そうした体制の元で主権国家が国際社会に対して自国の資産の一部を提供するもの、と理解していいだろう。ただし、一方的に提供すると宣言すればよいわけではなく、人類社会共通の財産と認められるには国際社会の審査が必要とされる。その審査にパスして世界遺産として認められるということだ。

ところが日本国はこの審査を受けるに当たって「一部は国際社会に提供しません」と言っているわけである。

しかし、考えてみれば妙な話だ。なぜわざわざそんな宣言をしなければならないのか。普通に考えるなら「この部分を提供します」とだけ言えばいい話だ。

参考に時期を同じくして世界遺産として申請する鎌倉の図を見てみよう。


ここには「保全管理区域」などという区分は見られない。これはどうも富士山独自のもののようだ。

では、なぜ「ここは提供できません」などという言わなくて良いことを言わなければならなかったのか。再び推薦書(原案)を見てみると、次のような記述がある。

特に、富士山は標高約1,500mの地点で傾斜角の変化率が大きくなっており、それ以上が「山体」として認識されるとともに、優美な曲線を描く稜線が絵画などの対象とされることが多い。この範囲は、各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が宗教的観点から不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。


1,500m以上が富士山の「山体」という見解には(直観的に)承認しがたいが、まあいい。ここは推薦状の言い分に従うとして、では保全管理区域は「山体」のなかに入っていないのかといえば、きっちり入っている。上の富士山の地図には富士山頂を中心とした円が描かれているが、これは私が追加したもの。大まかなものだが、その円の範囲内が標高1,500m以上になる。

これで妙な保全管理区域などというものを宣言しなかった理由がわかる。この推薦状のロジックはこうである。

 a. 文化遺産としての富士山の価値の中心は「山体」にあって、それは標高1,500m以上の地域。
 b. 「山体」の一部に世界遺産として提供できない日本国の資産がある。
 c. けれども、その部分も保全管理区域として自主管理する。
 d. だから富士山を世界遺産として認めてください。

つまり、保全管理区域というのはエクスキューズなのである。

果してユネスコはこのエクスキューズを受け入れてくれるだろうか? 私なら認めないが。



いつものように長くなるが、続けよう。

私はこの「エクスキューズ」から内田樹の文章を思い起こした。

 荒ぶる神の鎮め方(内田樹の研究室)

神仏習合以来、日本人は外来の「恐るべきもの」を手近にある「具体的な存在者」と同一視したり、混同したり、アマルガムを作ったりして、「現実になじませる」という手法を採ってきた。
一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。
日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。



富士山の神様は此花咲耶姫。名前からは「荒ぶる神」とはほど遠い印象で、またその印象が富士山の優美な「山体」の印象とよくマッチングするわけだけれども、では、私たちは富士山を荒ぶる神だと思っていないかというとそうでもない。記事の冒頭に噴火の話を取り上げたが、私たちはどこかで富士山を荒ぶる神として怖れている。内田流のロジックで言うならば、ゆえに、

 「世界遺産は金になりまっせ」

である。原発との類似点はそれだけではない。

福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。


保全管理区域という「エクスキューズ」は、欧米人には「ふざけた書き割り」に映るのではないかと思う。信仰の対象だといいつつ、その対象を人間の都合で分割してしまっているのだから。

なるほど日本の神様は、一神教の絶対神ではない。だが、ひとつ間違えば「荒ぶる神」になることに違いはない。だからこそ昔の日本人は神の祟りを畏れ、祀ったのである。

(こんな文章を書いている最中にも、また地震だ...)

自分たちがこれまで「瀆聖」のふるまいをしてきたことを、私たちは実は知っていたからである。


日本を代表する霊峰富士山に、そのような仕打ちをしてまで世界遺産として認められる必要もあるまい。



大根の煮汁が美味かった

先日、三日間の断食を敢行した。その切っ掛けになったのが、アキラさんのこちらの記事。

 一気に若返る 前編
 一気に若返る 後編(断食後の注意)

3日ほど食事を断って宿便を出す。これをデトックスと言ったりすること(他の方法のデトックスもあるらしい)、また断食道場といったような施設も存在すること。知識としては以前から知っていたし、一度、実行してみようとは以前から思っていた。その効用についても知ってはいた。

だからアキラさんの記事を特に目新しいとは感じなかったわけだけれども、切っ掛けというのは必ずしも「新たに知ったから」ではないわけで。「改めて知る」ことだって十分にきっかけにはなる。アキラさんの記事を読んだとき、私が思ったのは「時期が来たな」ということ。

始めたのは19日の木曜日から。この日は仕事で、朝食を食べ、現場で弁当を食べた。帰宅してから夕食前に後編をみて、今から始めようと決めて、夕食を食べないことにした。夕飯はカレーの予定だったらしいが。

この決断は、翌日から雪で仕事が休みになるだろうという予測も後押ししていた(私の場合、仕事の性質上食べないでいるのは危ないというのもある)。実際、20日からずっと休み。腹もひもじいが懐もひもじい。

3日間の断食は、さほど辛くはなかったというのが実感。はしかに腹は減ったし、「はらへった、はらへった」を連発してはいたのだけど「喉から手が出る」なんてことはぜんぜん。さすがに妻が食事をしているときには一緒にはいなかったが、近所の妻の実家では(雪掻きをしにいったついでに)一緒にお茶していたし、その帰りにスーパーへ寄ったりもしたけれど、特にどうということはなし。でも、アキラさんの記事にある「一日半も過ぎれば“なんで食べてるの”になる」というのはなかった。食べているのを見ると、美味そうだなとは思った。そして、食べられるのに食べないというのも贅沢な話だな、と。

3日、というより72時間の間、口にしたのは水分。といっても水や野草茶ではなくて、基本的に飯山式の米とぎ汁乳酸発酵水。それにリンゴジュースを混ぜて飲む。1日1リットルは飲んだ。それと、これも飯山式の豆乳ヨーグルト。朝、これだけは食べた。

その所為かどうかはわからないけれども、「排出」の方は思ったより早く始まった。21日の朝から、いつもとは明らかに様子の違うものが、少しずつだけれど出るようになっていた。本格的に出るようになったのは、アキラさんの記事の指南通り72時間後、すなわち22日の昼過ぎに水を大量に飲んで(乳酸菌水)、梅干しを4個食した後。そして大根の煮汁を飲んだ。

ビックリしたのは、この煮汁の美味さ。ただ大根を煮ただけなのに、その甘さといったら! これは断食の効果だろう。しばらく煮汁を飲み、大根を食べて出す。22日の夜、23日の朝はそれで過ごした。昼は暖かいソーメン。夜は大根+豆腐。「排出」の方は、22日には大方終わったようで、23日はほんの少し。

24日は朝は大根+豆腐。あと白菜の漬け物。昼はそば屋へ行く。ざるそば大盛りに、大丈夫かなと思いつつ、とろろご飯を少し。アキラさんの記事にはしばらく米は避けた方がよいとあったから。が、ぜんぜん平気そう。で、夜は思い切って鳥鍋。ブラスおじや。まったく問題なし。この日、「排出」は、朝かなり柔らかいものが出たのみ。

25日朝、もう通常通りの「排出」。それで通常通りの、パン食。ソーセージも食べた。昼は米食。夜はお好み焼き。もちろん、肉の乗っかったやつ。本日26日、朝の「排出」異常なしで、通常通りの朝食。

以上が経過だが、アキラさんの記事よりも「リハビリ」がかなり早い。3倍かけて元に戻すということだったらしいが、3日の断食が3日で通常復帰。これは乳酸菌水の威力だろうか。それとも個体差か。あるいは、単なる断食でデトックスになってないか。

実はデトックスの効果というのがあまり実感は出来ていない。特に頭の方は変ったような気がしない。もっと冴えるかと期待していたが、残念。お腹の方は、正月から引きずっていた食べ過ぎ感はまちがいなく解消。が、特に調子が良くなったという感じはない。ただ、味については鮮明になった感はある。食べるのが楽しみになったし、美味しくなった。

今晩はカレーの予定だが、美味いだろうな。楽しみ(笑) 


断食中の空腹感について書き足しておこう。これはなかなか面白い体験だった。「冬の枝打ち」に似たような感覚があるような気がした。消化器官が動かないことで聞こえてくる、その奥の気配のようなもの。

 冬の枝打ち

ただ、それは「冷え寂び」と呼ぶのは似つかわしくない。私は『冬の枝打ち』で「冷え寂び」を自身の「氣の反射」だと表現したが、空腹感の奥に感じられたものは比喩的にであれ「反射」というわけにはいかない。直接自身の身体から感じられるものだから。「感覚への感覚」とでもいえばいいか。が、まだよくわからない。

この感覚へは再び出会いたいと思う。が、のめり込むのは明らかに危険。また1年後くらいかな。


子ども義賊たちに大人は何を贈ることができるか

「子ども義賊」のネタ元はこちら。

 どう思う「子供の義賊」― 震災現場で何が起こったか?

然し、何と言っても衝撃的だったのは「子供義賊」の話だ

それによると、避難所の子供数人が無人の気仙沼信用金庫に行き、現金数千万円を持ち出し、そのお金を全て避難所にいる老人に配ったと言うのだ。これには、警察もどうしてよいか、ただオロオロするばかり。子供いわく「義援金が集まっても現地には1円もこない。悪い事とは判っていたが、こうするしかなかった。お爺さんお婆さんは涙を流し喜んでくれた」と。


もうすでに一年近く前の話だから、いくらなんでも何らかの解決がなされただろうと思う。ネタ元の記事はそこには触れられていないし、私の方もその顛末を調べてみようという気も起きない。

人間というこわれやすい種この話を読んで最初に思い浮かんだのが、ルイス・トマスだ。最近読み返したばかりだったということもある。

「人間をその本性の深いところから突き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動である」
「たぶんこれは私たちのあらゆる生物学的な必然性のうちで最も根本にあるものだろう」


「何かの役に立ちたいという衝動」。内発性である。内発性に従って行動するのは〈良い子〉である。

子どもだからといって〈良い子〉だとは限らない。大人に評価されることを期待して自発的に行動したのかもしれない。だとすれば【良い子】だということになろう。

子どもたちは「善いこと」をした。困っている者たちを助けようとしたのだから、それは「善いこと」には違いない。ただ、自身の裡なる衝動に従って行動したのか、他者の眼差しを意識しかどうかは、微妙だが重要な違いである。

(「内発」「自発」〈良い子〉【良い子】については、こちらを参照して頂きたい
 → 「自殺は自発的な死だと定義します」 )

 *義賊を大人のルールで裁くことができるか

さて、ここまでは前置き。本題はここからだ。「善いこと」をしたのは子どもたちである。だが、私を含め、子どもたちを眺めているのは大人である。大人は哀しいかな、必ずしも良心が「善いこと」に繋がらないことを知ってしまっている。良心はいい。それが心の内に留まっているならば。だが行動を伴うと話は違ってくる。行動には結果が伴い、結果には責任が問われる。良心ゆえに免責とはいかないのが社会のルールである。良心は当人にしか、いや、当人ですらわからないのだから。

大人のルールを子どもにも適用するなら、子ども義賊たちは法に則って裁かれるべきである。警察はオロオロすることはない。子どもはいずれ大人にならなければならないのであるし、この義賊たちは「お金が役に立つ」という大人のルールの一部を理解しているわけだから、大人が適切に教えさえすれば理解できるはずである。
(これは子どもたちを大人と同様に裁けといっているのではないことは、念を押しておこう。「大人のルール」のなかには、大人と子どもは同様に裁いてはならないというのもある。)

だが、本当にそれでよいのか。そのようにして裁いて良心の呵責を感じないのか。

もし良心の呵責を感じるのであれば、警察がオロオロするのも理解できるだろう。オロオロするのは子どもの〈良心〉が理解できるから、少なくともその〈良心〉を多くの大人が理解できるだろうと推測していることからくる。子どもの〈良心〉を大人のルールで一方的に裁いてよいものではないという理解が、まだ大人の社会の中に存在していることを示している。

この理解の中心にあるのは、子どもの〈良心〉は矯めてはならないことだと私は思う。〈良心〉とはもちろん「何かの役に立ちたいという衝動」のことである。子どもを裁くことは、〈良心〉を矯めることにどうしても繋がってしまう。大人に評価されないことは善くないことだと子どもたちは考えるようになってしまう。

私は大人に評価されることが悪いことだと言いたいのではない。それはそれで良いことである。大人になるということは大人の評価に適応するというであり、子どもはいずれ大人にならなければならない。大人の評価は常に正しいとは限らないけれども、そうしたことも含めて、子どもは大人の評価に適応して大人にならなければならない。子どもは大人の評価を気にする【良い子】を経て自発的に大人へと成長していくのが順当ではあるのだ。

 *教育は取引ではない

だが、その過程で〈良心〉を矯めてしまうのはこの上なくもったいない。何かを犠牲に何かを得るなら、それは取引である。子どもが大人になっていく過程のなかで何ものをも失わないということはあり得ないにせよ、教育が取引であるとするならば、それは哀しいことだ。というのも、私たちは教育とは贈与だと信じているからである。

では、私たち大人は、子ども義賊たちに何を贈ってあげられるのだろうか。
私は大人として〈普通〉のことをすればいいと思う。それには2つある。

1.は、子どもたちを〈よい子〉だと認めてやることである。子どもたちは純粋に〈よい子〉ではなかったのかもしれない。他者の評価の眼差しを意識した【よい子】であったのかもしれない。おそらくはその両者が入り交じっていたことだろう。それを承知の上で〈よい子〉であったことを評価してやること。

2.は、子どもたちの行動がもたらした結果責任を引き受けてやることである。だが、義賊たちが盗んだのは数千万円。とても引き受けきれるものではないと考えるのが【普通】だろう。そうすると、お金は銀行へ返却するということにならざるを得ないだろう。そして「なかったこと」にしてもらう。大人の社会の現実的な対応としては、おそらくそれが最善だろう。

だが、これでは子どもたちへの贈り物にはならない。大人が子どもたちの責任を引き受けきってこそ、贈り物になる。さらに言うならば、この2.の贈り物が贈りきれないならば、1.の贈り物も不完全なものにしかならない。子どもはバカではない。自身の行為が「なかったこと」にされてしまっては、いくら〈良心〉をお褒めの言葉を頂いても、それは言葉だけのことだと受け取ってしまうだろう。

もちろん、そうすることで〈良心〉には限界があるのだと教えることは悪いことではない。しかし、それより他に手はないのだろうか。

 *贈与は巡る

生きる技法そう考えたとき、ヒントになるのはこの本だ。

 「助けてください」と言えたとき、人は自立している。

子ども義賊たちの責任を大人は引き受ける。だが引き受けきれない。だから「助けてください」とメッセージを発する。

さらに考えてみよう。

もしそうしたメッセージを受け取ったとしたら、私たちは助けずにいられるだろうか。人間の本性から突き動かすという「役に立ちたいという衝動」を感じずにいられるだろうか。

「助けてください」と言えたとき、人は自立している。なぜそう言えるのかは、この『生きる技法』を読んでもらえれば理解できるだろう。そこからさらに言えるのは、「助けてください」のメッセージを受け取って、助けてるべく行動する者もまた自立しているということである。内発的な「役に立ちたいという衝動」に従う者は自立しているということである。ということは、実は子ども義賊たちこそが自立した者であるということだ。

この論理を奇妙だと思われるかもしれない。だが、そう思うとしたら、それは社会に適応してしまった大人の論理に染まっているからだ。大人の論理から自由になりさえすれば、この論理こそが〈生〉の論理であることが理解できるはずだ。

〈生〉の論理でいけば、子ども義賊こそが自立者である。私たち大人は、実は子ども義賊から贈与を受けたのである。彼らの盗みという行為は大人に対する贈与なのである。

私たち大人がその贈与を正しく受け取るならば、子どもたちに対して返礼をしなければならない。それが子どもの「責任を引き受ける」ということだ。自立した大人は「助けてください」とメッセージを発することでその責任を果そうとするが、これもまた贈与である。というのも、そのメッセージは受け取った者の自立を促すからだ。

この流れが実って子ども義賊たちの行動の責任が大人によって果されたとき、それは大人から子どもたちへの贈与となる。子どもたちの自立にさらなる力を与えることになる。これが〈生〉の流れである。

子どもたちは考えることをしないがために、本能的に〈生〉に従う。大人は考えることができてしまうがために、本能的な〈生〉を取り逃してしまう。なぜか。それは取引としての教育に適応することで「考える」ことを修得したからだろう。〈生〉と引き替えに考える技術を得たのである。この取引にもっとも行なった者たち――日本では東京大学に集まる――が〈生〉の論理を疎外する「東大話法」を駆使することになったのは、当然の帰結であると言える。

「東大話法」とは〈生〉を失った者たちの、〈生〉への「呪い」なのである

(「呪い」の構造については『ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛』がとても参考になることを書き足しておく。)


「東大話法」は呪術である

原発危機と「東大話法」「東大話法」という言葉がネット上で話題になっている。ご存知の方も多かろう。

福島第一原子力発電所の事故以来、私たちは政府関係者、東京電力、あるいは立派な肩書きを背負った学者たちの欺瞞に満ちた言説を聞いてきた。そうした言説を安富歩東京大学教授が「東大話法」と命名し、それが広まった。命名が適切であったからだろう。

安富氏が「東大話法」と命名したのは、そうした話法が東大で広く観察されるためだという。が、もちろん「東大話法」は東大に限ったわけではなく、広く日本中に見られる。「東大話法」とは一言でいうならば、自分の意志よりも「立場」を優先させる生き方から紡ぎ出される話法とでもいえばいいだろうか。フクイチでの事故以来、私たちはいわゆる「原発ムラ」に所属する者たちが、いかに自身の「立場」を守るために言葉を吐き出していたかを知っている。

もちろん東大話法は東大関係者に限った話ではない。日本中に蔓延している。社会人にとって「立場」は何よりも大切なものなのだから。そしてそうした社会が東大を中心に東大を中心に構造化されている――かどうかは厳密には確認できないけれども、そうした傾向があることは間違いない――ために、「東大話法」という命名はまことに適切なものになった。

呪いの時代もうひとつ日本中に蔓延しているしているとされる話法がある。内田樹氏が指摘する「呪いの話法」だ。

内田氏が指摘するには、こちらの話法も学会という学者達の世界でよく見られたらしい。それが1980年代半ばからニュー・アカデミズムの切れ味のいい批評的知性が登場したころから際立ち、『朝まで生テレビ!』や『ビートたけしのTVタックル』といったTV番組を通じて過激化・一般化した。「ネット論壇」を席巻しているのがこの話法。

ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力、ほとんどそれだけが競われています。もっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間が英雄視される。(『呪いの時代』p.14)

 (最近はこうした傾向は若干治まったように私は感じているが...)

相手を傷つけるために吐きかける言葉は確かに「呪い」である。「呪い」という表現はアナクロだが、感じは掴める。だが、「呪い」というものは、必ずしもそのように明確なものではない。もっと微妙なものもあるし、むしろそちらの方が多い。

例えば、今年の正月のことを思い出してみよう。今年の正月は「あけましておめでとうございます。」と挨拶するのが憚られるような空気があったらしい(私は知らなかった)。考えてみれば尤もなことである。日本では喪中の相手には年賀状を遠慮するという習慣がある。昨年は大災害があって、しかも未だそれが収束していない。喪中どころか真っ最中だ。そんな状況下に「おめでとう」にそぐわない。この「そぐわない」という感覚が「呪い」のもっとも基本的な感覚であろう。

言葉にはコンテンツという要素とコンテキストという要素がある。「おめでとう」という言葉は祝福の言葉であり、コンテンツは誰にとっても明確である。だが、その言葉が使われるコンテキストは必ずしも明瞭ではない。通常なら新年を迎えることはめでたいことされているから「あけましておめでとうございます。」の言葉のコンテンツとコンテキストは一致して、何の違和感もない。ところが今年はまだ「真っ最中」だ。そこに「おめでとう」ではコンテンツとコンテキストとが一致しない。そぐわない。

相手を傷つける言葉が「呪い」になるのもコンテンツとコンテキストの不一致で説明出来る。相手をバカだとなじり、相手がそれを認めればコンテンツとコンテキストは一致する。鋭い言葉に傷つくことはあってそれは「呪い」にはならない。が、相手が認めなければコンテンツとコンテキストとが一致しないことになる。一方的にコンテンツによってコンテキストをねじ伏せれば、それは「呪い」となる。

「呪い」は相手にかけるだけではない。自身にもかけることが出来る。「あるがままの自分」を認めないこともまた「呪い」となる。内田氏は「自分探しの旅」を「呪い」だという。過剰な自尊感情が「あるがままの自分」の承認を拒み、「どこかにあるはずの自分」を探すよう駆り立てる。そればかりではない。社会的地位が高く名誉も威信もあると見える人でも、現代は「呪い」にかかる。自身を「呪い」にかける。その代表として『呪いの時代』で取り上げられているのは安倍晋三元総理だが(p.22)、公務員やエリート企業に勤めるサラリーマンも例外ではない。

その端的な例が社会保険庁の年金問題でした。問題が発覚した段階で、全庁をあげて問題点を吟味し、そのときに区切りを付けておけば、仮に朝刊や高級官僚の首は飛んでも、ここまでの大事は至らなかったでしょう。しかし、役人たちは、「これは私の責任ではない、前任者がやるべき仕事を先送りしたのだ、だから私も責任を取る筋ではない」という不思議なロジックによって、事件化するまで案件を先送りした。自分の在任中に事件化しなければいいと不良債権処理を先送りし続けて破綻を招いたバブル末期の銀行とおなじマインドです。
「責任を先送り」できるのは、自分が現在起きているシステム上の不備を補正する「メンテナンス」の当事者であるという認識がないのです。「それは私ではなく、どこかにいるはずの『責任者』の仕事だ」と当の公務員達が(おそらく次官レベルに至るまで)思っていた。だからこそ、ここまで巨大な制度的破綻が生じた。
 ・・・
先ほど話した「過大評価された自己」と「先送り」はここで論理的に一致します。「ほうとうの私」はどこかにいる。今ここにいる私はまだ「ほんとうの私」になっていない、いわば熟果していない「前駆的な私」である。(p24.25)


「ほんとうの私」はいつまでたっても見つかることはない。まず「あるがままの自分」を認めていないから。ここにあるのもコンテンツ(「あるがままの自分」)とコンテキスト(「ほんとうの私」)の不一致であって、この「呪い」はシステムを破壊に導く。年金制度ばかりではない。同様の「呪い」は原子力行政を担う者にもかけられていた。

話を『原発危機と東大話法』の方へと戻そう。

安富氏は孔子の論語を引いて「名を正す」という命題を提示する。「名を正す」とはいうまでもないだろう。コンテンツとコンテキストとを一致させることである。そして「東大話法」とは東大あるいはその他の権威を用いて「名を歪ませる」ことに他ならない。

原子力という分野は、すべての言葉を言い換えることで成り立っています。

 ・彼らは、「危険」を「安全」と言い換えます。
 ・彼らは、「不安」を「安心」と言い換えます。
 ・彼らは、「隠蔽」を「保安」と言い換えます。
 ・彼らは、「長期的には悪影響がある」を「ただちに悪影響はない」と言い換えます。
 ・彼らは、「無責任」を「責任」と言い換えます。

こういう無数の言い換えが、この業界を成り立たせる基礎だったのであり、あの恐ろしい事故を経てさえ、今もそれが続いています。すでに明らかなことですが、「原子力安全・保安院」の正しい名称は、「原子力危険・隠蔽院」です。なぜなら彼らの仕事は、原子力の安全性を確保して保安することではなく、原子力の危険性を隠蔽して、あたかも「安全」であるかのように見せかけることだからです。(p33.34)



なぜこんなことになってしまうのか不思議で仕方がないが、こうした「東大話法」は私たちが実際に目にし耳にした事象である。ある一群の人間がおしなべて同じ事象を示すのであるから、その背後になんらかの原理が作動していると考えるのが合理的だろう。そして安富・内田両氏の分析は、それぞれの表現こそ違うが、同じ現象を分析して同様の結論に達していると見て良さそうだ。

「東大話法」とは「呪い」の話法に他ならず、その呪術によって日本というシステムそのものが呪われてしまっている。

秩序のピラミッド

田中龍作ジャーナル

上の画像は『田中龍作ジャーナル』から拝借。

 「大飯原発ストレステストは妥当」 傍聴者排除し推進派だけのイカサマ専門家会議

原子力安全保安院が大飯原発のストレステスが妥当であるとの判断を下すことは予想されていたことだ。それだけの科学的知識を持ち合わせているからではない。そういった【秩序】があるがあることを知っていたからだ。

経産省は警察官だらけだった。ロビーには制服が、会議の会場階には私服がべったりと貼りついた。エレベーターには制服と私服の両方がいる。ものものしい警備ぶりだ。警察に守られなければ開けない会議にどれだけの意味があるというのか。


社会に秩序は必要である。社会に必要ということは私たちひとりひとりに必要だということだ。だが警察に守られなければ維持できないような【秩序】を私たちは必要としているのか。警察は秩序を維持するための「装置」だが、ということは、秩序が維持されているところには出番がないということである。幸いなことに警察の具体的な出番はなかったようだ。それはそうだろう。詰めかけた市民は会議の傍聴を求めていたのであって、秩序を乱すためではない。むしろ〈秩序〉を求めて集まったのである。警察が必要以上に配備されたのは〈秩序〉を無視した【秩序】を強行しようとしたためであろう。

なお、大飯原発の地元である福井県は、保安院の「妥当」だとの判断を受け入れない模様。

 福井県、再稼働認めぬ姿勢 大飯3、4号耐性評価(福井新聞)

一方、原発設置反対小浜市民の会の中嶌哲演さんは「国民の信頼を失っている保安院が再稼働のゴーサインを出すという方向性自体が茶番劇だ。保安院にはゴーサインを出す資格も、能力も、権利もない。福島の事故の反省ができているのか」と痛烈に批判。「少なくとも4月に設置される原子力安全庁において、厳正な審査の下で熟議を重ねて結論を出すべきだ」と述べた。


この、保安院そのものが妥当ではないという主張こそ、妥当ではないのか。

    

国民は〈秩序〉と【秩序】の乖離に気がつき始めている。

 震災後の日本社会と若者(最終回) 小熊英二×古市憲寿(SYNODOS JOURNAL)

小熊 それでは最後に、震災で何が変わったのか、について語りましょう。私は一番変わったのは、秩序に対する信頼感だと思います。

最近、高橋源一郎さんと内田樹さんがある雑誌で対談をしていて、面白いなと思ったことがあります。彼らによると、戦後は「金がすべて」でやってきたという。自分たちは68年に、「平和国家なんて嘘だ、金がすべてなんていやだ」と反抗をした。でもその後、なんとなく成功したりお金が入ったりすると、「なんとなく居心地悪いけど金がすべてでもいいかな」という気分になったという。
そこで前提になっていたのは、「原発推進派は悪者だから事故は起こさない」と思っていたことだというんです。原発推進派を「政府」や「官僚」や「自民党」や「経済界」と入れ替えても同じだけれども、大丈夫だと思っていたと。ところが今回の震災で、意外と彼らが無能だということがわかってしまった。その信頼が崩れたというのは、もしかしたら大きな変化かもしれないと私は思いました。

古市 自民党支持者でない人も、自民党という悪者に任せておけば、なんとかなるだろうとみんな思っていたということですね。そのような一種の信頼が、60代のおじさんたちの間でも崩れはじめている、と。


【秩序】はいったい誰のためのものなのか。【秩序】を必要としている者は誰なのか。

社会は未だに「金がすべて」である。格差社会は常に批判されるが、格差が現われるのは「比較基準」があるからだ。カネはそうした基準のなかでもっとも強力なものだ。【秩序】を欲する者たちはカネを欲している。だが、それは〈秩序〉を必要としている私たちも同じだ。だから【秩序】を求める者たちは、カネを脅迫材料に使う。カネによる秩序を脅迫材料に、カネを奪おうと目論む。

 東電大幅値上げ 首相は原発再稼働に動け(産経新聞)

原発の再稼働で潤うのは〈秩序〉が必要な私たちではない。私たちは私たちに必要にない【秩序】維持のコストを押しつけられるだけ。

この構図は、なにも原発だけに限った話ではない。社会全体が【秩序】のために〈秩序〉が踏みにじられる構造になってしまっている。

 【消費税増税】野田首相「ネバー、ネバー、ネバー、ネバー・ギブアップ」ドジョウ

野田首相は4日午前の年頭記者会見で、第2次世界大戦でドイツとの攻防に勝利した英国のチャーチル首相の言葉を引き合いに、消費税率引き上げの実現にかける決意を強調した。

首相は、チャーチル首相が1941年に語った言葉にならい、「『ネバー、ネバー、ネバー、ネバー・ギブアップ』(決してあきらめない)。大義のあることをあきらめないでしっかりと伝えていけば、局面は変わると確信している」と強調した。

首相は消費税増税をめぐり、党内に反対派を抱え、野党の協力を得られるメドは立っていない。劣勢をはね返して勝利をつかんだチャーチル首相に重ね合わせて自らを鼓舞したようだ。



マスメディアの論調は、消費税増税の前提条件が議員定数削減・公務員給与削減ということになっているらしいが、これは問題の矮小化でしかない。【秩序】に寄生している連中の一部が、寄生できなくなるだけ。【秩序】は増大し、さらに〈秩序〉を侵害するようになるだけだ。

生態系ピラミッド

生態系の秩序はピラミッドである。私たち人類が造り上げている社会も、地球環境が織りなす生態系の一部でしかない。が、多くの者は社会しか見ていない。生態系の〈秩序〉からみれば、私たちの社会そのものが【秩序】である。私たちは【秩序】を〈秩序〉だと思い込んでしまっている。その思い込みから発生する負の連鎖が、私たちの社会に更なる【秩序】を生み出している。

社会が【秩序】となるのは【強欲】ゆえにである。社会のなかの【秩序】に違和感を多くの人たちが感じ始めた。が、それが良い傾向なのかどうかは、まだわからない。その解決法をより【強欲】になる方向で見つけようとするかもしれない。たとえ脱原発が成ったとしても、自然エネルギーにシフトしたとしても、社会のために自然が組み敷かれるようではダメだ。

生きる技法人類は自身を治めることはできない。自身を治めることができないのはなにもヒトだけではない。すべての生き物がそうである。他の生命とのバランスで治まっているに過ぎない。人類に必要なのは、自身では治められないという自覚であろう。その自覚を持つときが人類が自立するときである。

「助けてください」と言えたとき、人は自立している。この言葉は個人としての人間だけに当てあまるわけではなかろう。人類全体にも当てはまる。では、誰に助けてもらうのか。太陽であり、地球であり、他の諸々の生命であろう。



現場とは何なのか/現場とは何処なのか

これは先に書いておこう。この記事を書いてみようと思ったのは、橋下大阪市市長と山口北大教授がとある民放番組で対決して、山口教授がフルボッコにされたという噂をキャッチしたから。

テレ朝の番組で北大の山口教授が橋下市長にスーパーフルボッコにされてるとネットで話題に(2のまとめR)





「フルボッコ」の意味がよくわらないが(語感から想像はつくが)、見た感じ、橋下優勢山口劣勢なのは明らかだ。

 「現場をわかってない」にアカデミズムはどう対抗するか?(lessorの日記)

予想するに、おそらく画面上で今後も大学教授や知識人は負け続けるだろうと思う。残念ながら「論理」や「実証」をもってしても、勝てる気がしない。たとえ議論で勝てることがあっても、テレビで勝敗を決めるのは視聴者なのだから。橋下氏は、あの口調であのテンポであの表情で余裕しゃくしゃくと上から下からしゃべり続ける。「自分は現場を知っている」と主張しながら。対戦相手は熱くなれば「痛いところを突かれたのだ」と視聴者に判断されるし、冷静であり続ければ「現場と同じ目線で物を見ていない」と判断される。どう転んでも、負けた印象はぬぐえない。


なるほど、説得力がある。が、しかし、橋下市長は本当に現場を知っているのか。そもそも現場とは何なのか。現場とは何処を指すのか。私の領分である山仕事と比較しながら考えてみる。


子どもたちも森の木々も、、各々生命を宿した自然的存在である。これを〈素材〉と表現しておこう。樵を生業にしている私は木という〈素材〉を扱う現場で仕事をしている。現場とは〈素材〉を扱う場所。自然的存在である〈素材〉を育み収穫して人間社会に役立てる。樵の観点からすれば、自然と人間社会との接点が現場だ。

それは子どもという自然的存在に接する教師たちにとっても同じなのではないかと想像する。教師だけではない。人間社会に適応した大人として、例えば親として、子どもと接して育んでゆく。親と子が接する場を家庭というが、それもまた現場であろう。

だが、橋下市長の現場の捉え方は異なる。主張をよく聞いてみるといい。彼は「現場を知っている」「現場がダメだ」というが、その現場とは教育委員会・学校・教師の、社会人の世界を指して現場だといっている。
(以下、自然と人間社会の接点を〈現場〉、橋下市長のいう「現場」を【現場】と表記する。)

もうひとつ、図を提示してみよう。


産業には一次、二次、三次と分類されるのは周知の通りだが、二次産業において「現場」と呼ばれるのは通常〈現場〉という素材との関係性の場ではない(職人技の世界では〈現場〉だろうが)。工場という生産設備と作業員で構成される場が現場と呼ばれるのが普通だろう。これは素材の性質による。工場では素材を生命ある存在だとは見なさない。家畜の屠殺工場などを想像してもらえばいいが、たとえ生命ある存在であっても工場においては関係がない。そのような向き合い方をしない。この場合の素材を【素材】と表記しておくことにしよう。

第三次産業では、扱われる素材は人間そのものである。ゆえに現場は〈現場〉であり素材は〈素材〉。そして、教育を産業と考えるならば第三次産業に位置づけるのが妥当であろう。

しかるに橋下市長の現場観は第二次産業のそれである。これで果して「現場を知っている」といえるのか。子どもたちは【素材】でしかないのか。

私は詳しくは見ていないけれども、橋下市長率いる大阪維新の会が提示しているという教育条例案。これもどうも第二次産業的現場観に支えられているような気配だ。教師たちは子どもという【素材】を規格品に加工する作業員に過ぎない。橋下氏はよく民間と公務員とを比較するが、そこで想定されている民間には第一次・第三次産業分野は入っていないのかもしれない。



もうすこし続けよう。

大阪に限らずであろうが、教育の【現場】が機能不全に陥っているのは指摘の通りだろうと思う。教師たちは〈素材〉に向き合うことを余りしなくなった。橋下市長の主張に従えば、その原因は教員たちの共同体が教員達の怠慢により既得権益集団と化したこと。山口教授によれば文科省の指導で官僚組織化したこと。私は双方ともにあると思うが、さらに付け加えるならば、子ども(=生徒)自身が自発的に【素材】化したことである(このように主張するひとりが内田樹氏)。

橋下氏市長は、その現場観から教育【現場】を改革しなければならないと主張するが、その背景として用いるのが民主主義。消費者の求めるニーズに応じて製品を提供するという、大衆消費社会的な民主主義なのである。その帰結は、子どもは【素材】であり社会人は【製品】なのだが、橋下市長はそこには言及しない。主権者=消費者が自発的に需要しているのだと主張し、人気を獲得する。それが「ハシズム」と言われているものの中身であろう。

だが私たちは本当に子どもを【素材】化し、自身を【製品】化することを望んでいるのだろうか。

ハシズムの行き着く先は、惑星メーテルかもしれない。





『希望のつくり方』を読んでみた

希望のつくり方

一番いいたかったのは、希望は与えられるものではなく、自分で(もしくは自分たちで)つくりだすものだということでした。この本の冒頭に「かつて、希望は前提だった」と書きました。現代の希望は、もはや前提ではなく、それ自体、私たちの手でつくりあげていくものなのです。(p.213)


かつて希望が前提でありえたのには理由がある。希望は人それぞれで異なった方向性をもつものだが、社会全体としては一方向へ収斂する。少し前まで、社会の希望は貨幣経済の拡張だった。環境にはまだ人間経済を拡大させる余地があったし、技術革新も進んだ。なにより、希望は貨幣という目に見える形で裏打ちされていた。

 【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その3

現代、希望が前提でなくなったのは自然環境に貨幣経済拡大の余地がなくなってきたからだ。

著者の専門は経済学のようだが、本書に以上のようなことが書いてあるわけではない。【まともな】経済学者はこんなことは言わない。だが、この著者は「まとも」から少し外れているような感じがする。

 経済学は何を学ぶか
 私はこれまで経済学を勉強してきました。以前につとめていた大学では、一国全体や地球全体といった広い視点で経済問題を考えるマクロ経済学などの授業をしていました。
 そんな授業で、入学したばかりの一年生の学生に対して、四月の最初の授業をするとき、つねにいい続けてきたことがあります。
「お金をたくさん儲けられるようになるために、経済学部に入学した人もいるかもしれません。けれども、残念ながら、経済学を勉強するだけではお金持ちにはなれません」。
 では何のために経済学を勉強するのでしょうか。経済学を学ぶ目的は何なのでしょうか。
「どうしればみんなが今よりも少しでいいから、ハッピーに暮らすことができるか。そんな社会をどうすればつくれるか。そんなことを、バカみたいに真剣に考えるのが、経済学なんです。」
 唐突に思ったのでしょう。私が「ハッピー」というと、学生の中には声を出して笑う人もいました。でも、本当にそう思っているのですから、笑われても気になりません。
 なかには嘲笑に近いものもあったかもしれません。みんながハッピーになるなんて無理だよ、と。でも、無理かどうかはやってみなければわかりませんし、経済学者の多くは、その可能性を信じて研究に取り組んできました。「同じように努力する人たちの間でなぜ所得が異なるのか? そのような違いを公正だと評価することができるのか」。私の師匠である経済学者・石川経夫はこの問いこそが、19世紀の英国の経済学者であるジョン・スチュアート・ミル以来の経済学が答えるべき課題だといいました。(p.166~167)


原発危機と「東大話法」この「私」、つまり著者の玄田有史氏は現在東大にお勤めのようだが、今話題の「東大話法」とは縁の遠いところにいるような気がする。それは本書の平明な語り口からも感じられることだ。

本筋から外れるのだが、もうひとつ著者の「構え」を紹介しておこう。

中学生の、「なんで勉強って、しないといけないんですか。勉強して将来の役に立つことが、本当にあるんですか。自分には勉強する意味がわからないから、する気がしない」という直截な質問に対して、「学校で勉強していることで、社会に出てそのまま役に立つことなんて、ほとんどない」と正直に答え、勉強が好きじゃなくてもいいという。

「それでいいと思うよ。勉強っていうのは、いろいろなことが、わかるようになるっていうこともあるけど、本当をいえば、わからないことだらけだよね。でも、勉強っていうのは、わからないということに慣れる練習をしているんだ」(p.161)


こんな言葉を東大の偉い先生から直接聞けた中学生達はラッキーだ。「わかっていること」の量を競って社会のポジション争いをする「構え」とは全く正反対。

そんな著者だから、希望学なるものを志向するようになったのも納得がいく。「わからないこと」を追いかけているうちに出会ったのだろう。希望は出会うものだと著者はいうが、その言葉は著者の人生から出てきたもののように感じる。希望学が著者の「希望の形」。これこそ学者の本道ではなかろうか。

本書「希望のつくり方」は、タイトルだけを見るとHowTo本のようだが、そこは岩波新書。具体的な「こうすればこうなる」というような方法論の提示はない。人間はどのような状況にいるときに希望を抱くのか。それを統計的にあきらかにして、希望のつくり方への提示する。214ページにはそのまとめがあるので引用と、プラスアルファ。

1.希望は「気持ち」「何か」「実現」「行動」の四本の柱から成り立っている。希望がみつからないとき、四本の柱のうち、どれが欠けているのかを探す。(p.39)


 Hope is a Wish for Something to Come True by Action.

英語でいうと何となくカッコイイ? その発展形である次のセンテンスはもう一段カッコイイ。

 Social Hope is a Wish for Something to Come True by Action with Others.

社会的な希望は、他人と共有することで生まれてくる。そう聞くと共感社会への希望が生まれてくる。

2.いつも会うわけではないけれど、ゆるやかな信頼でつながった仲間(ウィーク・タイズ)が、自分の知らなかったヒントをもたらす。(p.86)


ただ、現代社会ではウィーク・タイズを作るにはカネも時間もかかる。ウィーク・タイズが社会のヒエラルキーの問題と直結しているというのは、今日の社会学的見解でもある。

3.失望した後に、つらかった経験を踏まえて、次の新しい希望へと、柔軟に修正させていく。(p.107)


4.過去の挫折の意味を自分の言葉で語れる人ほど、未来の希望を語ることができる。(p.112)


5.無駄に対して否定的になり過ぎると、希望との思いがけない出会いもなくなっていく。(p.128)


6.わからないもの、どっちつがずのものを、理解不能として安易に切り捨てたりしない。(p.153)


7.大きな壁にぶつかったら、壁の前でちゃんとウロウロする。(p.200)


最後に本書を読んで考えたこと。それは希望にも水平型/垂直型があるということだ。

 コミュニケーションにおける水平型/垂直型

本書のはじめの方で、仏教とキリスト教の希望に対するスタンスの違いが紹介されている。仏教においては希望とは棄てるもの。それは煩悩の源泉であって、持たずに暮らすことが出来るのならばそれに越したことはないと考える。一方、キリスト教では希望は善なるものであり、信仰と愛と共に「三位一体」を為すものだと捉えられる。

端的に言ってしまえば、仏教は希望を水平型と捉えて否定する。キリスト教は垂直型だと捉え肯定する。

(参考:『外国語って難しい、と思ったこと』(月明飛錫)

そして、その観点から見ると本書が提示する「希望のつくり方」もまた垂直型――とまでは断言できないが、その色合いが濃いのである。このことは「まとめ」再度、上から順に眺めてみるとよく感じられる。1.2.は水平型でも言えることだが、下へ下っていくに従って垂直型の色合いが濃くなっていく。

上で私は、かつて希望が前提であったのには理由があると記した。「かつての希望」とは水平型だったのである。そしてその拡張が行き詰まった。だから今度は垂直型。

かつてのかつては、垂直型の希望はありふれたものであったはずだ。キリスト教や仏教といった宗教が世界に広く行き渡っていたのがその証拠。私たちは近代に入り【強欲】に支配されてしまってそれを忘れてしまったのである。ならばもう一度思い出せばいい。本書は現代的な装いでそのヒントを与えてくれている。

冬の枝打ち

枝打ちというのは冬の仕事だから、特に“冬の”とする必要はないのだけれども。

それには理由があって、枝打ちというのは、樹の身体の一部を削いで傷つけてしまうわけだから、身の縮こまった季節の方がいい。樹は春になると根から水を吸い上げて成長を始めるが、その時期は樹の身体には水分がたっぷりで、少しの傷でも傷みやすくなる。その前に枝を打っておいてやると、樹は春になって樹は順調に傷を癒す。

順調というのはあくまで人間の都合で、樹にとっては迷惑千万な話だろうが。寒い冬の間、傷を寒風にさらしたままではさぞ痛かろうと思わないではないが、そんな感傷に浸っていては林業はつとまらない。


そんなわけで、枝打ちは冬と決まっているのだが、それでもわざわざ冬としてみたい感じがある。その感じを表現してみたくて、この文章を書いている。

冬は樹も寒かろうが、人間だって寒い。特に朝はつらい。手先、足先が痛い。枝打ちはさほど運動量の多い作業ではないので、少し厚めに防寒をして、ヤッケのフードを頭からすっぽりと被って、少し意識的にカラダを動かす。そうして手足にも血が巡って暖かくなり頭に被ったフードも邪魔だと感じ始めると、訪れてくるのである。冬の気配が。


「訪れ」は「音連れ」。何か気配を感じる時、それは音に聞こえるように感じる。しかし冬の山は実に静かだ。風がなければほとんど音はしない。ノコギリを引く音と、パサッと切り落とした枝が落ちる音がするくらい。だが、聞こえるような感じは間違いなくするのである。

おかしなことを言うようだが、「聞こえる」のは、本当は聞こえていないからなのだろうと思う。聞こえるような気がするだけである。だが、この「気」は確かにある。たぶん、私の身体から出ている気だ。それが縮こまっている木々に反射して、私自身に「聞こえる」。新芽が萌え出る春になると、木々や草花が発する気でかき消されてしまって聞こえない。それが、この季節だと聞こえるのである。

もしかしたら、これが「冷え寂び」というものなのかもしれない。
だとしても、「氷ばかり艶なるはなし」というところまでは到底至らないけれども。

それと。

「おとづれ」が自身の「気の反射」というのはあくまで比喩であり、それは心象風景、いや心象音響のようなものである。だが、それゆえに、反射をなす相手への心理的な信頼がなければ「おとづれ」もまたなかろう。これがもし放射能に汚染された環境であったなら、「おとづれ」は聞こえるかどうか? 聞こえたとしても、もっと別な聞こえ方をするだろう。

3.11後では、こんなようなことも考えずにはいられない。



ここから先は、少し身の回りの愚痴をこぼしてみよう。

この枝打ち作業をノコギリで出来るのは幸いだ。本当は枝打ちはナタでやるのが一番だが、枝が太くなり過ぎいてナタではかえって樹に傷を付ける。そうなると、効率的に作業をするには小型のチェーンソーを使うのがいいのだが、それは使わない。事業の発注者――ここは山梨の県有林、未だに恩賜林といわれるが――がそのように指示しているからであろう。そうでなければ事業を受注した経営者は効率的な方法を選択するに違いない。私の「冷え寂び」など斟酌するはずがないし、経営者がそう選択すれば、雇われの身である者はそれに従うより他に選択肢はない。

発注者は他にも指示は他にもある。指示というより事業内容だが、枝打ちなら2mあるいは4m。もっと高い場合もあるが、高さは必ず指示がある。これが私にはまったく面白くない。

樹は一本一本違うのである。針葉樹林は樹高さはほぼ同じになるが、枝打ちをするくらいの樹齢だと成長の違いはわりと大きい。小さな樹はいずれ枯れる。また、太さはバラバラ。だから、その樹ごとに枝打ちすべき高さは異なる。そもそも枝打ちの目的のひとつが葉の量を調整して、つまり受光量を調整して樹の太さを揃えることにあるのだが、2m、4mという指示ではそういったことは全く考慮されていない。机上の設計があるだけ。

この指示は、経営者の立場で考えるならば、当然守るべきものだ。2mなら2m。それ以下なら役所の検査が通らないし、それ以上は無駄な作業になる。だが、こういった「効率的な考え」は、私には全く持ってつまらない。だから反抗をする。

といって異議を申し立てるのではない。作業をしながら、お気に入りになった樹には、経営者の立場からいえば余分に、樵の立場からいえば適正に枝を打ってやるだけのこと。“ところどころ良い樹を高い目に枝打ちをしておくと、いかにも樹を良くみているみたいで検査にも好印象だろう”と大義名分を述べたりしながら。いや実際、「よく見ているみたい」じゃなくて「よく見ている」のだが。また、そういった「構え」がないと「よく見られる」ようにはならないのだが。


それにしてもお気に入りの樹ほどたくさん枝を打ってたくさん痛めつけるとは、矛楯した酷い話ではある。だが、その矛楯を引き受けることが「生命と向き合う」ことに他ならない。その観点からみれば、指示通りに、効率的にという「構え」は、犯罪的であると私は思っている。命に対して無責任なのだ。

机上で設計ばかりしている「偏差値の高い」者たちにはこの犯罪性はとんと理解出来ないし、そういった環境に適応する者たちは無自覚のうちに犯罪を犯す。そして、そうした冷え冷えとした環境に身をおいていると、かえって自身の「気」がより際立って感じられてしまう。

これも「冷え寂び」と呼んでよいのかは、わからないけれども。

「バズビー疑惑」が示すこと

前エントリーのようなことを書いたのであれば、こちらも取り上げておかなければなるまい。

 『バズビー氏の疑惑を暴く~全てを疑えというリテラシー』(モーリー・ロバートソン)

実は前エントリーを書くことになった下敷きには、バズビー博士のこの「疑惑」があった。

国際的なICRPと市民的なECRR。バズビー博士はECRRの代表的人物だが、いかにも「市民的」な疑惑だ。

この疑惑が真実なのかどうかについては、ここでは触れない。私にはそのようなことを吟味する能力がないから。が、ひとつ言えることがある。この疑惑が真実であれ、またはいずれかの陰謀であれ、低線量放射線被曝が危険であるという仮説の説得力を削ぐには、その情報を発信している人物の信頼性を貶めるのが一番だということ。結局のところ、科学的知見を直接的に検証することが出来ない私たちには、人物を信頼するしか方法がないということなのだ。

ちなみに、記事を取り上げたモーリー・ロバートソン氏は、記事を読む限りでは信頼に値するように思われる。記事の内容に責任を持つという姿勢。そのために、慎重に情報を吟味するという姿勢。この姿勢が「バズビー疑惑」の信憑性を高める。本当は、こうした「姿勢」と「事実」とは直接的な関わりはないなずなのだが。

「事実」に直接コミットできない私たち。いやロバートソン氏だって直接コミットしているわけではない。だからこそ、その「姿勢」を「事実」へと繋げてしまうし、ロバートソン氏だって繋げようとしている。「事実」に直接コミットすることができない者以外は「事実」に言及すべきではない――驕った専門家が吐きそうな台詞だが――とでも主張するのでなければ、こうした「姿勢」と「事実」の、間接的で不明瞭はコミットメントを認めるしかない。その上で、いかに熟議積み重ねていくのか。この熟議は科学の名の下に行なわれてはならないが、しかし、科学を強力に支えるものとなるはずだ。科学的知見の歴史淘汰を推進する原動力となるはずだ。

それには、科学の立場からではなく自身の立場から、自身が支持する主張を明確にする必要があると考える。ただし「保留」付きで。熟議は明確な支持と「保留」との差異から生まれてくるのだ。必ずしも「すべてを疑う」ことから生まれるのではない。

「すべてを疑え」と言う者が見落としているのは、すべてを疑うことができるというのは特権であるという事実である。「すべてを疑え」は正論ではある。しかし、特権的。この特権は個人の資質か、もしくは社会的なポジションによって左右される。不安定な生活を強いられている者に「すべてを疑え」などというのは、酷なこと。正論だからといって適切とは限らないのだ。


「低線量被曝は心配ない」が信じられない理由

放射線の低線量被曝が身体に与える影響については、私はなにもわからない。にもかかわらず、低線量被曝を心配し怖れている。

低線量被曝の影響は不明だから、注意を払っておいた方が合理的という考え方もあるし賛同もするが、しかし、心配や不安は情緒的な問題であり、合理的に生じるということはない。低線量被曝を合理的に心配しているわけではないのだ。


では、心配の源泉はなんなのだろうか。不信である。「ヤツラ」に対する不信。「低線量被曝は心配ない」を信じることが出来ないのはその主張がヤツラにとって都合がよいから、である。

原子力業界が安全委24人に寄付 計8500万円

 東京電力福島第一原子力発電所の事故時、中立的な立場で国や電力事業者を指導する権限を持つ内閣府原子力安全委員会の安全委員と非常勤の審査委員だった89人のうち、班目(まだらめ)春樹委員長を含む3割近くの24人が2010年度までの5年間に、原子力関連の企業・業界団体から計約8500万円の寄付を受けていた。朝日新聞の調べで分かった。

 うち11人は原発メーカーや、審査対象となる電力会社・核燃料製造会社からも受け取っていた。

 原子力業界では企業と研究者の間で共同・受託研究も多く、資金面で様々なつながりがあるとされる。中でも寄付は使途の報告義務がなく、研究者が扱いやすい金銭支援だ。安全委の委員へのその詳細が明らかになるのは初めて。委員らは影響を否定している。



「委員らは影響を否定している」だって? 信じられるわけがないではないか。可能性としては否定できない。論理的にいえば、寄付と国や電力事業者への指導は別次元の話だから。が、私たちは識っている。自身も含めてほとんどの者がカネに対して合理的に振る舞うことが出来ないことを。それを識っているからヤツラに不信を抱く。

不信を抱かせる記事へのリンクをもうひとつ貼っておこう。

 『長周新聞』 2012年1月1日(日曜)。3面。「人はなぜ御用学者になるのか」

ヤツラへの不信と科学的知見とは切り離すべきだという意見もあろう。それが理性的な態度である、と。が、私はこのような態度を理性的と考えない。こうした理性的態度には「自省」という重大な要素が欠けている。人はカネに対して中立的でいられないという、理性を自身に向けてみればすぐに判明する事実を無視している。科学的知見を提出する者がカネと無関係であるという証拠などない。それより関係していると見る方が理性的だ。科学的知見が真に客観的普遍的なものとなるには歴史の淘汰が必要だが、低線量放射線被曝についての科学的知見は、まだその淘汰を受けたとは到底言えない。

このことは、国際的なICRPと市民的なECRRの対立に象徴的に現われていると見ていいだろう。

科学的知見が歴史的淘汰を受けていない現時点では、科学的知見は真に科学的ではない。ゆえに信頼するに足らない。科学的な知識に乏しい一般市民が現時点でできるのは、人間を信頼することである。信頼できる人間が発信する情報を信頼すること。これ以外にない。自身の立場から見て信頼できる人間の情報を信じるしか術はない。未淘汰の知見をあたかも真の科学的知見がごとく発信される情報など、信じる必要はない。

ただこれには悩ましい面があって、それはそうした一方的で全面的な信頼が科学の歴史淘汰を妨げるよう作用する場合が多いということ。だから、一方的で全面的にならないように、淘汰された結果を受け入れることができるように、どこかに「保留」を保持しておくことが必要。とはいうものの、そうした「保留」を保持したまま、その情報に頼って決断するというのは難しいこともあって、どうしても「保留」はなしに、つまり全面的な「安全安心」を求めてしまうことになる。

だがそれは、ないものねだりでしかない。ないものはない。この現実を受け入れ、あとは自己責任で行動するしかない。

(ツイッターのTLを眺めていると、フクイチ4号機が危機的状況にあるのではないかという情報が散見される。もし情報の流れが危機的状況から本当に危ないというところへ変化したとき、どのように対応するか。考えておく必要があるかもしれない。)

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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