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愚慫空論

人類社会は衰退局面に入った

今年を振り返ってみて。となると、まず3.11というのが常道だろうけれども、そういった「外から観方」ではなく、「裡からの観方」――つまり私自身の主観で、特に当ブログに関連して、今年最後の記事を書いてみる。

そうなるとまず思うのは、今年はいっぱい書いたなぁ(笑) 特に後半。今年初めにどんなことを書いたのだろうと思って過去記事管理を見てみたら、未公開のボツ記事。それが2つも続いていた。そういえばそうだった。書くことはあるし書きたい思いもあったけど、書けなかった。書いても文章にするのに四苦八苦していた。自身で文章を書くより、他所でコメントしている方がずっと楽だった。

それが今は四苦八苦がほとんどなくなっている。文章が引っかからずに出る。これは私の内面に何らかの変化があった所為だけれども、それがどこから来たのかはっきりわかっている。3.11だ。この出来事が切っ掛けで、「言いたいこと」が私の裡の「あるべきところ」に据わった。

私は何が言いたいのか。その前提が当記事のタイトルにあげた「人類社会は衰退局面に入った」である。いや、ほんとうはずっと以前から入っているのだろう。3.11はその「事実」を露わにした。


これは過去の人口増加の実績と未来の予想とがグラフにまとめられたもの。ここから読み取れるのは、このまま推移してもいずれ人口増加は頭打ちになる、つまりは停滞局面に入るということだ。しかし、これはあくまで推測であって、事実はそうではない。この推測のようには地球環境は保たない。これは環境問題に多少なりとも関心がある人には常識だが、それだけではない。それ以前に社会の制度が保たない。

人類社会に対して地球環境がずっと大きかった時代はまだよかった。よかったとはいってもこの時代は戦争と抑圧の時代であり、善くないところも山ほどあって決して善き時代とは言えないわけだが、それでも「大きな希望」は持つことはできた。「豊かになればすべては解決する」といったようなものだった。特に近代以降、そうした希望は大きく膨らんだし、また一部では確実に実現していたことでもあった。

しかし、その結果到来したのが【強欲】が強欲と感じられずデフォルトになってしまっている社会である。このような社会はもはや保たない。限界点に達してしまっている。3.11とその後の「フクシマ」で、皆が無意識的にであれ理解したのはこのことだろうと私は受け取っている。

風の谷のナウシカ 私の「言いたいこと」はこのことを前提に、人間は生き方を変えなければ生き残っていけない、ということだ。

これまでは、幸せとは生き残ること、あるいは競争に勝つことが前提だった。だがこれからは違う。生き残ることの前提が幸福であることなのである。生き残って幸福になるのではない。幸福でなければ生き残れない。もう少しいうと、幸福でなければ生き残る力を育むことが出来ない。衰退局面に入った社会では生き残りの前提が幸福であることになる。これまでの私たちの常識(というほど意識化されていないが)とは逆になるのである。

『ナウシカ』は、現在とは「逆転した世界」を先取りした作品だ。ナウシカという主人公を通じてこの「逆転」を表現したといってもいい。

 愚樵空論:小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉

トルメキアやドルクといった〈帝国〉は、「衰退していく世界」のなかで相も変わらず「拡大していく世界」の原理で動こうとする。この原理はもはや誰も幸せにはしない。人々を導くのは「幸福な暮らし」をを保っている風の谷出身のナウシカだ。ナウシカが示すのは、幸福こそが生き残りの前提であるという「衰退していく世界」の原理である。「拡大していく世界」から生まれた巨神兵は、「拡大していく世界」の原理と「衰退していく世界」の原理とを裁定するのである。

――と、いつもの調子になってしまったところで、「今年最後の記事」というところへ立ち戻ろう。

愚樵空論というブログを書いている私にとって、今年という一年は自身の「言いたいこと」が「腑に落ちた」一年であった。となると、来年はこの路線を引き続き行くことになるし、行くしかない。確信である。

ただこの確信には思いは複雑だ。私だってどちらがいいのかと問われれば、「衰退していく世界」よりも「拡大していく世界」の方がいいに決まっている。「拡大していく世界」への訣別は、喜びに満ちてといくものではない。

おっと、こんなふうに書いて思い浮かんだ。日本では年末恒例、ベートーヴェンの『第九』だ。その第三楽章は「拡大する世界」ならぬ「楽園」だが、ベートーヴェンはここに別れを告げて第4楽章の「歓喜の歌」へ入っていく。思い浮かんだのは第三楽章の訣別のファンファーレ。あれは本当に「痛い」。

これが思い浮かんだということは、やっぱり『第九』を聴いて年を越せということか。

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生きる技法とは自分を信じて生きること

生きる技法 私はこの本が発売されるという情報に接したときに、すぐさま予約を入れた。

通常、私はこういったことはしない。著者の安富教授は「my favorite」で、このブログでもその著作を何度も何度も引用させて頂いている。、だからといってなんでもすぐ読むとはならないののが私の性分。なんであれ、巡り合わせ。読みたいと思ったときに読む。

のっけから余談のようだが、「読みたいと思う」のは難しい。読みたいと思ったようでも、いざ本を手にしてみると一向に読む気にならないことがしばしばある。これは実は純粋に読みたいと思っていなかったのである。そんなときには不純な理由――粗探しをして批判してやろうとか――がある。それが意識的には「読みたい」になってしまうが、その区別はなかなかつかないものだ。

その点、『生きる技法』は「読みたい」本だった。届いたらすぐさま読み始めて、瞬く間に読了。1時間かからなかったと思う。寝る前にもう一度目を通し、翌朝、仕事に出かける前にこの文章を書き始めた。仕事を終えて帰宅後、また続きを書いている。

この読書で確信したことが2つ。

1は、読みたかった理由である。それがわかった。私は確認をしたかったのである。

自分を信じて生きる 私は『生きる技法』と同じメッセージを発している本を以前に読んだことがある。松木正著『自分を信じて生きる ~インディアンの方法』がそれ。

松木正という人には、森林インタープリテーション講座という場で出会った。そこで教わったのが「アイスブレイク」であった。

アイスブレイクとは「心の氷を解かすこと」。すなわち人間を「自立」へと促す技法である。「自立」し他人を信頼できるようになった人間は、森とも仲良くなることができる。

そんな講座を開くようは人が書いた著作のメッセージと、東大教授の書いた本のメッセージが同じ。この場合の「メッセージ」は明確に言語化することが難しいものだが、その一端は『生きる技法』のオビで言葉にされている。

 ・「助けてください」と言えたとき、人は自立している

同じことが『インディアンの方法』にも書かれている。

 ・自立しようと思ったら、ヘルプメッセージを出せなくてはいけない


これはたまたま同じような表現になったというわけではない。メッセージが同じだからである。人間は自愛することができたときに、自立と依存は二項対立ではなく二項同体になる。『インディアンの方法』も『生きる技法』も、訴えるところは自愛である。

私が確認したかったのは、このことである。『インディアンの方法』から受け取ったメッセージは私にとっては大切なものだ。それを別の表現方法でも確認したかった。大切なことを違った表現でも確認できるということは嬉しいことだ。だから私は「読みたいと思った」。もちろん、私は前もって『生きる技法』のメッセージの内容を知っていたわけではない。だが予感はあったのだろう。私はそうした予感を信じる人間である。

メッセージの構成方法に触れると、『インディアンの方法』を情緒的というならば、『生きる技法』は理知的というべきだろう。命題を立ての論証という形式で書かれている(スピノザの『エチカ』に倣ったらしい)。論理的な分だけ説得力は高い――と言いたいところだが、残念ながら必ずしもそうとはいえない。私にはとても得心がいくものであったが、それが万人に及ぶかどうかとなると疑問なのである。この点が2つめの確信と関わってくる。

2つのめ確信。それは自立と依存の二項同体は現代社会においては「アクロバット」であるということだ。

アクロバットは、できる者にはできる。バク転でも鉄棒の逆上がりでもなんでもいいが、こういった芸当はできる者にはできるもので、どうやったらできるかなど説明しようがない性質のものだ。自立が依存であるというのは『生きる技法』において「命題1」として位置づけられているけれども、この命題をすんなりと受け入れることが既にアクロバットなのである。

このことは、その論証の仕方にも現れている。中村尚司さんという経済学者が60年間考え続けてようやく発見した。手足がほとんど機能しない先天性脳性小児麻痺の障害を背負われている小島直子さんという方が『口からうんちが出るように手術してください』と希望した。あるいは、ドイツのハイデマリー・シュヴェルマーという女性が、お金をすてることで豊かな人生を掴んだ。安富教授自身の体験もそうだ。『生きる技法』では、ほら、こういった実例がありますよ、だからあなたも出来ますよとメッセージを送ってきてくれるのだが、いかんせんそれは誰にでもできるというわけではないアクロバットなのだ。確かに人間の身体はアクロバットができるように出来ている。同様に精神もアクロバットができるように出来ている。でも、アクロバットはアクロバットなのである。

ただ、この「アクロバット」の効用は非常に大きい。バク転ができるとみんなから一目置かれて嬉しい、なんてものではない。人生が豊かになる。『生きるための技法』は豊かな人生を説明してくれる。イメージさせてくれる。最初に「アクロバット」に腰が引けさえしなければ――これはなかなか大きな関門だが――その気にさせてくれるだけの力はある。と思う。

最後に、ここは私が当ブログで追いかけているメインテーマであるので言及させてもらおう。なぜ、現代社会においては「二項同体」はアクロバットになってしまうのか。

これは人間が環境に適応する動物だからだ。安富教授は「【命題5】貨幣とは、手軽に人と人とをつなぐ装置である」とし、「貨幣があれば信頼関係がなくてもいきていける」を副作用としている。確かにその通りだとは思うが、しかし、現代社会はこの副作用を基軸として組み立てられているというのも、間違いのない現実である。だから、現代社会に適応すればするほど、ますます自立と依存は二項対立になり、二項同体はアクロバットになる。アクロバットとは、自身の適応をひっくり返すことなのである。

こうした社会が出来上がってしまう根本原因は、貨幣が偶像化してしまっていることにある。貨幣の副作用の主たるところは価値保存機能だが、これは偶像化(現象の本質化)から派生する。

これは私の限られた経験からも言えることだが、貨幣が本質化していない社会で暮らす人間は、自然と「二項同体」へと適応していく。『インディアンの方法』はその適応の継承なのである。

技術進歩の流れに抗う

人類は自らが開発した技術の進歩ととも発展してきた生物だけれども、現在はその「流れ」に抗うか否かの大きな転換点にさしかかっているのだと思う。

3.11の影響で引き起こされた「フクシマ」はその「転換点」を可視化した。いや、以前からそれは見えてはいたのだ。「ヒロシマ」「ナガサキ」「スリーマイル」「チェルノブイリ」。見えていなかったわけではなく、見なかっただけ。未だに見ない振りを決め込んでいる者も多いけれども、しかも日本の場合は社会エリートの大半がそちらに属しているようで、そこからも日本社会の末期症状が露わになっているのだけれども。

さて、しかし、今回言いたいことは、そちらの話ではない。

  東野圭吾氏ら作家7人、書籍スキャン“自炊”代行業者を提訴(INTERNET Watch)

作家達の言い分はわからなくはない。法的には通るのだろうし、そもそも通るように話を構築したのだろう。弁護士当たりと相談して。

が、この「事件」が呼び覚ました波紋は、訴訟で問題とされたところに留まらない。電子書籍の在り方について議論が広がっている。

電子書籍は、その衝撃ほどに日本では普及していない。作家達の起こした「事件」(この言い方は公平とは言えないんだけども)、「衝撃」から期待されたほどの現実なっていない読者の不満を反映しているのだろう、時代の流れに逆行するかのようなイメージで捉えられているようだ。

私もそのひとりである。もっとも、私は今のところ電子書籍に関心はないが。

ここで考えたいのは、「時代の流れ」と技術進歩の関係だ。原発の場合、時代の流れは技術進歩に抗う方向になっている。ところが電子書籍の場合は、技術進歩の方向と時代の流れとが一致している。訴訟を起こした作家達の言い分には理があるし、それを支持する知識人も多いようだ。また出版業界の実情から電子書籍には現段階では障壁が多いといする意見も目につく。それでも、長い目で見るならば情報の電子化の流れは止らないだろうということは、誰もが感じているはずである。

そう。長い目で見る立場からいえば、作家達の訴訟は時代の流れに逆行する「事件」なのであり、その意味で原発推進と同じと見ることが出来る。

では、技術進歩と時代の原発における齟齬、電子書籍における一致、この差異は一体何なのだろうか。

結論は、既に言い古されていることである。脱工業化。情報化社会。工業化社会への技術は時代に反すると感じられ、情報化社会を実現する技術の進歩は時代と一致する。この時代感覚の差異が一方では技術の進歩に抗い、一方では技術の進歩を歓迎する。もう少し言うならば、情報化社会への技術が提示するパラダイムが工業化社会へのパラダイムを駆逐しようとしている。ただし、まだこのパラダイムは明確な形を取っていない。兆しとして現れているだけで、体系化にはほど遠い。作家達の「事件」とそれを支持・擁護する主に知識人たちの意見は、旧来の体系に根ざしているがゆえに、かえって新たなパラダイムの「兆し」を捉え損なっているのだろう。

実際、作家たちが提訴したその言い分は工業化社会の体系に根ざしている。彼らは自身の著作物を工業製品のように認識している。工業製品である書籍を破壊して、そのなかの「情報」のみを取り出すことは許されないというのだ。情報はあくまで書籍と一体であるべき。知識人たちは、工業製品-商品という前提に根ざす経済体系を根拠に作家たちを支持する。だが、情報化社会のパラダイムでは情報は工業製品ではないし、商品ですらなくなりつつある。技術進歩がそうした事態をもたらしたのだ。

この流れに抗う著作権者たちは、自身が生み出す商品としての価値が棄損されると創作のインセンティブを失うという。それはその通りだろうし、そうした意見に多くの者が賛同せざるを得ないが、これこそが旧来のパラダイムの縛」であって古い「絆」なのだ。現在、問われつつあるのは、そうした「インセンティブの在り方」であろうと思う。

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大雑把に情報の商品化の流れを俯瞰してみる。

まず、文字がなかった時代。この時代の情報は口コミのみである。現代でもそうだが、口コミ情報は商品にはならない。口コミ情報に大きな価値があることを否定する者はいないだろうが、商品化は不可能である。だから、価格が付けられることもないし、またそれゆえに価値があると言うこともできる。

ただしこの時代にも、例えば古事記を口伝していたと言われる稗田阿礼のような人物は今日的にいえば商品価値があったと見ていいだろう。長大な情報を文字に記さず記憶に留めておくことは特殊技能であり、それは人そのものが情報を載せるメディアであったということだ。この流れは、平家物語や太平記などを語り歩いたという琵琶法師へと受け継がれ、現代にも落語や浪曲といった形で引き継がれている。また新たに情報を創作する者も、今日と変らず商品価値があったと見ていいはずだ。作家はいずれの時代であろうと価値はある。そこは不変である。

文字の発明・伝播は、情報の記憶という特殊技術の価値を低下させた。それは情報を載せるメディアが人間から外部化したためである。情報の工業化の流れもここから始まったと見てよい。

初期は文字通り手工業の時代であった。文字は人間がその手で書くしか方法がなかった。この時代、書籍は非常に高価なものであったというが、当然のことだろう。まず文字を書くことが出来るということ自体が特殊技能だったし、書き写すという作業も大変な労力を要する。手の込んだ手工業製品が高級品だったのと同様に、書籍も高級品だった。

近代からは工業製品が普及品になったとの同じく書籍も安価になり、社会に広く普及するようになる。そして現代。情報化社会が幕を開け、電子書籍の時代がやってきつつある。

情報化社会のいちばんの特徴は、情報を載せるメディアの進歩である。情報は工業製品ではなくなった。IT技術の発展により、口コミと同じところへ「発展的回帰」をしたのである。発展的回帰というのは、情報の記憶という特殊技能が必要なくなり、デジタル技術によって補われるようになったこと。どんなに膨大な情報であろうとも、その複写はいまや一瞬で完了してしまう。この技術は、工業製品としての書籍の価値を低下させてしまう。これはIT技術の普及とともに必然的に進行してしまう事態だ。

そうなると、残るのは情報発信者としての創作者の価値だけ、ということになる。ここだけは時代がどのように変ろうと不変である。

ところが、時代の価値体系はまだそこに追いついていない。工業化時代の価値体系が未だ強く残る現代では、創作者のたちは、工業製品である書籍の価格を通じてしか担保されない。そしてそのことは電子書籍でも変らない。IT技術は情報の近代的商品性ですら奪いつつある。つまり、旧来の製品としての著作権概念を侵害しつつある。このことに対しては、著作権関係者を中心に、いろいろ対策を施そうとはしている。だが、それらは所詮対症療法でしない。情報化社会技術が広げていく新たなパラダイムのなかに古いパラダイムを残そうとするものでしかない。

もう一度、歴史の流れを概観し直して見よう。

無文字時代、特殊技能を持って情報メディアとして商品価値のある人間は権力者によって庇護されていた。それが、文字が普及し工業化社会が進展、平衡して商品経済社会が進展。結果、情報メディアは人間の外へと外部化し、外部化したメディアの商品価値が情報創作者の価値を担保するようになった。つまり、情報創作者は実は誰からも直接的には庇護されていない。直接的な庇護は、貨幣価値によってなされているのである(これはなにも作家のような人たちに限った話ではない。あらゆる労働者が同じである)。

ところが時代は情報化社会技術の進歩で、無文字時代の状況へと発展的回帰した。文字が溢れる社会でありながら、いや、文字が溢れる社会になったがために、文字は人間の内部へと回帰していこうとしている。情報の価値は外部メディアには見いだせなくなっていく。メディアは人間そのものになっていく。この流れに逆らうことそのものが、「技術進歩の流れに抗う」ことである。

こうなると、外部メディアの商品性を経由して創作者の価値を担保することが不可能になってしまう。かつての権力者がしたように、直接「人間メディア」を庇護するしかなくなる。ただし現代は、絶対権力を一部の者が握っているような時代ではない。民主主義の時代である。権力は民衆にある。

これは、出版の話で言うならば、作家を庇護する権力者は読者であるということだ。不特定多数の読者が直接作家を庇護する。

話がなにやら現実離れしてきた。そう、こういった問題の難点は、技術的に可能かが検討される以前に実現されるべき状態が想像困難なことにある。貨幣を経由せずして、どうやったらそんなことが可能なのか。ほとんどの人がそんなふうに考えるだろう。

またしても問題は貨幣へと収斂する。私の結論を言えば、貨幣を介さずには不可能。だから、貨幣の性質を変えなければならない。貨幣2.0である。

貨幣2.0の考え方は基本的には単純である。文字が人間の外部から内部へと回帰するように、貨幣も人間の外部から内部へ居場所を変える。希少性を前提に【物】の世界観を支えていた貨幣1.0は、逆の自由性を前提に《情報》的《現象》的世界観を支える貨幣2.0へと発展していくことになる。

参考記事:貨幣は必要か?

再掲載:【物】の原理は専有、《情報》の原理は共有

2009年9月12日の記事を修正して再掲載。

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前提1:〈私〉が存在する。〈私〉以外の〈他者〉が存在する。


〈私〉は〈他者〉を、〈私〉に備わった〔感覚〕を通じて捉える。
〈私〉の〔感覚〕によって捉えられている〈他者〉の状態を【物】と呼ぶ。

〈私〉は【物】を〔意識〕によって捉え直す。
〔意識〕によって捉えられた〈他者〉の状態を《情報》と呼ぶ。


前提2:〈私〉は〔人間〕である。


〈他者〉のなかで、〈私〉と同じ〔人間〕であるとの《情報》が付与されている〈他者〉を〈他人〉と呼ぶ。

〈私〉は〈他人〉と《情報》を共有することで〔人間〕となり、共同体や社会を営む。

 →《情報》の原理は共有である。

共有物である《情報》を生み出す〔意識〕は、一次的には同一性を志向する。二次的には差異性を志向する。
〈他者〉との共有のなかの水平的コニュニケ-ションから、垂直的に〈個〉が確立される。つまり《自己》である。

【物】は、〈他者〉が共有態様である《情報》となる以前の、〈私〉の〔感覚〕のみによって捉えられている状態の、〈私〉のよる〈他者〉の専有態様である。

 →【物】の原理は専有。

専有物である【物】を生み出す〔感覚〕は、一次的には差異性を志向する。二次的には同一性を志向する。
個別な〈他人〉との水平的コミュニケーションは、水平的に〈個〉が確立される。つまり【自我】である。


付記1:

〔感覚〕装置としての〈私〉が捉えることが出来るのは、《現象》のみである。
ところが人間には〔意識〕が存在する。〔意識〕が行なうのが【現象の本質化】。それが【物】の正体である。

また、〔意識〕そのものも《現象》に過ぎないのだが、〔意識〕を意識化することで〔意識〕もまた【本質化】する。
これは〔他人の意識〕を意識する過程、つまり個別な〈他人〉との水平的コミュニケーションのなかで確立される【自我】である。
確立された【自我】が成長しようとすれば、それは水平的領域の拡大、つまり「他者の支配」へと向かうことになる。
【物】的世界観であり、これが二次的な同一性の意味するところ。


付記2;

《情報》は【物】の再把握である。
【自我】によって妨げられることがなければ、《情報》は【現象の本質化】の《再現象化》である。

つまり《情報》とは、〈私〉によってフィルタリングがなされてはいるものの、《現象》である。

《情報》共有の水平的コミュニケーションから垂直的に立ち上がる《自己》とは、〈私〉という「フィルター」の把握の他ならない。
「フィルター」の把握は、「現象を観る目」の確立でもある。

確立された《自己》が成長しようとすれば、それは垂直的領域の拡大、つまり〈私〉という「フィルター」を「無」あるいは「空」する方向へと向かうことになる。
《情報》的《現象》的世界観であり、これが二次的な差異性の意味するところ。つまり「フィルター」の差異である。

付記3:

私は、垂直的領域への拡大志向を《霊性》と呼ぶ。

《霊性》には基本的に2種類の態様があると考える。

1.〔意識〕が生成する【本質】を超越する《本質》があると想定することから生まれる《霊性》。
【物】的世界観から、アクロバティックに生み出された理性的《霊性》。
超越的《霊性》である。

2.は、《自己》というフィルターもまた《現象》であると観ることから生まれる《霊性》。
《情報》的世界観から、順当に生み出される感覚的《霊性》。
内在的《霊性》である。

日本的霊性は、内在的《霊性》の一亜種であろう。

自在な豊かさ

私の思索のなかで、自由/自在の対立軸は大きな要素のひとつになっている。

怯えの時代 その発端になったのが、内山節著『怯えの時代』。冒頭をまたしても掟破りの引用。

プロローグ

   一、

 二〇〇六年六月二十二日。妻が死んだ。ほんの五分前まで心地よさそうな寝息をたてて眠っていたというのに、突然息をとめた。受け入れるしかない現実が私の前で展開していた。

   二、

 それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分のためだけにある。すべてのことは自分だけで決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。

   三、

 それは現代人の自由と共通する。

   四、

 喪失の先に成立する自由。受け入れるしかない現実が生み出した自由。

   五、

 妻の死によって私は怯えることはなかった。私は「また会おうね」と言った。妻は「うん」と言った、と思った。

   六、

 現代人は確かに自由なのだと思う。もちろん世界のさまざまなところに、自由を圧殺された人々がいることを私は知っているし、それが国内問題であることも知っている。しかし、あえて私は現代人は自由だという。なぜなら現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先にあらわれてくる自由でしかないからだ。私たちは携帯でメールを打ちつづける自由がある。テレビのチャンネルを思うがままに変える自由がある。今日の夕食を好きなように決める自由がある。ただしそれは携帯電話がつくりだしたシステムを受け入れることによって、だ。サイフの中身をという現実を受け入れることによって、だ。
 現実を受け入れない限り自由を手にすることもできないという包囲された世界のなかの自由が、私たちにはある。そして現実を受け入れたときに手にしなければならないもうひとつものは、喪失。その代償のもとに獲得されたのが現代人の自由。

   七、

 (中略)

   八、

 そんな時代が長くつづき、私たちはうんざりするような自由を手に入れてきた。なぜうんざりするのか。それは自由であっても自在ではないからだ。(後略)



この文章を読んでみてから、話題になっている斉藤環氏の文章を読んでみてもらいたい。

 時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環

ここにあるのは「正論」である。それは疑いがない。が、内山氏の文章にある「喪失」がない。「うんざり」がない。

被災の当事者に内山、斉藤両氏の文章のどちらが響くかと問いかけてみれば、どうだろう? 斉藤氏の「正論」か。内山氏の「喪失」か。答えはいうまでもないと思うが。

「絆」連呼が始まったのは、3.11の震災以後のことだ。だが」、内山氏の文章を読むと、その前奏はずっと以前から始まっていたことに気がつかされる。3.11は、「喪失」をかつてない規模で露わにした。だからこそ「絆」の連呼が始まったのではないのか。

斉藤氏の「正論」は絆は自由を奪うという。まったくその通りである。だが、私たちは既に、その自由に「うんざり」していたのではなかったか。自由の代償として要求される「喪失」に耐えがたくなっていたのではないのだろうか。自由か自在かの対立。

この対立軸は原発の賛否を巡る議論にも通底する。原発に賛成する者は自由が大切だという。自由な経済活動が補償されなければ経済は活力を失う。だから安定的な電源である原発は必要。対して反対派の議論は「喪失」には耐えられない、というもの。

だが、私の見るところ、まだ反対派の議論も「自在」のところにまでは至っていない。自在とは制約から自由になることでない。制約を受け入れて制約を生かすことをいう。制約があるからこそ豊かに暮らすことができる。ここでいう「豊かさ」は自由が提供してきた「豊かさ」とは根本的に異なる。自在な豊かさ。日本にはかつて満ちあふれていた豊かさ。ブータンにはまだ 残っていると思われている豊かさ。

私が「絆」連呼のなかに見るのは、一方では斉藤氏のいう「正論」だけれども、もう一方は「自在な豊かさ」への希求である。その見立てが「正論」への違和感を生む。正論を希求の封殺に用いてはならない。

自在な豊かさを生み出す知恵は、私たちの暮らしのなかにひそむ「伝統」のなかに宿っている。それは「富国強兵」といったスローガンのもと「文明開化」を目指すずっと以前から私たちの暮らしの中で生き続けてきた知恵だ。「自在」を希求するなら、その知恵を再び発掘する必要がある。

参考記事:ならば「絆(きずな)」ではなく「結(ゆい)」
       日本力

【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その4

『その1』
『その2』
『その3』

その4はこの図から始めることにする。

図1 

これはその3の図5に注釈を付け加えたものだ。

その3で私はこの右図を奇妙と言った。貨幣経済がはみ出すはずのない人間経済からも自然環境からもはみ出しているからだ。その秘密は貨幣経済のなかの「斜線」にある。貨幣経済は金融経済と実体経済と別れ、斜線はその区別を示す。そして、自然環境からはみ出すのは金融経済の部分。実体経済ははみ出すことはできない。

ではなぜ、金融経済ははみ出すことが出来るのか。その鍵が〈無〉から貨幣を創造する信用創造だ」。

自然環境はいうまでもなく〈有〉である。〈有〉だから有限。単純な道理だ。人間経済は、この〈有〉の人間社会における循環のこと。そこには〈生活世界〉と貨幣経済のなかの実体経済とが含まれる。これらは当然、自然環境の〈有限〉の枠は超えられない。

ところが〈無〉から創造された貨幣は、〈無〉であるがゆえに〈有限〉の枠をやすやすと超える。これもまた単純な道理である。そして、近代の貨幣経済の実態は〈無=金融経済〉と〈有=実体経済〉との「動的平衡」とでもいうべきものなのである。それが「自然の流れ」を無視して「人間の都合」だけで展開される。“経済は成長しなければならない”と日々権力者とその広報機関が唱える「お題目」は、「人間の都合」ならぬ「権力者の都合」という「本尊」があればこそ。

ここで少しわが愚樵空論の過去記事を紹介させていただく。近代貨幣経済における〈無〉と〈有〉の動的平衡を支えるものを、「労働者の〈道徳〉」として捉えて文章を書いたことがある。内容は「強いられた欲望」シリーズとほぼ被る。

 『実金と虚金』 
 『負債としての貨幣』
 『労働者の〈道徳〉』
 『〈道徳〉的な〈帝国〉』

もうひとつは『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズ。このアニメのストーリーの中核であるインキュベーターと魔法少女たちの関係は、近代貨幣経済における動的平衡の在り方にそっくりなのである。

 『インキュベーター その1』
 『インキュベーター その2』
 『インキュベーター その3』
 『インキュベーター その4』

インキュベーターと魔法少女をつなぐのは【契約】である。この【契約】は企業家が金融資本と結ぶ契約と同構造。魔法少女/インキュベーターの関係における【希望と奇跡の契約】は、企業家/金融資本の関係における【イノベーションと信用創造の契約】だ。「希望」が「イノベーション」へ、「奇跡」が「詐欺」へ置き換えられているだけで、その【契約】の結果、「希望」は「強いられた希望」となり「イノベーションという名の欲望」もまた「強いられた欲望」となる。インキュベーターも金融資本家も、奇跡あるいは詐欺から「利息」を受け取ることで〈無〉と〈有〉との動的平衡を維持しているのである。

と、結論を先取りした形になったが、改めて図1へ戻ろう。ここに付け加えられているのが、その「利息」である。

金融経済を司る金融資本は、信用創造で無から貨幣を創造する。この創造はのべつまくなしに行なわれるわけではない。「契約」という機に際して行なわれる。実体経済を司る企業家(ここには国家ですらも入っている!)から「資金需要」があると、金融資本はその資金の返済と利息とを条件に〈無〉から貨幣を創造する。金融経済において〈無〉から始まった貨幣は、実体経済に移って〈有〉となり、再び金融経済に帰る。その際、〈有〉は利息によって大きくなっていなければならない(渦巻きのような赤矢印はそのことを表現している)。金融経済が膨らむ道理である。

金融資本との【契約】の結果、企業家は自発的だったはずのイノベーションを他律的に強いられることになる。借りた資金を返済する義務を負ったのである。その資金はたとえ〈無〉からのものであろうが、〈有〉へと変換して返済しなければならない。無/有ー変換は、当然のことながら〈有〉の領域である人間経済・自然環境のなかで行なわれる。結果、貨幣経済のなかの実体経済部分が拡張し、文明は発達する。その中で暮らす私たちは便利で豊かな暮らしを享受できるようになる。が、これは「強いられた欲望」の帰結なのである。確かに文明生活の利点は享受できた。とはいえ引き替えにしたものも大きかった。

自発からの他律を【システム】というが、ここに依存してしまうと「引き替えたもの」の姿が見えない。それこそが「内発性」である。

労働には《仕事(あるいは務め)》と【稼ぎ】の二種類がある。共同体を維持するための内発的労働と、自発からの他律によって強いられる労働と言ってもいい。【システム】の全域化で消滅しつつあるのは、内発的労働の方だ。アンバランスな経済発展が良きこととして受け入れられてきたのも、内発性が見失われてしまった所為でもある。内発性は「自然な流れ」であり、そこから生まれる《欲求》は充足すれば消滅する。が、他律となった【欲望】は充足することを知らない。その【欲望】を【システム】が合理化する基盤を提供するが、よくよく見てみればそのからくりは詐欺でしかない。

労働は内発的《仕事》であろうが他律的【稼ぎ】であろうが、いずれも〈有〉の領域内でのこと。そして労働者の〈道徳〉とは〈有〉と〈有〉とを交換することにある。実体経済の中を巡る貨幣(マネーサプライ)は〈有〉だ。少なくとも労働者はそう認識しているし、そうでなければ自身の労働の成果と貨幣とを交換するはずがない。

〈有〉の大元である自然循環は、大きな調和の中にある。人間経済が有/有-交換の枠内にあるのであれば、労働する者はその労働に応じて豊かになっていくのが道理のはず。ところが経済の実態は大きく異なる。有/有-交換をする者ほど貧しくなって行ってしまっている。この理由は単純で、労働者が有/有-交換だと思い込んでいる貨幣と労働との交換が、実は無/有ー変換だったということなのだ。労働者は〈無〉によって欲望を強いられて無/有ー変換を行い、〈有〉となった貨幣は金融経済へと回収されていく。たとえ自身が直接は【契約】してはいなくても、労働者は無/有ー変換の義務を負わされてしまっているのである。

その5へとつづく。

やはり女には適わない(笑)

NHKがなかなか興味ぶかい「事実」を報道して、ネット上でもかなり話題に上っている。

夫婦愛は出産後に覚めるもの?

子どもを出産したあと、「妻が愛情を示してくれない」、「結婚当初はこんなではなかったのに」。
そう感じている男性、いらっしゃるのではないでしょうか。
果たして結婚して子どもが生まれたあと、夫婦の愛情がどう変わるのか。
4年間にわたって300組近い夫婦を継続して調査した結果がこのほどまとまりました。
この結果から、愛情を保つ秘けつも探ってみます。

対象になったのは全国の288組の夫婦で、「配偶者といると本当に愛していると実感する」割合を、妊娠中から子どもが2歳のときまで4年間にわたって調べたんです。
すると、妊娠中は夫も妻も「愛していると実感する」のは74.3%で、この時点では夫婦間に差はありませんでした。 ところが出産すると結果は一変します。
「夫を愛していると実感する」妻の割合が大きく減少するのです。


さもあらん。大笑。
内発的発展論
前エントリーで私は、内発性/自発性という構図を提示してみたが、その構図でいうと、出産した女性の愛が夫から子どもへと移るのは、まさに内発的発展に他ならないだろう。
(右掲書は未読なんだけど、関連ありそうなので掲げてみた。高価なので図書館で探してみよう。)

私は「内発的発展」とは共同体の発展と軌を一にするのではないかと考えている。ここでいう共同体は、ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」でも、地縁血縁で結ばれた地域共同体でもない。各人が個別的に確立する「〈想像界〉の共同体」というべきものだ。
(想像界とはもちろんラカンいうの三界の1。アンダーソンの「想像の共同体」とは、この伝でいうと〈象徴界〉の共同体。ただし、このラカン理解が正しいかは自信がない。)

女性は子どもを産む。すなわち分身を作る。母子は想像的にも現実的にも最もベーシックな共同体だ。女性は内発的に共同体を生み出す。ここから女性が内発的発展を遂げるのは必然だろう。男は逆立ちしても適わない。男は哀れにも取り残されるのだ。大笑。

男に残された術は、女性が生み出す新たな共同体を承認する以外に方法はない。

では、どうすれば妻からの愛情を保てるのか。
そのヒントがありました。
「妊娠時」も「子どもが0歳になった時」も変わらず夫への愛を実感している妻たち、いわば出産後も愛情が変わらない妻たちの調査結果を詳しく分析したのです。
すると、次の2つの項目で特徴的なことが分かりました。
「夫は家族との時間を努力して作っているか」、「夫は家事や仕事、子育てをねぎらってくれているか」。
この2つの質問項目に対して、70%以上が「あてはまる」と答えたのです。


家族との時間を作る努力。子育てへのねぎらい。これらは新たな共同体への「具体的な承認」であろう。内発的発展を遂げた女性は以前のように自身にだけの承認では充足されない。新たな共同体への承認が必要になる。母の夫への愛情はそこから生まれる。

男にとってみても父親になるのは内発的発展に他ならないはずだ。しかし、【自我】発の自発性ばかり肥大して《自己》が未熟な「お坊ちゃま」では女性の内発的発展に取り残される。結果、「妻が愛情を示してくれない」、「結婚当初はこんなではなかったのに」。大笑いだ。

付け足し。

男の未熟な《自己》発達を隠蔽し、自発的な【自我】肥大を容認してきたのが【システム】である。戦前は「家」。戦後は「会社」。女性は「家」畜あるいは「社」畜であり、明治維新以来の近代国家日本もそうした【システム】を下支えしてきた。これは偏に【闘争】――戦前は富国強兵、戦後は経済発展――のためだった。そうした社会的性差への反発がジェンダー・フリー運動を引き起こしてきたわけだが、これも結局のところは【システム】を女にも開放せよという主張・運動であって、内発性を疎外する【システム】そのものは承認された。むしろジェンダー・フリー運動は、不本意ながらも女性が担っていた内発性を放棄させ、社会全体の内発性を大きく低下させてしまった。

自発性を獲得したあるいは獲得しようとした女性(母)は、子どもにも自発性を発揮させるようにと望んだ。が、【自我】発の自発性は、他人にとってみれば他律性に他ならない。それが子どもたちの内発性を疎外し、さらに大きく社会の内発性を損なうことになった。

そういえば今週のNHK・クローズアップ現代でも興味深い報道が為されていた。

やさしい虐待 ~良い子の異変の陰で~

勉強が出来て、しつけも行き届いた自慢の子が、突然、学校に通わなくなったり、自室に閉じこもってしまう、いわゆる“よい子の破綻”。原因が分からずに苦しむ親が多い中、研究者がその多くに共通する問題として注目しているのが、親による「やさしい虐待」だ。一般的な児童虐待は、暴力や暴言などで直接子どもを傷つけるものだが、一見こどもにはプラスに思える教育やしつけも過度に押しつけるとこどもをがんじがらめにし、虐待と同様に心を蝕んでいくという。「やさしい虐待」によって損なわれたこどもの心や親子関係をどうすれば修復できるか?その模索を見つめる。


ハラスメントは連鎖する もちろんこれは女性(母)だけの責任ではない。「大人」の責任である。

江戸時代末期、欧米列強の強大な軍事力を見た有司たちが、日本を守ろうとして日本国民を鍛え上げようとしたのはよかった。致し方なかった。が、犠牲は当然出た。まず、男たちだ。兵士として戦争することを強いられた。その代わりに「家」というご褒美を与えられた。その犠牲になったのが女たち。

戦後、日本は経済発展を遂げて平和になり、女性達も自発的に強くなった。【システム】に参画できるようになった。だが、犠牲がなくなったわけではない。今度は子どもたちである。

国家から男へ、男から女へ、女から子どもへ。施されたのは「ハラスメント」である。ハラスメントは連鎖する。その挙げ句が今の日本の惨状であり、この流れで見ると女も男と変わらない。

だが、3.11以降。やはり変わったのは母親たちが中心だ。これは女と男の「内発力」の違いだろう。やはり男は適わないのだ。

関連記事:女と男のガラパゴス
       天辺の糸       

ならば「絆(きずな)」ではなく「結(ゆい)」

2011年度の「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」であった。確かに今年は3.11以降、「絆」が連呼された年であった。

この現象に対しての批判の声が上がっている。代表はこちらだろう。

時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環
     毎日新聞 2011年12月11日 東京朝刊

 ◇自由な個人の連帯こそ

 3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉に「絆」がある。「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「こだまでしょうか」といった震災関連の言葉とともに、今年の流行語大賞にも入賞を果たした。

 確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。昨年は流行語大賞に「無縁社会」がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。

 しかし、疑問もないわけではない。広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。

 語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。

 訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。しかし被災後に流行する言葉として、「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。


斉藤氏が主張したいことを私なりに言い換えてみる。

もともとの「絆」の意味は
 (1)動物をつなぎとめる綱 → Win-Lose
 (2)ほだし。係累。繋縛 → Lose-Lose

そこから「自由な個人の連帯」を Win-Win とイメージして推奨。

おっと、これは少ハッキリとさせすぎた。「絆」がWin-Lose or Lose-Lose とイメージされていることは確かだと思うが、「自由な個人の連帯」を Win-Win とイメージしきれているかどうか。逆に言うと、「自由な個人の連帯」が Win-Win のイメージして伝わるかどうか。私は伝わりきらないと思う。齟齬が生じると感じる。そしてこの齟齬が「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれた理由だと考える。

斉藤氏は、

絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。


といい、「絆」をプライベートだと位置づける。そして「絆」連呼は、「絆」をパブリックなものとしてプライベートを絡めとる危険性のあるものだと警鐘を鳴らす。この論旨そのものには異存はない。だがこれでは「齟齬」は埋まらない。

なぜ「絆」という言葉が選ばれたか。この問いは私自身への問いでもある。「絆」連呼は私の現象でもある。3.11以前から「絆」を連呼している。なぜなのか。

それは「絆」をプライベートでも、もちろんパブリックでもなくパーソナルだと位置づけているからだ(その果てが《霊》という概念になっているわけだが。)

「絆」は「気がついたら結ばれ深まっていた」。斉藤氏はそこから「絆」→切れないもの→束縛と論理を展開していく。この論理でいうと「縁」が選ばれなかった理由は納得がいく。「縁」は切れるものだからだ。

だが「連帯」が選ばれなかった理由はこれでは上手く説明ができない。というより、もともと斉藤氏は説明しようとは思っていない。「連帯」は意志を持って結ぶもの。だからそちらを選べという主張になっている。だが、くり返すが、これでは「齟齬」を埋められないのだ。

「連帯」が選ばれなかった理由。それはパブリックだから。人々はプライベートな繋がりを求めているのである。プライベートな繋がりは、個々人のパーソナルな「内発性」から生まれる。「絆」に込められている意味は、辞書にはない内発性である。

話は少し変わる。

日本はもともと「言挙げ」をしない国だとされてきた。「言挙げ」とは明確に言葉にすること指し、大切なことは明確に言葉にして表してはいけない。遠回しに表現して察してもらうようにしなければならない。そうしたことを重んじていた国だというわけだ。

私はこれを内発性重視の現れだとみる。つまり、言葉にしてしまうと自発性が生じてしまう。自発性は自律性になり、多くの自律性が収束すると他律性になり、人々を束縛する。言挙げを好ましく感じないのは、この「流れ」を昔の人々は識っていたからだろう。言葉というものには力があり、発することで発した自分自身ですら束縛する。自律性だ。

斉藤氏の主張は、「絆」という言葉を選ぶ人々の自律性が収束して他律性になることを懸念したものだと理解していいだろう。 そして「自由な個人の連帯」という自発性を重んじよとする。しかし、連帯をするにも言葉は必要だ。そこから先は自律性→他律性への「流れ」に乗る。これは善きパブリックではあるかもしれないが、人々は無意識のうちにそれを選択していないのである。

ベネディクト・アンダーソン プライベートな繋がりが充実させるには、その前段の内発的なパーソナルを棄損させてはならない。言挙げによる自律性を発揮させてはならないのである。だが、現代社会は言語による「想像の共同体」である。言語がなくてはつながらない。そこで「絆」という言葉が、本来的な意味である Win-Lose でも Lose-Lose でもない Win-Win なイメージとして浮上してきたのではなかった。少なくとも私が「絆」というときは、イメージしているのは Win-Win だ。

だからこそ、「絆」を誰が発するかが重要になってくる。その立場・発し方で Win-Win をイメージしているか Win-Lose をイメージしているかがわかる。人々はそこに敏感になっていると思う。

しかし、もともと Win-Win をイメージするつながりを表す言葉が存在しないわけではない。それが「結(ゆい)」である。「もやい」ともいわれたりするが、共同体内の相互扶助の在り方を指す言葉。この「結」がパブリックかプライベートかは議論が分かれるのかもしれないが、私はプライベートであったと思う。そしてそうした関係を生じせしめたのは、パーソナルな内発性である。

私たち日本人が高度成長とともに失ったのは、個の確立から生じる内発性である。欧米を真似て意識的な自発性を重視するのがいいと考えられてきた。だがそれは結局のところ根付くことはなかった。それは当然のことで、千年を単位とする時間をかけて培ってきたものが、そう簡単に覆るはずはないのである。ミスマッチが生じるだけ。そのミスマッチが最大限具現化していたところへ起こったのが、此度の震災&大人災。日本人が内発性重視へと無意識のうちに舵を切るのは、ごく自然な流れであると私は思う。

だが、自発性重視の教育を受け、それに高度に適応した知識人にはそれが見えない。優秀だったからこそ適応が深くなり、言い換えればバイアスが強くなり、かえって見えなくなるのだ。斉藤環氏の主張は、その良い例であるように思える。

帰還困難区域? そんなの聞いてないぞ

<福島第1原発>「帰還困難区域」指定へ 土地買い上げ検討
  毎日新聞 12月13日(火)21時20分配信

 政府は東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域について、年間の放射線量に応じて新たに3区分に再編する方向で調整に入った。現行は原発から半径20キロ圏内の「警戒区域」と年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超える「計画的避難区域」に分類。新たな区分では50ミリシーベルト以上の年間線量が高い地域について、長期間にわたり住民が居住できない「帰還困難区域」に指定し、土地の買い上げなどの支援を検討する。


非常に唐突な印象。

帰還困難区域が存在するであろうことは、原発問題に少しでも関心があればシロートでも察しが付くことだ。たしか菅前首相もそのようなことを発言したはずだ。「半径3キロは数十年居住できない」と。なのに続報はなかった。連日報道されているのは、除染、除染、除染。福島はこれからも大丈夫、といったような話ばかりだった。

水面下では検討は進められていたのだろう。だが、この議論は水面下で進めるべきことだろうか。情報を公開して、オープンに議論されるべきではないのだろうか。ジャーナリズムの責務はそこにあるのではないのだろうか。提灯メディアはその責を果さず、耳障りのより情報だけを垂れ流してきた。

そしていきなり、住めないところがあるとの発表。いや、いきなり、ではなかったのか。先日、福島県が地域別に住民の被曝状況を発表したが、それが帰還困難区域発表の前段階だったというわけか。

それにしても遅い。この遅さが、ひいては住民の補償救済の遅れへと繋がっている。

 首相は11月25日の参院本会議で「相当な期間にわたり住民の帰還が困難な区域が出てくることも考えられる。土地の買い上げなどを含め、国が責任を持って中長期的な対応策を検討していきたい」と述べ、支援策を検討する考えを示した。区域の名称に「長期」を入れる案もあるが、被災者の心情に配慮し見送るべきだとの意見もあり、調整を進めている。

被災者の心情に配慮し見送るべき。またこれだ。被害者の心情がどうであれ、事実は事実だ。事実はさっさと認めて謝罪し、責任者を処罰し、しかるべき補償を迅速に進める。それが被害者の心情への配慮、だろう。

この連中がいう「配慮」は、実質的な補償はなるべき低く抑えて、被害者に忍耐を強いることが目的でしかない。真に「配慮」しているのは自身の立場。自身の利益である。そういった「配慮」から、不都合な真実の発表の段取りも、いろいろと「計算」されているのだろう、きっと。

私たちは、そのような保身に「配慮」してやる必要があるのだろうか。 

放射能無主物を主張する法律家はアイヒマンか

改めて東電の放射能「無主物」の主張について。今回は、東電の主張を実際に執り行っている法律家について。

 【経済の死角】 トンデモ裁判、呆れた論理東電弁護団それを言っちゃあ、おしめえよ (現代ビジネス)

こちらの記事を読みながら思った。法律家というのはアイヒマンなのだ、と。

アドルフ・アイヒマン

アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann[1]、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの警察官僚。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ナチ政権によるユダヤ人の組織的虐殺の歯車として働き、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたり指揮的役割を執った。自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格の典型として有名。(Wikipediaより


東電の主張をサポートする、いや、おそらくは実質的には主導的役割を果しているであろう、某有名弁護士事務所の面々。「 自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格」な人たちなんだろうな。「長島・大野・常松法律事務所」の人たち。

アイヒマンは、その手でユダヤ人たちを殺したわけでない。それは組織の別の人間がやった。アイヒマンのしたことは、その虐殺を効率よく行なっただけ。命令に従って。

ナチス・ドイツ崩壊後に逃亡したアイヒマンは逮捕され、裁判にかけられた。彼は最後まで無罪を主張した。実際に殺してはいない。命令に従って忠実に職務を遂行しただけ。

彼の主張は当然受け入れられなかった。受け入れられるはずはない。多くのユダヤ人が彼の指揮した組織によって殺されているという事実があるのだから。

翻って、東電「無主物」裁判。訴えたサンフィールド二本松ゴルフ倶楽部は現実に経営が傾いている。原因は明らかに東電にある。裁判所もそのことは否定していない。東電ですら、その事実は否定しきれない。

東電は除線も賠償もしたくない。当たり前といえば当たり前だが、それは身勝手を当たり前と言うに等しい。ただ弁護を依頼された弁護士は、依頼人の身勝手を批判するわけにはいかない。身勝手とわかっていても弁護するのが弁護士の義務。それはわからなくはない。だがその論理は、アイヒマンの論理である。

アイヒマンの論理はイスラエルでは通用しなかった。ナチス後のドイツでも通用しないだろう。が、ナチスドイツなら通用しただろう。理由は単純明快。敵か味方か。

裁判所は東電の論理を判断を下すにあたって採用はしなかった。だが、結果としてみれば、サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部の当然の要求は退けられた。身勝手によって被った被害を賠償せよ、という当然の要求が。

裁判官にとってもこの判断は職務に忠実にということではあるのだろう。だが、もしそうであるなら、裁判官の職務とは何か。裁判官は法と良心の独立に従うと憲法に規定されているが、この「良心」とはなにか。問わずにはいられなくなる。裁判官は一体、誰に忠実なのか。結果から推察すれば、「敵」に忠実なのでないかと疑わざるを得ない。

「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」

これは裁判の折りにアイヒマンが残した言葉だそうだ。この言葉は哀しいかな、真理の一面を突いてはいる。だが、あくまで一面である。全面ではない。一部であるがゆえに、通用する場所と通用しない場所とがある。味方には通用する。敵には通用しない。敵味方をなくそうと思うのなら、通用させてはいけない。

今の日本はどうだろうか。もし通用するというのであれば、日本国は日本人の敵になったということだ。

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