愚慫空論

アクロバットとミスマッチとリズムの喪失


今日は短くしたい。

最近私は「アクロバット」という言葉をよく用いるけれども、この言葉と対になるべきものを提示していなかった。それは「ミスマッチ」である。ミスマッチがあるからアクロバットが必要になる。簡単な話。

ではミスマッチとは何なのか。何と何がミスマッチしているのかと問うことになる。その答えは自発性と内発性。

「動物としてのヒト」が備えているのが内発性。これは生態系における均衡発現をデフォルトに、個体としての最適発現を追求しようとする生命の〈現れ〉
と同時に、ヒトは「人間として」自発性を備える。こちらは人間が作る社会へ適応しようとする人間としての欲求である。

ヒトの自発性と内発性のミスマッチはヒトという種が抱える構造的欠陥というべきだろうが、近代社会は【システム】を全域化させていくことで欠陥を克服しようとしてきた。だが、この企ては失敗に終わったと見るべきだろう。そう見るならば、人類は衰退局面に入ったと捉えておくのが正しいはずだ。

以上はアクロバット/ミスマッチからの見立て。ここに別の見立てを立てると「リズムの喪失」。

リズムは「刻む」ものだが、この言い回しが表しているのは、リズムとは自発意識的には時間を「切る」ものだということ。自発的に「切る」からこそ内発的に「繋がる」。リズムとはそうしたものである。

生命はそれぞれにリズムを持ち、かつ、それぞれのリズムをそれぞれに共有する。もしくは大きな自然のリズムをそれぞれに共有している。

人間は社会を作るが、社会を作っている人間は個々の生命。ゆえに社会にもまたリズムがあるはずで、健全なそれは個々人のリズムと自然のリズムとの共振であるはずだ

ところが近代社会を支配しているリズムは、そうした共振とは全く無関係な「空虚で均質なリズム」である。

私たちはリズムを機械が発する機械的な律動に委ねてしまっている。自発意識的に時間を「切る」ことはしない。現代社会で「時間を切る」というのは、空虚で均質な機械的時間に合わせるように自身の身体を調整するということに他ならない。これでは内発的な「繋がり」が見失われていくのも当然の帰結だろう。

この見立ては、機械的な時計を棄てよという主張に繋がるものではない。そうではなく、機械的な時計のもたらす利便性は享受しつつ、自身のリズムを見失うなということである。つまり自身のリズムを保持す技法が大切になってくるということ。

自然のなかで暮らすいうのは、その技法のひとつ。自然な暮らしを技法というのはおかしな感じだが【システム】が全域化して空虚な時間に支配されている現代社会では、あえて技法のひとつとして捉えることも必要だろう。

もちろん技法的な技法も存在する。


こちらを参考に。
 光るナス:「私は生を探っているのです」

クラウドな想像力が創出するもの

前エントリーでは華厳経の「重々無尽」とソーシャルネットワークを重ねてみた。

私は以前からこのようなイメージを「クラウド」と呼ぶことにしている。この名辞はもちろん「クラウド・コンピューティング」からのものだ。



「クラウド」という蠱惑的な言葉を生み出した言語感覚。誰かは知らないが、改めて素晴らしいと思う。それは、愚樵というHNでネットに出入りする人間としてより、樵という世界で生きている人間としてより強く感じる。「クラウド」は『不定時法の世界』に近い。これはもちろん私の直観であって、うまく説明することがなかなかできない性質のものだ。

想像の共同体だが先日、この直観を言い表している言葉に出会った。それはベネディクト・アンダーソンの著作のなかにあった。

我々自身のもつ同時性の観念は、長期にわたって形成されてきたもので、その成立は確実に世俗科学の発展と結びついたものであったが、この成立の過程についてはなお十分に研究されているとは言い難い。とはいえ、この観念は、ナショナリズムの成立にとって決定的な重要性をもつので、これを十分に考察することなしに、ナショナリズムのあいまいな起源を探査することは難しい。中世の時間軸に沿った同時性の観念にとって代わったのは、再びベンヤミンの言葉を借りるならば、「均質で空虚な時間」の観念であり、そこでは、同時性は、横断的で、時間軸と交叉し、予兆とその成就によってではなく、時間的偶然によって特微付けられ、時計と暦によって計られるものとなった。
こうした変容が国民という想像の共同体の誕生にとってなぜかくも重要なのか。これは、一八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つの想像の様式、小説と新聞、の基本構造を考察することで明らかとなろう。というのは、これらの様式こそ、国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提供したからである。(p.49~50)



均質で空虚な時間。この言葉が惹起させるのは、その反対の「均質でなく空虚でない時間」。こうした「時間の流れ」を私は樵として自然と相対しているときにも感じるし、ソーシャルメディアの中にいるときにも感じる。
一般意志2.0

これが意味するのは、ツイッターのユーザーは、いま世界でなにが起きているか、世の中でなにが話題かを気にかける必要がまったくないということである。たとえば外部で戦争が起きようが革命が起きようが、自分のタイムラインさえ平穏なのであれば、彼もしくは彼女は、すべてを無視していつまでも少数の友人とおしゃべりに興じ続けることができる。それは、かつて「想像の共同体」の要としての国民国家の統合に大きな役割を果した、新聞やラジオやテレビのような二〇世紀型のマスコミとは対極にあるメディア体験である。新聞やテレビは、ニュースが強制的に視聴者の生活の中に入り込んでくる。ネットにはそれがない。(p.224)


マスメディアが「均質で空虚な時間」を可視化したとするならば、ツイッターが可視化しているのは「空虚でない時間」である。とはいえ、空虚でないがゆえに「島宇宙」を作り出して傾向がなきにしもあらず。けれども

けれどもツイッターは他方で、そのようなしまう中を横断し、ユーザーをそれぞれの小さなコミュニケーションの外部に半ば強引に連れ出す機能もまた備えている。


連れ出された者に流れる時間が均質であろうはずがない。

ソーシャルメディアと自然との差異にまず言及しておくと、自然の場合は「半ば強引」ではなく「連れ出し」はデフォルトである。もう少しいうと、だからこそ「絆」というものが内発的に惹起されてくるのだが、話が大きく逸れるのでここでは止めておこう。

自然との大きな差異は未だ厳然と存在するにせよ、それはネットという人工環境の宿命であるにせよ、流れる時間の感覚は空虚でも均質でもない。

ここから先は、また直観に戻ろう。

均質で空虚な時間の流れと、コンテンツとしての言葉がもたらした「想像の共同体」。私はこれを「象徴界の共同体」ではないのかと思う。アンダーソンが国民国家以前に存在していたと指摘している宗教共同体なども同じ。

不均質で身体的な時間の流れと、コンテキストとしての言葉がもたらすかもしれない共同体。これは「想像界の共同体」。そして内山節がいう自然を含めた共同体というのは、こちらである。


また、この直観に従うならば東浩紀が再解釈したルソーの一般意志もまた想像界的なものだったと考えられなくもない。想像界の共同体の意志としての一般意志。私は東の記述を読みながら、宮本常一の『忘れられた日本人』にある「寄合い」の記述を思い起こしていた。

ルソーの思想は、一般には、個人の自由、感情の無制約な発露を賞揚するものとして知られている。たとえば『学問芸術論』と『人間不平等起源論』は、自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳いあげるところから始まっている。また『エミール』では、できるだけ子どもを自発的に育つままにしておくこと、その内発性を社会の悪から守ることを理想の教育の柱としている。ルソーは次のように記している。「自然の最初の衝撃は常に正しい。[・・・・・・]初期の教育は、だから、純粋に消極的であるべきである。それは、徳や真理を教えることにあるのではなく、心を悪徳から、精神を誤謬から保護するところにある」。(P.26~27)


ルソーが理想としたところは動物化した人間だったのかもしれない。だとして、それを可能にするのは象徴界的想像力がもたらす【想像の共同体】ではないだろう。想像界的想像力による〈想像の共同体〉だ。

あくまで私の直観である。

フラジャイル/インドラの網/一般意志2.0

昨年はいろいろと本を読んだが、著者別でいうと最も多く読んだのは松岡正剛だった。また松岡正剛の本ではなくても、千冊千夜にはずいぶんお世話になった。これからもなるだろう。「知のインタープリター」として今の日本では最上の人ではないかと思う。

(ただ困るのはいろいろな意味でついていけないこと。知的な営みには時間もエネルギーも必要だけども、樵をやっていたのでは賄いきれないところがある。そんなときは樵であることが恨めしいが、しかし、私にとっては樵でいることはいろいろな意味で重要なことなんだよなぁ。)

そんな松岡センセーに(勝手に)乗っかって出合ったものはたくさんあるが、今日はそのなかで「フラジャイル」と「重々帝網」を簡単に。

「フラジャイル」は "fragile"。 脆弱なとか、壊れやすいとかいった意味。松岡正剛にはズバリ『フラジャイル』という名の著作もあって大変面白いものだけれども、今日は触れない。

それよりもスティング。



そして、ルイス・トマス。

人間というものは、自分のことを自分の記憶だけで埋めようとしていない。自分にとって憧れたいもので自分を埋めようとしている。だからこそ、自分を超えた何かを求めるのであり、だからこそ自分という人間は世界でいちばんフラジャイルなのである

自分を埋める自分以外の他者。これは私に言わせればインターフェースのなかの〈霊〉ということになるのだけれども、そして残念ながら〈霊〉には〈悪霊〉もあって、それに人間は大いに苦しめられるのだけれども、それゆえになおのこと人間はフラジャイル。

人間をその本性の深いところから突き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動である
たぶんこれは私たちのあらゆる生物学的な必然性のうちで最も根本にあるものだろう

生命の均衡発現をデフォルトに最適発現へ向かおうとする「構え」

(蛇足をしておくと、私はスティングのこの曲を聴くとなぜかJ.S.バッハの『シャコンヌ』が被ってくる。バッハの方はヴァイオリン一挺のインストゥルメンタルで雰囲気も全く違うのだけれども。もし聴きたいのなら、youtubeにも音源はあるが、パブリックドメイン・クラシックにある著作権切れの古い音源だけれども、なかでもエネスクがオススメ。フラジャイルな趣が色濃く出ているように感じる。
J.S.バッハ→無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調→ジョルジェ・エネスク→第5楽章シャコンヌ
と進むとよいが、直接行くならココをクリックしてもらってもよい。)

エヴェレスト


次は「重々帝網」だが、これはブログタイトルでは「インドラの網」としたもの。宮沢賢治にこのタイトルの童話があってネットで読むことができる。本なら数ページのごく短いお話だ。

宮沢賢治というと「法華の行者」で知られているが、「重々帝網」もお経にでてくる話。法華経ではなく華厳経らしいが、どちらでもいいだろう。この上なく壮大なイメージである(賢治の童話では説明されていないので、念のため)。

まず「帝」だが、これは帝釈天。仏教的空想の世界、須弥山の山頂の住むが、その宮殿の天井には無数の宝珠が編み上がった「網」がかかっている。その宝珠はひとつひとつが他のすべての宝珠を映しこみ、煌びやかに光の乱反射させて――ということで「重々」。「重々無尽」とか「相即相入」とか「融通無碍」とか他にもいろいろ呼び方があって、仏教の世界観の基礎である「縁起」の集大成ともいうべきイメージだ。もちろん、ひとつひとつの宝珠は「私たちひとりひとり」に相当すると考えるべきだろう。

この壮大なイメージは非常に「強い感じ」がする一方で、「弱い=フラジャイル」な感じも惹起する。重々無尽のイメージ――小さな折り合いが織りなす大きな世界――から自己を外して客観的に観るならばそれは神のごとき視座となるが、その中にたった一個の宝珠=自己という視点をを入れ込むと途端にフラジャイルになる。

もう一度引用してみよう。

人間をその本性の深いところから突き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動である

因陀羅網


さて、三つ目、「一般意志2.0」。これは東浩紀が創出した概念だ。
一般意志2.0
なぜそんなものが「フラジャイル/インドラの網」と並べられているのかということだが、実は並べた私自身にもよくわからない。

ルソーが提唱した一般意志からの(著者の表現によると)二次創作で一般意志2.0を作り出した。ここでは新たな政治の形が提案されているが、だがまだ「弱い」。この「弱い」はフラジャイルではなく不明確ということだが、それでも重々無尽なあるいはフラジャイルな「形」が見えるような感じを受けなくもない。有り体に言えば“一般意志2.0”と名付けられた「考え」がそのような方向へ発展していって欲しいという私の願望でしかないのかもしれない。

だが。

人々がたがいに憐れみを抱き、感情移入しあうことで公共性が担保される世界。かわりにあらゆる理念やイデオロギーを私的領域(趣味の世界)に押し込め、社会設計からは慎重に隔離する世界。徹底した相対主義の、あるいはあらゆる「主義」から無縁の世界。リチャード・ローティはそれを「リベラル・ユートピア」と呼び、現代社会はその理想に向かって進むべきだと論じた。そして本書の構想もまた、あらゆる熟議を私的領域に閉じ込め、公共性を大衆の無意識によって確保する点で、このローティの理想に近づいている。(p.220)



期待はまったく的外れでないと思う。

もうひとつ期待の材料。それはインドラの網が一部可視化されつつあること。

宮沢賢治は童話のなかでインドラの網を「見えるが見えないもの」と表現している。インドラの網など想像上の産物でしかないのだから、それは的確であった。だが、その想像上の産物がテクノロジーの進化で見えるようになってきている。

たとえばツイッターだ。ツイッターの世界を構成するアカウントひとつひとつは宝珠に相当すると考えても、さほど無理はないだろう。想像の重々無尽と比較するなら、その宝珠はまことに不完全ではある。ひとつのアカウントが他のすべてのアカウントを映し出すところには全く至っていない。大きな宝珠もあれば小さな宝珠もあって、いびつな姿をしているかもしれない。しかしそれでも、重々無尽なことには間違いない。そしてそれを見ることができる。実際に見ることが出来るのは自分のアカウントに流れてくるデジタル情報の流れだけだが、そこから重々無尽を想像するのは難しくない。

その「想像」が一体、どういった変化をもたらすことのなるのか。

ここから先は続きにすることにしよう。

生命の最適発現/均衡発現/過剰発現

謹賀新年。 平成二十四年最初のエントリーです。今年もよろしくお願いします。

******************************

・自然からの贈与

それはたとえば、稲穂の稔りだ。

実りの秋


一粒の籾は何十倍何百倍にも増殖する。生命力の発現である。

生命は常に持てる生命力を最大限発現させようとする。それが生命というものの性質であり、最大限発現することが個々の生命にとっては最適なこと。だから生命の最適発現とは最大発現のことである。

しかし、無数の生命が組み合わさった生態系においては個々の生命の最適が最適ではない。

人間が管理している水田の場合には、稲が最適に生命力を発現させて生まれたもののほとんどが収穫として人の生命を維持するために費やされることになる。もし仮に人間が管理していなくても、発現した籾のすべてが次世代に引き継がれるわけではない。その多くは他の生命を支える糧となるはず。生態系のなかでは、稲は最適発現よりもずっと小さな生命しか生存することができない。生命の均衡発現である。

生命の最適発現と均衡発現の差分。これこそが自然からの贈与である。そのように受け止めたとき、私たちの心の中には悦びが湧き上がってくる。一方で、この差分は弱肉強食な自然の摂理による当然の帰結であると観ることもできよう。この観方であっても悦びは湧くが、しかし、贈与と観たときの悦びとは少し違うものがある。人間が管理する水田だと、予定していた収穫を予定通りに収穫できたという安堵の気持ち。コストを掛けリスクを冒して得たゲイン。贈与を受ける〈悦び〉とゲインを得る【悦び】は、同質のものではない。

・最適発現の〈善〉/【善】



もちろんのことながら人もまた生命の「現れ」の一である。
特別な現れではあるだろう。生態系の頂点に位置するという意味でも、自身を省みる自意識をもつという点でも。

その特別な自意識は、生命力を最適発現を「善」と捉える。
だが、ここには落とし穴がある。「善」が〈善〉ではなく【善】となってしまうことがある。【強欲】な現代社会は、まさにこの罠の中に落ち込んでしまっている。

一個の生命としての「人」。その「人」の生命最適発現の「善」が〈善〉であるためには、「人間」としての生命発現のデフォルトは均衡発現に置かれていなければならない。「人」からすれば均衡発現は最適発現よりずっと小さい。「人」としてのデフォルトは最適発現に置きながら、同時に、「人間」としてのデフォルトは均衡発現に置いておかなければならない。この差分を贈与として差し出す「構え」を保っていなければならない。

人の特別な自意識はこの「構え」を〈美〉と観る。「善」が〈善〉であるためには〈美〉の下支えが必要なのである。

現代社会では「人間」としてのデフォルトもまた最適発現になってしまっている。ゆえに差分が生じることはなく、贈与を為す「構え」も生まれない。最適発現はまさに最適なものとして【システム】のなかへ組み込まれていく。その結果、現代社会は生態系においては過剰発現になってしまっている。

過剰が限界に突き当たるのは当然の帰結であるし、過剰で限界を突き破ろうとしても手痛いしっぺ返しを喰らうだけなのもこまた当然。その当然が、最適発現が【善】となり【常識】となってしまったがゆえに見えない。ここに現代社会の病理がある。

原発事故


・最適発現の〈内発〉/【自発】

自発性は社会への適応から生じる。

【強欲】な現代社会に適応した現代人は自発的に自身の生命を最大発現させようとする。自身を社会のメンバーであると自認したい。【自我】を確立しアイデンティティを確立したい。ゆえに社会から社会人と承認を得るために自発的な最大発現を行なうとする。社会からの承認を得ようとすることがすでに社会への適応。だがこのこと自体は「善」であろう。

内発性は社会適応から生じるものではない。社会への適応以前に一個の生命として内在させているものである。また、社会以前の生態系のデフォルトは均衡発現である。このことは「善」でも何でもない。ただ「真」というべきことだ。

社会へ適応という「善」が「真」を疎外するとき、「善」は【善】となる。「善」が「真」を保っているなら、それは〈善〉であり〈美〉。つまり、【自発】が〈内発〉を疎外することがなければ自発性もまた〈善〉なのである。

社会への適応が上手く行かなかった者の中には、特別な自意識でもって前もって均衡発現を是としてしまう者もいる。努力は発現だが、それが報われることの少ない社会ではそうした者も否応なしに増える。これも社会適応の在り方のひとつではある。だが、この適応は「人間的」であっても「人的」「生命的」ではない。このような適応者が増える社会は病んだ社会である。

〈内発〉であろうが【自発】であろうが人は最適発現を追求する。最大発現が追求できる社会は「善き社会」である。だが〈善き社会〉とは限らない。【自発】が重んじられ〈内発〉が疎外される社会は【善き社会】であり、すでに病んだ社会への道を踏み出してしまっている。現代社会は末期症状を呈している。

幸せでなければ生き残れない

収穫の悦び


生命は自身の生命力を最適に発現できたときに幸せを感じる。それは〈内発〉からのものであっても【自発】からのものであっても同じである。贈与を受けたとき、あるいは贈与を与えることが出来たときの〈悦び〉。また、コストとリスクを超えてゲインを得たときの【悦び】。上述の通りこれらは異なるけれども、それでもどちらも「幸せ」と呼ぶに値するものであることは間違いない。

【自発】は【自律】を経由して【他律】なるが、病んだ現代社会は【他律】に満ちた社会である。価値は自身のあずかり知らぬうちに他所で定められて押しつけられる。自発的に価値を見つけようとしても、それはもはや困難だ。競争に勝ち抜かないことには自発性すら発揮できない社会になってしまっている。なまなかな【自発】は等価交換の原理に飲み込まれ、瞬く間に交換可能なものへと変換されてしまう。そんな社会のなかで凡夫は生き残ることすら困難になってきた。既存の【他律】を跳ね返して新たな【他律】となる強力な【自律】を生み出すことが出来、【悦び】を得ることが出来る人間以外は怯えながら暮らさなければならなくなった。これは最適発現がデフォルトとされてしまった人間社会の帰結である。

そうした社会で生き残ることが困難になった凡夫は、否応なしに自身の社会適応をリセットするというアクロバットを演じなければならなくなった。

だがアクロバットは難しい。アクロバットは凡夫にはできないからこそアクロバットなのである。

だからアクロバットは凡夫には〈希望〉にならない。フクイチが事故を起こしたとき直ちに避難するというアクロバットを演じた人は少なからずいたが、多くの人には出来なかった。社会に適応していたからである。

社会に高度に適応して自発性を発揮できる者たちにとっては避難は決してアクロバットではなかった。だがそうではなく、標準的な適応でしかなかった人たちにとってはアクロバットだった。この年末年始、そのことを実感している人も多いはずだ。アクロバットが長い目で見たときに正しい選択であることは次々と明らかになりつつあるが、それでもアクロバットはアクロバットなのであって、その事実は変らない。

その事実ゆえに、福島で生まれていると伝え聞くのは奇形な希望。福島が除染されて住み続けることができるようになるという【希望】である。それは不可能でないだろう。多大な犠牲を払うのであれば。

福島だけではない。小沢一郎や橋下徹に寄せられる希望もまた【希望】でしかない。

ではどうしたらいいのか。道標はないのだろうか。

追記:〈 〉【 】の表記についてはアキラさんの記事をご覧あれ。


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