愚慫空論

ロックは、やっとロックになった

今朝は、こちらを取り上げてみるつもりだったのだが、急遽予定を変更。

ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
  by ピート・タウンゼント


 『それでもロックが好きなんです。』(yamachanblog)

なんだか懐かしいな、このセリフ。もうひとつ、ついでに。

生きてることを喜ぶことを罪ではないと信じる
  by ブルース・スプリングスティーン


私はロックが嫌いだった。何より音が耳障り。耳障りという印象は今でも変わらないけれども、それにはそれなりの意味があるのだということは理解出来るようになった。その理解の扉は、ブログをやっていることで開かれた。ロックへの共感は、ロックに共感を持つ人への共感によって、開かれた。

 『音色に哭く』(愚樵空論)

おっと、話が少し逸れたようだ。

「悩んだまま踊るのがロケンロール」。なめぴょんさんから最初に教わったこのビート・タウンゼントのセリフに私は大いに共感するとともに、実はかすかな違和感を感じていた。その正体が今回、判明した。

今の時代、音楽雑誌が機能しているとは、あまり思えないというか。機能の仕方も変わってきている。昔は“クラスタ”って言葉もなかったし、メディアとして“熱い”ものだったと思うんだけど。うまく言葉にできないけど中央集権的という意味で。

(『それでもロックが好きなんです。』より孫引き。下線は愚樵)

そう。ビート・タウンゼントのセリフは、その内容は分権的。であるにも関わらず、タウンゼント自身は中央集権的なものを背景にして発言しているし、そのこと自体気がついていない。

現在、その中央集権的なもの、「ビッグ・ブラザー」的なものは「壊死」してしまった。

2008年。ニール・ヤングが自作のドキュメンタリー映画『CSNY Deja Vu』の記者会見でこう語った事が、ちょっとしたニュースになりました。

音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った。今、この時代にそういう考えを持つのはあまりにも世間知らずだと思う。


「音楽で時代を変える」という幻想は、音楽が「ビッグ・ブラザー」として機能と夢見ていたということだ。

(ニール・ヤングは「世間知らず」と言ったらしいが、そのヤングは歴史を知らない。音楽がそもそも「ビッグ・ブラザー」として機能しえないのは、ナチス・ドイツとウィルヘルム・フルトヴェングラーとの闘争の歴史を知っている者にとっては自明のことだ。)

ロックに限らず、音楽はそもそも「リトル・ピープル」のものである。それが今ではビッグ・ブラザー的な衣装を纏っていた。フルトヴェングラーもタウンゼントもヤングも、それが衣装だったと気がつかなかっただけだ。なぜ気がつかなかったのか 。それはバイアス、言い換えれば「気分」だったからだ。現代は、この「気分」が「ガラパゴス化」したのである。

ここにおいて、ロックはロックになった。タウンゼントが示した「俺達の悩み」はリトル・ピープルの悩みであり、リトル・ピープル(≠大衆)はガラパゴスである。

今は誰もが個人として、社会に対して、いろんな責任を果たそうという意識が強くなってきたよね。誰もが24時間生活して、家族を支えること以外に、いい意味で、社会の一員としての責任を果たすべきだと思うようになったし、悪い意味ではどこか強迫観念的にそう感じるようになった。そこをちょっと批評的に捉えたい。僕自身、社会の一員として世の中で起っていることに意見しなければいけない、加担しなきゃいけないってオブセッションがすごく強い時期が10年くらい前にあって。でも、今はむしろ逆で、自分のドメインに徹したいという意識が強い。自分っていうのはポップミュージックが作り手から送り手に伝わっていく媒介として存在している。その小さなドメインに徹すること。それは結果的に社会のひとつのモデルとなって、直接的に社会の一員としてのいろんな活動を行わなくても、何かしらのヒントになりうるんじゃないかって考えてる。もしくは、社会の一員として考えているアイデアみたいなものも相似形として自分の活動の中に反映されるようなことをやるんだろうな。

これって「新しい公共」の概念ですよね。「公」と「私」の境界が曖昧になるというか、どちらも双方の要素を含んでおり絡み合っているというか有機的というか。


ドメインに徹することのなかで、「個を確立」する。リトル・ピープルは、垂直的に個を確立するのである。

4度目(笑)。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


「新しい公共」とは、なんのことはない、つい最近まで日本にあった地域共同体の相似形である。ただ、現代のそれは、「地縁に縛られない。「電縁」を通じて形成されていくのである。

山やまさんの記事には、「ハシズム」についても触れられているので、私も言及しておこう。

「橋下イズム」と「ティーパーティー」その同時代性 - ニューズウィーク日本版より

まず、橋下新市長が「どうして日の丸・君が代にこだわったのか?」

「日の丸・君が代」で攻めれば「敵はきっとイデオロギーから反発して感情的になる」だろうというのが彼等の「狙い」なのです。そうして「庶民の生活レベルの話や、大阪全域の経済再建」などの実務的な、具体的な政策論を説く代わりに、イデオロギー的な橋下批判に彼らが専念すれば「シメシメ」という作戦です。

 イデオロギー的にカッカすることで、「反独裁」とか「反ファッショ」などという絶叫しかできない場所に追い詰められ、それが正義だと我を忘れた「反橋下」陣営を見ていると、中間層は選挙戦の展開を見ながら、これでは自分たちの民生向上にも閉塞感打破にも「全く役に立たない」という風に見てしまったわけです。

こうなると完全に橋下氏の「思うツボ」です。一旦自分たちがモメンタムを獲得してしまえば、反対派が「反独裁」を叫ぶということは「漠然と橋下支持を固めた中間層」に対して「お前たちはバカだ」と見下しているということになり、「叫べば叫ぶほど票が逃げていく」無限の循環に陥るからです。


つまりだ。「ハシズム」とは「アンチ・アンチビッグ・ブラザー」なのである。ビッグ・ブラサーが(気分的には)「壊死」した現代において、「橋下徹」を「ファシズム=ビッグ・ブラザー」だと見なしそう叫ぶことは、かえってリトル・ピープルへと「解体」しつつある大衆の「アンチビッグ・ブラザー」気分を呼び出すことになってしまう。「ハシズム」はそこを見透かし、「気分」で票を獲得した。そういう話だ。

(この「手法」はもしかしたらかつての自民党的な方法なのかもしれない。つまり、共産党という「アンチビッグ・ブラザー」を利用して、票を獲得するという手法。自民党にとって共産党は、自身の「気分的」存在意義を浮かび上がらせる存在だったということだ。「ハシズム」は、それを拡大適用した。)

(アンチビッグ・ブラザーがかえってビッグ・ブラザーを呼び出してしまうという議論は、右掲書における萱野稔人氏の国家主権を巡る議論と同型である。)

だが、この「ハシズム」もいずれ見透かされるだろう。どうしようもなくビッグ・ブラザー幻想を囚われてしまった「古い世代」はいざ知らず、リトル・ピープルの自覚を持つ「若い世代」には通用しなくなるだろう。
(言うまでもないが、「古い」「若い」は年齢のことを指しているわけでない。)

これまで民主主義は、多数決と少数意見の尊重という相反する要請をアウフヘーベンするものだと捉えられてきた。つまり、少数意見をビッグ・ブラザーに繰り入れることが民主主義だと考えられきたわけだ。だが、リトル・ピープル時代の民主主義は必ずしもそうではない。少数意見は、「少数」としてではなく、独立した見解として独自(政府とは独立して)、政治を執り行っていく。その可能性を示唆したのが、東浩紀氏の最新書ではないかと私は捉えている。

もっとも、その可能性があるからといって「一般意志1.0」によって駆動されるナショナリズム的政治(1.0)の意義が消滅し、置き換わっていくということではない。たとえば原発問題などは、どうしても健全なナショナリズムを機能させなければ解決できない問題だ。ただ、民主主義=政治の概念がもっと拡張され、政治へのコミットメントの機会がずっと広くなるという話。

それは、ロックがロックとなった時代、それぞれの悩みはそれぞれに共感を得つつ解決するしていく、「リトル・ピープルの政治」であろう。

「放射能は無主物」と言ってしまえる哀れさ

当エントリーは『「悲しみの森」と言ってしまえる哀しさ」の類似エントリーである。

ネタ元も同じ、朝日新聞。

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朝日新聞(2011/11/24)
プロメテウスの罠  無主物の責任(1)

放射能はだれのものか。この夏、それが裁判所で争われた。
8月、福島第一原発から約45km離れた、二本松市の 「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」 が東京電力に、汚染の除去を求めて仮処分を東京地裁に申し立てた。
――事故のあと、ゴルフコースからは毎時2~3マイクロシーベルトの高い放射線量が検出されるようになり、営業に障害がでている。責任者の東電が除染をすべきである。対する東電は、こう主張した。
――原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。
答弁書で東電は放射能物質を「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」としている。
無主物とは、ただよう霧や、海で泳ぐ魚のように、だれのものでもない、という意味だ。つまり、東電としては、飛び散った放射性物質を所有しているとは考えていない。したがって検出された放射性物質は責任者がいない、と主張する。

さらに答弁書は続ける。
「所有権を観念し得るとしても、 既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者 (東電) が放射性物質を所有しているわけではない」飛び散ってしまった放射性物質は、もう他人の土地にくっついたのだから、自分たちのものではない。そんな主張だ。

決定は10月31日に下された。裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた。
ゴルフ場の代表取締役、山根勉 (61)は、東電の「無主物」という言葉に腹がおさまらない。
「そんな理屈が世間で通りますか。 無責任きわまりない。従業員は全員、耳を疑いました。」
7月に開催予定だった「福島オープンゴルフ」の予選会もなくなってしまった。通常は3万人のお客でにぎわっているはずだった。地元の従業員17人全員も9月いっぱいで退職してもらった。
「東北地方でも3本の指に入るコ ースといわれているんです。本当に悔しい。除染さえしてもらえれぱ、いつでも営業できるのに」
東電は「個別の事案には同答できない」 (広報部) と取材に応じていない。


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一読して一言。ふざけた東電の屁理屈。開いた口が塞がらない。

3.11、東北地方は巨大な地震に見舞われた。絶対安全だったはずの原子力発電所は福島で壊滅的な被害を受け、放射能を環境へと撒き散らした。福島を中心に放射能の除染が必要という事実。その事実をもとに、東電へ除染を求めたゴルフ場と東電の反論。東電の反論を認めた裁判所。

この記事は、そうした事実を伝えるだけでなく、「無主物の責任」というテーマでその奥へ斬り込もうとしている姿勢が伺える。朝日らしからぬ記事だ(こうした良記事が紙面の片隅というのが、朝日らしい。それでも3面だから、配慮はされているとみていいのかもしれない)。

放射能が拡散してしまった原因は何か。それは原子力発電所を作ってしまったことである。

原子力発電所は厳重な安全管理が必要とされる。そのことは樵である私などより、当事者である発電事業者、学者、政府、「原子力ムラ」と呼ばれる人たちの重々承知のはずだ。だからさすがに知らなかったとは言わない。その替わりに繰り出してきた論理が「放射性物質は無主物」である。この論理は山林所有者達のそれとは正反対だ。

「放射能は無主物」であるということはつまり、だれの所有物でもないということだ。よしんば放射能に所有権があると観念されたとしても、「既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者 (東電) が放射性物質を所有しているわけではない」。

この論理にはマイッタ。所有権さえ放棄すれば、あとはカンケイな~い。私は『悲しみの森』で所有権を放棄せずに利益を得ようとする者を批判したが、その批判は東電には通じない。なにしろ所有権はナイと言っているのだから。

だが、「生命の論理」は、そのままとはいかないが、通用する。

「樵」の視点で言えば、人工林とはいえ、森は生き物である。人工林を造林するということは、生き物をペットとして飼うのと同じだ。ペットを飼い始めたのなら、飼い主は最後まで責任をもって面倒をみよ。ごくごく当然の論理であろう。


放射性物質そのものは、「生命」ではない。だが「生命」に影響を及ぼす。ゆえに制御・管理されなければならない。責任を負うのは、放射性物質を作り出した事業者であろう。

東電を初めとする電気事業者は、この論理を、温室効果ガスについては「採用」している。その主張は、いまだ健在だ。


原子力発電がCO2を排出しないことが、なぜ重要だと主張するのか。それは地球を温暖化して環境を変化させ、生命の生存を脅かすから。では、その排出されたCO2は、誰かの所有物なのか。そうではあるまい。無主物であろう。が、無主物であっても「生命の論理」からすれば制御・抑制されなければならない。だから原子力発電。そういう主張ではなかったのか。

ここにあるのもダブルスタンダードである。東電は、原発を「金儲けの装置」としてしか見ていない。ゆえに、ある時は「生命の論理」を振りかざし、ある時は「所有権がないからカンケイな~い」という。フザケルにもほどがある。なるほど、こういった連流は「偏差値は高い」のであろう。論理を如何様にでも振り回すことが出来る。が、そんな論理にいかほどの意味があるというのか。

東電を初めとする電気事業者は、原子力発電は絶対に安全だと言い募ってきた。が、その嘘は暴かれた。安全だと言いつつ、人々の生命を危険に晒していたのである。そしてその危険は、これからも人間の尺度では「永久に」と言ってよいほどに存在し続けてしまう。

これは明白な犯罪行為である。犯罪行為が犯されたなら、裁かれ、償いを負わせる。それが社会のルールである。社会のエリートだから、そうした責務から免れてもよいという法はない。

だが、そうした「法」が罷り通っているのが、今の日本である。東京地裁は、除染を責任者である東電に求めた請求を、退けた。犯罪行為を国家が裁かない。裁かないだけではない。犯罪被害者により重たい責を負わせようとしている。

ならば私たちは、改めて考えなければならない。国家と社会の、どちらが大きいのか。どちらが重いのかということを。

国家は暴力装置である。それは社会で唯一、合法的に暴力をふるうことが出来るということを意味する。私たち国民は、社会の秩序を維持するために、つまりは犯罪行為を取り締まるために、国家に暴力を委譲している。この論理は民主主義国家のみならず、専制国家であっても(少なくとも表向きは)通用する論理である。民主主義国家が専制国家より優れているとされるのは、この暴力の制御が国民に近いところで行なうことができると考えられているからに過ぎない。

しかして現在の日本では、社会への犯罪行為の取り締まりは国家によって放棄されてしまった。その代わりに強化されようとしているのが、国家への犯罪行為である。その最も大きな兆候は、全国47都道府県で施行された暴力団排除条例だろう。このような「法」が、なぜ国法としてではなく地方の条例として全国で施行されたのか。この「裏」を考えてみる必要がある。

どうも一部の「偏差値の高い」連中は、「我々こそが国家」だと考え、その考えを実現しようと企んでいるフシがある。百万歩譲って、国家をかの連中に独占させることを許したとしても、社会を独占させることは許すことは出来ないし、そもそも不可能である。そして、国家が暴力を独占するために社会と交わした「契約」は、守られなければならない。その契約が履行されなくなれば、社会によって国家が裁かれることになる。

私が「偏差値の高い」輩を哀れというのは、そうした「当然のこと」を理解出来ていないからだ。社会は人間の作るものだが、かといって完全な人工物ではない。「自然な人工物」とでも言うべきもの。そして「自然的なもの」は、人間の力では完全に制御することはできない。うまくやろうとすればするほど、あとのしっぺ返しは大きい。

私たちは、原子力に大きな夢を見た。それは自然を完全に制御できるという「夢」だった。その夢は、大きなしっぺ返しとともに破れたのだ。その現実を見据える必要がある。

『天辺の糸』

誰かのために。

この「誰か」は、もちろん 特定の「誰か」。特定される理由が、その人だからという以外に見つからないような「誰か」だ。

中途半端なアニオタの愚樵が(笑)、連想してしまった「誰かのために」を描いた話。今回はその紹介&ちょっとした解説をしてみたい。

漆原友紀原作の『蟲師』。その第19話、『天変の糸』。

ストーリーの粗筋は...、他所様の記事を読んでいただくくことにしよう。

 『蟲師 19話』 (JUNK KOLLEKTER)

真性アニオタ(?)の方々がこうして詳細な記事をあげて下さっているので、こういったときには本当に助かる。

(なお、ネット上に動画そのものもなくはないようだ。時間と興味のある方は(自己責任で)探してみて下さい。)

ストーリーのクライマックスは、いなくなった(見えなくなった)吹を思いならが、清志朗が夜空を見上げているシーン。ギンコに「誰よりあんたが、今の吹を受け入れられずにいるんだな」と鋭く指摘されるが、しかし、清志朗にしてみればふたりの結婚を認めてもらうために懸命に努力をしていたつもり。にもかかわらず、とうとう吹は見えなくなってしまった。途方に暮れながら夜空を見上げる清志朗は、かつての吹との会話を回想する。

 吹 「だから、明るくなってくるとなんだか寂しくなる。
    だんだん数が減っていって、気がつくとひとつもいなくなっている。
    みんな、昼間はどこへいってしまうんだろか。」
 清志朗 「バカだな、吹。
    昼間だって星は、ホントは空にあんだぞ。」
 吹 「ホントに?」
 清志朗 「本当だよ。
    陽の光が強いからみえなくなるだけで、本当はちゃんと空の上にあるんだ。」
 吹 「どこにもいかないんだ。
    見えなくても、ずっと空にいるんだ...!」

清志朗は、「誰かのために」はどうしたらよいか、気がつく。

ここで、『「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ』で交わしたアキラさんとの対話を。

「手入れ」というのは、自覚的(意識的)なものであるにもかかわらず、どこか謙虚さを身にまとってる気がします

ここで〈霊〉の考えを導入してみますとね。

手を出す対象を認識するとインターフェースの中に〈霊〉が生成されます。対象に手を出すと相手は変化しますが、その変化は〈霊〉という「像」をより精密なものにしていきます。で、〈霊〉が精緻になればなるほど、手出しもまた微妙なものになってゆく。謙虚なのは〈霊〉に従うからでしょう。

逆に傲慢になるのは、〈霊〉を【自我】に従わせようとするときですね。インターフェースの中に生成された〈霊〉を【自我】が勝手に改変してしまう。この「改変」に従って手を出してしまうと、相手からのフィードバックを受け付けなくなります。


清志朗ははじめ、己の【自我】に従い、吹に「手出し」をして「改変」しようとしていた。清志朗が吹を嫁にと欲し、吹はその申し出を悦んで受け入れたけれども、「吹を嫁にする」というのはあくまで清志朗の【自我】でしかなかったわけだ。清志朗はそのために吹からのフィードバックを受け入れられなくなっていた。ギンコが指摘したのは、まさにそのこと。

『天辺の糸』の話は、すんでのところで清志朗が吹の〈霊〉に従うことに気がつき、ハッピーエンドとなる。

まあ、それにしても。あくまで一般論だし、アニメの作り話を引き合いにするのもおかしなことだが、男は本当にどうしようもない。清志朗の振る舞いは、典型的に「男性的」と言っていいだろう。

本当に、男はバカだ。

コミュニケーションにおける水平型/垂直型

山やまさんとの対話。

個の確立における水平型/垂直型というような話を山やまさんのコメント欄に投稿したのだが。

 『ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか)』(yamachanblog)

山やまさんがこの記事でヘンリー・ダーガーという孤高の作家(と言えるのかどうかもわからない。本人は作品を発表する意志はなかったみたいだから)を紹介されていたのだが、そのダーガーに対して私は垂直型の個を確立した人だろうといった内容のコメントをした。

共同体の基礎理論 個の確立における垂直型/水平型の元ネタはこちら。3度目の引用。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


そういったところから、山やまさんの次なる記事は、話の焦点が垂直型/水平型「個の確立」から「コミュニケーション」へと移ったようだ。

 『誰かのために。キース・ジャレットの旋律。』(yamachanblog)

ぼくは若い頃は「垂直型」こそが芸術であって、両者のバランスを取ったものはつまらないと思っていました。いまでも「垂直型」の作品は好きなんですが、年をとるにしたがって両者のバランスが大事だと感じるようになりました。垂直型の個を確立していくことと水平型の個を確立していくことは矛盾しないというか、垂直型の個を確立していく過程で水平的な人間(他者)とつながることはすごくいいことで、それによって新たな視点が開けたりしてまた垂直方向に自分を見つめることができるようになったり。それがまた垂直型の個の確立にも還元していくんじゃないかと。循環しているような。
たぶんその垂直軸と水平軸のバランス配分で、「気持ちいい」と感じるポイントが人によって違うんだろうなと。同じ人物でも経験や月日を通してそのポイントが移り変わっていくんだろうなと。


ここで言われている「個の確立」は「コミュニケーション」に置き換えるとスッキリする。

水平的コミュニケーションと垂直的コミュニケーションは矛盾しない。それどころか、水平的コミュニケーションは垂直的コミュニケーションを育むもの。山やまさんはその例として子育てを挙げておられますが、その通りだろうと思う。

私は残念ながら子どもはおらず、従って子育てはできないので、別の例を出すことにする。

 『アイスブレイク』(愚樵空論)

「アイスブレイク」とは心の氷を砕くこと。つまり水平的コミュニケーションを円滑に行なうことができるようにすること。私がアイスブレイクを体験したのは、森との交感を体験してみようという講座においてだった。「森との交感」はいうなれば垂直的コミュニケーション。垂直的なコニュニケ-ションが為されるようになる条件は、十全な水平的コミュニケーションが為されていること。なぜそうなるのはかはわからない。人とはそのような生き物だというしかないだろう。アイスブレイクは、そうした人の性質を経験的に識っているインタープリターたちによって編み出されていった「技法」である。

もう少し言葉を継いでみよう。アイスブレイクは大人を子どもへと還すのである。独りで還るのはなかなか難しい。だから集団で還る。周りの人に心を解き放つことができるようになると、人は子どもへ還る。すると「センス・オブ・ワンダー」が発動する。繰り返し言うが、人間とはそのような生き物である。

ただし、ここでの水平的コミュニケーションはハラスメントを孕んだものであってはならない。創発的コミュニケーションである必要がある。

ところで。

私は人間の垂直的コニュニケ-ション能力を「霊性」と呼称したいと考えているわけだが、そうすると、垂直的コミュニケーションを発動させる水平的コミュニケーション能力をなんと呼べばよいのだろうか。思い浮かぶのは「アニミズム的霊性」だ。

ということは、「シャーマニズム的霊性」というのも存在することになる。一般的に「inspiration」と言われるものは、こちらだろう。何かの折りに“降りてくる”。あるいは“湧いてくる”。山やまさんが取り上げておられるキース・ジャレットがそうだ。

明日のコミュニケーション ところでところで。

私がソーシャルメディアが活性化させると期待しているのは、このアニミズム的霊性である。創発的コニュニケ-ションには「共感」が欠かせない。そして、ソーシャルメディアにおいては、共感は共通通貨である、という(右掲書によると)。「関与する生活者」による共感。その共感は、古代の人類が日々の営みのなかで育んだアニミズム的霊性に近いような気がする。

そんなふうに想像を巡らせていると、本当に面白い。人類はここまで来た。いや、還ってきたというべきか。「一般意志2.0」もアニミズム的霊性で読み解けるような気がするが、それは今後の課題。いずれにせよ、もう一段と「還る」には、「貨幣2.0」が必要だと思う。これは私の根拠のない直観だが。

希望の純粋形

『魔法少女まどか☆マギカ』ネタ。

最終12話冒頭。とうとうまどかが魔法少女へと「変身」してしまう。

それまでまどかを守ってきた暁美ほむらがラスボスである「ワルプルギスの夜」に追い込まれ、敗北必至の状況。ここに至ってまどかは自身の「願い」を見つけ出す。

以下、アニメからセリフを。

まどか 「私、やっとわかったの…叶えたい願い事を見つけたの。だから、そのためにこの命使うね。ごめん…ほんとにごめん。これまでずっと…ずっとずっとほむらちゃんに守られて、望まれてきたから今の私があるんだと思う。ほんとにごめん。そんな私がやっと見つけ出した答えなの。信じて?絶対に今日までのほむらちゃんを無駄にしたりしないから」

インキュベーター 「数多の世界の運命を束ね因果の特異点となった君ならどんな途方もない望みだろうと叶えられるだろう」

まどか 「本当だね?」

インキュベーター 「さあ、鹿目まどか。その魂を対価にして君は何を願う?」

まどか 「私……全ての魔女を生まれる前に消し去りたい!全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女をこの手で」

インキュベーター 「その祈りは!?そんな祈りが叶うとすればそれは時間干渉なんてレベルじゃない。因果律そのもに対する反逆だ!君は本当に神になるつもりかい?」

まどか 「神様でもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいて欲しい。それを邪魔するルールなんて壊してみせる…変えてみせる…これが私の祈り…私の願い。さぁ、叶えてよ?インキュベーター!!」


そして魔法少女まどか登場。いや「降臨」と言わなきゃならないんだよな(笑)



「ワルプルギスの夜」はまどかの一撃で消滅。強い。そればかりか、過去の魔法少女達も、まどかの放った「矢」で救済されていく。

一方でまどかは、すべての魔法少女達たちの因果を一身に引き受けることになってしまう。その結果、まどかは魔法少女から魔女へと転落していきそうになる。最悪最強の魔女へ。しかし。

まどか 「私の願いは全ての魔女を消し去ると。本当にそれが叶ったんだとしたら…私だって!もう絶望する必要なんてない!!」

まどかがどうなったのかは、これ以上は触れないでおこう。

さて。

ここで思い起こしたのが、テトラレンマ、だ。

テトラレンマとは、大乗仏教において最高度に抽象的な概念「空」を抽出した思考方法。四句否定とも言われる。ナーガールジュナ(龍樹)という人によって発見されている。論理を超えた論理で、わけがわからない。

「リンゴがあるとも、ないとも、その両者であるとも、その両者でないとも言うことはできない」
  (Webマガジンen Book Review 『空の思想史』 より)

 1.リンゴがある。
 2.リンゴはない。

1.と2.の句は相矛盾する。ジレンマである。

 3.その両者であるとも、その両者でないとも

これはジレンマの否定。その否定をさらに否定する。

 4.言うことはできない。

この思考操作で感じられるのが「空」というものらしい。わけがわからんがまあいいだろう。

『まどか』に話を戻す。最終回は、このテトラレンマの思考操作とよく似た構造になっている。

 1.少女は「願い(希望)」を抱いて魔法少女に変身する。
 2.魔法少女はやがて絶望し、魔女へと転落する

これは『魔法少女まどか☆マギカ』の設定であり、少女達はこのジレンマのなかで物語を展開していく。まどかは、このジレンマの中から願いを見出す。それが

 3.すべての魔女を生まれる前に消し去る。

インキュベーターが言うとおり、これは因果律(設定)の否定だ。そして、そう願ったまどかの因果もまた、否定される。

 (4.ここはインキュベーターの奇跡による自動的な否定になっている。その点が龍樹のテトラレンマとは異なる)

些細な違いはいいだろう。要はこの思考操作で何が感じられるかである。

まどか的テトラレンマの結果浮かび上がってきたのは、純粋な形としての「希望」である。大乗仏教-龍樹的テトラレンマは因果律を理解するための言葉の否定だったが、まどか的テトラレンマは(ジレンマ)をもたらす【システム】の否定し、希望を肯定する形になっている。四句肯定というべきか。

そう、純粋な形の「希望」とは「希望の肯定」である。もう一段言い換えると、母性であろう。

そういえば。

最終12話の直前の11話でのエピソードの以下のようなものがあった。

「ワルプルギスの夜」が襲来して街が破壊されていく。この段階ではまだ無力なまどかは家族と共に避難。しかし、ほむらは「ワルプルギスの夜」と戦っており、それをまどかは知っている。
まどかは魔法少女になる決断をして、ほむらと「ワルプルギスの夜」との戦場へ赴こうとする。避難所から抜け出そうとするまどかを母は引き留める。まどかは事情は話せないが、信じてくれと訴える。母は事情を聞かず、まどかを送り出す...

まどかの母性は、まどかの母から受け継がれていることが示されている。

もう少し想像を発展させてみよう。ここからは『まどか』のストーリーを離れた妄想だ。

まどかの母性は(上の画像からも推察されるとおり)ネオテニー、幼児進化である。まどかの母は身体的にも母になることによって(つまり父と結ばれることによって)母となった。だがまどかは父たる存在と結ばれることなく、いや、逆に結ばれることがなかったがゆえに、「純粋な希望」を体現することになった。まどかは最終的に消滅するが、もし復活するようなことがあったら...、キリストの再現になる。ただし、まどか=キリストは「父なる神」の降臨ではなく「母なる神」ということになるが。

「父なる神」が人類に対して求めたものは「契約」である。新旧のバイブル、クルアーンにおいてもその本質に変わりはない。だがもし「母なる神」が出現するならば、人類に対して求めるものは「契約」ではないはずだ。では、何になるのか?

今の段階では私にも想像がつかない。が、『まどか』のシナリオ・ライター虚淵玄氏は、『まどか2期』を構想しているとも伝えられる。もしかしたら復活したまどか=キリストが人類に対して求める、あるいは提供する「何か」の構想が虚淵玄氏の頭の中にはあるのかもしれない。

「あめつちの祈り」とクルアーン詠唱

ツイッターにもつぶやいてみたのだけれども、それだけでは物足りない感じなので、ブログにも挙げてみることにした。



 『あめつちの祈り』(ゆめやえいこ ゆめがたり)

最初に聴いたときは冴えない印象だったんだけど、何か引っかかるものがあって、再度聴き直してみたら、これは music というより chant だな、と思ってしまった。「祈り」と題してあることもある。

chantというと、思い浮かぶのがクルアーンの詠唱。これがまた美しいのだ。



学校の歴史で習うのはイスラムといえば「右手にコーラン、左手に剣」、つまり「改宗か、しからずんば死か」だったわけだが、そんなのが嘘っぱちだったということは、この詠唱を聴いただけでも直観できるだろう。過去、イスラーム帝国が強力な軍隊でもって領土を拡張していったのは事実だろうけれども、ムスリムへの改宗の理由は強制ではなく、この「美しさ」にあったのだろう。なにしろクルアーンは神が作った書物なのだから、完璧なのである。詠唱すれば美しいに決まっている。ムハンマド(文盲だったらしい)はこの美しさこそが神がクルアーンを作ったことの証明だと言ったらしい。そうではないと思うのなら、クルアーンを超える文章を作ってみよ、と。

私はアラビア語なんてまるでわからないから、クルアーンの美しさと言っても本当のところはわからない。が、とにかく美しいとは思う。そして、chantとしてみてみたとき、『あめつちの歌」は素朴だ。洗練度で天と地ほどの開きがある――あちらは神のものだから――といってもいいだろう。でも私は、この素朴な「祈り」に心惹かれるものがある。自身の日本人としての「原型」のようなものに触れるような気がする。



この写真は昔、紀州の山で仕事をしていたときのもの。伐採を始める前に、このようなものをつくって「山の神」にお供えをした。板きれに「大山神」と書いて、その前に男の陰物と酒や塩、食物をそなえる。塩はないし、食物も本当は海の魚がいいんだけど、そういうところはいい加減。また、私なんかは「大山神」は「大山祇神」「大山祇命」と想像するんだけど、だとすると、これは男の神なので陰物はおかしい(笑) 大山祇命は富士山の木花咲耶姫や浅間山の岩屋姫の父上にあたると神話ではされているから。でも、そんな「細かいこと」は関係がない。へっちゃら。

この、でたらめな素朴さ。なんでもいいのである。とにかく祈れば。「神の完璧」なんて、眼中にない。もちろん、日本人にだって洗練された神の祈りがないわけではない。伊勢神宮あたりでは格式の高い儀式が現在も執り行われているだろう。また皇居のなかでも行なわれているだろう。でも日本人として、神に近いと感じるのは、いや、かつて感じていたのは、このでたらめな方だという気がしてならない。

ムスリム達は日に五回、何処であろうが彼処であろうがメッカに向かって礼拝をするわけだけれども、やはりより「神に近い」と感じるのは壮麗なモスクのなかで行なう金曜の礼拝だろうと想像する。その点、日本人とは正反対だ。

日本でも昔は伊勢参り・熊野詣で・富士講と「格式の高い神」に詣るのは盛んで、それは今も続いているけれども、神に近い「本当のところ」は現代は失われてしまっている、と思う。歴史的にいうと、明治政府が廃仏毀釈とともに「素朴な祈り」を国家神道へと統合させてしまうことで、打ち壊してしまったのである。

では、日本人の「素朴な祈り」への性向が全くなくなったのかというと、そうではないと思う。上の写真のでたらめな「祈り」に私が遭遇できたのはど田舎だからだったわけだけれども、それをなぜか「ほんもの」と感じてしまう、私自身。そして「感じてしまう」ことから、自身をどうしようもなく日本人なんだと捉え直してしまう。

ゆめやえいこさんの『あめつちの歌』にも、同じような「気」を感じる。このヘタクソな音楽(ごめんなさい!)は、洗練されていないからこそかえって、自身の持つ心性に近いように感じてしまう。つまり「神に近い」感じを受けるのである。素朴な人たちの素朴な収穫の感謝の祈りだ。

「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ

私は愚樵と名乗っている林業従事者だが、実は樵と林業従事者とは微妙に違っている――、というようなことをコメント欄で言ってしまったが、せっかくというわけでもないのだが、樵の目から林業という産業がどのように見えているのかを、少し書いてみることにする。ちょうどよいネタもあったことだし。

朝日新聞の山梨地方版より

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5〉「悲しみの森」に下流域の人招く

2011年11月19日

   ■手入れの大切さツアーで伝える

 「ここが悲しみの森です。手入れがされずに光も入らない。かわいそうだが、不健康な樹木です」

 大月市笹子町、滝子山に向かう登山道を登りながら、ガイドの○○○○さん(73)が説明する。市が今月6日に開いた「悲しみの森・癒やしの森トレッキングツアー」。東京都などから約20人が参加した。

 不健康な森と間伐などがされた「癒やしの森」を比べ、森の荒廃をじかに知ってもらおうという狙いだ。

 植林後、育った樹木を間引いていくのが間伐だ。森が密集すると木への栄養が回らず、1本ずつが細くなる。光が入らず下草も生えないから保水力も弱くなる。それらを防ぐためだ。

 ○○さんは先祖が残した28ヘクタールの森に、暇があれば足を運ぶ。枝切りや下草刈りをするが、間伐にはなかなか手を出せない。切った杉の丸太価格は1トン約1万円。チェーンソーの使い手を雇い、搬出料を払えば完全な赤字に陥ってしまう。

    □

 大月市では全面積の87%が森林。その半分を占める民有林のほとんどが「悲しみの森」だ。

 この日のツアーに加わった××××さんは東京都奥多摩町などで自然解説員をしている。「手入れされていない人工林の問題が、地元の方のなまの話でよくわかりました」という。

 売れないから、伐期を過ぎても植えたままの木はやがて立ち枯れし、森の本格的な荒廃が始まる。「対策を講じなければ20年後に現実となる。民有林維持は上流の個人や自治体だけではもう限界です」と、ツアーを企画した大月市産業建設部の佐藤次男部長は話す。

 神奈川県は来年度から5年間、山梨県での森林整備などに3億6500万円を負担する。笹子の森を「荒廃林の博物館」にして、水源を上流に頼る下流域の人を招く、そして財政支援の一層の拡大に向けた世論を高めていきたい――。それが市の一番の狙いだ。

    □

 実験とも言える今回のツアーにかかわったJTBコミュニケーションズなどJTBグループが、来年度以降の商品化に向けた検討を進める。○○さんたち地元で組織する笹子町運営委員会が「おもてなし」を担当する。今回も、ツアー参加者へのお弁当やうどんなどは地元が用意した。

 カメラ部品の下請け製造をしていた壮年期、○○さんは森にあまり目を向けなかった。周りの人たちも同様で、当時、隣近所の交流は少なくなっていた。

 「悲しみの森」が減るかもしれないと地域で動き出したいま、まとまりが強まった気がするという。絆を固め直してくれた森の力を○○さんは再発見した。

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批判的なことを書くのでリンクは貼らず、個人名は伏せ字にして引用させてもらった(役人は個人とは考えない)。

この記事、私に言わせれば、ひとこと。「手前勝手なことを言っていやがる。」

人工林の手入れが行き届かず、荒廃しているのは事実だ。事実は否定できない。が、直近の事実だけを見ていては判断を誤る。福島を中心に放射能汚染が広がっていて除染が必要なことは事実だが、事実だけをみて原因を見ないのは片手落ち。この記事も事実だけを見て原因を見ない、いかにも朝日らしいものだ。

では、人工林荒廃の原因とは何か。人工林にしてしまったことである。

人工林は手入れを必要とする。そういうものだ。それを知らなかったとは言わせない。そしてその決断をしたのはその山林の所有者である。ならば、荒廃の責任は所有者が負うべき。

あいや、これは純粋に樵の視点ではない。自己責任という新自由主義的な感があると思われるかしれない。が、「樵」の視点からそう遠いものでもない。「樵」の視点で言えば、人工林とはいえ、森は生き物である。人工林を造林するということは、生き物をペットとして飼うのと同じだ。ペットを飼い始めたのなら、飼い主は最後まで責任をもって面倒をみよ。ごくごく当然の論理であろう。

目の前の手入れが行き届いていない人工林が不健康なのは事実であろう。そういう事実を私自身も日々確認している。が、責任者がそれを「悲しみの森」という資格はない。自分の飼っているペットを世話もせずエサもやらずにいて、「この子はカワイソウ」と言っているようなものだ。動物を好きな人が聞いたら怒り狂うだろう。だから私も怒っている。

ここにあるのはダブルスタンダードである。所有者は一方では山林を先祖から受け継いだ財産だと見ている。つまり私有物だ。その資産価値が減っている。財産価値は市場に左右されるから、それは当然のこととして受け入れるしかないし、実際、多くの人が(土地価格の暴落など)受け入れているのだが、山林所有者は異なる。一方で生き物と見て「カワイソウ」というのである。「だから手入れをしてあげて下さい。みんなのお金で。」 そうして上昇した資産価値は所有者の懐に入ることは言わない。

壮年期に関心がなかったというのは、事実だろうが、欺瞞である。金にならなかったから関心がなかっただけだろう。そのような手前勝手が巡り巡って地域の「絆」を断ち切っていった。年老いてそれに気がついた。絆を復活させるのに先祖から受け継いだ山林が使えると気がついた。そこまではいい。でも反省はしていない。社会の所為にしている。木材の価格が下落したから。その論理は、えさ代が高くなったからエサをやれなくなったと言っているの同じだ。

どうしてもエサ代を賄えなくなったらどうするか。他人に譲るか、処分する。それが社会のルールだろう。先祖伝来でさぞ辛かろうというのは、ペットに情が移って辛かろうというのと同じ。処分や譲渡がいやなら、身を削ってでもエサ代を調達するしかない。みんなそうしているのである。山林所有者だけが、そういった辛さを免れてよいという法はない。

(ただし。実名は伏せたがこの記事に取り上げられた○○さんは、自身の費用と労力で(つまり赤字で)手入れをしているのかもしれない。記事で取り上げられた場所をたぶん、私は実際に知っている。その場所は、自分たちで手入れをしたというふうに、伝聞であるが、聞いている。)

このダブルスタンダード&無責任に輪をかけるのが行政である。山林が私有財産であるということには目を瞑り、環境を保持する共有財産としての価値にだけ目を注目する。共有財産というのは、森は生き物であるということだ。生き物を蔑ろにすると、被害が出る。だから食い止める。林業という産業は、このダブルスタンダード&無責任の狭間で辛うじて息を繋いでいる。

「樵」の目から見れば、森の所有者が誰であろうと基本的には関係はない。生き物としての森に向き合い、それを社会の役に立てる。そういう役割である、というだけのことだ。でも、現代社会では、そういう役割では食えない。だから樵らしきことをしようと思うと、「狭間」で息づく林業従事者になるしかない。

そうそう。上の新聞記事の明らかな間違いを指摘しておこう。

「売れないから、伐期を過ぎても植えたままの木はやがて立ち枯れし、森の本格的な荒廃が始まる。」

こんなの嘘である。手入れをされてない人工林は、やがて天然林に還る。それだけのことだ。飼い犬を放せば野犬化するが、その過程で一時的に人間に被害を及ぼす。同じように、人工林から天然林へと移行する過程で、一時的に環境は悪化する。が、森という生き物のスパンで見れば、それは一時的なことでしかない。人間のスパンでものをみるから被害が出るということになるし、それは事実なのだが、受け入れるしかない。「本格的な荒廃」というと林が全滅すると連想してしまうが、そんなことはまずない(土砂崩れなどの危険も高まるので、ないとは言えない)。この文言は、環境保護という名目で金を出させることへ世論を誘導する意図で書かれている。

人の手に負えなくなれば、自然へ還せ。その際、所有権はもちろん放棄である。林業従事者としての稼ぎ先は減るが、樵としてはそれでいい。ただ、日本にはそういったことができる、もしくは強制的にでもさせる法整備は為されていないのが現実であろう。ジャーナリズムはつまらない行政ヨイショ記事など書いていないで、社会の現実にこそ目を向けなければならない。

朝日新聞よ、もっと勉強せよ。

「ワルプルギスの夜」

〈霊〉にかまけている間に、『まどか☆マギカ』シリーズがすっかりお留守になってしまっていた。

今回は「ワルプルギスの夜」。『まどか☆マギカ』に登場する、ラスボスである。
ちょうど良い動画がグーグル検索上位にヒットしてきたので、貼り付けておく。



『まどか☆マギカ』の元ネタと目されている『ファウスト』にも、「ワルプルギスの夜」は当然出てくる。

メフィストーフェレスの力を借りてファウストはグレートヒェンを拐かすが、愛すること以外は何もできない少女はファウストとの恋愛を責められ、罪を犯してしまう。ファウストは逃げ出してしまうが、その逃走先が魔女の集会、ワルプルギスの夜。もちろん、メフィストの手引きだ。

その「ワルプルギスの夜」をイメージした音楽が、有名な『幻想交響曲』の最終楽章。これも動画を貼り付けておこうか。



おどろおどろしい乱痴気騒ぎが聴き取れるだろうか。

ところが『まどか☆マギカ』の「ワルプルギスの夜」は、印象がかなり違う。

ワルプル


歯車がマントを上下逆さまに纏っている? この姿、形。どのように形容すればいいだろうか。
「ワルプルギスの夜」→魔女の集会→魔女の集合体→歯車 なのである。

モダンタイムス


これまた有名なチャップリンの『モダン・タイムス』だが、この「歯車」と被るような気がするのは私だけであろうか。

そう。【システム】である。人々の「願い」を実現する合理性が、その合理性ゆえに自律性をもち、暴走する。チャップリンの時代は、【システム】はまだ人々を翻弄する程度のシロモノだったが、現代では世界を破壊するバケモノとして描かれる。

用心に越したことはない その2

用心1
今朝の新聞記事から。

地球自体が激動期に入ったという話もアチコチで見聞きするけれども、そう考えておいた方が良さそう。

噴火があるなら青木ヶ原樹海方面。「剗の海(せのうみ)」が溶岩で埋まって、本栖・精進・西の3湖に別れたという大噴火になる、その周辺のGPS観測器が他の場所と比べて大きな隆起を示している――なんて情報も、どこかで見たような気がする。

どうせ噴火するなら、山頂から火を噴いたら面白いのに――と、思ったりもするが(苦笑)

いずれにせよ、イザというときの用心、心構えだけはしておいてもよさそうだ。

用心2


こちらは本栖湖周辺で、山林火災に備えて防火線を切る仕事をしたときのものだけど。噴火なら防火線は意味ないだろうな。

理性ではないと思う

今回も他所様のブログ記事から。わが愚樵空論ではおなじみになった逍花さん。

 『シャンカール・ヴェダンタム著『隠れた脳』―人類の進化の過程で獲得されたバイアス』

隠された能 人間にはさまざまな「バイアス」がかかっている。震災の折り、「正常化バイアス」が働いてしまったことが「命の分かれ目」になってしまったいった話は多く語られたし、『隠れた脳』ではそういった事例がたくさん挙げられ、解説されているらしい。「隠された脳」とは、「バイアスを生じせしめる脳」というような意味だろう。そしてそれは、人類の進化過程で獲得されたものである、という結論になっているらしい。

私はまだ本書は読んでいないわけだけれども、この結論には、「まあ、そんなものだろう」となんとなく納得する。だが、その続きには違和感を持つ。

「本書では、理性的な脳が隠れた脳の働きを抑えるのが困難であると説明しているが、理性こそがバイアスを防ぐ唯一の手段だということも主張したい」


その理性信仰こそが、もっとも根源的なバイアスではないのか。

ふしぎなキリスト教

 哲学の中心には、理性があります。理性はもともと、ギリシアで発展した。この点は、詳しくのべなくても、周知のことでしょう。
 キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけれど、イスラム経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。その結論は非常に重要。キリスト教の考え方では、神は世界を創造した。人間も創造した。神にはその設計図があり、意図があるんです。人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければいけません。でも、どうやって? その可能性を与えるのが、理性なんです。
 トマス・アクィナスに、自然法論というのがあります。『神学大全』の、ユダヤ法について書いてある「旧法」の部分をみると、法には「神の法があり、自然法があり、国王の法がある」と書いてある。キリスト教神学の教えるところによれば、法は、神の法/自然法/国王の法(人間のつくった法、制定法のこと)と、階層構造になっている。神の法とは、神が宇宙をつくった設計図のことです。これは、神の言葉で神の書物に書いてあり、人間は目にできないし、理解することもできない。ただし、一部分であれば、人間も知ることができる。その一部分を、自然法といいます。自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。ゆえに、自然法を発見できる。こう位置づけるのが、キリスト教神学です。
 自然法と言いましたが、キリスト教のいう「自然」(ネイチャー)は、理解がむずかしい。私の理解では、自然とは、「神がつくったそのまま」という意味。神の業で、人間の業ではない。神につくられた山や川はそのままで自然だし、植物や動物も自然。動物は自然にふるまうので、罪を犯す(神に背く)ことができません。それから、神につくられた人間の生まれつきの性質(ネイチャー)も自然。法律にも自然なものがある。泥棒や殺人は、人間の理性で考えて、なるほど、それはいけない、と思えるので、神が定めた「自然法」なのです。(ちなみに、ユダヤ法やイスラム法は、神の法がはっきり聖典のなかに書いてあるので、それを読めばよく、聖典の外に、わざわざ自然法を発見するという発想がありません。)
 理性にこのような位置を与えると、信仰を持ち、理性もはたらかせるのが、正しい態度ということになる。理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。
 ためしに理性を、神に向けるとどうなるか。理性で、神をとらえられるか。理性は神が人間に与えた能力なので、その能力を使えば、神が確実に存在することを証明できるに違いない。これが神学の、最初のテーマだった(神学といっても、中身は哲学です)。やってみると、あまりうまく行かない。そこで、理性の届かない先に、信仰のもたらす知識(神の恩恵)がある、ということに落ち着いた。理性/信仰は、両方とも人間に必要である。神は、理性によってその全貌がとらえられないのです。
 しかし、逆に言えば、神が創造したこの世界(宇宙)は、神ではないから、人間の理性で残らず解明できるとも言える。宇宙に理性を適用したら、神の意図や設計図が読解できないか。これも信仰に生きる道である。こうして、自然科学を始める態勢が整ったことになります。しかもこれは、アリストテレスの自然学ではない。アリストテレスはたしかに理性を使って、自然はこうなっていると書いたけれども、それは神の設計図どおりである証拠がない。それを、自分の理性を使って確かめてみましょう。そうしたら、コペルニクスになり、ケプラーになり、デカルトになり、ニュートンになるでしょう。
 自然現象がうまく解明できたら、今度は、社会現象についても理性を適用してみよう、となる。そうしたら、スピノザになり、ホッブズになり、ルソーになり、ロックになり、ヒュームになり、カントになるでしょう。ヘーゲル、マルクスにもなったりした。
 これら(哲学、自然科学、社会科学)は、信仰が理性を正しいものと是認したことでスタートし、キリスト教的文脈と離れても、ときにはキリスト教に反対してまでも、理性的にふるまう理性主義を生み出した。たとえばフランスでは、大革命のときに、カトリック教会と絶縁し、教会領を没収し、フランス共和国を樹立し、理性神を拝んだりした。


以上、掟破りの長々引用は、橋爪氏の発言。(p.280~283)

人間にはどうしても「バイアス」がかかる。なぜならそれは、進化の過程で獲得したものだから。いうなれば「自然法」だ。しかし「バイアス」は、時にはマイナスに作用することもある。だから「バイアス」を見定めて解放されていく必要も生じる。その解放された状態は、「自然法」の上部構造である「神の法」に――完全に理解することは原理上不可能だが――近づくこと。そして、そのアクセス法は唯一理性のみ。まったく見事なキリスト教の「バイアス」ではないか。

キリスト教文化に馴染みの薄い私たち日本人は、理性と霊感とは水と油、相反するものだと前提している。その前提は確かに、キリスト教文化でいう「自然法」理解の範囲においては有効だ。だが、「自然法」の範囲を超えてしまうと、途端に無効になる。

『ふしぎなキリスト教』からの引用でも明らかなように、欧米人のいう理性(reason)には霊感(inspiration)が含まれている。だからこそ「自然法」を超えたところでも、理性でアクセス出来ると考える。近代の日本人はそうした欧米人の理性信仰の上っ面だけを真似てしまった。霊感を切り捨てた理性を「理性」だと勘違いした。そして、近代化を推し進める過程で「ニセ理性」へと傾斜し、霊感を切り捨ててしまった。「inspiration」と表現されると先進的に受け取るのに、その訳語の「霊感」とすると途端に前時代的なものを感じてしまう。これこそ「日本的ミスマッチ」である。

日本人の霊感は、感性のなかにある。日本人は超越神を信じていないから、神の設計図――「神の法」などがあるとも思っていない。設計図なら感得するのは理性だというのはスジが通る。だが、設計図の存在しない「混沌」から「何か」を感得するとなれば、それは感性でしかありえないはずだ。

で、ここで疑問。

以上のようなことを感じ取るのは、理性か感性か? どちらも当てはまるような気もするし、どちらでもないような気もする。「悟性」といいたいところだけど、カントやヘーゲルだって「キリスト教バイアス」だから不用意には使えない。仏教的に「識」といえば良いのだろうか? それも私にはまだよくわからない。

いずれにせよ、ひとついえそうなこと。それは、キリスト教起源の「近代」に過適応してしまい「近代」に違和感を持ち始めている日本人は、実は様々な「バイアス」から自由な位置にいるのではないのか、ということ。「バイアス」から自由なことが逆に価値観の混乱をもたらしている。そのように考えるなら、私たちが為すべきは、自分たちの「バイアス」を創り上げることだということになるだろう。

ただし。ここで留意しておくべきことがある。それは「創り上げる」は「作る」ではないということ。むしろ「育て上げる」と言った方がよい。なにせ「バイアス」である。無理に作ろうとすると、必ず歪みを生む。戦前の日本のように。また、3.11後の日本が戦前のようになりつつあるという声も多く聞く。だが、希望はあると私は思っている。

その希望の大きな光のひとつがソーシャルメディアだ。マスメディアは世論を「作る」ものだったが、ソーシャルメディアは「育てる」ものだと、言って良さそうに思う。まだ断言は出来ないけれど。それとも、そうした見方は私の「バイアス」なのだろうか?

ただいま作業中

久々に山で作業中の様子をば、アップしてみようと思ってしまったので。

作業中1


ケータイの写メで撮ったので、どうも写りはよくないが、今、こんな感じで木々をブッ倒している。

樹種は、主にシラベとカラマツ。写っているのはシラベのほう。

矢をブチかまして、斜面上方へ起こして、伐り倒してある。

矢をブチかますのはふだんは大変なんだけど、ここは木はさほど大きくないし斜面はなだらかだから、まだまだ楽チン。富士の裾野だからね。



これがその証拠写真。シラベの枝の向こうに見える、斜め右上への「白」は富士山に積もった雪ですね。

(写メだと極端に明るくなったり暗くなったり、露光調整(?)が上手く行かない...)。

こんなような作業をやりながら、日々、どうしようもないことを考えている愚樵です。

ああ、伐り倒した木はもちろん搬出します。

一般意志2.0と共感と仕事

『一般意志2.0と新しい政治メディア(東浩紀と津田大介)』(yamachanblog)

を読んで、朝から少し考えた。

哲学についてよくいわれることに、「哲学を学ぶ」ことと「哲学する」こととは根本的に異なる、というのがある。一般意志もそれと同じじゃないか、と。つまり、「一般意志を学ぶ」ということと「一般意志する」とは異なる。

では、一般意志における1.0と2.0の違いは何か。1.0は「一般的に学ぶことを通じて「意志する」。2.0は「一般的には学ばずに意志する」。という言い方は誤解を与えるか。ここでいう学ぶというのは、「deliberate」。東浩紀氏が、この「deliberate」の語義の二重性を語っているが(6分20秒あたりから)、



つまり「一般的に学ぶ」とは「熟議」するであり、「deliberate」はそのように解釈することも可能だけれども、その解釈だけではなくて、「十分に情報を与えられた人間が熟慮(deliberate)する」と捉えることもできる。そうなると「deliberate」は、一般意志に相当する「哲学を学ぶ」ようなことは抜きに、いきなり個人的に「哲学する」というようなことだと言えそうで、そのよう個人的な「deliberate」の総体が「一般意志2.0」ということになる。

もう少し言葉を継いでみよう。

「哲学を学ぶ」のはかなり大変なことだ。プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン。マルクスだって外せないし、最先端で語りたいと欲するならフーコーやデリダやハーバマスなんかも勉強しなくちゃならない。これらの思想に一応は通じていないと「哲学を学」んだことにはならない、と一般的には考えられる。そしてそれは「偏差値」の高い人でなけれ無理だ、と。 「一般意志」もそれと同じで、哲学はともかくも、法律政治経済国際関係エトセトラetc、社会のあらゆることに一応は通じていなければいなければ捉えられない。というのも、「一般意志」が政府を選ぶから。よく考えると、べつにあらゆることに通じてなくなっていいし、現に通じていない国会議員や官僚もたくさんいるわけだが、それでも国民の一般意志として、通じてなきゃいけないという思いは漠然としてある。その思いが「偏差値」へと(近代日本では)繋がっていく。

で、そういった近代日本的一般意志がどう働くかというと、政府を動かす人も批判する人も「偏差値」の高い人ということになって、「偏差値」が低いと思っている者は基本的に政治へは参加しない。参加するのは煽られたときだけ。つまり端的に「B層」である。

が。立ち返って考えてみれば「哲学をする」のに「哲学を学ぶ」必要性は必ずしもない(それでやっているのがわが空論である! 笑)。同様に、意志するのに、必ずしも「一般意志を学ぶ」必要はないし、そのための「熟議(deliberate)」する必要もない。政府を動かすのならその必要はあるだろう。が、政府の外で「意志する」のであれば、別に「熟議(deliberate)」は必要ない。個人的な「熟慮(deliberate)」があればいい。

私なりに勝手に解釈すると、「一般意志2.0」というのは、そんなものかと。

では、「一般意志2.0」はどのような形で立ち現れるか。もしくは可視化されるか。
私が思うのは「共感」と「仕事」である。

1.0であれ2.0であれ「一般意志」が全体として立ち現れ可視化されることはない(私の言葉でいうと「一般意志」も〈霊〉である)。立ち現れ可視化されるのは、個人個人が言葉や行動によってのみ。そして1.0の場合、それは多くは「批判」という形を 取る。

というのも、実際に政府を動かしているのは「偏差値」の高い者たちのなかの一握りだから。そして民主主義1.0においては、政府を「批判する」ことこそが「参加」だと受け止められている。宮台氏がよく言っているが「文句を垂れる」ことは「参加」ではない。政治制度の上では与党に文句を垂れるために共産党に投票するという行動だって立派な「参加」だけれども、それは本当の意味での「参加」ではない。

デモは本当の意味での「参加」になるだろう。が、それも「偏差値」の高い者たちの行動である。近代日本的な文脈では、デモなどで政治に「参加」しようとすること自体が、「偏差値」の高い行動だと受け止められる。

これが2.0になるとどうなるか。「デモなんかに参加している暇と労力があるのなら、自分で「政治」をせよ!」ということになるだろう。その「政治」の方法が「共感」と「仕事」だ。

十分に情報を与えられ(なくても)、「熟慮(deliberate)」した人間が為す行動は「仕事」と「共感」である。「仕事」は、近代日本的な意味では「稼ぎ」、つまり、労働力を【商品】として売るか、あるいは労働力商品を転売して儲けるか、いずれにせよ「金を稼ぐ」ことであるが、本来的な意味での「仕事」はそういう意味ではない。「事に仕える」とは、共同体を維持するために行なわれる労働のこと。「仕事」が政府の役割であるかのかどうかは、夜警国家vs福祉国家といった軸を中心にして議論はあるけれども、近代日本では「仕事」は国家の役割だと捉えられてきた。そして、国民の多くは「仕事」はせずにブー垂れていればいいということになった。これでは「国」という共同体がバラバラになるのも道理である。

民主主義2.0のプラットフォームが整った社会では、「熟慮(deliberate)」した個人は自身が主体となって「政治=仕事」を行なおうとするだろう。それを支えるのが「共感」である。「共感」もまた「熟慮(deliberate)」の末の行動である。「共感」の後は、ともに「仕事」に参加するもよし。それが無理なら寄付もよし。津田大介氏が構想しているのは、主に「共感寄付」のプラットフォームだろう。

 Twitterが狙うのは「送金のプラットフォーム」

(この主張に対しては、私は『ソーシャルメディアに送金機能は必要ない』と「反論」したが。)

私も「一般意志2.0」「民主主義2.0」は賛成だ。

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最後に少々偉そうなことを書き足しておこう。私はすでに手前勝手な「哲学」で、このようなことは考えていた。だから、上で展開した議論は実は「考えた」のでなくて、すでに考えていたことの「読み替え」に過ぎない。自身の考えを「一般意志2.0」「民主主義2.0」という言葉を使って書き換えただけ。だから、私の「読み替え」は「東浩紀」の「読み間違え」の可能性も高い。というより、そもそもあまり「東浩紀」は読んでいないし。

仮に私が「読み間違え」でないとしたら、次のように言っておかなければならない。「一般意志2.0」「民主主義2.0」の最大の障壁は「貨幣1.0」である、と。私が「一般意志2.0」「民主主義2.0」に辿り着いたのは「貨幣2.0」について考察を通じてである。「貨幣1.0」のもとでは「一般意志2.0」的に振る舞うのは非合理的で不利である。ということは、「仕事」を支えるはずの「共感寄付」は、「貨幣1.0」のもとではどうしても「一般意志1.0」的な思考を経由してからでないと行えないということになってしまう。つまり自身の不利を顧みず、“社会のために”行動することが求められる。

このあたりの話はまた機会を改めてすることにして、「貨幣2.0」について考えた過去記事を紹介して、締めとしよう。

 『貨幣の「垂直性」』

ああ、そうそう。いずれにせよ『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』は読んでみなきゃ。本を買って読むというのは、樵には労力的にも経済的にも大変なんだが。たかだか2000円でも、ね。

何者でもない者への憧れ

それが最初に描かれたのは、私の知る範囲では、『涼宮ハルヒの憂鬱』。
(それより前は、単に知らないだけ。見てないから。)


東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。
このなかに、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者、いたらあたしのところに来なさい。以上!

「これ、笑うとこ?」

上の画像は、ハルヒがそのように第一声を発したシーンからのもの。有名なところだから、ご存知であろう。
(動画を抜き出してきて貼り付けようかと思ったが、面倒だからやめた)

『ハルヒ』の特徴を一言でいうならば、「非日常から日常へ」であろう。「特別から普通へ」と言い換えてもいい。

ハルヒは日常に飽き飽きしている少女。だから、ハルヒが望むのは非日常。宇宙人未来人異世界人超能力者は、そうしたハルヒの願望である。ところが当のハルヒ自身が、実はもっとも非日常的な存在だった――これが『ハルヒ』の基本設定だ。

この設定から紡ぎ出されていく物語は、「非日常な日常」。宇宙人未来人超能力者(異世界人は出てこない?)と超越者ハルヒが巻き起こす、視聴者から見れば非日常な出来事。視聴者は物語の非日常性を楽しむことができる。ありきたりの日常など面白いはずがない。

だが、非日常性は『ハルヒ』の軸ではない。『ハルヒ』にふんだんに盛り込まれている「萌え」要素と同じで、物語を娯楽的にするためのトッピング、ご飯にかけるふりかけみたいなものだ。ご飯そのものではない。

「ご飯」にあたるものは、裏設定である。それは物語を通じて明らかになっていく。つまり「ハルヒの成長」として描かれる。では、ハルヒはどのように「成長」したのか。あるいは「ハルヒと愉快な仲間たち」はどのように成長したのか。それは「非日常なハルヒを日常的に受け入れる」ということであり、実はハルヒ自身もそのことを「自身も気がつかないうちに心のなかでは望んでいた」ことが明らかになること。

架空のキャラであるハルヒが架空の物語のなかで気がつくかどうかは、どうでもいい。重要なのは、視聴者が気がつくかどうか。私は気がついた。多くの人も気がついたであろう。特別な存在から、普通の存在へ。特別であろうとなかろうと関係なく、普通に受け入れ受け入れられる関係へ。

そう。SOS団はHTTである。
ただ、SOS団はトッピング的要素として非日常性が高い。HTTは低い。にもかかわらず『けいおん!』は、物語として楽しむことができるし、広く支持もされている。これは物語の「進化」であろうし、視聴者側の「進化」でもあろう。

この「進化」はしかし、私のような40過ぎの世代が当たり前のものとして受け取っていた「進化」とは明らかに異なる。我々は「進化」を「日常から非日常へ」「普通から特別へ」と捉えていた。親たちからそのように教育されていたということもあるが、自身でもそのように「進化」していくことが当然だと思っていた。苦しくても悲しくても、特別な存在になるためには歯を食いしばって頑張るものだと思っていた。



懐かしさもあるが、今となっては重苦しいのも否めない。



比べてみると、こちらはバカバカしいくらいに、軽い。義務感や使命感などといったものはクスリにもしたくないといった感じ。でも、好き勝手やっているようでいて、そうではない。「和」を保とうとする意識はある。むしろ、それしかないと言ってもいいくらいだ。

『ハルヒ』や『けいおん!』のようなアニメは「空気系」と総称されるらしいが、私、愚樵的に表現するならば〈社会〉系になる。「空気系」の前に「セカイ系」というのがあったが、こちらは【社会】系。〈社会〉とは、宮台真司式にいえば〈生活世界〉。【社会】は〈システム〉である。すなわち「空気系」は、ごくごくありふれた〈生活世界〉再建への「進化」であると見る。〈生活世界〉のなかでは、誰もが特別ではない普通の「何者でもないもの」である。

ただ、そう見るならば、いまだ「空気系」には非常に大きなものが欠けているということに気がつかざるを得ない。それは家族である。『ハルヒ』にも『けいおん!』にも家族が出てこない。家族のない〈生活世界〉などありえないのである。

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リトル・ピープルの時代

  ← これから読んでみようと思っている。
 「リトル・ピープル」というのは村上春樹に出てくるアレだが、〈生活世界〉に生きる人というような意味でもあるのではないか、と。もっともこれは、読書前の予想だが。

〈霊〉について 〔再掲載〕身体性=脳の拡張性

再度、〈霊〉について。

『霊魂』のエントリーで私は、〈霊〉を以下のように定義した。

   1.人間には「魂」と呼ぶべき本来的な運動状態がある。
 2.魂は外界とのやりとりのなかで〈学習〉し、「インターフェース」を発達させる。
 3.〈霊〉とは、インターフェースのなかで結ばれる他者の「像」である。

今回は、〈霊〉を生じさせる〈学習〉について。過去記事において私は、〈学習〉を「身体性」あるいは「脳の拡張性」と呼んだ。

では、その過去記事の一部を再掲載。なお、表現を少し修正してある。

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「脳の拡張性」とはどういったことなのか? ここは説明の要する。そのことを説明するためにまず、「脳と身体の基本的な関係」から見ていく。

脳と身体は神経によって繋がっている。脳は身体に備わった感覚装置から情報を受け取り、その情報を元に身体を動かす。脳の中には、身体の各部位に対応する回路が形成され、例えば右手を動かす場合には、脳の中の右手に対応する回路が活発に作動し、その回路で処理された情報が神経を通じて右手に伝達されて、右手が動かされることになる。


こうした脳と身体の動作を簡単に示したのが上の図であり、「脳と身体の基本的な関係」である。(脳と身体は、神経回路で物理的に接続されている)。 では、「脳の拡張性」とはどういうことになるのか? 下の図が「脳の拡張性」を表す図になる。


この図をみて、これは「脳の拡張性」ではなくて「身体の拡張性」を表しているのではないのかと思われるかもしれない。そう、「脳の拡張性」はイコール「身体の拡張性」でもある。人間は、身体の拡張として道具を使うことが出来る。そして、道具を使いこなす人間の脳の中には、身体と同様の回路が出来上がる(←断わっておくが、これは私の直観であり想像。脳科学の見地から示しているわけではない)。道具という「身体の拡張」は、人間の脳が身体と同様の回路を道具にも作り出すことができる能力、すなわち「脳の拡張性」があるからそこ実現できるものである。
生きるための経済学
この「脳の拡張性」あるいは「身体の拡張性」は、マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」や「創発」の概念とも深い関係性がある思われる。私は以前、『創発的コミュニケーション』のエントリーにおいて、右の本からの記述を引用させてもらったが、再度、同じ部分を引用させてもらうことにする。

最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば、この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。


この記述は、「創発」についての記述であると同時に、「脳の拡張性」あるいは「身体の拡張性」についての記述でもあるということが理解いただけると思う。さらに、『創発的コミュニケーション』のエントリーでは、次の文章も引用させていただいた。

次に、人と人とが向き合っている場合を考えよう。私があなたに話しかける。あなたがそれを受けとめて、言葉を返す。私がそれを受け止めて、あなたに言葉を投げかける。それをあなたが受けとめて……。このやりとりの連鎖もまた、一つの循環するフィードバック回路を形成している。
 この回路に双方が住み込むことで、お互いについて学び合い、認識を新たにしていくことができたとき、そこでは創発的コミュニケーションが成立しているといえる。このとき、お互いが、相手のメッセージを受け取るたびに、自身の認識を改める用意ができていなければならない。それを私は「学習」と呼んでいる。
 メッセージの受信、学習、メッセージの送信、という作動を、双方が維持しているとき、これを「対話」ということができる。それゆえ、「対話」と「創発」とは不可分な関係にある。


すなわち「脳の拡張性」は、身体の拡張である「道具=意志を持たないモノ」にだけ発揮されるのではなく、自らの意志をもつ他人にも発揮される。「私」と他人である「あなた」との間に創発的コミュニケーションが行われると、「私」の脳内には、「脳の拡張性」によって「あなた」に対応する回路が成立することになる。他者である「あなた」は「私」の身体でないことは明かだから、「私」と「あなた」の創発的コミュニケーションの場合を「身体の拡張性」と呼ぶと不適切だろうが、「あなた」は「私」にとっての「身体性」を帯びた他人となったということはできるとだろう。ゆえに「身体性」=「脳の拡張性」となる。

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以上、再掲載の内容と〈霊〉の定義を合わせると、次のように言うことができるだろう。

  〈学習〉=身体性=脳の拡張性=霊性

すなわち、他者とメッセージのやりとりをして〈対話〉をし創発を発動させて〈学習〉するということは、「霊性を磨く」と表現できるだろう。加えてに言うと、魂を持つ人間は他者(意志を持つ他人、持たないモノ、さらには抽象概念)と〈対話〉することによって、他者に「〈霊〉を帯びさせる」ことができる。

かつて人間が〈霊〉の存在を信じていた頃は、モノには〈霊〉が宿っていると信じられていた。モノそのものに〈霊〉があると考えるのは日本的だが、そうでなくても、モノにはその生産に携わった人の〈霊〉が絡みついていると考えていたわけだ。近代的な【商品】とは、モノに帯びた〈霊〉が断ち切られた「モノ」のことである。

これも何度も引用させて頂く。中沢新一著『愛と経済のロゴス』から。 愛と経済のロゴス

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


関連記事:ソーシャルメディアは贈与経済を復活させるか
      :共感がおカネを集めるのであるなら

TPP参加を前に、松岡正剛千夜一夜 『逝きし世の面影』

逝きし世の面影 『逝きし世の面影』がどのような本なのかはいまさらいうまでもない。

他人様のコメント欄でこの本を紹介するにあたって、松岡正剛の「千夜一夜」の記述を改めて読んでみた。

 では、以下はちょっとした感想だ。
 いったい「見捨てる」とか「見殺す」とはどういうことなのだろうか。そのことを問うてみたい。価値がわかっていて見捨て、必要を感じていながら見殺すことが、見捨てることで、見殺すことであるとするのなら、欧米列強は、アジアを見捨て、日本を見殺したのである。
 カール・ポランニー(151夜)が、欧米社会から自立した市場システムは、欧米社会に矛盾を激化させるよりなお速く、むしろアジアの後進国を見殺しにするだろうと予測し、イヴァン・イリイチ(436夜)が「資本の本性」と「利潤の自由」という観念の実行こそ、どんなヴァナキュラー(辺境的)な地域をも変質させ、見捨てることになるだろうと分析したことは、「逝きし面影」の放棄をとっくの昔にみずから選択して体験せざるをえなかった日本の近代史からすると、その主張さえ遅きに失したというべきなのである。
 しかし、実は、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは日本人であったのだ。イリイチは「資本市場主義のプラグをさっさと抜きなさい」と言ったけれど、かつて日本はそのプラグを入れることすらしていなかったのだ。が、いまさらプラグを入れたことを、そまプラグを抜きがたくなったことを憂いてもしょうがない。そのうえで、日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題は、ただひたすら、そのことにある。
 こういうときは、もはや欧米を詰(なじ)ってもムダである。・・・


TPPは「第三の開国」だといわれる。それはそうなのだろう。だが「開国」は良いことなのか。あるいは良いことだったのか。

日本に「第一の開国」を迫りにやってきた欧米列強の代表者の中のひとり、イギリスのオールコックは、多くの欧米人日本訪問者が日本に好意的になってゆくことを対して批判的で、厳しく日本の非道徳性を批判していたという。

 東洋的専制主義が、中国とともに日本に満ちていることも指摘した。とくに知的道徳においては、日本がヨーロッパ12世紀のレベルにとどまっていることを、容赦なく指弾した。
 それにもかかわらず、オールコックは日本を見て、「ヨーロッパ人が、どうあっても急いで前に進もうとしすぎている」ことを実感せざるをえなくなり、「アジアがしばしば天上のものに霊感をもちつづけている」ことに驚き、そこに「ヨーロッパ民族の物質的な傾向に対する無言の抗議」があることに気がつくのだ。そして、いささか都合がよすぎる反省ではあるが、次のように日本の役割について綴るのだ。
 「これらは、ヨーロッパの進歩の弾み車の不足を補うものとして、そしてまた、より徹底的に世俗的で合理的な生存を夢中になって追求することへの無言の厳粛な抗議として、この下界の制度のなかで、ひとつの矯正物となるかもしれない」。


松岡氏は、土足で日本に踏み込んで来ていながら、何という言い草だという。どうしょうもないアングロサクソン的な傲慢の態度だという。私もそう思うが、それでもオールコックは日本に脱帽していたところはあった。だが、日本はそこを、内田氏の言い回しを借りるなら、「ゼロ査定」したのである。

 ガラパゴス化の症状としてのグローバリズムについて(内田樹の研究室)

日本はこれでもまだ先進国中では相対的に安定した社会システムを維持できている。
これを「他の国並み」にしようというのが「グローバル化」である。
条件をいっしょに揃えれば、自由な競争ができる、と。
それだけ聞くと話のつじつまが合っているようにも聞こえる。
だが、「ゲームへの参加」は先祖伝来の国民的な宝であるところの「社会的安定」(それを他のアジア諸国は有していないのである)を供物に差し出さなければならないほど緊急なことなのか。
内戦もテロもなく、国民皆保険制度で医療が受けられ、年金も僅かなりとはいえ支給され、街頭でホールドアップされるリスクもなく、落とした荷物が交番に届けられる国は一朝一夕でできたわけではない。
先祖たちの営々たる努力の成果である。
この社会的なセキュリティーを市民たちが自己責任、自己負担でカバーしようとしたら、どれほどの代償を支払わなければならないのか、グローバリストたちは考えたことがあるのだろうか。
彼らの特徴はこのような「見えざる資産」をゼロ査定することにある。


『逝きし世の面影』の著者渡辺京二氏は、この本の中に描きだれている文明は「親和力」によってもたらされたものであり、それは滅んだのだという。それはその通りだろう。
(私は「親和力」を〈霊〉だと考えるが。)

だが、滅んだ文明が残した文化遺産は、いまだ生きている。それを「第三の開国」の名のものに「ゼロ査定」してよいのか。それで日本は少しでも幸福な国になるのか。

経済合理性のみに従って消費活動を行なう者を内田氏は「未成熟な消費者」として指弾したが、それならば文化遺産を「ゼロ 査定」するものも未成熟というしかない。それが日本の場合消費者のみならず、社会をリードする指導者たちが先頭を切って未成熟なのである。

なぜこのようなことになるのか? 日本はシステマティックに未成熟を生み出してきたと考えるより他ない。ならば【システム】を入れ替えるしかない。これは〈合理的〉な判断であるはずだ。だが残念なことに、日本人は合理性の中に霊性を見出さないのである。

別の方法論を考えるしかない。

怒ってもええじゃないか

申し訳ありません。かなりふざけてます。笑。

前エントリーのコメント欄で「怒ってもええじゃないか」というのがふと出てきたので、江戸幕末期に起こった社会現象「ええじゃないか」についてちょっと調べてみようと検索していたら、こんなものが引っかかってきた。


これはなに? AKB? まあ、そんなのはどうでもいいや。

で、歌詞を聞いていると。

  おどれ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  ええじゃないか de ふきとばせ
  わらえ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  キミもはじめよう☆

「わらえ」を「いかれ」に替えれば、ええじゃないか。笑。 
あとは

  おどれ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  ええじゃないか de ふきとばせ
  わらえ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  いかってええじゃないか

  世界で一番じゃなくても ええじゃないか (ええじゃないか)
  少子高齢化しても ええじゃないか (ええじゃないか)
  少し貧乏になっても ええじゃないか (ええじゃないか)
  TPPに参加しても
  それはいけません

って、感じかな。笑。

しかし、このノリじゃ、ぜんぜん怒れないな。それでいいんだけどね。

続きも考えられそうだけど、もう飽きた。笑。

全曲。歌詞と振り付け。



怒っている人が孤独に見えてしまう


youtubeで2/2が見つからなかったので。



中野剛志氏が怒っている。というより、拗ねている? 

断わっておくが、私はTPPに参加するなどとんでもないことだと思っている。だから、中野氏の「理」には大いに納得するし、ろくに説明もしない、政府・大手マスメディアに対しては不愉快な感情をもっている。

だが、怒っているのかと問われると、正直、戸惑う。呆れてはいる。政府に、マスゴミに、怒らない日本国民に、そして自分自身に。

ネット上では、なぜ日本国民は怒りの声を挙げないんだ! という「怒り」の聞く。なぜなんだろう、と私も思う。そう思いながら、これもネット上で評判になっている『とくダネ』に出演した中野剛志氏の怒りの動画みたわけだ。

確かに、中野氏はTVの人間を論破している。でも、やつらにはぜんぜん響いていない。その様子がありありと見て取れる。中野氏はそういう「空気」を予め承知してか、怒るというよりは拗ねているように見える。孤独に見える。

でも、なぜ中野氏は孤独なのか。氏には多くの賛同の声が集まっているのに。その声は届いているだろうに。『とくダネ』では、周りが敵ばかりだから孤独に見えたのか。そう考えると気になって、いくつか別の動画も見てみた。すると、『とくダネ』の時のように孤独感が際立っているというようなことはないようだった。やっぱりTVの人バカなんだ――と結論を出してしまいたくなる。

だが、少し考えてみたい。私たちは、怒っている者に対しては、悲しんでいる者に対してはすごく好意的な反面、普段からはなはだ冷淡ではないのか。

私自身は、怒っている人間に対して冷淡になってしまうことが多い理由を私なりには把握しているつもりではある。多くのの場合、怒っている人間が自己中心的に感じられてしまうのである。それは怒る理由の正当性とは関係がない。いや逆に、怒る理由が正当であればあるほど、怒る人間を自己中心的に感じてしまうことが多い。

「オレは正当な理由で怒っている。だからオレは正当である。オレの怒りを共有しないオマエたちは間違っている。」

なぜだかわからないが、日本人は怒ると「オレの怒り」の表現になってしまう。受け取る方もそのように受け取ってしまう。悲しみは「ワタシの悲しみ」にならないのに。「ワタシ」を押し殺そうとするのに。

(付記しておくと、中野氏からは「オレの怒り」はあまり感じない。それゆえ孤独を感じさせる。)

なぜ日本人は「ワタシたちの怒り」にならないのか。日本人が怒りを共有するのは、予め「オレの怒り」がある場合だ。別の人間の怒りが「オレの怒り」を正当化してくれるときにのみ、怒りを共有する。だからメディアが怒れば怒る。安心して怒ることができるからだ。

しかしこれは危険な傾向。ファシズムへの道である。人々が不満を持ってそれぞれに「怒り」を蓄えるようになったところで、その「怒り」を肯定するカリスマが現れてしまうと、一気にファシズムへと流れる可能性が高い。

ん? そう考えると、怒りが「オレの怒り」にしかならないのは日本だけの問題ではないことになる。ファシズムは民主主義が孕んでいる危険性だ。

では、日本は民主主義なのか? 欧米に比べて未成熟だとよく言われるが、「怒り」の部分だけは民主主義的に成熟しているのかもしれない。

日本人は怒らないというが、かつての日本人は結構怒った。安保闘争のことを言っているのではない。もっと以前の話。安保の「怒り」は「ワタシたちの怒り」が「オレの怒り」へと変容していく過程にあったものだ。安保の闘士達が現在、どれほど自己中心的になってしまっているのかを考えてみればわかるだろう。

日本人が「ワタシたちの怒り」を持ったのは、共同体がしっかりと機能していたとき。「お上」の悪政には皆で団結して立ち向かった。

そう。怒りが「ワタシたちの怒り」になるには共同体が要る。絆がいる。私たちは資本主義に過適応してしまうことで、その共同体を打ち壊してしまった。

だとすれば、怒らない者に怒っても逆効果だ。人々の絆がますます離れていってしまうだけだ。怒りを共有するには先に共同体を再建しなければならない。

幸い、日本人は悲しみを共有する作法はまだ失っていない。幼児が轢き殺されても無視ということは、まだ日本人にはあるまい。加えて若者たちは、喜びの共有の仕方も身につけつつあるように思える。年長世代は喜びすら「オレの喜び」になってしまっているが、若者はそうではないようだ。

日本人は怒りを共有する作法を見失ったがために、大きな悲しみを背負うことになる可能性が高そうである。そう、TPPだ。が「災い転じて福と為す」ことになるのかもしれない。もちろん、災いはないに越したことはない。撥ね除けられるものなら、撥ね除けるのがいいに決まっている。だが、今の日本人のその力はどうもなさそうだ。

インキュベーター その4

インキュベーター・シリーズ最終回。しかし、まどか☆マギカ・シリーズはもう少し続く。

前回までファウストからジョン・ローへ飛んで、今回はエントロピーの話だ。

キュウベぇは、少女たちの魂はエントロピーの増大を食い止めのに必要だから、と言う。つまりキュウベぇの使命は、増大するエントロピーによって崩壊してゆくシステムの保持だ。もちろんこれはアニメの中の「設定」であり、それの意味はないと考えることもできる。いや、できるというより、そう考えるのが普通だろう。

しかし、これまでキュウベぇとインキュベーターの役どころは同じなのだと見てきた。ならば、今回もまた同じと見てみよう。インキュベーターの役割は、放っておくと何らなの法則に従って崩壊してしまう資本主義経済という【ザ・システム】を保持することだと考えてみるのである。

果たして、そのように考えることが可能か。

経済学の船出 ここで参照してみるのは、またしても安富教授だ。「貨幣は人間経済という非平衡開放系のなかに出現する散逸構造だ」という指摘である。

この構造は、次々と現れては消える人々の需要行動を要素として形成され、その中心に位置することで貨幣には大きな市場性が与えられ続ける。


散逸構造(さんいつこうぞう、dissipative structure)とは、平衡状態でない開放系構造。すなわちエネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化によって生まれる、定常的な構造である。イリヤ・プリゴジンが提唱し、ノーベル賞を受賞した。定常開放系、非平衡開放系とも言う。

散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、例えば潮が流れ込むことによって生じる内海の渦潮のように、一定の入力のあるときにだけその構造を維持し続けているようなものを指す。

味噌汁が冷えていくときや、太陽の表面で起こっているベナール対流の中に生成される自己組織化されたパターンを持ったベナール・セルの模様なども、散逸構造の一例である。またプラズマの中に自然に生まれる構造や、宇宙の大規模構造に見られる超空洞が連鎖したパンケーキ状の空洞のパターンも、散逸構造生成の結果である。

開放系であるため、エントロピーは一定範囲に保たれ、系の内部と外部の間でエネルギーのやり取りもある。生命現象は定常開放系としてシステムが理解可能であり、注目されている。また、社会学・経済学においても、新しいシステムとして研究されている。



非平衡開放系の具体例としては、地球を考えてもらえばいい。主に太陽からほぼ一定した熱輻射を受けて、同じだけの熱量を宇宙空間に放出している。高エネルギーの太陽と高エントロピーの宇宙空間の間にあって、エネルギーのやりとりをしている。やりとりをしているから「開放系」であり、保温性の高い大気圏を持っていてエントロピーの高い宇宙空間と平衡状態にもなっていない。

散逸構造についたは私も詳しくは知らないが、大雑把な理解でいうと、物質というものはミクロでは必ずしもエントロピー増大へ向かうものではなく、エントロピー減少へ向かおうとする動向もあるという「ゆらぎ」の状態にあるらしいのである。それが閉鎖系だと、低エントロピーへ向かおうとする「ゆらぎ」は打ち消し合い、エントロピーは全体として増大する方向へ向かう。

ところが、非平衡開放系だとエントロピー減少方向への「ゆらぎ」の方が大きくなってしまう場合がある。エントロピーが減少するとは秩序だってくるということだが、つまりはエネルギーが系全体に伝達していく際に、ランダムな形でいくよりも特定の経路を生成させた方が効率よくいく。そのため物質はエネルギーを散逸させるための構造を作り上げてしまう。この減少は「自己組織化」ともいって、生命現象の大元だと言われるものだ。

話を地球に戻すと、地球は太陽から受けた熱を効率よく系全体に伝達するために、貿易風や偏西風といった大気の大循環、あるいは海流という大循環を、つまりはエネルギー伝達構造を生じさせる。エネルギーを効率よく散逸させるための構造である。

経済活動における貨幣がそうした散逸構造であるということは、人間が必要とし生産する資源が貨幣によって効率よく分配されているという事実から類推できるだろう。

ということでエントロピーと貨幣とが結びつく。人間の生産活動がわけだが、これで十分ではない。資本主義経済は貨幣経済だが、特殊な貨幣経済だからだ。資本主義の特徴は拡大再生産だが、この性質は散逸構造というだけでは説明がつかない。そこには人為的なエントロピー増大の法則ともいうべきものが埋め込まれている。それが「金利」である。

前回でも触れたけれども、現行資本主義は管理通貨と信用創造によって支えられている。欲望に「合わせ鏡」が当てられる【システム】になっている。そしてそこに、さらに金利というものが「設定」として組み込まれている。


見にくい図になってしまった。これは青木秀和著『「お金」崩壊』の中の図に少し書き加えたもの。

人間の経済活動は非平衡開放系あるから、エントロピーは低い方から高い方へと流れつつ定常状態を保っている。貨幣もまた散逸構造なのだから、エントロピーの流れは資源の流れの中に留まらず貨幣の流れの中にも及んでいると考えて良いだろう。図の赤線の流れである。

化石燃料を含め、主として太陽から供給されるエネルギーは「自然資本」となり、人間の生産活動によって取り出され「社会経済」を循環する。その循環の効率性を高めるのが貨幣であり、現代社会は貨幣なしではまわらない。よってエネルギーの流れ(エントロピーの流れ)は「金融システム」の中にも及ぶことになる。この流れがすべて「自然資本」へ廃棄物という形で還っていくならば、貨幣循環も含めた経済活動は非平衡開放系といえる。

ところが資本主義経済はそうではない。青線になるのである。なぜか。

信用創造で無から造り出された貨幣が実体経済(図の「社会経済」)へ供給され(貸し付け)、資源と交換の後、金融システムへ還流(元利返済)されて再び無に帰すのなら、エントロピーの流れは赤線である。ところが資本主義には金利が「設定」されている。つまり還流は「元利返済」だけではない。還流>供給なのである。還流と供給の差額である「金利」は、「自然資本」へと還流されることなく、「金融システム」のなかに留まり循環する。この流れは閉鎖系である。

貨幣は非平衡開放系に出現する散逸構造である。ところが、資本主義はその一部が閉鎖系へと流れ込む仕組みになっている。この閉鎖系が増大すると散逸構造が消滅してしまう。その消滅現象が部分的に発生するのが信用収縮。全面的に起これば...、適切な術語が思い浮かばない。いずれにせよ、これが資本主義という【ザ・システム】の内実である。

このような性質を持つ【ザ・システム】を保持するにはどうしたらよいか。それは閉鎖系の増大以上にエントロピーの流れを大きくする他ない。拡大再生産であり経済成長である。資本主義の拡大再生産・経済成長は特徴ではあるけれども、むしろ宿命なのである。

経済関連のニュース等でよく「金融緩和」という言葉を見聞きする。正確には「量的金融緩和政策」だが、なぜこんなことが行なわれるのかは、一般には理解されているとは言い難いだろう。この原理は一般の金銭感覚からかけ離れている。

資本主義社会での金融の原理。それはお金は、需要に応じて供給されるということである。つまり「お金が欲しい」といえば、「はいはい」といってお金がもらえる。無制限ではないが、基本的にはそういうことである。そうしなければ、効率よくエネルギー分配の散逸構造をつくることができない。

ここで「お金が欲しい」というのは、市中銀行。お金を与えるのは発券銀行である中央銀行。で、市中銀行の役割は実体経済にお金を供給すること。だから、市中銀行は実体経済からの資金需要に応じて中央銀行に通貨を要求し、実体経済に供給する。規制緩和とは、中央銀行から市中銀行へ通貨を供給する「枠」を緩和するということだ。

ところが現在の日本はデフレである。デフレとは実体経済が縮小して銀行に対する資金需要が減少すること。銀行は過去の融資を当然回収するから、銀行が回収する通貨以上の資金需要がないと、実体経済を巡る通貨量は減少する。池田信夫ブログなどをみていると「自然利子率」なる術語がよく出てくるけれども、これは銀行からの資金供給に対する実体経済の資金需要の割合とでも理解すればよいだろう。供給より需要が下回れば利子率はマイナスになる。これは実体経済(社会経済)よりも金融システムのエントロピーが高くなってしまった状態だ。

実体経済/金融システム間のエントロピーの逆転は需給ギャップとして現れる。これを解消するのに一部の者たち(リフレ派と呼ばれる)は、実体経済へ貨幣を供給すれば解決するはずだと主張したが、これは結局上手く行かないことがわかった。それはそうだ。貨幣は散逸構造、つまりエントロピー増大を効率よく行なうための経路の役割を担うものであって、エントロピー増大の流れを大きくするエントロピーの落差を広げるものではない。エントロピーの落差を広げるもの、それは池田氏が主張するように、イノベーションである。そしてインキュベーターとはイノベーションを促す役割を担う者だ。

やっと、エントロピーとイノベーションが繋がった。

まとめると、その構造の中に一部閉鎖系を抱え込んでしまっている資本主義経済は、常にエントロピーの流れを増大させなければならない宿命を負っている。エントロピーを増大させるのがイノベーションであるが、それは結局、「自然資本」からの収奪を加速させることに他ならない。だから、池田氏のように、【ザ・システム】の保持を至上命題とする者にとっては飽くなき収奪を志向するようになる。原子力を不可欠だと考えるのも、その出発点からすれば当然の帰結であり、首尾一貫している。

しかし、それは『まどか☆マギカ』に登場する方のインキュベーターの論理と同じものだ。人間の「願い」に合理性を与えて食いものにする。彼ら自身に悪気があるわけではないだろうが、「願い」と自身の存在基盤を大切にしたい者からすれば、退治されなければならない対象だ。これも決して悪気の話ではない。

霊魂

「霊魂」という表現は、「霊」という言葉と「魂」という言葉が組み合わされている。「霊」(れい、たま)は、すぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様な意味を持っている。 また、そこに何かいると五感を超越した感覚(第六感)で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。

「魂」(こん、たましい)のほうは精神をつかさどる精気を指し、肉体をつかさどる「魄」と対比されている。

よって、「霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概念を指すために用いられている。ただし、通常は、個人の肉体および精神活動をつかさどる人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。そして人間だけでなく、動物や植物、鉱物にまで拡大して用いられることがある。


霊魂はひとまとめにして呼ばれることが多いが、内実は霊と魂と魄とに別れる。

人格的な実在。確かにそうであろう。が、なかなかピンとこない。そこで、安富教授の定義を参照してみる。
ハラスメントは連鎖する

 出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉にいかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかも知れないが、魂と身体を対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ 身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの動きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての動きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。
 新生児について考えてみれば、身体という構造に魂という機能が備わっており、その魂という機能があってこそ、身体という構造が生きた状態のまま維持されていると言うことができる。
 何かを学習すると、脳内のニューロン同士の接合部であるシナプスが変化する。毎日重い荷物を運んでいると、筋肉が肥大していく。食事をして休息することにより、身体は成長していく。
 これらは運動が身体の構造を変化させていく例である。運動は身体の構造を変える。そしてまた、構造の変わった身体は、構造が変化する前の身体とはちがった運動状態をもつ。身体が大きくなれば、血液のめぐり方も変化する。このように運動状態と構造は不可分であり、魂と身体も不可分である。
 身体とは別個に魂が存在するわけではない。運動状態と身体の構造を同時に変化させながら、生物は生きている。


以上の説明は精神的な魂と身体的な魄、つまり魂魄の説明になっているが、ここでは特に魂/魄の区別を気にする必要はないだろう。

では、〈霊〉とは? それは「インターフェース」の中に存在する。

 魂というのは、人間が生まれたときからもっている本来的な運動状態である。ところが、それが人間の運動状態の全てであるわけではない。それは、人間が発達を通して運動状態を変化させていくからである。新たに得られた運動状態も当然、魂を土台にしており、魂なくして維持することは不可能である。しかし、学習を通して得られた新たな運動状態は、魂とは区別されるべきものである。
 生まれたばかりの子供は、外の世界に対して魂がむき出しの状態にある。より正確には母親の胎内での発生過程で、すでに学習は始まっているが、ここでは話の繁雑さを避けるために、生まれた状態を魂がむき出しの状態とする。
 外の世界、つまり外界とは、周囲の環境や周りにいる人間のすべてを含むものだ。魂がむき出しの状態にある新生児は、自分の欲求や気分を単純な方法で外界に表現する。
(中略)
 自然に成長していくなかで、魂と外界の間のインターフェイスが学習を通じて発達していく。インターフェイスとは、受けたメッセージを自分のわかる形に変換し、自分の送りたいメッセージを相手のわかる形に変換する装置のことである。
 インターフェイスという言葉に馴染みがなければ、「仲立ち」あるいは「媒(なかだち)」と呼び名を置き換えてもよい。
 仲立ちとは、異なる出自のもの同士のやりとりを媒介するものだ。
 そもそも、私たち人間が見ているものは、外界にある光の波そのものではなく、光の波を網膜の奥にある視細胞で受けた結果生じたものである。また、私たちが聞いているものは、外界にある空気の振動そのものではなく、蝸牛内にある有毛細胞が空気の振動に応答して、その場で作り出したものである。
 このように、私たちが外界から受けたメッセージを理解できるのは、外界からのメッセージを変換するインターフェイスがそもそも備わっているからである。
 ものの見え方や聞こえ方は、それまでに得た経験に応じて変化する。つまり、メッセージの変換のやり方が、学習によって変化するということだ。メッセージを媒介する仲立ちが経験とともに成長することにより、媒介できるメッセージも増え、種類も変わっていく。
 これがインターフェイスの発達である。


インターフェイスとは他者との「仲立ち」の機能を担うものだが、これが自然に発達してくると、インターフェイスの中で他者の「像」が結ばれるようになってくる。このインターフェースの中の「像」が〈霊〉である。

 私のなかのあなた。
 あなたのなかの私。
 私のなかの私。

「像」は実在の人間とは限らない。
 小説やマンガのなかのキャラクター。
 実在のモノ。
 非実在の概念。

  (関連記事:身体性=脳の拡張性

「像」を結びさえすれば、なんでもよい。が、人間にとって重要なのは人間の〈霊〉であることはいうまでもない。

かの『エヴァンゲリオン』から一部を拝借。

〈霊〉は自分の心の中にいる。自分を見つめているもうひとりの「自分」が〈霊〉だ。
他人の心の中にもいる。何人もいる。全部ちがう「自分」だけれども、全部同じ「自分」だ。
それが〈霊〉である。なお、「心」とはインターフェースである。

逆に、自分のインターフェースの中にも何人もの他人がいる。それが全部〈霊〉なのはいうまでもない。

そう、〈霊〉は怖いのである。自分のなかに存在するにもかかわらず、いや、自分のなかにしか存在しないにもかかわらず、決して自分の思い通りにはならない。〈霊〉は他者と繋がっているから。インターフェイスだから。

しかし、思い通りにならない〈霊〉は、思い通りにならないがゆえに、〈魂〉とひとつになることができた時には、この上ない悦びをもたらしてくれる。
その悦びの状態を「しあわせ」という。

すなわち。人間が幸せになるためにはふたつの条件が満たされいなければならない。
1.〈霊〉が豊かに存在していること。
2.〈霊〉が上手く治まっていること。

かつて人々は〈霊〉が実在すると信じていた。政治とは社会で〈霊〉を祀って豊かにし、上手く治めようとする営為だった。

今日、人々は〈霊〉の実在を信じていない。ゆえに今日の政治は、金をどのように集め、どのように使うかという経済の一部分に成り下がってしまっている。

これでは人々を幸せにする〈霊〉は減少の一途を辿るばかり。行き着くところは、誰も幸せになることが出来ない社会。
そんな社会を何というか。資本主義社会というのである。

有料記事を書いてみました(笑)

前エントリーからの流れで、ほとんど冗談だが、有料記事を作ってみた。

ただ有料というだけで、中身は何にもない。テスト(笑)

料金は100円。10円としたいところだが、下限が100円なのだ。FC2よ、改善せよ!

「購読」をクリックすると、「ありがとうございました」が大書されている。それだけ。わはは。

追記:

有料記事にしてしまうと、料金を支払わなければコメントを見ることも書き込むこともできないようだ。それでは使い物にならない。

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ブロマガって何?

ソーシャルメディアに送金機能は必要ない

Twitterが狙うのは「送金のプラットフォーム」

社会を動かすエンジンになるっていうのは、金銭が動くプラットフォームになるって事なんですね。先に結論を言ってしまうと。「ITでなにがブームになりますか」って聞かれるんですが、これから「寄付」とか「NPO」とか、そういうものがブームになる、カジュアル化していくと思うんです。寄付の時代が来ると思っていて、寄付を動かす、寄付のきっかけになるのが、行動をしているのが見えやすい人。その人に対して、善意が集まっていく、金銭的な価値もつながっていくことで、個々の活動がしやすくなっていく。それが社会を動かすエンジンになり、全ての行動をソーシャルメディアで速やかに報告し、善意をマネタイズしていく。そうすると何がいいかというと、物事の実現速度が速くなっていく。


津田大介氏の展望にはほんの一部を除いて同意する。津田氏はソーシャルメディアによって「共感の時代」がやってくると言っている。私もはやくそんな時代がやって来て欲しいと願っている。

だが「共感の時代」は「寄付の時代」ではないと私は思う。そうではなくて「商品購入と寄付との区別がつかなくなる時代」だと思う。そう捉えれば、ソーシャルメディアに必要なのは決済機能であって、もうこれは実現されている。特に送金機能は必要ない。

共感が寄付に結びつく。寄付とは「共感への対価の支払い」であろう。この捉え方は津田氏も私と同じだろうと思う。だが、津田氏はそこを「寄付」と考えてしまうから、寄付のハードルを下げる必要性を感じし、ソーシャルメディアによってそれがなされる、つまりソーシャルメディアに送金機能が必要だと考えるようになる。

その考え方自体は間違っていない。

だが、「共感への対価の支払い」ならば、別に「寄付」と捉える必要はない。情報商品を購入するのだと捉えればよい。ただ、寄付的商品購入では、価格の決定権を消費者側に委ねる。情報提供者側がそのように考えることが出来さえすれば、これはソーシャルメディアに送金機能などなくても、すぐに実現できる。決済機能がありさえすればよいのだから。

 関連記事:共感がおカネを集めるのであるなら
        『街場のメディア論』を読んでみた

ハードルは情報提供者の「思考の枠」でしかない。

Facebookで誰かの活動をみて、「いいね!」を押すたびに10円が募金されたらどうなるか、・・・


10円で寄付的購入ができるのであれば、そうしたい情報はいままでも山ほどあった。特にフリーで活動されているジャーナリスト諸氏の情報はそうだ。だが、それらは商品として取り扱われてはいなかった。そのかわりに寄付が求められた。そうした姿勢は諸氏の志から出てくるのはわかるけれども、やはり寄付へのハードルは高い。面倒だし10円というわけにはいかない。

だから、ワンクリックで寄付を。津田氏はそう考える。同意する。だが、そこには

ソーシャルメディアでの資金移動。資金移動というのは、銀行しか認められていないので、そういう規制がどこまで緩くなっていくというのはありますが


「寄付」は資金移動だから規制がかかる。でも、商品決済なら、できる。ワンクリック10円で、「商品」を購入することができるようにすればいい。

具体的には以下のような形式を考えることができよう。

既存の有料情報記事の一般的な体裁は、前段に商品情報のさわりが紹介されていて、商品購入を促すようになっている。本格的に情報を閲覧したいのなら、消費者は商品の決済手続きに進んで商品を購入し、それでやっと情報の核心部分を閲覧できるようになる。

これを形式はそのままに、体裁を少しだけ変えればよい。前段に情報の核心部分をすべて記述してしまう。これはだれでも無料で閲覧できる。その「無料商品」に共感したら、商品の決済手続きへと進む。ここはワンクリックが望ましい。そして後段の閲覧。「商品のご購入ありがとうございました」。 これだけでいい。

これならば、ワンクリック寄付とワンクリック購入は、送金か決済かという法的な違いはあるだろうけれども、事実上まったく同じことである。情報提供者にとっても、情報購入者にとっても。情報購入者は寄付者である。

どうだろう? この方法ならば、今すぐとはいわなくても、規制緩和など気にすることなく、ソーシャルメディアの送金機能実装を待つまでもなく、実現できると思うが?

インキュベーター その3

資本主義は嫌いですか

フランス王立銀行総裁にして「大ペテン師」
「ミシシッピー・バブル」の舞台になったのは、一七一六年にフランスで設立された「ミシシッピー会社」である。この会社は当初、アメリカにある仏領「ルイジアナ」(といっても今のルイジアナ州だけではなく、今日におけるアメリカの八つの州にまたがる地域)の通商権と開発権を与えられて設立されたが、やがてさまざまな事業を統合し、今日までも比較するもののない史上最大の企業に成長する。この会社の実質的支配権を握っていたのがスコットランド人のジョン・ロウである。天才であったのか、大ペテン師であったのか、今日でも評価が分かれている人物だ。しかし、「ミシシッピー会社」の名前に権威を持たせるために、総裁の地位には、ルイ一四世の弟で、当時は幼い皇帝ルイ一五世の摂政をしていたオルレアン公フィリップがつく。それで、ミシシッピー会社がマラリアと闘いながら、大変な苦労をして、ミシシッピー流域の海面より低い土地に新都市をつくると、その都市には総裁の名前を冠した。フランス語では「ヌーヴェル・オルレアン(新オルレアン)」という。英語読みにすると? そう、「ニュー・オリーンズ」になる。
 ところで、二〇〇八年六月の英フィナンシャル・タイムズ紙に、イギリス人のジェームズ・マクドナルドという評論家が面白い論説を載せている。「サブプライムは一七一九年にフランスが発明した」と言うのである。与信審査もろくにしない、本来価値の低い住宅ローンである「サブプライム」を、トリプルAの証券に仕立て上げるアメリカの金融機関の手法が、「サブプライム危機」発生このかたよく話題にされるが、無価値な証券を人気のある証券に転換する「錬金術」を初めて開発したということでは、ミシシッピー会社がそのさきがけだという主張である。
 気の利いたことを言うものだと感心する。こういうことだ。ここで「無価値な証券」というのは、ずばりフランス国債である。ルイ一四世が乱費をしたせいで、一七一四年の公債残高はすでに国民生産の一〇〇%を超えていたのである。フランスの財政は、まさに破綻の際に立っていた。一七一五年のルイ一四世の死の直前、政府は八〇〇万ルーブルの借り入れをするために、なんとその四倍の三二〇〇万ルーブルという額面の手形を発行しなければならなかったという事実も、それを裏書きする。というわけで、情けないことに当時のフランス国債のステータスは、今日のジャンク・ボンドよりも低かった。
 それを「人気の証券」に転換する。「人気の証券」とは一体、何かといえば、それはミシシッピー会社の「株式」であった。株式に人気があるということならば、その会社の事業内容が何かが気になるところだろう。先に見たようにミシシッピー会社は仏領アメリカにおける通商権、開発権を独占していた。それを足場にして、「人気株」を大量に発行しては事業権の買収を繰り返し、やがては中国貿易の権利も、インド貿易の権利も、さらにはアフリカ貿易の権利も買い占めた。そればかりではない。タバコの専売権も、いや貨幣鋳造権さえ買い取った。さらにジョン・ロウは、フランス国債残高のすべてをミシシッピー会社が買収するという壮大な計画まで発表していた。
 まあ、「ミシシッピー会社」とは、フランスという強大な帝国そのものをM&Aによって丸ごと乗っ取るプロジェクトの「コードネーム(暗号名)」だったと考えていただければ話が早い。それでともかく、一般大衆はミシシッピー会社の株式を買い、ミシシッピー会社はそれで得た金を使ってフランス国債を買う。これで見事、「ジャンク並の国債」を「人気株」に転換する作戦が成功する。人々が望むならば、フランス国債を使って直接、ミシシッピー株を買うことも認められた。なるほど、このほうが手っ取り早い。
 強国「フランス」の買収という気宇壮大な計画を打ち出すことのほかに、ミシシッピー株を「人気株」にするための絶対の「切り札」が、ロウにはもう一枚あった。つまり、彼は「ミシシッピー会社」の支配人であるだけでなく、「バンク・ロワイアル(王立銀行)」という、彼自ら創設した当時のフランスの中央銀行の総裁でもあったので、紙幣の発行を意のままにできたのである。王立銀行総裁としてのロウは、緩和的な金融政策を実行した。つまり紙幣をどんどん発行して、自分が支配人であるミシシッピー会社の株式が市場で順調に消化されることを援護したのである(それはまるで、グリーンスパンの金融政策を見るようだったと、マクドナルドは皮肉っている)。
 残念ながらロウの壮大な計画も、ミシシッピー・バブルの崩壊とともに崩れ去る。ある年、ミシシッピー会社の株価が暴落したのである。それでロウの帝国も同時に瓦解する。結局、初めからこの事業計元画には根本的な問題があったと評価せざるを得ない。当時の通商はリスクの割に利益の少ない事業だったし、ロウが残高をすべて買い取ると発表したフランス国債は、所詮、ジャンク・ボンド以下だった。いかに計画が壮大であっても、事業の実態がこれではちょっと苦しい。マクドナルドの言うように、ロウはペテン師だたったという評価があってもおかしくない。


ジョン・ローの失敗と近年のサブプライム問題を上手く重ねた記述なので、ながながと引用させて頂くことになった。

ジョン・ローが引き起こしたバブルはミシシッピー・バブルと言われる。ちょうどそのころ、イギリスでもバブルが興隆していた。それが弾けたのが南海泡沫事件だ。ジョン・ローの失敗は、イギリス南海会社に多額の投資をしていたことから始まった。

ジョン・ローのバブルを支えたのが、彼が意のままに発行した紙幣である(ゆえにジョン・ローは「紙幣の父」と呼ばれることもある)。ルイジアナという未開の広大な土地が価値を生み出すだろうということで株式を発行し、その株式が価値があるというので、それに合わせて紙幣を発行する。まさに「合わせ鏡」だ。こうした【システム】によって「信用」が創造されてゆき、そして弾けた。

イギリスの南海バブルを裏打ちしたのは仕組みは、少し違う。イギリスではゴールドスミス・ノートの発行から発展した信用創造の仕組みをイングランド銀行が採り入れることで制度が合法化されていた。これも原因は皮肉なことに戦争で、ルイ一四世のフランスとの戦費に不足したことが発端だった。

イギリス発の信用創造は各国の中央銀行制度となり今日まで継続されている。フランス方式は1971年のニクソン・ショック以降復活し、現在はイギリス・フランス両方式が重なり合って強欲資本主義を裏打ちしている。三面鏡のなかの無限反射の世界である。

 参考記事:『連邦準備銀行と日銀の違い:ドル紙幣は貨幣ではなく「利子がつかない小額の国債」』(晴耕雨読)

こうした【システム】が実現してしまうのは、人々の持つ欲望が株式や紙幣といった形で概念性を与えられて、合理的だとされてしまうからだ。欲望に合理性という足場が与えられるから、欲望が正当化されてしまう。さら欲望は合理性の足場を膨張し、その膨張部分にも合理性が与えられる。際限がない。

インキュベーター(キュゥべえ)の役割は、そうした際限のない、しかし、実体としての根拠は非常に貧弱な【ザ・システム】の世界のなかにイノベーション(〈願い〉)を招き入れることである。この【ザ・システム】の中に入り込んだ者は、闘うことを義務づけられる。企業として存続するために。勝ち上がった企業は強欲の塊、すなわち魔女と化す。アップルやアマゾンの強欲ぶりをみてみるといい。

彼らの強欲は、合法的であり合理的である。もし、そうした彼らの強欲を何とかしたいと思うのであれば、新たなイノベーションや〈願い〉を掲げて【ザ・システム】のなかで闘争して勝しかない。才能のある者にはインキュベーターがやってくるだろう。

用心に越したことはない

近いうちに再び巨大地震が起きる可能性ありとの警告記事をネット上で発見した。

【地震】北海道大学 地震火山研究観測センター森谷武男氏、2011年12月から2012年01月にかけて再びM9クラスの地震が発生する可能性があると警告

このような情報をどの程度信用してよいのかはわからない。ネット上では、この手の噂はいろいろ飛び交っているわけだし。今回は一応、情報発信者がそれなりのポジションにおられる科学者であり、ゆえにそれらしい根拠があるようなので紹介してみたが、それでも確実な情報とは言い切ることはできない。地震の予知方法は確立していないのだから。

あくまでも予測ですが、念のために避難グッズや貴重品の管理をしておいた方が良いかもしれません


同感。こうした情報に接したのを機会に、もう一度、地震への備えと心構えを再確認したいもの。

ところでこの情報。気になるのは想定される震源域が宮城県南部沖から茨城県沖だということ。また福島に近いではないか。これもネットからの情報だが、福島4号機が危ないという話を聞く。建屋がかなりやられていて、万が一のことがあると建屋上部にある使用済み燃料プールから核物質が大拡散するおそれがあるという話。補強工事は行なわれたという話は聞くが、本当にM9クラスが再来したとなると...、どうなるかはわからない。

このあたりのことも、一応、念頭に置いておいた方がいいかもしれない。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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