愚慫空論

人類社会は衰退局面に入った

今年を振り返ってみて。となると、まず3.11というのが常道だろうけれども、そういった「外から観方」ではなく、「裡からの観方」――つまり私自身の主観で、特に当ブログに関連して、今年最後の記事を書いてみる。

そうなるとまず思うのは、今年はいっぱい書いたなぁ(笑) 特に後半。今年初めにどんなことを書いたのだろうと思って過去記事管理を見てみたら、未公開のボツ記事。それが2つも続いていた。そういえばそうだった。書くことはあるし書きたい思いもあったけど、書けなかった。書いても文章にするのに四苦八苦していた。自身で文章を書くより、他所でコメントしている方がずっと楽だった。

それが今は四苦八苦がほとんどなくなっている。文章が引っかからずに出る。これは私の内面に何らかの変化があった所為だけれども、それがどこから来たのかはっきりわかっている。3.11だ。この出来事が切っ掛けで、「言いたいこと」が私の裡の「あるべきところ」に据わった。

私は何が言いたいのか。その前提が当記事のタイトルにあげた「人類社会は衰退局面に入った」である。いや、ほんとうはずっと以前から入っているのだろう。3.11はその「事実」を露わにした。


これは過去の人口増加の実績と未来の予想とがグラフにまとめられたもの。ここから読み取れるのは、このまま推移してもいずれ人口増加は頭打ちになる、つまりは停滞局面に入るということだ。しかし、これはあくまで推測であって、事実はそうではない。この推測のようには地球環境は保たない。これは環境問題に多少なりとも関心がある人には常識だが、それだけではない。それ以前に社会の制度が保たない。

人類社会に対して地球環境がずっと大きかった時代はまだよかった。よかったとはいってもこの時代は戦争と抑圧の時代であり、善くないところも山ほどあって決して善き時代とは言えないわけだが、それでも「大きな希望」は持つことはできた。「豊かになればすべては解決する」といったようなものだった。特に近代以降、そうした希望は大きく膨らんだし、また一部では確実に実現していたことでもあった。

しかし、その結果到来したのが【強欲】が強欲と感じられずデフォルトになってしまっている社会である。このような社会はもはや保たない。限界点に達してしまっている。3.11とその後の「フクシマ」で、皆が無意識的にであれ理解したのはこのことだろうと私は受け取っている。

風の谷のナウシカ 私の「言いたいこと」はこのことを前提に、人間は生き方を変えなければ生き残っていけない、ということだ。

これまでは、幸せとは生き残ること、あるいは競争に勝つことが前提だった。だがこれからは違う。生き残ることの前提が幸福であることなのである。生き残って幸福になるのではない。幸福でなければ生き残れない。もう少しいうと、幸福でなければ生き残る力を育むことが出来ない。衰退局面に入った社会では生き残りの前提が幸福であることになる。これまでの私たちの常識(というほど意識化されていないが)とは逆になるのである。

『ナウシカ』は、現在とは「逆転した世界」を先取りした作品だ。ナウシカという主人公を通じてこの「逆転」を表現したといってもいい。

 愚樵空論:小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉

トルメキアやドルクといった〈帝国〉は、「衰退していく世界」のなかで相も変わらず「拡大していく世界」の原理で動こうとする。この原理はもはや誰も幸せにはしない。人々を導くのは「幸福な暮らし」をを保っている風の谷出身のナウシカだ。ナウシカが示すのは、幸福こそが生き残りの前提であるという「衰退していく世界」の原理である。「拡大していく世界」から生まれた巨神兵は、「拡大していく世界」の原理と「衰退していく世界」の原理とを裁定するのである。

――と、いつもの調子になってしまったところで、「今年最後の記事」というところへ立ち戻ろう。

愚樵空論というブログを書いている私にとって、今年という一年は自身の「言いたいこと」が「腑に落ちた」一年であった。となると、来年はこの路線を引き続き行くことになるし、行くしかない。確信である。

ただこの確信には思いは複雑だ。私だってどちらがいいのかと問われれば、「衰退していく世界」よりも「拡大していく世界」の方がいいに決まっている。「拡大していく世界」への訣別は、喜びに満ちてといくものではない。

おっと、こんなふうに書いて思い浮かんだ。日本では年末恒例、ベートーヴェンの『第九』だ。その第三楽章は「拡大する世界」ならぬ「楽園」だが、ベートーヴェンはここに別れを告げて第4楽章の「歓喜の歌」へ入っていく。思い浮かんだのは第三楽章の訣別のファンファーレ。あれは本当に「痛い」。

これが思い浮かんだということは、やっぱり『第九』を聴いて年を越せということか。

生きる技法とは自分を信じて生きること

生きる技法 私はこの本が発売されるという情報に接したときに、すぐさま予約を入れた。

通常、私はこういったことはしない。著者の安富教授は「my favorite」で、このブログでもその著作を何度も何度も引用させて頂いている。、だからといってなんでもすぐ読むとはならないののが私の性分。なんであれ、巡り合わせ。読みたいと思ったときに読む。

のっけから余談のようだが、「読みたいと思う」のは難しい。読みたいと思ったようでも、いざ本を手にしてみると一向に読む気にならないことがしばしばある。これは実は純粋に読みたいと思っていなかったのである。そんなときには不純な理由――粗探しをして批判してやろうとか――がある。それが意識的には「読みたい」になってしまうが、その区別はなかなかつかないものだ。

その点、『生きる技法』は「読みたい」本だった。届いたらすぐさま読み始めて、瞬く間に読了。1時間かからなかったと思う。寝る前にもう一度目を通し、翌朝、仕事に出かける前にこの文章を書き始めた。仕事を終えて帰宅後、また続きを書いている。

この読書で確信したことが2つ。

1は、読みたかった理由である。それがわかった。私は確認をしたかったのである。

自分を信じて生きる 私は『生きる技法』と同じメッセージを発している本を以前に読んだことがある。松木正著『自分を信じて生きる ~インディアンの方法』がそれ。

松木正という人には、森林インタープリテーション講座という場で出会った。そこで教わったのが「アイスブレイク」であった。

アイスブレイクとは「心の氷を解かすこと」。すなわち人間を「自立」へと促す技法である。「自立」し他人を信頼できるようになった人間は、森とも仲良くなることができる。

そんな講座を開くようは人が書いた著作のメッセージと、東大教授の書いた本のメッセージが同じ。この場合の「メッセージ」は明確に言語化することが難しいものだが、その一端は『生きる技法』のオビで言葉にされている。

 ・「助けてください」と言えたとき、人は自立している

同じことが『インディアンの方法』にも書かれている。

 ・自立しようと思ったら、ヘルプメッセージを出せなくてはいけない


これはたまたま同じような表現になったというわけではない。メッセージが同じだからである。人間は自愛することができたときに、自立と依存は二項対立ではなく二項同体になる。『インディアンの方法』も『生きる技法』も、訴えるところは自愛である。

私が確認したかったのは、このことである。『インディアンの方法』から受け取ったメッセージは私にとっては大切なものだ。それを別の表現方法でも確認したかった。大切なことを違った表現でも確認できるということは嬉しいことだ。だから私は「読みたいと思った」。もちろん、私は前もって『生きる技法』のメッセージの内容を知っていたわけではない。だが予感はあったのだろう。私はそうした予感を信じる人間である。

メッセージの構成方法に触れると、『インディアンの方法』を情緒的というならば、『生きる技法』は理知的というべきだろう。命題を立ての論証という形式で書かれている(スピノザの『エチカ』に倣ったらしい)。論理的な分だけ説得力は高い――と言いたいところだが、残念ながら必ずしもそうとはいえない。私にはとても得心がいくものであったが、それが万人に及ぶかどうかとなると疑問なのである。この点が2つめの確信と関わってくる。

2つのめ確信。それは自立と依存の二項同体は現代社会においては「アクロバット」であるということだ。

アクロバットは、できる者にはできる。バク転でも鉄棒の逆上がりでもなんでもいいが、こういった芸当はできる者にはできるもので、どうやったらできるかなど説明しようがない性質のものだ。自立が依存であるというのは『生きる技法』において「命題1」として位置づけられているけれども、この命題をすんなりと受け入れることが既にアクロバットなのである。

このことは、その論証の仕方にも現れている。中村尚司さんという経済学者が60年間考え続けてようやく発見した。手足がほとんど機能しない先天性脳性小児麻痺の障害を背負われている小島直子さんという方が『口からうんちが出るように手術してください』と希望した。あるいは、ドイツのハイデマリー・シュヴェルマーという女性が、お金をすてることで豊かな人生を掴んだ。安富教授自身の体験もそうだ。『生きる技法』では、ほら、こういった実例がありますよ、だからあなたも出来ますよとメッセージを送ってきてくれるのだが、いかんせんそれは誰にでもできるというわけではないアクロバットなのだ。確かに人間の身体はアクロバットができるように出来ている。同様に精神もアクロバットができるように出来ている。でも、アクロバットはアクロバットなのである。

ただ、この「アクロバット」の効用は非常に大きい。バク転ができるとみんなから一目置かれて嬉しい、なんてものではない。人生が豊かになる。『生きるための技法』は豊かな人生を説明してくれる。イメージさせてくれる。最初に「アクロバット」に腰が引けさえしなければ――これはなかなか大きな関門だが――その気にさせてくれるだけの力はある。と思う。

最後に、ここは私が当ブログで追いかけているメインテーマであるので言及させてもらおう。なぜ、現代社会においては「二項同体」はアクロバットになってしまうのか。

これは人間が環境に適応する動物だからだ。安富教授は「【命題5】貨幣とは、手軽に人と人とをつなぐ装置である」とし、「貨幣があれば信頼関係がなくてもいきていける」を副作用としている。確かにその通りだとは思うが、しかし、現代社会はこの副作用を基軸として組み立てられているというのも、間違いのない現実である。だから、現代社会に適応すればするほど、ますます自立と依存は二項対立になり、二項同体はアクロバットになる。アクロバットとは、自身の適応をひっくり返すことなのである。

こうした社会が出来上がってしまう根本原因は、貨幣が偶像化してしまっていることにある。貨幣の副作用の主たるところは価値保存機能だが、これは偶像化(現象の本質化)から派生する。

これは私の限られた経験からも言えることだが、貨幣が本質化していない社会で暮らす人間は、自然と「二項同体」へと適応していく。『インディアンの方法』はその適応の継承なのである。

技術進歩の流れに抗う

人類は自らが開発した技術の進歩ととも発展してきた生物だけれども、現在はその「流れ」に抗うか否かの大きな転換点にさしかかっているのだと思う。

3.11の影響で引き起こされた「フクシマ」はその「転換点」を可視化した。いや、以前からそれは見えてはいたのだ。「ヒロシマ」「ナガサキ」「スリーマイル」「チェルノブイリ」。見えていなかったわけではなく、見なかっただけ。未だに見ない振りを決め込んでいる者も多いけれども、しかも日本の場合は社会エリートの大半がそちらに属しているようで、そこからも日本社会の末期症状が露わになっているのだけれども。

さて、しかし、今回言いたいことは、そちらの話ではない。

  東野圭吾氏ら作家7人、書籍スキャン“自炊”代行業者を提訴(INTERNET Watch)

作家達の言い分はわからなくはない。法的には通るのだろうし、そもそも通るように話を構築したのだろう。弁護士当たりと相談して。

が、この「事件」が呼び覚ました波紋は、訴訟で問題とされたところに留まらない。電子書籍の在り方について議論が広がっている。

電子書籍は、その衝撃ほどに日本では普及していない。作家達の起こした「事件」(この言い方は公平とは言えないんだけども)、「衝撃」から期待されたほどの現実なっていない読者の不満を反映しているのだろう、時代の流れに逆行するかのようなイメージで捉えられているようだ。

私もそのひとりである。もっとも、私は今のところ電子書籍に関心はないが。

ここで考えたいのは、「時代の流れ」と技術進歩の関係だ。原発の場合、時代の流れは技術進歩に抗う方向になっている。ところが電子書籍の場合は、技術進歩の方向と時代の流れとが一致している。訴訟を起こした作家達の言い分には理があるし、それを支持する知識人も多いようだ。また出版業界の実情から電子書籍には現段階では障壁が多いといする意見も目につく。それでも、長い目で見るならば情報の電子化の流れは止らないだろうということは、誰もが感じているはずである。

そう。長い目で見る立場からいえば、作家達の訴訟は時代の流れに逆行する「事件」なのであり、その意味で原発推進と同じと見ることが出来る。

では、技術進歩と時代の原発における齟齬、電子書籍における一致、この差異は一体何なのだろうか。

結論は、既に言い古されていることである。脱工業化。情報化社会。工業化社会への技術は時代に反すると感じられ、情報化社会を実現する技術の進歩は時代と一致する。この時代感覚の差異が一方では技術の進歩に抗い、一方では技術の進歩を歓迎する。もう少し言うならば、情報化社会への技術が提示するパラダイムが工業化社会へのパラダイムを駆逐しようとしている。ただし、まだこのパラダイムは明確な形を取っていない。兆しとして現れているだけで、体系化にはほど遠い。作家達の「事件」とそれを支持・擁護する主に知識人たちの意見は、旧来の体系に根ざしているがゆえに、かえって新たなパラダイムの「兆し」を捉え損なっているのだろう。

実際、作家たちが提訴したその言い分は工業化社会の体系に根ざしている。彼らは自身の著作物を工業製品のように認識している。工業製品である書籍を破壊して、そのなかの「情報」のみを取り出すことは許されないというのだ。情報はあくまで書籍と一体であるべき。知識人たちは、工業製品-商品という前提に根ざす経済体系を根拠に作家たちを支持する。だが、情報化社会のパラダイムでは情報は工業製品ではないし、商品ですらなくなりつつある。技術進歩がそうした事態をもたらしたのだ。

この流れに抗う著作権者たちは、自身が生み出す商品としての価値が棄損されると創作のインセンティブを失うという。それはその通りだろうし、そうした意見に多くの者が賛同せざるを得ないが、これこそが旧来のパラダイムの縛」であって古い「絆」なのだ。現在、問われつつあるのは、そうした「インセンティブの在り方」であろうと思う。

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大雑把に情報の商品化の流れを俯瞰してみる。

まず、文字がなかった時代。この時代の情報は口コミのみである。現代でもそうだが、口コミ情報は商品にはならない。口コミ情報に大きな価値があることを否定する者はいないだろうが、商品化は不可能である。だから、価格が付けられることもないし、またそれゆえに価値があると言うこともできる。

ただしこの時代にも、例えば古事記を口伝していたと言われる稗田阿礼のような人物は今日的にいえば商品価値があったと見ていいだろう。長大な情報を文字に記さず記憶に留めておくことは特殊技能であり、それは人そのものが情報を載せるメディアであったということだ。この流れは、平家物語や太平記などを語り歩いたという琵琶法師へと受け継がれ、現代にも落語や浪曲といった形で引き継がれている。また新たに情報を創作する者も、今日と変らず商品価値があったと見ていいはずだ。作家はいずれの時代であろうと価値はある。そこは不変である。

文字の発明・伝播は、情報の記憶という特殊技術の価値を低下させた。それは情報を載せるメディアが人間から外部化したためである。情報の工業化の流れもここから始まったと見てよい。

初期は文字通り手工業の時代であった。文字は人間がその手で書くしか方法がなかった。この時代、書籍は非常に高価なものであったというが、当然のことだろう。まず文字を書くことが出来るということ自体が特殊技能だったし、書き写すという作業も大変な労力を要する。手の込んだ手工業製品が高級品だったのと同様に、書籍も高級品だった。

近代からは工業製品が普及品になったとの同じく書籍も安価になり、社会に広く普及するようになる。そして現代。情報化社会が幕を開け、電子書籍の時代がやってきつつある。

情報化社会のいちばんの特徴は、情報を載せるメディアの進歩である。情報は工業製品ではなくなった。IT技術の発展により、口コミと同じところへ「発展的回帰」をしたのである。発展的回帰というのは、情報の記憶という特殊技能が必要なくなり、デジタル技術によって補われるようになったこと。どんなに膨大な情報であろうとも、その複写はいまや一瞬で完了してしまう。この技術は、工業製品としての書籍の価値を低下させてしまう。これはIT技術の普及とともに必然的に進行してしまう事態だ。

そうなると、残るのは情報発信者としての創作者の価値だけ、ということになる。ここだけは時代がどのように変ろうと不変である。

ところが、時代の価値体系はまだそこに追いついていない。工業化時代の価値体系が未だ強く残る現代では、創作者のたちは、工業製品である書籍の価格を通じてしか担保されない。そしてそのことは電子書籍でも変らない。IT技術は情報の近代的商品性ですら奪いつつある。つまり、旧来の製品としての著作権概念を侵害しつつある。このことに対しては、著作権関係者を中心に、いろいろ対策を施そうとはしている。だが、それらは所詮対症療法でしない。情報化社会技術が広げていく新たなパラダイムのなかに古いパラダイムを残そうとするものでしかない。

もう一度、歴史の流れを概観し直して見よう。

無文字時代、特殊技能を持って情報メディアとして商品価値のある人間は権力者によって庇護されていた。それが、文字が普及し工業化社会が進展、平衡して商品経済社会が進展。結果、情報メディアは人間の外へと外部化し、外部化したメディアの商品価値が情報創作者の価値を担保するようになった。つまり、情報創作者は実は誰からも直接的には庇護されていない。直接的な庇護は、貨幣価値によってなされているのである(これはなにも作家のような人たちに限った話ではない。あらゆる労働者が同じである)。

ところが時代は情報化社会技術の進歩で、無文字時代の状況へと発展的回帰した。文字が溢れる社会でありながら、いや、文字が溢れる社会になったがために、文字は人間の内部へと回帰していこうとしている。情報の価値は外部メディアには見いだせなくなっていく。メディアは人間そのものになっていく。この流れに逆らうことそのものが、「技術進歩の流れに抗う」ことである。

こうなると、外部メディアの商品性を経由して創作者の価値を担保することが不可能になってしまう。かつての権力者がしたように、直接「人間メディア」を庇護するしかなくなる。ただし現代は、絶対権力を一部の者が握っているような時代ではない。民主主義の時代である。権力は民衆にある。

これは、出版の話で言うならば、作家を庇護する権力者は読者であるということだ。不特定多数の読者が直接作家を庇護する。

話がなにやら現実離れしてきた。そう、こういった問題の難点は、技術的に可能かが検討される以前に実現されるべき状態が想像困難なことにある。貨幣を経由せずして、どうやったらそんなことが可能なのか。ほとんどの人がそんなふうに考えるだろう。

またしても問題は貨幣へと収斂する。私の結論を言えば、貨幣を介さずには不可能。だから、貨幣の性質を変えなければならない。貨幣2.0である。

貨幣2.0の考え方は基本的には単純である。文字が人間の外部から内部へと回帰するように、貨幣も人間の外部から内部へ居場所を変える。希少性を前提に【物】の世界観を支えていた貨幣1.0は、逆の自由性を前提に《情報》的《現象》的世界観を支える貨幣2.0へと発展していくことになる。

参考記事:貨幣は必要か?

再掲載:【物】の原理は専有、《情報》の原理は共有

2009年9月12日の記事を修正して再掲載。

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前提1:〈私〉が存在する。〈私〉以外の〈他者〉が存在する。


〈私〉は〈他者〉を、〈私〉に備わった〔感覚〕を通じて捉える。
〈私〉の〔感覚〕によって捉えられている〈他者〉の状態を【物】と呼ぶ。

〈私〉は【物】を〔意識〕によって捉え直す。
〔意識〕によって捉えられた〈他者〉の状態を《情報》と呼ぶ。


前提2:〈私〉は〔人間〕である。


〈他者〉のなかで、〈私〉と同じ〔人間〕であるとの《情報》が付与されている〈他者〉を〈他人〉と呼ぶ。

〈私〉は〈他人〉と《情報》を共有することで〔人間〕となり、共同体や社会を営む。

 →《情報》の原理は共有である。

共有物である《情報》を生み出す〔意識〕は、一次的には同一性を志向する。二次的には差異性を志向する。
〈他者〉との共有のなかの水平的コニュニケ-ションから、垂直的に〈個〉が確立される。つまり《自己》である。

【物】は、〈他者〉が共有態様である《情報》となる以前の、〈私〉の〔感覚〕のみによって捉えられている状態の、〈私〉のよる〈他者〉の専有態様である。

 →【物】の原理は専有。

専有物である【物】を生み出す〔感覚〕は、一次的には差異性を志向する。二次的には同一性を志向する。
個別な〈他人〉との水平的コミュニケーションは、水平的に〈個〉が確立される。つまり【自我】である。


付記1:

〔感覚〕装置としての〈私〉が捉えることが出来るのは、《現象》のみである。
ところが人間には〔意識〕が存在する。〔意識〕が行なうのが【現象の本質化】。それが【物】の正体である。

また、〔意識〕そのものも《現象》に過ぎないのだが、〔意識〕を意識化することで〔意識〕もまた【本質化】する。
これは〔他人の意識〕を意識する過程、つまり個別な〈他人〉との水平的コミュニケーションのなかで確立される【自我】である。
確立された【自我】が成長しようとすれば、それは水平的領域の拡大、つまり「他者の支配」へと向かうことになる。
【物】的世界観であり、これが二次的な同一性の意味するところ。


付記2;

《情報》は【物】の再把握である。
【自我】によって妨げられることがなければ、《情報》は【現象の本質化】の《再現象化》である。

つまり《情報》とは、〈私〉によってフィルタリングがなされてはいるものの、《現象》である。

《情報》共有の水平的コミュニケーションから垂直的に立ち上がる《自己》とは、〈私〉という「フィルター」の把握の他ならない。
「フィルター」の把握は、「現象を観る目」の確立でもある。

確立された《自己》が成長しようとすれば、それは垂直的領域の拡大、つまり〈私〉という「フィルター」を「無」あるいは「空」する方向へと向かうことになる。
《情報》的《現象》的世界観であり、これが二次的な差異性の意味するところ。つまり「フィルター」の差異である。

付記3:

私は、垂直的領域への拡大志向を《霊性》と呼ぶ。

《霊性》には基本的に2種類の態様があると考える。

1.〔意識〕が生成する【本質】を超越する《本質》があると想定することから生まれる《霊性》。
【物】的世界観から、アクロバティックに生み出された理性的《霊性》。
超越的《霊性》である。

2.は、《自己》というフィルターもまた《現象》であると観ることから生まれる《霊性》。
《情報》的世界観から、順当に生み出される感覚的《霊性》。
内在的《霊性》である。

日本的霊性は、内在的《霊性》の一亜種であろう。

自在な豊かさ

私の思索のなかで、自由/自在の対立軸は大きな要素のひとつになっている。

怯えの時代 その発端になったのが、内山節著『怯えの時代』。冒頭をまたしても掟破りの引用。

プロローグ

   一、

 二〇〇六年六月二十二日。妻が死んだ。ほんの五分前まで心地よさそうな寝息をたてて眠っていたというのに、突然息をとめた。受け入れるしかない現実が私の前で展開していた。

   二、

 それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分のためだけにある。すべてのことは自分だけで決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。

   三、

 それは現代人の自由と共通する。

   四、

 喪失の先に成立する自由。受け入れるしかない現実が生み出した自由。

   五、

 妻の死によって私は怯えることはなかった。私は「また会おうね」と言った。妻は「うん」と言った、と思った。

   六、

 現代人は確かに自由なのだと思う。もちろん世界のさまざまなところに、自由を圧殺された人々がいることを私は知っているし、それが国内問題であることも知っている。しかし、あえて私は現代人は自由だという。なぜなら現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先にあらわれてくる自由でしかないからだ。私たちは携帯でメールを打ちつづける自由がある。テレビのチャンネルを思うがままに変える自由がある。今日の夕食を好きなように決める自由がある。ただしそれは携帯電話がつくりだしたシステムを受け入れることによって、だ。サイフの中身をという現実を受け入れることによって、だ。
 現実を受け入れない限り自由を手にすることもできないという包囲された世界のなかの自由が、私たちにはある。そして現実を受け入れたときに手にしなければならないもうひとつものは、喪失。その代償のもとに獲得されたのが現代人の自由。

   七、

 (中略)

   八、

 そんな時代が長くつづき、私たちはうんざりするような自由を手に入れてきた。なぜうんざりするのか。それは自由であっても自在ではないからだ。(後略)



この文章を読んでみてから、話題になっている斉藤環氏の文章を読んでみてもらいたい。

 時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環

ここにあるのは「正論」である。それは疑いがない。が、内山氏の文章にある「喪失」がない。「うんざり」がない。

被災の当事者に内山、斉藤両氏の文章のどちらが響くかと問いかけてみれば、どうだろう? 斉藤氏の「正論」か。内山氏の「喪失」か。答えはいうまでもないと思うが。

「絆」連呼が始まったのは、3.11の震災以後のことだ。だが」、内山氏の文章を読むと、その前奏はずっと以前から始まっていたことに気がつかされる。3.11は、「喪失」をかつてない規模で露わにした。だからこそ「絆」の連呼が始まったのではないのか。

斉藤氏の「正論」は絆は自由を奪うという。まったくその通りである。だが、私たちは既に、その自由に「うんざり」していたのではなかったか。自由の代償として要求される「喪失」に耐えがたくなっていたのではないのだろうか。自由か自在かの対立。

この対立軸は原発の賛否を巡る議論にも通底する。原発に賛成する者は自由が大切だという。自由な経済活動が補償されなければ経済は活力を失う。だから安定的な電源である原発は必要。対して反対派の議論は「喪失」には耐えられない、というもの。

だが、私の見るところ、まだ反対派の議論も「自在」のところにまでは至っていない。自在とは制約から自由になることでない。制約を受け入れて制約を生かすことをいう。制約があるからこそ豊かに暮らすことができる。ここでいう「豊かさ」は自由が提供してきた「豊かさ」とは根本的に異なる。自在な豊かさ。日本にはかつて満ちあふれていた豊かさ。ブータンにはまだ 残っていると思われている豊かさ。

私が「絆」連呼のなかに見るのは、一方では斉藤氏のいう「正論」だけれども、もう一方は「自在な豊かさ」への希求である。その見立てが「正論」への違和感を生む。正論を希求の封殺に用いてはならない。

自在な豊かさを生み出す知恵は、私たちの暮らしのなかにひそむ「伝統」のなかに宿っている。それは「富国強兵」といったスローガンのもと「文明開化」を目指すずっと以前から私たちの暮らしの中で生き続けてきた知恵だ。「自在」を希求するなら、その知恵を再び発掘する必要がある。

参考記事:ならば「絆(きずな)」ではなく「結(ゆい)」
       日本力

【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その4

『その1』
『その2』
『その3』

その4はこの図から始めることにする。

図1 

これはその3の図5に注釈を付け加えたものだ。

その3で私はこの右図を奇妙と言った。貨幣経済がはみ出すはずのない人間経済からも自然環境からもはみ出しているからだ。その秘密は貨幣経済のなかの「斜線」にある。貨幣経済は金融経済と実体経済と別れ、斜線はその区別を示す。そして、自然環境からはみ出すのは金融経済の部分。実体経済ははみ出すことはできない。

ではなぜ、金融経済ははみ出すことが出来るのか。その鍵が〈無〉から貨幣を創造する信用創造だ」。

自然環境はいうまでもなく〈有〉である。〈有〉だから有限。単純な道理だ。人間経済は、この〈有〉の人間社会における循環のこと。そこには〈生活世界〉と貨幣経済のなかの実体経済とが含まれる。これらは当然、自然環境の〈有限〉の枠は超えられない。

ところが〈無〉から創造された貨幣は、〈無〉であるがゆえに〈有限〉の枠をやすやすと超える。これもまた単純な道理である。そして、近代の貨幣経済の実態は〈無=金融経済〉と〈有=実体経済〉との「動的平衡」とでもいうべきものなのである。それが「自然の流れ」を無視して「人間の都合」だけで展開される。“経済は成長しなければならない”と日々権力者とその広報機関が唱える「お題目」は、「人間の都合」ならぬ「権力者の都合」という「本尊」があればこそ。

ここで少しわが愚樵空論の過去記事を紹介させていただく。近代貨幣経済における〈無〉と〈有〉の動的平衡を支えるものを、「労働者の〈道徳〉」として捉えて文章を書いたことがある。内容は「強いられた欲望」シリーズとほぼ被る。

 『実金と虚金』 
 『負債としての貨幣』
 『労働者の〈道徳〉』
 『〈道徳〉的な〈帝国〉』

もうひとつは『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズ。このアニメのストーリーの中核であるインキュベーターと魔法少女たちの関係は、近代貨幣経済における動的平衡の在り方にそっくりなのである。

 『インキュベーター その1』
 『インキュベーター その2』
 『インキュベーター その3』
 『インキュベーター その4』

インキュベーターと魔法少女をつなぐのは【契約】である。この【契約】は企業家が金融資本と結ぶ契約と同構造。魔法少女/インキュベーターの関係における【希望と奇跡の契約】は、企業家/金融資本の関係における【イノベーションと信用創造の契約】だ。「希望」が「イノベーション」へ、「奇跡」が「詐欺」へ置き換えられているだけで、その【契約】の結果、「希望」は「強いられた希望」となり「イノベーションという名の欲望」もまた「強いられた欲望」となる。インキュベーターも金融資本家も、奇跡あるいは詐欺から「利息」を受け取ることで〈無〉と〈有〉との動的平衡を維持しているのである。

と、結論を先取りした形になったが、改めて図1へ戻ろう。ここに付け加えられているのが、その「利息」である。

金融経済を司る金融資本は、信用創造で無から貨幣を創造する。この創造はのべつまくなしに行なわれるわけではない。「契約」という機に際して行なわれる。実体経済を司る企業家(ここには国家ですらも入っている!)から「資金需要」があると、金融資本はその資金の返済と利息とを条件に〈無〉から貨幣を創造する。金融経済において〈無〉から始まった貨幣は、実体経済に移って〈有〉となり、再び金融経済に帰る。その際、〈有〉は利息によって大きくなっていなければならない(渦巻きのような赤矢印はそのことを表現している)。金融経済が膨らむ道理である。

金融資本との【契約】の結果、企業家は自発的だったはずのイノベーションを他律的に強いられることになる。借りた資金を返済する義務を負ったのである。その資金はたとえ〈無〉からのものであろうが、〈有〉へと変換して返済しなければならない。無/有ー変換は、当然のことながら〈有〉の領域である人間経済・自然環境のなかで行なわれる。結果、貨幣経済のなかの実体経済部分が拡張し、文明は発達する。その中で暮らす私たちは便利で豊かな暮らしを享受できるようになる。が、これは「強いられた欲望」の帰結なのである。確かに文明生活の利点は享受できた。とはいえ引き替えにしたものも大きかった。

自発からの他律を【システム】というが、ここに依存してしまうと「引き替えたもの」の姿が見えない。それこそが「内発性」である。

労働には《仕事(あるいは務め)》と【稼ぎ】の二種類がある。共同体を維持するための内発的労働と、自発からの他律によって強いられる労働と言ってもいい。【システム】の全域化で消滅しつつあるのは、内発的労働の方だ。アンバランスな経済発展が良きこととして受け入れられてきたのも、内発性が見失われてしまった所為でもある。内発性は「自然な流れ」であり、そこから生まれる《欲求》は充足すれば消滅する。が、他律となった【欲望】は充足することを知らない。その【欲望】を【システム】が合理化する基盤を提供するが、よくよく見てみればそのからくりは詐欺でしかない。

労働は内発的《仕事》であろうが他律的【稼ぎ】であろうが、いずれも〈有〉の領域内でのこと。そして労働者の〈道徳〉とは〈有〉と〈有〉とを交換することにある。実体経済の中を巡る貨幣(マネーサプライ)は〈有〉だ。少なくとも労働者はそう認識しているし、そうでなければ自身の労働の成果と貨幣とを交換するはずがない。

〈有〉の大元である自然循環は、大きな調和の中にある。人間経済が有/有-交換の枠内にあるのであれば、労働する者はその労働に応じて豊かになっていくのが道理のはず。ところが経済の実態は大きく異なる。有/有-交換をする者ほど貧しくなって行ってしまっている。この理由は単純で、労働者が有/有-交換だと思い込んでいる貨幣と労働との交換が、実は無/有ー変換だったということなのだ。労働者は〈無〉によって欲望を強いられて無/有ー変換を行い、〈有〉となった貨幣は金融経済へと回収されていく。たとえ自身が直接は【契約】してはいなくても、労働者は無/有ー変換の義務を負わされてしまっているのである。

その5へとつづく。

やはり女には適わない(笑)

NHKがなかなか興味ぶかい「事実」を報道して、ネット上でもかなり話題に上っている。

夫婦愛は出産後に覚めるもの?

子どもを出産したあと、「妻が愛情を示してくれない」、「結婚当初はこんなではなかったのに」。
そう感じている男性、いらっしゃるのではないでしょうか。
果たして結婚して子どもが生まれたあと、夫婦の愛情がどう変わるのか。
4年間にわたって300組近い夫婦を継続して調査した結果がこのほどまとまりました。
この結果から、愛情を保つ秘けつも探ってみます。

対象になったのは全国の288組の夫婦で、「配偶者といると本当に愛していると実感する」割合を、妊娠中から子どもが2歳のときまで4年間にわたって調べたんです。
すると、妊娠中は夫も妻も「愛していると実感する」のは74.3%で、この時点では夫婦間に差はありませんでした。 ところが出産すると結果は一変します。
「夫を愛していると実感する」妻の割合が大きく減少するのです。


さもあらん。大笑。
内発的発展論
前エントリーで私は、内発性/自発性という構図を提示してみたが、その構図でいうと、出産した女性の愛が夫から子どもへと移るのは、まさに内発的発展に他ならないだろう。
(右掲書は未読なんだけど、関連ありそうなので掲げてみた。高価なので図書館で探してみよう。)

私は「内発的発展」とは共同体の発展と軌を一にするのではないかと考えている。ここでいう共同体は、ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」でも、地縁血縁で結ばれた地域共同体でもない。各人が個別的に確立する「〈想像界〉の共同体」というべきものだ。
(想像界とはもちろんラカンいうの三界の1。アンダーソンの「想像の共同体」とは、この伝でいうと〈象徴界〉の共同体。ただし、このラカン理解が正しいかは自信がない。)

女性は子どもを産む。すなわち分身を作る。母子は想像的にも現実的にも最もベーシックな共同体だ。女性は内発的に共同体を生み出す。ここから女性が内発的発展を遂げるのは必然だろう。男は逆立ちしても適わない。男は哀れにも取り残されるのだ。大笑。

男に残された術は、女性が生み出す新たな共同体を承認する以外に方法はない。

では、どうすれば妻からの愛情を保てるのか。
そのヒントがありました。
「妊娠時」も「子どもが0歳になった時」も変わらず夫への愛を実感している妻たち、いわば出産後も愛情が変わらない妻たちの調査結果を詳しく分析したのです。
すると、次の2つの項目で特徴的なことが分かりました。
「夫は家族との時間を努力して作っているか」、「夫は家事や仕事、子育てをねぎらってくれているか」。
この2つの質問項目に対して、70%以上が「あてはまる」と答えたのです。


家族との時間を作る努力。子育てへのねぎらい。これらは新たな共同体への「具体的な承認」であろう。内発的発展を遂げた女性は以前のように自身にだけの承認では充足されない。新たな共同体への承認が必要になる。母の夫への愛情はそこから生まれる。

男にとってみても父親になるのは内発的発展に他ならないはずだ。しかし、【自我】発の自発性ばかり肥大して《自己》が未熟な「お坊ちゃま」では女性の内発的発展に取り残される。結果、「妻が愛情を示してくれない」、「結婚当初はこんなではなかったのに」。大笑いだ。

付け足し。

男の未熟な《自己》発達を隠蔽し、自発的な【自我】肥大を容認してきたのが【システム】である。戦前は「家」。戦後は「会社」。女性は「家」畜あるいは「社」畜であり、明治維新以来の近代国家日本もそうした【システム】を下支えしてきた。これは偏に【闘争】――戦前は富国強兵、戦後は経済発展――のためだった。そうした社会的性差への反発がジェンダー・フリー運動を引き起こしてきたわけだが、これも結局のところは【システム】を女にも開放せよという主張・運動であって、内発性を疎外する【システム】そのものは承認された。むしろジェンダー・フリー運動は、不本意ながらも女性が担っていた内発性を放棄させ、社会全体の内発性を大きく低下させてしまった。

自発性を獲得したあるいは獲得しようとした女性(母)は、子どもにも自発性を発揮させるようにと望んだ。が、【自我】発の自発性は、他人にとってみれば他律性に他ならない。それが子どもたちの内発性を疎外し、さらに大きく社会の内発性を損なうことになった。

そういえば今週のNHK・クローズアップ現代でも興味深い報道が為されていた。

やさしい虐待 ~良い子の異変の陰で~

勉強が出来て、しつけも行き届いた自慢の子が、突然、学校に通わなくなったり、自室に閉じこもってしまう、いわゆる“よい子の破綻”。原因が分からずに苦しむ親が多い中、研究者がその多くに共通する問題として注目しているのが、親による「やさしい虐待」だ。一般的な児童虐待は、暴力や暴言などで直接子どもを傷つけるものだが、一見こどもにはプラスに思える教育やしつけも過度に押しつけるとこどもをがんじがらめにし、虐待と同様に心を蝕んでいくという。「やさしい虐待」によって損なわれたこどもの心や親子関係をどうすれば修復できるか?その模索を見つめる。


ハラスメントは連鎖する もちろんこれは女性(母)だけの責任ではない。「大人」の責任である。

江戸時代末期、欧米列強の強大な軍事力を見た有司たちが、日本を守ろうとして日本国民を鍛え上げようとしたのはよかった。致し方なかった。が、犠牲は当然出た。まず、男たちだ。兵士として戦争することを強いられた。その代わりに「家」というご褒美を与えられた。その犠牲になったのが女たち。

戦後、日本は経済発展を遂げて平和になり、女性達も自発的に強くなった。【システム】に参画できるようになった。だが、犠牲がなくなったわけではない。今度は子どもたちである。

国家から男へ、男から女へ、女から子どもへ。施されたのは「ハラスメント」である。ハラスメントは連鎖する。その挙げ句が今の日本の惨状であり、この流れで見ると女も男と変わらない。

だが、3.11以降。やはり変わったのは母親たちが中心だ。これは女と男の「内発力」の違いだろう。やはり男は適わないのだ。

関連記事:女と男のガラパゴス
       天辺の糸       

ならば「絆(きずな)」ではなく「結(ゆい)」

2011年度の「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」であった。確かに今年は3.11以降、「絆」が連呼された年であった。

この現象に対しての批判の声が上がっている。代表はこちらだろう。

時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環
     毎日新聞 2011年12月11日 東京朝刊

 ◇自由な個人の連帯こそ

 3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉に「絆」がある。「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「こだまでしょうか」といった震災関連の言葉とともに、今年の流行語大賞にも入賞を果たした。

 確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。昨年は流行語大賞に「無縁社会」がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。

 しかし、疑問もないわけではない。広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。

 語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。

 訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。しかし被災後に流行する言葉として、「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。


斉藤氏が主張したいことを私なりに言い換えてみる。

もともとの「絆」の意味は
 (1)動物をつなぎとめる綱 → Win-Lose
 (2)ほだし。係累。繋縛 → Lose-Lose

そこから「自由な個人の連帯」を Win-Win とイメージして推奨。

おっと、これは少ハッキリとさせすぎた。「絆」がWin-Lose or Lose-Lose とイメージされていることは確かだと思うが、「自由な個人の連帯」を Win-Win とイメージしきれているかどうか。逆に言うと、「自由な個人の連帯」が Win-Win のイメージして伝わるかどうか。私は伝わりきらないと思う。齟齬が生じると感じる。そしてこの齟齬が「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれた理由だと考える。

斉藤氏は、

絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。


といい、「絆」をプライベートだと位置づける。そして「絆」連呼は、「絆」をパブリックなものとしてプライベートを絡めとる危険性のあるものだと警鐘を鳴らす。この論旨そのものには異存はない。だがこれでは「齟齬」は埋まらない。

なぜ「絆」という言葉が選ばれたか。この問いは私自身への問いでもある。「絆」連呼は私の現象でもある。3.11以前から「絆」を連呼している。なぜなのか。

それは「絆」をプライベートでも、もちろんパブリックでもなくパーソナルだと位置づけているからだ(その果てが《霊》という概念になっているわけだが。)

「絆」は「気がついたら結ばれ深まっていた」。斉藤氏はそこから「絆」→切れないもの→束縛と論理を展開していく。この論理でいうと「縁」が選ばれなかった理由は納得がいく。「縁」は切れるものだからだ。

だが「連帯」が選ばれなかった理由はこれでは上手く説明ができない。というより、もともと斉藤氏は説明しようとは思っていない。「連帯」は意志を持って結ぶもの。だからそちらを選べという主張になっている。だが、くり返すが、これでは「齟齬」を埋められないのだ。

「連帯」が選ばれなかった理由。それはパブリックだから。人々はプライベートな繋がりを求めているのである。プライベートな繋がりは、個々人のパーソナルな「内発性」から生まれる。「絆」に込められている意味は、辞書にはない内発性である。

話は少し変わる。

日本はもともと「言挙げ」をしない国だとされてきた。「言挙げ」とは明確に言葉にすること指し、大切なことは明確に言葉にして表してはいけない。遠回しに表現して察してもらうようにしなければならない。そうしたことを重んじていた国だというわけだ。

私はこれを内発性重視の現れだとみる。つまり、言葉にしてしまうと自発性が生じてしまう。自発性は自律性になり、多くの自律性が収束すると他律性になり、人々を束縛する。言挙げを好ましく感じないのは、この「流れ」を昔の人々は識っていたからだろう。言葉というものには力があり、発することで発した自分自身ですら束縛する。自律性だ。

斉藤氏の主張は、「絆」という言葉を選ぶ人々の自律性が収束して他律性になることを懸念したものだと理解していいだろう。 そして「自由な個人の連帯」という自発性を重んじよとする。しかし、連帯をするにも言葉は必要だ。そこから先は自律性→他律性への「流れ」に乗る。これは善きパブリックではあるかもしれないが、人々は無意識のうちにそれを選択していないのである。

ベネディクト・アンダーソン プライベートな繋がりが充実させるには、その前段の内発的なパーソナルを棄損させてはならない。言挙げによる自律性を発揮させてはならないのである。だが、現代社会は言語による「想像の共同体」である。言語がなくてはつながらない。そこで「絆」という言葉が、本来的な意味である Win-Lose でも Lose-Lose でもない Win-Win なイメージとして浮上してきたのではなかった。少なくとも私が「絆」というときは、イメージしているのは Win-Win だ。

だからこそ、「絆」を誰が発するかが重要になってくる。その立場・発し方で Win-Win をイメージしているか Win-Lose をイメージしているかがわかる。人々はそこに敏感になっていると思う。

しかし、もともと Win-Win をイメージするつながりを表す言葉が存在しないわけではない。それが「結(ゆい)」である。「もやい」ともいわれたりするが、共同体内の相互扶助の在り方を指す言葉。この「結」がパブリックかプライベートかは議論が分かれるのかもしれないが、私はプライベートであったと思う。そしてそうした関係を生じせしめたのは、パーソナルな内発性である。

私たち日本人が高度成長とともに失ったのは、個の確立から生じる内発性である。欧米を真似て意識的な自発性を重視するのがいいと考えられてきた。だがそれは結局のところ根付くことはなかった。それは当然のことで、千年を単位とする時間をかけて培ってきたものが、そう簡単に覆るはずはないのである。ミスマッチが生じるだけ。そのミスマッチが最大限具現化していたところへ起こったのが、此度の震災&大人災。日本人が内発性重視へと無意識のうちに舵を切るのは、ごく自然な流れであると私は思う。

だが、自発性重視の教育を受け、それに高度に適応した知識人にはそれが見えない。優秀だったからこそ適応が深くなり、言い換えればバイアスが強くなり、かえって見えなくなるのだ。斉藤環氏の主張は、その良い例であるように思える。

帰還困難区域? そんなの聞いてないぞ

<福島第1原発>「帰還困難区域」指定へ 土地買い上げ検討
  毎日新聞 12月13日(火)21時20分配信

 政府は東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域について、年間の放射線量に応じて新たに3区分に再編する方向で調整に入った。現行は原発から半径20キロ圏内の「警戒区域」と年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超える「計画的避難区域」に分類。新たな区分では50ミリシーベルト以上の年間線量が高い地域について、長期間にわたり住民が居住できない「帰還困難区域」に指定し、土地の買い上げなどの支援を検討する。


非常に唐突な印象。

帰還困難区域が存在するであろうことは、原発問題に少しでも関心があればシロートでも察しが付くことだ。たしか菅前首相もそのようなことを発言したはずだ。「半径3キロは数十年居住できない」と。なのに続報はなかった。連日報道されているのは、除染、除染、除染。福島はこれからも大丈夫、といったような話ばかりだった。

水面下では検討は進められていたのだろう。だが、この議論は水面下で進めるべきことだろうか。情報を公開して、オープンに議論されるべきではないのだろうか。ジャーナリズムの責務はそこにあるのではないのだろうか。提灯メディアはその責を果さず、耳障りのより情報だけを垂れ流してきた。

そしていきなり、住めないところがあるとの発表。いや、いきなり、ではなかったのか。先日、福島県が地域別に住民の被曝状況を発表したが、それが帰還困難区域発表の前段階だったというわけか。

それにしても遅い。この遅さが、ひいては住民の補償救済の遅れへと繋がっている。

 首相は11月25日の参院本会議で「相当な期間にわたり住民の帰還が困難な区域が出てくることも考えられる。土地の買い上げなどを含め、国が責任を持って中長期的な対応策を検討していきたい」と述べ、支援策を検討する考えを示した。区域の名称に「長期」を入れる案もあるが、被災者の心情に配慮し見送るべきだとの意見もあり、調整を進めている。

被災者の心情に配慮し見送るべき。またこれだ。被害者の心情がどうであれ、事実は事実だ。事実はさっさと認めて謝罪し、責任者を処罰し、しかるべき補償を迅速に進める。それが被害者の心情への配慮、だろう。

この連中がいう「配慮」は、実質的な補償はなるべき低く抑えて、被害者に忍耐を強いることが目的でしかない。真に「配慮」しているのは自身の立場。自身の利益である。そういった「配慮」から、不都合な真実の発表の段取りも、いろいろと「計算」されているのだろう、きっと。

私たちは、そのような保身に「配慮」してやる必要があるのだろうか。 

放射能無主物を主張する法律家はアイヒマンか

改めて東電の放射能「無主物」の主張について。今回は、東電の主張を実際に執り行っている法律家について。

 【経済の死角】 トンデモ裁判、呆れた論理東電弁護団それを言っちゃあ、おしめえよ (現代ビジネス)

こちらの記事を読みながら思った。法律家というのはアイヒマンなのだ、と。

アドルフ・アイヒマン

アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann[1]、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの警察官僚。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ナチ政権によるユダヤ人の組織的虐殺の歯車として働き、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたり指揮的役割を執った。自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格の典型として有名。(Wikipediaより


東電の主張をサポートする、いや、おそらくは実質的には主導的役割を果しているであろう、某有名弁護士事務所の面々。「 自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格」な人たちなんだろうな。「長島・大野・常松法律事務所」の人たち。

アイヒマンは、その手でユダヤ人たちを殺したわけでない。それは組織の別の人間がやった。アイヒマンのしたことは、その虐殺を効率よく行なっただけ。命令に従って。

ナチス・ドイツ崩壊後に逃亡したアイヒマンは逮捕され、裁判にかけられた。彼は最後まで無罪を主張した。実際に殺してはいない。命令に従って忠実に職務を遂行しただけ。

彼の主張は当然受け入れられなかった。受け入れられるはずはない。多くのユダヤ人が彼の指揮した組織によって殺されているという事実があるのだから。

翻って、東電「無主物」裁判。訴えたサンフィールド二本松ゴルフ倶楽部は現実に経営が傾いている。原因は明らかに東電にある。裁判所もそのことは否定していない。東電ですら、その事実は否定しきれない。

東電は除線も賠償もしたくない。当たり前といえば当たり前だが、それは身勝手を当たり前と言うに等しい。ただ弁護を依頼された弁護士は、依頼人の身勝手を批判するわけにはいかない。身勝手とわかっていても弁護するのが弁護士の義務。それはわからなくはない。だがその論理は、アイヒマンの論理である。

アイヒマンの論理はイスラエルでは通用しなかった。ナチス後のドイツでも通用しないだろう。が、ナチスドイツなら通用しただろう。理由は単純明快。敵か味方か。

裁判所は東電の論理を判断を下すにあたって採用はしなかった。だが、結果としてみれば、サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部の当然の要求は退けられた。身勝手によって被った被害を賠償せよ、という当然の要求が。

裁判官にとってもこの判断は職務に忠実にということではあるのだろう。だが、もしそうであるなら、裁判官の職務とは何か。裁判官は法と良心の独立に従うと憲法に規定されているが、この「良心」とはなにか。問わずにはいられなくなる。裁判官は一体、誰に忠実なのか。結果から推察すれば、「敵」に忠実なのでないかと疑わざるを得ない。

「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」

これは裁判の折りにアイヒマンが残した言葉だそうだ。この言葉は哀しいかな、真理の一面を突いてはいる。だが、あくまで一面である。全面ではない。一部であるがゆえに、通用する場所と通用しない場所とがある。味方には通用する。敵には通用しない。敵味方をなくそうと思うのなら、通用させてはいけない。

今の日本はどうだろうか。もし通用するというのであれば、日本国は日本人の敵になったということだ。

【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その3

その2で示したのは、好景気だとインフレになる理由だった。

その理由は実は単純で、モノの生産量増加に先立って経済を巡る貨幣量が増大するから。それは一時的な現象にしか過ぎないのだが、その一時的であるはずのことがずっと持続されなければならないのが近代の貨幣経済であり、これは極めてアンバランスな状態。このアンバランスは経済が巡ると自然に解消されるのだが、近代社会ではこれが甚だ具合が悪い。

ここまでが、その2での話。で、、今回考えてみるのは、

 1.アンバランスの自然解消がなぜ不具合になるのか。
 2.アンバランスな状態はなぜ長らく持続することが出来たのか、また出来なくなったのか。

2.の方から考えてみることにしよう。
 図1 

上はその2で掲示した図だが、この   をその2ではモデル「社会」と定義した。ここではそれを修正して「貨幣経済」と訂正する。貨幣経済は、人間経済のなかの一部であり、人間経済はまた自然循環のなかの一部に過ぎない。自然循環は、人間の視点から見ると「環境」である。それを図示すると、

図2 


近代以前、人間経済は自然循環に比すればごく小さかったし、貨幣経済はさらに小さかった(図3)。それが近代以降、貨幣経済は急拡大することになった。学校の歴史ではこの現象を産業革命と教わるが、産業革命で急拡大するのは貨幣経済。それに伴って人間経済も拡大することになるが(図4)、その成長の割合はずっと貨幣経済の方が大きい。

図3   図4 

そのために、近代以前は人間経済のなかの小さな部分しか占めなかった貨幣経済が、現代ではその大部分を占めるに至った。そればかりではない。自然環境の限界に迫るところまで成長してしまった。その様子を図示すると
図5 

この図は奇妙な図だ。本来、人間経済は自然循環の内部にあり、貨幣経済は人間経済の一部である。なのにここでは貨幣経済が人間経済からも自然環境からもはみ出してしまっている。このはみ出した部分が端的に【強欲】と呼ばれるところである。

話を元に戻す。

貨幣経済がアンバランスに発展することができた理由は3つ。

 a.発展の余地があったこと。
 b.技術革新があったこと。
 c.信用創造による貨幣の増殖があったこと。

学校の歴史で説明されるのは、主にb.だ。c.については資本主義の拡大再生産という形で教わるが、これは真実の一部を伝えて肝心なところは伝えない、権力がよくやる隠蔽工作である。a.は「成長の限界」という逆接で教わるが、これもまた真実の一部しか伝えない。

「成長の限界」で一般的にイメージされるのは、量的なものである。文明社会が拡大して全地球上を覆い尽くすようになった。化石燃料等の消費が増え、環境破壊が進んでしまった。ここから「持続可能な発展」という屁理屈がひねり出される。量的拡大はもはや不可能だが、質的には拡大可能だという理屈である。

だがこれもまやかしだ。貨幣経済は既に質的にも拡大不可能なところまで来ている。

人間経済は大きく貨幣経済と贈与経済に分けることができる。宮台真司氏の分類でいうと〈システム〉と〈生活世界〉になる。この2つの経済の差異は質的。〈システム〉が全域化した現代文明では、人間経済の内部において貨幣経済が質的に拡張できる領域はすでにほとんど埋めつくされてしまった。

このことは自身の生活を振り返ってみればよくわかるはずだ。我々は一日24時間、睡眠時間を除いて、どれほどの時間を貨幣と無縁で過ごしているのか。貨幣を得るために労働し、生存のためにあるいは快楽を得るために消費をする。これらすべて貨幣経済の枠の中である。これ以上貨幣と関わる時間を増やすことは、まず不可能だろう。

貨幣経済に残された領域は「新たな欲望」という分野だけだ。ここは理屈の上では無限の可能性がある。その可能性を示してくれたのが先頃亡くなったスティーブ・ジョブズだったわけだが、果して本当にこの分野は無限に開拓可能なのだろうか? そして私たちはそのことを本当に欲しているのだろうか?

話が少し逸れるようだが、新たな欲望の可能性の是非は原発の是非にも繋がる。原発推進派のおそらくは最も根源的な理由は「新たな欲望の可能性」だろう。だが現実を直視すれば、この可能性はリスクが大きすぎる。モンサントの「商品」などもその典型例だろう。

もっとも、そうした典型例ではない変種も「新たな欲望」には存在する。その代表例が太陽光などの自然エネルギーだろう。これまでの(原発に代表される)典型例を新たな技術(あるいは従来から存在する技術)へと置き換えていこうとするもの。これは資本主義の「スクラップ&ビルド」の原則にも適っており、新たな投資も見込める。エコカーやエコ家電への買い換えも、この流れだ。

この変種は短期的には有効であろう。しかし、長い目で見れば、成長の限界を突破できるものになるかどうかは疑問だし、また長期的に有効とさせてしまうことは大変に危険な可能性を孕んでもいる。というのも「スクラップ&ビルド」は、近代の戦争の隠された原理でもあるからだ。それが例え人殺しにならなくても、人間の都合による「スクラップ&ビルド」はどのような形であれ自然環境を棄損してしまう。

以上のように見ていくと、実はa.とb.とは同根であることが見えてくる。成長の限界は技術革新の領域にも及んでおり、そのことがもはや貨幣経済が成長を続けることが出来ない理由になる。

残るはc.。a.とb.が限界に達したならば、c.もまた限界に達するのが道理であろう。事実、限界に達しつつある。だが、その限界は金融危機という形で現在具現化しており、これはこれで大変な問題であることはいうまでもないだろう。

このc.の限界の具現の仕方が、インフレ=好景気の理由から発した2つの疑問のうちの1.の方へと繋がっていくことになる。この続きは、その4へ。

時刻と貨幣

ゆめさんからのコメントで、またふと思いついた。

〈クラウド世界〉=不定時法の世界、〈システム世界〉=定時法の世界

そうだった。私が〈クラウド〉と呼んでいるもの、これは「クラウド・コンピューティング」の「クラウド」のイメージと「不定時法」のイメージとが合体してできたものだった。

 〈システム〉と〈クラウド〉(愚樵空論)

「クラウド」という言葉は、ネットにアクセスする者なら誰もが目にしたことはあるだろう。「クラウド」はいうまでもなく「雲」の意味だが、ここでいう「クラウド」は「クラウドコンピューティング」というIT技術の呼び名から派生拡大し、現在では、IT技術によって実現されているネット空間そのものを指して「クラウド」と呼ぶようになってきている感がある。

ゆえに、と言ってよいかどうかはわからないが、「クラウド」には明確な定義付けは未だにない。「クラウドコンピューティング」なら明確に定義できるのだろうが、「クラウド」はなかなかそうはいかない。にもかかわらず、ネット空間を「クラウド」と呼び習わす慣習はますます広がりそうな気配。ということは、「クラウド」がネット空間の在り様を的確に表現しているということだろう。

が、私は〈クラウド〉という表現を、ネット空間の意味で用いたのではない。自然を含んだ共同体という〈クラウド〉。ネット空間と自然とはまったく相容れない別世界だが、その在り様は、IT技術の進歩ゆえだろう、似たものになってきている。これはもちろん、私の直観である。


〈クラウド〉というのは、情報編集にあたっての「基軸(=集約点)」がない世界のことを指す。対して〈システム〉は、何らかの「基軸」がある世界。経済ではそれは貨幣だし、現代の日常では「時刻」がその「基軸」になっている。

この時刻という「基軸」は、ずっと過去からあったわけではない。時刻という概念は過去からあったろう。が、私たちは長い間時刻を共通なものとして認識するための手段を持たなかった。時計というものは昔からあったが、時刻を共通の「基軸」として認識させる手段になったのは、機械式の時計が広く普及してからのことだった。

時刻という「基軸」に慣れきっている――依存している――私たちには、なかなか「基軸」のない世界をイメージすることはない。する必要がないから。またイメージしようとしても、なかなかできない。「基軸」からの依存を脱するのはなかなかに難しい。でも、やってできないことはない。それを試みてみたのが、以下のエントリーだ。

 『不定時法の世界 (1)』
 『不定時法の世界 (2)』
 『不定時法の世界 (3)』
 『不定時法の世界 (4)』
 『共同体のイメージ』

前置きが長くなってしまった。冒頭で「思いついた」というのは、このようなことを「思い出した」というだけのことでは当然ない。貨幣も「基軸」。時刻も「基軸」。そして貨幣は散逸構造という「現象の本質化」であった。ならば時刻も――時刻もまた散逸構造といえるのかどうかは私の科学的な知識と能力では判定できない――「現象の本質化」といえるのではないか。

時刻が「基軸」でなかったころ、時刻は〈折り合い〉で決まっていた。たとえば、仲間と巳の刻にどこどこへ集まろうと約束したとしよう。このとき、巳の刻というのは目安でしかない。各々が自然現象と照らし合わせつつ、それぞれの感覚で時間を計る。太陽が真上にいけば正午だから遅刻。太陽の高さを見て、ぼちぼちだなと思ったら集合場所へ赴く。

極端に言えば、巳の刻という時刻は仲間がみんな集まった瞬間のことを指す。「巳の刻に集合」→「集合した時刻が巳の刻」へと転化する。これが〈折り合い〉というものだが、時刻という「基軸」を前提に思考してしまう私たちからすればあり得ない感覚。私たちは、時計が指し示す時刻に従うべきだと無意識のうちに前提してしまっている。

合理的という尺度で測れば、軍配が上がるのはもちろん「基軸」のあるほうだ。が、人間の「自立」という尺度で測ればどうか。私たちは時刻という「現象」を「本質」として見てしまっている。しかもその「本質」はシステマティックであり、依存し従属することが合理的。だが、それで「自立」と言えるのだろうか。各人の身体的時間感覚を〈折り合い〉って、時刻と見立てる方が「自立」という尺度では勝っているように思える。

このことは当然、貨幣にもいえる。モノ・サービスの価値判断を貨幣が測定する「価格」に依存することは、合理的ではある。だがそれは「自立」ではないだろう。

先頃ブータン国王の来日という出来事があった。ブータンといえば、連想するのは「国民総幸福」という概念。これは貨幣によって測定された「国民総生産」に対するアンチテーゼであることは、誰もが知るところだ。だが、「国民総幸福」はなかなかピンとこないものでもある。「国民総生産」のアンチというのはわかりやすいが、さりとて「国民総幸福」そのもののイメージはつかみにくい。

私はこのイメージしにくさと「不定時法の世界」あるいは〈クラウド〉のイメージのしにくさとは、同根であると思う。私たちは明確な「基軸」に慣れきってしまっている。ゆえに不明瞭はイメージを居心地悪く感じてしまう。「国民総幸福」はわりにくいというよりも、そのイメージにどこか居心地の悪さを感じてしまって、目標として据えるのに違和感を憶える。それが「わかりにくさ」の正体だろう。

これは明瞭すぎる「基軸」への依存から脱して「自立」ができさえすれば治癒してしまう、一種の病のようなものだろう。不幸への病である。「自立」なくして幸福などあるわけがない。

【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その2

その1では、【自我】の観点から見た【強欲】について話をした。今回は【システム】の観点から話をしてみる。

近代社会は【自我】ばかりになってしまった。【自我】は誰にでも芽生えてしまうものであり、それ自体悪というわけではないが【自我】が世の中を覆い尽くすと社会はうまく機能しなくなる。近代が【自我】ばかりになったのは、【自我】が蔓延るのに適した環境が整備されてしまったからである。その人々はその環境に適応した結果として、欲望は強いられるものなった。

そんな環境になってしまった理由はいろいろある。そのなかで最も大きな原因は貨幣経済という【システム】が全域化してしまったこと。今回、話をしてみたいのはその全域化のメカニズムについてである。

根源的な原因は貨幣という「現象」を「本質」と見誤ったことにある。

 『貨幣は偶像である』(愚樵空論)

貨幣が偶像化は近代に始まったわけではない。おそらくは貨幣の起源のものにまで遡る。貨幣という観点からみて、近代とそれ以前とを区分するのは貨幣の自発増殖だ。近代以前、貨幣は金銀がその役割を担っていたり、集権的な権力が発行していたり、あるいはその両方(金貨・銀貨)だったりしたわけだが、いずれにせよ貨幣そのものが自発的に増殖するようなことはなかった。金銀が掘り出されるか、権力が貨幣を鋳造するか、貨幣の生産/増殖は貨幣外の要因に拠っていた。

しかし17世紀のイギリスで、貨幣の自発増殖の方法が発明された。それが「ゴールドスミス・ノート(金匠手形)」。通貨として流通していた金細工師発行の預かり証が金の裏付けなしに――金を預かっているという金細工師の信用を背景に――増発され、そのニセ(のはずの)通貨が流通し好景気をもたらすという事態が生じた。近代はここから始まったと見てよい。


(この近代の芽生えは、17世紀末のイングランド銀行の設立、18世紀初頭のジョン・ローの「活躍」によって基礎付けられることになった。

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貨幣の自発増殖がどういった作用をもたらしたのか、ここからは簡単なモデルを使って説明してみることにする。まず、考えているのは、なぜインフレだと好景気になるのか、という問題について。単純に考えて、好景気を社会を巡るモノの量が増えることだとするならば、好景気はデフレでなければおかしいのである。

貨幣量が100クレジット、モノが100単位流通している経済社会を想定することからスタートする。100単位のモノは毎年生産/消費されていく農産物その他。貨幣は消耗しないので、ずっと社会のなかを巡っている。その社会にイノベーションが起き、毎年200単位のモノが生産/消費されることになった。するとどうなるかというと、

図1 

物価は「1単位=1クレジット」から「1単位=0.5クレジット」へと下がる。これはデフレである。

ところが実際はインフレになる。ということは、好景気とは「モノの増加」以上に貨幣量が増加することを意味する。なぜそんなことになるのか。

今想定したのは、資本主義社会以前のイノベーションの在り方。誰かが新たな発明をすると、それがゆっくりと周囲に伝播していく。あるいは農地を開拓し耕作面積を増やす、などの方法が考えられる。

資本主義社会では、イノベーションの前に投資が必要になる。投資により新たな工場が建設されて生産設備が増強されることで、モノの生産量が増大する。この現象が、今考えているモデル社会で起こるとどうなるか。

投資に20クレジット必要だとすると
図2 

投資に回された20クレジットは一時モノの売買市場には出回らなくなる(右上)。が、工場建設がはじまって投資された資金が原材料費や建設作業員の給料として支払われると、投資資金は再び市場へ流通(右下)。工場が稼働するとモノの生産量は上がり、結局、図1と同じ状態になってデフレである。

では、近代資本主義社会ではどうなるか。

図3 

大きく違うのは、右上の時点だ。投資に必要な資金は創造されるのである。一般的には投資資金は市中の投資家から、すなわち経済循環の中から集めるとされる。ミクロで見れば事実だが、マクロで見ればまやかしである。貨幣が無から創造され(信用創造)、投資資金として経済に回される(右上)。投資された資金は、工場の稼働に先立って経済を巡るから(右下)一時的にインフレとなる。この一時的なインフレがずっと持続しなければならない経済社会。それが現代の強欲資本主義社会の姿なのである。右下から左下へ移行していくことが許されない。どんどん新しい投資を呼び込んでインフレを継続させ続けていかなればならない、極めてアンバランスな社会である。

ちなみに現在、日本を筆頭に世界経済のフェーズは右下から左下へと移行しつつある。現在進行しているデフレの実態はこれ。新たな投資に必要な資金は「資金需要」と呼ばれるが、特に今の日本ではこの「需要」が不足している。そのために、ごく当然の成り行きとして、フェーズが右下から右上へと移行しようとしているだけのこと。この当然の帰結が具合が悪い。

ここで考えるべきことが2つ出てくる。
  1.なぜ具合が当然の帰結が具合が悪いのか。
  2.なぜ右上から右下への一時的であるはずのフェーズが長らく持続したのか。
    また、なぜ持続しなくなったのか。

この続きはその3以降でということにしたいが、記事を閉じる前に少し追加説明。

図1~3のモデルは、社会のなかで生産/消費されるモノを一種類と仮定している。だが実際には、数え切れないほどのモノが社会を流通しているのは言うまでもない。1つの工場(農場なども含む)で生産できるモノの種類が一種類だとすると、モノの種類の数だけ工場は存在することになるし、一種類のモノを複数の工場で生産していることも多い。つまり工場は多数ある。

この多数の工場は、当然のことながら同時期に建設されるわけはない。次から次へと建設される。建設に着手された1つの工場は、図3の左上(工場建設着手前)から右上、右下を経由して左下(工場稼働)まで行き着く。上の説明で「右上からみぎしたの一時的なフェーズがずっと持続する」の意味は、(説明する必要はなかろうけれども)ひとつの工場がずっと建設中という意味ではなく、次から次へと新しい工場が建設されるということだ。

図4 

それを図示すると、上のような感じになる。右下から左下はデフレのフェーズで、ミクロの工場建設は必ずここへ移行するが、マクロでは次々に工場建設(=資金投資=創造創造)が持続されなければならない。あたかも右下から左上へとフェーズが跳躍しているようにしなければならない。近代資本主義の拡大再生産とは、この「跳躍」のことである。

食べものの安全安心は商品価値ではない

安全安心は商品価値なのか。特に食品のおいて。

このように問われて何のためらいもなく「Yes」と答えるのであれは、私はモンサントを批判する資格はないと考える。

安全安心な食品に高い価格を支払うべきだ。この主張は3.11後の現在、利があるように聞こえる。しかし、私に言わせればモンサントと同じ穴のムジナである。ただ、顔を向けている方向が違うだけのことだ。

食べものの安全安心は《いのち》に関わることだ。《いのち》は【商品】とは最も遠いところにあるはずのである。ゆえに、「安全安心」と商品としての価格は、直接的には関係ない。関係ないはずのことがどうしても関係してしまうこと。これが近代社会の病理である。

 『フード・インク』 安いのに安心安全なんてあるわけない (yamachanblog)

食はそもそもビジネスではありませんでした。「いただきます」とは、いのちをいだだくという意味であり、すなわち食べるとは、循環するいのちの連鎖の中に身を置くという行為です。食が身体をつくっていきます。日本人が、収穫を祝い、神さまにお供えしてきたのは、食という行為の本質を本能的に知っていたからでしょう。それはビジネスのように効率的なマーケットとは切り離された部分です。「食の工業化」とは、食品が本来いのちであることを忘れさせるものでもあります。


その通りである。だが、だからといって「安全安心が安いわけがない」なんてことは、いえない。安全安心でも安い。安全安心だからこそ安いということもある。「安全安心が安いわけがない」などと言ってしまえるのは、《いのち》のことをほんとうは知らないのだと思えてならない。

(同じことを引用されている津田大介氏のメルマガからも感じる。)

私たち夫婦が和歌山の過疎地で暮らしていた頃。安全安心な食べものはいくらでもあった。価格は関係ない。関係ないということはそもそも価格がつかない、つまりはタダということもあった。旬の時期だとタダでも食べきれないこともあった。そういう記憶を持っている人は日本にもまだまだ多くいるはずだし、そのような環境で暮らしている人もまだ少なからずいる。

価格がつかないというのは、純粋に自然の恵みだということもある。しかし、それがすべてではない。畑で手間ひまをかけて育てられた作物がタダで回ってくることもしばしばだった。

 〈作法〉という知の形 (愚樵空論)

手間がかかっているのになぜタダなのか。商品として流通システムに乗らないからなのか。それも一部あるかもしれないが、根源的には違うと私は思っている。《いのち》に対する手間は労働商品ではない。考えてみればいい。子どもと向き合う手間は労働なのだろうか。よしんば労働と呼んだとしても、それは商品なのか。子どもが長じたとき、その手間を金銭換算して請求するのだろうか。そうではないはずだ。その労働は贈与であるはずだ。贈与に価格はつかない。つけようがない。

特に都会で生活する現代人が見失っているのは、《いのち》に自分の「時間」を割くことの大切さである。そうなった理由は単純なものだ。time is monney.都会人だけではない。農家ですらそうである。いや違う。農業という産業を営む農家だからそうなのである。投下した労働商品に見合う価格がないと農業経営が成り立たない。

私は農家の消費者が変わるべきという意見には賛同しない。そもそも《いのち》に対して生産者/消費者という区分けは無意味であろう。《いのち》を生産する農家の労働に高い価格を付けろというのは、《いのち》を商品と扱うことに他ならない。やっていることは大企業と同じ次元だ。ベクトルと規模が違うだけだ。

くり返すが、こんなことになってしまった原因は、time is money.の【システム】が全域化してしまったことにある。その基軸は偶像と化し「本質化」してしまった貨幣にある。だから貨幣そのもののイノベーションが必要だと私は主張する。貨幣2.0を主張する。ソーシャルメディアは、そのための先駆に過ぎない。

だが。そのソーシャルメディアのパイオニアである津田大介氏にしても《いのち》に対する認識はお寒い限りのようだ。海外のレストランとの比較なんてどうでもいい話である。そんなところの問題の本質があるとは私には思えない。せっかく「共感」という《いのち》と近いところを広く水平的に伝播させることができるメディアが登場したというのに、これではその真の革新性が広く知られるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

それとも「ソーシャルメディアの革新性」なんて、私の幻想に過ぎないのか。

 参考:『情と殺生、理念と殺戮』(愚樵空論)

貨幣は偶像である

経済学の船出 貨幣についての最も合理的な記述は「貨幣は人間経済という非平衡開放系のなかに出現する散逸構造だ」という安富教授の指摘だと私は思っている。だが、昨夜ふと、これには大きな欠陥があることに思い至った。

散逸構造というのは「現象」である。しかし、貨幣経済の基軸に位置する貨幣を「現象」といえるだろうか。

(人にとって)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせずに、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。対義語は本質。(Wikipediaより


たとえば、竜巻という現象がある。竜巻は散逸構造であり、(外面的な)「現れ」である。その「本質」は空気という流体だ。空気に大きな気圧差が生じると、その差異を効率的に散逸させるために竜巻という「現象=構造」が生じる、というわけだ。

では、貨幣はどうだろうか。

貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。(Wikipediaより


貨幣はモノである。ということは、これは人間の意識の問題だが、「現象」とは対義の「本質」と捉えられているということだ。貨幣経済とは、貨幣という「本質」によって生じる「現象」ということになる。

これはどういうことか。人間経済は非平衡開放系である。そこに貨幣という「構造=現象」が出現する。ところが人間にとって貨幣とは「現象」ではない。「本質」である。ここに「飛躍」がある。そして貨幣経済とは貨幣が「本質」として振る舞ったときに出現する経済「現象」だ。ということは、本来の人間経済と貨幣経済とは、本質的に異なるものだということになるのではあるまいか。

このように改めて考えてみれば、竜巻のような「現象」と貨幣とが同じ散逸構造だという記述のおかしさは、直観的にも理解出来る。貨幣が散逸構造として出現してきたことに間違いはないだろう。だが、人間は「現象」を「本質」へと変換させてしまった。

「現象」を「本質」へと変換すること。この「変換」とよく似ているとのが「神の偶像化」である。

神を「現象」だと言ってしまうと大きな反発を喰らうかもしれない。(超越)神は信じる者にとっては「本質」に違いないからだ。ただし、これは人間には把握しきれない「本質」のはずだ。神の偶像化は、人間に理解出来る「本質」への変換である。だから、一神教はこれを厳重に戒める(キリスト教は例外)。

一方、神を「現象」とする捉え方は、神を信じない者には合理的に捉えられるだろう。信じる者にとっても、「本質」でありかつ「現象」でもあるとするならば、納得はいくだろうと思う。そう考えると、神の偶像化は信仰とは関係なく不合理なことだということになる。

私たちが経済活動において犯している誤りの根源は、ここにあるのではあるまいか。つまり、貨幣を偶像化してしまったことだ。

貨幣は散逸構造である。このことが正しいのだとしても、それは貨幣を本質化(偶像化)させてもよい根拠にはならない。それはむしろ貨幣というものの本質を逸脱することであるように思う。

貨幣が散逸構造として出現するということは、その母体(人間経済)は〈クラウド〉であるということだ。経済を動かす「主体」はあくまで人間であり、貨幣やモノを含む「情報」は、主体同士を繋ぐ「関係性」だということ。そうした〈クラウド〉が発展していく過程のなかで情報伝達を効率よく進める必要性が生まれ、散逸構造としての貨幣が出現した。

 参考:『再度、〈システム〉と〈クラウド〉』(愚樵空論)

ところが、現象であったはずの貨幣が本質化されてしまうと、経済は〈システム〉と化す。近代以前は〈クラウド〉としての人間経済と〈システム〉としての貨幣経済は共存してきたが、近代以降、〈システム〉は全域化して【システム】となり、同時に崩壊の危機に瀕している。【システム】は人間経済の在り方と本質的に合致しないであろう。

【システム】と化した経済を〈クラウド〉へと引き戻すには、貨幣のイノベーションが必要である。それは「本質化」してしまった貨幣を再び「現象化」させることになるはずだ。

「現象化」の具体的な方策で筆頭にあげるべきは、「減価する貨幣」であろう。貨幣価値が時間とともに減少してゆく「負の金利」とは、貨幣自体が流動すること、すなわち「現象化」である。逆に、貨幣が増殖する「正の金利」は貨幣が「本質」として捉えられているからこそ、可能となるものだ。

貨幣が「本質」から「現象」へ。貨幣経済が【システム】から〈クラウド〉へ。これこそパラダイムの転換であろう。

『文明の災禍』

文明の災禍 現代文明の在り方に行き詰まりを感じ取っていると自覚している者なら、読んでおいて損はない。読んでおくべき。

序文(供養――死者と向き合う)から読み進めていくと、「魂の次元」などという言葉が出てくる。私はこういった言葉を好むので特に違和感はないが、現代文明を論じるのに「死者」「魂」では抹香臭いアナクロニズムを感じてしまうかもしれない。実際、本書がアナクロなのは確かである。

しかし。

3.11以降、私たちは「アナクロ」に対してどういった言葉を対置できるのだろうか。少し前なら「ハイテク」であったろう。原発もその「ハイテク」のカテゴリーで括られるもののひとつだった。だが、今はどうか。「ハイテク」にどこか「アナクロ」な感じを抱かないだろうか。

リトル・ピープルの時代 本書が提起しているのは、そういった意識の変化。その意味では宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』と共通するものがあるが、『リトル・ピープルの時代』が知的な斬新さを感じさせるのに対して、本書はやはりアナクロ感がある。というのも、議論の基調が「身体」だから。そしてそれは知性の限界を語ることでもある。

(もっとも20世紀哲学において「身体論」は、最新の分野のひとつなんだけれども)

 さて、もう一度東日本大震災に戻ることにしよう。テレビから流れてくる津波の映像はみつづけていた私たちが受けた衝撃、それは「意識の衝撃」だけではななかった。眼をとおして身体もまた衝撃を受けていた。さらには生命そのものも危険を感じ、衝撃を受けた。仮に「意識の衝撃」を「知性の衝撃」と表現するなら、私たちは「知性の衝撃」と「身体の衝撃」「生命の衝撃」 を同時に受けたのだろう。
 そこに私たちの気持ちが説明できないかたちで重いもうひとつの理由がある。「知性の衝撃」は時間がたって冷静さを取り戻せば、その中味を考察することも、分析し整理することもできる。そうやって自分なりの対応方法もみつけだすことができる。ところが「身体の衝撃」や「生命の衝撃」は知性の力では処理することができない。何が問題になっているのかを明確に語ることができないのである。私たちは晴れないものを抱きつづけることになった。(p.31~32)


 近代以降の「民衆の時代」は「情報の公開」と一体的な関係を持っていたのである。あらゆる情報の公開は、民衆の時代=その意味で民主主義の時代の重要な要素、社会の要としてとらえられた。
 ところが東日本大震災以降の現実のなかで私が感じたものは、情報を大量に受け取ると人間は逆に適切な判断ができなくなる、あるいは判断自体がつかなくなる、という現象だった。そしてそれは、インターネット時代にはすでに発生していた現象でもあった。(p.68)


 自然から提供される情報は、その量がどれほど多くても、判断能力を失ったりバーチャルな情報に変わることはない。その情報を身体が受け取って判断するからである。
 東日本大震災以降私たちが受け取った膨大な情報は、このようなものではなかった。正確に述べれば、震災後に漁民や農民たちは、身体で受け取る情報もえていたのだろう。だから初めに述べたように、漁民たちはこれからも海とともに生きると、力強く宣言することができた。この言葉は知性によって発せられているが、この言葉に確信を与えているものは、その多くが身体の判断だろう。(中略) 身体は、いままでどおりに生きることが困難になった状況をも判断していたことだろう。だが、それでも、やれると身体は判断したのである。
 テレビや新聞やインターネットなどで情報を受け取った人々はそうはいかなかった。知性は怯えた。予測できない事態が展開したことに対して。(中略)。
 そして想定を超えた事態の展開が、映像からリアリティを奪い、多くの人たちはまるで映画をみているような気分になった。さらに膨大な情報が知性を埋めつくしたとき、その情報を処理できずに判断ができなくなるという事態も生み出された。(p90~91)


正直なところをいえば、この内山氏の議論にはある種の「バイアス」を感じなくはない。そのバイアスは例えば、

『ドイツに脱原発ができて日本にはできない理由』(ビデオニュース・ドットコム)

と比較してみると、宮台氏が繰り返し主張している知識社会への「バイアス」とともに、見て取ることが出来る。ここでは知性は怯えてなどいない。社会が受け入れられないリスクは受け入れるべきではないと、知性は明確に分析し、理性的に否定している。怯えているのは日本的知性である。

この両者の違いは、私は欧州と日本の霊性の在り方の違いから来るのだと考えているのだけれども、そして、近代社会でスタンダートと捉えられているのは欧州のそれだけれども、そうはいっても日本人として生まれ育ってきた私たちは、いまさらヨーロッパ人にはなれない。育んだ「バイアス」を今さら修正することなどできない。仮にできたとしても、数百年といった歴史的な尺度での年月が必要とされるだろう。明治維新以降の150年あまり、日本は例外的に順調に西欧化を進めてきたけれども、それでもこの体たらくなのである。

現代文明の行き詰まりとは、西欧文明の行き詰まりでもある。近代以降の西欧文明はもともとが欠陥品だと私は思っているけれども、それでも西欧の域内で留まっているならその欠点は克服されたかもしれない。だが、不幸なことに西欧文明はグローバル化した。ゆえにもともとの欠陥に加えて、「バイアス」の齟齬から生じるさまざまなミスマッチを生んでしまった。そのことが現代文明を終末的なものにしてしまった。

「バイアス」を持つことは悪いことではない。「バイアス」を自覚できないことが悪いことなのである。現代は、その「悪」が露呈し始めた時代だということもできるだろう。

その意味でいうなら、本書は知性の書だ。日本人の「バイアス」を示しているのだから。それがアナクロになる理由でもある。

敵 その2

その1でも冒頭で言ったが、私は敵/味方という二分法は好きではない。だが、どう見てもその視点に立って見た方が、腑に落ちる。今回取り上げるのも、そうした事例。

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自主避難、賠償額は8万円=子ども、妊婦は40万円―原発紛争審
時事通信 12月6日(火)16時50分配信

 東京電力福島第1原発事故の賠償範囲を検討する原子力損害賠償紛争審査会(会長・能見善久学習院大教授)は6日の会合で、避難指示などが出ていない地域から自主的に避難した住民への賠償額を一律8万円とする新たな賠償指針を決めた。放射線による不安や影響が大きい18歳以下の子どもと妊婦については40万円と認定した。
 対象は福島市、郡山市など、これまで賠償の対象地域とされてこなかった福島県内23市町村の住民。避難せず住み続けていた滞在者についても「被ばくへの恐怖や不安は無視できない」として、自主避難者と同額を賠償する方針を決めた。
 自主避難者らの賠償指針策定は初めて。ただ、賠償額や対象区域の根拠は不明瞭で、傍聴した被害者らから「実費で賠償しろ」などの怒号が飛び交い、会合は一時騒然とした。
 能見会長は会合後の記者会見で「金額が少ないという不満があるのは当然だが、実費の賠償は請求側にとって負担になるし、ある程度共通の損害としてこの金額にした」と指摘。今後、対象区域を拡大する可能性にも言及した。 


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この裁定はどう見ても被害者のためのものではない。加害者を救済するためのものだ。

一応、自主避難者も被害者であると認定はしている。だから「賠償」となっている。にもかかわらず、賠償が一律? その理由が「実費の賠償は請求側にとって負担になるし、ある程度共通の損害としてこの金額にした」とは、バカにするにもほどがある。負担になるのは請求される側であろう。

見方を変えよう。これは懲罰である。被害者であると認定しつつ、実質的な賠償は行なわれない。なぜ懲罰が下されるのか。政府の指示に従わずに勝手に行動したからだ。

だが、待て。懲罰を下されるべきはどちらなのか。被害者なのか加害者なのか。

中学校の頃だったか。歴史の授業で世界最古の法律には「目には目を。歯には歯を。」とあると学んだ記憶がある。ハンムラビ法典だ。これは報復刑といって、被害を受けた者は加害者に同等の報復が出来る。社会がそれを補償するというもの。ただしこれは素朴なもので、進歩した進歩した現代社会では、報復刑はもはや認められない。そんなふうに教わった。

その「進化」の挙げ句、現代日本では、加害者が被害者に懲罰を下すようになった。右の頬を殴られたなら、左の頬を差し出せ? クリスチャンが聞いたら激怒するだろう。

質の悪い冗談はよそう。加害者が被害者を罰する法などあり得るわけがない。そんな法が罷り通りなら、それはもはや通常の意味で「秩序ある社会」とは言えない。無法社会である。無法が既成の社会秩序の上に乗っかって、秩序あるように偽装しているだけだ。現代日本は偽装法治国家であり、内実はマフィア社会とでもいった表現する方が似つかわしい。

敵か。味方か。いくら表面が取り繕われようとも、内実が敵/味方に分かれてしまった以上、社会はもはや共同体ではありえない。マスメディアなどはこれからますます「頑張ろう、ニッポン!」といったスローガンを唱えるようになるだろう。戦前の「欲しがりません、勝つまでは」と同じような。

戦前は敵は外部にあった。すくなくも国民はそう信じていた。現代では、敵は内部に存在する。私たちが敵を養っている。いくら取り繕ろおうが、この事実にかわりはない。

それとも、国民の目を逸らせるために、外部に敵を捏造するか? 可能性がないではない。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』

《自己》とは関係性のアーカイブである――というようなことを、考えさせるアニメだ。


今年の4月から6月にかけての放映で、人気を博したらしい。泣けるアニメ。

私も泣いた。

この略称『あの花』と呼ばれるアニメは空気系ではないが、空気系の延長線上にあるものだと思った。空気系を掘り起こしたもの、とでもいえば良いか。

空気系の代表的作品『けいおん』で描かれていたのは「仲間と同じ時間と場所を過ごす」ということだった。そんな大切だがあたりまえのことを、高校生になってやっている。「なってから」なのか「なって」なのかは定かではないけれども、私のような世代からすれば、そんなことは小学校くらいで卒業して高校生になったら大人への準備でしょ、せいぜい大人になるまでのモラトリアムでしょ、とスルーされていくはずのことが、されずに大きな主題として描かれている。

『あの花』も主人公達は高校生である。しかし『けいおん』のような小学生じみた高校生ではない。私のようなオッサン世代が普通に想像してしまう高校生たち。

Wikipedia より引用。

あらすじ

幼い頃は仲が良かった宿海仁太本間芽衣子安城鳴子松雪集鶴見知利子久川鉄道ら6人の幼馴染たちは、かつては互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成し、秘密基地に集まって遊ぶ間柄だった。しかし突然の芽衣子の死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、それぞれ芽衣子に対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、高校進学後の現在では疎遠な関係となっていた。

高校受験に失敗し、引きこもり気味の生活を送っていた仁太。そんな彼の元にある日、死んだはずの芽衣子が現れ、彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。芽衣子の姿は仁太以外の人間には見えず、当初はこれを幻覚であると思おうとする仁太であったが、その存在を無視することはできず、困惑しつつも芽衣子の願いを探っていくことになる。それをきっかけに、それぞれ別の生活を送っていた6人は再び集まり始める。


幼い頃は仲良しだったけれども、少し大人になるとバラバラ。むしろ大人になって幼い頃の記憶から解放された後に、つまりは自意識がはっきりして、自身で選択することで出来た友人が本当の友人でしょ――というのが私などは「ふつう」の友人関係の在り方だと思ってしまうし、それからすると主人公たちの「それぞれの別の生活」は「あたりまえ」。でも、そんな「あたりまえ」だけが「あたりまえ」なわけではない。『あの花』は、それを教えてくれる。

めんま(本間芽衣子)は、小さい頃に死んだ。高校生になった主人公たちに現れるのは幽霊だ。じんたん(宿海仁太)にしか見えないめんまは、最初はそのじんたんにすら受け入れられない。マイナスの、もう一段マイナスからのスタート。それから まずじんたんがめんまを受け入れ、めんまを受け入れたじんたんを他の仲間が受け入れ、そしてめんまの「お願い」をみんなが受け入れる――といっても、実はそのめんまの「お願い」は、めんま自身も知らない。めんまの生前、その「お願い」はたしかにめんまの中になった。でも幽霊になって忘れている。めんまの「お願い」を受け入れるということは、めんまのお願い探しにつきあうことでもある。その過程でかつての「関係性」の記憶が掘り起こされていく。

ところで、「願い探し」というテーマは、『魔法少女まどか』と共通するものがある。それも、単に「願いを探す」というだけではなくて、探し当てられる願いの「形」までなぜか似ている。『まどか』の場合、それは母から受け継がれ拡大・純化された『希望の純粋形』だった。『あの花』も同じく、めんまの「願い」は母から純粋に引き継がれている。そして、その「願い」すると成就すると消滅してしまう(成仏する)ところまで、まどかとめんまは同じだ。

この共通性――希望を守ろうとする母性――は、「関係性」のアーカイブを掘り起こし《自己》を確立しようとする人間の〈魂〉の営為にどこか深いところで繋がっているのだろう。さらにはコミュニケーションにおける水平型/垂直型を繋ぐ鍵を握っている。

 『コミュニケーションの水平型/垂直型』(愚樵空論)

ここからは前エントリーでの議論を引き継ぐ形で考えてみる。

右図は、前エントリーでの図(左)の発展形。複数の《器》に同じ他者が関係している形になっている。『あの花』に即していうと、〈他者〉に相当するのはめんまであり、《器》はじんたんやそれ以外の仲間たちということになる。

幼い頃、彼らが「超平和バスターズ」なるものを結成していた頃は、彼らの関係は互いに右図のような形になっていた。ところがめんまがいなくなり、それぞれがバラバラになると、関係図は次のように変化する。

めんまは居なくなった。すなわち「外界」から消滅した。だが、めんまの像はそれぞれの《器》の中に《霊》として残っている。とはいうものの、もはやめんまは居ないので、それぞれの《器》の中に残っためんまの《霊》は仲間たちをつなぐことができない。『あの花』の物語はこの状態からスタートして、上の状態へと回帰していこうとするものだ。

もちろん一端存在しなくなった者が再び復活することはあり得ない。だからめんまは幽霊である。いかにもアニメ的な「設定」だ。アニメやマンガをSF小説のようなものを鑑賞する際、このような「設定」の意味を問うてはいけない。問うべきはその「設定」が何を訴えようとしているか。『あの花』では、幽霊であるにも関わらず以前と同じ仲間として受容すること。ここの意味を見出さなければならない。

このめんまの「受容」は、当然のことながら主人公たちの内面に変化をもたらす。それは、めんまの《霊》と再び――めんまの死によって一度封印されてしまった――コミュニケーションを始めることでもたらされる。各々の《器》のなかのめんまの《霊》とのコミュニケーション。これは垂直型である。主人公達は、各々で垂直的にコミュニケーションを始めた結果、その結果を共有せずにはいられなくなる。各自バラバラにめんまの《霊》を抱えていることができなくなる。水平的コミュニケーションが自ずから生じてゆくことになるのだ。

このコミュニケーションにおける垂直/水平転換は、めんまが幽霊として「設定」されたからこそ明瞭に浮かんできたものだ。多くの場合、めんまに相当する存在は外界にまだ存在している。そのためにかえって《器》のなかの《霊》を発見できない。《霊》を発見できなければ垂直的コミュニケーションも生じない。水平的コミュニケーションは内発性を失って形骸化してゆく。現代社会に蔓延している病である。

「空気系」アニメはコミュニケーションが形骸化した現代社会において、水平的コミュニケーションの重要性を描き出す役割を担った。『けいおん』が示したのは、何らかの明確な目標・実現しうる目標を持つことを持つことの重要性よりも、コミュニケーションを目的とするコミュニケーションの重要性だった。だが、そこのはコミュニケーションの内発性までは描かれてはいなかった。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』には、それが描き込まれている。

すなわち、『あの花』が示したのは、「共同体の作り方」である。“共同体は作るものではなく、育てるものだ”というが、その意味するところは、「明確な目的としての共同体」は建設できない。共同体建設目標は、共同体を生まないということだ。共同体は、メンバー各々の垂直的コミュニケーションの結果として内発的に生じる水平的コミュニケーションによって作り上げられる。垂直的コミュニケーションは同時に各々の《器》のなかの「関係性」のアーカイブを掘り起こすことになるから、共同体の成立と各自の自己確立とは同時並行で進むことになる。

このことは、『あの花』の物語から容易に想像がつくだろう。めんまが成仏した後、主人公たちは彼らの共同体を再建するだろう。同時に、彼らは「自身の個」をそれぞれ確立するに至る。「個」であることが共同体のメンバーたる資格なのである。

アニメが示したこの結論は、個と共同体とを巡る凡百の議論を超えていると私は思う。個が先か、共同体が先か、ではないのである。個と共同体とは社会的な動物である人間の、両面なのだ。人が人間という生き物になったときの、一面が「個」であり一面が共同体なのである。「個」が共同体たり得たとき、言い換えれば《器》のなかの《霊》を治めることができたとき、人は「人間」になる。政治とは、個と社会とに関わりなく、《霊》を治めようとする営為に他ならない。

現代社会は、治めるべき《霊》が存在しない乾いた世界。【強欲】が支配するのも当然の成り行きだ。

【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その1

もうこのタイトルだけで十分なような気もするが、それではエントリーにならないので続きを書く。

【強欲】が「強いられた欲望」だとするならば、一体、誰に強いられるのか。

答えは2つある。
ひとつは【自我】。もうひとつが【システム】。

まず、【自我】の観点から答えてみる。

人間には《自己》と【自我】とがある。《自己》とは「魂(タマシヰ)の器(ウツワ)」。あるいはインターフェース。この「器」のなかに入るのが〈他者〉だ。【自我】は〈他者〉の一に過ぎないが、特別な〈他者〉ではある。〈他者〉の筆頭が【自我】。

自己他者 (〈他者〉は一般的には(唯物論的には)《自己》の外側の外界に存在すると捉えられるが、ここでは〈他者〉は外界と〈器〉の中に跨がって存在すると考える。〈他者〉は《自己》へと貫入してくる。《自己》へ貫入したつまり〈器〉のなかの〈他者〉を特に《霊》という。《霊》は〈他者〉が外界から消滅してもなお〈器〉の中に残存する性質がある。また、〈他者〉とは〈器〉の中に入るあらゆる「モノ(物・者)」を意味する。他者∋他人である。)

(ウツワの中をウツロイ、他のウツワへもウツッテゆくモノが《霊(チ)》なのであろうか。しわさんの解釈を伺ってみたいものだ。)

《自己》は「欲求」を持つ。〈器〉が満たされたいという欲である。〈器〉が大きな人ほど欲も大きいが、充足されれば治まる欲でもある。

『無意識の構造』 【自我】が持つのは欲望である。この欲は、〈我〉の〈他者〉の筆頭として位置づけたいという欲だ。〈器〉のなかの《霊》を比較し、〈器〉のなかを【自我】を中心に序列付けたいとするのが欲望である(右掲図、西洋人の意識)。

しかし、この「欲望」は意識されることがない。無意識のうちに欲してしまっている。「欲求」は渇望すると意識され、充足すると治まり意識から消える。だが欲望は渇望していても意識されない。自身の〈器〉に意識を向けない限り意識されることはない。 これが「強いられた欲望」の意味である。通常、欲は欲求で欲望であれ、意識される。意識されていることは自発的に感じられる。だから欲は通常、自発的であり強いられていると感じられることはない。「強いられた欲望」とは矛盾した謂いに感じる。

が、実態は違う。知らない意識されないうちに欲している。意識されないから制御も出来ず、また治まることもなく、強いられることになる。

なお、意識されず強いられていることを【隷属】という。【強欲】に捉えられている人間は、意識することなく【自我】への【隷属】を強いられ、《霊》を支配しようとする(《霊》の支配は「呪い」である)。《霊》とは「器」に貫入してきた〈他者〉の一部。すなわち【強欲】は無意識的・必然的に〈他者〉をも【隷属】させようと振る舞うよう強いることになる。
友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学
【強欲】が闘争の根源というわけだ。

だが、【強欲】からの闘争は、社会が発展したこと――人口が増加したこと――で必然的に引き起こされてきた現象でもある。それは人間の脳の能力の限界から来ている。

右掲書の著者ロビン・ダンバー氏は「ダンパー数(概ね150)」というものを提唱していることで知られている。すなわち人間が「気の置けない関係」を取り結ぶことが出来るのは、たいたい150人くらいまでだということ。これは大脳新皮質の処理能力の限界からくるという説である。「気が置けない」のは処理能力の限界内に収まっているから。

この仮説と「魂―器(インターフェース)―霊」仮説を併せて考えてみる。

〈器〉のなかの《霊》は互いに関係性を取り結ぶ。《霊》が10個だとすれば、「関係性」の数は45個(右図)。ダンパー数150が〈器〉のなかの《霊》の数であるとすると、「関係性」の数は11,175。このあたり数が大脳新皮質が処理できる「関係性」の限界だと考えることができるだろう。

処理できる関係性の数をそのままに、要素(霊)の数を増やす方法がある。それは「システム化」することだ(左図)。この方法を採用すれば、単純に考えれば、同じ大脳新皮質の処理能力で11,175の要素(霊)と「関係性」を取り結ぶことが出来る。「関係性」の集中点に位置するのは、もちろん【自我】である。

(私は右上図を〈クラウド〉と呼び、左図を〈システム〉と呼んだ
    → 『再度、〈システム〉と〈クラウド〉』(愚樵空論)

銃・病原菌・鉄 人類社会が発展して血族集団(バンド)から部族社会(トライブ)へ、首長社会(チーフダム)、そして国家(ステート)へと移るにつれ、「器」のなかの構造も〈クラウド〉から〈システム〉へと移行していかざるを得なかった。これは脳の限界からくる「適応」であり、「適応」とは意識せずに強いられるものでもある。

だがしかし、この「適応」は人間の本来的な社会性に沿わないところがどうしてもある。人間の社会性はそもそも〈クラウド〉志向だからである。〈システム〉ではどうにも〈器〉は満たすことができない。〈器〉のなかの《霊》が多様な関係性を保ってこそ、〈器〉は満たされる。しかし、否応なしに〈システム〉型への「適応」は強いられる。そこで少しでも「関係性」を増やそうとより多くの《霊》を支配しようとする。能力限界まで増やそうとする。

紀元前5,6世紀に相次いで誕生した世界宗教は、こうした〈システム〉と〈クラウド〉の矛盾を解消するために生み出されたのかもしれない。この際に世界宗教が採用した方法が【自我】を滅すること。

西洋型一神教は、超越的な絶対他者(=GOD)を想定することで、特別な〈他者〉である【自我】を筆頭の位置から引きずり下ろそうとした。そして絶対的他者との比較で【自我】を相対的に小さくしていこうとした。この方法論が「神の前では平等」、つまり人権理念を生み出し、今日の民主主義にまで繋がっている。

東洋型多神教は、仏教を例に取ると、【自我】を「空ずる」方法を選択しようとした。

いずれにせよ、強大な〈システム〉適応圧の前に余り成功したとはいえないようだ。特に「近代」以降、社会がますます〈システム〉化するにつれ、神も仏も過去の遺物と化し【強欲】が蔓延るようになってしまった。

以下、その2へ続く。その2では、【システム】が強いる【強欲】について、答えてみることになる予定。

これって、ガラパゴス。

本日は毛色を変えて、とある陶芸展のご紹介。といっても、普通の紹介ではないことはいうまでもない。

実は私の義父義母が陶芸倶楽部を主催していたりする。会員数は30人に届かないくらいだろうか。倶楽部では日々会員達が思い思いに作陶に取り組んでいる。私はと言えば雨で仕事が休みだったりするとよくお邪魔するのだが、本当にお邪魔で、お茶をするくらいのもの。手を出したのは、主催の義父から“炭化焼きに松の木が欲しいんだよな”と言われて、現場から調達したくらいのもの。

雄央窯 その倶楽部が毎年12月、作陶展を開く。そこで感じたことをちょいとばかし記してみようというのが、今回のエントリーの趣旨というわけだ。

倶楽部はもちろん、素人の集まりである。プロの作家は、主催の義父義母を含めて、いない。プロ作家を目指している者ものいない。あくまで自分たちの楽しみのための倶楽部。とはいえ、一応、作陶展に際してはみんな「作品」を作る。それは「お約束」みたいなものというか、いくら好きでやるとはいっても、そのような「構え」は必要というか。


   ← こんな作品とか、あるいは ↓ こんな作品とか。













正直なところ、私には「作品」の良し悪しはわからない(とはいえ、素人目にはかなり上等なものに見える)。私に感心があるのは、むしろこちらの方。

 


ごちゃらこという感じで「作品」ではなく「商品」が並んでいる。

いくつかズームアップしてみると、

   

   

こういった“ごちゃらこ感”が、なんだか「ガラパゴス」という感じがして仕方がない。それも、「元祖」と接頭語を付けたくなる。

ものに生命を与える日本人

ブラウン 江戸時代のデザイン文化は多彩だったでしょう。
松  岡 とても多様多彩多技でした。
ブラウン それがなくなったのは、大量生産になったからなんでしょうね。聞いた話ですが、明治時代、たとえば焼物屋さんや金属細工師は芸術的にレベルの高いも のをつくっていたけれども、海外に向けてたくさん売りたいということで、つくりやすいものをスタンダードにしてしまった。それが当時、日本に来た外国人が非常に残念がったことなんです。
松  岡 マスプロダクト、マスセールの問題だねえ。
ブラウン そう。当時、来日したヨーロッパ人は、日本の技術の高さに圧倒されたんです。日本の細工のレベルは、ヨーロッパの人にとっては母国では見られないほどにすぐれていたんですね。残念ながら、明治のころから日本の経済システムはグローバリゼーションの勢いで、すぐれた細工技術を置き忘れてしまいました。


この倶楽部作陶展で並べられた商品の数々は、江戸時代・明治初期の多様性、技術水準には到底及ばないだろう。けれども、その面影を想像することはできるのではないのだろうか。このごちゃらこと並んだ「商品」の塊に。それぞれに作り手の創意工夫が込められている。ひとつとして同じものはない、ガラパゴスな塊。当時日本を訪れた異邦人達は、そんな「塊」がそこここに目撃したのではなかったのだろうか。

当時と今とで最も異なるのは、しかし、多様性や技術水準ではあるまい。このガラパゴスな「塊」が出現した経緯であろう。「塊」を形成するひとつひとつの品物には一応価格が付けられていて、「商品」の体裁が取られてはいる。が、それはあくまで体裁。倶楽部はもとより利潤を追求しているわけではないから、企業経営的に成り立っているわけではない。仮に「商品」がすべて売れたとしても元は取れない。この「塊」は、あくまで作り手達の趣味・道楽から出現したものだ。だから、ガラパゴスであることは当然であるとも言える。

しかしかつてのガラパゴスは、企業経営的な営みの中から出現したものだった。しかも経済的に余裕のある富裕層を対象にした経営ではない。対象はふだんは懐が寂しい庶民を相手にしたものだった。だからこその“ごちゃらこ”だったはずだ。そんな商売で大きな利潤が上がったはずはなかろうが、それでも再生産できるくらいの儲けにはなったろう。そうでなければ経営的に成り立つはずがない。

そうした経済の在り方の豊かさ。私が想像したのはそこだ。現在のように次々と買い換えられていくほどに【商品】があふれかえっていたわけではなかっただろう。現在の水準かすれば【商品】の物資量は圧倒的に少なかったはずだ。だが、物質的なモノに付随して〈世界〉を巡っていた精神的なモノ――私はこれを《霊》と呼ぶが――はどうだろうか。昔のほうが圧倒的に豊かだったのではないだろうか。

倶楽部の《商品》には作り手の《霊》が込められている。何も作り手はそのように意識したわけではあるまいが、《霊》というのは《仕事》がなされていれば知らずにのうちに憑依するものだ。そしてその《霊》は、商品に価格が付けられることで作り手との繋がりは断ち切られている。

だが《霊》そのものがなくなってしまったわけではない。購入者は《商品》にやどった《霊》を自分のモノとして《生活》を豊かにするのに役立てることが出来る。

かつての〈世界〉は、そうした《霊》に満ちあふれていたのだろう。私はそんなふうに想像した。

敵か味方か。 こういった二分法は、あまり好みではない。

誰かを「敵」だと認定して攻撃、叩きのめす。これが成功したときの快感は知っている。この快感はなかなか断ちがたいものがある。だが、その快感に溺れている自分を想像すると、嫌になる。だから、できるだけ敵/味方の二分法は使いたくないと思う。

だが、敵はまちがいなく存在する。好ましからざる快楽を禁ずるあまり、間違いなく存在する敵を見落としてはならない。ここのところ、その思いを強くしている。

では、敵とは何者を指すのか? 不快な思いをさせる相手は敵ではない。見解が異なり意見が対立する。時には人格攻撃にまで及んだりする。そうした相手は不快なだけで、敵とは言わない。彼らは私の存在を脅かしはしない。

そう。私たちの存在を脅かす者は敵である。

一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、一片の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。カルネアデスの舟板だ。

殺した男は殺された男を日頃から不快に思っていたわけではない。不幸にも、互いが互いの生存を脅かす存在なってしまった。敵になってしまった。

マル激を視聴していて何度か聞いた小出裕章助教のエピソード。原発の危険性について、小出氏は同業の上司や同輩と何度も議論をしたそうだ。が、負けたことは一度としてなかったという。そんなとき、相手は必ずこう言ったという。

「小出君、僕にも家族がいる。生活があるんだ」

宮台真司氏はこの非倫理性を繰り返し批判しているが、もし、福島での事故がなかったとしたら。自身の生活を優先する姿勢は科学者として非倫理的と言わざるを得ないが、それでもその者はまだ我々の敵ではない。福島の事故を受けて、その態度を改めたのであれば、敵であることからは免れる。しかし、福島の事故を受けてもなお、態度を改めたいのであれば、もはや彼らを我々の敵であると認定する他ない。

私たちにも彼らにも、家族はいるし日常の生活は変わらすにある。それは3.11の前であろうが後であろうが、変わらない。にもかかわらず、彼らは我々の敵になってしまった。これは快不快の問題ではない。彼らが変わらぬ日常を過ごそうとするのであれば、彼らの既得権益を守ろうとするのであれば、我々の日常が冒されていく。私たちはそういった世界の中に突入してしまったということだ。

 『「放射能は無主物」と言ってしまえる哀れさ』(愚樵空論)

東京電力が放射能を無主物だと主張する背景にあるのはなにか。我々が関心を持つのは、その論理の「正しさ」などではない。なにゆえにそうした論理を繰り出してくるか、その「意図」である。彼らが意図しているのは、彼ら自身を守ること。たとえ我々の日常を冒しても。もともとの原因が彼らの【強欲】にあったとしても、それを認めるわけにはいかない。認めてしまえは彼らは同じ日常を送れなくなる。我々が同じ日常を送ろうと思えば、彼らに非を認めさせ償いをさせなければならない。もはや同じ地平には立てない。

これと同じような構図が、先日沖縄において、「またもや」というべきだろう、露呈した。

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琉球新報 2011年11月29日

「犯す前に言うか」田中防衛局長 辺野古評価書提出めぐり


 沖縄防衛局の田中聡局長は28日夜、報道陣との非公式の懇談会の席で、米軍普天間飛行場代替施設建設の環境影響評価(アセスメント)の「評価書」の年内提出について、一川保夫防衛相が「年内に提出できる準備をしている」との表現にとどめ、年内提出実施の明言を避けていることはなぜか、と問われたことに対し「これから犯しますよと言いますか」と述べ、年内提出の方針はあるものの、沖縄側の感情に配慮しているとの考えを示した。
県などが普天間飛行場の「県外移設」を強く求め、県議会で評価書提出断念を求める決議が全会一致で可決された中、県民、女性をさげすみ、人権感覚を欠いた防衛局長の問題発言に反発の声が上がりそうだ。
 田中局長は那覇市の居酒屋で、防衛局が呼び掛けた報道陣との懇談会を開いた。報道陣は県内外の約10社が参加した。
 評価書の提出時期について、一川氏の発言が明確でないことについて質問が出たとき、「これから犯す前に犯しますよと言いますか」と発言した。
 懇談会終了後、沖縄防衛局は、琉球新報の取材に対し「発言の有無は否定せざるを得ない」と述べた。
 沖縄の米軍基地問題に関連し、女性をさげすむ発言は過去にも問題となった。
 1995年9月に起きた少女乱暴事件後の同年11月、リチャード・マッキー米太平洋軍司令官(海軍大将)が同事件をめぐり、「全くばかげている。私が何度も言っているように、彼らは車を借りる金で女が買えた」と発言し、更迭された。
 田中局長は1961年生まれ。大阪大学法学部卒。84年旧防衛施設庁入庁。那覇防衛施設局施設部施設企画課長、大臣官房広報課長、地方協力局企画課長などを経て8月15日に、沖縄防衛局長に就いた。
 田中局長は非公式の懇談の席で発言したが、琉球新報社は発言内容を報じる公共性、公益性があると判断した

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琉球新報社は、非公式な懇談の席での発言であるにもかかわらず、なぜ「公共性、公益性がある」と判断したのか。翻って、同席した他者は報じなかったのか。「公共性、公益性」などという言葉は方便でしかないと私は思う。問題は、敵か味方か。琉球新報社は、元沖縄防衛局長を「敵」だと見なした。だから一面トップで報道した。なぜ他社は敵とは思わなかった。だからスルーした。そもそも「非公式な懇談」は味方であるからこそであろう。

「これから犯す前に犯しますよと言いますか」

フルメタル・ジャケット このセリフがなぜ醜悪なのか。自身が犯す相手の敵であることの「自覚」が傲慢とともに読み取れてしまうからだ。相手への思いやりなどないのは当たり前である。敵なのだから。敵に情けをかけていては踏み潰すことなど出来ない。だから、敵と戦うために戦地へ赴く兵士は、敵を踏みつぶすことができるように「改造」される。

「改造」は醜悪である。だが、戦争なら大義名分がなくはない。敵は戦地にいる。例え捏造された敵であったとしても、だ。

だが、沖縄は戦地ではない。日本は平和(ボケ)の国である。国内外に敵などいない。にもかかわらず「自己改造」した者たちがいる。醜悪なのはこの「自己改造」だ。

件の元局長は直ちに更迭された。この理由は「自己改造」してしまったことではない。「自己改造」を公言し、それが公に報じられてしまったからだ。沖縄を敵と見なしていることは隠蔽されねばならない。それが綻んだ。だから更迭された。

この更迭人事は、政府の隠された沖縄敵視政策を撤回することを意味しない。その証拠に、米軍普天間飛行場代替施設建設の環境影響評価(アセスメント)の「評価書」の年内提出の方針に変更はないと繰り返しアナウンスしている。更迭人事はビ弥縫策なのだ。「沖縄の皆さん、これでまた騙されて下さい」ということなのである。昨夜、防衛事務次官が沖縄を訪問したという報道が為されていたが、意図するところは同じだろう。どこまで人をバカにすれば気が済むのだろう。
(さすがに沖縄県知事は、もはや騙されるつもりはないと(暗に)表明したが。)

・・・・・・

敵を叩きつぶす快感が湧き上がってきたところで、少し冷静になってみる。

他人を敵/味方に二分し、敵を叩きつぶす快感に溺れるのは嫌いだ。これは理性が暴走して感情を巻き込むことだからだ。だが、そうした問題とは別に、敵は存在する。否応なく存在してしまう世界で私たちは暮らしている。この「事実」と理性的に捉えたからといって、理性を暴走させてしまうのならば、この世界は否応なく嫌な自分でいるしか選択肢はないことになってしまう。だが、やっぱりそれは嫌だ。だから考え続ける。

問題は、なぜ敵が生まれたか。ここでいう敵は、外敵ではない。私たちを侵略しようと海の向こうからやって来たわけではない。彼らはもともとは私たちだったのである。東電も官僚組織も、同じ日本人だ。なのになぜ、「我々」と「彼ら」に別れたのか。この問いは「なぜ格差が生じたのか」という問いと同じものだ。

答えは【強欲】のなかにある。【強欲】なのは彼らだけではない。我々も【強欲】は共有している。それとは気づかないデフォルトになってしまっている。彼らは「努力」をして、【強欲デフォルト】により適応した者たちだ。この適応が「自己改造」である。【強欲】は強欲であるがゆえに、共同体全員を【強欲】であることを許さない。私たちは【強欲】をデフォルトにしてしまったがために「我々」と「彼ら」とに分離してしまった。「彼ら」は【強欲】であり続けることの出来るポジションを勝ち取ったのである。

【強欲】は、かつては「夢」という衣装を纏っていた。原子力は夢のエネルギーであった。新幹線は夢の超特急であった。【強欲】であり続けたい者は、まだ夢の続きをみようとしている。原子力は欠かせないと言い、次の夢としてリニアを建設しようとしている。

風の谷のナウシカ 「私たち」がその【強欲】をなおも共有しようとするのなら、「彼ら」と「我々」との隔りはより大きくなるばかりだ。そしてついには 「私たち」が消滅することになるだろう。これを亡国という。私たちは今、その道を辿っている。

この道から外れることは難しい。私たちは【強欲】以外の在り方を忘れてしまったからだ。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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