愚慫空論

ロックは、やっとロックになった

今朝は、こちらを取り上げてみるつもりだったのだが、急遽予定を変更。

ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
  by ピート・タウンゼント


 『それでもロックが好きなんです。』(yamachanblog)

なんだか懐かしいな、このセリフ。もうひとつ、ついでに。

生きてることを喜ぶことを罪ではないと信じる
  by ブルース・スプリングスティーン


私はロックが嫌いだった。何より音が耳障り。耳障りという印象は今でも変わらないけれども、それにはそれなりの意味があるのだということは理解出来るようになった。その理解の扉は、ブログをやっていることで開かれた。ロックへの共感は、ロックに共感を持つ人への共感によって、開かれた。

 『音色に哭く』(愚樵空論)

おっと、話が少し逸れたようだ。

「悩んだまま踊るのがロケンロール」。なめぴょんさんから最初に教わったこのビート・タウンゼントのセリフに私は大いに共感するとともに、実はかすかな違和感を感じていた。その正体が今回、判明した。

今の時代、音楽雑誌が機能しているとは、あまり思えないというか。機能の仕方も変わってきている。昔は“クラスタ”って言葉もなかったし、メディアとして“熱い”ものだったと思うんだけど。うまく言葉にできないけど中央集権的という意味で。

(『それでもロックが好きなんです。』より孫引き。下線は愚樵)

そう。ビート・タウンゼントのセリフは、その内容は分権的。であるにも関わらず、タウンゼント自身は中央集権的なものを背景にして発言しているし、そのこと自体気がついていない。

現在、その中央集権的なもの、「ビッグ・ブラザー」的なものは「壊死」してしまった。

2008年。ニール・ヤングが自作のドキュメンタリー映画『CSNY Deja Vu』の記者会見でこう語った事が、ちょっとしたニュースになりました。

音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った。今、この時代にそういう考えを持つのはあまりにも世間知らずだと思う。


「音楽で時代を変える」という幻想は、音楽が「ビッグ・ブラザー」として機能と夢見ていたということだ。

(ニール・ヤングは「世間知らず」と言ったらしいが、そのヤングは歴史を知らない。音楽がそもそも「ビッグ・ブラザー」として機能しえないのは、ナチス・ドイツとウィルヘルム・フルトヴェングラーとの闘争の歴史を知っている者にとっては自明のことだ。)

ロックに限らず、音楽はそもそも「リトル・ピープル」のものである。それが今ではビッグ・ブラザー的な衣装を纏っていた。フルトヴェングラーもタウンゼントもヤングも、それが衣装だったと気がつかなかっただけだ。なぜ気がつかなかったのか 。それはバイアス、言い換えれば「気分」だったからだ。現代は、この「気分」が「ガラパゴス化」したのである。

ここにおいて、ロックはロックになった。タウンゼントが示した「俺達の悩み」はリトル・ピープルの悩みであり、リトル・ピープル(≠大衆)はガラパゴスである。

今は誰もが個人として、社会に対して、いろんな責任を果たそうという意識が強くなってきたよね。誰もが24時間生活して、家族を支えること以外に、いい意味で、社会の一員としての責任を果たすべきだと思うようになったし、悪い意味ではどこか強迫観念的にそう感じるようになった。そこをちょっと批評的に捉えたい。僕自身、社会の一員として世の中で起っていることに意見しなければいけない、加担しなきゃいけないってオブセッションがすごく強い時期が10年くらい前にあって。でも、今はむしろ逆で、自分のドメインに徹したいという意識が強い。自分っていうのはポップミュージックが作り手から送り手に伝わっていく媒介として存在している。その小さなドメインに徹すること。それは結果的に社会のひとつのモデルとなって、直接的に社会の一員としてのいろんな活動を行わなくても、何かしらのヒントになりうるんじゃないかって考えてる。もしくは、社会の一員として考えているアイデアみたいなものも相似形として自分の活動の中に反映されるようなことをやるんだろうな。

これって「新しい公共」の概念ですよね。「公」と「私」の境界が曖昧になるというか、どちらも双方の要素を含んでおり絡み合っているというか有機的というか。


ドメインに徹することのなかで、「個を確立」する。リトル・ピープルは、垂直的に個を確立するのである。

4度目(笑)。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


「新しい公共」とは、なんのことはない、つい最近まで日本にあった地域共同体の相似形である。ただ、現代のそれは、「地縁に縛られない。「電縁」を通じて形成されていくのである。

山やまさんの記事には、「ハシズム」についても触れられているので、私も言及しておこう。

「橋下イズム」と「ティーパーティー」その同時代性 - ニューズウィーク日本版より

まず、橋下新市長が「どうして日の丸・君が代にこだわったのか?」

「日の丸・君が代」で攻めれば「敵はきっとイデオロギーから反発して感情的になる」だろうというのが彼等の「狙い」なのです。そうして「庶民の生活レベルの話や、大阪全域の経済再建」などの実務的な、具体的な政策論を説く代わりに、イデオロギー的な橋下批判に彼らが専念すれば「シメシメ」という作戦です。

 イデオロギー的にカッカすることで、「反独裁」とか「反ファッショ」などという絶叫しかできない場所に追い詰められ、それが正義だと我を忘れた「反橋下」陣営を見ていると、中間層は選挙戦の展開を見ながら、これでは自分たちの民生向上にも閉塞感打破にも「全く役に立たない」という風に見てしまったわけです。

こうなると完全に橋下氏の「思うツボ」です。一旦自分たちがモメンタムを獲得してしまえば、反対派が「反独裁」を叫ぶということは「漠然と橋下支持を固めた中間層」に対して「お前たちはバカだ」と見下しているということになり、「叫べば叫ぶほど票が逃げていく」無限の循環に陥るからです。


つまりだ。「ハシズム」とは「アンチ・アンチビッグ・ブラザー」なのである。ビッグ・ブラサーが(気分的には)「壊死」した現代において、「橋下徹」を「ファシズム=ビッグ・ブラザー」だと見なしそう叫ぶことは、かえってリトル・ピープルへと「解体」しつつある大衆の「アンチビッグ・ブラザー」気分を呼び出すことになってしまう。「ハシズム」はそこを見透かし、「気分」で票を獲得した。そういう話だ。

(この「手法」はもしかしたらかつての自民党的な方法なのかもしれない。つまり、共産党という「アンチビッグ・ブラザー」を利用して、票を獲得するという手法。自民党にとって共産党は、自身の「気分的」存在意義を浮かび上がらせる存在だったということだ。「ハシズム」は、それを拡大適用した。)

(アンチビッグ・ブラザーがかえってビッグ・ブラザーを呼び出してしまうという議論は、右掲書における萱野稔人氏の国家主権を巡る議論と同型である。)

だが、この「ハシズム」もいずれ見透かされるだろう。どうしようもなくビッグ・ブラザー幻想を囚われてしまった「古い世代」はいざ知らず、リトル・ピープルの自覚を持つ「若い世代」には通用しなくなるだろう。
(言うまでもないが、「古い」「若い」は年齢のことを指しているわけでない。)

これまで民主主義は、多数決と少数意見の尊重という相反する要請をアウフヘーベンするものだと捉えられてきた。つまり、少数意見をビッグ・ブラザーに繰り入れることが民主主義だと考えられきたわけだ。だが、リトル・ピープル時代の民主主義は必ずしもそうではない。少数意見は、「少数」としてではなく、独立した見解として独自(政府とは独立して)、政治を執り行っていく。その可能性を示唆したのが、東浩紀氏の最新書ではないかと私は捉えている。

もっとも、その可能性があるからといって「一般意志1.0」によって駆動されるナショナリズム的政治(1.0)の意義が消滅し、置き換わっていくということではない。たとえば原発問題などは、どうしても健全なナショナリズムを機能させなければ解決できない問題だ。ただ、民主主義=政治の概念がもっと拡張され、政治へのコミットメントの機会がずっと広くなるという話。

それは、ロックがロックとなった時代、それぞれの悩みはそれぞれに共感を得つつ解決するしていく、「リトル・ピープルの政治」であろう。

「放射能は無主物」と言ってしまえる哀れさ

当エントリーは『「悲しみの森」と言ってしまえる哀しさ」の類似エントリーである。

ネタ元も同じ、朝日新聞。

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朝日新聞(2011/11/24)
プロメテウスの罠  無主物の責任(1)

放射能はだれのものか。この夏、それが裁判所で争われた。
8月、福島第一原発から約45km離れた、二本松市の 「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」 が東京電力に、汚染の除去を求めて仮処分を東京地裁に申し立てた。
――事故のあと、ゴルフコースからは毎時2~3マイクロシーベルトの高い放射線量が検出されるようになり、営業に障害がでている。責任者の東電が除染をすべきである。対する東電は、こう主張した。
――原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。
答弁書で東電は放射能物質を「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」としている。
無主物とは、ただよう霧や、海で泳ぐ魚のように、だれのものでもない、という意味だ。つまり、東電としては、飛び散った放射性物質を所有しているとは考えていない。したがって検出された放射性物質は責任者がいない、と主張する。

さらに答弁書は続ける。
「所有権を観念し得るとしても、 既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者 (東電) が放射性物質を所有しているわけではない」飛び散ってしまった放射性物質は、もう他人の土地にくっついたのだから、自分たちのものではない。そんな主張だ。

決定は10月31日に下された。裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた。
ゴルフ場の代表取締役、山根勉 (61)は、東電の「無主物」という言葉に腹がおさまらない。
「そんな理屈が世間で通りますか。 無責任きわまりない。従業員は全員、耳を疑いました。」
7月に開催予定だった「福島オープンゴルフ」の予選会もなくなってしまった。通常は3万人のお客でにぎわっているはずだった。地元の従業員17人全員も9月いっぱいで退職してもらった。
「東北地方でも3本の指に入るコ ースといわれているんです。本当に悔しい。除染さえしてもらえれぱ、いつでも営業できるのに」
東電は「個別の事案には同答できない」 (広報部) と取材に応じていない。


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一読して一言。ふざけた東電の屁理屈。開いた口が塞がらない。

3.11、東北地方は巨大な地震に見舞われた。絶対安全だったはずの原子力発電所は福島で壊滅的な被害を受け、放射能を環境へと撒き散らした。福島を中心に放射能の除染が必要という事実。その事実をもとに、東電へ除染を求めたゴルフ場と東電の反論。東電の反論を認めた裁判所。

この記事は、そうした事実を伝えるだけでなく、「無主物の責任」というテーマでその奥へ斬り込もうとしている姿勢が伺える。朝日らしからぬ記事だ(こうした良記事が紙面の片隅というのが、朝日らしい。それでも3面だから、配慮はされているとみていいのかもしれない)。

放射能が拡散してしまった原因は何か。それは原子力発電所を作ってしまったことである。

原子力発電所は厳重な安全管理が必要とされる。そのことは樵である私などより、当事者である発電事業者、学者、政府、「原子力ムラ」と呼ばれる人たちの重々承知のはずだ。だからさすがに知らなかったとは言わない。その替わりに繰り出してきた論理が「放射性物質は無主物」である。この論理は山林所有者達のそれとは正反対だ。

「放射能は無主物」であるということはつまり、だれの所有物でもないということだ。よしんば放射能に所有権があると観念されたとしても、「既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者 (東電) が放射性物質を所有しているわけではない」。

この論理にはマイッタ。所有権さえ放棄すれば、あとはカンケイな~い。私は『悲しみの森』で所有権を放棄せずに利益を得ようとする者を批判したが、その批判は東電には通じない。なにしろ所有権はナイと言っているのだから。

だが、「生命の論理」は、そのままとはいかないが、通用する。

「樵」の視点で言えば、人工林とはいえ、森は生き物である。人工林を造林するということは、生き物をペットとして飼うのと同じだ。ペットを飼い始めたのなら、飼い主は最後まで責任をもって面倒をみよ。ごくごく当然の論理であろう。


放射性物質そのものは、「生命」ではない。だが「生命」に影響を及ぼす。ゆえに制御・管理されなければならない。責任を負うのは、放射性物質を作り出した事業者であろう。

東電を初めとする電気事業者は、この論理を、温室効果ガスについては「採用」している。その主張は、いまだ健在だ。


原子力発電がCO2を排出しないことが、なぜ重要だと主張するのか。それは地球を温暖化して環境を変化させ、生命の生存を脅かすから。では、その排出されたCO2は、誰かの所有物なのか。そうではあるまい。無主物であろう。が、無主物であっても「生命の論理」からすれば制御・抑制されなければならない。だから原子力発電。そういう主張ではなかったのか。

ここにあるのもダブルスタンダードである。東電は、原発を「金儲けの装置」としてしか見ていない。ゆえに、ある時は「生命の論理」を振りかざし、ある時は「所有権がないからカンケイな~い」という。フザケルにもほどがある。なるほど、こういった連流は「偏差値は高い」のであろう。論理を如何様にでも振り回すことが出来る。が、そんな論理にいかほどの意味があるというのか。

東電を初めとする電気事業者は、原子力発電は絶対に安全だと言い募ってきた。が、その嘘は暴かれた。安全だと言いつつ、人々の生命を危険に晒していたのである。そしてその危険は、これからも人間の尺度では「永久に」と言ってよいほどに存在し続けてしまう。

これは明白な犯罪行為である。犯罪行為が犯されたなら、裁かれ、償いを負わせる。それが社会のルールである。社会のエリートだから、そうした責務から免れてもよいという法はない。

だが、そうした「法」が罷り通っているのが、今の日本である。東京地裁は、除染を責任者である東電に求めた請求を、退けた。犯罪行為を国家が裁かない。裁かないだけではない。犯罪被害者により重たい責を負わせようとしている。

ならば私たちは、改めて考えなければならない。国家と社会の、どちらが大きいのか。どちらが重いのかということを。

国家は暴力装置である。それは社会で唯一、合法的に暴力をふるうことが出来るということを意味する。私たち国民は、社会の秩序を維持するために、つまりは犯罪行為を取り締まるために、国家に暴力を委譲している。この論理は民主主義国家のみならず、専制国家であっても(少なくとも表向きは)通用する論理である。民主主義国家が専制国家より優れているとされるのは、この暴力の制御が国民に近いところで行なうことができると考えられているからに過ぎない。

しかして現在の日本では、社会への犯罪行為の取り締まりは国家によって放棄されてしまった。その代わりに強化されようとしているのが、国家への犯罪行為である。その最も大きな兆候は、全国47都道府県で施行された暴力団排除条例だろう。このような「法」が、なぜ国法としてではなく地方の条例として全国で施行されたのか。この「裏」を考えてみる必要がある。

どうも一部の「偏差値の高い」連中は、「我々こそが国家」だと考え、その考えを実現しようと企んでいるフシがある。百万歩譲って、国家をかの連中に独占させることを許したとしても、社会を独占させることは許すことは出来ないし、そもそも不可能である。そして、国家が暴力を独占するために社会と交わした「契約」は、守られなければならない。その契約が履行されなくなれば、社会によって国家が裁かれることになる。

私が「偏差値の高い」輩を哀れというのは、そうした「当然のこと」を理解出来ていないからだ。社会は人間の作るものだが、かといって完全な人工物ではない。「自然な人工物」とでも言うべきもの。そして「自然的なもの」は、人間の力では完全に制御することはできない。うまくやろうとすればするほど、あとのしっぺ返しは大きい。

私たちは、原子力に大きな夢を見た。それは自然を完全に制御できるという「夢」だった。その夢は、大きなしっぺ返しとともに破れたのだ。その現実を見据える必要がある。

『天辺の糸』

誰かのために。

この「誰か」は、もちろん 特定の「誰か」。特定される理由が、その人だからという以外に見つからないような「誰か」だ。

中途半端なアニオタの愚樵が(笑)、連想してしまった「誰かのために」を描いた話。今回はその紹介&ちょっとした解説をしてみたい。

漆原友紀原作の『蟲師』。その第19話、『天変の糸』。

ストーリーの粗筋は...、他所様の記事を読んでいただくくことにしよう。

 『蟲師 19話』 (JUNK KOLLEKTER)

真性アニオタ(?)の方々がこうして詳細な記事をあげて下さっているので、こういったときには本当に助かる。

(なお、ネット上に動画そのものもなくはないようだ。時間と興味のある方は(自己責任で)探してみて下さい。)

ストーリーのクライマックスは、いなくなった(見えなくなった)吹を思いならが、清志朗が夜空を見上げているシーン。ギンコに「誰よりあんたが、今の吹を受け入れられずにいるんだな」と鋭く指摘されるが、しかし、清志朗にしてみればふたりの結婚を認めてもらうために懸命に努力をしていたつもり。にもかかわらず、とうとう吹は見えなくなってしまった。途方に暮れながら夜空を見上げる清志朗は、かつての吹との会話を回想する。

 吹 「だから、明るくなってくるとなんだか寂しくなる。
    だんだん数が減っていって、気がつくとひとつもいなくなっている。
    みんな、昼間はどこへいってしまうんだろか。」
 清志朗 「バカだな、吹。
    昼間だって星は、ホントは空にあんだぞ。」
 吹 「ホントに?」
 清志朗 「本当だよ。
    陽の光が強いからみえなくなるだけで、本当はちゃんと空の上にあるんだ。」
 吹 「どこにもいかないんだ。
    見えなくても、ずっと空にいるんだ...!」

清志朗は、「誰かのために」はどうしたらよいか、気がつく。

ここで、『「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ』で交わしたアキラさんとの対話を。

「手入れ」というのは、自覚的(意識的)なものであるにもかかわらず、どこか謙虚さを身にまとってる気がします

ここで〈霊〉の考えを導入してみますとね。

手を出す対象を認識するとインターフェースの中に〈霊〉が生成されます。対象に手を出すと相手は変化しますが、その変化は〈霊〉という「像」をより精密なものにしていきます。で、〈霊〉が精緻になればなるほど、手出しもまた微妙なものになってゆく。謙虚なのは〈霊〉に従うからでしょう。

逆に傲慢になるのは、〈霊〉を【自我】に従わせようとするときですね。インターフェースの中に生成された〈霊〉を【自我】が勝手に改変してしまう。この「改変」に従って手を出してしまうと、相手からのフィードバックを受け付けなくなります。


清志朗ははじめ、己の【自我】に従い、吹に「手出し」をして「改変」しようとしていた。清志朗が吹を嫁にと欲し、吹はその申し出を悦んで受け入れたけれども、「吹を嫁にする」というのはあくまで清志朗の【自我】でしかなかったわけだ。清志朗はそのために吹からのフィードバックを受け入れられなくなっていた。ギンコが指摘したのは、まさにそのこと。

『天辺の糸』の話は、すんでのところで清志朗が吹の〈霊〉に従うことに気がつき、ハッピーエンドとなる。

まあ、それにしても。あくまで一般論だし、アニメの作り話を引き合いにするのもおかしなことだが、男は本当にどうしようもない。清志朗の振る舞いは、典型的に「男性的」と言っていいだろう。

本当に、男はバカだ。

コミュニケーションにおける水平型/垂直型

山やまさんとの対話。

個の確立における水平型/垂直型というような話を山やまさんのコメント欄に投稿したのだが。

 『ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか)』(yamachanblog)

山やまさんがこの記事でヘンリー・ダーガーという孤高の作家(と言えるのかどうかもわからない。本人は作品を発表する意志はなかったみたいだから)を紹介されていたのだが、そのダーガーに対して私は垂直型の個を確立した人だろうといった内容のコメントをした。

共同体の基礎理論 個の確立における垂直型/水平型の元ネタはこちら。3度目の引用。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


そういったところから、山やまさんの次なる記事は、話の焦点が垂直型/水平型「個の確立」から「コミュニケーション」へと移ったようだ。

 『誰かのために。キース・ジャレットの旋律。』(yamachanblog)

ぼくは若い頃は「垂直型」こそが芸術であって、両者のバランスを取ったものはつまらないと思っていました。いまでも「垂直型」の作品は好きなんですが、年をとるにしたがって両者のバランスが大事だと感じるようになりました。垂直型の個を確立していくことと水平型の個を確立していくことは矛盾しないというか、垂直型の個を確立していく過程で水平的な人間(他者)とつながることはすごくいいことで、それによって新たな視点が開けたりしてまた垂直方向に自分を見つめることができるようになったり。それがまた垂直型の個の確立にも還元していくんじゃないかと。循環しているような。
たぶんその垂直軸と水平軸のバランス配分で、「気持ちいい」と感じるポイントが人によって違うんだろうなと。同じ人物でも経験や月日を通してそのポイントが移り変わっていくんだろうなと。


ここで言われている「個の確立」は「コミュニケーション」に置き換えるとスッキリする。

水平的コミュニケーションと垂直的コミュニケーションは矛盾しない。それどころか、水平的コミュニケーションは垂直的コミュニケーションを育むもの。山やまさんはその例として子育てを挙げておられますが、その通りだろうと思う。

私は残念ながら子どもはおらず、従って子育てはできないので、別の例を出すことにする。

 『アイスブレイク』(愚樵空論)

「アイスブレイク」とは心の氷を砕くこと。つまり水平的コミュニケーションを円滑に行なうことができるようにすること。私がアイスブレイクを体験したのは、森との交感を体験してみようという講座においてだった。「森との交感」はいうなれば垂直的コミュニケーション。垂直的なコニュニケ-ションが為されるようになる条件は、十全な水平的コミュニケーションが為されていること。なぜそうなるのはかはわからない。人とはそのような生き物だというしかないだろう。アイスブレイクは、そうした人の性質を経験的に識っているインタープリターたちによって編み出されていった「技法」である。

もう少し言葉を継いでみよう。アイスブレイクは大人を子どもへと還すのである。独りで還るのはなかなか難しい。だから集団で還る。周りの人に心を解き放つことができるようになると、人は子どもへ還る。すると「センス・オブ・ワンダー」が発動する。繰り返し言うが、人間とはそのような生き物である。

ただし、ここでの水平的コミュニケーションはハラスメントを孕んだものであってはならない。創発的コミュニケーションである必要がある。

ところで。

私は人間の垂直的コニュニケ-ション能力を「霊性」と呼称したいと考えているわけだが、そうすると、垂直的コミュニケーションを発動させる水平的コミュニケーション能力をなんと呼べばよいのだろうか。思い浮かぶのは「アニミズム的霊性」だ。

ということは、「シャーマニズム的霊性」というのも存在することになる。一般的に「inspiration」と言われるものは、こちらだろう。何かの折りに“降りてくる”。あるいは“湧いてくる”。山やまさんが取り上げておられるキース・ジャレットがそうだ。

明日のコミュニケーション ところでところで。

私がソーシャルメディアが活性化させると期待しているのは、このアニミズム的霊性である。創発的コニュニケ-ションには「共感」が欠かせない。そして、ソーシャルメディアにおいては、共感は共通通貨である、という(右掲書によると)。「関与する生活者」による共感。その共感は、古代の人類が日々の営みのなかで育んだアニミズム的霊性に近いような気がする。

そんなふうに想像を巡らせていると、本当に面白い。人類はここまで来た。いや、還ってきたというべきか。「一般意志2.0」もアニミズム的霊性で読み解けるような気がするが、それは今後の課題。いずれにせよ、もう一段と「還る」には、「貨幣2.0」が必要だと思う。これは私の根拠のない直観だが。

希望の純粋形

『魔法少女まどか☆マギカ』ネタ。

最終12話冒頭。とうとうまどかが魔法少女へと「変身」してしまう。

それまでまどかを守ってきた暁美ほむらがラスボスである「ワルプルギスの夜」に追い込まれ、敗北必至の状況。ここに至ってまどかは自身の「願い」を見つけ出す。

以下、アニメからセリフを。

まどか 「私、やっとわかったの…叶えたい願い事を見つけたの。だから、そのためにこの命使うね。ごめん…ほんとにごめん。これまでずっと…ずっとずっとほむらちゃんに守られて、望まれてきたから今の私があるんだと思う。ほんとにごめん。そんな私がやっと見つけ出した答えなの。信じて?絶対に今日までのほむらちゃんを無駄にしたりしないから」

インキュベーター 「数多の世界の運命を束ね因果の特異点となった君ならどんな途方もない望みだろうと叶えられるだろう」

まどか 「本当だね?」

インキュベーター 「さあ、鹿目まどか。その魂を対価にして君は何を願う?」

まどか 「私……全ての魔女を生まれる前に消し去りたい!全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で」

インキュベーター 「その祈りは!?そんな祈りが叶うとすればそれは時間干渉なんてレベルじゃない。因果律そのもに対する反逆だ!君は本当に神になるつもりかい?」

まどか 「神様でもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいて欲しい。それを邪魔するルールなんて壊してみせる…変えてみせる…これが私の祈り…私の願い。さぁ、叶えてよ?インキュベーター!!」


そして魔法少女まどか登場。いや「降臨」と言わなきゃならないんだよな(笑)



「ワルプルギスの夜」はまどかの一撃で消滅。強い。そればかりか、過去の魔法少女達も、まどかの放った「矢」で救済されていく。

一方でまどかは、すべての魔法少女達たちの因果を一身に引き受けることになってしまう。その結果、まどかは魔法少女から魔女へと転落していきそうになる。最悪最強の魔女へ。しかし。

まどか 「私の願いは全ての魔女を消し去ると。本当にそれが叶ったんだとしたら…私だって!もう絶望する必要なんてない!!」

まどかがどうなったのかは、これ以上は触れないでおこう。

さて。

ここで思い起こしたのが、テトラレンマ、だ。

テトラレンマとは、大乗仏教において最高度に抽象的な概念「空」を抽出した思考方法。四句否定とも言われる。ナーガールジュナ(龍樹)という人によって発見されている。論理を超えた論理で、わけがわからない。

「リンゴがあるとも、ないとも、その両者であるとも、その両者でないとも言うことはできない」
  (Webマガジンen Book Review 『空の思想史』 より)

 1.リンゴがある。
 2.リンゴはない。

1.と2.の句は相矛盾する。ジレンマである。

 3.その両者であるとも、その両者でないとも

これはジレンマの否定。その否定をさらに否定する。

 4.言うことはできない。

この思考操作で感じられるのが「空」というものらしい。わけがわからんがまあいいだろう。

『まどか』に話を戻す。最終回は、このテトラレンマの思考操作とよく似た構造になっている。

 1.少女は「願い(希望)」を抱いて魔法少女に変身する。
 2.魔法少女はやがて絶望し、魔女へと転落する

これは『魔法少女まどか☆マギカ』の設定であり、少女達はこのジレンマのなかで物語を展開していく。まどかは、このジレンマの中から願いを見出す。それが

 3.すべての魔女を生まれる前に消し去る。

インキュベーターが言うとおり、これは因果律(設定)の否定だ。そして、そう願ったまどかの因果もまた、否定される。

 (4.ここはインキュベーターの奇跡による自動的な否定になっている。その点が龍樹のテトラレンマとは異なる)

些細な違いはいいだろう。要はこの思考操作で何が感じられるかである。

まどか的テトラレンマの結果浮かび上がってきたのは、純粋な形としての「希望」である。大乗仏教-龍樹的テトラレンマは因果律を理解するための言葉の否定だったが、まどか的テトラレンマは(ジレンマ)をもたらす【システム】の否定し、希望を肯定する形になっている。四句肯定というべきか。

そう、純粋な形の「希望」とは「希望の肯定」である。もう一段言い換えると、母性であろう。

そういえば。

最終12話の直前の11話でのエピソードの以下のようなものがあった。

「ワルプルギスの夜」が襲来して街が破壊されていく。この段階ではまだ無力なまどかは家族と共に避難。しかし、ほむらは「ワルプルギスの夜」と戦っており、それをまどかは知っている。
まどかは魔法少女になる決断をして、ほむらと「ワルプルギスの夜」との戦場へ赴こうとする。避難所から抜け出そうとするまどかを母は引き留める。まどかは事情は話せないが、信じてくれと訴える。母は事情を聞かず、まどかを送り出す...

まどかの母性は、まどかの母から受け継がれていることが示されている。

もう少し想像を発展させてみよう。ここからは『まどか』のストーリーを離れた妄想だ。

まどかの母性は(上の画像からも推察されるとおり)ネオテニー、幼児進化である。まどかの母は身体的にも母になることによって(つまり父と結ばれることによって)母となった。だがまどかは父たる存在と結ばれることなく、いや、逆に結ばれることがなかったがゆえに、「純粋な希望」を体現することになった。まどかは最終的に消滅するが、もし復活するようなことがあったら...、キリストの再現になる。ただし、まどか=キリストは「父なる神」の降臨ではなく「母なる神」ということになるが。

「父なる神」が人類に対して求めたものは「契約」である。新旧のバイブル、クルアーンにおいてもその本質に変わりはない。だがもし「母なる神」が出現するならば、人類に対して求めるものは「契約」ではないはずだ。では、何になるのか?

今の段階では私にも想像がつかない。が、『まどか』のシナリオ・ライター虚淵玄氏は、『まどか2期』を構想しているとも伝えられる。もしかしたら復活したまどか=キリストが人類に対して求める、あるいは提供する「何か」の構想が虚淵玄氏の頭の中にはあるのかもしれない。

「あめつちの祈り」とクルアーン詠唱

ツイッターにもつぶやいてみたのだけれども、それだけでは物足りない感じなので、ブログにも挙げてみることにした。



 『あめつちの祈り』(ゆめやえいこ ゆめがたり)

最初に聴いたときは冴えない印象だったんだけど、何か引っかかるものがあって、再度聴き直してみたら、これは music というより chant だな、と思ってしまった。「祈り」と題してあることもある。

chantというと、思い浮かぶのがクルアーンの詠唱。これがまた美しいのだ。



学校の歴史で習うのはイスラムといえば「右手にコーラン、左手に剣」、つまり「改宗か、しからずんば死か」だったわけだが、そんなのが嘘っぱちだったということは、この詠唱を聴いただけでも直観できるだろう。過去、イスラーム帝国が強力な軍隊でもって領土を拡張していったのは事実だろうけれども、ムスリムへの改宗の理由は強制ではなく、この「美しさ」にあったのだろう。なにしろクルアーンは神が作った書物なのだから、完璧なのである。詠唱すれば美しいに決まっている。ムハンマド(文盲だったらしい)はこの美しさこそが神がクルアーンを作ったことの証明だと言ったらしい。そうではないと思うのなら、クルアーンを超える文章を作ってみよ、と。

私はアラビア語なんてまるでわからないから、クルアーンの美しさと言っても本当のところはわからない。が、とにかく美しいとは思う。そして、chantとしてみてみたとき、『あめつちの歌」は素朴だ。洗練度で天と地ほどの開きがある――あちらは神のものだから――といってもいいだろう。でも私は、この素朴な「祈り」に心惹かれるものがある。自身の日本人としての「原型」のようなものに触れるような気がする。



この写真は昔、紀州の山で仕事をしていたときのもの。伐採を始める前に、このようなものをつくって「山の神」にお供えをした。板きれに「大山神」と書いて、その前に男の陰物と酒や塩、食物をそなえる。塩はないし、食物も本当は海の魚がいいんだけど、そういうところはいい加減。また、私なんかは「大山神」は「大山祇神」「大山祇命」と想像するんだけど、だとすると、これは男の神なので陰物はおかしい(笑) 大山祇命は富士山の木花咲耶姫や浅間山の岩屋姫の父上にあたると神話ではされているから。でも、そんな「細かいこと」は関係がない。へっちゃら。

この、でたらめな素朴さ。なんでもいいのである。とにかく祈れば。「神の完璧」なんて、眼中にない。もちろん、日本人にだって洗練された神の祈りがないわけではない。伊勢神宮あたりでは格式の高い儀式が現在も執り行われているだろう。また皇居のなかでも行なわれているだろう。でも日本人として、神に近いと感じるのは、いや、かつて感じていたのは、このでたらめな方だという気がしてならない。

ムスリム達は日に五回、何処であろうが彼処であろうがメッカに向かって礼拝をするわけだけれども、やはりより「神に近い」と感じるのは壮麗なモスクのなかで行なう金曜の礼拝だろうと想像する。その点、日本人とは正反対だ。

日本でも昔は伊勢参り・熊野詣で・富士講と「格式の高い神」に詣るのは盛んで、それは今も続いているけれども、神に近い「本当のところ」は現代は失われてしまっている、と思う。歴史的にいうと、明治政府が廃仏毀釈とともに「素朴な祈り」を国家神道へと統合させてしまうことで、打ち壊してしまったのである。

では、日本人の「素朴な祈り」への性向が全くなくなったのかというと、そうではないと思う。上の写真のでたらめな「祈り」に私が遭遇できたのはど田舎だからだったわけだけれども、それをなぜか「ほんもの」と感じてしまう、私自身。そして「感じてしまう」ことから、自身をどうしようもなく日本人なんだと捉え直してしまう。

ゆめやえいこさんの『あめつちの歌』にも、同じような「気」を感じる。このヘタクソな音楽(ごめんなさい!)は、洗練されていないからこそかえって、自身の持つ心性に近いように感じてしまう。つまり「神に近い」感じを受けるのである。素朴な人たちの素朴な収穫の感謝の祈りだ。

「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ

私は愚樵と名乗っている林業従事者だが、実は樵と林業従事者とは微妙に違っている――、というようなことをコメント欄で言ってしまったが、せっかくというわけでもないのだが、樵の目から林業という産業がどのように見えているのかを、少し書いてみることにする。ちょうどよいネタもあったことだし。

朝日新聞の山梨地方版より

******************************

5〉「悲しみの森」に下流域の人招く

2011年11月19日

   ■手入れの大切さツアーで伝える

 「ここが悲しみの森です。手入れがされずに光も入らない。かわいそうだが、不健康な樹木です」

 大月市笹子町、滝子山に向かう登山道を登りながら、ガイドの○○○○さん(73)が説明する。市が今月6日に開いた「悲しみの森・癒やしの森トレッキングツアー」。東京都などから約20人が参加した。

 不健康な森と間伐などがされた「癒やしの森」を比べ、森の荒廃をじかに知ってもらおうという狙いだ。

 植林後、育った樹木を間引いていくのが間伐だ。森が密集すると木への栄養が回らず、1本ずつが細くなる。光が入らず下草も生えないから保水力も弱くなる。それらを防ぐためだ。

 ○○さんは先祖が残した28ヘクタールの森に、暇があれば足を運ぶ。枝切りや下草刈りをするが、間伐にはなかなか手を出せない。切った杉の丸太価格は1トン約1万円。チェーンソーの使い手を雇い、搬出料を払えば完全な赤字に陥ってしまう。

    □

 大月市では全面積の87%が森林。その半分を占める民有林のほとんどが「悲しみの森」だ。

 この日のツアーに加わった××××さんは東京都奥多摩町などで自然解説員をしている。「手入れされていない人工林の問題が、地元の方のなまの話でよくわかりました」という。

 売れないから、伐期を過ぎても植えたままの木はやがて立ち枯れし、森の本格的な荒廃が始まる。「対策を講じなければ20年後に現実となる。民有林維持は上流の個人や自治体だけではもう限界です」と、ツアーを企画した大月市産業建設部の佐藤次男部長は話す。

 神奈川県は来年度から5年間、山梨県での森林整備などに3億6500万円を負担する。笹子の森を「荒廃林の博物館」にして、水源を上流に頼る下流域の人を招く、そして財政支援の一層の拡大に向けた世論を高めていきたい――。それが市の一番の狙いだ。

    □

 実験とも言える今回のツアーにかかわったJTBコミュニケーションズなどJTBグループが、来年度以降の商品化に向けた検討を進める。○○さんたち地元で組織する笹子町運営委員会が「おもてなし」を担当する。今回も、ツアー参加者へのお弁当やうどんなどは地元が用意した。

 カメラ部品の下請け製造をしていた壮年期、○○さんは森にあまり目を向けなかった。周りの人たちも同様で、当時、隣近所の交流は少なくなっていた。

 「悲しみの森」が減るかもしれないと地域で動き出したいま、まとまりが強まった気がするという。絆を固め直してくれた森の力を○○さんは再発見した。

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批判的なことを書くのでリンクは貼らず、個人名は伏せ字にして引用させてもらった(役人は個人とは考えない)。

この記事、私に言わせれば、ひとこと。「手前勝手なことを言っていやがる。」

人工林の手入れが行き届かず、荒廃しているのは事実だ。事実は否定できない。が、直近の事実だけを見ていては判断を誤る。福島を中心に放射能汚染が広がっていて除染が必要なことは事実だが、事実だけをみて原因を見ないのは片手落ち。この記事も事実だけを見て原因を見ない、いかにも朝日らしいものだ。

では、人工林荒廃の原因とは何か。人工林にしてしまったことである。

人工林は手入れを必要とする。そういうものだ。それを知らなかったとは言わせない。そしてその決断をしたのはその山林の所有者である。ならば、荒廃の責任は所有者が負うべき。

あいや、これは純粋に樵の視点ではない。自己責任という新自由主義的な感があると思われるかしれない。が、「樵」の視点からそう遠いものでもない。「樵」の視点で言えば、人工林とはいえ、森は生き物である。人工林を造林するということは、生き物をペットとして飼うのと同じだ。ペットを飼い始めたのなら、飼い主は最後まで責任をもって面倒をみよ。ごくごく当然の論理であろう。

目の前の手入れが行き届いていない人工林が不健康なのは事実であろう。そういう事実を私自身も日々確認している。が、責任者がそれを「悲しみの森」という資格はない。自分の飼っているペットを世話もせずエサもやらずにいて、「この子はカワイソウ」と言っているようなものだ。動物を好きな人が聞いたら怒り狂うだろう。だから私も怒っている。

ここにあるのはダブルスタンダードである。所有者は一方では山林を先祖から受け継いだ財産だと見ている。つまり私有物だ。その資産価値が減っている。財産価値は市場に左右されるから、それは当然のこととして受け入れるしかないし、実際、多くの人が(土地価格の暴落など)受け入れているのだが、山林所有者は異なる。一方で生き物と見て「カワイソウ」というのである。「だから手入れをしてあげて下さい。みんなのお金で。」 そうして上昇した資産価値は所有者の懐に入ることは言わない。

壮年期に関心がなかったというのは、事実だろうが、欺瞞である。金にならなかったから関心がなかっただけだろう。そのような手前勝手が巡り巡って地域の「絆」を断ち切っていった。年老いてそれに気がついた。絆を復活させるのに先祖から受け継いだ山林が使えると気がついた。そこまではいい。でも反省はしていない。社会の所為にしている。木材の価格が下落したから。その論理は、えさ代が高くなったからエサをやれなくなったと言っているの同じだ。

どうしてもエサ代を賄えなくなったらどうするか。他人に譲るか、処分する。それが社会のルールだろう。先祖伝来でさぞ辛かろうというのは、ペットに情が移って辛かろうというのと同じ。処分や譲渡がいやなら、身を削ってでもエサ代を調達するしかない。みんなそうしているのである。山林所有者だけが、そういった辛さを免れてよいという法はない。

(ただし。実名は伏せたがこの記事に取り上げられた○○さんは、自身の費用と労力で(つまり赤字で)手入れをしているのかもしれない。記事で取り上げられた場所をたぶん、私は実際に知っている。その場所は、自分たちで手入れをしたというふうに、伝聞であるが、聞いている。)

このダブルスタンダード&無責任に輪をかけるのが行政である。山林が私有財産であるということには目を瞑り、環境を保持する共有財産としての価値にだけ目を注目する。共有財産というのは、森は生き物であるということだ。生き物を蔑ろにすると、被害が出る。だから食い止める。林業という産業は、このダブルスタンダード&無責任の狭間で辛うじて息を繋いでいる。

「樵」の目から見れば、森の所有者が誰であろうと基本的には関係はない。生き物としての森に向き合い、それを社会の役に立てる。そういう役割である、というだけのことだ。でも、現代社会では、そういう役割では食えない。だから樵らしきことをしようと思うと、「狭間」で息づく林業従事者になるしかない。

そうそう。上の新聞記事の明らかな間違いを指摘しておこう。

「売れないから、伐期を過ぎても植えたままの木はやがて立ち枯れし、森の本格的な荒廃が始まる。」

こんなの嘘である。手入れをされてない人工林は、やがて天然林に還る。それだけのことだ。飼い犬を放せば野犬化するが、その過程で一時的に人間に被害を及ぼす。同じように、人工林から天然林へと移行する過程で、一時的に環境は悪化する。が、森という生き物のスパンで見れば、それは一時的なことでしかない。人間のスパンでものをみるから被害が出るということになるし、それは事実なのだが、受け入れるしかない。「本格的な荒廃」というと林が全滅すると連想してしまうが、そんなことはまずない(土砂崩れなどの危険も高まるので、ないとは言えない)。この文言は、環境保護という名目で金を出させることへ世論を誘導する意図で書かれている。

人の手に負えなくなれば、自然へ還せ。その際、所有権はもちろん放棄である。林業従事者としての稼ぎ先は減るが、樵としてはそれでいい。ただ、日本にはそういったことができる、もしくは強制的にでもさせる法整備は為されていないのが現実であろう。ジャーナリズムはつまらない行政ヨイショ記事など書いていないで、社会の現実にこそ目を向けなければならない。

朝日新聞よ、もっと勉強せよ。

「ワルプルギスの夜」

〈霊〉にかまけている間に、『まどか☆マギカ』シリーズがすっかりお留守になってしまっていた。

今回は「ワルプルギスの夜」。『まどか☆マギカ』に登場する、ラスボスである。
ちょうど良い動画がグーグル検索上位にヒットしてきたので、貼り付けておく。



『まどか☆マギカ』の元ネタと目されている『ファウスト』にも、「ワルプルギスの夜」は当然出てくる。

メフィストーフェレスの力を借りてファウストはグレートヒェンを拐かすが、愛すること以外は何もできない少女はファウストとの恋愛を責められ、罪を犯してしまう。ファウストは逃げ出してしまうが、その逃走先が魔女の集会、ワルプルギスの夜。もちろん、メフィストの手引きだ。

その「ワルプルギスの夜」をイメージした音楽が、有名な『幻想交響曲』の最終楽章。これも動画を貼り付けておこうか。



おどろおどろしい乱痴気騒ぎが聴き取れるだろうか。

ところが『まどか☆マギカ』の「ワルプルギスの夜」は、印象がかなり違う。

ワルプル


歯車がマントを上下逆さまに纏っている? この姿、形。どのように形容すればいいだろうか。
「ワルプルギスの夜」→魔女の集会→魔女の集合体→歯車 なのである。

モダンタイムス


これまた有名なチャップリンの『モダン・タイムス』だが、この「歯車」と被るような気がするのは私だけであろうか。

そう。【システム】である。人々の「願い」を実現する合理性が、その合理性ゆえに自律性をもち、暴走する。チャップリンの時代は、【システム】はまだ人々を翻弄する程度のシロモノだったが、現代では世界を破壊するバケモノとして描かれる。

用心に越したことはない その2

用心1
今朝の新聞記事から。

地球自体が激動期に入ったという話もアチコチで見聞きするけれども、そう考えておいた方が良さそう。

噴火があるなら青木ヶ原樹海方面。「剗の海(せのうみ)」が溶岩で埋まって、本栖・精進・西の3湖に別れたという大噴火になる、その周辺のGPS観測器が他の場所と比べて大きな隆起を示している――なんて情報も、どこかで見たような気がする。

どうせ噴火するなら、山頂から火を噴いたら面白いのに――と、思ったりもするが(苦笑)

いずれにせよ、イザというときの用心、心構えだけはしておいてもよさそうだ。

用心2


こちらは本栖湖周辺で、山林火災に備えて防火線を切る仕事をしたときのものだけど。噴火なら防火線は意味ないだろうな。

理性ではないと思う

今回も他所様のブログ記事から。わが愚樵空論ではおなじみになった逍花さん。

 『シャンカール・ヴェダンタム著『隠れた脳』―人類の進化の過程で獲得されたバイアス』

隠された能 人間にはさまざまな「バイアス」がかかっている。震災の折り、「正常化バイアス」が働いてしまったことが「命の分かれ目」になってしまったいった話は多く語られたし、『隠れた脳』ではそういった事例がたくさん挙げられ、解説されているらしい。「隠された脳」とは、「バイアスを生じせしめる脳」というような意味だろう。そしてそれは、人類の進化過程で獲得されたものである、という結論になっているらしい。

私はまだ本書は読んでいないわけだけれども、この結論には、「まあ、そんなものだろう」となんとなく納得する。だが、その続きには違和感を持つ。

「本書では、理性的な脳が隠れた脳の働きを抑えるのが困難であると説明しているが、理性こそがバイアスを防ぐ唯一の手段だということも主張したい」


その理性信仰こそが、もっとも根源的なバイアスではないのか。

ふしぎなキリスト教

 哲学の中心には、理性があります。理性はもともと、ギリシアで発展した。この点は、詳しくのべなくても、周知のことでしょう。
 キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけれど、イスラム経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。その結論は非常に重要。キリスト教の考え方では、神は世界を創造した。人間も創造した。神にはその設計図があり、意図があるんです。人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければいけません。でも、どうやって? その可能性を与えるのが、理性なんです。
 トマス・アクィナスに、自然法論というのがあります。『神学大全』の、ユダヤ法について書いてある「旧法」の部分をみると、法には「神の法があり、自然法があり、国王の法がある」と書いてある。キリスト教神学の教えるところによれば、法は、神の法/自然法/国王の法(人間のつくった法、制定法のこと)と、階層構造になっている。神の法とは、神が宇宙をつくった設計図のことです。これは、神の言葉で神の書物に書いてあり、人間は目にできないし、理解することもできない。ただし、一部分であれば、人間も知ることができる。その一部分を、自然法といいます。自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。ゆえに、自然法を発見できる。こう位置づけるのが、キリスト教神学です。
 自然法と言いましたが、キリスト教のいう「自然」(ネイチャー)は、理解がむずかしい。私の理解では、自然とは、「神がつくったそのまま」という意味。神の業で、人間の業ではない。神につくられた山や川はそのままで自然だし、植物や動物も自然。動物は自然にふるまうので、罪を犯す(神に背く)ことができません。それから、神につくられた人間の生まれつきの性質(ネイチャー)も自然。法律にも自然なものがある。泥棒や殺人は、人間の理性で考えて、なるほど、それはいけない、と思えるので、神が定めた「自然法」なのです。(ちなみに、ユダヤ法やイスラム法は、神の法がはっきり聖典のなかに書いてあるので、それを読めばよく、聖典の外に、わざわざ自然法を発見するという発想がありません。)
 理性にこのような位置を与えると、信仰を持ち、理性もはたらかせるのが、正しい態度ということになる。理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。
 ためしに理性を、神に向けるとどうなるか。理性で、神をとらえられるか。理性は神が人間に与えた能力なので、その能力を使えば、神が確実に存在することを証明できるに違いない。これが神学の、最初のテーマだった(神学といっても、中身は哲学です)。やってみると、あまりうまく行かない。そこで、理性の届かない先に、信仰のもたらす知識(神の恩恵)がある、ということに落ち着いた。理性/信仰は、両方とも人間に必要である。神は、理性によってその全貌がとらえられないのです。
 しかし、逆に言えば、神が創造したこの世界(宇宙)は、神ではないから、人間の理性で残らず解明できるとも言える。宇宙に理性を適用したら、神の意図や設計図が読解できないか。これも信仰に生きる道である。こうして、自然科学を始める態勢が整ったことになります。しかもこれは、アリストテレスの自然学ではない。アリストテレスはたしかに理性を使って、自然はこうなっていると書いたけれども、それは神の設計図どおりである証拠がない。それを、自分の理性を使って確かめてみましょう。そうしたら、コペルニクスになり、ケプラーになり、デカルトになり、ニュートンになるでしょう。
 自然現象がうまく解明できたら、今度は、社会現象についても理性を適用してみよう、となる。そうしたら、スピノザになり、ホッブズになり、ルソーになり、ロックになり、ヒュームになり、カントになるでしょう。ヘーゲル、マルクスにもなったりした。
 これら(哲学、自然科学、社会科学)は、信仰が理性を正しいものと是認したことでスタートし、キリスト教的文脈と離れても、ときにはキリスト教に反対してまでも、理性的にふるまう理性主義を生み出した。たとえばフランスでは、大革命のときに、カトリック教会と絶縁し、教会領を没収し、フランス共和国を樹立し、理性神を拝んだりした。


以上、掟破りの長々引用は、橋爪氏の発言。(p.280~283)

人間にはどうしても「バイアス」がかかる。なぜならそれは、進化の過程で獲得したものだから。いうなれば「自然法」だ。しかし「バイアス」は、時にはマイナスに作用することもある。だから「バイアス」を見定めて解放されていく必要も生じる。その解放された状態は、「自然法」の上部構造である「神の法」に――完全に理解することは原理上不可能だが――近づくこと。そして、そのアクセス法は唯一理性のみ。まったく見事なキリスト教の「バイアス」ではないか。

キリスト教文化に馴染みの薄い私たち日本人は、理性と霊感とは水と油、相反するものだと前提している。その前提は確かに、キリスト教文化でいう「自然法」理解の範囲においては有効だ。だが、「自然法」の範囲を超えてしまうと、途端に無効になる。

『ふしぎなキリスト教』からの引用でも明らかなように、欧米人のいう理性(reason)には霊感(inspiration)が含まれている。だからこそ「自然法」を超えたところでも、理性でアクセス出来ると考える。近代の日本人はそうした欧米人の理性信仰の上っ面だけを真似てしまった。霊感を切り捨てた理性を「理性」だと勘違いした。そして、近代化を推し進める過程で「ニセ理性」へと傾斜し、霊感を切り捨ててしまった。「inspiration」と表現されると先進的に受け取るのに、その訳語の「霊感」とすると途端に前時代的なものを感じてしまう。これこそ「日本的ミスマッチ」である。

日本人の霊感は、感性のなかにある。日本人は超越神を信じていないから、神の設計図――「神の法」などがあるとも思っていない。設計図なら感得するのは理性だというのはスジが通る。だが、設計図の存在しない「混沌」から「何か」を感得するとなれば、それは感性でしかありえないはずだ。

で、ここで疑問。

以上のようなことを感じ取るのは、理性か感性か? どちらも当てはまるような気もするし、どちらでもないような気もする。「悟性」といいたいところだけど、カントやヘーゲルだって「キリスト教バイアス」だから不用意には使えない。仏教的に「識」といえば良いのだろうか? それも私にはまだよくわからない。

いずれにせよ、ひとついえそうなこと。それは、キリスト教起源の「近代」に過適応してしまい「近代」に違和感を持ち始めている日本人は、実は様々な「バイアス」から自由な位置にいるのではないのか、ということ。「バイアス」から自由なことが逆に価値観の混乱をもたらしている。そのように考えるなら、私たちが為すべきは、自分たちの「バイアス」を創り上げることだということになるだろう。

ただし。ここで留意しておくべきことがある。それは「創り上げる」は「作る」ではないということ。むしろ「育て上げる」と言った方がよい。なにせ「バイアス」である。無理に作ろうとすると、必ず歪みを生む。戦前の日本のように。また、3.11後の日本が戦前のようになりつつあるという声も多く聞く。だが、希望はあると私は思っている。

その希望の大きな光のひとつがソーシャルメディアだ。マスメディアは世論を「作る」ものだったが、ソーシャルメディアは「育てる」ものだと、言って良さそうに思う。まだ断言は出来ないけれど。それとも、そうした見方は私の「バイアス」なのだろうか?

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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